笹山 茂太郎
ささやま しげたろう | |
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1901 | |
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1982 | |
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9 | |
1949 | |
1955 | |
1963 |
経歴 [編集 ]
秋田 県立 横手 中学校 、第一高等学校 を経 て、1926年 東京 帝国 大学 英 法科 卒業 。農林省 入省 。販売 改善 課長 、埼玉 県 経済 部長 、米穀 課長 、本省 会計 課長 などを経 たが、その後 、山林 局長 のときに、戦時 中 の政府 ・軍部 の方針 であった里山 伐採 ・平地 林 伐採 運動 について『行 き過 ぎのないように』との局長 通達 を全国 の林 務 課長 あてに出 したことが、全国 知事 会 で問題 となり、熊本 の営林局 長 に左遷 させられる事態 となった。本省 の局長 が営林局 長 に降格 されることは、いまだかつてないことであった。第 二 次 世界 大戦 後 、復権 し、農政 局長 、初代 の開拓 局長 として食糧 不足 下 での未墾 地 取得 問題 に取 り組 む。その後 、初代 の水産庁 長官 、農林 事務次官 を歴任 し、当時 のGHQとの交渉 を続 けながら、現在 も存続 している農業 改良 普及 事業 や農業 災害 補償 制度 などの戦後 農政 の基盤 となる諸 制度 の骨格 作 りをした。また、事務次官 時代 には、戦後 の未曾有 の食糧 危機 に際 し、吉田 茂 、白洲 次郎 を仲介 にGHQとかけあい、アメリカからの援助 米 10万 トン獲得 に努力 した。日本 土壌 協会 会長 、中央 開拓 会館 理事 長 、青果物 生産 安定 資金 理事 長 も務 めた。
政 歴 [編集 ]
- 1949
年 - 1
月 -第 24回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から民主党 公認 で立候補 し初 当選 。 - 2
月 -民主党 が野党 派 と連立 派 に分裂 。反 自由党 ・反 吉田 茂 を掲 げる民主党 野党 派 と行動 を共 にした。
- 1
- 1950
年 4月 -国民 民主党 結成 に参加 。三木 武夫 ・松村 謙三 派 (護憲 派 )に属 する。 - 1952
年 - 2
月 -国民 民主党 が新政 クラブほかと合同 し改 進 党 結党 。改 進 党 衆議院 議員 となる。 - 10月 -
第 25回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から改 進 党 公認 で立候補 し2選 。
- 2
- 1953
年 4月 -第 26回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から改 進 党 公認 で立候補 し落選 。 - 1954
年 -改 進 党 が自由党 を離脱 した鳩山 一郎 らのグループと合同 し日本 民主党 を結成 したことに伴 い、同 党 に参加 。 - 1955
年 - 2
月 -第 27回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から日本 民主党 公認 で立候補 し3選 。 - 12月 -
保守 合同 により自由民主党 結成 。自民党 衆議院 議員 となる。三木 ・松村 派 に所属 。
- 2
- 1958
年 5月 -第 28回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し4選 。 - 1960
年 11月 -第 29回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し落選 。 - 1963
年 11月 -第 30回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し5選 。 - 1964
年 10月 -池田 勇人 総裁 退任 を受 けての自由民主党 総裁 選挙 への対応 を巡 って、佐藤 栄作 を支持 する三木 と河野 一郎 を支持 する松村 が対立 。松村 は派閥 を離脱 し、笹山 、古井 喜 実 、川崎 秀二 、竹山 祐太郎 とともに松村 派 を結成 した。 - 1967
年 1月 -第 31回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し6選 。 - 1969
年 12月 -第 32回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し7選 。松村 の引退 に伴 い松村 派 が消滅 。以後 無 派閥 。 - 1972
年 12月 -第 33回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し8選 。 - 1976
年 12月 -第 34回 衆議院 議員 総 選挙 に秋田 2区 から自民党 公認 で立候補 し9選 。 - 1978
年 9月 -衆議院 議員 在職 25年 に達 し衆議院 本 会議 にて永年 勤続 表彰 を受 ける。 - 1979
年 10月 -第 35回 衆議院 議員 総 選挙 に立候補 せず政界 引退 。三男 の笹 山登 生 を後継 者 とした。このとき登 生 は当選 を果 たせなかったが、翌 1980年 の第 36回 衆議院 議員 総 選挙 に再 出馬 し当選 、以後 5回 当選 している。 - 1982
年 ∸老衰 により死去 。
評伝 [編集 ]
官僚 時代 には自身 の意見 を曲 げずに東條 首相 に反対 し、左遷 されたこともあった。また議員 時代 は元 官僚 ながら松村 謙三 とともに脱 官僚 を唱 えて党人 派 を貫 くなど、無頼 の気骨 ある人物 として知 られた。保守 政治 家 としては三木 同様 典型 的 なハト派 であった。池田 首相 退陣 の頃 はいよいよ閣僚 目前 と見 られていたが、直後 に三木 のもとを離 れて松村 と行動 を共 にし、最後 まで国務大臣 になることはできなかった。小 派閥 に属 し続 けたこともあり恵 まれなかったが、党 役員 としては、代議士 会長 を長 くつとめたほか、農林 族 の大物 議員 でもあった。モタさんの愛称 で親 しまれた。自伝 として白雲 去来 (昭和 53年 10月 刊 、楽 游 書房 )がある。
家族 親族 [編集 ]
妻 :君子 (1908年 12月 - ?)[1]長男 :笹山 晴生 (1932年 - 2024年 )東京大学 名誉 教授 ・元 学習院大学 教授 (日本 古代 史 )次男 :笹山 隆生 (1937年 -1996年 )元 日立製作所 ・日立 研究所 主任 研究 員 、工学 博士 三男 :笹 山登 生 (1941年 - )元 自由民主党 衆議院 議員 孫 :笹山 郁生 福岡教育大学 教授 (社会 心理 学 )孫
脚注 [編集 ]
- ^ 『
人事 興信録 第 25版 上 』人事 興信所 、1969年 。
1972 |