(Translated by https://www.hiragana.jp/)
井上敬之助 - Wikipedia コンテンツにスキップ

井上いのうえ敬之助けいのすけ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上いのうえ敬之助けいのすけ

井上いのうえ敬之助けいのすけ(いのうえ けいのすけ、元治もとはる2ねん3月18にち[1]1865ねん4がつ13にち) - 昭和しょうわ2ねん1927ねん)8がつ10日とおか)は、滋賀しがけんかい議長ぎちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめた明治めいじ大正たいしょう政治せいじ滋賀しが県政けんせい大御所おおごしょとして当時とうじ知事ちじにんいるとわれた。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

近江おうみ甲賀こうがぐん石部いしべむらげん滋賀しがけん湖南こなみ石部いしべ)に、石部いしべ宿やど本陣ほんじん小島こじまきむ左衛門さえもんはちおとことしてまれ、幼名ようみょういえすけしょうした。明治めいじ3ねん1870ねん)に医師いしであり石灰せっかい製造せいぞうしょ経営けいえいしていた井上いのうえたかしゆう養子ようしとなり、どう20ねん1887ねん)には敬之助けいのすけ改名かいめいした[2]

明治めいじ20ねん(1887ねん大津おおつ自由党じゆうとう創始そうししゃ一人ひとり酒井さかいゆう紹介しょうかいで、自由党じゆうとうけい活動かつどう参加さんかした、明治めいじ23ねん1890ねん板垣いたがき退助たいすけ愛国あいこく公党こうとう再興さいこうすると、井上いのうえは『とく県下けんか青壮年せいそうねんそうびかけてどうとう主義しゅぎ綱領こうりょう宣伝せんでんした』とされる[2]同年どうねん7がつだい1かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょでは、滋賀しがけんだい2甲賀こうが栗太くりた野洲やすぐん)において酒井さかいゆう擁立ようりつたたかったが落選らくせんした[3]

明治めいじ25ねん1892ねんけん会議かいぎいん当選とうせんし、以後いご5かい当選とうせんしている[4]明治めいじ31ねん1898ねん)6がつ自由党じゆうとう進歩しんぽとう合流ごうりゅう憲政けんせいとう結成けっせいされるとどうとう滋賀しが支部しぶつね議員ぎいんになり、けんかいにおいては同年どうねん9がつけん参事さんじ会員かいいんとなった。憲政けんせいとう明治めいじ33ねん1900ねん)9がつ立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい伊藤いとう博文ひろぶみ)と改称かいしょうしたさい井上いのうえ政友せいゆうかい滋賀しが支部しぶ結成けっせい多大ただい尽力じんりょくをしたとわれる[3]。そして、明治めいじ35ねん1902ねん)には衆議院しゅうぎいん議員ぎいんはつ当選とうせんし、翌年よくねん再選さいせんした。そのけんかいもど明治めいじ44ねん1911ねん)10がつけんかい議長ぎちょう就任しゅうにんした。大正たいしょう4ねん1915ねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん返咲かえりざき、以降いこう3連続れんぞくして当選とうせんし、政友せいゆうかい本部ほんぶ総務そうむ代議士だいぎし会長かいちょうつとめた[3]

昭和しょうわ2ねん(1927ねん)8がつ10日とおか死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 衆議院しゅうぎいんだい四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院しゅうぎいん公報こうほう附録ふろく〉、1924ねん、17ぺーじ
  2. ^ a b 井上いのうえ敬之助けいのすけ」(木村きむらみどりせいちょ 服部はっとり岩吉いわよし 1962ねん
  3. ^ a b c 立憲りっけん政友せいゆうかい滋賀しがけん支部しぶとう」(立憲りっけん政友せいゆうかい 立憲りっけん政友せいゆうかい滋賀しがけん支部しぶ 1944ねん
  4. ^ 滋賀しがけん沿革えんかく」(滋賀しがけん 1911ねん