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きた昤吉

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きた昤吉
きた れいきち
生年月日せいねんがっぴ 1885ねん7がつ21にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 新潟にいがたけん両津りょうつ
げん佐渡さど
ぼつ年月日ねんがっぴ (1961-08-05) 1961ねん8がつ5にち(76さいぼつ
出身しゅっしんこう 早稲田大学わせだだいがく大学だいがく文学ぶんがく哲学てつがく卒業そつぎょう
ぜんしょく 教育きょういくしゃ
所属しょぞく政党せいとう無所属むしょぞく→)
立憲りっけん民政みんせいとう→)
日本にっぽん自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう→)
ぶん党派とうは自由党じゆうとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
親族しんぞく ちちきた慶太郎けいたろう両津りょうつ町長ちょうちょう
義父ぎふ本間ほんま一松いちまつ新潟にいがたけん会議かいぎいん

選挙せんきょ新潟にいがたけんだい1選挙せんきょ→)
新潟にいがたけんだい1選挙せんきょ→)
きゅう新潟にいがた1
当選とうせん回数かいすう 8かい
在任ざいにん期間きかん 1936ねん - 1947ねん7がつ20日はつか
1952ねん10月1にち - 1958ねん4がつ25にち

その職歴しょくれき
日本にっぽん自由党じゆうとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
(? - ?)
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1921ねん ドイツ ハイデルベルクじょうにて

きた 昤吉(きた れいきち、1885ねん明治めいじ18ねん7がつ21にち - 1961ねん昭和しょうわ36ねん8がつ5にち)は、日本にっぽん思想家しそうか思想しそう評論ひょうろん教育きょういくしゃ政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん[1][2]日本にっぽん自由党じゆうとう政調せいちょう会長かいちょう[3]多摩美術大学たまびじゅつだいがく創立そうりつしゃ[3]別名べつめいれいはな[3]

ろく事件じけん首謀しゅぼうしゃ一人ひとりであるきた一輝いっき実弟じってい

生涯しょうがい

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出生しゅっしょう学生がくせい時代じだい

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新潟にいがたけん佐渡さどきゅう新潟にいがたけん両津りょうつみなと出身しゅっしん初代しょだい両津りょうつまちちょう酒屋さかや肥料ひりょういとなきた慶太郎けいたろう二男じなん[1][2][4][5]高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく同時どうじ漢学かんがくじゅくかよい、漢学かんがく習字しゅうじなら[5]新潟にいがた県立けんりつ佐渡さど中学校ちゅうがっこう新制しんせい:佐渡さど高校こうこう)に入学にゅうがくしたが、あにどう学年がくねんになることをきらった父親ちちおや命令めいれい中学ちゅうがく入学にゅうがくおくれたため、希望きぼうしていた陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう進学しんがく年齢ねんれい制限せいげんによりたれる[5]早稲田大学わせだだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ入学にゅうがくするも、1ねん哲学てつがくうつり、1905ねん明治めいじ38ねん)の卒業そつぎょうには首席しゅせきとなり各科かっか総代そうだいつとめた[5]1908ねん明治めいじ41ねん)、早稲田大学わせだだいがく大学だいがく文学ぶんがく哲学てつがく卒業そつぎょう[2]同年どうねんあにてるろうかたきた一輝いっき本名ほんみょう)より分家ぶんけした[1]同年どうねん9がつ茨城いばらき県立けんりつ土浦つちうら中学校ちゅうがっこう奉職ほうしょく翌年よくねん結婚けっこんし、1911ねん明治めいじ44ねん)東京とうきょうだいさん中学校ちゅうがっこう転任てんにん[5][6]

教育きょういくしゃ思想家しそうか評論ひょうろん時代じだい

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1913ねん大正たいしょう2ねん早稲田大学わせだだいがく講師こうしとなる[1][2]。またこのころより大正たいしょうデモクラシー旗手きしゅとして論壇ろんだん登場とうじょうし、民本主義みんぽんしゅぎ学問がくもんてき根拠こんきょ政治せいじがくのありかたをめぐって吉野よしの作造さくぞう論争ろんそうする。1917ねん大正たいしょう6ねん)ごろ、霊感れいかんつよあにいちてるいで、催眠さいみんじゅつもの古屋こや鉄石てっせき試験しけんだいをしていた永福えいふくという行者ぎょうじゃり、自宅じたくまねいて中村なかむら古峡こきょう柳田やなぎだ国男くにお中桐なかぎり確太郎かくたろうきの淑雄としおらと催眠さいみんじゅつ研究けんきゅうをした[5]

三土みつち忠造ちゅうぞう支援しえんで、1918ねん大正たいしょう7ねん)9がつより、4ねんはんちか欧米おうべい留学りゅうがくした[1][2][7]米国べいこくハーバード大学だいがくで1ねんまなんだのち、英国えいこく、フランス、スイス、イタリアをて、1920ねん大正たいしょう9ねんはるにドイツにはいり、ベルリンまなび、1921ねんより1ねん7かげつハイデルベルクらした[7][8]1922ねん大正たいしょう11ねん)12がつまつ帰国きこく[7]

1923ねん大正たいしょう12ねん帰朝きちょう以来いらい大東だいとう文化ぶんか学院がくいん現在げんざい大東文化大学だいとうぶんかだいがく教授きょうじゅ大東だいとう文化ぶんか協会きょうかいだい研究けんきゅう主任しゅにん日本にっぽん (新聞しんぶん)編輯へんしゅう監督かんとく大正大学たいしょうだいがく講師こうしれきしょく[2]

ざいえいユダヤじん政治せいじ学者がくしゃハロルド・ラスキ友人ゆうじんになったが帰国きこく直後ちょくごにはあにきた一輝いっきソ連それん外交がいこうかんでユダヤじんヨッフェ批判ひはんしていたむねのち回顧かいこしている[9]。また、改造かいぞう読売新聞よみうりしんぶん東京とうきょう新聞しんぶんなどに論文ろんぶん寄稿きこうした。あにいちてるとは1925ねん大正たいしょう14ねん)を最後さいごに、逮捕たいほ面会めんかいするまでじゅうねん以上いじょう没交渉ぼっこうしょうとなった[5]

1923ねん12月27にちとらもん事件じけん天皇てんのう暗殺あんさつ未遂みすい)の翌日よくじつ弁護士べんごし小川おがわ平吉へいきち警視総監けいしそうかん斎藤さいとういつき義父ぎふ宮澤みやざわ喜一きいち祖父そふ)が発起ほっきした青天せいてんかい参加さんかし、また小川おがわとも日本にっぽん新聞しんぶん主宰しゅさいした。青天せいてんかい日本にっぽん新聞しんぶんとは不離ふり関係かんけいにあり、会員かいいんかさなるもの本人ほんにんのほか、井上いのうえ哲次郎てつじろう五百木いおき良三りょうぞうばんあずま宣雄のりお花井はない卓蔵たくぞう蜷川にながわしん本多ほんだ熊太郎くまたろう頭山とうやまみつる大木たいぼくとおよし大島おおしま健一けんいち東条とうじょう英機ひでき若槻わかつき礼次郎れいじろう鎌田かまた栄吉えいきちはら嘉道よしみち永田ながた鉄山てつざん荒木あらき貞夫さだお永田ながた秀次郎ひでじろうかけい克彦かつひこ川島かわしま卓吉たくきち上杉うえすぎ慎吉しんきち近衛このえ文麿ふみまろ北里きたさとしば三郎さぶろう金杉かなすぎ英五郎えいごろう江木えぎせんこれ平沼ひらぬま騏一郎きいちろう星野ほしのすず長崎ながさき英造えいぞう鈴木すずきうめ四郎しろう若宮わかみや卯之助うのすけ綾川あやかわ武治たけはる国本こくほんしゃ)、中谷なかたにたけし下位かい春吉はるきちひとしであった[10]きたはそのにも愛国あいこく勤労きんろうとうなど様々さまざま愛国あいこくてき団体だんたい参加さんかした。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)、総合そうごう評論ひょうろん雑誌ざっし祖国そこく」を創刊そうかんみずか主幹しゅかんとなり評論ひょうろん活動かつどうはいる。この雑誌ざっし本来ほんらい左右さゆうわない言論げんろん発表はっぴょうであったが、のちに「祖国そこく同志どうしかい」の機関きかんへと性質せいしつえる。

1929ねん昭和しょうわ4ねん早稲田大学わせだだいがく時代じだいおしであった金原かなはら省吾しょうごらにわれて帝国ていこく美術びじゅつ学校がっこう現在げんざい武蔵野美術大学むさしのびじゅつだいがく)の創立そうりつしゃけん初代しょだい校長こうちょうとなるが、 1935ねん昭和しょうわ10ねん学校がっこう運営うんえい移転いてん問題もんだいをめぐって学生がくせい対立たいりつし、学生がくせいのストライキ事件じけん同盟どうめい休校きゅうこう事件じけん)を学校がっこう分裂ぶんれつする。(帝国ていこく美術びじゅつ学校がっこう多摩たま帝国ていこく美術びじゅつ学校がっこう多摩たま帝国ていこく美術びじゅつ学校がっこう現在げんざい多摩美術大学たまびじゅつだいがく)を創設そうせつ多摩たま帝国ていこく美術びじゅつ学校がっこう名誉めいよ校長こうちょうをつとめた[1][4][11]

政治せいじ時代じだいだい東亜とうあ戦争せんそう前後ぜんこう

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1936ねん昭和しょうわ11ねん)、二・二六事件ににろくじけん直前ちょくぜんだい19かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ無所属むしょぞく当選とうせんし、政治せいじへと転身てんしん当選とうせん立憲りっけん民政みんせいとう入党にゅうとう[12]

戦後せんご自由党じゆうとう結成けっせい尽力じんりょくした[3]公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ日本にっぽん民主党みんしゅとう自由民主党じゆうみんしゅとう議員ぎいんとして活動かつどう衆院しゅういん懲罰ちょうばつ委員いいんちょう自由党じゆうとう政調せいちょう会長かいちょうなど歴任れきにんした[3]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

人物じんぶつ

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趣味しゅみ読書どくしょ釣魚ちょうぎょ[1][4][13]宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう[1][4][13]住所じゅうしょ東京とうきょう杉並すぎなみおぎ[1][4][13]

家族かぞく親族しんぞく

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  • ちちきた慶太郎けいたろう(1853-1903[6][15]) - 両津りょうつまち初代しょだい町長ちょうちょう代々だいだい醸造じょうぞうぎょういとな裕福ゆうふくきたむすめロクとその婿むころく太郎たろう長男ちょうなんとしてまれる[16][17]慶太郎けいたろうたま幽霊ゆうれいひとで、昤吉によると、そうした霊感れいかんつよさはあにきたいちてるがれたという[18]自由じゆう民権みんけん運動うんどうかかわり、町長ちょうちょう時代じだいの1890ねんには相川あいかわ暴動ぼうどうばれるべい騒動そうどうまれ、1900ねんには家業かぎょう失敗しっぱいし(昤吉によると親戚しんせき保証ほしょう問題もんだい廃業はいぎょう[6]慶太郎けいたろうぼつ母方ははかた叔父おじほんあいだいちまつちちわりとなっていちてる昤吉兄弟きょうだいらの学費がくひ援助えんじょした[5]
  • はは・リク(1856-1939) - 新穂にいぼむら出身しゅっしん旧姓きゅうせいほんあいだ佐渡さどには、出産しゅっさん実家じっかおこない、33にちめに婚家こんかもどるというふる習慣しゅうかんがあったため、昤吉たちははは実家じっかまれた[5]新穂にいぼむら日蓮宗にちれんしゅう根本ねもとてら (佐渡さど)所在地しょざいちとしてられる信心しんじんふか土地とちだった[5]。昤吉のつま・マツエ(佳子けいこ)の実父じっぷはリクのおとうと遠縁とおえん(リクのめいむすめおっと)に丹波たんば哲郎てつろうがいる[6]
  • 実兄じっけいきた一輝いっき思想家しそうか) - 二・二六事件ににろくじけん処刑しょけいされた。

著作ちょさく

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たんちょ

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  • 時間じかん自由じゆう意志いし 哲学てつがく入門にゅうもん南北社なんぼくしゃ〈ベルグソン哲学てつがく解説かいせつ批判ひはん だい1へん〉、1914ねん4がつ 
  • 物質ぶっしつ記憶きおく 創造そうぞうてき進化しんか南北社なんぼくしゃ〈ベルグソン哲学てつがく解説かいせつ批判ひはん だい2へん〉、1914ねん12月。 
  • 哲学てつがくより政治せいじへ』とめぜんどう書店しょてん、1918ねん2がつNDLJP:959136 
  • ひかり東方とうほうより』だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1918ねん8がつNDLJP:959253 
  • 哲学てつがくてき世界せかいかん種々相しゅじゅそう谷島やじま書店しょてん、1924ねん4がつ 
  • 妥当だとうせい哲学てつがく早稲田わせだ泰文やすふみしゃ、1924ねん6がつNDLJP:981691 
  • 哲学てつがく概論がいろん聖山ひじりやまかく綜合大学そうごうだいがく講座こうざ 1〉、1926ねん5がつNDLJP:981786 NDLJP:1019219 
  • 哲学てつがく行脚あんぎゃ新潮社しんちょうしゃ、1926ねん5がつNDLJP:981767 
  • 昭和しょうわ維新いしん世界せかい文庫ぶんこ刊行かんこうかい、1927ねん11月。 
  • 人間にんげんかんきょうぶんしゃ、1928ねん1がつ 
  • 世界せかい現状げんじょう新日本建設しんにほんけんせつ急務きゅうむだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ雄弁ゆうべん だい24かんだい5ごう附録ふろく〉、1933ねん5がつ 
  • さい革命かくめい独逸どいつ平凡社へいぼんしゃ世界せかいこん明日あした だい8かん〉、1933ねん7がつ 
  • 強力きょうりょくないかくしん政治せいじ経済けいざい機構きこう日本にっぽん講演こうえん通信つうしんしゃ日本にっぽん講演こうえん通信つうしん だい238ごう〉、1934ねん5がつ 
  • 憲政けんせい常道じょうどうろん迷信めいしん国民こくみん協会きょうかい出版しゅっぱん、1934ねん3がつ 
  • 思想しそう生活せいかつ日本にっぽんしょそう、1937ねん1がつNDLJP:1046880 
  • ちゅうささえ戦線せんせん巡視じゅんしして』日本にっぽん協会きょうかい出版しゅっぱん、1938ねん6がつNDLJP:1080455 
  • 動乱どうらん欧州おうしゅう情勢じょうせい日本にっぽん協会きょうかい出版しゅっぱん、1940ねん2がつNDLJP:1080454 
  • 排撃はいげき歴史れきしだい書房しょぼう、1941ねん9がつ 
  • 戦争せんそう哲学てつがくだい書房しょぼう、1943ねん3がつNDLJP:1062781 

寄稿きこう

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編集へんしゅう

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  • 近代きんだい英雄えいゆう評伝ひょうでん宏文ひろふみかん、1931ねん12月。 
  • 『ファッショと国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ日本にっぽんしょそう、1937ねん2がつNDLJP: 
  • 日本にっぽん精神せいしん闡明せんめいだい書房しょぼう、1942ねん11月。 

翻訳ほんやく

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  • ヘフディング『近世きんせい哲学てつがく 上巻じょうかん早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん現代げんだい哲学てつがく だい5へん〉、1917ねん12月。NDLJP:950201 
  • ヘフディング『近世きんせい哲学てつがく 下巻げかん早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん現代げんだい哲学てつがく だい6へん〉、1918ねん4がつNDLJP:950202 
  • ラピンドナー・タゴール『タゴール講演こうえんしゅう いにしえみちプラトンしゃ、1924ねん9がつNDLJP:981734 
  • ロジャース『西洋せいよう哲学てつがく冨山とやまぼう、1925ねん1がつNDLJP:1088321 
  • ベルグソン時間じかん自由じゆう意志いし 物質ぶっしつ記憶きおく新潮社しんちょうしゃ社会しゃかい哲学てつがくしん学説がくせつ大系たいけい 3〉、1925ねん2がつNDLJP:982177 
  • カール・カウッキー『マルクスの資本しほんろんしおぶんかく万有ばんゆう文庫ぶんこ だい35かん〉、1928ねん3がつ 
  • ヘフディング『改訳かいやく近世きんせい哲学てつがく 上巻じょうかん新潮社しんちょうしゃ、1928ねん4がつ 
  • ヘフディング『改訳かいやく近世きんせい哲学てつがく 下巻げかん新潮社しんちょうしゃ、1928ねん6がつ 
  • 明治天皇めいじてんのうしゅう(Ausgewählte Gedichte von Kaiser Meidi)』にちどく協会きょうかい、1939ねん8がつ 
  • P.A.ソロキン『ヒューマニティの再建さいけん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1951ねん3がつ 

ともやく

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  • ロージャース ちょ藤井ふじい健治郎けんじろうきた昤吉 やく西洋せいよう哲学てつがく冨山とやまぼう、1914ねん2がつNDLJP:951318 
  • ヴィンデルバント しるきた昤吉・井上いのうえ忻治 やくおうしゅう思想しそう興亡こうぼう史論しろん刊行かんこうかい、1918ねん6がつNDLJP:953670 
  • ピトリム・ソローキン ちょきた昤吉・渡辺わたなべ勇助ゆうすけ やく現代げんだい危機きき日本にっぽん経済けいざい道徳どうとく協会きょうかい、1955ねん6がつ 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 作曲さっきょく古関こせきひろし母方ははかた従兄じゅうけい[14]
出典しゅってん
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 人事じんじ興信録こうしんろく だい12はん じょうキ79ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2018ねん11月2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 早稲田大学わせだだいがく紳士録しんしろく 昭和しょうわ15年版ねんばんキ285ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2018ねん11月2にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e きた 昤吉とはコトバンク。2018ねん11月2にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j k 人事じんじ興信録こうしんろく だい13はん じょうキ64ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2019ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g h i j あにきたいちてるかたきた昤吉、『思想しそう生活せいかつ』(日本にっぽんしょそう, 1937)
  6. ^ a b c d 佐渡さど人名じんめいろく きた一輝いっききた慶太郎けいたろうきた昤吉
  7. ^ a b c はしがき哲学てつがく行脚あんぎゃきた昤吉 ちょ (新潮社しんちょうしゃ, 1926)
  8. ^ ハイデルベルヒのおも哲学てつがく行脚あんぎゃきた昤吉 ちょ (新潮社しんちょうしゃ, 1926)
  9. ^ きた昤吉 1951, p. 55.
  10. ^ きた昤吉 1951, p. 57.
  11. ^ 多摩美術大学たまびじゅつだいがく歴史れきし高橋たかはし士郎しろう講義こうぎノート)参照さんしょう
  12. ^ 大東だいとう文化ぶんか協会きょうかいは1937ねんヒトラーゲッベルス共著きょうちょの『人民戦線じんみんせんせんたいするナチスの宣戦せんせん』を翻訳ほんやく出版しゅっぱん
  13. ^ a b c d 人事じんじ興信録こうしんろく だい14はん じょうキ63ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2019ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  14. ^ 「エール」 VS 本当ほんとうはなし―7 帝国ていこく音楽おんがく学校がっこう喜多きたさん」ブログ、2020ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  15. ^ 私論しろん きた一輝いっき井上いのうえひろし専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ月報げっぽうNo. 523、2007. 1. 20
  16. ^ 代表だいひょうてき人物じんぶつ事業じぎょう時事通信社じじつうしんしゃ, 1913、p15
  17. ^ きた一輝いっき: 革命かくめい使者ししゃ利根川とねがわひろし, 人物じんぶつ往来おうらいしゃ, 1967, p48
  18. ^ きた一輝いっきにおける信仰しんこう社会しゃかい思想しそう交渉こうしょう松岡まつおか幹夫みきお東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん相関そうかん社会しゃかい科学かがくだい12ごう、2003ねん3がつ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 早稲田大学わせだだいがく紳士録しんしろく刊行かんこうかいへん早稲田大学わせだだいがく紳士録しんしろく 昭和しょうわ15年版ねんばん早稲田大学わせだだいがく紳士録しんしろく刊行かんこうかい、1939ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい12はん じょう人事じんじ興信所こうしんじょ、1940ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい13はん じょう人事じんじ興信所こうしんじょ、1941ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい14はん じょう人事じんじ興信所こうしんじょ、1943ねん
  • 稲邊いなべしょう二郎じろう一輝いっきと昤吉-きた兄弟きょうだい相克そうこく-』新潟にいがた日報にっぽう事業じぎょうしゃ、2002ねん6がつISBN 4-88862-912-9

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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議会ぎかい
先代せんだい
赤城あかぎ宗徳むねのり
日本の旗 衆議院しゅうぎいん懲罰ちょうばつ委員いいんちょう
1955ねん
次代じだい
長井ながいはじめ
とうしょく
先代せんだい
安藤あんどう正純まさずみ
日本にっぽん自由党じゆうとう政調せいちょう会長かいちょう 次代じだい
ほししま二郎じろう