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アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子こうし)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルバート
Prince Albert
'イギリスおうはい'
1860ねん撮影さつえい
在位ざいい 1840ねん2がつ10日とおか - 1861ねん12月14にち
別称べっしょうごう ザクセンこう
プリンス・コンソート

ぜん
出生しゅっしょう 1819ねん8がつ26にち
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国こうこくコーブルクローゼナウじょう英語えいごばんドイツばん
死去しきょ (1861-12-14) 1861ねん12月14にち(42さいぼつ
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィンザーウィンザーじょう
埋葬まいそう 1861ねん12月23にち
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、ウィンザー、ウィンザーじょうセント・ジョージ礼拝れいはいどう
1862ねん12月18にち
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、ウィンザー、フロッグモア霊廟れいびょう英語えいごばん
配偶はいぐうしゃ ヴィクトリア
子女しじょ
家名かめい サクス=コバーグ=ゴータ
父親ちちおや エルンスト1せい
母親ははおや ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク
宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょうルーテル教会きょうかい→)
イングランド国教こっきょうかい
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アルバート・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ公子こうし英語えいご: Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 1819ねん8がつ26にち - 1861ねん12月14にち)は、イギリス女王じょおうヴィクトリアおっとザクセン=コーブルク=ゴータ公子こうしで、ザクセンこうHerzog zu Sachsen)。ドイツは、アルブレヒト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータAlbrecht von Sachsen-Coburg-Gotha)。

イギリス女王じょおうおっと男性だんせい配偶はいぐうしゃ)として、議会ぎかいから唯一ゆいいつ公式こうしきに「プリンス・コンソート」(The Prince Consort)の称号しょうごうみとめられた人物じんぶつである。

生涯しょうがい

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出自しゅつじ

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1819ねん8がつ26にち、ザクセン=コーブルク=ザールフェルトこうエルンスト(ザクセン=コーブルク=ゴータこうエルンスト1せい)の次男じなんとしてコーブルクまれる。ははルイーゼはザクセン=ゴータ=アルテンブルクこうアウグストむすめ、エルンスト1せい従妹じゅうまいにあたる。

ヴィクトリア女王じょおうとの結婚けっこん

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ヴィクトリアとの結婚けっこん積極せっきょくてき推進すいしんしたのは、双方そうほう叔父おじたるベルギー初代しょだい国王こくおうレオポルド1せいであった。1836ねん5月、アルブレヒトは家族かぞくとともにロンドン訪問ほうもんし、ケンジントン宮殿きゅうでん叔母おばちちいもうと)のヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールドケントこうエドワード・オーガスタスむすめであるヴィクトリア王女おうじょ対面たいめんした。しかし、ヴィクトリアの伯父おじである当時とうじ国王こくおうウィリアム4せいは、この縁組えんぐみ賛成さんせいせず、ヴィクトリアの相手あいてとしてオランダおうウィレム2せい息子むすこであるオラニエ=ナッサウアレクサンダー王子おうじかんがえていた。一方いっぽう、ヴィクトリアはレオポルド1せい計画けいかくっていたが、自身じしんはアルブレヒトとの結婚けっこんのぞんでいた。ヴィクトリアは、金髪きんぱつあおひとみをしたハンサムなアルブレヒトに一目惚ひとめぼれしたのである。ヴィクトリアがレオポルド1せいてて、アルブレヒトを紹介しょうかいしてくれたれいべる書簡しょかんのこっている。

1837ねん6がつ20日はつかウィリアム4せい国王こくおう崩御ほうぎょともない、王位おうい継承けいしょう順位じゅんいだい1であったヴィクトリアは18さいイギリス女王じょおうハノーヴァーあさだい6だい君主くんしゅ)に即位そくいした。1839ねん、アルブレヒトはあにエルンスト(エルンスト2せい)とともに、ふたたびロンドンを訪問ほうもんした。この訪問ほうもん目的もくてきにん結婚けっこんにあった。同年どうねん10がつ2人ふたり正式せいしき婚約こんやくし、よく1840ねん2がつ10日とおかセント・ジェームズ宮殿きゅうでん王家おうけ礼拝れいはいどうChapel Royal)で結婚式けっこんしきげた。

当時とうじ王家おうけドイツけい血筋ちすじであったことから、イギリスけいくするため、イギリスじんおっとのぞまれた。そのため、女王じょおうがドイツけいのアルブレヒトと結婚けっこんすることは、イギリス国民こくみんからあまり歓迎かんげいされていなかったようである[注釈ちゅうしゃく 1]。アルバートは、出産しゅっさん育児いくじわれる女王じょおうわり、公式こうしき行事ぎょうじ出席しゅっせきなどもこなし、実質じっしつじょう君主くんしゅ役割やくわりたした。しかしイギリスでの公的こうてき地位ちいは、結婚けっこん17ねんに「おうはい殿下でんか」(プリンス・コンソート)の地位ちい正式せいしきあたえられるまで、何一なにひとっていなかった。

家族かぞく

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アルバートのちちエルンスト1せいは、っからの女好おんなずきで、ははのルイーゼを裏切うらぎつづけていた。そのため、ルイーゼ自身じしん傭兵ようへい隊長たいちょうアレクサンダー・フォン・ハンシュタイン浮気うわきをするようになり、エルンストから離婚りこんをいいわたされた[注釈ちゅうしゃく 2]。これによりルイーゼは、自身じしん息子むすこであるエルンスト2せいとアルバートにうこともきんじられた。こうした不幸ふこう家庭かてい環境かんきょうにより、アルバートは両親りょうしん反面はんめん教師きょうしとして、とても誠実せいじつおっととなった。

アルバートとヴィクトリアの夫婦ふうふなか非常ひじょうく、おおくの子供こどもたちめぐまれた。二人ふたりあいだ誕生たんじょうした9にん子女しじょ(4なん5じょ)は下記かきとおり。

続柄つづきがら 子女しじょ 生年月日せいねんがっぴ ぼつ年月日ねんがっぴ 備考びこう
だい1王女おうじょ
だい1/長女ちょうじょ
ヴィクトリア
愛称あいしょう:ヴィッキー)
1840ねん11月21にち 1901ねん8がつ5にち
まん60さいぼつ
ドイツ皇帝こうていフリードリヒ3せい皇后こうごう
子女しじょ:4なん4じょ(8にん
だい1王子おうじ
だい2/長男ちょうなん
アルバート・エドワード
愛称あいしょう:バーティ)
1841ねん11月9にち 1910ねん5月6にち
まん68さいぼつ
サクス=コバーグ=ゴータあさ初代しょだい国王こくおうエドワード7せい
子女しじょ:3なん3じょ(6にん
だい2王女おうじょ
だい3/次女じじょ
アリス 1843ねん4がつ25にち 1878ねん12月14にち
まん35さいぼつ
ヘッセン大公たいこうルートヴィヒ4せい
子女しじょ:2なん5じょ(7にん
だい2王子おうじ
だい4/次男じなん
アルフレッド 1844ねん8がつ6にち 1900ねん7がつ30にち
まん55さいぼつ
ザクセン=コーブルク=ゴータこうエディンバラ公爵こうしゃく
子女しじょ:1なん4じょ(5にん
だい3王女おうじょ
だい5/さんじょ
ヘレナ 1846ねん5月25にち 1923ねん6月9にち
まん77さいぼつ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子こうしクリスティアン夫人ふじん
子女しじょ:4なん2じょ(6にん
だい4王女おうじょ
だい6/よんじょ
ルイーズ 1848ねん3月18にち 1939ねん12月3にち
まん91さいぼつ
アーガイル公爵こうしゃくジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人ふじん
子女しじょ:なし
だい3王子おうじ
だい7/三男さんなん
アーサー 1850ねん5月1にち 1942ねん1がつ16にち
まん91さいぼつ
コノート公爵こうしゃく
子女しじょ:1なん2じょ(3にん
だい4王子おうじ
だい8/四男よつお
レオポルド 1853ねん4がつ7にち 1884ねん3月28にち
まん30さいぼつ
オールバニ公爵こうしゃく
子女しじょ:1なん1じょ2人ふたり
だい5王女おうじょ
だい9/じょ
ベアトリス 1857ねん4がつ14にち 1944ねん10月26にち
まん87さいぼつ
バッテンベルク公子きみこハインリヒ・モーリッツ夫人ふじん
子女しじょ:3なん1じょ(4にん

長女ちょうじょのヴィクトリア王女おうじょがアルバートによくて、もうぶんのない優等生ゆうとうせいだったのにくらべ、長男ちょうなんのアルバート・エドワードおう太子たいし英国えいこくおうエドワード7せい)は大変たいへん問題児もんだいじであったため、アルバートはいつもこの息子むすこのことにあたまなやませていた。ただ、エドワードが問題児もんだいじとなったのは、アルバートのきびしいしつけも関係かんけいしていたようである。エドワードは、自分じぶん子供こどもたちには、自分じぶんちちにされたのとおなじようなきびしいしつけをしようとはしなかった。

王室おうしつ改革かいかく

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1848ねん肖像しょうぞう写真しゃしんウィリアム・エドワード・キルバーン英語えいごばん撮影さつえい

1841ねんにアルバートは、ヴィクトリアの教育きょういくがかりルイーゼ・レーツェンドイツばん仕事しごとぶりに問題もんだいかんじたため、彼女かのじょ解任かいにんかんがえるようになった。レーツェンは当時とうじヴィクトリアの秘書ひしょつとめており、王室おうしつ予算よさん諸々もろもろ人事じんじけんにぎっていた。ヴィクトリアは母親ははおや同然どうぜんしたっているレーツェンの解任かいにんもう反対はんたいしたが、アルバートに説得せっとくされて、ついにレーツェンの解任かいにん同意どういした。こうしてアルバートはようやく実権じっけんにぎったが、イギリス王室おうしつ大変たいへん無秩序むちつじょ状態じょうたいになっていた。その理由りゆうはレーツェンが他人たにんいなりで、またとしをとるにつれて全体ぜんたいへの配慮はいりょとどかなくなっていたからだった。

当時とうじイギリス王室おうしつでは、個々人ここじん目先めさき利益りえきばかりをかんがえ、勝手かっていをしていた。たとえばウィンザーじょうでは、内側うちがわ外側そとがわまどをそれぞれべつ部署ぶしょ管理かんりする、ということが平気へいきおこなわれていた。さらに、この2つの部署ぶしょはげしい縄張なわばあらそいを展開てんかいし、たがいに相手あいて管轄かんかつへとんでいた。また、王族おうぞく人々ひとびと全員ぜんいん外出がいしゅつちゅうのときでさえ、しろではたっぷりと食事しょくじ用意よういするのがならわしで、結局けっきょく豪華ごうか食事しょくじ召使めしつかいたち胃袋いぶくろえることとなった。さらに、ろうそく使つかわれていようがいまいが、すべての部屋へやのろうそくは毎日まいにちかかさず交換こうかんされた。そして、18世紀せいき後半こうはん気前きまえジョージ3せいが、あかあいだばれる部屋へや衛兵えいへいしつもうけ、当直とうちょくちゅう衛兵えいへいにフランスさんあかワイン毎日まいにち1ほんずつふるまった、ということにはしはっした「あかあいだのワインだい」というものがあったが、ジョージ3せいもこのってすでひさしく、衛兵えいへいしつ存在そんざいもとうに人々ひとびとからわすられていたが、それでもワインだけは相変あいかわらず大量たいりょう消費しょうひされていた。

アルバートは、このような数々かずかず無駄遣むだづかいや、召使めしつかいたちの無秩序むちつじょぶりをて、いかにもドイツじんらしい徹底てっていした方法ほうほうで、王室おうしつ全体ぜんたい改革かいかくすることにした。かれ職員しょくいん大半たいはんえ、王室おうしつ部署ぶしょ大幅おおはば削減さくげんした。そのため、改革かいかくまえからつとめていたものあたらしくはいったものも、真剣しんけんはたらかざるをなくなった。当然とうぜん、アルバートにかれらの憎悪ぞうお反発はんぱつけられた。とくかれらの最大さいだい不満ふまんは、職員しょくいん副業ふくぎょうにしていた格好かっこう収入しゅうにゅうげんを、アルバートがつぶしてしまったことだった。かれらのおおくは、王室おうしつ情報じょうほう新聞しんぶんしゃながして、いい収入しゅうにゅうていた。しかし、アルバートが王室おうしつでの出来事できごと掲載けいさいした公報こうほう毎日まいにち発行はっこうするようになったため、これも不可能ふかのうになった。また用具ようぐるいかんしても、帳簿ちょうぼけさせてしっかり管理かんりさせた。

アルバートによるこうした数々かずかず改革かいかくによって王室おうしつ内部ないぶ混乱こんらん一掃いっそうされたおかげで、王室おうしつ全体ぜんたいとして2まん5,000ポンドもの節減せつげんになった。アルバートにはすぐれた財政ざいせい才能さいのうがあった。かれはこのほかにもコーンウォールおおやけりょうランカスターおおやけりょうからの収入しゅうにゅうを、わずか1ねんあいだ大幅おおはば増加ぞうかさせている。しかし、数々かずかず成功せいこうにもかかわらず、アルバートは「けちなおとこ」や「かねこまかいおとこ」などと悪口わるぐちわれるようになってしまった。えたぶん収入しゅうにゅうは、田舎いなか別邸べっていてるなど、アルバートによって有効ゆうこう使つかわれた。やがてかれワイトとう広大こうだい土地とち購入こうにゅうし、オズボーン・ハウスて、毎年まいとし家族かぞくごすようになった。

政治せいじへの関与かんよ

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アルバート記念きねんにあるアルバートの黄金おうごんぞうw:John Henry Foleyw:Thomas Brockさく

アルバートは、1841ねん長男ちょうなんのエドワードが誕生たんじょうした前後ぜんごから、枢密院すうみついんのメンバーにくわわり、ヴィクトリアの秘書ひしょ顧問こもんつとめた。かつて首相しゅしょうつとめたメルバーン子爵ししゃくは、はやくからアルバートの非凡ひぼん才能さいのう見抜みぬき、ヴィクトリアにたいし「アルバートおおやけじつあたまれるおかたです。どうかアルバートおおやけのおっしゃることをよくおきなさいますように」と進言しんげんしたという。1834ねん首相しゅしょうになったロバート・ピールも、頭脳ずのう明晰めいせきなアルバートに接近せっきんし、微妙びみょう問題もんだいきるとまずかれ意見いけんもとめるようになった。ヴィクトリアにはまぐれで短気たんきところがあったため、後回あとまわしにしたのだった。

アルバートは1851ねんにはロンドン万国博覧会ばんこくはくらんかいだい成功せいこうさせた。この万博ばんぱく最大さいだいものは「クリスタル・パレス(水晶すいしょうみや)」と名付なづけられた、てつとガラスでできた宮殿きゅうでんだった。かれはこの万博ばんぱく開催かいさいにおいては中心ちゅうしんになって準備じゅんびすすめており、最大さいだい出資しゅっししゃかれだった。700まんにんがこの万博ばんぱくおとずれ、収益しゅうえき経費けいひばい以上いじょうにのぼった。新聞しんぶん各紙かくしもこの万博ばんぱく成果せいか絶賛ぜっさんし、アルバートがイギリス国民こくみん人気にんきあつめたのは、のちにもさきにもこのときだけだったという。

1843ねん6月2にち科学かがく技術ぎじゅつ産業さんぎょう振興しんこう協会きょうかい王立おうりつ技芸ぎげい協会きょうかい会長かいちょう選出せんしゅつされた[1]

晩年ばんねん

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晩年ばんねんのアルバートと女王じょおう(1861ねん

1861ねん11月のある、アルバートにとって衝撃しょうげきてき事件じけんきた。外国がいこく大衆たいしゅうに、エドワードと女優じょゆうネリー・クリフデンとの交際こうさい掲載けいさいされたのである。2人ふたりなかいふらしたのも彼女かのじょだった。アルバートは病身びょうしんにもかかわらず、エドワードの居住きょじゅうするケンブリッジへとかった。2人ふたりあいだなにはなわれたのかはあきらかではない。

アルバートは結婚けっこんから21ねん1861ねん12月14にちちょうチフスわずら薨去こうきょした、42さいぼつ。しかし、持病じびょう胃痛いつうなどの症状しょうじょうとアルバートの母親ははおやも30さいがんたおれていたことれば、かれはもともと胃癌いがんであった可能かのうせいたかいとわれる。

ヴィクトリアは最愛さいあいおっとアルバートのふかなげかなしみ、かれ死後しご二度にど豪華ごうか衣装いしょうることなく、自身じしん崩御ほうぎょするまでの39年間ねんかんくろ喪服もふくだけでごしたという。

称号しょうごう敬称けいしょう

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アルバートの紋章もんしょう
  • 公爵こうしゃくとうとい)ザクセン公爵こうしゃくアルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子こうし殿下でんか(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Saalfield, Duke of Saxony):1819ねん8がつ26にち - 1826ねん11月12にち
  • 公爵こうしゃくとうとい)ザクセン公爵こうしゃくアルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子こうし殿下でんか(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, Duke of Saxony):1826ねん11月12にち - 1840ねん2がつ6にち
  • 王家おうけの)ザクセン公爵こうしゃくアルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子こうし殿下でんか(His Royal Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, Duke of Saxony):1840ねん2がつ6にち - 1861ねん12月14にち
  • 王家おうけの)おうはい殿下でんか(His Royal Highness The Prince Consort):1857ねん 6がつ29にち - 1861ねん 12月14にち
    • おうはい称号しょうごうは1840ねん2がつから非公式ひこうしき使用しようされていた。

外国がいこくから授与じゅよされた勲章くんしょう

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つまヴィクトリア女王じょおうは、イギリスの君主くんしゅであり元首げんしゅといえども女性じょせいであったために、最高さいこう勲章くんしょう授与じゅよされることはなかった。また、彼女かのじょもとめなかった(「ヴィクトリア (イギリス女王じょおう) #外国がいこく勲章くんしょう」の項目こうもく参照さんしょう)。

そのわりに、おっとのアルバートが各国かっこく最高さいこう勲章くんしょうけている。

国名こくめい五十音ごじゅうおんじゅん。()ない年代ねんだい授与じゅよされたとし[2]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ハノーヴァーあさ国王こくおうすべて、王族おうぞくもほとんどがドイツじんめとっており、ヴィクトリアのははヴィクトリアも、父方ちちかた祖母そぼシャーロットもドイツじんであった。これは、当時とうじのイギリス王家おうけであったハノーヴァーでは(のちにサクス=コバーグ=ゴータでも)、貴賎きせん結婚けっこんゆるされていなかったからである。またイギリス王族おうぞくは、2013ねん王位おうい継承けいしょうほう制定せいてい以前いぜんには、カトリック教徒きょうと結婚けっこんすれば王位おうい継承けいしょうけん喪失そうしつした。そのため王族おうぞく結婚けっこん相手あいては、プロテスタントであることがもとめられた。また、ハノーヴァー家法かほうにより、結婚けっこん相手あいては、王家おうけまたは公家くげ殿下でんかしょうゆうする人物じんぶつかぎられていた。
  2. ^ のちにルイーゼは、アレクサンダーと再婚さいこんしている。

出典しゅってん

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  1. ^ Weintraub, Stanley (24 May 2012) [2004]. "Albert [Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha]". Oxford Dictionary of National Biography (英語えいご) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/274 (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  2. ^ 君塚きみづか直隆なおたか女王じょおう陛下へいかのブルーリボン-ガーター勲章くんしょうとイギリス外交がいこう-』NTT出版しゅっぱん、2004ねんISBN 4-7571-4073-8

関連かんれん項目こうもく

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アルバート。フロックコートは「プリンス・アルバート・コート」ともばれている。アルバート・チェーンがえる。
職能しょくのう団体だんたい学会がっかいしょく
先代せんだい
サセックス公爵こうしゃく
科学かがく技術ぎじゅつ産業さんぎょう振興しんこう協会きょうかい会長かいちょう
1843ねん – 1861ねん
次代じだい
ウィリアム・トゥック英語えいごばん
名誉めいよしょく
先代せんだい
サセックス公爵こうしゃく
ウィンザーじょう管理かんり長官ちょうかんおよ総督そうとく英語えいごばん
1843ねん – 1861ねん
次代じだい
ヴィクトル・フォン・ホーエンローエ=ランゲンブルク英語えいごばん
イギリス王室おうしつ
空位くうい
最後さいご在位ざいいしゃ
アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン
王妃おうひとして
イギリス君主くんしゅ配偶はいぐうしゃ英語えいごばん
おうはい:1857ねん – 1861ねん

1840ねん – 1861ねん
空位くうい
次代じだい在位ざいいしゃ
アレクサンドラ・オブ・デンマーク
王妃おうひとして