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黒崎くろさき定三ていぞう

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黒崎くろさき定三ていぞう

黒崎くろさき 定三ていぞう(くろさき ていぞう、1885ねん明治めいじ18ねん2がつ16にち - 1948ねん昭和しょうわ23ねん7がつ19にち[1])は、日本にっぽん法制ほうせい官僚かんりょう政治せいじ貴族きぞくいん議員ぎいん法制ほうせいきょく長官ちょうかん

経歴けいれき

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京都きょうと出身しゅっしん郡山こおりやま中学ちゅうがくだいさん高等こうとう学校がっこうて、1911ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく卒業そつぎょう同年どうねん12がつ文官ぶんかん高等こうとう試験しけん合格ごうかく逓信ていしんしょうはい通信つうしんきょく書記しょき就任しゅうにん。その法制ほうせいきょく参事官さんじかん内閣ないかく恩給おんきゅうきょく審査しんさかん法制ほうせいきょく書記官しょきかんなどを歴任れきにん。そのにちどく戦役せんえき講和こうわ準備じゅんび委員いいん法制ほうせい審議しんぎかい幹事かんじ交通こうつう審議しんぎかい幹事かんじなどをつとめた。1933ねん3月、齋藤さいとう内閣ないかく法制ほうせいきょく長官ちょうかんとなり1934ねん7がつまで在任ざいにん退任たいにんすぐ同月どうげつ3にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん任命にんめいされ[2]研究けんきゅうかいぞく1946ねん昭和しょうわ21ねん)5がつ17にち[3][4]まで在任ざいにんした[1]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ平沼ひらぬま内閣ないかくふたた法制ほうせいきょく長官ちょうかんとなり同年どうねん8がつまで在任ざいにん。その企画きかくいん参与さんよ議会ぎかい制度せいど審議しんぎかい幹事かんじちょう土木どぼく会議かいぎ議員ぎいん大蔵省おおくらしょう委員いいん国民こくみん更生こうせい金庫きんこ理事りじちょうなどを歴任れきにん戦後せんご公職こうしょく追放ついほうとなった。

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』119-120ぺーじ
  2. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、44ぺーじ
  3. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、55ぺーじ
  4. ^ 官報かんぽうだい5804ごう昭和しょうわ21ねん5がつ23にち
  5. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ14にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』1990ねん
  • 上田うえだただしあきら日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ、2001ねん
公職こうしょく
先代せんだい
堀切ほりきり善次郎ぜんじろう
船田ふなだなか
日本の旗 法制ほうせいきょく長官ちょうかん
だい31だい:1933 - 1934
だい38だい:1939 - 1939
次代じだい
金森かなもり徳次郎とくじろう
唐沢からさわ俊樹としき