大津 おおつ 事件 じけん (おおつじけん)は、1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )5月11日 にち に日本 にっぽん を訪問 ほうもん 中 ちゅう のロシア帝国 ていこく 皇太子 こうたいし ・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後 ご の皇帝 こうてい ニコライ2世 せい )が、滋賀 しが 県 けん 滋賀 しが 郡 ぐん 大津 おおつ 町 まち (現 げん ・大津 おおつ 市 し )で警察官 けいさつかん ・津田 つだ 三蔵 さんぞう に突然 とつぜん 斬 き りつけられ負傷 ふしょう した暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん である[1] [2] 。湖南 こなん 事件 じけん (こなんじけん)とも呼 よ ばれる[3] [4] 。
当時 とうじ の列強 れっきょう の一 ひと つであるロシア帝国 ていこく の艦隊 かんたい が神戸 こうべ 港 こう にいる中 なか で事件 じけん が発生 はっせい し、まだ発展 はってん 途上 とじょう であった日本 にっぽん が武力 ぶりょく 報復 ほうふく されかねない緊迫 きんぱく した状況 じょうきょう 下 か で、行政 ぎょうせい の干渉 かんしょう を受 う けながらも司法 しほう の独立 どくりつ を維持 いじ し、三権分立 さんけんぶんりつ の意識 いしき を広 ひろ めた近代 きんだい 日本 にっぽん 法 ほう 学 がく 史上 しじょう 重要 じゅうよう な事件 じけん とされる。裁判 さいばん で津田 つだ は死刑 しけい を免 まぬか れ無期 むき 徒刑 とけい となったが収監 しゅうかん の翌々月 よくよくげつ に死亡 しぼう した。日本 にっぽん 政府 せいふ 内 うち では外務 がいむ 大臣 だいじん ・青木 あおき 周蔵 しゅうぞう と内務 ないむ 大臣 だいじん ・西郷 さいごう 従道 つぐみち が引責 いんせき 辞任 じにん し、6月 がつ には司法 しほう 大臣 だいじん ・山田 やまだ 顕 あらわ 義 よし が病気 びょうき を理由 りゆう に辞任 じにん した。
事件 じけん 前 まえ に訪問 ほうもん した長崎 ながさき でのニコライ皇太子 こうたいし (上野 うえの 彦馬 ひこま 撮影 さつえい )
1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )、シベリア鉄道 てつどう の極東 きょくとう 地区 ちく 起工 きこう 式典 しきてん に出席 しゅっせき するため、ニコライは御召 おめし 艦 かん 「パーミャチ・アゾーヴァ 」以下 いか ロシア帝国 ていこく 海軍 かいぐん の艦隊 かんたい を率 ひき いてウラジオストク に向 む かう途中 とちゅう 、日本 にっぽん を訪問 ほうもん した。ニコライの一 いち 行 ぎょう は長崎 ながさき と鹿児島 かごしま に立 た ち寄 よ った後 のち に神戸 こうべ に上陸 じょうりく 、京都 きょうと に向 む かった。いまだ小 ちい さい国 くに であった日本 にっぽん は政府 せいふ を挙 あ げてニコライの訪日 ほうにち を接待 せったい 、公式 こうしき の接待 せったい 係 がかり には皇族 こうぞく である有栖川 ありすがわ 宮 みや 威 たけし 仁 じん 親王 しんのう 海軍 かいぐん 大佐 たいさ (巡洋艦 じゅんようかん 「高雄 たかお 」艦長 かんちょう )を任命 にんめい 、京都 きょうと では季節外 きせつはず れの五山 ごさん 送 おく り火 び まで行 おこな われた。次 つぎ の訪問 ほうもん 予定 よてい 地 ち である横浜 よこはま 、東京 とうきょう でも歓迎 かんげい の準備 じゅんび が進 すす んでおり、まさに国 くに を挙 あ げての一大 いちだい 行事 ぎょうじ であった。
5月11日 にち 昼過 ひるす ぎ、京都 きょうと から琵琶湖 びわこ への日帰 ひがえ り観光 かんこう で、滋賀 しが 県庁 けんちょう にて昼食 ちゅうしょく を摂 と った後 のち の帰 かえ り道 みち 、ニコライ、共 とも に来日 らいにち していたギリシャ王国 おうこく 王子 おうじ ・ゲオルギオス (ゲオルギオス1世 せい の三男 さんなん )、威 い 仁 じん 親王 しんのう の順番 じゅんばん で人力車 じんりきしゃ に乗 の り大津 おおつ 町 まち 内 うち を通過 つうか 中 ちゅう 、警備 けいび を担当 たんとう していた滋賀 しが 県 けん 警察 けいさつ 部 ぶ 巡査 じゅんさ の津田 つだ 三蔵 さんぞう がいきなりサーベル を抜 ぬ いて斬 き りかかり、ニコライを負傷 ふしょう させた(北緯 ほくい 35度 ど 0分 ふん 25.1秒 びょう 東経 とうけい 135度 ど 51分 ふん 53.4秒 びょう / 北緯 ほくい 35.006972度 ど 東経 とうけい 135.864833度 ど / 35.006972; 135.864833 (大津 おおつ 事件 じけん 跡 あと 碑 ひ ) )。ニコライは人力車 じんりきしゃ から飛 と び降 お りて脇 わき の路地 ろじ へ逃 に げ込 こ んだが、津田 つだ はニコライを追 お いかけなおも斬 き りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹 たけ の杖 つえ で背中 せなか を打 う たれ、ニコライに随伴 ずいはん していた人力 じんりき 車夫 しゃふ の向畑 むかいばた 治 ち 三 さん 郎 ろう に両足 りょうあし を引 ひ き倒 たお され、同 おな じくゲオルギオス付 つ き車夫 しゃふ の北 きた ヶ市 し (北 きた 賀 が 市 し ,北 きた ケ市 し とも)市太郎 いちたろう に自身 じしん の落 お としたサーベルで首 くび を斬 き りつけられた後 のち 、警備 けいび 中 ちゅう の巡査 じゅんさ に取 と り押 お さえられた。ニコライは右側 みぎがわ 頭部 とうぶ に9 cm近 ちか くの傷 きず を負 お ったが、命 いのち に別状 べつじょう はなかった。威 い 仁 じん 親王 しんのう は現場 げんば に居合 いあ わせたものの野次馬 やじうま に阻 はば まれ、ニコライに近 ちか づくことができたのは津田 つだ が取 と り押 お さえられた後 のち だった。
威 い 仁 じん 親王 しんのう からの行幸 ぎょうこう 要請 ようせい に対 たい する明治天皇 めいじてんのう の返電 へんでん
留学 りゅうがく や軍事 ぐんじ 視察 しさつ の経験 けいけん から国際 こくさい 関係 かんけい に精通 せいつう していた威 い 仁 じん 親王 しんのう は、即座 そくざ にこの事件 じけん を自分 じぶん のレベルでは解決 かいけつ できない重大 じゅうだい な外交 がいこう 問題 もんだい と判断 はんだん 。随行 ずいこう 員 いん に命 めい じて顛末 てんまつ を急 いそ いで書 が きまとめさせ、東京 とうきょう の明治天皇 めいじてんのう の元 もと へ電報 でんぽう で上奏 じょうそう するとともに、ロシア側 がわ に誠意 せいい を見 み せるため天皇 てんのう の京都 きょうと への緊急 きんきゅう 行幸 ぎょうこう を要請 ようせい した。これを受 う けた天皇 てんのう は直 ただ ちに了解 りょうかい し、威 い 仁 じん 親王 しんのう に到着 とうちゃく までのニコライの身辺 しんぺん 警護 けいご を命 めい ずるとともに、即刻 そっこく 北白川宮能久親王 きたしらかわのみやよしひさしんのう 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう を見舞 みま い名代 なだい のために京都 きょうと へ派遣 はけん した。天皇 てんのう は21時 じ 、首相 しゅしょう 松方 まつかた 正義 まさよし 伯爵 はくしゃく を召 め して以下 いか の勅語 ちょくご を伝達 でんたつ した[5] 。
今次 こんじ 朕 ちん カ敬愛 けいあい スル露 ろ 國 こく 皇太子 こうたいし 殿下 でんか 來遊 らいゆう セラルヽニ付 づけ 朕 ちん 及朕カ政府 せいふ 及臣民 しんみん ハ國賓 こくひん ノ大禮 たいれい ヲ以テ歡迎 かんげい セントスルニ際 ぎわ シ圖 ず ラサリキ途 と 大津 おおつ ニ於テ難 なん ニ遭ハセラルヽノ警報 けいほう ニ接 せっ シタルハ殊 こと ニ朕 ちん カ痛惜 つうせき ニ勝 しょう ヘサル所 しょ ナリ 亟カニ暴行 ぼうこう 者 しゃ ヲ處罰 しょばつ シ善隣 ぜんりん ノ好誼 こうぎ ヲ毀傷 きしょう スルコトナク以テ朕 ちん カ意 い ヲ体 からだ セシメヨ
同日 どうじつ 宮 みや 内省 ないせい 告示 こくじ 第 だい 10号 ごう で翌日 よくじつ 5月12日 にち の京都 きょうと 行幸 ぎょうこう が発表 はっぴょう され[6] 、翌日 よくじつ 早朝 そうちょう 、天皇 てんのう は新橋 しんばし 駅 えき [注釈 ちゅうしゃく 1] から汽車 きしゃ に乗車 じょうしゃ 、同日 どうじつ 夜 よる 22時 じ 05分 ふん に京都 きょうと に到着 とうちゃく した[7] 。その夜 よる のうちにニコライを見舞 みま う予定 よてい であったが、ニコライ側 がわ の侍医 じい の要請 ようせい により翌日 よくじつ へ延期 えんき され、天皇 てんのう はひとまず京都 きょうと 御所 ごしょ (北緯 ほくい 35度 ど 1分 ふん 26.9秒 びょう 東経 とうけい 135度 ど 45分 ふん 43.5秒 びょう / 北緯 ほくい 35.024139度 ど 東経 とうけい 135.762083度 ど / 35.024139; 135.762083 (京都 きょうと 御所 ごしょ : ニコライを見舞 みま うため京都 きょうと を訪 おとず れた明治天皇 めいじてんのう の行在所 あんざいしょ ) )に宿泊 しゅくはく した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。威 い 仁 じん 親王 しんのう の兄 あに の参謀 さんぼう 総長 そうちょう 熾仁親王 たるひとしんのう 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう も天皇 てんのう の後 のち を追 お って京都 きょうと に到着 とうちゃく 。翌 よく 13日 にち に天皇 てんのう はニコライの宿舎 しゅくしゃ である常盤 ひたち ホテル (北緯 ほくい 35度 ど 0分 ふん 41.9秒 びょう 東経 とうけい 135度 ど 46分 ふん 10.1秒 びょう / 北緯 ほくい 35.011639度 ど 東経 とうけい 135.769472度 ど / 35.011639; 135.769472 (常盤 ひたち ホテル(現 げん ・京都 きょうと ホテルオークラ): ニコライの京都 きょうと における宿舎 しゅくしゃ ) )に自 みずか ら赴 おもむ いてニコライを見舞 みま い、さらには熾 おき 仁 ひとし ・威 い 仁 ひとし ・能久 よしひさ の三 さん 親王 しんのう を引 ひ き連 つ れてニコライを神戸 こうべ まで見送 みおく った。天皇 てんのう が謝罪 しゃざい したものの、ロシア本国 ほんごく からの指示 しじ もあってニコライは東京 とうきょう 訪問 ほうもん を中止 ちゅうし し、艦隊 かんたい を率 ひき いて神戸 こうべ からウラジオストクへと帰国 きこく の途 と に就 つ くこととなった。
帰国 きこく 前日 ぜんじつ の5月19日 にち 、別離 べつり の午餐 ごさん に招 まね かれた明治天皇 めいじてんのう 自 みずか らが神戸 こうべ 港 こう (北緯 ほくい 34度 ど 41分 ふん 8.2秒 びょう 東経 とうけい 135度 ど 11分 ふん 33.3秒 びょう / 北緯 ほくい 34.685611度 ど 東経 とうけい 135.192583度 ど / 34.685611; 135.192583 (神戸 こうべ 港 こう : ロシア帝国 ていこく 海軍 かいぐん が停泊 ていはく ) )のロシア軍艦 ぐんかん を訪問 ほうもん する際 さい には、「拉致 らち されてしまう」と進言 しんげん する重臣 じゅうしん 達 たち の反対 はんたい を振 ふ り切 き って療養 りょうよう 中 ちゅう のニコライを再 ふたた び見舞 みま った。
小国 しょうこく であった日本 にっぽん が大国 たいこく ロシアの皇太子 こうたいし を負傷 ふしょう させたとして、「事件 じけん の報復 ほうふく にロシアが日本 にっぽん に攻 せ めてくる」、と日本 にっぽん 国 こく 中 ちゅう に大 だい 激震 げきしん が走 はし り、さながら「恐 おそれ 露 ろ 病 びょう 」の様相 ようそう を呈 てい した。学校 がっこう は謹慎 きんしん の意 い を表 あらわ して休校 きゅうこう となり、神社 じんじゃ や寺院 じいん や教会 きょうかい では、皇太子 こうたいし 平癒 へいゆ の祈祷 きとう が行 おこな われた。ニコライの元 もと に届 とど けられた見舞 みま い電報 でんぽう は1万 まん 通 つう を超 こ え、山形 やまがた 県 けん 最上 もがみ 郡 ぐん 金山 かなやま 村 むら (現 げん 金山 かなやま 町 まち )では「津田 つだ 」姓 せい および「三蔵 さんぞう 」の命名 めいめい を禁 きん じる条例 じょうれい を決議 けつぎ した。5月 がつ 20日 はつか には、天皇 てんのう の謝罪 しゃざい もむなしく皇太子 こうたいし が日本 にっぽん を立 た ち去 さ ったことを知 し り、死 し を以って詫 わ びるとし京都 きょうと 府庁 ふちょう の前 まえ で剃刀 かみそり で喉 のど を突 つ いて自殺 じさつ し、後 のち に「房州 ぼうしゅう の烈女 れつじょ 」と呼 よ ばれた畠山 はたけやま 勇子 ゆうこ のような女性 じょせい も出現 しゅつげん した。
津田 つだ 三蔵 さんぞう
津田 つだ が斬 き り付 づ けた理由 りゆう は、本人 ほんにん の供述 きょうじゅつ によれば、以前 いぜん からロシアの北方 ほっぽう 諸島 しょとう などに関 かん しての強硬 きょうこう な姿勢 しせい を快 こころよ く思 おも っていなかったことであるという。また事件 じけん 前 まえ 、西南 せいなん 戦争 せんそう で戦死 せんし した西郷 さいごう 隆盛 たかもり が実 じつ はロシアに逃 に げ延 の び、ニコライと共 とも に帰 かえ って来 く るというデマ がささやかれており、西南 せいなん 戦争 せんそう で勲章 くんしょう を授与 じゅよ されていた津田 つだ は、もし西郷 さいごう が帰還 きかん すれば自分 じぶん の勲章 くんしょう も剥奪 はくだつ されるのではないかと危惧 きぐ していたという説 せつ もある[4] 。ただしニコライを殺害 さつがい する意図 いと は薄 うす かったらしく、事件 じけん 後 ご の取 と り調 しら べにおいても「殺 ころ すつもりはなく、一本 いっぽん (一 いち 太刀 たち )献上 けんじょう したまで」と供述 きょうじゅつ していたという記録 きろく もある。他 ほか にも当時 とうじ はニコライの訪日 ほうにち が軍事 ぐんじ 視察 しさつ であるという噂 うわさ もあり[3] 、シベリア鉄道 てつどう もロシアの極東 きょくとう 進出 しんしゅつ 政策 せいさく を象徴 しょうちょう するとして国民 こくみん の反発 はんぱつ があったことは確 たし かである。
日本 にっぽん 政府 せいふ の動 うご き[ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ の日本 にっぽん は、何 なに とか欧米 おうべい 列強 れっきょう の植民 しょくみん 地 ち にならずに済 す んでいたものの、まだロシアに軍事 ぐんじ 的 てき に対抗 たいこう する力 ちから を持 も っていなかったため、賠償金 ばいしょうきん や領土 りょうど の割譲 かつじょう まで要求 ようきゅう してくるのではないかと危惧 きぐ された。また事前 じぜん に青木 あおき 周蔵 しゅうぞう 外務 がいむ 大臣 だいじん がドミトリー・シェーヴィチ (Дмитрий Егорович Шевич ) 駐 ちゅう 日 にち ロシア公使 こうし に対 たい し、皇太子 こうたいし に危害 きがい が加 くわ えられた場合 ばあい は「皇室 こうしつ 罪 ざい 」を適用 てきよう すると密約 みつやく していたことも混迷 こんめい の原因 げんいん となった[8] 。
そこで日本 にっぽん 政府 せいふ は、事件 じけん を所轄 しょかつ する裁判官 さいばんかん に対 たい し、旧 きゅう 刑法 けいほう 116条 じょう に規定 きてい する天皇 てんのう や皇族 こうぞく に対 たい して危害 きがい を与 あた えたものに適用 てきよう すべき大逆 だいぎゃく 罪 ざい によって死刑 しけい を類推 るいすい 適用 てきよう するよう働 はたら きかけた[3] 。伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 伯爵 はくしゃく は死刑 しけい に反対 はんたい する意見 いけん がある場合 ばあい 、戒厳 かいげん 令 れい を発 はっ してでも断行 だんこう すべきであると主張 しゅちょう した。また松方 まつかた 正義 まさよし 首相 しゅしょう 、西郷 さいごう 従道 つぐみち 内相 ないしょう 、山田 やまだ 顕 あらわ 義 よし 法相 ほうしょう らが死刑 しけい 適用 てきよう に奔走 ほんそう した[注釈 ちゅうしゃく 3] 。青木 あおき 外相 がいしょう 、井上 いのうえ 馨 かおる 伯爵 はくしゃく などは消極 しょうきょく 的 てき 反対 はんたい 、後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう 逓信 ていしん 相 しょう などは「津田 つだ を拉致 らち し拳銃 けんじゅう で射殺 しゃさつ することが善後 ぜんご 策 さく になる」と語 かた ったが、伊藤 いとう に日本 にっぽん は法治 ほうち 国家 こっか であるとして叱責 しっせき された[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
司法省 しほうしょう 刑事 けいじ 局長 きょくちょう は河津 かわづ 祐之 ひろゆき であった。旧 きゅう 刑法 けいほう 116条 じょう は日本 にっぽん の皇族 こうぞく に対 たい して適用 てきよう されるものであって、外国 がいこく の皇族 こうぞく (王族 おうぞく )に対 たい する犯罪 はんざい は想定 そうてい されておらず、法律 ほうりつ 上 じょう は民間 みんかん 人 じん と全 まった く同 おな じ扱 あつか いにせざるを得 え なかった。つまり死亡 しぼう していないため最高 さいこう 刑 けい は謀殺 ぼうさつ 未遂 みすい 罪 ざい (旧 きゅう 刑法 けいほう 292条 じょう )適用 てきよう による無期 むき 徒刑 とけい (無期 むき 懲役 ちょうえき )までであり死刑 しけい を宣告 せんこく するのは法律 ほうりつ 上 じょう 不可能 ふかのう であった(1908年 ねん 10月 がつ 施行 しこう の現行 げんこう 刑法 けいほう では障害 しょうがい 未遂 みすい は裁量 さいりょう 的 てき 軽減 けいげん 事由 じゆう に過 す ぎないため殺人 さつじん 未遂 みすい 罪 ざい に対 たい しても死刑 しけい を適用 てきよう し得 え る)。ただし裁判官 さいばんかん の中 なか でも死刑 しけい にすべきという意見 いけん は少 すく なくなかった。
時 どき の大審院 だいしんいん 院長 いんちょう (現在 げんざい の最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 長官 ちょうかん )の児島 こじま 惟謙 いけん は「法治 ほうち 国家 こっか として法 ほう は遵守 じゅんしゅ されなければならない」とする立場 たちば から、「刑法 けいほう に外国 がいこく 皇族 こうぞく に関 かん する規定 きてい はない」として政府 せいふ の圧力 あつりょく に反発 はんぱつ した。要 よう するに「国家 こっか か法 ほう か」という回答 かいとう 困難 こんなん な問題 もんだい が発生 はっせい したのである。
事件 じけん から16日 にち 後 ご の5月27日 にち 、一般人 いっぱんじん に対 たい する謀殺 ぼうさつ 未遂 みすい 罪 ざい (旧 きゅう 刑法 けいほう 292条 じょう )を適用 てきよう して津田 つだ に無期 むき 徒刑 とけい (無期 むき 懲役 ちょうえき )の判決 はんけつ が下 くだ された[3] [11] 。
公 おおやけ 書 しょ 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
ロシアのシェーヴィチ公使 こうし は以前 いぜん から日本 にっぽん に対 たい して度々 どど 恫喝 どうかつ 的 てき な態度 たいど を取 と っており、この事件 じけん に関 かん しても事件 じけん の対処 たいしょ にあたった青木 あおき 外相 がいしょう 、西郷 さいごう 内相 ないしょう らに死刑 しけい を強硬 きょうこう に要求 ようきゅう した。事件 じけん 後 ご の6月 がつ 4日 にち には青木 あおき との密約 みつやく を公表 こうひょう して抗議 こうぎ し、青木 あおき の責任 せきにん 問題 もんだい となった(公 おおやけ 書 しょ 問題 もんだい )。これに対 たい して青木 あおき が「自分 じぶん は伊藤 いとう 博文 ひろぶみ と井上 いのうえ 馨 かおる に言 い われて約束 やくそく しただけである」と述 の べたが、伊藤 いとう はロシア側 がわ の真意 しんい を確 たし かめよと指示 しじ しただけと反論 はんろん し、もし自分 じぶん が政府 せいふ に迷惑 めいわく をかけているなら枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう を辞職 じしょく するとした。重鎮 じゅうちん である伊藤 いとう との対決 たいけつ は松方 まつかた や山縣 やまがた 有朋 ありとも も望 のぞ んでおらず、責任 せきにん は青木 あおき がとることとなった。青木 あおき は「自分 じぶん の手記 しゅき が公表 こうひょう されれば伊藤 いとう と井上 いのうえ の首 くび が飛 と ぶ」と発言 はつげん し、激怒 げきど した井上 いのうえ によってドイツ 公使 こうし へと左遷 させん された。またロシアの抗議 こうぎ 自体 じたい も後任 こうにん 外相 がいしょう 榎本 えのもと 武揚 ぶよう の奔走 ほんそう で撤回 てっかい されることとなった[12] 。
青木 あおき はこの後 のち 伊藤 いとう から嫌悪 けんお され、政治 せいじ 家 か としての栄達 えいたつ を絶 た たれる原因 げんいん となる[13] 。とはいえ、その後 ご も青木 あおき は第 だい 2次 じ 山 やま 縣内 けんない 閣 かく で再度 さいど 外務 がいむ 大臣 だいじん となったほか、枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん 再任 さいにん や駐米 ちゅうべい 大使 たいし になるなど、活躍 かつやく は続 つづ けた。
シェーヴィチ公使 こうし は、津田 つだ の無期 むき 徒刑 とけい が決定 けってい したことを知 し ると「いかなる事態 じたい になるか判 わか らない」旨 むね の発言 はつげん をしている。ロシア皇帝 こうてい アレクサンドル3世 せい も暗 あん に死刑 しけい を求 もと めていた。しかし結果 けっか 的 てき には賠償 ばいしょう 要求 ようきゅう も武力 ぶりょく 報復 ほうふく も行 おこな われなかった。ただし皇太子 こうたいし の負傷 ふしょう に関 かん しては、皇帝 こうてい も皇太子 こうたいし も日本 にっぽん の迅速 じんそく な処置 しょち や謝罪 しゃざい に対 たい して寛容 かんよう な態度 たいど を示 しめ しており、日本 にっぽん がこの問題 もんだい を無事 ぶじ 解決 かいけつ できた理由 りゆう の一 ひと つにロシアの友好 ゆうこう 的 てき な姿勢 しせい があることは疑 うたが いない。以後 いご 、ロシアの公文書 こうぶんしょ にて日本人 にっぽんじん をマカーキー(猿 さる )と記 しる される時期 じき が発生 はっせい したといわれてはいるが、そういうことはなかったとの研究 けんきゅう もある。また、日記 にっき の文面 ぶんめん からもニコライ2世 せい がこの事件 じけん で日本 にっぽん に対 たい して嫌悪 けんお 感 かん を抱 だ いたことはないということが窺 うかが える[14] 。
事件 じけん 後 ご の影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
この事件 じけん 判決 はんけつ で司法 しほう の独立 どくりつ を達成 たっせい したことにより、まだ曖昧 あいまい だった大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう の三権分立 さんけんぶんりつ の意識 いしき が広 ひろ まった。
しかし
大津 おおつ 地方裁判所 ちほうさいばんしょ で扱 あつか われるべき事件 じけん を正常 せいじょう な手続 てつづ きなしで大審院 だいしんいん に移 うつ したこと。[注釈 ちゅうしゃく 5]
裁判 さいばん に直接 ちょくせつ 関 かか わっていなかった児島 こじま が干渉 かんしょう を重 かさ ねたこと。
この2点 てん は裁判官 さいばんかん の独立 どくりつ 等 とう の問題 もんだい として残 のこ った。権力 けんりょく の所在 しょざい や運用 うんよう が未熟 みじゅく ・未 み 分化 ぶんか であった時代 じだい を象徴 しょうちょう した事件 じけん である。これらの問題 もんだい 、つまり三権分立 さんけんぶんりつ や司法 しほう のあり方 かた などが活発 かっぱつ に議論 ぎろん されるようになった。また海外 かいがい でも大 おお きく報 ほう じられ、国際 こくさい 的 てき に日本 にっぽん の司法 しほう 権 けん に対 たい する信頼 しんらい を高 たか めた。このことは日本 にっぽん が近代 きんだい 法 ほう を運用 うんよう する主権 しゅけん 国家 こっか として、当時 とうじ 進行 しんこう 中 ちゅう であった不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく 改正 かいせい へのはずみとなった。ただしこの事件 じけん で青木 あおき が辞任 じにん したため、成立 せいりつ 寸前 すんぜん の領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん を撤廃 てっぱい した条約 じょうやく がまとまらず短期 たんき 的 てき には停滞 ていたい した。
左 ひだり :北 きた 賀 が 市 し 、右 みぎ :向畑 むかいばた 。胸 むね に与 あた えられた勲章 くんしょう がある。
この事件 じけん で津田 つだ を取 と り押 お さえるという功績 こうせき を挙 あ げた人力 じんりき 車夫 しゃふ 、向畑 むかいばた 治 ち 三 さん 郎 ろう と北 きた 賀 が 市 し 市太郎 いちたろう の二人 ふたり は、事件 じけん 後 ご 18日 にち 夜 よる にロシア軍艦 ぐんかん に招待 しょうたい された。この際 さい 、ニコライの要望 ようぼう により、正装 せいそう ではなく、あえて人力 じんりき 車夫 しゃふ の服装 ふくそう のままで来 く るように要請 ようせい された。そこでロシア軍 ぐん 水兵 すいへい からの大 だい 歓迎 かんげい を受 う けた。そしてニコライから直接 ちょくせつ 聖 ひじり アンナ勲章 くんしょう (ロシア語 ご 版 ばん ) を授与 じゅよ され、当時 とうじ の金額 きんがく で2500円 えん (現代 げんだい の貨幣 かへい 価値 かち 換算 かんさん でおおよそ1000万 まん 円 えん 前後 ぜんこう )の報奨 ほうしょう 金 きん と1000円 えん の終身 しゅうしん 年金 ねんきん が与 あた えられた。日本 にっぽん 政府 せいふ からも勲 くん 八 はち 等 とう 白色 はくしょく 桐 きり 葉 は 章 あきら と年金 ねんきん 36円 えん が与 あた えられた[4] 。当時 とうじ 、低 ひく い身分 みぶん の職 しょく と見 み なされていた人力 じんりき 車夫 しゃふ に勲章 くんしょう を与 あた えることはきわめて異例 いれい であり、その後 ご も2人 ふたり は国内 こくない で「帯 おび 勲 くん 車夫 しゃふ 」と呼 よ ばれ一躍 いちやく 英雄 えいゆう として脚光 きゃっこう を浴 あ びることとなった。
前科 ぜんか のあった向 こう 畑 はたけ は博打 ばくち と売春 ばいしゅん 、怪 あや しげな投機 とうき 話 ばなし に明 あ け暮 く れ、勲章 くんしょう を没収 ぼっしゅう された。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 中 なか には年金 ねんきん が停止 ていし される(ロシアは年金 ねんきん 支給 しきゅう を続 つづ けたが、仲介 ちゅうかい する日本 にっぽん が停止 ていし した)。婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 事件 じけん を起 お こし逮捕 たいほ されている。ロシア革命 かくめい でロシア政府 せいふ が消滅 しょうめつ し年金 ねんきん は完全 かんぜん に途絶 とだ え貧窮 ひんきゅう したものの、昭和 しょうわ 期 き まで生 い きている。
北 きた 賀 が 市 し は堅実 けんじつ に郷里 きょうり の石川 いしかわ 県 けん で田畑 たはた を購入 こうにゅう し地主 じぬし となり、勉学 べんがく を重 かさ ね郡 ぐん 会議 かいぎ 員 いん にまでなった。しかし日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が始 はじ まると露 つゆ 探 さがせ (「ロシアのスパイ 」の意 い )扱 あつか いをされ、特 とく に戦死 せんし 者 しゃ の遺族 いぞく から糾弾 きゅうだん を受 う けた。北 きた 賀 が 市 し は家 いえ の表門 おもてもん に飾 かざ っていた勲章 くんしょう を取 と り外 はず し、無実 むじつ を証明 しょうめい するとして軍隊 ぐんたい に志願 しがん した(受理 じゅり はされなかった)。この波乱 はらん の人生 じんせい をもとに1962年 ねん に勝 かつ 新太郎 しんたろう 主演 しゅえん で映画 えいが 『鉄砲 てっぽう 安 やす の生涯 しょうがい 』が制作 せいさく された[15] 。なお現在 げんざい は知名度 ちめいど は高 たか くはないものの郷里 きょうり の英雄 えいゆう とされ、加賀 かが 市 し の加茂 かも 神社 じんじゃ に「北 きた 賀 が 市 し 市太郎 いちたろう 生誕 せいたん の地 ち 」の碑 いしぶみ が立 た てられている。
1993年 ねん 、皇帝 こうてい ニコライ2世 せい と推定 すいてい される遺骨 いこつ のDNA鑑定 かんてい に使 つか うため、ニコライの手当 てあ てをした布 ぬの からDNA が採取 さいしゅ された。
1998年 ねん になり、ニコライの骨 ほね と正式 せいしき に認 みと められ、ロシア正教会 せいきょうかい はニコライ2世 せい を、ロシア革命 かくめい の犠牲 ぎせい 者 しゃ として列聖 れっせい した。
遺骨 いこつ と血液 けつえき のDNA鑑定 かんてい [ 編集 へんしゅう ]
2007年 ねん 、新 あら たに発見 はっけん された子供 こども 2人 にん 分 ぶん の遺骨 いこつ がニコライの行方 ゆくえ 不明 ふめい の子 こ らであるかどうか、詳細 しょうさい なDNA鑑定 かんてい がなされた。大津 おおつ で負傷 ふしょう したニコライの血 ち がついたシャツは、エルミタージュ美術館 びじゅつかん に保管 ほかん されていた[16] 。最初 さいしょ に検査 けんさ にあたったマサチューセッツ・メディカル・スクール大学 だいがく (University of Massachusetts Medical School) のエフゲニー・ロガエフ教授 きょうじゅ (Professor Evgeny Rogaev) は、「(古 ふる い血液 けつえき から劣化 れっか したDNAを取 と り出 だ すことは)かなり難 むずか しいだろうと思 おも っていたが、驚 おどろ いたことに非常 ひじょう に状態 じょうたい のよいDNAを抽出 ちゅうしゅつ できた」と語 かた った。
ロガエフ教授 きょうじゅ と、共 とも に検査 けんさ に臨 のぞ んできたDirector of Research AFDILのMichael Coble博士 はかせ は、1991年 ねん に発掘 はっくつ されていた遺骨 いこつ のうち、女性 じょせい の遺骨 いこつ (推定 すいてい アレクサンドラ )と子供 こども 3人 にん 分 ぶん の遺骨 いこつ がミトコンドリア DNA鑑定 かんてい によって母子 ぼし 関係 かんけい にあると証明 しょうめい した。新 あら たに出 で てきた子供 こども 二 に 人 にん 分 ぶん の遺骨 いこつ も、女性 じょせい の遺骨 いこつ と母子 ぼし 関係 かんけい にあると証明 しょうめい した。そして、ニコライの血液 けつえき のDNAにより、ニコライと父子 ふし 関係 かんけい にあることを確認 かくにん した。
Coble博士 はかせ は「遺骨 いこつ がニコライとアレクサンドラの子 こ である可能 かのう 性 せい は、そうでない可能 かのう 性 せい の実 じつ に4兆 ちょう 倍 ばい になる」と語 かた った。2009年 ねん 2月 がつ 、2人 ふたり は子供 こども 2人 にん が行方 ゆくえ 不明 ふめい だったニコライ夫妻 ふさい の子 こ ・アナスタシア (またはマリア)とアレクセイ であると正式 せいしき に発表 はっぴょう した[17] 。
大津 おおつ 事件 じけん を扱 あつか った作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
ニコライ(後 ご のニコライ2世 せい )
テレビドラマ『こがね虫 ちゅう 』NHK ,1961/10/25放映 ほうえい (主演 しゅえん ・内藤 ないとう 武敏 たけとし )- 襲撃 しゅうげき 犯 はん をとりおさえた車夫 しゃふ のその後 ご の人生 じんせい を描 えが いたもの[18]
映画 えいが 『鉄砲 てっぽう 安 やす の生涯 しょうがい 』大映 だいえい 、1962年 ねん (主演 しゅえん ・勝 かつ 新太郎 しんたろう 、監督 かんとく ・木村 きむら 恵 めぐみ 吾 われ )- 上記 じょうき のドラマ「こがね虫 ちゅう 」の映画 えいが 化 か [19] 。
歌謡 かよう 曲 きょく 『がむしゃら鉄砲 てっぽう 安 やす 』(歌 うた ・鉄砲 てっぽう 光三郎 こうざぶろう )- ドラマ・映画 えいが 同様 どうよう 、救国 きゅうこく の英雄 えいゆう として称 とな えられた車夫 しゃふ が日 にち 露 ろ 戦争 せんそう によって国賊 こくぞく 扱 あつか いとなった悲劇 ひげき を歌 うた ったもの。
^ 現在 げんざい の2代目 だいめ 新橋 しんばし 駅 えき ではなく、1872年 ねん に開設 かいせつ した初代 しょだい 新橋 しんばし 駅 えき のことで後 のち の汐留 しおどめ 駅 えき である。当時 とうじ まだ東京 とうきょう 駅 えき は無 な く、この初代 しょだい 新橋 しんばし 駅 えき が東海道本線 とうかいどうほんせん の起点 きてん であった。
^ 『読売新聞 よみうりしんぶん 』のみが行在所 あんざいしょ を二 に 条 じょう 離宮 りきゅう (二条城 にじょうじょう )と報道 ほうどう 。他 た 紙 し および『明治天皇 めいじてんのう 紀 おさむ 』は「京都 きょうと 御所 ごしょ 」と記 しる している。
^ ただし山田 やまだ の場合 ばあい は、大津 おおつ 事件 じけん 手記 しゅき によると、内心 ないしん では皇室 こうしつ 罪 ざい の適用 てきよう に消極 しょうきょく 的 てき だったと思 おも われる記述 きじゅつ がある[9] 。
^ 一部 いちぶ の書籍 しょせき には発言 はつげん 者 しゃ が陸奥 むつ 宗光 むねみつ であるとされているが、青木 あおき 周蔵 しゅうぞう 日記 にっき によると後藤 ごとう であると見 み られている[10] 。
^ これは、大逆 だいぎゃく 罪 ざい の類推 るいすい 適用 てきよう を考慮 こうりょ していたため、皇室 こうしつ 罪 ざい に関 かん する裁判 さいばん はすべて大審院 だいしんいん における一 いち 審 しん において判決 はんけつ が下 くだ されることから、適用 てきよう 可否 かひ 判断 はんだん を含 ふく め地裁 ちさい ではなく大審院 だいしんいん に持 も ち込 こ まれることになった。
^ コミックでは他 ほか にも、直接 ちょくせつ ではないがゆうきまさみ 「機動 きどう 警察 けいさつ パトレイバー 」の作中 さくちゅう 、登場 とうじょう 人物 じんぶつ の警察官 けいさつかん が外国 がいこく の要人 ようじん に拳銃 けんじゅう を向 む ける(ように見 み える)シーンにおいて触 ふ れられている。