馬場ばば辰猪たつい

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馬場ばば 辰猪たつい
肖像しょうぞう
生年せいねん 1850ねん6月24にち
生地きじ 日本の旗 土佐とさこくげん高知こうちけん
没年ぼつねん 1888ねん11月1にち
ぼつ アメリカ合衆国の旗 ペンシルベニアしゅうフィラデルフィア
活動かつどう 士族しぞく反乱はんらん自由じゆう民権みんけん運動うんどう
はん 土佐とさはん
所属しょぞく 國友くにともかい自由党じゆうとう
びょう 谷中たになか墓地ぼち
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馬場ばば辰猪たつい

馬場ばば 辰猪たつい(ばば たつい、よしみひさし3ねん5月15にち1850ねん6月24にち) - 明治めいじ21ねん1888ねん11月1にち)は、日本にっぽん武士ぶし土佐とさはん)、思想家しそうか政論せいろん民権みんけん思想家しそうかとして藩閥はんばつ政府せいふ対立たいりつもっと急進きゅうしんてき国粋こくすいてきな『國友くにともかい』を組織そしきした人物じんぶついみな(うじやす)、通称つうしょうとして辰猪たついしょうす。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

よしみなが3ねん(1850ねん)、土佐とさ藩士はんし馬場ばばらいはち小姓こしょうぐみかく、のちうままわりやく)の二男じなんとして土佐とさこく高知こうちじょう下中島しもなかしままちまれる。藩校はんこう文武ぶんぶかん」でまなび、江戸えど留学りゅうがくはんいのちけて慶応けいおう2ねん(1866ねん)、鉄砲てっぽうしゅうにあった中津なかつはんやしき福沢ふくさわじゅく慶應義塾けいおうぎじゅく)で政治せいじ経済けいざいがくまなぶ。その長崎ながさきおもむいて長崎ながさき英語えいご伝習でんしゅうしょにてオランダじん宣教師せんきょうしグイド・フルベッキ英語えいごならう。明治めいじ2ねん(1869ねん)、慶應義塾けいおうぎじゅくもどり、のちに教師きょうしつとめる。明治めいじ3ねん7がつ12にち(1870ねん8がつ8にち)、土佐とさはん留学生りゅうがくせいとして真辺まなべただしせい国澤くにさわ新九郎しんくろう深尾ふかおかいさく松井まつい正水まさみらとイギリス留学りゅうがくし、海軍かいぐん法学ほうがくについてまなぶ。福沢ふくさわ諭吉ゆきちからは、「帰国きこくは、がネーションのデスチニーを担当たんとうられたく、いのまつこう」と絶大ぜつだい期待きたいせられていた。馬場ばば明治めいじ初期しょきもっと祝福しゅくふくされたしん知識ちしきじんであり、日本にっぽん将来しょうらいのためにひろ西欧せいおう精神せいしんまなり、同時どうじ日本にっぽん現状げんじょうたいする西欧せいおう理解りかいもとめようという使命しめいかんたされていた。出身しゅっしんはん垣根かきねはらうべく、小野おのあずさと「日本人にっぽんじん学生がくせいかい」を組織そしきするが、明治めいじ7ねん(1874ねん)に帰国きこく翌年よくねん岩倉いわくら使節しせつだん一員いちいんとしてふたたわたりすぐるし、イギリス滞在たいざいちゅう政府せいふ留学生りゅうがくせいとなる。留学りゅうがくちゅう、1873ねん出版しゅっぱんの『ELEMENTARY GRAMMAR OF THE JAPANESE LANGUAGE WITH EASY PROGRESSIVE EXERCISES』(日本語にほんご文典ぶんてん)の序文じょぶんにて、もり有礼ありのり国語こくご英語えいごろん批判ひはんし、日本語にほんご論争ろんそうなどのちに「国語こくご国字こくじ問題もんだい」とよばれるものに発展はってんし、大槻おおつき文彦ふみひこの『げんうみ』や前島まえじまひそからの漢字かんじろんなどとともに「国語こくご以前いぜん日本語にほんご論争ろんそう先駆さきがけとなった。1875ねん10がつロンドンで『The English in Japan : what a Japanese thought and thinks about them』を刊行かんこう。1876ねん9がつロンドンで『The Treaty between Japan and England』(にちえい条約じょうやくろん)刊行かんこう不平等ふびょうどう条約じょうやく英国えいこく名誉めいよ傷付きずつけているとし、平等びょうどう条約じょうやく制定せいていうったえる。ミドルテンプルの法学ほうがくいんほしとおるともまなんだが、馬場ばばのような知的ちてきエリートをきらほしとはそりがわず、その出会であい議論ぎろんてのつかいの喧嘩けんかわり、それきり交際こうさいかったという。日本人にっぽんじんはつのバリスタ(法廷ほうてい弁護士べんごし)資格しかく取得しゅとくしゃとなったほしをよそに、馬場ばばはバリスタ取得しゅとく課程かてい修了しゅうりょう放棄ほうきしている。そのフランスにもおもむいた。イギリス留学りゅうがくちゅう土佐とさはんイギリス留学生りゅうがくせいらの団長だんちょうつとめる真辺まなべただしせい決闘けっとうおこない、真辺まなべ負傷ふしょうさせている。明治めいじ11ねん1878ねん)に帰国きこく。この留学りゅうがく辰猪たつい思想しそう中核ちゅうかくとなる言論げんろん思想しそう自由じゆう、「おおやけ輿論よろん」の重要じゅうようさをまなんだ。

おな土佐とさ出身しゅっしんで、とも英国えいこく留学りゅうがくした小野おのあずさ中江なかえ兆民ちょうみんらとともに『朝野あさの新聞しんぶん』などで民権みんけん思想しそう日本にっぽん紹介しょうかいし、共存きょうぞんどうしゅう結成けっせい交詢社こうじゅんしゃ活動かつどう参加さんか政府せいふにより共存きょうぞんどうしゅう抑圧よくあつされ、末広すえひろ重恭しげやすらとともに「国友くにともかい」などの組織そしきげる。明治めいじ12ねん(1879ねん)からどう13ねん(1880ねんごろ共存きょうぞんどうしゅう金子かねこ堅太郎けんたろう島田しまだ三郎さぶろうらとともに『わたしなずらえ憲法けんぽう意見いけん』を起草きそうした。法律ほうりつがくによる啓蒙けいもう活動かつどう従事じゅうじし、国友くにともかい基盤きばん自由じゆう民権みんけん運動うんどう理論りろんてき指導しどうしゃとなった。明治めいじ12ねん1879ねん)、交詢社こうじゅんしゃ創設そうせつ委員いいんとして社則しゃそく規則きそくなどに参画さんかくし、明治めいじ14ねん1881ねん)、明治めいじじゅく三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう創立そうりつ参加さんかした。有司ゆうし専制せんせい直接ちょくせつ批判ひはんせず、民心みんしん改革かいかく独立どくりつにして、社会しゃかい共同きょうどう公益こうえき経営けいえいする力量りきりょうそなえた「国民こくみん」の創造そうぞう目指めざした。しかしその穏健おんけん活動かつどう明治めいじ13ねん集会しゅうかい条例じょうれい拡大かくだい解釈かいしゃくによりさまたげられ、政府せいふとの対決たいけつ前面ぜんめんされ自由党じゆうとう結成けっせい参加さんか明治めいじ14ねん自由党じゆうとう結党けっとう大会たいかいで、後藤ごとう象二しょうじろうふく議長ぎちょう選出せんしゅつされて議事ぎじ運営うんえいたり、つね議員ぎいんとなる。明治めいじ15ねん1882ねん)6がつ、『自由じゆう新聞しんぶん』を創刊そうかんして主筆しゅひつとなり、「社会しゃかい改良かいりょう希望きぼうし、国家こっか大難だいなんはいす」革命かくめい必然ひつぜんく。同年どうねん9がつ板垣いたがき退助たいすけ外遊がいゆう批判ひはんするが、板垣いたがきから自由じゆう新聞しんぶん社員しゃいん(主筆しゅひつ)・とうつね議員ぎいん解任かいにんされ、離党りとう演説えんぜつかい主催しゅさいする。

明治めいじ16ねん(1883ねん)、警視総監けいしそうかん樺山かばやまから東京とうきょうでの政治せいじ演説えんぜつ禁止きんしもうわたされる(6ヶ月かげつあいだ)。その著作ちょさく活動かつどうはいるが、加波山かばさん事件じけんかんして「こく虚無きょむとう利器りきしょうするところダイナマイト」に着目ちゃくもくし、明治めいじ18ねん(1885ねん)11月21にち横浜よこはま山手やまてのモリソン商會しょうかいで「ダイナマイトはっているか」とたずねたため、密偵みってい発見はっけんされ検挙けんきょ爆発ばくはつぶつ取締とりしまり罰則ばっそく違反いはんわれて、大石おおいし正巳まさみとも逮捕たいほされる。翌年よくねん6がつ2にち公判こうはん無罪むざい判決はんけつけたのち、6月12にち大石おおいしとともに日本にっぽんち、アメリカ亡命ぼうめいする。(大石おおいしはその帰国きこくし、憲政けんせい党内とうないかく大臣だいじんなどを歴任れきにん。)アメリカでは「日本にっぽん監獄かんごく」など、精力せいりょくてき政府せいふ批判ひはん新聞しんぶん投稿とうこう講演こうえんおこなう。駐米ちゅうべい公使こうしとしてアメリカにいた陸奥むつ宗光むねみつたずね、帰国きこくうながされる。

しかし病苦びょうく貧苦ひんくれず、遺作いさくとなった「日本にっぽん政情せいじょう」をげ、明治めいじ21ねん(1888ねん)11月、肺結核はいけっかく肺炎はいえんのためフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学だいがく病院びょういん死去しきょ享年きょうねん38。最期さいご看取みとったのは、岩崎いわさき久弥ひさやはやし民雄たみおだった。辰猪たついはかは、ウッドランド墓地ぼちにある。上野うえの寛永寺かんえいじ谷中たになか墓地ぼちにも、墓碑ぼひがある。

井上いのうえゆうによれば、演説えんぜつたくみなことこのひと以上いじょうのものはなく、さんあいだよんあいだつづけにまくてる雄弁ゆうべんじつえらいものであり、民衆みんしゅうまえ雄弁ゆうべんほう研究けんきゅうおおやけにしたのは馬場ばば最初さいしょであったという。しん西洋せいよう学説がくせつとして自由じゆうしゃくせつしたのも最初さいしょであったが、しいかな漢学かんがくちからとぼしく著書ちょしょるべきものはのこっていないという。(『国会こっかい開設かいせつ政党せいとう秘話ひわ うえ

家系かけい[編集へんしゅう]

没後ぼつご[編集へんしゅう]

明治めいじ29ねん(1896ねん)11月2にち谷中たになか天王寺てんのうじ辰猪たつい没後ぼつご8周年しゅうねんさいもよおされ、福沢ふくさわ諭吉ゆきち荘田しょうだ平五郎へいごろう金子かねこ堅太郎けんたろう田口たぐち卯吉うきち渡辺わたなべひろしもと中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう矢野やの文雄ふみお尾崎おざき行雄ゆきおいぬやしなえあつし中江なかえ兆民ちょうみん大石おおいし正巳まさみ福沢ふくさわつらなる140めいほどが参列さんれつした[3]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 日本語にほんご文典ぶんてん初歩しょほ』(とどこおえいちゅうの1873ねん9がつにロンドンで刊行かんこう)(An Elementary Grammar of the Japanese Language)
  • 日本にっぽんにおけるイギリスじん
  • にちえい条約じょうやく改正かいせいろん
  • 雄弁ゆうべんほう

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

補註ほちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ さむらいちゅう先祖せんぞしょ系図けいず牒』に、「先祖せんぞ甲州こうしゅう武田たけだつかまつ馬場ばば美濃みの守也もりやたいら兵衛ひょうえ信義しんぎしゃ武田たけだ滅却めっきゃくこれ、落浪とうこくやめえつ」とあるぶんによる。
  2. ^ 伊藤いとうせい日本にっぽん文壇ぶんだん1』講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1994ねん、106ぺーじ 
  3. ^ 杉山すぎやま伸也しんや、「経済けいざい」をあるく(だい8かい)馬場ばば辰猪たつい再訪さいほう」『書斎しょさいまど』No.609、2011ねん11月、p.32-36, NAID 40019055327
  4. ^ 長岡ながおか祥三しょうぞう日本にっぽん協会きょうかい創立そうりつしゃアーサー・ディオシー」『英学えいがく研究けんきゅうだい29ごう、1996ねん、1-12ぺーじdoi:10.5024/jeigakushi.1997.12016ねん3がつ3にち閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]