ロシニとう

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ヴェリ・ロシニこうめんしたきゅう市街しがい
ロシニとう位置いち

ロシニとう (ロシニとう、クロアチア:Lošinjイタリア:Lussinoドイツ: Lötzing; ラテン語らてんご Apsorrus, ギリシャ: Apsorros, Αψωρος)は、クロアチアしまアドリア海あどりあかい北部ほくぶクヴァルネルわん位置いちする。本土ほんど都市としリエーカみなみにあり、プリモリェ=ゴルスキ・コタルぐんぞくする。面積めんせきは74.36平方へいほうkm、人口じんこうは2001ねん時点じてんで8,134にん

概要がいよう[編集へんしゅう]

ロシニとうにある定住ていじゅう以下いかのようになっている:

  • ネレジネ(Nerezine)
  • スヴェティ・ヤコヴ(Sveti Jakov)
  • チュンスキ(Ćunski)
  • アルタトゥリ(Artaturi)
  • マリ・ロシニ(Mali Lošinj)
  • ヴェリ・ロシニ(Veli Lošinj)

島内とうない道路どうろしま全長ぜんちょうはしる。フェリーは、となりツレスとう経由けいゆしてザダルから、そしてプーラからやってくる。また、空港くうこうもある。

地理ちり[編集へんしゅう]

ロシニとうは、ツレス=ロシニ群島ぐんとう一部いちぶである。ツレス=ロシニ群島ぐんとうには、ツレスとう、ロシニとうウニエとう、イロヴィクとう、スサクとう、ヴェレ・スラカネとう、マレ・スラカネとう、そしておおくのちいさな無人島むじんとうがある。ツレスとう最大さいだいしまで、ロシニとうは2番目ばんめおおきい。ツレスとうとロシニとうは、ちいさなはしでつながっている。

ロシニとうアドリア海あどりあかい諸島しょとうなかで11番目ばんめおおきく、全長ぜんちょう33km、はばきたから島中しまなかあいだでは4.75km(マリ・ロシニ付近ふきんではよりせまく0.25km)である。海岸かいがんせん全長ぜんちょう112.7kmとなる。

年間ねんかん日照ひでり時間じかんは2600あいだえ、夏期かきにはドイツイタリアからの観光かんこうきゃく人気にんき観光かんこうとなる。年間ねんかん湿度しつどは70%で、なつ平均へいきん気温きおんは24℃、ふゆは7℃である。

しま最高さいこうてんは、テレヴリンさん別名べつめいオソルシュチツァとも、Osoršćica)の588mと、スヴェティ・ニコラの557mである。ネレジネとスヴェティ・ヤコヴはこの山地さんちにある。しま石灰岩せっかいがんドロマイトいわ優勢ゆうせいである。すな堆積たいせきはクリラ半島はんとう西部せいぶにある。

しま温暖おんだん気候きこう常緑樹じょうりょくじゅおおい(ギンバイカウバメガシ月桂樹げっけいじゅなど)。きた高地こうちではさらに植生しょくせいがまばらになる。ヴェリ・ロシニ、ツイカトといった南西なんせい海岸かいがんマツもりかこむ。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ロシニとう古代こだいからひと定住ていじゅうしていたとかんがえられている。これは、オソルシュツイカのふもととマリ・ロシニこう周囲しゅういとりで証拠しょうこである。ローマじんしまをアプソルス(Apsorrus、プトレマイオス記述きじゅつ)とび、ロシニとツレスの島々しまじま集合しゅうごうしてアプシルティデス(Apsirtides)とんだ。数カ所すうかしょでは、ローマじんのヴィラ(別荘べっそう)が発掘はっくつされた。いくつかのちいさな隠者いんじゃ教会きょうかいは、ローマ時代じだいのものである。中世ちゅうせい、ロシニは教会きょうかい財産ざいさんであったり、ツレスとうのオソルに貴族きぞく所有しょゆうとなったりした。そして定住ていじゅうするひとはいなかった。

本土ほんどからの移住いじゅうしゃ最初さいしょ記録きろくは、1280ねんである。オソルとの契約けいやくしたがい、この定住ていじゅうしゃらは1389ねん自治じち獲得かくとくした。ロシニのはじめて登場とうじょうするのは1384ねんである。15世紀せいき以降いこう次第しだいにオソルが衰退すいたいするのと平行へいこうして、ヴェリ・ロシニとマリ・ロシニの住民じゅうみんらが次第しだい重要じゅうよう役割やくわりになうようになった。

1900ねんごろのマリ・ロシニ

18世紀せいきと19世紀せいき貿易ぼうえき造船ぞうせん船乗ふなの家業かぎょうしま発展はってんをさらに加熱かねつさせた。ながアドリア海あどりあかい沿岸えんがん支配しはいしたヴェネツィア共和きょうわこく没落ぼつらく、ロシニはオーストリア=ハンガリー帝国ていこく支配しはいを1918ねんまでけた。1943ねんまではイタリアりょうとなり、1945ねんユーゴスラビア併合へいごうされた。1991ねんにクロアチアが独立どくりつたすと、その一部いちぶとなっていまいたっている。

1945ねんのユーゴスラビアによる併合へいごうは、共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいのユーゴスラビアできることをのぞまないイタリア話者わしゃ国外こくがい脱出だっしゅつへとつながった。これらの国外こくがい脱出だっしゅつしゃらはイタリアや世界せかい各地かくち現在げんざい活気かっきあるコミュニティーをっており、おもかし伝統でんとうつたえる時事じじ回報かいほう発行はっこうしている(http://www.lussinpiccolo-italia.net)。

出身しゅっしん著名ちょめいじん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]