ダルマチア王国 おうこく (ダルマティア王国 おうこく )
Kraljevina Dalmacija(hr ) Königreich Dalmatien(de ) Regno di Dalmazia(it )
(国旗 こっき )
(国 くに 章 あきら )
1914年 ねん のオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく におけるダルマチア王国 おうこく の位置 いち 。(赤 あか )
ダルマチア王国 おうこく (クロアチア語 ご : Kraljevina Dalmacija ; ドイツ語 ご : Königreich Dalmatien ; イタリア語 ご : Regno di Dalmazia )またはダルマティア王国 おうこく は、1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ から1918年 ねん のオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 解体 かいたい まで存在 そんざい したオーストリア帝国 ていこく およびオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の構成 こうせい 国 こく の一 ひと つであり、オーストリア帝 みかど 冠 かんむり 領 りょう に属 ぞく していた。ダルマチア 全域 ぜんいき を領有 りょうゆう し、首都 しゅと はザダル に置 お かれていた。
第 だい 一 いち 次 じ 対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい 中 なか の1796年 ねん 、フランス共和 きょうわ 国 こく はイタリア遠征 えんせい を開始 かいし し、司令 しれい 官 かん であったナポレオン・ボナパルト はハプスブルク家 か 領 りょう であったミラノ公国 こうこく とマントヴァ公国 こうこく へと侵攻 しんこう した。ナポレオン軍 ぐん は敗走 はいそう するオーストリア軍 ぐん を追 お って中立 ちゅうりつ 国 こく であったヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく 領 りょう にも侵入 しんにゅう し、翌年 よくねん 2月 がつ 2日 にち には第 だい 一 いち 次 じ マントヴァ包囲 ほうい 戦 せん でも勝利 しょうり した[1] 。4月18日 にち 、休戦 きゅうせん のため締結 ていけつ されたレオーベン条約 じょうやく でヴェネツィア共和 きょうわ 国領 こくりょう をオーストリアに割譲 かつじょう することが決定 けってい し、10月18日 にち には講和 こうわ が成立 せいりつ してカンポ・フォルミオ条約 じょうやく が調印 ちょういん された。この条約 じょうやく でハプスブルク帝国 ていこく はオーストリア領 りょう ネーデルラント を放棄 ほうき し、チザルピーナ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を認 みと めた。フランスはヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく のオーストリアへの併合 へいごう を認 みと め、ヴェネツィア領 りょう であったダルマチア はオーストリアの支配 しはい 下 か に置 お かれた。
ヴェネツィア領 りょう ダルマチアには、北 きた のラブ島 とう とカルロバーグからアドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん を下 くだ って南 みなみ のブドヴァ までの領域 りょういき が含 ふく まれていたが、ラグサ共和 きょうわ 国 こく (ドゥブロヴニク )は1808年 ねん まで独立 どくりつ を維持 いじ していた。 1804年 ねん にフランツ2世 せい が(フランツ1世 せい として)オーストリア皇帝 こうてい を名乗 なの った際 さい には「ダルマチア王 おう 」も名乗 なの ったが、アウステルリッツの戦 たたか い でオーストリアが敗北 はいぼく して1805年 ねん にプレスブルクの和 わ 約 やく が結 むす ばれると、ダルマチアはフランスに割譲 かつじょう されてイリュリア州 しゅう の一部 いちぶ となった。 1814年 ねん から15年 ねん にかけて行 おこな われたウィーン会議 かいぎ によってダルマチアと旧 きゅう ラグサ共和 きょうわ 国領 こくりょう が再 ふたた びオーストリア領 りょう となると、この地域 ちいき にダルマチア王国 おうこく が成立 せいりつ した。
1850年 ねん 頃 ごろ 、オーストリアはコトル湾 わん の海上 かいじょう 交通 こうつう を管理 かんり するためにプレヴラカ要塞 ようさい を建設 けんせつ した。 1848年 ねん のハンガリー革命 かくめい の際 さい 、ダルマチアは一時 いちじ 的 てき にクロアチア王国 おうこく のバン 、ヨシップ・イェラチッチ の支配 しはい 下 か にあったが、ダルマチア国会 こっかい で多数 たすう を占 し めたイタリア語 ご 話者 わしゃ 達 たち はオーストリア帝 みかど 冠 かんむり 領 りょう としての王国 おうこく の自治 じち を唱 とな え、クロアチア国家 こっか 復興 ふっこう におけるクロアチア・スラヴォニア及 およ びダルマチア三 さん 重 じゅう 王国 おうこく 実現 じつげん 要求 ようきゅう に反対 はんたい した。 1867年 ねん のアウスグライヒ でダルマチア王国 おうこく とクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ が否定 ひてい され、クロアチア=スラヴォニア王国 おうこく がハンガリー王冠 おうかん 領 りょう に属 ぞく する一方 いっぽう 、ダルマチア王国 おうこく はオーストリア帝 みかど 冠 かんむり 領 りょう に属 ぞく していた。
ダルマチア王国 おうこく は、1918年 ねん までオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 内 うち の独立 どくりつ した行政 ぎょうせい 区画 くかく であったが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で帝国 ていこく が崩壊 ほうかい すると、イタリア王国 おうこく に併合 へいごう されたザダル 、ラストヴォ島 とう 、パラグルジャ島 とう を除 のぞ いてスロベニア人 じん ・クロアチア人 じん ・セルビア人 じん 国 こく の、その後 ご はセルビア人 じん ・クロアチア人 じん ・スロベニア人 じん 王国 おうこく (後 ご のユーゴスラビア王国 おうこく )の一部 いちぶ となった。1921年 ねん のヴィドヴダン憲法 けんぽう によって、王国 おうこく の大 だい 部分 ぶぶん はスプリット州 しゅう とドゥブロヴニク州 しゅう に分割 ぶんかつ され、コトル湾 わん はゼータ州 しゅう の一部 いちぶ になった。
ハプスブルク帝国 ていこく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
全 ぜん ダルマチアの多 おお くの労働 ろうどう 者 しゃ と市民 しみん は、1797年 ねん のヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の滅亡 めつぼう 間際 まぎわ に反乱 はんらん を起 お こした。
ダルマチアとクロアチア王国 おうこく 、スラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ を求 もと める強力 きょうりょく な運動 うんどう (クロアチア国家 こっか 復興 ふっこう )が起 お こり、フランシスコ会 かい と他 た の多 おお くの聖職 せいしょく 者 しゃ も参加 さんか した。例 たと えばゴルンジ・カリン 村 むら では集会 しゅうかい を開 ひら いて統一 とういつ を要求 ようきゅう した[2] 。運動 うんどう にはスプリット大司教 だいしきょう レリエ・チピコ、マカルスカ司教 しきょう 、そして正教会 せいきょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ らも加 くわ わり、1797年 ねん 6月 がつ にはウィーン を訪 おとず れて大公 たいこう に統一 とういつ の承認 しょうにん を求 もと める計画 けいかく を立 た てて代表 だいひょう 団 だん を結成 けっせい したが、1797年 ねん 10月 がつ 18日 にち にフランス とハプスブルク帝国 ていこく の間 あいだ で調印 ちょういん されたカンポ・フォルミオ条約 じょうやく によってダルマチアはオーストリアの支配 しはい 下 か に入 はい ったため、代 か わりにクロアチアのバン に連絡 れんらく することにした[2] 。この条約 じょうやく によって旧 きゅう ヴェネツィア領 りょう は2つの州 しゅう に分割 ぶんかつ され、ハプスブルク帝国 ていこく はイストリア とダルマチアを獲得 かくとく した。約 やく 4,000人 にん の兵士 へいし を擁 よう するオーストリア軍 ぐん は、新 あら たに獲得 かくとく した領土 りょうど を主張 しゅちょう する軍事 ぐんじ 作戦 さくせん をクロアチアの将軍 しょうぐん マティアス・ルカビナ・フォン・ボイノグラードの指揮 しき 下 か で行 おこな った。ダルマチア、クロアチア、スラヴォニアの統一 とういつ を支持 しじ するルカビナはダルマチアの軍政 ぐんせい 官 かん に任命 にんめい され、民衆 みんしゅう と聖職 せいしょく 者 しゃ はクロアチア人 じん 主導 しゅどう の軍隊 ぐんたい の到着 とうちゃく を見 み て喜 よろこ んでいた。 [3] しかし、ダルマチアは新 あら たな領土 りょうど として扱 あつか われたために自治 じち 政府 せいふ が置 お かれず、オーストリア政府 せいふ の直轄 ちょっかつ とされた。1798年 ねん 、ダルマチア総督 そうとく を筆頭 ひっとう とする王立 おうりつ 政府 せいふ (クロアチア語 ご : Carska i kraljevska Vlada ;イタリア語 ご : Cesareo Regio Governo )がザダル で設立 せつりつ された。総督 そうとく と官僚 かんりょう はダルマチア王 おう (オーストリア大公 たいこう )によって任命 にんめい され、ヴェネツィアの「イストリア・ダルマチア及 およ びアルバニア宮廷 きゅうてい 委員 いいん 会 かい 」 (クロアチア語 ご : Carsko i kraljevsko dvorsko povjerenstvo za Istru, Dalmaciju i Albaniju ;イタリア語 ご : Ces. Reg. commissione aulica per l'Istria, Dalmazia ed Albania )の、1802年 ねん 以後 いご は「ダルマチア及 およ びコトル湾 わん ウィーン王室 おうしつ 区 く (クロアチア語 ご : Sekcija za Dalmaciju i Boku kotorsku Dvorske kancelarije )の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれた。また、ダルマチアは行政 ぎょうせい 裁判所 さいばんしょ 地区 ちく に分割 ぶんかつ され、司法官 しほうかん と裁判官 さいばんかん が治 おさ めていた。行政 ぎょうせい 裁判所 さいばんしょ はツレス 、クルク 、ラブ 、パグ 、ザダル 、ニン 、ノヴィグラード (ザダル郡 ぐん のもの)、 スクラディン、シベニク 、クニン 、シニ 、トロギル 、スプリット 、 クリス 、オミシュ、ブラチ 、フヴァル 、コルチュラ 、イモツキ 、マカルスカ 、 ポルイカ 、メトコヴィチ に置 お かれていた。1802年 ねん 、宮廷 きゅうてい はダルマチアとクロアチア王国 おうこく 及 およ びスラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ 要請 ようせい を公式 こうしき に却下 きゃっか した。フランス領 りょう になるまで、オーストリア政府 せいふ は既存 きそん の統治 とうち 機構 きこう をあまり変 か えず、教育 きょういく と司法 しほう の限 かぎ られた改革 かいかく しか実施 じっし しなかった。特筆 とくひつ すべきことは1803年 ねん 、ザダルにギムナジウム が開設 かいせつ されたこと程度 ていど である。アウステルリッツでオーストリアがナポレオンに敗北 はいぼく して1805年 ねん にプレスブルクの和 わ 約 やく が結 むす ばれると、その規定 きてい に従 したが ってダルマチアはフランス帝国 ていこく に引 ひ き渡 わた され、フランスの従属 じゅうぞく 国 こく であるイタリア王国 おうこく へと併合 へいごう された。こうして、オーストリアによるダルマチア統治 とうち は一 いち 度 ど 終 お わった。
フランス帝国 ていこく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
プレスブルクの和 わ 約 やく により、ナポレオンはダルマチアの引 ひ き継 つ ぎのためガブリエル・ジャン・ジョセフ・モリトール将軍 しょうぐん を派遣 はけん した。 1806年 ねん 2月 がつ 、フランスはネレトヴァ川 がわ までのダルマチア北部 ほくぶ を占領 せんりょう した。一方 いっぽう 、和 わ 約 やく によってフランス領 りょう となったコトル湾 わん はモンテネグロ主教 しゅきょう 領 りょう とその保護 ほご 者 しゃ であるロシア帝国 ていこく によって占領 せんりょう された。さらにモンテネグロはロシア海軍 かいぐん の支援 しえん を受 う けてコルチュラ島 とう を占領 せんりょう し、ラグサ共和 きょうわ 国 こく をも占領 せんりょう しようとした[4] 。
ラグサ共和 きょうわ 国 こく の終焉 しゅうえん [ 編集 へんしゅう ]
プレスブルクの和 わ 約 やく で、フランスはダルマチアとコトル湾 わん の全権 ぜんけん を獲得 かくとく した。そして、その間 あいだ に位置 いち していたラグサ共和 きょうわ 国 こく (ドゥブロヴニク )は、ダルマチアとコトル湾 わん の間 あいだ の陸上 りくじょう 交通 こうつう の障壁 しょうへき となっていた[5] 。ナポレオン軍 ぐん と弱体 じゃくたい 化 か したオスマン帝国 ていこく がに挟 はさ まれることとなった共和 きょうわ 国 こく は、もはや安全 あんぜん を保 たも てず[6] 、1806年 ねん 5月 がつ 27日 にち 、モンテネグロ とロシア海軍 かいぐん によって危険 きけん にさらされたラグサ共和 きょうわ 国 こく は、フランス軍 ぐん に抵抗 ていこう することなく降伏 ごうぶく した。すなわち、ジャック・アレクサン将軍 しょうぐん の指揮 しき 下 か にある約 やく 1,200人 にん の兵士 へいし からなるフランス戦隊 せんたい が、偽 いつわ りのふりをして街 まち に入 はい ったのである。フランス軍 ぐん がドゥブロヴニクに入 はい ってから、後背 こうはい 地 ち のセルビア人 じん の支援 しえん を受 う けたモンテネグロ=ロシア連合 れんごう 軍 ぐん によるオスマン帝国 ていこく での軍事 ぐんじ 作戦 さくせん が始 はじ まった。結果 けっか 1806年 ねん 10月 がつ 初 はじ め、オーギュスト・マルモン 将軍 しょうぐん の手助 てだす けによって、敵対 てきたい したロシア軍 ぐん は共和 きょうわ 国領 こくりょう から追放 ついほう され、その後 ご まもなくフランスがラグサ共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ を引 ひ き継 つ いだ。多数 たすう のフランス軍 ぐん の駐屯 ちゅうとん はドゥブロヴニクを財政 ざいせい 的 てき に疲弊 ひへい させた。ラグサ海軍 かいぐん は地中海 ちちゅうかい の港 みなと で破壊 はかい または喪失 そうしつ され、後背 こうはい 地 ち との高 こう 利潤 りじゅん だった貿易 ぼうえき も中断 ちゅうだん された。1808年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、マルモン将軍 しょうぐん はナポレオンの承認 しょうにん を得 え てドゥブロヴニクの議会 ぎかい を解散 かいさん し、ラグサ共和 きょうわ 国 こく を廃止 はいし した。共和 きょうわ 国 こく の廃止 はいし 後 ご 、コトル湾 わん のあるドゥブロヴニク地域 ちいき はイタリア王国 おうこく の支配 しはい 下 か に置 お かれ、1810年 ねん から1814年 ねん の間 あいだ はフランスのイリュリア州 しゅう に含 ふく まれていた。
フランス帝国 ていこく 時代 じだい のダルマチア [ 編集 へんしゅう ]
オーギュスト・マルモン 元帥 げんすい 、フランス統治 とうち 時代 じだい (1806-1813)のダルマチアの軍 ぐん 司令 しれい 官 かん
ダルマチア占領 せんりょう 後 ご まもなく、ナポレオンはヴィンチェンツォ・ダンドロ将軍 しょうぐん をダルマチア総督 そうとく (Prov(v)editore Generale )に任命 にんめい し(1806年 ねん 4月 がつ 28日 にち に任命 にんめい )、オーギュスト・マルモン 将軍 しょうぐん をダルマチア軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい した(1806年 ねん 6月 がつ 12日 にち に任命 にんめい )。フランス領 りょう ダルマチアは、首都 しゅと をミラノ を置 お いていたイタリア王国 おうこく と行政 ぎょうせい 的 てき に結 むす びついていた。 1809年 ねん 10月 がつ 14日 にち 、シェーンブルンの和 わ 約 やく によりイリュリア州 しゅう が創設 そうせつ され[7] 、ダンドロ将軍 しょうぐん を筆頭 ひっとう とするダルマチア政府 せいふ (イタリア語 ご : La Proveditura Generale )がザダル に置 お かれてイタリア語 ご が公用 こうよう 語 ご になった。ダルマチアの利権 りけん は、ミラノのイタリア王国 おうこく 中央 ちゅうおう 政府 せいふ で働 はたら いていたいわゆるダルマチア大臣 だいじん によって(正式 せいしき にのみ)提唱 ていしょう された。 イヴァン・ストラティコは長 なが い間 あいだ 大臣 だいじん を務 つと めていた。ダルマチア政府 せいふ は部門 ぶもん 長 ちょう が率 ひき いる6つの部門 ぶもん (司法 しほう 、内務 ないむ 、財務 ざいむ 、軍事 ぐんじ 、教育 きょういく 、会計 かいけい )に分割 ぶんかつ され、さらには1人 ひとり の警察 けいさつ 監督 かんとく 官 かん と1人 ひとり の軍 ぐん 監督 かんとく 官 かん がいた。それらすべては事務 じむ 総長 そうちょう (イタリア語 ご : Segretario Generale )が管轄 かんかつ していた。ダルマチア総 そう 議会 ぎかい (イタリア語 ご : Consiglio Generale della Dalmazia )は諮問 しもん 機関 きかん であり、地区 ちく の住民 じゅうみん の数 かず に応 おう じて各 かく 地区 ちく から1人 にん 以上 いじょう 、政府 せいふ によって選 えら ばれた48人 にん の議員 ぎいん で構成 こうせい されていた。最初 さいしょ の議員 ぎいん は政府 せいふ のみによって任命 にんめい されたが、その後 ご は毎年 まいとし 12人 にん が辞任 じにん し、議会 ぎかい がリストを提案 ていあん してそこから政府 せいふ が12人 にん の新 あたら しい候補者 こうほしゃ を選 えら ぶという形式 けいしき で任命 にんめい した。議会 ぎかい では総督 そうとく が議長 ぎちょう を務 つと め、ダルマチアの諸 しょ 問題 もんだい について議論 ぎろん していた。議会 ぎかい の決定 けってい は、総督 そうとく の正式 せいしき な認可 にんか 後 のち にのみ有効 ゆうこう であった[8] 。
司法 しほう は行政 ぎょうせい から分離 ぶんり されていた。 全 すべ ての地区 ちく と特別 とくべつ 重要 じゅうよう な地域 ちいき に22の地方裁判所 ちほうさいばんしょ (イタリア語 ご : Giudici Locali o di Pace )があった。ザダル 、スプリト 、ドゥブロヴニク には、地方裁判所 ちほうさいばんしょ とすべての民事 みんじ ・刑事 けいじ 裁判 さいばん の第 だい 一 いち 審 しん 裁判所 さいばんしょ の控訴 こうそ 先 さき である高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ が置 お かれた。さらに、裁判所 さいばんしょ の評決 ひょうけつ に対 たい する控訴 こうそ 裁判所 さいばんしょ がザダルに置 お かれ、ミラノには最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ (イタリア語 ご : Tribunale di Cassazione )が置 お かれた。当初 とうしょ の意図 いと はフランス民法 みんぽう 典 てん (ナポレオン法典 ほうてん ) の導入 どうにゅう であったが、特 とく に財産 ざいさん 、相続 そうぞく 、婚姻 こんいん 問題 もんだい における一般 いっぱん 的 てき な認識 にんしき と慣習 かんしゅう の違 ちが いのため実行 じっこう 不可能 ふかのう であることがすぐに明 あき らかになった。したがって、フランスの法律 ほうりつ に加 くわ えてオーストリアとヴェネツィアの法律 ほうりつ も暗示 あんじ されていた。法 ほう の下 した の平等 びょうどう もこのとき導入 どうにゅう された[8] 。
ダルマチアは郡 ぐん 、地区 ちく 、市 し 、村 むら に分 わ けられた。具体 ぐたい 的 てき に述 の べると、ダルマチアはザダル、シベニク、スプリト、マカルスカの4つの郡 ぐん に分割 ぶんかつ され、ザダル郡 ぐん は6つ(ザダル 、クルク 、ツレス 、ロシニ 、ラブ 、パグ )、シベニク郡 ぐん は3つ(シベニク 、スクラディン、クニン )、スプリット郡 ぐん は5つ(スプリト 、トロギル 、シニ 、ネレジシュチャ、フヴァル )、マカルスカ郡 ぐん は3つ(マカルスカ 、イモツキ 、コルチュラ )の地区 ちく に分割 ぶんかつ された。郡 ぐん は総 そう 監 かん (イタリア語 ご : Delegato )が、地区 ちく は副 ふく 総監 そうかん (イタリア語 ご : Vice-delegato )が、市 し は市長 しちょう が、村 むら は長老 ちょうろう (イタリア語 ご : Capitani-anziani )が統治 とうち していた。1809年 ねん 、ティルジットの和 わ 約 やく でコトル湾 わん がフランス領 りょう となってイリュリア州 しゅう に編入 へんにゅう されると、ドミニク・ガラグニンが特別 とくべつ 総督 そうとく に任命 にんめい され、4つの郡 ぐん (ツァヴタット 、ストン 、ロプド、コトル )と2つの地区 ちく (ヘルツェグ・ノヴィ とブドヴァ )を統治 とうち した。
新 あら たな領土 りょうど 管理 かんり 機構 きこう は、ダルマチアで運用 うんよう されてきたヴェネツィア型 がた の統治 とうち 機構 きこう を根本 こんぽん 的 てき に再 さい 定義 ていぎ した。ヴェネツィア時代 じだい の統治 とうち 機構 きこう の一部 いちぶ の形態 けいたい が保持 ほじ され、たとえば総督 そうとく の 地位 ちい や、軍事 ぐんじ 用語 ようご では改革 かいかく された国軍 こくぐん の機関 きかん 名 めい などが引 ひ き継 つ がれた。しかしフランスによる統治 とうち の間 あいだ 、ダルマチアの経済 けいざい 的 てき 繁栄 はんえい についてはあまり顧 かえり みられなかった。 [7] フランス統治 とうち 下 か でのダルマチア文化 ぶんか 復興 ふっこう の最初 さいしょ の特徴 とくちょう は、二 に 言語 げんご で書 か かれた週刊 しゅうかん 誌 し 「Il Regio Dalmata – Kraglski Dalmatin 」の発売 はつばい であり、その創刊 そうかん 号 ごう は1806年 ねん 7月 がつ 12日 にち に発行 はっこう された。ダンドロ将軍 しょうぐん が到着 とうちゃく したときダルマチアには事実 じじつ 上 じょう 学校 がっこう がなかったため、特 とく に教育 きょういく に目 め が向 む けられた。また、フランスはクロアチア北部 ほくぶ やボスニアの一部 いちぶ との道路 どうろ 接続 せつぞく を画策 かくさく した。新 あら たな道路 どうろ の建設 けんせつ はおそらく軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく 上 じょう の利益 りえき (イギリス とロシア によるアドリア海 あどりあかい の海上 かいじょう 封鎖 ふうさ に関 かん して)によるものであったが、それらは経済 けいざい 的 てき 目的 もくてき でも使用 しよう された。多 おお くのダルマチア人 じん 、特 とく にフランシスコ会 かい の下級 かきゅう 聖職 せいしょく 者 しゃ は、フランスが実施 じっし したダルマチアの近代 きんだい 化 か 政策 せいさく によって自治体 じちたい や企業 きぎょう に持 も っていた多 おお くの特権 とっけん を取 と り消 け したため、「無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ とジャコバン派 は 」がいるとしてフランス政府 せいふ を嫌 きら っていた。
ダルマチア王国 おうこく の初代 しょだい 総督 そうとく であるフランニョ・トマシッチ
ダルマチア王国 おうこく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
陸 りく 門 もん (Kopnena Vrata )。1543年 ねん に造 つく られ、ダルマチア王国 おうこく の首都 しゅと となったザダル にあった(1909年 ねん )。
1811年 ねん にはすでにイギリスはヴィス島 とう を占領 せんりょう し、翌 よく 1812年 ねん にはラストヴォ島 とう 、コルチュラ島 とう 、ペリェシャツ半島 はんとう 、フヴァル島 とう 、ツァヴタット 、ドゥブロヴニク 、スプリト を占領 せんりょう した。コトル はロシアによって陥落 かんらく させられ、1813年 ねん にライプツィヒの戦 たたか い でナポレオンが敗北 はいぼく すると、オーストリア帝国 ていこく がイリュリア州 しゅう を占領 せんりょう した。ダルマチアの占領 せんりょう は1813年 ねん の秋 あき から始 はじ まり、フランニョ・トマシッチ将軍 しょうぐん 率 ひき いる2,900人 にん のクロアチア 兵 へい によって簡単 かんたん に成 な し遂 と げられた。これはダルマチアの聖職 せいしょく 者 しゃ 、特 とく にフランシスコ会 かい の指導 しどう の下 した 、ダルマチアの民衆 みんしゅう が解放 かいほう 者 しゃ としてオーストリア軍 ぐん を受 う け入 い れたためである。ザダル の降伏 ごうぶく (12月6日 にち )後 ご 、トドール・ミルティノビッチ将軍 しょうぐん がドゥブロヴニク(1814年 ねん 1月 がつ 27日 にち 降伏 ごうぶく )とコトル湾 わん を占領 せんりょう するための軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を開始 かいし し、1814年 ねん 6月 がつ に完了 かんりょう した。したがって、ズルマニャ川 がわ からブドヴァ までの範囲 はんい は再 ふたた びオーストリアの支配 しはい 下 か に置 お かれ、1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ で承認 しょうにん された[8] 。
ダルマチアには新 あら たに州 しゅう 政府 せいふ が設立 せつりつ され、トマシッチ男爵 だんしゃく はその総督 そうとく に任命 にんめい された。ラブ島 とう からブドヴァにかけての地域 ちいき を統合 とうごう するため、ウィーン の裁判所 さいばんしょ は特別 とくべつ な領土 りょうど 単位 たんい としてダルマチア王国 おうこく を設立 せつりつ した。同 おな じ意図 いと で、ローマ教皇 きょうこう レオ12世 せい は1828年 ねん に教皇 きょうこう 勅書 ちょくしょ 「聖 せい ペテロ の御所 ごしょ (ラテン語 らてんご : Locum Beati Petri) 」を発布 はっぷ し、それによってスプリット大司教 だいしきょう 区 く とドゥブロヴニク司教 しきょう 区 く を含 ふく むすべてのダルマチア教区 きょうく の上 うえ に、ザダル首都 しゅと 大司教 だいしきょう 管区 かんく を設立 せつりつ した[9] 。 1816年 ねん から1822年 ねん の間 あいだ に、中央 ちゅうおう 政府 せいふ と王国 おうこく 政府 せいふ のすべての組織 そしき がザダルに設立 せつりつ された。司法 しほう 再編 さいへん も行 おこな われ、これらの行政 ぎょうせい および司法 しほう 機関 きかん は1852年 ねん または1854年 ねん まで、一部 いちぶ は1868年 ねん まで機能 きのう した。このように行政 ぎょうせい 全体 ぜんたい が改革 かいかく され、新 あら たに成立 せいりつ した司法 しほう 機関 きかん および州 しゅう の統治 とうち 機関 きかん は、僅 わず かな変更 へんこう を加 くわ えられながら1918年 ねん までダルマチア王国 おうこく に存在 そんざい し続 つづ けた。1861年 ねん 、二 に 月 がつ 特許 とっきょ の規定 きてい によってダルマチア国会 こっかい が設立 せつりつ された。オーストリア政府 せいふ はダルマチアを帝国 ていこく に繋 つな ぎ止 と めるため、主 おも にオーストリア大公 たいこう 国 こく と北 きた イタリア (ウィーン会議 かいぎ 以後 いご オーストリアが支配 しはい )から公務員 こうむいん をダルマチアに派遣 はけん していた[10] 。1832年 ねん 、ヴェレビト山脈 さんみゃく のマリ・アラン峠 とうげ を通 とお る新 あら たな道路 どうろ が開通 かいつう し、ダルマチアとクロアチア大陸 たいりく 部 ぶ を結 むす ぶ唯一 ゆいいつ の交通 こうつう 路 ろ となった。また、このダルマチア王国 おうこく 時代 じだい にオーストリア政府 せいふ は学校 がっこう を増 ふ やした。 1839年 ねん までに50校 こう が、1846年 ねん までに約 やく 150校 こう が開 ひら かれ、児童 じどう の3分 ぶん の1が在籍 ざいせき していた。学校 がっこう でのクロアチア語 ご 教育 きょういく はほとんど例外 れいがい で、イタリア語 ご 教育 きょういく よりも少 すく なかった。
ダルマチアでのクロアチア国民 こくみん 復興 ふっこう [ 編集 へんしゅう ]
フランスとオーストリアの統治 とうち とクロアチア王国 おうこく におけるイリュリア運動 うんどう の思想 しそう は、ダルマチアでのクロアチア国民 こくみん 意識 いしき の目覚 めざ めに大 おお きく貢献 こうけん した。1835年 ねん 、ボジダル・ペトラノヴィッチはザダル で「セルビア=ダルマチア雑誌 ざっし 」 (クロアチア語 ご : Srbsko-dalmatinski magazin )の印刷 いんさつ を始 はじ め、1844年 ねん にはアンテ・クズマニッチが「ダルマチアの黎明 れいめい 」(クロアチア語 ご :Zora dalmatinska )という雑誌 ざっし を立 た ち上 あ げた。そして、それまで聖職 せいしょく 者 しゃ によってのみ奨励 しょうれい されていたダルマチアの言語 げんご 的 てき および国家 こっか 的 てき 認識 にんしき の確立 かくりつ に取 と り組 く み始 はじ めた。諸 しょ 国民 こくみん の春 はる は当初 とうしょ 、ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の再建 さいけん を望 のぞ んでいたマルコ主義 しゅぎ 者 しゃ (ヴェネツィアの守護 しゅご 聖人 せいじん が聖 ひじり マルコであることからこう呼称 こしょう される)と、ハプスブルク家 か を支持 しじ する君主 くんしゅ 主義 しゅぎ 者 もの との間 あいだ に政治 せいじ 的 てき 分裂 ぶんれつ を引 ひ き起 お こした 。選挙 せんきょ 制度 せいど により裕福 ゆうふく なイタリア人 じん が都市 とし とその議会 ぎかい を完全 かんぜん に支配 しはい していたため、ダルマチアとクロアチアの統一 とういつ のための「同 どう 血 ち 同 どう 語 かたり のダルマチア兄弟 きょうだい 」へのクロアチア王国 おうこく の郡 ぐん 議会 ぎかい と市議会 しぎかい の提案 ていあん は拒否 きょひ された。しかし、なおもクロアチア国家 こっか 運動 うんどう は非常 ひじょう に強力 きょうりょく であり続 つづ けた。自治 じち 党 とう が統一 とういつ を拒否 きょひ したことに対 たい して、ダルマチア後背 こうはい 地 ち の牧師 ぼくし らと住民 じゅうみん らはクロアチアのバン であるヨシップ・イェラチッチ に書状 しょじょう を送 おく り、彼 かれ らはまだ統一 とういつ を求 もと めており、反対 はんたい 派 は は非常 ひじょう に少数 しょうすう であると述 の べた。 1848年 ねん 12月、オーストリア皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい はイェラチッチをダルマチア総督 そうとく に任命 にんめい した。これはスプリト とザダル (いずれも自治 じち 党 とう の統治 とうち 下 か )によって反対 はんたい されたが、クロアチア人 じん 、特 とく にドゥブロヴニク のクロアチア人 じん は大 おお きな期待 きたい を持 も ってイェラチッチと面会 めんかい した。しかし、結局 けっきょく 提案 ていあん はほとんど実現 じつげん されなかった[11] 。イェラチッチの役割 やくわり は大 だい 部分 ぶぶん が儀式 ぎしき 的 てき なままであり、ウィーンの裁判所 さいばんしょ が統一 とういつ に関 かん するいかなる議論 ぎろん も拒否 きょひ したことが理由 りゆう として大 おお きい。 1851年 ねん 、イェラチッチはダルマチアを訪 おとず れ、ドブロタで格別 かくべつ の熱意 ねつい とともに歓迎 かんげい された[12] 。また、統一 とういつ の反対 はんたい 者 しゃ (特 とく にイタリア人 じん )に対抗 たいこう するためクロアチア人 じん はダルマチア中 ちゅう に、主 おも に「スラヴ」の名 な を冠 かん した公立 こうりつ 図書館 としょかん と文化 ぶんか 社会 しゃかい を設立 せつりつ した。こうした運動 うんどう の結果 けっか 、政府 せいふ はクロアチア語 ご をダルマチアの学校 がっこう で第 だい 二 に 言語 げんご として教 おし えることを決定 けってい した。しかしそれでもクロアチア語 ご が教 おし えられている学校 がっこう は多 おお くなかったため、フランシスコ会 かい は1854年 ねん 、シニ に最初 さいしょ のクロアチア語 ご のギムナジウム を設立 せつりつ した。
人民 じんみん 党 とう と自治 じち 党 とう の対立 たいりつ [ 編集 へんしゅう ]
ミホヴィル・パヴリノヴィッチは、ダルマチア・クロアチア・スラヴォニアの統一 とういつ を提唱 ていしょう した最 もっと も著名 ちょめい な人物 じんぶつ の1人 ひとり であった。
1860年 ねん 、オーストリア皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい は帝国 ていこく の憲法 けんぽう 上 じょう ・政治 せいじ 上 じょう のあり方 かた を更新 こうしん すると決定 けってい し、拡張 かくちょう された帝国 ていこく 議会 ぎかい を召集 しょうしゅう した。クロアチア王国 おうこく 及 およ びスラヴォニア王国 おうこく の代表 だいひょう であるアンブローズ・ヴラニツァニとヨシプ・ユーライ・シュトラスマイエルは、クロアチア=スラヴォニア王国 おうこく とダルマチア王国 おうこく の統一 とういつ について疑問 ぎもん を投 な げかけた。ダルマチアの代表 だいひょう であるフラーネ・ボレーリは、イタリア人 じん は確 たし かにダルマチアの少数 しょうすう 派 は であると述 の べたが、イタリア人 じん は統一 とういつ の適切 てきせつ な時期 じき であるとは信 しん じていないとも述 の べた。当時 とうじ 、ダルマチアには2つの対立 たいりつ する政党 せいとう が存在 そんざい した。ミホ・クライッチとミホヴィル・パヴリノヴィッチが率 ひき いるクロアチア民族 みんぞく 主義 しゅぎ の革新 かくしん 派 は である人民 じんみん 党 とう と、アントニオ・バジャモンティとルイージ・ラペンノが率 ひき いるイタリア民族 みんぞく 主義 しゅぎ の保守 ほしゅ 派 は である自治 じち 党 とう である。自治 じち 党 とう は、ダルマチア総督 そうとく ラザル・マムラ、ザダル 市 し とスプリト 市 し 、他 た のいくつかの小 ちい さな都市 とし と地方自治体 ちほうじちたい 、そして統一 とういつ が成立 せいりつ した場合 ばあい にクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく とハンガリー王国 おうこく 、そしてオーストリア帝国 ていこく 全体 ぜんたい が弱体 じゃくたい 化 か することを恐 おそ れたウィーン の裁判所 さいばんしょ によって支持 しじ されていた。一方 いっぽう で人民 じんみん 党 とう は、スタリー・グラード 、ヴルボスカ、メトコヴィチ 、ボル 、ドゥブロヴニク とコトル で支持 しじ されていた。人民 じんみん 党 とう の政策 せいさく の要点 ようてん は、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニアの統一 とういつ と、行政 ぎょうせい と教育 きょういく におけるクロアチア語 ご の導入 どうにゅう であった。
1860年 ねん にザグレブ で開催 かいさい されたバン会議 かいぎ の 招集 しょうしゅう の際 さい に、ダルマチアの代表 だいひょう が統一 とういつ について議論 ぎろん するため招待 しょうたい されたが、マムラに支持 しじ される自治 じち 党 とう は、会議 かいぎ の主導 しゅどう を妨害 ぼうがい した[13] 。ダルマチア国会 こっかい は1861年 ねん に最初 さいしょ に召集 しょうしゅう され、ダルマチア人口 じんこう の約 やく 20%を占 し めるに過 す ぎない大 だい 地主 じぬし 、書記官 しょきかん 、裕福 ゆうふく な市民 しみん の代表 だいひょう が大 おお きな利点 りてん を持 も っていた不公平 ふこうへい な選挙 せんきょ 制度 せいど の影響 えいきょう もあり、自治 じち 党 とう が議席 ぎせき の過半数 かはんすう を占 し めた。こうして成立 せいりつ した国会 こっかい はダルマチア王国 おうこく のクロアチア王国 おうこく 及 およ びスラヴォニア王国 おうこく との統一 とういつ を拒 こば んだ。1866年 ねん に起 お こった普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう に伴 ともな う第 だい 3次 じ イタリア独立 どくりつ 戦争 せんそう ではヴィス島 とう 沖 おき でリッサ海戦 かいせん が行 おこな われ、オーストリアは両 りょう 戦争 せんそう での敗北 はいぼく によって未 み 回収 かいしゅう のイタリア を除 のぞ く北 きた イタリア を喪失 そうしつ した。翌 よく 1867年 ねん 、アウスグライヒ によってオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく が成立 せいりつ すると、オーストリア帝 みかど 冠 かんむり 領 りょう とハンガリー王冠 おうかん 領 りょう の分裂 ぶんれつ が強化 きょうか され、ダルマチア王国 おうこく とクロアチア王国 おうこく 及 およ びスラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ は遠 とお ざかった。これを受 う けて野党 やとう である人民 じんみん 党 とう はダルマチアをクロアチア化 か するための政治 せいじ ・文化 ぶんか 的 てき 闘争 とうそう に再帰 さいき し、特 とく に学校 がっこう 教育 きょういく に焦点 しょうてん を当 あ てて教育 きょういく 言語 げんご としてのクロアチア語 ご の導入 どうにゅう を求 もと めた。この目的 もくてき は、自治体 じちたい の管轄 かんかつ であった学校 がっこう の教育 きょういく 課程 かてい に手 て を加 くわ えることで、自治体 じちたい での支持 しじ を獲得 かくとく することであった[14] 。1862年 ねん 、人民 じんみん 党 とう はイタリア語 ご を母語 ぼご とする有権者 ゆうけんしゃ の支持 しじ を獲得 かくとく するために、イタリア語 ご の週刊 しゅうかん 誌 し 「Il Nazionale」を立 た ち上 あ げた。人民 じんみん 党 とう は 後 のち にクロアチア語 ご の週刊 しゅうかん 誌 し 「Narodni list 」の発行 はっこう も開始 かいし した。1869年 ねん 、ミホヴィル・パヴリノヴィッチはクロアチアの政治 せいじ 計画 けいかく 「Hrvatska misao 」を記 しる し、クロアチア独立 どくりつ の権利 けんり とダルマチアを含 ふく むすべての「歴史 れきし 的 てき なクロアチアの領土 りょうど 」を含 ふく む統一 とういつ 立憲 りっけん クロアチア国家 こっか の設立 せつりつ を提唱 ていしょう した。
1869年 ねん 10月 がつ 、クリヴォシイェ蜂起 ほうき と呼 よ ばれる武装 ぶそう 蜂起 ほうき がコトル湾 わん 後背 こうはい 地 ち のクリヴォシイェで発生 はっせい した。 [15] この蜂起 ほうき は、1866年 ねん の普 あまね 墺 おう 戦争 せんそう におけるケーニヒグレーツの戦 たたか い でのオーストリア帝国 ていこく に対 たい するプロイセン王国 おうこく の決定的 けっていてき な勝利 しょうり によって、帝国 ていこく 政府 せいふ が伝統 でんとう 的 てき に徴兵 ちょうへい を免除 めんじょ されていたクリヴォシイェの民衆 みんしゅう に強制 きょうせい 徴兵 ちょうへい を課 か したことで発生 はっせい した。徴兵 ちょうへい 制 せい によって水夫 すいふ は海 うみ での労働 ろうどう を奪 うば われ、山 やま に住 す んでいた人々 ひとびと は武装 ぶそう 解除 かいじょ によってヘルツェゴビナ で大小 だいしょう の牛 うし を狩 か る機会 きかい を失 うしな った。徴兵 ちょうへい 制 せい が再 ふたた び廃止 はいし され、民衆 みんしゅう の武器 ぶき 保有 ほゆう が許可 きょか されたのは、1870年 ねん 1月 がつ 11日 にち に和平 わへい 協定 きょうてい が締結 ていけつ されたときであった[16] 。
人民 じんみん 党 とう と自治 じち 党 とう の間 あいだ の緊張 きんちょう が高 たか まるにつれて、ますます衝突 しょうとつ は激 はげ しくなっていった。 1869年 ねん 7月 がつ 31日 にち 、水路 すいろ 学 がく 視察 しさつ のイタリア船 せん で、イタリアの船員 せんいん とクロアチアのシベニク 市民 しみん とが衝突 しょうとつ し、14人 にん のイタリア人 じん 船員 せんいん と数 すう 人 にん のクロアチア人 じん が重傷 じゅうしょう を負 お った。この衝突 しょうとつ はイタリア王国 おうこく とオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく の間 あいだ の外交 がいこう 問題 もんだい に発展 はってん し、モンツァンバーノ事件 じけん として知 し られている[17] 。この期間 きかん に人民 じんみん 党 とう はより組織 そしき 化 か され、ダルマチア後背 こうはい 地 ち と島嶼 とうしょ 部 ぶ で徐々 じょじょ に勢力 せいりょく を拡大 かくだい 、1870年 ねん の選挙 せんきょ では遂 つい に国会 こっかい の議席 ぎせき の過半数 かはんすう を獲得 かくとく した。 1873年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、党 とう はシベニクでの選挙 せんきょ に勝利 しょうり し、アンテ・シュプクが市長 しちょう に選出 せんしゅつ された。主要 しゅよう 都市 とし では初 はつ の勝利 しょうり であった。1882年 ねん には、自治 じち 党 とう の準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき による脅迫 きょうはく と暴力 ぼうりょく を押 お しのけて人民 じんみん 党 とう のガジョ・ブラトが自治 じち 党 とう のアントニオ・バジャモンティを破 やぶ り、スプリト 市長 しちょう となった。その後 ご まもなく、人民 じんみん 党 とう はスタリー・グラード とトロギル でも勝利 しょうり し、自治 じち 党 とう はザダル 以外 いがい の主要 しゅよう 都市 とし を失 うしな った。人民 じんみん 党 とう の躍進 やくしん によって、1883年 ねん 、クロアチア語 ご はダルマチア国会 こっかい の公用 こうよう 語 ご となった。
同時 どうじ に、クロアチア語 ご の学校 がっこう の新設 しんせつ も進 すす んだ。 1866年 ねん にはクロアチア語 ご 教師 きょうし 学校 がっこう (クロアチア語 ご : Hrvatska učiteljska škola )がザダルに近 ちか いアルバナシで開校 かいこう され、1883年 ねん 時点 じてん で、クロアチア語 ご 教育 きょういく を行 おこな う小学校 しょうがっこう は約 やく 300校 こう 、高校 こうこう は3校 こう (ドゥブロヴニク 、コトル 、スプリト )もの規模 きぼ になっていた。さらに1898年 ねん には、クロアチア語 ご のギムナジウム がザダルに開設 かいせつ された。
セルビア人 じん とクロアチア人 じん の分裂 ぶんれつ [ 編集 へんしゅう ]
1893年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、ドゥブロヴニクのイヴァン・グンドゥリッチの記念 きねん 碑 ひ の除幕 じょまく 式 しき の様子 ようす 。
ヴーク・カラジッチ 、イリア・ガラシャニン 、ヨヴァン・スボティッチらがダルマチアをセルビアの土地 とち として記 しる し、1878年 ねん のベルリン会議 かいぎ でセルビア王国 おうこく が独立 どくりつ 国 こく として認 みと められた後 のち 、ダルマチアにおけるクロアチア人 じん とセルビア人 じん の関心 かんしん の差 さ が明 あき らかになった。セルビア人 じん はダルマチアを「セルビアの土地 とち 」として継続 けいぞく 的 てき に言及 げんきゅう し始 はじ め[18] 、ダルマチア出身 しゅっしん の多数 たすう のクロアチア人 じん 兵士 へいし の関与 かんよ と犠牲 ぎせい 、そしてボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ の要求 ようきゅう を含 ふく んだオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ共同 きょうどう 統治 とうち 国 こく 占領 せんりょう でクロアチア人 じん の熱意 ねつい が高 たか まると、クロアチア人 じん とセルビア人 じん の間 あいだ の軋轢 あつれき は激 はげ しくなった。1879年 ねん 、ブコヴィツァのセルビア人 じん たちは、人民 じんみん 党 とう のミホヴィル・クライチの代 か わりに自治 じち 党 とう のイタリア人 じん 候補者 こうほしゃ に投票 とうひょう し、人民 じんみん 党 とう はこれをブコヴィツァの裏切 うらぎ り と呼 よ んだ。その後 ご まもなく、クロアチア人 じん とセルビア人 じん で別々 べつべつ の政党 せいとう が設立 せつりつ されたが、クロアチア人 じん はダルマチア国会 こっかい で過半数 かはんすう を占 し めて続 つづ けていた。
1881年 ねん 11月、コトル湾 わん の後背 こうはい 地 ち に住 す んでいたセルビア人 じん とモンテネグロ人 じん は帝国 ていこく 国民 こくみん の義務 ぎむ である強制 きょうせい 徴兵 ちょうへい に不満 ふまん を抱 だ いて反乱 はんらん を起 お こしたが、スティエパン・ヨヴァノヴィッチ陸軍 りくぐん 元帥 げんすい 率 ひき いるオーストリア陸軍 りくぐん によって1882年 ねん 5月 がつ に鎮圧 ちんあつ された。
1891年 ねん 、フラーノ・スピロはセルビア人 じん によるダルマチアへの主張 しゅちょう に反対 はんたい し、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ を支持 しじ して「赤 あか いクロアチア(クロアチア語 ご : Crvena Hrvatska)」の出版 しゅっぱん を始 はじ め た[19] 。1893年 ねん 、ドゥブロヴニクにイヴァン・グンドゥリッチの記念 きねん 碑 ひ が建 た てられた際 さい には、クロアチア人 じん とセルビア人 じん の間 あいだ に大 おお きな緊張 きんちょう が走 はし った。これは、多 おお くのクロアチアの高官 こうかん 、政治 せいじ 家 か 、芸術 げいじゅつ 家 か らがドゥブロヴニクを訪 おとず れたことで、地元 じもと のセルビア人 じん やメド・プチッチのようにセルビアの思想 しそう を支持 しじ する一部 いちぶ のドゥブロヴニク市民 しみん の人々 ひとびと の思 おも いに反 はん して、除幕 じょまく 式 しき がクロアチア国家 こっか 主義 しゅぎ を主張 しゅちょう する場 ば に変 か わってしまったからであった。
いわゆる「新 しん 方向 ほうこう 性 せい 政策 せいさく 」 の肯定 こうてい により、セルビア人 じん とクロアチア人 じん の関係 かんけい は改善 かいぜん し始 はじ め、これは1907年 ねん 2月 がつ 25日 にち のザダル解決 かいけつ への署名 しょめい によって確認 かくにん された。政治 せいじ 家 か のロヴロ・モンティ博士 はかせ は「セルビア人 じん と共 とも にあれば多 おお くのことができる、彼 かれ らなくしては僅 わず かなことだけが、そして彼 かれ らといがみあえば何 なに もできない」と述 の べている[20] 。1905年 ねん 、初 はじ めてダルマチア出身 しゅっしん のニコラ・ナルデリ(人民 じんみん 党 とう )が総督 そうとく に任命 にんめい され、1912年 ねん にはイタリア語 ご が官公庁 かんこうちょう と裁判所 さいばんしょ で廃止 はいし された。ただし、オーストリア政府 せいふ は公式 こうしき の通信 つうしん でイタリア語 ご とドイツ語 ご を使用 しよう し続 つづ けていた。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1905年 ねん 、進水 しんすい 時 じ のオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 海軍 かいぐん 前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス(エルツヘルツォーク・カール級 きゅう 3番 ばん 艦 かん )
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した直後 ちょくご 、オーストリア政府 せいふ は親 しん セルビア、または全 ぜん 南 みなみ スラヴ のための統一 とういつ 国家 こっか 創設 そうせつ 思想 しそう を持 も つとしたすべての組織 そしき を禁止 きんし し、これによって多 おお くの著名 ちょめい な政治 せいじ 家 か が迫害 はくがい ・逮捕 たいほ され、一部 いちぶ は国外 こくがい に移住 いじゅう した。大戦 たいせん 初期 しょき はアドリア海 あどりあかい での交戦 こうせん はなかったが、1915年 ねん 、ロンドン条約 じょうやく に従 したが ってイタリア王国 おうこく が協商 きょうしょう 国 こく に加 くわ わると頻繁 ひんぱん に海戦 かいせん が行 おこな われるようになり、連合 れんごう 国 こく によるオトラント海峡 かいきょう 封鎖 ふうさ によってアドリア海 あどりあかい の貿易 ぼうえき はほぼ完全 かんぜん に停止 ていし した。政府 せいふ は軍事 ぐんじ 目的 もくてき で多 おお くの船 ふね を募集 ぼしゅう し、民間 みんかん の航海 こうかい はほぼ完全 かんぜん に停止 ていし された。爆 ばく 撃 げき の恐 おそ れがあるため島嶼 とうしょ 部 ぶ と港 みなと では強制 きょうせい 停電 ていでん が課 か され、金属 きんぞく 不足 ふそく で多 おお くの教会 きょうかい の鐘 かね が取 と り外 はず されて溶 と かされ、戦争 せんそう 目的 もくてき で使用 しよう された。ラストヴォ島 とう 周辺 しゅうへん でも戦闘 せんとう が行 おこな われていたため島 とう には砲台 ほうだい が置 お かれ、1917年 ねん にはフランス陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい がラストヴォを爆撃 ばくげき した[21] 。
ダルマチア王国 おうこく では飢餓 きが と欠乏 けつぼう が現 あらわ れ始 はじ めたが、ハンガリー王国 おうこく 法 ほう では戦時 せんじ にオーストリア帝 みかど 冠 かんむり 領 りょう (ダルマチアはその飛 と び地 ち であった)へ食料 しょくりょう を輸出 ゆしゅつ することは禁止 きんし されていた。飛 と び地 ち であるために陸上 りくじょう 支援 しえん を受 う けられないダルマチア王国 おうこく は帝国 ていこく 直属 ちょくぞく 都市 とし トリエステ を通 つう じて食糧 しょくりょう 援助 えんじょ を受 う けたが、その量 りょう は不十分 ふじゅうぶん であり、時 とき には全 まった くに機能 きのう せず、到着 とうちゃく が遅 おそ すぎることもあった(たとえば、1917年 ねん 向 む けの物資 ぶっし は1918年 ねん に到着 とうちゃく した[22] )。こうした事態 じたい を受 う けてフランシスコ会 かい とザグレブ の寄付 きふ 者 しゃ は、ダルマチアの子供 こども をスラヴォニア とモスラヴィナ に送 おく り、十分 じゅうぶん な栄養 えいよう を摂取 せっしゅ できるよう活動 かつどう する団体 だんたい を組織 そしき した。大戦 たいせん はダルマチアの農業 のうぎょう を破壊 はかい した上 うえ 、戦争 せんそう 末期 まっき にはチフス 、コレラ 、天然痘 てんねんとう 、スペイン風邪 かぜ が流行 りゅうこう し、多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た[22] 。
1915年 ねん には、クロアチア人 じん はオーストリア・ハンガリー海軍 かいぐん 兵 へい の34%を占 し めていた[23] 。海軍 かいぐん とは別 べつ に、ダルマチア王 おう 国民 こくみん は陸上 りくじょう 部隊 ぶたい 、すなわち第 だい 22帝国 ていこく 連隊 れんたい 、第 だい 23ザダル帝国 ていこく 防衛 ぼうえい 連隊 れんたい 、第 だい 37ドゥブロヴニク帝国 ていこく 連隊 れんたい 、およびダルマチア騎兵 きへい ライフル隊 たい としても 戦 たたか った。イタリアの宣戦 せんせん 布告 ふこく 後 ご 、クロアチア人 じん は過去 かこ の軋轢 あつれき から戦争 せんそう 意欲 いよく ありと政府 せいふ が期待 きたい していたため、ほとんどがイタリア戦線 せんせん に送 おく られた。
休戦 きゅうせん を迎 むか えると亡命 ぼうめい が方々 かたがた で発生 はっせい し、1918年 ねん 2月 がつ にはコトル湾 わん で水兵 すいへい 反乱 はんらん が起 お こった。 1917年 ねん 、ヴイェコスラヴ・スピンチッチ、ヨシプ・スモドラク、イヴォ・プロダンが率 ひき いるオーストリア帝国 ていこく 議会 ぎかい のダルマチア王国 おうこく 代表 だいひょう 者 しゃ が5月宣言 せんげん を記 しる し、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 内 ない の全 ぜん 南 みなみ スラヴを統一 とういつ し、帝国 ていこく をオーストリア、ハンガリー、クロアチアに三 さん 分 ふん する計画 けいかく を提示 ていじ した。戦争 せんそう 末期 まっき 、「ダルマチア 国民 こくみん 議会 ぎかい 」がザダルに設立 せつりつ され、統一 とういつ された「ダルマチア 全国 ぜんこく 政府 せいふ 」がスプリトに設立 せつりつ された。これらの機関 きかん は即座 そくざ にダルマチアを独自 どくじ に統治 とうち し始 はじ めた[22] 。帝国 ていこく 崩壊 ほうかい 間際 まぎわ 、ステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン 将軍 しょうぐん はハンガリー王国 おうこく 首相 しゅしょう ヴェケルレ・シャーンドルと皇帝 こうてい カール1世 せい に、ダルマチア王国 おうこく とクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく の統一 とういつ を支持 しじ するよう働 はたら きかけたが、帝国 ていこく が崩壊 ほうかい するまで遂 つい に受 う け入 い れられることはなかった。 1918年 ねん 10月 がつ 29日 にち 、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 議会 ぎかい が解体 かいたい されると、クロアチア=スラヴォニア議会 ぎかい はクロアチア=スラヴォニア王国 おうこく がオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく との国家 こっか 的 てき ・法的 ほうてき 関係 かんけい を終了 しゅうりょう し、ダルマチア王国 おうこく およびリエカ とともにスロベニア人 じん ・クロアチア人 じん ・セルビア人 じん 国 こく に加 くわ わることを可決 かけつ した。これによって、ダルマチア王国 おうこく は消滅 しょうめつ した。
人口 じんこう 動態 どうたい の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
1818年 ねん - 1857年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
M.ロルコヴィッチによると、1818年 ねん のダルマチア王国 おうこく の総 そう 人口 じんこう は297,912人 にん 、1825年 ねん には326,739人 にん 、1830年 ねん には338,599人 にん 、1840年 ねん には390,381人 にん 、そして1850年 ねん には393,715人 にん であった[24] [25] 。
1857年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ に基 もと づくと、ダルマチア王国 おうこく には415,628人 にん の住民 じゅうみん がいた[26] 。1857年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ の分析 ぶんせき では、住民 じゅうみん は318,500人 にん (76.5%)がクロアチア人 じん 、77,500人 にん (18.5%)がセルビア人 じん であり、20,000人 にん (5%)がイタリア語 ご 話者 わしゃ であった[27] 。ダルマチアのセルビア人 じん の割合 わりあい は、1830~50年 ねん の間 あいだ は19.9%であった[27] 。都市 とし では、住民 じゅうみん の71%がクロアチア人 じん 、22%がイタリア人 じん 、7%がセルビア人 じん であった[27] 。コトルには745人 にん のセルビア人 じん がいたが、他 た のすべての都市 とし では400未満 みまん であった[27] 。ダルマチアのセルビア人 じん の数 かず は減少 げんしょう していたが、北部 ほくぶ では増加 ぞうか していた[27] 。正教会 せいきょうかい には400人 にん ごとに1人 ひとり の司祭 しさい がおり、カトリックでは330人 にん ごとに1人 ひとり の司祭 しさい がいた[27] 。
1880年 ねん のオーストリアの国勢調査 こくせいちょうさ では、ダルマチア王国 おうこく 内 ない の民族 みんぞく について以下 いか の結果 けっか が得 え られた。[要 よう 出典 しゅってん ]
1900年 ねん のオーストリアの国勢調査 こくせいちょうさ では以下 いか の結果 けっか が得 え られた[28] 。
宗教 しゅうきょう
言語 げんご [28]
1910年 ねん のオーストリアの国勢調査 こくせいちょうさ によると、宗教 しゅうきょう と母国 ぼこく 語 ご による人口 じんこう は以下 いか の通 とお りであった[29] 。
宗教 しゅうきょう
言語 げんご
1900年 ねん の主要 しゅよう 都市 とし の人口 じんこう は以下 いか の通 とお りであった[30] 。
ダルマチア王国 おうこく の地図 ちず 。
クロアチア共和国 くろあちあきょうわこく の現代 げんだい の国境 こっきょう に重 かさ ねたダルマチア王国 おうこく の範囲 はんい 。(コトル湾 わん 地域 ちいき はモンテネグロ に属 ぞく する)
1822年 ねん から1868年 ねん まで、ダルマチア王国 おうこく はザダル 、スプリト 、ドゥブロヴニク 、コトル の4つの郡 ぐん (イタリア語 ご :circoli または capitanati circolari 、クロアチア語 ご :okruzi または okružnapoglavarstva )に分割 ぶんかつ され、郡 ぐん はより小 ちい さな地区 ちく (イタリア語 ご :distretti - preture、 クロアチア :kotari - preture)に分 わ かれ、地区 ちく はさらに 自治体 じちたい (イタリア語 ご :comuni、 クロアチア :općine)に分 わ かれていた。 1868年 ねん に郡 ぐん が廃止 はいし され、ダルマチアは13のより大 おお きい(行政 ぎょうせい )区 く (イタリア語 ご :distretti politici または capitanati distrettuali、 クロアチア :kotari または kotarska poglavarstva)に分 わ けられた。 1880年 ねん 時点 じてん で、その行政 ぎょうせい 区 く 庁 ちょう 所在地 しょざいち は以下 いか の通 とお りであった。
行政 ぎょうせい 区 く には政府 せいふ が知事 ちじ (イタリア語 ご :capitano distrettuale、 クロアチア語 ご :kotarski poglavar)を任命 にんめい し、行政 ぎょうせい 区 く はさらに 司法 しほう 地区 ちく (イタリア語 ご :distretti giudiziari、 クロアチア語 ご :sudski kotari)に分 わ けられ、 これらはさらに自治体 じちたい (イタリア語 ご :comuni、 クロアチア語 ご : općine )に分 わ けられた。自治体 じちたい は自治体 じちたい 議会 ぎかい (イタリア語 ご : consiglio comunale 、クロアチア語 ご : općinskovijeće )を持 も ち、市長 しちょう (イタリア語 ご : podestà 、クロアチア語 ご : načelnik )が議会 ぎかい によって選出 せんしゅつ された。
ローマ・カトリック大司教 だいしきょう はザダルに勢力 せいりょく を有 ゆう しており、コトル主教 しゅきょう 区 く 、フヴァル主教 しゅきょう 区 く 、ドゥブロヴニク主教 しゅきょう 区 く 、シベニク主教 しゅきょう 区 く 、スプリト主教 しゅきょう 区 く が司 つかさ 教区 きょうく であった。正教会 せいきょうかい の頂点 ちょうてん はザダルの司教 しきょう が担 にな っていた。
グラゴル文字 もじ で書 か かれたクロアチア=スラヴォニアの典礼 てんれい の使用 しよう は、ダルマチアとクロアチアのローマ・カトリック教徒 きょうと が有 ゆう する非常 ひじょう に古 ふる い特権 とっけん であり、20世紀 せいき の最初 さいしょ の数 すう 年間 ねんかん に多 おお くの論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。ラテン語 らてんご の典礼 てんれい がグラゴル文字 もじ に完全 かんぜん に取 と って代 か わられる危険 きけん がかなりあり、特 とく に北部 ほくぶ の島々 しまじま やスラヴ語 ご の要素 ようそ が強力 きょうりょく な地方 ちほう では実際 じっさい にそうなった。 1904年 ねん 、バチカンはキュリロスとメトディウス の聖人 せいじん 祭 さい でのグラゴル文字 もじ の使用 しよう 、カトリックの統一 とういつ を損 そこ なう可能 かのう 性 せい が高 たか いとして禁止 きんし した。その数 すう 年 ねん 前 まえ 、ザダルのスラヴ大司教 だいしきょう ライツェヴィッチは、「グラゴル文字 もじ 論争 ろんそう 」について議論 ぎろん する中 なか で、この運動 うんどう を「バルカン諸国 しょこく での大 おお きな革命 かくめい の後 のち 、カトリックの聖職 せいしょく 者 しゃ とラテン・ローマを簡単 かんたん に破 わ れるようにするために汎 ひろし スラヴ主義 しゅぎ によって導入 どうにゅう された革新 かくしん 」であるとして非難 ひなん していた。
ダルマチア王国 おうこく の国民 こくみん は、主 おも に山羊 やぎ を始 はじ めとする牧畜 ぼくちく や、ブドウやオリーブの栽培 さいばい 、漁業 ぎょぎょう 、造船 ぞうせん などを生業 せいぎょう にしていた。[31]
ダルマチア王国 おうこく におけるオーストリア帝国 ていこく 政権 せいけん の長 ちょう は「帝国 ていこく および王国 おうこく 総督 そうとく (イタリア語 ご : IR Governatore Provinciale 、クロアチア語 ご : ck Guverner )」であり、皇帝 こうてい によって任命 にんめい された。 1852年 ねん から総督 そうとく は「帝国 ていこく および王国 おうこく 中尉 ちゅうい (イタリア語 ご : IR Luogotenente 、クロアチア語 ご : ck Namjesnik )」として知 し られていた。
以下 いか は歴代 れきだい 総督 そうとく の一覧 いちらん である。
フランニョ・トマシッチ(1815–1831)
ヴェンツェスラウ・リリエンベルク・ヴァーテル(1831–1841)
イヴァン・アウグスト・トゥルスツキ(1841–1848)
ルートヴィヒ・フォン・ヴェルデン(1848)
ヨシップ・イェラチッチ (1848–1859)
ラザル・マムラ(1859–1865)
フランニョ・フィリポヴィッチ(1865–1868)
ヨハン・ヴァグナー(1868–1869)
ゴットフリート・アウエルシュペルク(1869)
ユリウス・フルク・フォン・ライデンクロン(1869–1870)
ガヴリロ・ロディッチ(1870–1881)
スティエパン・ヨヴァノビッチ(1882–1885)
ルドヴィク・コルナーロ(1885–1886)
ドラグティン・ヴラツェコヴィッチ(1886–1890)
エミル・ダヴィド(1890–1902)
エラスムス・ハンデル(1902–1905)
ニコラ・ナルデリ(1905–1911)
マリオ・アテムス(1911–1918)
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 時 じ のダルマチア王国 おうこく の陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい 。
通常 つうじょう 軍隊 ぐんたい
第 だい 22(ダルマチア)歩兵 ほへい 連隊 れんたい 「グラーフ・フォン・ラーチ」(駐屯 ちゅうとん 地 ち :スプリト )
帝国 ていこく および王国 おうこく ランドヴェーア
帝国 ていこく および王国 おうこく 騎兵 きへい ダルマチア王国 おうこく ライフル分隊 ぶんたい (駐屯 ちゅうとん 地 ち :シニ )
第 だい 23帝国 ていこく および王国 おうこく ランドヴェーア歩兵 ほへい 連隊 れんたい (駐屯 ちゅうとん 地 ち :ザダル )
第 だい 37帝国 ていこく および王国 おうこく ランドヴェーア歩兵 ほへい 連隊 れんたい (駐屯 ちゅうとん 地 ち :グルツ)
ダルマチア王国 おうこく は、 1861年 ねん 、 1864年 ねん 、 1867年 ねん 、 1870年 ねん 、 1876年 ねん 、 1883年 ねん 、 1889年 ねん 、 1895年 ねん 、 1901年 ねん 、 1908年 ねん にダルマチア議会 ぎかい の選挙 せんきょ を行 おこな った。
オーストリア帝国 ていこく 議会 ぎかい [ 編集 へんしゅう ]
ダルマチア王国 おうこく は、オーストリア帝国 ていこく 議会 ぎかい に11の議席 ぎせき を有 ゆう していた。[31]
1907年 ねん
1907年 ねん の選挙 せんきょ で、ダルマチア王国 おうこく は以下 いか の代表 だいひょう 者 しゃ をオーストリア帝国 ていこく 議会 ぎかい に選出 せんしゅつ した[32] 。
クロアチア党 とう
アンテ・デュリビッチ
ヴィチコ・イヴツェヴィッチ
フラネ・イヴァニシェヴィッチ
アンテ・トレシッチ・パヴィチッチ
アンテ・ヴコヴィッチ
ユーライ・ビアンキニ
権利 けんり 党 とう
セルビア人民 じんみん 党 とう
無所属 むしょぞく
1911年 ねん
1911年 ねん の選挙 せんきょ で、ダルマチアは以下 いか の代表 だいひょう 者 しゃ を選出 せんしゅつ した[32] 。
クロアチア党 とう
ヴィクコ・イヴツェヴィッチ
ペロ・ツィングリヤ
アンテ・トレシッチ・パヴィチッチ
ユーライ・ビアンキニ
権利 けんり 党 とう
イヴォ・プロダン
アンテ・デュリビッチ
アンテ・セサルディッチ
ヨシップ・ヴィルギル・ペリッチ
セルビア人民 じんみん 党 とう
クロアチア大衆 たいしゅう 進歩 しんぽ 党 とう
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1867年 ねん 以前 いぜん オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく ツィスライタニエン 1 トランスライタニエン 1 共同 きょうどう 管理 かんり
1 1867以降 いこう , 2 1868以前 いぜん , 3 1868以降 いこう , 4 1908以降 いこう (実効 じっこう 支配 しはい は1878以降 いこう )