羽田はたたけ嗣郎つぎお

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羽田はた たけ嗣郎つぎお
はた ぶしろう
羽田武嗣郎
生年月日せいねんがっぴ (1903-04-28) 1903ねん4がつ28にち
出生しゅっしょう 長野ながのけん小県ちいさがたぐん和田わだむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1979-08-08) 1979ねん8がつ8にち(76さいぼつ
出身しゅっしんこう 東北とうほく帝国ていこく大学だいがく法文学部ほうぶんがくぶ
ぜんしょく 鉄道てつどう大臣だいじん秘書官ひしょかん
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
日本にっぽん進歩しんぽとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
子女しじょ 羽田はたつとむ長男ちょうなん
親族しんぞく 羽田はた雄一郎ゆういちろうまご
羽田はた次郎じろうまご
神津こうづけんまご

選挙せんきょ 長野ながの2
当選とうせん回数かいすう 9かい
在任ざいにん期間きかん 1937ねん4がつ30にち - 1945ねん12月18にち
1952ねん10月1にち - 1969ねん12月2にち
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羽田はた たけ嗣郎つぎお(はた ぶしろう、1903ねん明治めいじ36ねん4がつ28にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん8がつ8にち)は、日本にっぽん政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん[1]内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめた羽田はたつとむちち

来歴らいれき[編集へんしゅう]

長野ながのけん小県ちいさがたぐん和田わだむらげん長和おさわまち)に教育きょういくしゃ羽田はた貞義さだよし三男さんなんとしてまれる。福島ふくしま中学ちゅうがくげん福島ふくしま県立けんりつ福島ふくしま高等こうとう学校がっこう)、旧制きゅうせい新潟にいがた高等こうとう学校がっこうて、1929ねん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく法文学部ほうぶんがくぶ卒業そつぎょう[2]東京とうきょう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃし、政治せいじ勤務きんむ[3]

政治せいじ記者きしゃから鉄道てつどう大臣だいじん秘書官ひしょかんとなり1937ねん立憲りっけん政友せいゆうかい公認こうにんだい20かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立候補りっこうほし、当選とうせんする[4]。「羽田はた書店しょてん」を創立そうりつする[3]社員しゃいんにはのちに独立どくりつしてみすず書房しょぼう創業そうぎょうする小尾こびしゅんじんらがいた。

1939ねん政友せいゆうかい分裂ぶんれつさいしては中島なかじま知久平ちくへい総裁そうさいつとめる政友せいゆうかい革新かくしん同盟どうめい革新かくしん中島なかじま)に所属しょぞく1941ねん大政たいせい翼賛よくさんかい中央ちゅうおう訓練くんれんしょ錬成れんせいふく部長ぶちょう就任しゅうにんする[1]1942ねん翼賛よくさん選挙せんきょでは翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせん候補こうほとして当選とうせん

戦後せんご日本にっぽん進歩しんぽとう結成けっせい参加さんかするが、翼賛よくさん議員ぎいんだったことが原因げんいん公職こうしょく追放ついほうになる。1952ねん追放ついほう解除かいじょとなり政界せいかい復帰ふっき農林のうりん政務次官せいむじかん自由党じゆうとう政調せいちょうふく会長かいちょう歴任れきにんする。1955ねん自由民主党じゆうみんしゅとう参加さんかする。

自民党じみんとうでは緒方おがた石井いしい所属しょぞくし、とうふく幹事かんじちょう衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんちょうなどをつとめる。1963ねん脳出血のうしゅっけつ発作ほっさおそわれる。病魔びょうまくるしみながらも1967ねんだい31かいそう選挙せんきょ立候補りっこうほ当選とうせんする。しかしその満足まんぞく政治せいじ活動かつどう困難こんなんになり、1969ねん引退いんたい後援こうえんかい意向いこうもあり長男ちょうなん羽田はたつとむ後継こうけいしゃとなった。1979ねん8がつ8にち、76さいにて死去しきょ

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東北とうほくみかどだいでは、阿部あべ次郎じろう師事しじする。

最初さいしょ配属はいぞくになった北海道ほっかいどう札幌さっぽろ支局しきょく時代じだい農民のうみん大会たいかい演説えんぜつをぶち、本社ほんしゃされる羽目はめになり、さらに帰京ききょう見送みおくりのさい、たまたまとおりかかった代議士だいぎしにアカの記者きしゃばわりされたため、よこつらをひっぱたいて、東京とうきょう本社ほんしゃのデスクだった細川ほそかわたかしもとしかられたというエピソードがのこる。

宗教しゅうきょう真言宗しんごんしゅう[1][3]趣味しゅみ乗馬じょうば[1]読書どくしょ[3]住所じゅうしょ東京とうきょう荏原えばら中延なかのぶまち[1]千代田ちよだ神田駿河台かんだするがだい[3]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

羽田はた
親戚しんせき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 人事じんじ興信録こうしんろく だい13はん ハ2ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2020ねん12月28にち閲覧えつらん
  2. ^ 東北とうほく帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 昭和しょうわ4ねん4がついたり5ねん3がつ卒業生そつぎょうせい氏名しめい 法文学部ほうぶんがくぶ524ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2017ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j 人事じんじ興信録こうしんろく だい15はん ハ1ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2020ねん12月28にち閲覧えつらん
  4. ^ だい20かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ一覧いちらん衆議院しゅうぎいん、1937ねん、pp.267,272-277.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 東北とうほく帝国ていこく大学だいがくへん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 昭和しょうわ4ねん4がついたり5ねん3がつ東北とうほく帝国ていこく大学だいがく、1929ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい13はん 人事じんじ興信所こうしんじょ、1941ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい15はん 人事じんじ興信所こうしんじょ、1948ねん
  • 羽田はた武嗣たけしろうでん羽田はたたけ嗣郎つぎお伝記でんき刊行かんこうかい、1974ねん4がつ25にちNDLJP:12260477 
議会ぎかい
先代せんだい
堀川ほりかわ恭平きょうへい
日本の旗 衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんちょう
1959ねん - 1960ねん
次代じだい
大倉おおくら三郎さぶろう