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フェルディナント1せい (オーストリア皇帝こうてい)

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フェルディナント1せい
Ferdinand I
オーストリア皇帝こうてい
フェルディナント1せい
在位ざいい 1830ねん9月28にち - 1848ねん12月2にち
(ハンガリー国王こくおう・クロアチア国王こくおう
1835ねん3月2にち1848ねん12月2にち
(オーストリア皇帝こうてい・ボヘミア国王こくおう
戴冠たいかんしき 1830ねん9がつ28にち
(ハンガリー国王こくおう
1836ねん9月7にち
(ボヘミア国王こくおう
1838ねん9月1にち
(ロンバルド=ヴェネト国王こくおう
べつごう ハンガリー国王こくおう
ボヘミア国王こくおう
ダルマチア国王こくおう
クロアチア国王こくおう
スラヴォニア国王こくおう
ガリツィア=ロドメリア国王こくおう
ロンバルド=ヴェネト国王こくおう

ぜん Ferdinand Karl Leopold Joseph Franz Marcellin von Habsburg-Lothringen
フェルディナント・カール・レオポルト・ヨーゼフ・フランツ・マルツェリン・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生しゅっしょう (1793-04-19) 1793ねん4がつ19にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
オーストリアの旗 オーストリア大公たいこうこくウィーン
死去しきょ (1875-06-29) 1875ねん6月29にち(82さいぼつ
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく
ボヘミアの旗 ボヘミア王国おうこく プラハ
埋葬まいそう 1875ねん7がつ6にち
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく ウィーン カプツィーナー納骨のうこつどう
配偶はいぐうしゃ マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン
家名かめい ハプスブルク=ロートリンゲン
父親ちちおや フランツ2せい
母親ははおや マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
サイン
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フェルディナント1せいドイツ: Ferdinand I1793ねん4がつ19にち - 1875ねん6月29にち[1])は、オーストリア皇帝こうてい在位ざいい1835ねん3月2にち - 1848ねん12月2にち)。ハンガリー国王こくおうとしてはフェルディナーンド5せいハンガリー: V Ferdinánd1830ねん9月28にち - 1848ねん12月2にち)。

善良ぜんりょうみかどドイツ: der Gütige)」とばれる。

生涯しょうがい

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1793ねん4がつ19にち最後さいご神聖しんせいローマ皇帝こうていフランツ2せいとその皇后こうごうりょうシチリア国王こくおうフェルディナンド1せい長女ちょうじょであるマリア・テレジア長男ちょうなんとして誕生たんじょうした。あねにフランス皇帝こうていナポレオン1せい皇后こうごうマリア・ルイーザがいる。

1804ねんオーストリア帝国ていこく成立せいりつすると、ハプスブルクふみならびにオーストリア史上しじょうはつ皇太子こうたいしとなった。帝位ていいせんみかどこうによって選出せんしゅつされる世襲せしゅうのものとする選挙せんきょ君主くんしゅせい建前たてまえから、かみきよしマ帝国まていこくには皇子おうじ皇太子こうたいしという存在そんざいせず、したがってフェルディナント以前いぜんのハプスブルク一族いちぞく皇帝こうてい息子むすこであってもローマおうオーストリア大公たいこうでしかなかった。

病弱びょうじゃく皇太子こうたいし

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一般いっぱんてき祖父母そふぼかずは8にんとなるが、フェルディナントは4にん祖父母そふぼしかたないという、いわゆる血統けっとう崩壊ほうかいきていた(くわしい家系かけい後述こうじゅつ)。そしておそらくはこの近親きんしんこん原因げんいんとした、非常ひじょう病弱びょうじゃく体質たいしつってまれたため、フェルディナントは生来せいらい蒲柳ほりゅうしつであった[2]

健常けんじょう状態じょうたい身体しんたいでないことは外見がいけんからもはっきりとてとれたとわれている。また、フェルディナントのいもうとマリア・アンナ英語えいごばんあに同様どうよう障害しょうがいっていたとわれている。

フェルディナントの人生じんせいにおいてかれもっとなやませたのはてんかん発作ほっさであり、そのせいでかれはしばしば意識いしきうしなうことがあった。のうへの負担ふたんおおきいとされてチェス許可きょかされ、ウィーンの民衆みんしゅうからは「Trottel馬鹿ばか)」というあだをつけられた[2]。また、結婚けっこん不可能ふかのうだとかんがえられていた。


皇太子こうたいし殿下でんか不能ふのうしょうというわけではございませんが、殿下でんかのお身体しんたい婚姻こんいん生活せいかつにより、おいのちあやうくされるやもれぬ状態じょうたいでございます[3] — 
皇帝こうてい侍医じいヨーゼフ・アンドレアス・フォン・シュティフト博士はかせ提出ていしゅつした診断しんだんしょ
「ハンガリーおうフェルディナーンド5せい」としてせいイシュトヴァーンの王冠おうかん頭上ずじょういただいて即位そくい儀式ぎしきのぞむフェルディナント皇太子こうたいし(1830ねん9がつ28にち

あまりの病弱びょうじゃくさから帝位ていい継承けいしょう実現じつげんあやぶまれたが、相続そうぞく順位じゅんいほう遵守じゅんしゅしようとした保守ほしゅてきなフランツ1せい[4]次代じだい病弱びょうじゃく皇帝こうていいただくことでつづ実権じっけんにぎろうとした宰相さいしょうクレメンス・フォン・メッテルニヒ[4]思惑おもわく一致いっちし、次期じき皇帝こうていとなることが確実かくじつとなった。

1830ねん9月28にちプレスブルクハンガリー国王こくおうならびにクロアチア国王こくおうとして戴冠たいかんした。ちちみかど存命ぞんめいちゅうおうとしての戴冠たいかんしきおこなわれたことにより、かみきよしマ帝国まていこくにおいてローマおう事実じじつじょう皇太子こうたいしとされていたように、ハンガリー王位おうい(とそれに付随ふずいするクロアチア王位おうい)がオーストリア皇太子こうたいしねる称号しょうごうとしてさい定義ていぎされたが、結果けっかてきにはフェルディナントいちだいかぎりのものとなり、英国えいこくプリンス・オブ・ウェールズのように慣習かんしゅうとして定着ていちゃくすることはなかった。

1831ねんサルデーニャ国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ1せいさんじょマリア・アンナむかえたが、この結婚けっこんはもとより世継よつぎの誕生たんじょう期待きたいしてのものではなく、次期じき皇帝こうていとしての体裁ていさいととのえるためのものであった。

1832ねんは、フェルディナントにとって生涯しょうがい最悪さいあくとしだったといえる。8月9にちバーデン・バイ・ウィーンかた狙撃そげきされ、ショックで一時いちじてきしん停止ていしおちいった[2]狙撃そげきはん死刑しけい判決はんけつけたが、フェルディナントはちちみかどい、終身しゅうしんけい減刑げんけいさせた[2]。またクリスマスのころには、きわめて深刻しんこく発作ほっさこして生命せいめい危機ききおちいった。12月19にちおわり秘蹟ひせきさづけられたほどだったが、どうにかちこたえた[2]

即位そくい秘密ひみつ国家こっか会議かいぎのもとでの治世ちせい

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ボヘミア国王こくおうフェルディナンド5せいとしての戴冠たいかん(1836ねん
ロンバルド=ヴェネト国王こくおうフェルディナンド1せいとしての戴冠たいかん(1838ねん

1835ねん3月2にちちちみかど崩御ほうぎょによってオーストリア帝位ていいそくいた。1836ねん9月7にちプラハにおいてボヘミア国王こくおうとして、1838ねん9月6にちにはミラノにおいてロンバルド=ヴェネト国王こくおうとしての戴冠たいかんしき挙行きょこうした。

メッテルニヒは病弱びょうじゃくなフェルディナント1せい補佐ほさする機関きかんとして、新帝しんてい叔父おじルートヴィヒ大公たいこうドイツばんフランツ・アントン・フォン・コロヴラート=リープシュタインスキードイツばん伯爵はくしゃく新帝しんていおとうとフランツ・カール大公たいこう自身じしんの4にんからなる秘密ひみつ国家こっか会議かいぎドイツばん設置せっちした[5]会議かいぎ牛耳ぎゅうじ宰相さいしょうメッテルニヒが次々つぎつぎ書類しょるい署名しょめいすることが、フェルディナント1せい統治とうちすべてだった[6]

1848ねん革命かくめい譲位じょうい

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馬車ばしゃでウィーンをまわり、民衆みんしゅう歓呼かんここえむかえられるフェルディナント1せい
1848ねん革命かくめいした帝都ていとからのがれる宮廷きゅうてい

1848ねん3がつ革命かくめい勃発ぼっぱつすると、メッテルニヒを罷免ひめんし、馬車ばしゃって検閲けんえつ廃止はいし出版しゅっぱん自由じゆう約束やくそくしてまわり、ウィーンの民衆みんしゅうから歓呼かんここえむかえられたが[7]他国たこく進展しんてんする革命かくめい影響えいきょうもあってウィーンの革命かくめい運動うんどう次第しだい先鋭せんえいしていき、最終さいしゅうてきには退位たいい余儀よぎなくされた。

オーストリア帝位ていい継承けいしょう順位じゅんいしたがえば、すぐしたおとうとフランツ・カール大公たいこう子女しじょのないフェルディナントの後継こうけいしゃになるはずだったが、すでに国家こっか会議かいぎのメンバーとしてきゅう体制たいせいあかがしみついていたこともあってかれ帝位ていい継承けいしょう辞退じたいし、わってその長男ちょうなんフランツ大公たいこうが「フランツ・ヨーゼフ1せい」として帝位ていいそくいた。

もしこの君主くんしゅ一族いちぞくがこれまでにきずきあげてきたるぎないたか地位ちいがなかったとしたならば、フェルディナントみかどの13ねんおよ治世ちせいかんがえられたであろうか。1ねんでさえも継続けいぞくできなかったであろう[8] — 当時とうじのハプスブルク一族いちぞく代表だいひょうてき保守ほしゅアルブレヒト大公たいこう

譲位じょうい

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退位たいいのフェルディナント1せい(1860年代ねんだい
カプツィーナー納骨のうこつどうのフェルディナント1せい霊柩れいきゅう

退位たいいプラハじょう居城きょじょうとした。立場たちばから解放かいほうされたためか、蒲柳ほりゅうしつにもかかわらず長命ちょうめいたもった。退位たいいも27年間ねんかんつづけて、1875ねんに82さい高齢こうれい崩御ほうぎょした。遺骸いがいはウィーンにはこばれてカプツィーナー納骨のうこつどうほうむられた。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 菊池きくちりょうせい悲劇ひげきのメキシコ皇帝こうていマクシミリアン1せい」『明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅうだい225かん明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、1990ねん、137-155ぺーじISSN 03896005NAID 120001441097 
  • 菊池きくちりょうせい悲劇ひげき皇帝こうていマクシミリアンⅠせい(Ⅱ)」『明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅうだい235ごう明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、1991ねん、101-125ぺーじISSN 03896005NAID 120001441113 
  • 江村えむらひろしフランツ・ヨーゼフ:ハプスブルク「最後さいご」の皇帝こうてい東京書籍とうきょうしょせき、1994(平成へいせい6)ねん9がつ20日はつかISBN 4-487-79143-X 
  • いわ﨑周いち『ハプスブルク帝国ていこく講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2017ねん8がつISBN 978-4-06-288442-6 

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
フランツ1せい
ドイツ連邦れんぽう
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爵位しゃくい家督かとく
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