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板倉いたくらなか

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板倉いたくらなか

板倉いたくら なか(いたくら なかば[1] / ちゅう[2]1856ねん9月29にち安政あんせい3ねん9月1にち[3])- 1938ねん昭和しょうわ13ねん3月5にち)は、明治めいじ政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(8)。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

上総かずさこく長柄ながらぐん関村せきむらげん長生ちょうせいぐん白子しらこまち出身しゅっしん[4]こう法学ほうがくしゃあかりほう学舎がくしゃ法律ほうりつまな[5]代言だいげんじん現在げんざい弁護士べんごし)となる[5]自由じゆう民権みんけん運動うんどう活動かつどう[5]加波山かばさん事件じけん裁判さいばんにおいて富松とまつ正安まさやす弁護べんご[5]大阪おおさか事件じけん裁判さいばんにおいて大井おおい憲太郎けんたろう飯田いいだ喜太郎きたろう自由党じゆうとういん)の弁護べんごをそれぞれ担当たんとうした[5]。その千葉ちばけん会議かいぎいん[2]どう議長ぎちょうとなり[2]、「東海とうかい新報しんぽう」(のち東海とうかい新聞しんぶん改称かいしょう)を発行はっこう[2]社主しゃしゅとなった[5]1890ねん明治めいじ23ねん)のだい1かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ千葉ちばけんだい5当時とうじ)から立憲りっけん自由党じゆうとう立候補りっこうほしてはつ当選とうせん以来いらい当選とうせん8かい1915ねん大正たいしょう4ねん)のだい12かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて、だい2大隈おおくま内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん大浦おおうら兼武かねたけ懸案けんあん師団しだん増設ぞうせつあん通過つうかさせるために議員ぎいん買収ばいしゅうしていたことが発覚はっかく大浦おおうら事件じけん)、板倉いたくら関与かんよしていたため政界せいかい引退いんたい[1]どう事件じけん懲役ちょうえき6かげつ執行しっこう猶予ゆうよ3ねん判決はんけつけた[6]。これによりくんよんとうおよ韓国かんこく併合へいごう記念きねんあきら大礼たいれい記念きねんあきら褫奪ちだつされた[7]以後いご郷里きょうり隠遁いんとん生活せいかつおくった[1]。1938ねん昭和しょうわ13ねん死去しきょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ』54ぺーじ
  2. ^ a b c d 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』69ぺーじ
  3. ^ 衆議院しゅうぎいんだいさん十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院しゅうぎいん公報こうほう附録ふろく〉、1913ねん、23ぺーじ
  4. ^ 千葉ちば繁盛はんじょう』について千葉ちばいまむかし』1ごう千葉ちば市役所しやくしょ、1988.3、p48
  5. ^ a b c d e f 民権みんけん代言だいげんじん板倉いたくらちゅうひだり 大阪おおさか事件じけん房総ぼうそう民権みんけん
  6. ^ 1916ねん11月10にちづけ法律ほうりつ新聞しんぶん神戸大学こうべだいがく附属ふぞく図書館としょかん新聞しんぶん記事きじ文庫ぶんこ
  7. ^ 官報かんぽう 1918ねん06がつ06にち いちぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ日外にちがいアソシエーツ、2003ねんISBN 9784816918056

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]