ダルマチア王国おうこく

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ダルマチア王国おうこく
(ダルマティア王国おうこく
Kraljevina Dalmacijahr
Königreich Dalmatiende
Regno di Dalmaziait
イリュリア州 1815ねん - 1918ねん スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
ダルマチア王国 (ダルマティア王国)の国旗 ダルマチア王国 (ダルマティア王国)の国章
国旗こっきくにあきら
ダルマチア王国 (ダルマティア王国)の位置
1914ねんオーストリア=ハンガリー帝国ていこくにおけるダルマチア王国おうこく位置いち。(あか
公用こうよう クロアチア
ドイツ
イタリア
宗教しゅうきょう ローマ・カトリック
首都しゅと ザダル
元首げんしゅオーストリア皇帝こうてい
1815ねん - 1835ねん フランツ1せい
1835ねん - 1848ねんフェルディナント1せい
1848ねん - 1916ねんフランツ・ヨーゼフ1せい
1916ねん - 1918ねんカール1せい
ダルマチア総督そうとく
1815ねん - 1831ねん初代しょだいフランニョ・トマシッチ
1911ねん - 1918ねん(18だいマリオ・アテムス
変遷へんせん
ウィーン会議かいぎ 1815ねん6がつ22にち
スロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこく独立どくりつ1918ねん10がつ29にち
通貨つうかオーストリア=ハンガリー・グルデン(1815-1892)
オーストリア=ハンガリー・クローネ(1892-1918)
現在げんざいクロアチア共和国くろあちあきょうわこく
モンテネグロ
クロアチア歴史れきし
クロアチア国章
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クロアチア ポータル

ダルマチア王国おうこくクロアチア: Kraljevina Dalmacija; ドイツ: Königreich Dalmatien; イタリア: Regno di Dalmazia)またはダルマティア王国おうこくは、1815ねんウィーン会議かいぎから1918ねんオーストリア=ハンガリー帝国ていこく解体かいたいまで存在そんざいしたオーストリア帝国ていこくおよびオーストリア=ハンガリー帝国ていこく構成こうせいこくひとつであり、オーストリアみかどかんむりりょうぞくしていた。ダルマチア全域ぜんいき領有りょうゆうし、首都しゅとザダルかれていた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

だいいちたいふつだい同盟どうめいなかの1796ねんフランス共和きょうわこくイタリア遠征えんせい開始かいしし、司令しれいかんであったナポレオン・ボナパルトハプスブルクりょうであったミラノ公国こうこくマントヴァ公国こうこくへと侵攻しんこうした。ナポレオンぐん敗走はいそうするオーストリアぐんって中立ちゅうりつこくであったヴェネツィア共和きょうわこくりょうにも侵入しんにゅうし、翌年よくねん2がつ2にちにはだいいちマントヴァ包囲ほういせんでも勝利しょうりした[1]。4月18にち休戦きゅうせんのため締結ていけつされたレオーベン条約じょうやくでヴェネツィア共和きょうわ国領こくりょうをオーストリアに割譲かつじょうすることが決定けっていし、10月18にちには講和こうわ成立せいりつしてカンポ・フォルミオ条約じょうやく調印ちょういんされた。この条約じょうやくハプスブルク帝国ていこくオーストリアりょうネーデルラント放棄ほうきし、チザルピーナ共和きょうわこく独立どくりつみとめた。フランスはヴェネツィア共和きょうわこくのオーストリアへの併合へいごうみとめ、ヴェネツィアりょうであったダルマチアはオーストリアの支配しはいかれた。

ヴェネツィアりょうダルマチアには、きたラブとうとカルロバーグからアドリア海あどりあかい沿岸えんがんくだってみなみブドヴァまでの領域りょういきふくまれていたが、ラグサ共和きょうわこくドゥブロヴニク)は1808ねんまで独立どくりつ維持いじしていた。 1804ねんフランツ2せいが(フランツ1せいとして)オーストリア皇帝こうてい名乗なのったさいには「ダルマチアおう」も名乗なのったが、アウステルリッツのたたかでオーストリアが敗北はいぼくして1805ねんプレスブルクのやくむすばれると、ダルマチアはフランスに割譲かつじょうされてイリュリアしゅう一部いちぶとなった。 1814ねんから15ねんにかけておこなわれたウィーン会議かいぎによってダルマチアときゅうラグサ共和きょうわ国領こくりょうふたたびオーストリアりょうとなると、この地域ちいきにダルマチア王国おうこく成立せいりつした。

1850ねんごろ、オーストリアはコトルわん海上かいじょう交通こうつう管理かんりするためにプレヴラカ要塞ようさい建設けんせつした。 1848ねんハンガリー革命かくめいさい、ダルマチアは一時いちじてきクロアチア王国おうこくバンヨシップ・イェラチッチ支配しはいにあったが、ダルマチア国会こっかい多数たすうめたイタリア話者わしゃたちはオーストリアみかどかんむりりょうとしての王国おうこく自治じちとなえ、クロアチア国家こっか復興ふっこうにおけるクロアチア・スラヴォニアおよびダルマチアさんじゅう王国おうこく実現じつげん要求ようきゅう反対はんたいした。 1867ねんアウスグライヒでダルマチア王国おうこくクロアチア=スラヴォニア王国おうこく統一とういつ否定ひていされ、クロアチア=スラヴォニア王国おうこくハンガリー王冠おうかんりょうぞくする一方いっぽう、ダルマチア王国おうこくオーストリアみかどかんむりりょうぞくしていた

ダルマチア王国おうこくは、1918ねんまでオーストリア=ハンガリー帝国ていこくうち独立どくりつした行政ぎょうせい区画くかくであったが、だいいち世界せかい大戦たいせん帝国ていこく崩壊ほうかいすると、イタリア王国おうこく併合へいごうされたザダルラストヴォとうパラグルジャとうのぞいてスロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこくの、そのセルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこくのユーゴスラビア王国おうこく)の一部いちぶとなった。1921ねんヴィドヴダン憲法けんぽうによって、王国おうこくだい部分ぶぶんはスプリットしゅうとドゥブロヴニクしゅう分割ぶんかつされ、コトルわんはゼータしゅう一部いちぶになった。

ハプスブルク帝国ていこく時代じだい[編集へんしゅう]

ぜんダルマチアのおおくの労働ろうどうしゃ市民しみんは、1797ねんヴェネツィア共和きょうわこく滅亡めつぼう間際まぎわ反乱はんらんこした。

ダルマチアとクロアチア王国おうこくスラヴォニア王国おうこく統一とういつもとめる強力きょうりょく運動うんどう(クロアチア国家こっか復興ふっこう)がこり、フランシスコかいおおくの聖職せいしょくしゃ参加さんかした。たとえばゴルンジ・カリンむらでは集会しゅうかいひらいて統一とういつ要求ようきゅうした[2]運動うんどうにはスプリット大司教だいしきょうレリエ・チピコ、マカルスカ司教しきょう、そして正教会せいきょうかい聖職せいしょくしゃらもくわわり、1797ねん6がつにはウィーンおとずれて大公たいこう統一とういつ承認しょうにんもとめる計画けいかくてて代表だいひょうだん結成けっせいしたが、1797ねん10がつ18にちフランスハプスブルク帝国ていこくあいだ調印ちょういんされたカンポ・フォルミオ条約じょうやくによってダルマチアはオーストリアの支配しはいはいったため、わりにクロアチアのバン連絡れんらくすることにした[2]。この条約じょうやくによってきゅうヴェネツィアりょうは2つのしゅう分割ぶんかつされ、ハプスブルク帝国ていこくイストリアとダルマチアを獲得かくとくした。やく4,000にん兵士へいしようするオーストリアぐんは、あらたに獲得かくとくした領土りょうど主張しゅちょうする軍事ぐんじ作戦さくせんをクロアチアの将軍しょうぐんマティアス・ルカビナ・フォン・ボイノグラードの指揮しきおこなった。ダルマチア、クロアチア、スラヴォニアの統一とういつ支持しじするルカビナはダルマチアの軍政ぐんせいかん任命にんめいされ、民衆みんしゅう聖職せいしょくしゃはクロアチアじん主導しゅどう軍隊ぐんたい到着とうちゃくよろこんでいた。 [3]しかし、ダルマチアはあらたな領土りょうどとしてあつかわれたために自治じち政府せいふかれず、オーストリア政府せいふ直轄ちょっかつとされた。1798ねん、ダルマチア総督そうとく筆頭ひっとうとする王立おうりつ政府せいふクロアチア: Carska i kraljevska Vlada  ;イタリア: Cesareo Regio Governo )がザダル設立せつりつされた。総督そうとく官僚かんりょうはダルマチアおうオーストリア大公たいこう)によって任命にんめいされ、ヴェネツィアの「イストリア・ダルマチアおよびアルバニア宮廷きゅうてい委員いいんかいクロアチア: Carsko i kraljevsko dvorsko povjerenstvo za Istru, Dalmaciju i Albaniju  ;イタリア: Ces. Reg. commissione aulica per l'Istria, Dalmazia ed Albania)の、1802ねん以後いごは「ダルマチアおよびコトルわんウィーン王室おうしつクロアチア: Sekcija za Dalmaciju i Boku kotorsku Dvorske kancelarije )の管轄かんかつかれた。また、ダルマチアは行政ぎょうせい裁判所さいばんしょ地区ちく分割ぶんかつされ、司法官しほうかん裁判官さいばんかんおさめていた。行政ぎょうせい裁判所さいばんしょツレスクルクラブパグザダルニンノヴィグラード(ザダルぐんのもの)、 スクラディン、シベニククニンシニトロギルスプリット、 クリス 、オミシュ、ブラチフヴァルコルチュライモツキマカルスカポルイカメトコヴィチかれていた。1802ねん宮廷きゅうていはダルマチアとクロアチア王国おうこくおよびスラヴォニア王国おうこく統一とういつ要請ようせい公式こうしき却下きゃっかした。フランスりょうになるまで、オーストリア政府せいふ既存きそん統治とうち機構きこうをあまりえず、教育きょういく司法しほうかぎられた改革かいかくしか実施じっししなかった。特筆とくひつすべきことは1803ねん、ザダルにギムナジウム開設かいせつされたこと程度ていどである。アウステルリッツでオーストリアがナポレオンに敗北はいぼくして1805ねんプレスブルクのやくむすばれると、その規定きていしたがってダルマチアはフランス帝国ていこくわたされ、フランスの従属じゅうぞくこくであるイタリア王国おうこくへと併合へいごうされた。こうして、オーストリアによるダルマチア統治とうちいちわった。

フランス帝国ていこく時代じだい[編集へんしゅう]

プレスブルクのやくにより、ナポレオンはダルマチアのぎのためガブリエル・ジャン・ジョセフ・モリトール将軍しょうぐん派遣はけんした。 1806ねん2がつ、フランスはネレトヴァがわまでのダルマチア北部ほくぶ占領せんりょうした。一方いっぽうやくによってフランスりょうとなったコトルわんモンテネグロ主教しゅきょうりょうとその保護ほごしゃであるロシア帝国ていこくによって占領せんりょうされた。さらにモンテネグロはロシア海軍かいぐん支援しえんけてコルチュラとう占領せんりょうし、ラグサ共和きょうわこくをも占領せんりょうしようとした[4]

ラグサ共和きょうわこく終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

 プレスブルクのやくで、フランスはダルマチアとコトルわん全権ぜんけん獲得かくとくした。そして、そのあいだ位置いちしていたラグサ共和きょうわこくドゥブロヴニク)は、ダルマチアとコトルわんあいだ陸上りくじょう交通こうつう障壁しょうへきとなっていた[5]。ナポレオンぐん弱体じゃくたいしたオスマン帝国ていこくがにはさまれることとなった共和きょうわこくは、もはや安全あんぜんたもてず[6]、1806ねん5がつ27にちモンテネグロとロシア海軍かいぐんによって危険きけんにさらされたラグサ共和きょうわこくは、フランスぐん抵抗ていこうすることなく降伏ごうぶくした。すなわち、ジャック・アレクサン将軍しょうぐん指揮しきにあるやく1,200にん兵士へいしからなるフランス戦隊せんたいが、いつわりのふりをしてまちはいったのである。フランスぐんがドゥブロヴニクにはいってから、後背こうはいのセルビアじん支援しえんけたモンテネグロ=ロシア連合れんごうぐんによるオスマン帝国ていこくでの軍事ぐんじ作戦さくせんはじまった。結果けっか1806ねん10がつはじめ、オーギュスト・マルモン将軍しょうぐん手助てだすけによって、敵対てきたいしたロシアぐん共和きょうわ国領こくりょうから追放ついほうされ、そのまもなくフランスがラグサ共和きょうわこく政府せいふいだ。多数たすうのフランスぐん駐屯ちゅうとんはドゥブロヴニクを財政ざいせいてき疲弊ひへいさせた。ラグサ海軍かいぐん地中海ちちゅうかいみなと破壊はかいまたは喪失そうしつされ、後背こうはいとのこう利潤りじゅんだった貿易ぼうえき中断ちゅうだんされた。1808ねん1がつ31にち、マルモン将軍しょうぐんはナポレオンの承認しょうにんてドゥブロヴニクの議会ぎかい解散かいさんし、ラグサ共和きょうわこく廃止はいしした。共和きょうわこく廃止はいし、コトルわんのあるドゥブロヴニク地域ちいきイタリア王国おうこく支配しはいかれ、1810ねんから1814ねんあいだはフランスのイリュリアしゅうふくまれていた。

フランス帝国ていこく時代じだいのダルマチア[編集へんしゅう]

オーギュスト・マルモン元帥げんすい、フランス統治とうち時代じだい(1806-1813)のダルマチアのぐん司令しれいかん

ダルマチア占領せんりょうまもなく、ナポレオンはヴィンチェンツォ・ダンドロ将軍しょうぐんをダルマチア総督そうとく(Prov(v)editore Generale)に任命にんめいし(1806ねん4がつ28にち任命にんめい)、オーギュスト・マルモン将軍しょうぐんをダルマチアぐん司令しれいかん任命にんめいした(1806ねん6がつ12にち任命にんめい)。フランスりょうダルマチアは、首都しゅとミラノいていたイタリア王国おうこく行政ぎょうせいてきむすびついていた。 1809ねん10がつ14にちシェーンブルンのやくによりイリュリアしゅう創設そうせつされ[7]、ダンドロ将軍しょうぐん筆頭ひっとうとするダルマチア政府せいふイタリア: La Proveditura Generale )がザダルかれてイタリア公用こうようになった。ダルマチアの利権りけんは、ミラノのイタリア王国おうこく中央ちゅうおう政府せいふはたらいていたいわゆるダルマチア大臣だいじんによって(正式せいしきにのみ)提唱ていしょうされた。 イヴァン・ストラティコはながあいだ大臣だいじんつとめていた。ダルマチア政府せいふ部門ぶもんちょうひきいる6つの部門ぶもん司法しほう内務ないむ財務ざいむ軍事ぐんじ教育きょういく会計かいけい)に分割ぶんかつされ、さらには1人ひとり警察けいさつ監督かんとくかん1人ひとりぐん監督かんとくかんがいた。それらすべては事務じむ総長そうちょうイタリア: Segretario Generale)が管轄かんかつしていた。ダルマチアそう議会ぎかいイタリア: Consiglio Generale della Dalmazia )は諮問しもん機関きかんであり、地区ちく住民じゅうみんかずおうじてかく地区ちくから1にん以上いじょう政府せいふによってえらばれた48にん議員ぎいん構成こうせいされていた。最初さいしょ議員ぎいん政府せいふのみによって任命にんめいされたが、その毎年まいとし12にん辞任じにんし、議会ぎかいがリストを提案ていあんしてそこから政府せいふが12にんあたらしい候補者こうほしゃえらぶという形式けいしき任命にんめいした。議会ぎかいでは総督そうとく議長ぎちょうつとめ、ダルマチアのしょ問題もんだいについて議論ぎろんしていた。議会ぎかい決定けっていは、総督そうとく正式せいしき認可にんかのちにのみ有効ゆうこうであった[8]

司法しほう行政ぎょうせいから分離ぶんりされていた。 すべての地区ちく特別とくべつ重要じゅうよう地域ちいきに22の地方裁判所ちほうさいばんしょイタリア: Giudici Locali o di Pace)があった。ザダルスプリトドゥブロヴニクには、地方裁判所ちほうさいばんしょとすべての民事みんじ刑事けいじ裁判さいばんだいいちしん裁判所さいばんしょ控訴こうそさきである高等こうとう裁判所さいばんしょかれた。さらに、裁判所さいばんしょ評決ひょうけつたいする控訴こうそ裁判所さいばんしょがザダルにかれ、ミラノには最高さいこう裁判所さいばんしょイタリア: Tribunale di Cassazione)がかれた。当初とうしょ意図いとフランス民法みんぽうてん(ナポレオン法典ほうてん導入どうにゅうであったが、とく財産ざいさん相続そうぞく婚姻こんいん問題もんだいにおける一般いっぱんてき認識にんしき慣習かんしゅうちがいのため実行じっこう不可能ふかのうであることがすぐにあきらかになった。したがって、フランスの法律ほうりつくわえてオーストリアとヴェネツィアの法律ほうりつ暗示あんじされていた。ほうした平等びょうどうもこのとき導入どうにゅうされた[8]

ダルマチアはぐん地区ちくむらけられた。具体ぐたいてきべると、ダルマチアはザダル、シベニク、スプリト、マカルスカの4つのぐん分割ぶんかつされ、ザダルぐんは6つ(ザダルクルクツレスロシニラブパグ)、シベニクぐんは3つ(シベニク、スクラディン、クニン)、スプリットぐんは5つ(スプリトトロギルシニ、ネレジシュチャ、フヴァル)、マカルスカぐんは3つ(マカルスカイモツキコルチュラ)の地区ちく分割ぶんかつされた。ぐんそうかんイタリア: Delegato )が、地区ちくふく総監そうかんイタリア: Vice-delegato)が、市長しちょうが、むら長老ちょうろうイタリア: Capitani-anziani )が統治とうちしていた。1809ねんティルジットのやくコトルわんがフランスりょうとなってイリュリアしゅう編入へんにゅうされると、ドミニク・ガラグニンが特別とくべつ総督そうとく任命にんめいされ、4つのぐんツァヴタットストン、ロプド、コトル)と2つの地区ちくヘルツェグ・ノヴィブドヴァ)を統治とうちした。

あらたな領土りょうど管理かんり機構きこうは、ダルマチアで運用うんようされてきたヴェネツィアがた統治とうち機構きこう根本こんぽんてきさい定義ていぎした。ヴェネツィア時代じだい統治とうち機構きこう一部いちぶ形態けいたい保持ほじされ、たとえば総督そうとく地位ちいや、軍事ぐんじ用語ようごでは改革かいかくされた国軍こくぐん機関きかんめいなどががれた。しかしフランスによる統治とうちあいだ、ダルマチアの経済けいざいてき繁栄はんえいについてはあまりかえりみられなかった。 [7]フランス統治とうちでのダルマチア文化ぶんか復興ふっこう最初さいしょ特徴とくちょうは、言語げんごかれた週刊しゅうかんIl Regio Dalmata – Kraglski Dalmatin」の発売はつばいであり、その創刊そうかんごうは1806ねん7がつ12にち発行はっこうされた。ダンドロ将軍しょうぐん到着とうちゃくしたときダルマチアには事実じじつじょう学校がっこうがなかったため、とく教育きょういくけられた。また、フランスはクロアチア北部ほくぶやボスニアの一部いちぶとの道路どうろ接続せつぞく画策かくさくした。あらたな道路どうろ建設けんせつはおそらく軍事ぐんじ戦略せんりゃくじょう利益りえきイギリスロシアによるアドリア海あどりあかい海上かいじょう封鎖ふうさかんして)によるものであったが、それらは経済けいざいてき目的もくてきでも使用しようされた。おおくのダルマチアじんとくフランシスコかい下級かきゅう聖職せいしょくしゃは、フランスが実施じっししたダルマチアの近代きんだい政策せいさくによって自治体じちたい企業きぎょうっていたおおくの特権とっけんしたため、「かみろんしゃジャコバン」がいるとしてフランス政府せいふきらっていた。

ダルマチア王国おうこく初代しょだい総督そうとくであるフランニョ・トマシッチ

ダルマチア王国おうこく時代じだい[編集へんしゅう]

りくもんKopnena Vrata)。1543ねんつくられ、ダルマチア王国おうこく首都しゅととなったザダルにあった(1909ねん)。

1811ねんにはすでにイギリスはヴィスとう占領せんりょうし、よく1812ねんにはラストヴォとうコルチュラとう、ペリェシャツ半島はんとうフヴァルとうツァヴタットドゥブロヴニクスプリト占領せんりょうした。コトルはロシアによって陥落かんらくさせられ、1813ねんライプツィヒのたたかでナポレオンが敗北はいぼくすると、オーストリア帝国ていこくイリュリアしゅう占領せんりょうした。ダルマチアの占領せんりょうは1813ねんあきからはじまり、フランニョ・トマシッチ将軍しょうぐんひきいる2,900にんクロアチアへいによって簡単かんたんげられた。これはダルマチアの聖職せいしょくしゃとくフランシスコかい指導しどうした、ダルマチアの民衆みんしゅう解放かいほうしゃとしてオーストリアぐんれたためである。ザダル降伏ごうぶく(12月6にち、トドール・ミルティノビッチ将軍しょうぐんがドゥブロヴニク(1814ねん1がつ27にち降伏ごうぶく)とコトルわん占領せんりょうするための軍事ぐんじ作戦さくせん開始かいしし、1814ねん6がつ完了かんりょうした。したがって、ズルマニャがわからブドヴァまでの範囲はんいふたたびオーストリアの支配しはいかれ、1815ねんウィーン会議かいぎ承認しょうにんされた[8]

ダルマチアにはあらたにしゅう政府せいふ設立せつりつされ、トマシッチ男爵だんしゃくはその総督そうとく任命にんめいされた。ラブとうからブドヴァにかけての地域ちいき統合とうごうするため、ウィーン裁判所さいばんしょ特別とくべつ領土りょうど単位たんいとしてダルマチア王国おうこく設立せつりつした。おな意図いとで、ローマ教皇きょうこうレオ12せいは1828ねん教皇きょうこう勅書ちょくしょせいペテロ御所ごしょラテン語らてんご: Locum Beati Petri)」を発布はっぷし、それによってスプリット大司教だいしきょうとドゥブロヴニク司教しきょうふくむすべてのダルマチア教区きょうくうえに、ザダル首都しゅと大司教だいしきょう管区かんく設立せつりつした[9]。 1816ねんから1822ねんあいだに、中央ちゅうおう政府せいふ王国おうこく政府せいふのすべての組織そしきがザダルに設立せつりつされた。司法しほう再編さいへんおこなわれ、これらの行政ぎょうせいおよび司法しほう機関きかんは1852ねんまたは1854ねんまで、一部いちぶは1868ねんまで機能きのうした。このように行政ぎょうせい全体ぜんたい改革かいかくされ、あらたに成立せいりつした司法しほう機関きかんおよびしゅう統治とうち機関きかんは、わずかな変更へんこうくわえられながら1918ねんまでダルマチア王国おうこく存在そんざいつづけた。1861ねんがつ特許とっきょ規定きていによってダルマチア国会こっかい設立せつりつされた。オーストリア政府せいふはダルマチアを帝国ていこくつなめるため、おもオーストリア大公たいこうこくきたイタリア(ウィーン会議かいぎ以後いごオーストリアが支配しはい)から公務員こうむいんをダルマチアに派遣はけんしていた[10]。1832ねんヴェレビト山脈さんみゃくのマリ・アランとうげとおあらたな道路どうろ開通かいつうし、ダルマチアとクロアチア大陸たいりくむす唯一ゆいいつ交通こうつうとなった。また、このダルマチア王国おうこく時代じだいにオーストリア政府せいふ学校がっこうやした。 1839ねんまでに50こうが、1846ねんまでにやく150こうひらかれ、児童じどうの3ぶんの1が在籍ざいせきしていた。学校がっこうでのクロアチア教育きょういくはほとんど例外れいがいで、イタリア教育きょういくよりもすくなかった。

ダルマチアでのクロアチア国民こくみん復興ふっこう[編集へんしゅう]

フランスとオーストリアの統治とうちクロアチア王国おうこくにおけるイリュリア運動うんどう思想しそうは、ダルマチアでのクロアチア国民こくみん意識いしき目覚めざめにおおきく貢献こうけんした。1835ねん、ボジダル・ペトラノヴィッチザダルで「セルビア=ダルマチア雑誌ざっしクロアチア: Srbsko-dalmatinski magazin)の印刷いんさつはじめ、1844ねんにはアンテ・クズマニッチが「ダルマチアの黎明れいめい」(クロアチアZora dalmatinska)という雑誌ざっしげた。そして、それまで聖職せいしょくしゃによってのみ奨励しょうれいされていたダルマチアの言語げんごてきおよび国家こっかてき認識にんしき確立かくりつはじめた。しょ国民こくみんはる当初とうしょヴェネツィア共和きょうわこく再建さいけんのぞんでいたマルコ主義しゅぎしゃ(ヴェネツィアの守護しゅご聖人せいじんひじりマルコであることからこう呼称こしょうされる)と、ハプスブルク支持しじする君主くんしゅ主義しゅぎものとのあいだ政治せいじてき分裂ぶんれつこした選挙せんきょ制度せいどにより裕福ゆうふくイタリアじん都市としとその議会ぎかい完全かんぜん支配しはいしていたため、ダルマチアとクロアチアの統一とういつのための「どうどうかたりのダルマチア兄弟きょうだい」へのクロアチア王国おうこくぐん議会ぎかい市議会しぎかい提案ていあん拒否きょひされた。しかし、なおもクロアチア国家こっか運動うんどう非常ひじょう強力きょうりょくでありつづけた。自治じちとう統一とういつ拒否きょひしたことにたいして、ダルマチア後背こうはい牧師ぼくしらと住民じゅうみんらはクロアチアのバンであるヨシップ・イェラチッチ書状しょじょうおくり、かれらはまだ統一とういつもとめており、反対はんたい非常ひじょう少数しょうすうであるとべた。 1848ねん12月、オーストリア皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せいはイェラチッチをダルマチア総督そうとく任命にんめいした。これはスプリトザダル(いずれも自治じちとう統治とうち)によって反対はんたいされたが、クロアチアじんとくドゥブロヴニクのクロアチアじんおおきな期待きたいってイェラチッチと面会めんかいした。しかし、結局けっきょく提案ていあんはほとんど実現じつげんされなかった[11]。イェラチッチの役割やくわりだい部分ぶぶん儀式ぎしきてきなままであり、ウィーンの裁判所さいばんしょ統一とういつかんするいかなる議論ぎろん拒否きょひしたことが理由りゆうとしておおきい。 1851ねん、イェラチッチはダルマチアをおとずれ、ドブロタで格別かくべつ熱意ねついとともに歓迎かんげいされた[12]。また、統一とういつ反対はんたいしゃとくにイタリアじん)に対抗たいこうするためクロアチアじんはダルマチアちゅうに、おもに「スラヴ」のかんした公立こうりつ図書館としょかん文化ぶんか社会しゃかい設立せつりつした。こうした運動うんどう結果けっか政府せいふはクロアチアをダルマチアの学校がっこうだい言語げんごとしておしえることを決定けっていした。しかしそれでもクロアチアおしえられている学校がっこうおおくなかったため、フランシスコかいは1854ねんシニ最初さいしょのクロアチアギムナジウム設立せつりつした。

人民じんみんとう自治じちとう対立たいりつ[編集へんしゅう]

ミホヴィル・パヴリノヴィッチは、ダルマチア・クロアチア・スラヴォニアの統一とういつ提唱ていしょうしたもっと著名ちょめい人物じんぶつ1人ひとりであった。

1860ねんオーストリア皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい帝国ていこく憲法けんぽうじょう政治せいじじょうのありかた更新こうしんすると決定けっていし、拡張かくちょうされた帝国ていこく議会ぎかい召集しょうしゅうした。クロアチア王国おうこくおよスラヴォニア王国おうこく代表だいひょうであるアンブローズ・ヴラニツァニとヨシプ・ユーライ・シュトラスマイエルは、クロアチア=スラヴォニア王国おうこくとダルマチア王国おうこく統一とういつについて疑問ぎもんげかけた。ダルマチアの代表だいひょうであるフラーネ・ボレーリは、イタリアじんたしかにダルマチアの少数しょうすうであるとべたが、イタリアじん統一とういつ適切てきせつ時期じきであるとはしんじていないともべた。当時とうじ、ダルマチアには2つの対立たいりつする政党せいとう存在そんざいした。ミホ・クライッチとミホヴィル・パヴリノヴィッチがひきいるクロアチア民族みんぞく主義しゅぎ革新かくしんである人民じんみんとうと、アントニオ・バジャモンティとルイージ・ラペンノがひきいるイタリア民族みんぞく主義しゅぎ保守ほしゅである自治じちとうである。自治じちとうは、ダルマチア総督そうとくラザル・マムラ、ザダルスプリトのいくつかのちいさな都市とし地方自治体ちほうじちたい、そして統一とういつ成立せいりつした場合ばあいクロアチア=スラヴォニア王国おうこくハンガリー王国おうこく、そしてオーストリア帝国ていこく全体ぜんたい弱体じゃくたいすることをおそれたウィーン裁判所さいばんしょによって支持しじされていた。一方いっぽう人民じんみんとうは、スタリー・グラード、ヴルボスカ、メトコヴィチボルドゥブロヴニクコトル支持しじされていた。人民じんみんとう政策せいさく要点ようてんは、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニアの統一とういつと、行政ぎょうせい教育きょういくにおけるクロアチア導入どうにゅうであった。

1860ねんザグレブ開催かいさいされたバン会議かいぎ招集しょうしゅうさいに、ダルマチアの代表だいひょう統一とういつについて議論ぎろんするため招待しょうたいされたが、マムラに支持しじされる自治じちとうは、会議かいぎ主導しゅどう妨害ぼうがいした[13]。ダルマチア国会こっかいは1861ねん最初さいしょ召集しょうしゅうされ、ダルマチア人口じんこうやく20%をめるにぎないだい地主じぬし書記官しょきかん裕福ゆうふく市民しみん代表だいひょうおおきな利点りてんっていた不公平ふこうへい選挙せんきょ制度せいど影響えいきょうもあり、自治じちとう議席ぎせき過半数かはんすうめた。こうして成立せいりつした国会こっかいはダルマチア王国おうこくのクロアチア王国おうこくおよびスラヴォニア王国おうこくとの統一とういつこばんだ。1866ねんこったひろしおう戦争せんそうともなだい3イタリア独立どくりつ戦争せんそうではヴィスとうおきリッサ海戦かいせんおこなわれ、オーストリアはりょう戦争せんそうでの敗北はいぼくによって回収かいしゅうのイタリアのぞきたイタリア喪失そうしつした。よく1867ねんアウスグライヒによってオーストリア=ハンガリー帝国ていこく成立せいりつすると、オーストリアみかどかんむりりょうハンガリー王冠おうかんりょう分裂ぶんれつ強化きょうかされ、ダルマチア王国おうこくとクロアチア王国おうこくおよびスラヴォニア王国おうこく統一とういつとおざかった。これをけて野党やとうである人民じんみんとうはダルマチアをクロアチアするための政治せいじ文化ぶんかてき闘争とうそう再帰さいきし、とく学校がっこう教育きょういく焦点しょうてんてて教育きょういく言語げんごとしてのクロアチア導入どうにゅうもとめた。この目的もくてきは、自治体じちたい管轄かんかつであった学校がっこう教育きょういく課程かていくわえることで、自治体じちたいでの支持しじ獲得かくとくすることであった[14]。1862ねん人民じんみんとうイタリア母語ぼごとする有権者ゆうけんしゃ支持しじ獲得かくとくするために、イタリア週刊しゅうかん「Il Nazionale」をげた。人民じんみんとうのちにクロアチア週刊しゅうかんNarodni list」の発行はっこう開始かいしした。1869ねん、ミホヴィル・パヴリノヴィッチはクロアチアの政治せいじ計画けいかくHrvatska misao」をしるし、クロアチア独立どくりつ権利けんりとダルマチアをふくむすべての「歴史れきしてきなクロアチアの領土りょうど」をふく統一とういつ立憲りっけんクロアチア国家こっか設立せつりつ提唱ていしょうした。

1869ねん10がつ、クリヴォシイェ蜂起ほうきばれる武装ぶそう蜂起ほうきコトルわん後背こうはいのクリヴォシイェで発生はっせいした。 [15]この蜂起ほうきは、1866ねんあまねおう戦争せんそうにおけるケーニヒグレーツのたたかでのオーストリア帝国ていこくたいするプロイセン王国おうこく決定的けっていてき勝利しょうりによって、帝国ていこく政府せいふ伝統でんとうてき徴兵ちょうへい免除めんじょされていたクリヴォシイェの民衆みんしゅう強制きょうせい徴兵ちょうへいしたことで発生はっせいした。徴兵ちょうへいせいによって水夫すいふうみでの労働ろうどううばわれ、やまんでいた人々ひとびと武装ぶそう解除かいじょによってヘルツェゴビナ大小だいしょううし機会きかいうしなった。徴兵ちょうへいせいふたた廃止はいしされ、民衆みんしゅう武器ぶき保有ほゆう許可きょかされたのは、1870ねん1がつ11にち和平わへい協定きょうてい締結ていけつされたときであった[16]

人民じんみんとう自治じちとうあいだ緊張きんちょうたかまるにつれて、ますます衝突しょうとつはげしくなっていった。 1869ねん7がつ31にち水路すいろがく視察しさつのイタリアせんで、イタリアの船員せんいんとクロアチアのシベニク市民しみんとが衝突しょうとつし、14にんのイタリアじん船員せんいんすうにんのクロアチアじん重傷じゅうしょうった。この衝突しょうとつイタリア王国おうこくとオーストリア・ハンガリー帝国ていこくあいだ外交がいこう問題もんだい発展はってん、モンツァンバーノ事件じけんとしてられている[17]。この期間きかん人民じんみんとうはより組織そしきされ、ダルマチア後背こうはい島嶼とうしょ徐々じょじょ勢力せいりょく拡大かくだい、1870ねん選挙せんきょではつい国会こっかい議席ぎせき過半数かはんすう獲得かくとくした。 1873ねん2がつ15にちとうはシベニクでの選挙せんきょ勝利しょうりし、アンテ・シュプクが市長しちょう選出せんしゅつされた。主要しゅよう都市としでははつ勝利しょうりであった。1882ねんには、自治じちとうじゅん軍事ぐんじ組織そしきによる脅迫きょうはく暴力ぼうりょくしのけて人民じんみんとうのガジョ・ブラトが自治じちとうのアントニオ・バジャモンティをやぶり、スプリト市長しちょうとなった。そのまもなく、人民じんみんとうスタリー・グラードトロギルでも勝利しょうりし、自治じちとうザダル以外いがい主要しゅよう都市としうしなった。人民じんみんとう躍進やくしんによって、1883ねん、クロアチアはダルマチア国会こっかい公用こうようとなった。

同時どうじに、クロアチア学校がっこう新設しんせつすすんだ。 1866ねんにはクロアチア教師きょうし学校がっこうクロアチア: Hrvatska učiteljska škola )がザダルにちかいアルバナシで開校かいこうされ、1883ねん時点じてんで、クロアチア教育きょういくおこな小学校しょうがっこうやく300こう高校こうこうは3こうドゥブロヴニクコトルスプリト)もの規模きぼになっていた。さらに1898ねんには、クロアチアギムナジウムがザダルに開設かいせつされた。

セルビアじんとクロアチアじん分裂ぶんれつ[編集へんしゅう]

1893ねん5がつ20日はつか、ドゥブロヴニクのイヴァン・グンドゥリッチの記念きねん除幕じょまくしき様子ようす

ヴーク・カラジッチイリア・ガラシャニン、ヨヴァン・スボティッチらがダルマチアをセルビアの土地とちとしてしるし、1878ねんのベルリン会議かいぎセルビア王国おうこく独立どくりつこくとしてみとめられたのち、ダルマチアにおけるクロアチアじんセルビアじん関心かんしんあきらかになった。セルビアじんはダルマチアを「セルビアの土地とち」として継続けいぞくてき言及げんきゅうはじ[18]、ダルマチア出身しゅっしん多数たすうのクロアチアじん兵士へいし関与かんよ犠牲ぎせい、そしてボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア=スラヴォニア王国おうこく統一とういつ要求ようきゅうふくんだオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ共同きょうどう統治とうちこく占領せんりょうでクロアチアじん熱意ねついたかまると、クロアチアじんとセルビアじんあいだ軋轢あつれきはげしくなった。1879ねん、ブコヴィツァのセルビアじんたちは、人民じんみんとうのミホヴィル・クライチのわりに自治じちとうのイタリアじん候補者こうほしゃ投票とうひょうし、人民じんみんとうはこれをブコヴィツァ裏切うらぎんだ。そのまもなく、クロアチアじんとセルビアじん別々べつべつ政党せいとう設立せつりつされたが、クロアチアじんはダルマチア国会こっかい過半数かはんすうめてつづけていた。

1881ねん11月、コトルわん後背こうはいんでいたセルビアじんモンテネグロじん帝国ていこく国民こくみん義務ぎむである強制きょうせい徴兵ちょうへい不満ふまんいて反乱はんらんこしたが、スティエパン・ヨヴァノヴィッチ陸軍りくぐん元帥げんすいひきいるオーストリア陸軍りくぐんによって1882ねん5がつ鎮圧ちんあつされた。

1891ねん、フラーノ・スピロはセルビアじんによるダルマチアへの主張しゅちょう反対はんたいし、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニア王国おうこく統一とういつ支持しじして「あかいクロアチア(クロアチア: Crvena Hrvatska)」の出版しゅっぱんはじ[19]。1893ねん、ドゥブロヴニクにイヴァン・グンドゥリッチの記念きねんてられたさいには、クロアチアじんとセルビアじんあいだおおきな緊張きんちょうはしった。これは、おおくのクロアチアの高官こうかん政治せいじ芸術げいじゅつらがドゥブロヴニクをおとずれたことで、地元じもとのセルビアじんやメド・プチッチのようにセルビアの思想しそう支持しじする一部いちぶのドゥブロヴニク市民しみん人々ひとびとおもいにはんして、除幕じょまくしきがクロアチア国家こっか主義しゅぎ主張しゅちょうするわってしまったからであった。

いわゆる「しん方向ほうこうせい政策せいさく肯定こうていにより、セルビアじんとクロアチアじん関係かんけい改善かいぜんはじめ、これは1907ねん2がつ25にちのザダル解決かいけつへの署名しょめいによって確認かくにんされた。政治せいじのロヴロ・モンティ博士はかせは「セルビアじんともにあればおおくのことができる、かれらなくしてはわずかなことだけが、そしてかれらといがみあえばなにもできない」とべている[20]。1905ねんはじめてダルマチア出身しゅっしんのニコラ・ナルデリ(人民じんみんとう)が総督そうとく任命にんめいされ、1912ねんにはイタリア官公庁かんこうちょう裁判所さいばんしょ廃止はいしされた。ただし、オーストリア政府せいふ公式こうしき通信つうしんでイタリアとドイツ使用しようつづけていた。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1905ねん進水しんすいオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐんぜんいしゆみきゅう戦艦せんかんエルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス(エルツヘルツォーク・カールきゅう3ばんかん

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした直後ちょくご、オーストリア政府せいふしんセルビア、またはぜんみなみスラヴのための統一とういつ国家こっか創設そうせつ思想しそうつとしたすべての組織そしき禁止きんしし、これによっておおくの著名ちょめい政治せいじ迫害はくがい逮捕たいほされ、一部いちぶ国外こくがい移住いじゅうした。大戦たいせん初期しょきアドリア海あどりあかいでの交戦こうせんはなかったが、1915ねんロンドン条約じょうやくしたがってイタリア王国おうこく協商きょうしょうこくくわわると頻繁ひんぱん海戦かいせんおこなわれるようになり、連合れんごうこくによるオトラント海峡かいきょう封鎖ふうさによってアドリア海あどりあかい貿易ぼうえきはほぼ完全かんぜん停止ていしした。政府せいふ軍事ぐんじ目的もくてきおおくのふね募集ぼしゅうし、民間みんかん航海こうかいはほぼ完全かんぜん停止ていしされた。ばくげきおそれがあるため島嶼とうしょみなとでは強制きょうせい停電ていでんされ、金属きんぞく不足ふそくおおくの教会きょうかいかねはずされてかされ、戦争せんそう目的もくてき使用しようされた。ラストヴォとう周辺しゅうへんでも戦闘せんとうおこなわれていたためとうには砲台ほうだいかれ、1917ねんにはフランス陸軍りくぐん航空こうくうたいがラストヴォを爆撃ばくげきした[21]

ダルマチア王国おうこくでは飢餓きが欠乏けつぼうあらわはじめたが、ハンガリー王国おうこくほうでは戦時せんじにオーストリアみかどかんむりりょう(ダルマチアはそのであった)へ食料しょくりょう輸出ゆしゅつすることは禁止きんしされていた。であるために陸上りくじょう支援しえんけられないダルマチア王国おうこく帝国ていこく直属ちょくぞく都市としトリエステつうじて食糧しょくりょう援助えんじょけたが、そのりょう不十分ふじゅうぶんであり、ときにはまったくに機能きのうせず、到着とうちゃくおそすぎることもあった(たとえば、1917ねんけの物資ぶっしは1918ねん到着とうちゃくした[22] )。こうした事態じたいけてフランシスコかいザグレブ寄付きふしゃは、ダルマチアの子供こどもスラヴォニアモスラヴィナおくり、十分じゅうぶん栄養えいよう摂取せっしゅできるよう活動かつどうする団体だんたい組織そしきした。大戦たいせんはダルマチアの農業のうぎょう破壊はかいしたうえ戦争せんそう末期まっきにはチフスコレラ天然痘てんねんとうスペイン風邪かぜ流行りゅうこうし、おおくの犠牲ぎせいしゃ[22]

1915ねんには、クロアチアじんオーストリア・ハンガリー海軍かいぐんへいの34%をめていた[23]海軍かいぐんとはべつに、ダルマチアおう国民こくみん陸上りくじょう部隊ぶたい、すなわちだい22帝国ていこく連隊れんたいだい23ザダル帝国ていこく防衛ぼうえい連隊れんたいだい37ドゥブロヴニク帝国ていこく連隊れんたい、およびダルマチア騎兵きへいライフルたいとしてもたたかった。イタリアの宣戦せんせん布告ふこく、クロアチアじん過去かこ軋轢あつれきから戦争せんそう意欲いよくありと政府せいふ期待きたいしていたため、ほとんどがイタリア戦線せんせんおくられた。

休戦きゅうせんむかえると亡命ぼうめい方々かたがた発生はっせいし、1918ねん2がつにはコトルわん水兵すいへい反乱はんらんこった。 1917ねん、ヴイェコスラヴ・スピンチッチ、ヨシプ・スモドラク、イヴォ・プロダンがひきいるオーストリア帝国ていこく議会ぎかいのダルマチア王国おうこく代表だいひょうしゃが5月宣言せんげんしるし、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくないぜんみなみスラヴを統一とういつし、帝国ていこくをオーストリア、ハンガリー、クロアチアにさんふんする計画けいかく提示ていじした。戦争せんそう末期まっき、「ダルマチア国民こくみん議会ぎかい」がザダルに設立せつりつされ統一とういつされた「ダルマチア全国ぜんこく政府せいふ」がスプリトに設立せつりつされた。これらの機関きかん即座そくざにダルマチアを独自どくじ統治とうちはじめた[22]帝国ていこく崩壊ほうかい間際まぎわステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン将軍しょうぐんはハンガリー王国おうこく首相しゅしょうヴェケルレ・シャーンドルと皇帝こうていカール1せいに、ダルマチア王国おうこくクロアチア=スラヴォニア王国おうこく統一とういつ支持しじするようはたらきかけたが、帝国ていこく崩壊ほうかいするまでついれられることはなかった。 1918ねん10がつ29にち、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく議会ぎかい解体かいたいされると、クロアチア=スラヴォニア議会ぎかいはクロアチア=スラヴォニア王国おうこくがオーストリア=ハンガリー帝国ていこくとの国家こっかてき法的ほうてき関係かんけい終了しゅうりょうし、ダルマチア王国おうこくおよびリエカとともにスロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこくくわわることを可決かけつした。これによって、ダルマチア王国おうこく消滅しょうめつした。

人口じんこう動態どうたい歴史れきし[編集へんしゅう]

1818ねん - 1857ねん[編集へんしゅう]

M.ロルコヴィッチによると、1818ねんのダルマチア王国おうこくそう人口じんこうは297,912にん、1825ねんには326,739にん、1830ねんには338,599にん、1840ねんには390,381にん、そして1850ねんには393,715にんであった[24][25]

1857ねん国勢調査こくせいちょうさもとづくと、ダルマチア王国おうこくには415,628にん住民じゅうみんがいた[26]。1857ねん国勢調査こくせいちょうさ分析ぶんせきでは、住民じゅうみんは318,500にん(76.5%)がクロアチアじん、77,500にん(18.5%)がセルビアじんであり、20,000にん(5%)がイタリア話者わしゃであった[27]。ダルマチアのセルビアじん割合わりあいは、1830~50ねんあいだは19.9%であった[27]都市としでは、住民じゅうみんの71%がクロアチアじん、22%がイタリアじん、7%がセルビアじんであった[27]。コトルには745にんのセルビアじんがいたが、のすべての都市としでは400未満みまんであった[27]。ダルマチアのセルビアじんかず減少げんしょうしていたが、北部ほくぶでは増加ぞうかしていた[27]正教会せいきょうかいには400にんごとに1人ひとり司祭しさいがおり、カトリックでは330にんごとに1人ひとり司祭しさいがいた[27]

1880ねん[編集へんしゅう]

1880ねんのオーストリアの国勢調査こくせいちょうさでは、ダルマチア王国おうこくない民族みんぞくについて以下いか結果けっかられた。[よう出典しゅってん]

1900ねん[編集へんしゅう]

1900ねんのオーストリアの国勢調査こくせいちょうさでは以下いか結果けっかられた[28]

宗教しゅうきょう
言語げんご[28]

1910ねん[編集へんしゅう]

1910ねんのオーストリアの国勢調査こくせいちょうさによると、宗教しゅうきょう母国ぼこくによる人口じんこう以下いかとおりであった[29]

宗教しゅうきょう
言語げんご

都市とし[編集へんしゅう]

1900ねん主要しゅよう都市とし人口じんこう以下いかとおりであった[30]

行政ぎょうせい区画くかく[編集へんしゅう]

ダルマチア王国おうこく地図ちず
クロアチア共和国くろあちあきょうわこく現代げんだい国境こっきょうかさねたダルマチア王国おうこく範囲はんい。(コトルわん地域ちいきモンテネグロぞくする)

1822ねんから1868ねんまで、ダルマチア王国おうこくザダルスプリトドゥブロヴニクコトルの4つのぐんイタリアcircoli または capitanati circolariクロアチアokruzi または okružnapoglavarstva)に分割ぶんかつされ、ぐんはよりちいさな地区ちくイタリアdistretti - preture、クロアチア:kotari - preture)にかれ、地区ちくはさらに自治体じちたいイタリア:comuni、クロアチア:općine)にかれていた。1868ねんぐん廃止はいしされ、ダルマチアは13のよりおおきい(行政ぎょうせいイタリア:distretti politici または capitanati distrettuali、クロアチア:kotari または kotarska poglavarstva)にけられた。1880ねん時点じてんで、その行政ぎょうせいちょう所在地しょざいち以下いかとおりであった。

行政ぎょうせいには政府せいふ知事ちじイタリア:capitano distrettuale、クロアチア:kotarski poglavar)を任命にんめいし、行政ぎょうせいはさらに司法しほう地区ちくイタリア:distretti giudiziari、クロアチア:sudski kotari)にけられ、これらはさらに自治体じちたいイタリア:comuni、クロアチアopćine )にけられた。自治体じちたい自治体じちたい議会ぎかいイタリアconsiglio comunaleクロアチアopćinskovijeće )をち、市長しちょうイタリアpodestàクロアチアnačelnik )が議会ぎかいによって選出せんしゅつされた。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

ローマ・カトリック大司教だいしきょうはザダルに勢力せいりょくゆうしており、コトル主教しゅきょう、フヴァル主教しゅきょう、ドゥブロヴニク主教しゅきょう、シベニク主教しゅきょう、スプリト主教しゅきょうつかさ教区きょうくであった。正教会せいきょうかい頂点ちょうてんはザダルの司教しきょうになっていた。

グラゴル文字もじかれたクロアチア=スラヴォニアの典礼てんれい使用しようは、ダルマチアとクロアチアのローマ・カトリック教徒きょうとゆうする非常ひじょうふる特権とっけんであり、20世紀せいき最初さいしょすう年間ねんかんおおくの論争ろんそうこした。ラテン語らてんご典礼てんれいがグラゴル文字もじ完全かんぜんってわられる危険きけんがかなりあり、とく北部ほくぶ島々しまじまやスラヴ要素ようそ強力きょうりょく地方ちほうでは実際じっさいにそうなった。 1904ねん、バチカンはキュリロスとメトディウス聖人せいじんさいでのグラゴル文字もじ使用しよう、カトリックの統一とういつそこなう可能かのうせいたかいとして禁止きんしした。そのすうねんまえ、ザダルのスラヴ大司教だいしきょうライツェヴィッチは、「グラゴル文字もじ論争ろんそう」について議論ぎろんするなかで、この運動うんどうを「バルカン諸国しょこくでのおおきな革命かくめいのち、カトリックの聖職せいしょくしゃとラテン・ローマを簡単かんたんれるようにするためにひろしスラヴ主義しゅぎによって導入どうにゅうされた革新かくしん」であるとして非難ひなんしていた。

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

ダルマチア王国おうこく国民こくみんは、おも山羊やぎはじめとする牧畜ぼくちくや、ブドウやオリーブの栽培さいばい漁業ぎょぎょう造船ぞうせんなどを生業せいぎょうにしていた。[31]

総督そうとく[編集へんしゅう]

ダルマチア王国おうこくにおけるオーストリア帝国ていこく政権せいけんちょうは「帝国ていこくおよび王国おうこく総督そうとくイタリアIR Governatore Provincialeクロアチアck Guverner )」であり、皇帝こうていによって任命にんめいされた。 1852ねんから総督そうとくは「帝国ていこくおよび王国おうこく中尉ちゅうい(イタリアIR Luogotenenteクロアチアck Namjesnik )」としてられていた。

以下いか歴代れきだい総督そうとく一覧いちらんである。

  • フランニョ・トマシッチ(1815–1831)
  • ヴェンツェスラウ・リリエンベルク・ヴァーテル(1831–1841)
  • イヴァン・アウグスト・トゥルスツキ(1841–1848)
  • ルートヴィヒ・フォン・ヴェルデン(1848)
  • ヨシップ・イェラチッチ(1848–1859)
  • ラザル・マムラ(1859–1865)
  • フランニョ・フィリポヴィッチ(1865–1868)
  • ヨハン・ヴァグナー(1868–1869)
  • ゴットフリート・アウエルシュペルク(1869)
  • ユリウス・フルク・フォン・ライデンクロン(1869–1870)
  • ガヴリロ・ロディッチ(1870–1881)
  • スティエパン・ヨヴァノビッチ(1882–1885)
  • ルドヴィク・コルナーロ(1885–1886)
  • ドラグティン・ヴラツェコヴィッチ(1886–1890)
  • エミル・ダヴィド(1890–1902)
  • エラスムス・ハンデル(1902–1905)
  • ニコラ・ナルデリ(1905–1911)
  • マリオ・アテムス(1911–1918)

ぐん[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつのダルマチア王国おうこく陸軍りくぐん部隊ぶたい

  • 通常つうじょう軍隊ぐんたい
    • だい22(ダルマチア)歩兵ほへい連隊れんたい「グラーフ・フォン・ラーチ」(駐屯ちゅうとんスプリト
  • 帝国ていこくおよび王国おうこくランドヴェーア
    • 帝国ていこくおよび王国おうこく騎兵きへいダルマチア王国おうこくライフル分隊ぶんたい駐屯ちゅうとんシニ
    • だい23帝国ていこくおよび王国おうこくランドヴェーア歩兵ほへい連隊れんたい駐屯ちゅうとんザダル
    • だい37帝国ていこくおよび王国おうこくランドヴェーア歩兵ほへい連隊れんたい駐屯ちゅうとん:グルツ)

政治せいじ[編集へんしゅう]

ダルマチア議会ぎかい[編集へんしゅう]

ダルマチア王国おうこくは、 1861ねん、 1864ねん、 1867ねん、 1870ねん、 1876ねん、 1883ねん、 1889ねん、 1895ねん、 1901ねん、 1908ねんにダルマチア議会ぎかい選挙せんきょおこなった。

オーストリア帝国ていこく議会ぎかい[編集へんしゅう]

ダルマチア王国おうこくは、オーストリア帝国ていこく議会ぎかいに11の議席ぎせきゆうしていた。[31]

1907ねん 

1907ねん選挙せんきょで、ダルマチア王国おうこく以下いか代表だいひょうしゃをオーストリア帝国ていこく議会ぎかい選出せんしゅつした[32]

  • クロアチアとう
    • アンテ・デュリビッチ
    • ヴィチコ・イヴツェヴィッチ
    • フラネ・イヴァニシェヴィッチ
    • アンテ・トレシッチ・パヴィチッチ
    • アンテ・ヴコヴィッチ
    • ユーライ・ビアンキニ
  • 権利けんりとう
    • イヴォ・プロダン
    • ヨシップ・ヴィルギル・ペリッチ
  • セルビア人民じんみんとう
    • ドゥシャン・バルヤク
    • ミホ・ビェラディノヴィッチ
  • 無所属むしょぞく
    • フラネ・ブリッチ
1911ねん 

1911ねん選挙せんきょで、ダルマチアは以下いか代表だいひょうしゃ選出せんしゅつした[32]

  • クロアチアとう
    • ヴィクコ・イヴツェヴィッチ
    • ペロ・ツィングリヤ
    • アンテ・トレシッチ・パヴィチッチ
    • ユーライ・ビアンキニ
  • 権利けんりとう
    • イヴォ・プロダン
    • アンテ・デュリビッチ
    • アンテ・セサルディッチ
    • ヨシップ・ヴィルギル・ペリッチ
  • セルビア人民じんみんとう
    • ドゥシャン・バルヤク
    • ギュロ・ヴコティッチ
  • クロアチア大衆たいしゅう進歩しんぽとう
    • ヨシップ・スモドラカ

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

  • Bilandžić, Dušan (1999). Hrvatska moderna povijest. Golden marketing. ISBN 953-6168-50-2. https://books.google.com/books?id=-WZsQgAACAAJ 
  • Macan, Trpimir (1992). Povijest hrvatskog naroda. Školska knjiga. ISBN 86-401-0058-6. https://books.google.com/books?id=zE6CQgAACAAJ 
  • Stipetić, Vladimir (2012). Dva stoljeća razvoja hrvatskog gospodarstva (1820.-2005.). HAZU. ISBN 978-953-154-110-7. https://books.google.com/books?id=rmNKlAEACAAJ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]