永井 英 慈
ながい えいじ | |
---|---|
1937 | |
( | |
2021 | |
| |
| |
( ( ( ( ( ( ( | |
| |
( ( | |
3 | |
1993 | |
| |
3 | |
1975 |
学歴
[略歴
[- 1975
年 、川崎 市 多摩 区 から神奈川 県議会 議員 に当選 (3期 、自由民主党 →新自由 クラブ所属 )。 - 1987
年 、川崎 市長 選挙 に自民党 ・民社党 などの推薦 で立候補 するが、日本 社会党 ・日本 共産党 などが推薦 する現職 の伊藤 三郎 に敗 れ落選 。 - 1989
年 、伊藤 の病気 に伴 う辞職 による川崎 市長 選挙 に再 び立候補 するが、伊藤 の後継 として立候補 した高橋 清 に敗 れ落選 。 - 1993
年 7月 、引退 した進歩 党 代表 の田川 誠一 及 び民社党 を離党 した小川 泰 の事実 上 の後継 候補 として、日本新党 (第 39回 衆議院 議員 総 選挙 で自身 に出馬 要請 した民社党 神奈川 県連 支持 )より第 40回 衆議院 議員 総 選挙 に旧 神奈川 2区 から立候補 し、自民党 小泉 純一郎 郵政 相 、公明党 市川 雄一 書記 長 、社会党 岩垂 寿喜男 元 党 総務 局長 らを押 さえトップで初 当選 する。 - 1994
年 3月、党 役員 人事 で副 代表 幹事 に就任 。4月、羽田 内閣 発足 で郵政 政務次官 に就任 。12月10日 新進党 結成 に参加 。 - 1996
年 10月、第 41回 衆議院 議員 総 選挙 に神奈川 10区 で新進党 公認 で立候補 し、自民党 の田中 和徳 や共産党 の中路 雅弘 を抑 えて2期 目 の当選 (田中 と中路 は比例 南関東 ブロックで復活 当選 )。川崎 市 多摩 区 出身 で、新生党 から新進党 に参加 した松沢 成文 に神奈川 9区 へ含 まれた自分 の地盤 を譲 り、川崎 市 南部 が選挙 区 となる10区 からの立候補 となった。 - 1997
年 12月、新進党 分 党 。1998年 1月 、国民 の声 (鹿野 道彦 グループ)、次 いで民政 党 に移籍 。4月、民主党 へ参加 。 - 2000
年 11月、第 42回 衆議院 議員 総 選挙 に神奈川 10区 から立候補 。小 選挙 区 では田中 に惜敗 したが、比例 区 南関東 ブロックで復活 し、3期 目 の当選 。 - 2003
年 9月、第 43回 衆議院 議員 総 選挙 に立候補 せず。同年 4月 に松沢 が神奈川 県知事 へ転出 し、空白 となった神奈川 9区 への選挙 区 変更 も予測 されたが、結局 永井 は立候補 そのものを取 りやめた。 - 2005
年 、「都市 アナリスト」を自称 した活動 の開始 を宣言 。多摩 区内 の生田 緑地 の荒廃 ぶりを自 らのホームページで指摘 。 - 2007
年 、旭日 中 綬章 受章 [1]。 - 2021
年 3月5日 、川崎 市内 の病院 で死去 。83歳 没 [2]。死没 日 をもって、従 四 位 に叙 される[3]。
文献
[著書
[- 『
市民 主義 のまちづくり』(1998年 ) - 『
新 しい大都市 制度 論 』(1985年 ) - 『
日本 再 構築 ・そのI』(1995年 ) - 『
私 の電車 主義 宣言 ・生 き残 りのカギを探 し求 めて』(1998年 )
脚注
[- ^ 『
官報 』号外 254号 、平成 19年 11月5日 - ^ “
元 衆院 議員 の永井 英 慈氏死去 ”.時事 ドットコム. (2021年 3月 18日 ) 2021年 3月 18日 閲覧 。 - ^ 『
官報 』第 472号 11頁 令 和 3年 4月 14日 号