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小平こだいらただし

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小平こだいらただし
こだいら ただし
生年月日せいねんがっぴ 1915ねん8がつ1にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 北海道ほっかいどう空知そらちぐん栗沢くりさわまち
げん北海道ほっかいどう岩見沢いわみざわ
ぼつ年月日ねんがっぴ (2000-12-03) 2000ねん12月3にち(85さいぼつ
出身しゅっしんこう 日本にっぽん大学だいがく経済けいざい卒業そつぎょう
ぜんしょく 北海道ほっかいどう農協中央会のうきょうちゅうおうかい専務せんむ理事りじ
所属しょぞく政党せいとう国民こくみん協同きょうどうとう→)
農民のうみん新党しんとう→)
協同きょうどうとう→)
右派うは社会党しゃかいとう→)
日本にっぽん社会党しゃかいとう→)
民主みんしゅ社会党しゃかいとう民社党みんしゃとう
称号しょうごう せいさん
子女しじょ 小平こだいら忠正ただまさ

選挙せんきょ きゅう北海道ほっかいどう4
当選とうせん回数かいすう 11かい
在任ざいにん期間きかん 1949ねん - 1952ねん8がつ28にち
1953ねん4がつ19にち - 1960ねん10月24にち
1963ねん11月21にち - 1980ねん5月19にち
1983ねん12月18にち - 1986ねん6月2にち
テンプレートを表示ひょうじ

小平こだいら ただし(こだいら ただし、1915ねん8がつ1にち - 2000ねん12月3にち[1])は、日本にっぽん政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(11)。せいさん勲一等くんいっとう北海道ほっかいどう空知そらちぐん栗沢くりさわまちげん岩見沢いわみざわ出身しゅっしん民主党みんしゅとうもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいんで、野田のだ内閣ないかく (だい3改造かいぞう)国家こっか公安こうあん委員いいんちょうつとめた小平こだいら忠正ただまさ実子じっし

来歴らいれき人物じんぶつ

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現在げんざい岩見沢いわみざわ栗沢くりさわまち茂世丑もせうし地区ちくで、戊辰戦争ぼしんせんそうやぶ北海道ほっかいどう開拓かいたくはいったまずしい家庭かていまれた。

1941ねん日本にっぽん大学だいがく経済けいざい卒業そつぎょう出征しゅっせい南方なんぽう戦線せんせんより帰還きかんした。その郷里きょうり北海道ほっかいどうもどり、北海道ほっかいどう農協中央会のうきょうちゅうおうかい専務せんむ理事りじて、1949ねん農民のうみん新党しんとう公認こうにんだい24かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ北海道ほっかいどうだい4より立候補りっこうほはつ当選とうせん以後いご通算つうさん当選とうせん11かい農民のうみん協同きょうどうとう協同きょうどうとう右派うは社会党しゃかいとう日本にっぽん社会党しゃかいとう民社党みんしゃとう結成けっせい参加さんか。このあいだ民社党みんしゃとうふく委員いいんちょう民社党みんしゃとう国会こっかい議員ぎいん団長だんちょう民社党みんしゃとう常任じょうにん顧問こもんとう歴任れきにんし、民社党みんしゃとう金庫きんこばんわれた。1986ねんだい38かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ衆参しゅうさん同日どうじつ選挙せんきょ)で落選らくせんし、政界せいかいから引退いんたい(このとき同区どうくでは、自民党じみんとう木曜もくようクラブ新人しんじんのち経世会けいせいかい旗揚はたあ参加さんか新党しんとうさきがけ結成けっせいする鳩山はとやま由紀夫ゆきおはつ当選とうせんしていた)。息子むすこ忠正ただまさ地盤じばんゆずった。

2000ねん12月3にち急性きゅうせい肺炎はいえんのため85さい死去しきょ著書ちょしょに『農業のうぎょう団体だんたい統合とうごうろん』がある。

脚注きゃくちゅう

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議会ぎかい
先代せんだい
宇田うだ国栄こくえい
日本の旗 衆議院しゅうぎいん懲罰ちょうばつ委員いいんちょう
1976ねん - 1977ねん
次代じだい
中村なかむら正雄まさお