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末松 すえまつ 謙澄 けんちょう
末松 すえまつ 謙澄 けんちょう (すえまつ けんちょう、安政 あんせい 2年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 〈1855年 ねん 9月30日 にち 〉 - 大正 たいしょう 9年 ねん 〈1920年 ねん 〉10月5日 にち )は、日本 にっぽん の明治 めいじ から大正 たいしょう 期 き のジャーナリスト ・政治 せいじ 家 か ・歴史 れきし 家 か 。正 せい 二 に 位 い 勲一等 くんいっとう 子爵 ししゃく 。帝国 ていこく 学士 がくし 院 いん 会員 かいいん 。幼名 ようみょう は千松 せんまつ (または線 せん 松 まつ )、号 ごう は青 あお 萍。
豊前 ぶぜん 国 こく 京都 きょうと 郡 ぐん 前田 まえだ 村 むら (現 げん ・福岡 ふくおか 県 けん 行橋 ゆくはし 市 し 前田 まえだ )に大 だい 庄屋 しょうや 役 やく 末 まつ 松房 まつぼう 澄 きよし [ 1] と伸子 しんし の4男 おとこ として生 う まれる。慶応 けいおう 元年 がんねん (1865年 ねん )より地元 じもと の碩学 せきがく 村上 むらかみ 仏 ふつ 山 さん の私塾 しじゅく 水 みず 哉園にて漢学 かんがく ・国学 こくがく を学 まな んだ。慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )の第 だい 二 に 次 じ 長州 ちょうしゅう 征討 せいとう (小倉 おぐら 戦争 せんそう )時 じ には、末松 すえまつ 家 か は戦火 せんか で焼 や け出 だ された。
明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )に上京 じょうきょう 、佐々木 ささき 高行 たかゆき 宅 たく の書生 しょせい となり、佐々木 ささき の娘 むすめ ・静 せい 衛 まもる がグイド・フルベッキ の娘 むすめ に英語 えいご を教 おそ わっていた縁 えん で、フルベッキ家 か に居候 いそうろう していた高橋 たかはし 是清 これきよ と親交 しんこう を結 むす んだ。高橋 たかはし から英語 えいご を教 おそ わる代 か わりに漢学 かんがく 教授 きょうじゅ を引 ひ き受 う けるなど互 たが いに勉学 べんがく に励 はげ み、明治 めいじ 5年 ねん (1872年 ねん )に東京 とうきょう 師範 しはん 学校 がっこう (東京教育大学 とうきょうきょういくだいがく 、筑波大学 つくばだいがく の前身 ぜんしん )へ入学 にゅうがく した。しかし学校 がっこう 生活 せいかつ に不満 ふまん を感 かん じて同年 どうねん 中 ちゅう に中退 ちゅうたい 。高橋 たかはし と協力 きょうりょく して外国 がいこく 新聞 しんぶん の翻訳 ほんやく で生計 せいけい を立 た てつつ東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 社 しゃ へ記事 きじ を売 う り込 こ み、明治 めいじ 7年 ねん (1874年 ねん )に同社 どうしゃ 記者 きしゃ となり、笹波 ささなみ 萍二のペンネームで社説 しゃせつ を執筆 しっぴつ 。同 どう 時期 じき にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に留学 りゅうがく していた箕作 みつくり 佳吉 よしきち の記事 きじ を東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん に掲載 けいさい させたという。
明治 めいじ 8年 ねん (1875年 ねん )、社長 しゃちょう ・福地 ふくち 源一郎 げんいちろう の仲介 ちゅうかい で伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の知遇 ちぐう を得 え て正院 しょういん 御用 ごよう 掛 かけ として出仕 しゅっし 、同年 どうねん の江華島 こうかとう 事件 じけん による李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん との交渉 こうしょう を任 まか された黒田 くろだ 清隆 きよたか に随行 ずいこう 、日 にち 朝 ちょう 修好 しゅうこう 条規 じょうき の起草 きそう に参画 さんかく した。明治 めいじ 9年 ねん (1876年 ねん )に工 こう 部 ぶ 省 しょう 権 けん 少 しょう 丞 すすむ に任 にん ぜられたが、明治 めいじ 10年 ねん (1877年 ねん )に西南 せいなん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ すると陸軍 りくぐん 省 しょう 出仕 しゅっし に転 てん じ、山縣 やまがた 有朋 ありとも の秘書官 ひしょかん として九州 きゅうしゅう へ従軍 じゅうぐん 、9月に西郷 さいごう 隆盛 たかもり 宛 あて の降伏 ごうぶく 勧告 かんこく 状 じょう を起草 きそう した。同年 どうねん 太政官 だじょうかん 権 けん 少 しょう 書記官 しょきかん となるが、翌 よく 明治 めいじ 11年 ねん (1878年 ねん )に英国 えいこく 留学 りゅうがく を命 めい じられ、駐在 ちゅうざい 日本 にっぽん 公使館 こうしかん 付 づけ 一等 いっとう 書記官 しょきかん 見習 みならい として2月 がつ 10日 とおか 出航 しゅっこう 、4月 がつ 1日 にち ロンドン に到着 とうちゃく した[ 2] 。
英国 えいこく 滞在 たいざい 中 ちゅう はしばらく公使館 こうしかん に勤務 きんむ したが、歴史 れきし 研究 けんきゅう に専念 せんねん するため明治 めいじ 13年 ねん (1880年 ねん )12月に依願 いがん 免官 めんかん 、明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )10月 がつ からケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく セント・ジョンズ・カレッジへ入学 にゅうがく し、法学部 ほうがくぶ を専攻 せんこう した(箕作 みつくり 佳吉 よしきち の兄 あに 菊池 きくち 大麓 だいろく の紹介 しょうかい があったとされる)。留学 りゅうがく 中 ちゅう はラテン語 らてんご ・ギリシャ語 ご が課題 かだい の試験 しけん 勉強 べんきょう に苦 くる しみ、留学 りゅうがく 費用 ひよう を賄 まかな うため三井 みつい 財閥 ざいばつ からの借金 しゃっきん と前田 まえだ 利 とし 武 たけ の家庭 かてい 教師 きょうし 代 だい で学生 がくせい 生活 せいかつ をしのいだ。明治 めいじ 17年 ねん (1884年 ねん )5月 がつ に法律 ほうりつ の試験 しけん に合格 ごうかく 、12月に法学 ほうがく 士 し 号 ごう を取得 しゅとく して卒業 そつぎょう した。この間 あいだ 、文筆 ぶんぴつ 活動 かつどう もめざましく、明治 めいじ 12年 ねん (1879年 ねん )に義経 よしつね =ジンギスカン説 せつ を唱 とな える論文 ろんぶん The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné を出版 しゅっぱん (6年 ねん 後 ご 、慶応義塾 けいおうぎじゅく 生 なま ・内田 うちだ 弥 わたる 八 はち による和訳 わやく 『義経 よしつね 復興 ふっこう 記 き 』が日本 にっぽん で出版 しゅっぱん されベストセラーとなる)。また明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )には「源氏物語 げんじものがたり 」を初 はじ めて英訳 えいやく し、英国 えいこく 詩人 しじん の詩 し を多数 たすう 邦訳 ほうやく した。
第 だい 1次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく ・鹿 しか 鳴 な 館 かん 時代 じだい の明治 めいじ 19年 ねん (1886年 ねん )に日本 にっぽん へ帰国 きこく 、伊藤 いとう の意向 いこう を受 う けて歌舞伎 かぶき の近代 きんだい 化 か のため福地 ふくち 源一郎 げんいちろう ・外山 とやま 正一 しょういち と共 とも に演劇 えんげき 改良 かいりょう 運動 うんどう を興 おこ し、明治天皇 めいじてんのう の歌舞伎 かぶき 見物 けんぶつ (天覧 てんらん 歌舞伎 かぶき )を実現 じつげん させた。明治 めいじ 21年 ねん (1888年 ねん )に法学 ほうがく 修士 しゅうし 号 ごう を取得 しゅとく 、同年 どうねん から2年 ねん がかりでバーサ・クレイ の『ドラ=ソーン』を翻訳 ほんやく 、『谷間 たにま の姫百合 ひめゆり 』と題 だい して発表 はっぴょう 。明治 めいじ 22年 ねん (1889年 ねん )4月 がつ に伊藤 いとう の次女 じじょ ・生子 おいご と結婚 けっこん 。この間 あいだ 文部省 もんぶしょう 参事官 さんじかん 、内務省 ないむしょう 参事官 さんじかん 、内務省 ないむしょう 県 けん 治 ち 局長 きょくちょう を歴任 れきにん 、明治 めいじ 23年 ねん (1890年 ねん )の第 だい 1回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ で福岡 ふくおか 県 けん から出馬 しゅつば し当選 とうせん 、衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん となり政界 せいかい 入 い りした。大成 たいせい 会 かい 、中央 ちゅうおう 交渉 こうしょう 会 かい に属 ぞく し、政府 せいふ 寄 よ りの立場 たちば を取 と った。
明治 めいじ 25年 ねん (1892年 ねん )に第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく が成立 せいりつ すると伊藤 いとう の引 ひ き立 た てで法制 ほうせい 局 きょく 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん 、在任 ざいにん 中 ちゅう の明治 めいじ 28年 ねん (1895年 ねん )に男爵 だんしゃく に叙 じょ せられ、翌 よく 明治 めいじ 29年 ねん (1896年 ねん )6月 がつ 25日 にち に補欠 ほけつ 選挙 せんきょ の互選 ごせん で貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん となった[ 3] 。同年 どうねん に法制 ほうせい 局 きょく 長官 ちょうかん を辞任 じにん するも明治 めいじ 31年 ねん (1898年 ねん )の第 だい 3次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく で逓信 ていしん 大臣 だいじん になり、明治 めいじ 33年 ねん (1900年 ねん )に伊藤 いとう が創立 そうりつ した立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい へ入会 にゅうかい 、同年 どうねん 成立 せいりつ の第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく の内務 ないむ 大臣 だいじん を務 つと めた。辞任 じにん 後 ご は明治 めいじ 29年 ねん から毛利 もうり 氏 し および家政 かせい を統括 とうかつ していた井上 いのうえ 馨 かおる の依頼 いらい で、長州 ちょうしゅう 藩 はん に関 かん する毛利 もうり 氏 し の歴史 れきし 編纂 へんさん 事業 じぎょう を開始 かいし したが、他 た 藩 はん 出身 しゅっしん であったことと山路 やまじ 愛山 あいざん ・笹川 ささかわ 臨風 りんぷう ・堺 さかい 利彦 としひこ ・斎藤 さいとう 清太郎 せいたろう ら新規 しんき 採用 さいよう 組 ぐみ も同様 どうよう であったため、長州 ちょうしゅう 藩 はん 出身 しゅっしん 者 しゃ から疎 うと まれ、井上 いのうえ に更迭 こうてつ された前 ぜん 総裁 そうさい 宍戸 ししど 璣 が人事 じんじ の不満 ふまん を暴露 ばくろ した記事 きじ が新聞 しんぶん に掲載 けいさい されるなどして、編纂 へんさん 事業 じぎょう は凍結 とうけつ 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 開始 かいし による新 あら たな任務 にんむ 遂行 すいこう のため一 いち 時 じ 中断 ちゅうだん された[ 4] 。
明治 めいじ 37年 ねん (1904年 ねん )からの日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 時 じ には、伊藤 いとう を含 ふく めた政府 せいふ ・元老 げんろう らから、日本 にっぽん の対 たい ヨーロッパの立場 たちば 説明 せつめい 、好意 こうい 的 てき 世論 せろん の形成 けいせい 、および黄禍 こうか 論 ろん 拡大 かくだい 防止 ぼうし を含 ふく む日本 にっぽん への悪感情 あくかんじょう 緩和 かんわ の広報 こうほう 活動 かつどう を命 めい じられた。宣戦 せんせん 布告 ふこく した2月 がつ 10日 とおか にカナダ ・アメリカ経由 けいゆ で渡 わたり 欧 おう (2月 がつ 24日 にち に伊藤 いとう から同様 どうよう の命令 めいれい を受 う けた金子 かねこ 堅太郎 けんたろう が渡米 とべい )、3月に英国 えいこく に到着 とうちゃく すると広報 こうほう 活動 かつどう を開始 かいし 、英国 えいこく ・フランス を主 しゅ として戦争 せんそう に対 たい する日本 にっぽん の弁護 べんご 、偏見 へんけん に対 たい する反論 はんろん 演説 えんぜつ を展開 てんかい した。明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )には黄禍 こうか 論 ろん の沈静 ちんせい 化 か を政府 せいふ に打電 だでん しつつ、なおもヨーロッパに留 と まり新聞 しんぶん 取材 しゅざい や演説 えんぜつ ・論文 ろんぶん 寄稿 きこう などを続 つづ け、明治 めいじ 39年 ねん (1906年 ねん )1月 がつ にフランスを出発 しゅっぱつ して2月 がつ に帰国 きこく 、海外 かいがい の功績 こうせき を認 みと められ3月 がつ 3日 にち に枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん に任 にん じられ[ 5] 、同月 どうげつ 19日 にち 、貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん を辞職 じしょく [ 6] 。翌 よく 明治 めいじ 40年 ねん (1907年 ねん )に子爵 ししゃく に昇叙 しょうじょ 、帝国 ていこく 学士 がくし 院 いん 会員 かいいん にも選 えら ばれた。
明治 めいじ 44年 ねん (1911年 ねん )、中断 ちゅうだん していた毛利 もうり 氏 し 歴史 れきし 編纂 へんさん 事業 じぎょう が、明治維新 めいじいしん 全体 ぜんたい の歴史 れきし を纏 まと めた一級 いっきゅう 資料 しりょう 『防 ぼう 長 ちょう 回天 かいてん 史 し 』として初版 しょはん 脱 だつ 稿 こう 。ローマ法 ほう の研究 けんきゅう にも傾倒 けいとう し、大正 たいしょう 2年 ねん (1913年 ねん )に『ユスチニアーヌス帝 みかど 欽定 きんてい 羅 ら 馬 うま 法 ほう 提要 ていよう 』、同 どう 4年 ねん (1915年 ねん )に『ガーイウス 羅 ら 馬 うま 法 ほう 解説 かいせつ 』『ウルピアーヌス 羅 ら 馬 うま 法 ほう 範 はん 』を翻訳 ほんやく ・刊行 かんこう した。大正 たいしょう 9年 ねん (1920年 ねん )9月 がつ に『防 ぼう 長 ちょう 回天 かいてん 史 し 』修訂 しゅうてい 版 ばん を脱 だつ 稿 こう するが、10月5日 にち 、全 ぜん 世界 せかい で大 だい 流行 りゅうこう していたスペインかぜ に罹患 りかん したことが原因 げんいん で死去 しきょ 。享年 きょうねん 65。子 こ が無 な かったため、甥 おい の春彦 はるひこ が爵位 しゃくい を継 つ いだ[ 7] 。
墓所 はかしょ は東京 とうきょう 都 と 品川 しながわ 区 く 南品川 みなみしながわ 4丁目 ちょうめ の清光 せいこう 院 いん 、法名 ほうみょう は蓮 はちす 性 せい 院 いん 殿 どの 古 こ 香 こう 青 あお 萍大居士 こじ 。
位階 いかい
勲章 くんしょう 等 とう
父 ちち :末松 すえまつ 房 ぼう 澄 きよし (1879没 ぼつ ・享年 きょうねん 60) - 通称 つうしょう 七 なな 右 みぎ 衛門 えもん 、号 ごう は臥 が 雲 くも 。18歳 さい で庄屋 しょうや 役 やく 、安政 あんせい 元年 がんねん に郡 ぐん 中 ちゅう 諸 しょ 帳面 ちょうめん 吟味 ぎんみ 役 やく 、同 どう 2年 ねん より京都 きょうと 郡 ぐん 久保 くぼ 黒田 くろだ 両 りょう 手 て 永 ひさし 大 だい 庄屋 しょうや 役 やく を務 つと め、村役人 むらやくにん として治水 ちすい 灌漑 かんがい 事業 じぎょう を指導 しどう 、新田 にった 開発 かいはつ に貢献 こうけん [ 1] 。子 こ は6男 なん 4女 じょ 。
長兄 ちょうけい :末松 すえまつ 房 ぼう 泰 たい (1841-1920) - 衆議院 しゅうぎいん 書記官 しょきかん 、1900年 ねん の編著 へんちょ 『冠詞 かんし 例 れい 歌集 かしゅう 』附録 ふろく に「末松 すえまつ 臥 が 雲 くも 先生 せんせい 経歴 けいれき 」収録 しゅうろく 。
妻 つま :生子 おいご (1868-1934) - 初代 しょだい 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の次女 じじょ
養子 ようし :春彦 はるひこ (1896-1977) - 甥 おい 、弟 おとうと 凱平の次男 じなん
養女 ようじょ :澤子 さわこ (1899-1942) - 義妹 ぎまい 、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の庶子 しょし で生子 おいご の異母 いぼ 妹 いもうと 。会津 あいづ 藩 はん 出身 しゅっしん の工学 こうがく 者 しゃ 大竹 おおたけ 多気 たき の長男 ちょうなん 虎雄 とらお に嫁 とつ ぐ[ 21] 。虎雄 とらお は大蔵 おおくら 官僚 かんりょう で会津 あいづ 会 かい 会員 かいいん 。
末松 すえまつ 謙一 けんいち (元 もと さくら銀行 ぎんこう 頭取 とうどり ) - 大 だい 甥 おい (謙澄 けんちょう の弟 おとうと の孫 まご )
^ a b 伊 い 東尾 ひがしお 四郎 しろう 編 へん 『京都 きょうと 郡 ぐん 誌 し 』京都 きょうと 郡 ぐん 、1919年 ねん 、(第 だい 十 じゅう 章 しょう 人物 じんぶつ ・末松 すえまつ 七 なな 右 みぎ 衛門 えもん )21-24頁 ぺーじ 。
^ 松村 まつむら 、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井 うすい 、P546、小山 こやま 、P134 - P135、伊藤 いとう 、P159。
^ 『貴族 きぞく 院 いん 要覧 ようらん (丙 へい )』昭和 しょうわ 21年 ねん 12月 がつ 増 ぞう 訂 てい 、6頁 ぺーじ 。
^ 松村 まつむら 、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井 うすい 、P546、小山 こやま 、P135 - P147、伊藤 いとう 、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 6801号 ごう 、明治 めいじ 39年 ねん 3月 がつ 5日 にち 。
^ 『貴族 きぞく 院 いん 要覧 ようらん (丙 へい )』昭和 しょうわ 21年 ねん 12月 がつ 増 ぞう 訂 てい 、15頁 ぺーじ 。
^ 松村 まつむら 、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞 かすみ 会館 かいかん 、P768、臼井 うすい 、P546、小山 こやま 、P224 - P225、伊藤 いとう 、P486 - P487。
^ 『太政官 だじょうかん 日誌 にっし 』明治 めいじ 9年 ねん 1月 がつ -6月 がつ
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 907号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1886年 ねん 7月 がつ 10日 とおか 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 2112号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1890年 ねん 7月 がつ 15日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 4383号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1898年 ねん 2月 がつ 15日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 8624号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1912年 ねん 3月 がつ 22日 にち 。
^ a b 『官報 かんぽう 』第 だい 2455号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1920年 ねん 10月 がつ 7日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 1932号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1889年 ねん 12月5日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 2100号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1890年 ねん 7月 がつ 1日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 3152号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1893年 ねん 12月29日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 3704号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1895年 ねん 11月1日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』号外 ごうがい 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1907年 ねん 3月 がつ 31日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 7273号 ごう 「授爵 じゅしゃく ・叙任 じょにん 及辞令 れい 」1907年 ねん 9月 がつ 25日 にち 。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 1310号 ごう ・付録 ふろく 「辞令 じれい 」1916年 ねん 12月13日 にち 。
^ “大竹 おおたけ 多気 たき 展 てん 大竹 おおたけ 家 か ・松田 まつだ 家 か 東 ひがし の家系 かけい ”. 山形大学 やまがただいがく 工学部 こうがくぶ 広報 こうほう 室 しつ . 2014年 ねん 6月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。 霞 かすみ 会館 かいかん 、P768、伊藤 いとう 、P378。
花房 はなふさ 吉太郎 よしたろう , 山本 やまもと 源太 げんた 編 へん 『日本 にっぽん 博士 はかせ 全 ぜん 伝 つて 』p14‐18 「文学 ぶんがく 博士 はかせ 末松 すえまつ 謙澄 けんちょう 君 くん 」,博文 ひろぶみ 館 かん ,1892. 国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん デジタルコレクション
『貴族 きぞく 院 いん 要覧 ようらん (丙 へい )』昭和 しょうわ 21年 ねん 12月 がつ 増 ぞう 訂 てい 、貴族 きぞく 院 いん 事務 じむ 局 きょく 、1947年 ねん 。
松村 まつむら 正義 まさよし 『ポーツマス への道 みち -黄禍 こうか 論 ろん とヨーロッパの末松 すえまつ 謙澄 けんちょう 』原 はら 書房 しょぼう 、1987年 ねん 。ISBN 4562018453
鳥谷部 とやべ 春汀 しゅんてい 『明治 めいじ 人物 じんぶつ 評論 ひょうろん ・正 ただし 』博文 ひろぶみ 館 かん 、1898年 ねん
Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan , by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566
"Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits , Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486
内務 ないむ 卿 きょう 内務 ないむ 大臣 だいじん 引継 ひきつぎ 職 しょく
地方 ちほう 行財政 ぎょうざいせい 部門 ぶもん
内 うち 事 こと 局 きょく 長官 ちょうかん ・(内 うち 事 こと 局 きょく 官房 かんぼう 自治 じち 課長 かちょう ・官房 かんぼう 職制 しょくせい 課長 かちょう ) - 国務大臣 こくむだいじん 地方 ちほう 財政 ざいせい 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう ・全国 ぜんこく 選挙 せんきょ 管理 かんり 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう ・(総理 そうり 庁 ちょう 官房 かんぼう 自治 じち 課長 かちょう ) - 国務大臣 こくむだいじん 地方 ちほう 自治 じち 庁 ちょう 長官 ちょうかん - 国務大臣 こくむだいじん 自治 じち 庁 ちょう 長官 ちょうかん - 自治 じち 大臣 だいじん - 総務 そうむ 大臣 だいじん
警察 けいさつ 部門 ぶもん 土木 どぼく 部門 ぶもん 衛生 えいせい ・社会 しゃかい 部門 ぶもん 調査 ちょうさ 部門 ぶもん 出版 しゅっぱん ・著作 ちょさく 権 けん 部門 ぶもん
文部 もんぶ 大臣 だいじん ・(文部省 もんぶしょう 社会 しゃかい 教育 きょういく 局 きょく 文化 ぶんか 課長 かちょう ) - 文部 もんぶ 大臣 だいじん ・(文部省 もんぶしょう 社会 しゃかい 教育 きょういく 局 きょく 著作 ちょさく 権 けん 課長 かちょう )- 文部 もんぶ 大臣 だいじん ・(文部省 もんぶしょう 文化 ぶんか 局長 きょくちょう ) - 文部 もんぶ 大臣 だいじん ・(文化庁 ぶんかちょう 長官 ちょうかん )- 文部 もんぶ 科学 かがく 大臣 だいじん ・(文化庁 ぶんかちょう 長官 ちょうかん )
神道 しんとう 部門 ぶもん 国籍 こくせき に関 かん する事務 じむ
内 うち 事 こと 局 きょく 長官 ちょうかん ・(内 うち 事 こと 局 きょく 第 だい 二 に 局長 きょくちょう ) - 国務大臣 こくむだいじん 法務 ほうむ 総裁 そうさい ・(法務 ほうむ 庁 ちょう 民事局 みんじきょく 長 ちょう ) - 国務大臣 こくむだいじん 法務 ほうむ 総裁 そうさい ・(法務 ほうむ 府 ふ 民事局 みんじきょく 長 ちょう ) - 法務大臣 ほうむだいじん ・(法務省 ほうむしょう 民事局 みんじきょく 長 ちょう )
出入国 しゅつにゅうこく 管理 かんり に関 かん する事務 じむ 旧 きゅう 軍需 ぐんじゅ 物件 ぶっけん に関 かん する事務 じむ
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