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ヴラチスラフ2せい (ボヘミアおう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴラチスラフ2せい
Vratislav II.
ボヘミアこう
ボヘミア国王こくおう
ヴラチスラフ2せい。ズノイモ礼拝れいはいどうのフレスコより。
在位ざいい 1085ねん - 1092ねん
戴冠たいかんしき 1085ねんプラハ

出生しゅっしょう 1035ねんころ
ボヘミア王国おうこく
死去しきょ 1092ねん1がつ14にち
ボヘミア王国おうこく
埋葬まいそう ボヘミア王国おうこくプラハヴィシェフラド
配偶はいぐうしゃ マリア
  アドレータ・ウヘルスカー
  スヴァタヴァ・ポルスカー
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい プシェミスル
王朝おうちょう プシェミスルあさ
父親ちちおや ブジェチスラフ1せい
母親ははおや ユーディト・フォン・シュヴァインフルト
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ヴラチスラフ2せいVratislav II.1035ねんごろ - 1092ねん1がつ14にち)は、プシェミスルボヘミアおおやけ在位ざいい1061ねん - 1092ねん)、マイセン辺境へんきょうはく在位ざいい1076ねん - 1089ねん)、のち初代しょだいボヘミアおうとなった(在位ざいい1085ねん - 1092ねん)。ただ世襲せしゅうみとめられず、1だいかぎりのおうであった。ちちブジェチスラフ1せいははバーベンベルクハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトむすめユーディト。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1055ねんちち死後しごモラヴィア一部いちぶオロモウツ)を統治とうちすることになった。しかし、あにスピチフニェフ2せいとの紛争ふんそうによりハンガリーのがれた。こののち、ハンガリーの支援しえんてモラヴィア=オロモウツこう復帰ふっきした。

あに和解わかいし、さらに1061ねんあにくなったのち、ヴラチスラフ2せいプラハでボヘミアこういた。その治世ちせいはほぼぜん期間きかんにわたっておとうとたちとのあらそいにれた。ヴラチスラフ2せいは、1068ねんおとうとヤロミールをプラハ司教しきょうえると、ただちに新設しんせつ1063ねん)のオロモウツ教区きょうく地位ちい向上こうじょうさせ、プラハ司教しきょう地位ちい低下ていかさせた。ヤロミールにもボヘミア貴族きぞくなかおおくの支持しじしゃがおり、かれらはヴラチスラフの治世ちせいあいだ中絶ちゅうぜつあいだない抵抗ていこうつづけた。

ヴラチスラフ2せいつぎにモラヴィアにけた。かれはこの地域ちいき二分にぶんし、2人ふたりおとうとコンラートとオトにそれぞれまかせることとした。オロモウツの司教しきょうへの昇格しょうかくはモラヴィアを強化きょうかする目的もくてきもあった。また、宮廷きゅうていプラハじょうからヴィシェフラト移転いてんし、ここに有名ゆうめいコレギアト礼拝れいはいどう(プラハ)を創設そうせつした(1070ねん)。

うちには権力けんりょく強化きょうかし、そとには婚姻こんいん政策せいさくもちいて支援しえんしゃさがした。最初さいしょつまマリアに先立さきだたれたのち、2度目どめつまハンガリーおうアンドラーシュ1せいむすめアデルハイド(チェコめいアドレータ・ウヘルスカー)をむかえたが、彼女かのじょ死後しごポーランドおおやけカジミェシュ1せいむすめスヴァタヴァとの再婚さいこんによって、伝統でんとうてき関係かんけいくないボヘミアとポーランドの関係かんけい改善かいぜんしようとしたが、成果せいかがらず、1070ねんおよ1071ねんりょうくに境界きょうかい地域ちいき偶発ぐうはつてき戦闘せんとうこった。ボヘミアこうとポーランドこうはこの時点じてんではローマおうおよローマ皇帝こうてい)の家臣かしんであるため、1071ねんあきハインリヒ4せいはヴラチスラフ2せいボレスワフ2せい両者りょうしゃマイセンし、平和へいわ協定きょうていむすぶよう強要きょうようした。しかしこの和平わへい長続ながつづきせず、ボレスワフ2せいはそのすぐにボヘミアに侵攻しんこう開始かいししたと推測すいそくされる。ハインリヒ4せい1072ねんにこれにこたえて出兵しゅっぺいしたが、教皇きょうこうグレゴリウス7せいとのたたかい(叙任じょにんけん闘争とうそう)のためにこれを遂行すいこうすることはできなかった。

それでもヴラチスラフ2せいはハインリヒ4せい緊密きんみつ関係かんけいたもった。かれザクセン貴族きぞくとのたたかい(ザクセン戦争せんそう)においてもっと重要じゅうようなハインリヒ4せい支援しえんしゃであり、ボヘミアはこの時代じだいシュレージエンをめぐるポーランドとの国境こっきょう紛争ふんそうがあったにもかかわらず、ホムベルクのたたかい(1075ねん)やフラルヒハイムのたたかい(1080ねん)に参戦さんせんし、反乱はんらんこしたドイツ貴族きぞく討伐とうばつし、イタリア出兵しゅっぺいした。1076ねん、ザクセン戦争せんそう勝利しょうりしたハインリヒ4せいは、ヴラチスラフ2せいにマイセン辺境へんきょうはくりょうラウジッツ辺境へんきょうはくりょうおよびザクセンのオストマルク地方ちほうまかせた。

ハインリヒ4せいがこのりょう地域ちいきにさらにいくつかのしょう領域りょういきくわえてヴラチスラフ2せいあたえたのは、バイエルン公国こうこく一部いちぶオーストリア辺境へんきょうはくりょうとしたわせであった。ヴラチスラフ2せいはこの地域ちいきさえようとこころみたが、1082ねん5月12にちにはマイルベルクでオーストリア辺境へんきょうはくレオポルト2せい勝利しょうりしたにもかかわらず、このこころみは成功せいこうしなかった。

1085ねんには、オーストリアにあった領土りょうどまでも手放てばなさなくてはならなくなったが、マインツ王国おうこく会議かいぎでハインリヒ4せいはボヘミアとポーランドの王位おういをヴラチスラフ2せいさづけた。ポーランド王位おういがポーランド全域ぜんいきたいして実効じっこうせいがあったわけではけっしてないが、この称号しょうごうはシュレージエン地方ちほう確実かくじつにボヘミアりょうまれたことを意味いみし、相当そうとう威信いしん獲得かくとくすることが出来できたのである。1086ねん6月15にち、ヴラチスラフ2せいはプラハでトリーア大司教だいしきょうエーギルベルトによって、ボヘミアおう(ボヘミアおうとしてはヴラチスラフ1せい)として戴冠たいかんされた。

ヴラチスラフ2せい晩年ばんねん統治とうちは、ボヘミアにもモラヴィアにも権威けんいとど安定あんていしたものであった。しかし、おとうとコンラート・フォン・ブリュンや、長男ちょうなんブジェチスラフ2せいとの対立たいりつ先鋭せんえいした。1092ねんりの途中とちゅう事故じこ落馬らくばしてくなり、遺体いたいヴィシェフラドほうむられた。2結婚けっこんにより4にん息子むすこがいたが、かれらはちち死後しごすぐに後継こうけいしゃあらそいをはじめ、ボヘミア王位おうい消滅しょうめつした。ボヘミア王位おうい復活ふっかつするのは3なんヴラジスラフ1せいまごである曾孫そうそんオタカル1せいだいである。

子女しじょ[編集へんしゅう]

2度目どめつまアーデルハイトとのあいだ2人ふたりもうけた。

3度目どめつまスヴァタヴァとのあいだに5にんもうけた。

先代せんだい
スビチフニェフ2せい
ボヘミアの君主くんしゅ
1061ねん - 1092ねん
次代じだい
コンラート1せい
先代せんだい
エクベルト2せい
マイセン辺境へんきょうはく
1076ねん - 1089ねん
次代じだい
ハインリヒ1せい