(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中小路与平治 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ちゅう小路しょうじ与平よへい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

初代しょだい ちゅう小路しょうじ 与平よへい(なかこうじ よへいじ、1845ねんひろし2ねん6がつ) - 1922ねん大正たいしょう12ねん12月18にち[1])は、明治めいじ時代じだい滋賀しがけん政治せいじさだあきら(さだあき)と改名かいめい[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ちゅう小路しょうじ与平よへいは、1845ねんひろし2ねん近江おうみこく蒲生がもうぐん西庄さいしょうむら金田かねだむらげん滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん)に村井むらい又兵衛またべえ三男さんなんとしてまれ、幼名ようみょう直次郎なおじろうしょうした[2]北脇きたわき醒斬に漢詩かんし儒学じゅがくおさめ、1867ねん慶応けいおう3ねん)にさと総代そうだいつとめるなか小路しょうじ健治けんじ養子ようしとなり、1870ねん明治めいじ3ねんめい与平よへいあらためる[2]

1871ねん5月23にち明治めいじ4ねん4がつ5にち)に戸籍こせきほう施行しこう翌年よくねん戸長こちょう就任しゅうにんし、1879ねん明治めいじ12ねん府県ふけんかい開設かいせつ蒲生がもうぐんよりだいいちかい選出せんしゅつ滋賀しがけん会議かいぎいん64めい一人ひとりとして当選とうせん、その常置じょうち委員いいん選出せんしゅつされた。1885ねん明治めいじ18ねん3がつ16にちだい6だい滋賀しがけんかいふく議長ぎちょうえらばれ、1887ねん明治めいじ20ねん11月11にちだい6だい滋賀しがけん会議かいぎちょうを2つとめた[2]。そのあいだ1891ねん明治めいじ24ねん)5がつ11にち大津おおつ事件じけんさいしては滋賀しがけんかいにおいて指導しどうてき立場たちばにあった鵜飼うかい退蔵たいぞう林田はやしだあが九郎くろう上田うえだりく岡田おかだ逸治いつじろう八田はった四郎次しろうじつじ平吾へいご馬場ばばしんさん脇坂わきさかこうさん川島かわしま宇一郎ういちろうとも与平よへい発起人ほっきにんとなりきょう滞在たいざいちゅうロシア皇太子こうたいしあて謝罪しゃざい見舞みまいのための電文でんぶん」が打電だでんされた[3]

1890ねん明治めいじ24ねん)7がつ1にちだい1かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて、滋賀しが3より立候補りっこうほ当選とうせんした伊庭いば貞剛ていごう辞職じしょくしたため補欠ほけつとして議員ぎいんとなり、その1892ねん2がつ15にちだい2かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ・1894ねん3がつ1にちだい3かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて連続れんぞく当選とうせんしたが、1894ねん9がつ1にちだい4かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにて落選らくせんした。当時とうじ記事きじにおいてとうぞくさず、厳正げんせい中立ちゅうりついながら曖昧あいまい態度たいど指摘してきされている[2]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』442ぺーじ
  2. ^ a b c d 滋賀しがけん会議かいぎいん正伝せいでん」P137 「ちゅう小路しょうじ与平よへい」のこう北村きたむら正武まさたけちょ てんいかかく 1892ねん
  3. ^ もり順次じゅんじ大津おおつ事件じけん滋賀しがけん」『彦根ひこね論叢ろんそうだい153かん滋賀大学しがだいがく経済けいざい学会がっかい、1971ねん12月、1-15ぺーじCRID 1050282677747035904hdl:10441/2739ISSN 0387-5989 
  4. ^ 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん、1915ねん、な57ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]