メアリー・オブ・テック (英語 えいご : Mary of Teck , 1867年 ねん 5月26日 にち - 1953年 ねん 3月24日 にち )は、イギリス ・ウィンザー朝 あさ の国王 こくおう ジョージ5世 せい の王妃 おうひ 。
ドイツ のヴュルテンベルク王家 おうけ 傍系 ぼうけい の出身 しゅっしん で、ハノーヴァー朝 あさ のイギリス国王 こくおう ジョージ3世 せい の曾孫 そうそん で、ヴィクトリア女王 じょおう の従 したがえ 姪 めい にあたる。エドワード8世 せい ・ジョージ6世 せい の母 はは 、エリザベス2世 せい の祖母 そぼ 、チャールズ3世 せい の曾祖母 そうそぼ である。
ヴュルテンベルク王 おう フリードリヒ1世 せい の弟 おとうと ルートヴィヒ の孫 まご であるテック公 こう フランツ・パウル と、ケンブリッジ公爵 こうしゃく アドルファス (ジョージ3世 せい の七 なな 男 なん )の次女 じじょ メアリー・アデレード [注釈 ちゅうしゃく 1] の間 あいだ にロンドン で生 う まれた。
代 だい 母 はは (名付 なづ け親 おや )は、ヴィクトリア女王 じょおう で、ファーストネームの「ヴィクトリア」は女王 じょおう 直々 じきじき に与 あた えられた[1] 。愛称 あいしょう は「メイ」[1] 。
メイの父方 ちちかた の祖父 そふ アレクサンダー は貴 き 賤結婚 けっこん により、爵位 しゃくい は有 ゆう するものの収入 しゅうにゅう は無 な く、父 ちち フランツ(英 えい :フランシス)がイギリスの王族 おうぞく であるメアリー・アデレードと婚姻 こんいん したことで、「テック公 こう 」の地位 ちい を授 さづ けられた[2] 。母 はは メアリー・アデレードが従姉 じゅうし ヴィクトリア女王 じょおう から与 あた えられた年金 ねんきん 5000ポンドが一家 いっか の収入 しゅうにゅう であり、裕福 ゆうふく な家柄 いえがら ではなかった[3] 。
少女 しょうじょ 時代 じだい は、派手 はで 好 す きな両親 りょうしん が作 つく った借金 しゃっきん が原因 げんいん で、イギリスより物価 ぶっか が安 やす く、自身 じしん の親戚 しんせき が住 す む諸 しょ 外国 がいこく を転々 てんてん とする生活 せいかつ を送 おく っていた。しかしこのような生活 せいかつ からヨーロッパ各国 かっこく の文化 ぶんか に接 せっ する経験 けいけん を多 おお く重 かさ ね、芸術 げいじゅつ 方面 ほうめん に深 ふか い造詣 ぞうけい を持 も つこととなった。特 とく にイタリア のフィレンツェ に住 す んでいた時期 じき は、多 おお くの美術館 びじゅつかん や教会 きょうかい などを訪 おとず れ、同国 どうこく の先進 せんしん 的 てき な文化 ぶんか や芸術 げいじゅつ に接 せっ する貴重 きちょう な機会 きかい となった。
婚約 こんやく と結婚 けっこん [ 編集 へんしゅう ]
1892年 ねん 撮影 さつえい 、婚約 こんやく 者 しゃ エディと
ヴィクトリア女王 じょおう の配慮 はいりょ により、1885年 ねん にイギリスへ戻 もど ることのできたテック家 か は、リッチモンド・パーク にあるホワイト・ロッジ に定住 ていじゅう することとなった。
王 おう 太子 たいし アルバート・エドワード(後 ご のエドワード7世 せい )の長男 ちょうなん で、次々 つぎつぎ 代 だい の国王 こくおう と目 め とされていたクラレンス公 こう アルバート・ヴィクター (愛称 あいしょう :エディ)は、ヘッセン大公 たいこう 女 おんな アリックス やフランス国王 こくおう の末裔 まつえい エレーヌ・ドルレアン に失恋 しつれん し、縁談 えんだん がまとまらなかった[4] 。そこで、ヴィクトリア女王 じょおう は、エディの幼馴染 おさななじみ であり、女王 じょおう も気 き に入 い っていたメイとの婚約 こんやく を整 ととの えさせた[5] 。
二人 ふたり は1891年 ねん 12月に婚約 こんやく し、翌 よく 1892年 ねん 2月 がつ 27日 にち に結婚 けっこん する予定 よてい だった[6] 。ところが、サンドリンガム・ハウス において1892年 ねん 1月 がつ 7日 にち に狩猟 しゅりょう の帰 かえ りから体調 たいちょう を崩 くず したエディは、翌 よく 8日 にち の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ ったのを最後 さいご に病床 びょうしょう に伏 ふ し、インフルエンザ と肺炎 はいえん を併発 へいはつ して1月 がつ 14日 にち に急逝 きゅうせい した[7] 。
弟 おとうと のジョージ・フレデリック(後 ご のジョージ5世 せい )は、同年 どうねん 5月24日 にち に、女王 じょおう 誕生 たんじょう 日 び 叙勲 じょくん によりヨーク公 こう (イングランド )、インヴァネス伯爵 はくしゃく (スコットランド )、キラーニー男爵 だんしゃく
(アイルランド )に叙爵 じょしゃく され、名実 めいじつ ともに王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ とされた。突如 とつじょ として王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ になったジョージは、若 わか くして婚前 こんぜん 未亡人 みぼうじん となったメイを気遣 きづか い、兄 あに エディから王位 おうい を引 ひ き継 つ ごうと考 かんが え、これは女王 じょおう とも同 どう 意見 いけん だった[8] 。1893年 ねん 5月3日 にち 、ジョージは妹 いもうと ファイフ公爵 こうしゃく 夫人 ふじん ルイーズ王女 おうじょ の邸宅 ていたく で、メイに求婚 きゅうこん し、メイは受諾 じゅだく した[8] 。
メイの花嫁 はなよめ 道具 どうぐ 等 とう は、母方 ははかた の伯母 おば アウグスタ (英 えい :オーガスタ)の嫁 とつ ぎ先 さき であるメクレンブルク=シュトレーリッツ 大公 たいこう 家 か が工面 くめん した[3] 。同年 どうねん 7月 がつ 6日 にち 、セント・ジェームズ宮殿 きゅうでん の王室 おうしつ 礼拝 れいはい 堂 どう で、二人 ふたり は結婚式 けっこんしき を挙 あ げた。
結婚 けっこん 後 ご 、サンドリンガムに定住 ていじゅう した2人 ふたり は5男 なん 1女 じょ をもうけた。長男 ちょうなん には、女王 じょおう から亡 な きアルバート王 おう 配 はい から「アルバート」と付 つ けるよう要望 ようぼう があったが、亡 な きエディから「エドワード 」を洗礼 せんれい 名 めい とし、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ全 すべ てからの守護 しゅご 聖人 せいじん を名付 なづ けた[9] 。次男 じなん はアルバート王 おう 配 はい の命日 めいにち に誕生 たんじょう し「アルバート 」と名付 なづ けた[9] 。ジョージは、奔放 ほんぽう な父 ちち アルバート・エドワードとは異 こと なり、愛人 あいじん を作 つく らず、円満 えんまん な家庭 かてい 生活 せいかつ を送 おく った[10] 。
気丈 きじょう な性格 せいかく で、良 よ くも悪 わる くも王室 おうしつ のしきたりを頑 かたく ななまでに守 まも り続 つづ けたメイは、小姑 こじゅうと のファイフ公爵 こうしゃく 夫人 ふじん ルイーズ や姑 しゅうと のアレクサンドラ王 おう 太子 たいし 妃 ひ とは価値 かち 観 かん や性格 せいかく の不一致 ふいっち から不仲 ふなか だったが、ヴィクトリア女王 じょおう やエドワード7世 せい など王族 おうぞく の人間 にんげん からは信頼 しんらい を寄 よ せられていた。
20世紀 せいき が開幕 かいまく して早々 はやばや 、1901年 ねん 1月 がつ 22日 にち にヴィクトリア女王 じょおう が崩御 ほうぎょ し、その長男 ちょうなん であるエドワード7世 せい が即位 そくい した。ジョージはプリンス・オブ・ウェールズ (王 おう 太子 たいし )、メイはプリンセス・オブ・ウェールズ (王 おう 太子 たいし 妃 ひ )となることになる。
王 おう 太子 たいし 妃 ひ 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
カナダ訪問 ほうもん の公式 こうしき 日程 にってい 表 ひょう の表紙 ひょうし
女王 じょおう 崩御 ほうぎょ に先立 さきだ つ1901年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、英国 えいこく の植民 しょくみん 地 ち だったオーストラリア は6つの植民 しょくみん 地 ち が統合 とうごう された連邦 れんぽう として自治 じち 権 けん を与 あた えられており[11] 、その第 だい 1回 かい 目 め の議会 ぎかい [注釈 ちゅうしゃく 2] 開会 かいかい 式 しき にジョージは女王 じょおう の名代 なだい として臨席 りんせき する予定 よてい だった[13] 。オーストラリアの保守 ほしゅ 政権 せいけん の強 つよ い要望 ようぼう によって訪 おとずれ 豪 ごう は予定 よてい 通 どお り行 おこな われることとなり[13] 、ジョージとメイは女王 じょおう の葬儀 そうぎ にも参列 さんれつ しないまま、同年 どうねん 3月 がつ 、オーストラリア及 およ びニュージーランド やカナダ も含 ふく む海外 かいがい 自治領 じちりょう (ドミニオン)への旅 たび に出発 しゅっぱつ した。夫妻 ふさい は11月1日 にち に帰国 きこく し、11月9日 にち の国王 こくおう 誕生 たんじょう 日 び に、ジョージは正式 せいしき に王 おう 太子 たいし に叙 じょ された[14] 。
王 おう 太子 たいし 夫妻 ふさい は、1905年 ねん 10月から翌 よく 1906年 ねん 3月 がつ まで、インドを訪問 ほうもん した[15] 。
1910年 ねん にエドワード7世 せい が崩御 ほうぎょ すると、夫妻 ふさい はジョージ5世 せい 国王 こくおう と「メアリー王妃 おうひ 」となった。メイは、ファーストネームのヴィクトリアを用 もち いなかった[16] 。
1911年 ねん 撮影 さつえい 、戴冠 たいかん 式 しき に際 さい し
1911年 ねん 6月22日 にち 、ジョージ5世 せい 夫妻 ふさい は戴冠 たいかん 式 しき を執 と り行 おこな った。さらに、ジョージ5世 せい の提案 ていあん により、新 あら たに「インド帝 みかど 冠 かんむり (英語 えいご 版 ばん ) 」を作成 さくせい させた上 うえ で、翌 よく 1911年 ねん 12月12日 にち にデリー で戴冠 たいかん 式 しき (大 だい 謁見 えっけん 式 しき :ダーバール)を執 と り行 おこな った[17] 。メアリー王妃 おうひ には、デヴォンシャー公爵 こうしゃく 夫人 ふじん イヴリン (英語 えいご 版 ばん ) や寝室 しんしつ 付 つ き女官 にょかん (英語 えいご 版 ばん ) シャフツベリ伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん コンスタンス (英語 えいご 版 ばん ) らが同行 どうこう し、大掛 おおが かりな訪問 ほうもん となった[18] 。
翌 よく 1912年 ねん は、アイルランド 独立 どくりつ 問題 もんだい が表面 ひょうめん 化 か して外遊 がいゆう は無 な く、翌 よく 1913年 ねん 5月14日 にち はドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい (ジョージ5世 せい の従兄 じゅうけい )の長女 ちょうじょ ヴィクトリア・ルイーゼ皇女 おうじょ の結婚式 けっこんしき のためベルリン を訪問 ほうもん したが、公式 こうしき 訪問 ほうもん ではなかった[19] 。
1914年 ねん 4月 がつ にジョージ5世 せい は、初 はつ の公式 こうしき 訪問 ほうもん 先 さき に英 えい 仏 ふつ 協商 きょうしょう 10周年 しゅうねん 記念 きねん として、フランスのパリ を選 えら んだ[20] 。外国 がいこく 語 ご や外交 がいこう の苦手 にがて な国王 こくおう を、フランス語 ふらんすご に堪能 かんのう なメアリー王妃 おうひ が支 ささ えた[20] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1917年 ねん 撮影 さつえい 、西部 せいぶ 戦線 せんせん に近 ちか いトラムクール (英語 えいご 版 ばん ) にて、ベルギー国王 こくおう アルベール1世 せい ・エリザベート王妃 おうひ とともに
ジョージ5世 せい の外交 がいこう デビューから間 あいだ もない、1914年 ねん 6月28日 にち 、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の帝位 ていい 継承 けいしょう 者 しゃ フランツ・フェルディナント大公 たいこう が、セルビア人 じん 青年 せいねん に暗殺 あんさつ された(サラエボ事件 じけん )。フランツ・フェルディナント大公 たいこう の妻 つま ゾフィ― は、貴 き 賤結婚 けっこん によりヨーロッパ各国 かっこく で王族 おうぞく としての処遇 しょぐう を受 う けられなかった。英国 えいこく も、ヴィクトリア女王 じょおう の崩御 ほうぎょ 以来 いらい 、葬儀 そうぎ や戴冠 たいかん 式 しき で冷淡 れいたん な扱 あつか いをしてきたが、1912年 ねん と1913年 ねん の大公 たいこう 夫妻 ふさい の訪英 ほうえい 時 じ に、ジョージ5世 せい とフランツ・フェルディナント大公 たいこう が打 う ち解 と け、またメアリー王妃 おうひ も自身 じしん の出自 しゅつじ からゾフィ―を厚遇 こうぐう したところ、同国 どうこく との関係 かんけい は改善 かいぜん の兆 きざ しを見 み せていた矢先 やさき だった[21] 。
事件 じけん 後 ご 、ジョージ5世 せい は、従兄 じゅうけい ヴィルヘルム2世 せい と従弟 じゅうてい ニコライ2世 せい の対立 たいりつ を収 おさ めることはできず、同年 どうねん 7月 がつ 28日 にち にオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく はセルビア に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。各国 かっこく の同盟 どうめい 関係 かんけい を基 もと に、英国 えいこく も三 さん 国 こく 協商 きょうしょう 側 がわ で参戦 さんせん が不可避 ふかひ となりつつあった。8月2日 にち 、ドイツ帝国 ていこく はベルギー王国 おうこく を通過 つうか する旨 むね を通告 つうこく する。翌 よく 8月 がつ 3日 にち 夕方 ゆうがた 、英国 えいこく は参戦 さんせん 派 は のエドワード・グレイ 外相 がいしょう の演説 えんぜつ が喝采 かっさい を浴 あ び、同日 どうじつ 夜 よる には国王 こくおう 夫妻 ふさい 及 およ びエドワード王 おう 太子 たいし がバッキンガム宮殿 きゅうでん のバルコニーに立 た って国民 こくみん に応 こた えた[22] 。8月 がつ 4日 にち 夜 よる 、イギリスはドイツに宣戦 せんせん 布告 ふこく した。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は、総 そう 力戦 りきせん としてその様相 ようそう を一変 いっぺん させ、ヨーロッパ中 ちゅう で王室 おうしつ の存在 そんざい 意義 いぎ や能力 のうりょく が問題 もんだい 視 し されるようになり、ドイツ のホーエンツォレルン家 か やロシア のロマノフ家 か 、バイエルン のヴィッテルスバッハ家 か 、オーストリア=ハンガリー のハプスブルク家 か など多 おお くの王家 おうけ が没落 ぼつらく の道 みち を歩 あゆ んだ。イギリス王室 おうしつ も、国民 こくみん が嫌悪 けんお してやまないドイツの出身 しゅっしん ということもあり、一時 いちじ は他 た の王家 おうけ と同様 どうよう 没落 ぼつらく の一途 いっと を辿 たど るものと思 おも われていた。
しかしジョージ5世 せい は、国民 こくみん の範 はん たらんと質素 しっそ 倹約 けんやく に務 つと め、国民 こくみん の支持 しじ を受 う けた反面 はんめん 、反 はん 独 どく 感情 かんじょう が高 たか まりを見 み せた[23] 。第 だい 一 いち 海軍 かいぐん 卿 きょう のルイス・バッテンベルク は、ドイツ系 けい の出自 しゅつじ を理由 りゆう に解任 かいにん された[24] 。翌 よく 1915年 ねん には世論 せろん の高 たか まりを受 う けて、ドイツ皇帝 こうてい らのガーター騎士 きし 団 だん 員 いん としての資格 しかく を剥奪 はくだつ [25] 、さらに王家 おうけ の家名 かめい をドイツ由来 ゆらい のサクス=コバーグ=ゴータ家 か から王宮 おうきゅう
のウィンザー城 じょう に因 ちな んでウィンザー家 か に改名 かいめい した[26] 。
同様 どうよう に、ルイス・バッテンベルクは姓 せい を英語 えいご (意訳 いやく )の「マウントバッテン」に改 あらた め、メアリー王妃 おうひ の実家 じっか であるテック家 か も称号 しょうごう を放棄 ほうき し、新 あら たにケンブリッジ侯爵 こうしゃく に叙 じょ された[27] 。
また、外国 がいこく の王室 おうしつ との婚姻 こんいん を止揚 しよう するなど、ナショナリズムを意識 いしき した王室 おうしつ の意向 いこう を大々的 だいだいてき に宣伝 せんでん し、王室 おうしつ を国民 こくみん の結束 けっそく を呼 よ びかけ続 つづ けた結果 けっか 、国民 こくみん の熱狂 ねっきょう 的 てき な支持 しじ を得 え ることとなり、王室 おうしつ の地位 ちい は盤石 ばんじゃく なものとなった。
メアリーも夫 おっと の意向 いこう に積極 せっきょく 的 てき に同調 どうちょう し、父方 ちちかた のドイツ系 けい の血筋 ちすじ を否定 ひてい する一方 いっぽう で、母方 ははかた のイギリス系 けい の血筋 ちすじ を前面 ぜんめん に押 お し出 だ して、夫 おっと の国政 こくせい 運営 うんえい をサポートし続 つづ け、軍人 ぐんじん や死傷 ししょう 者 しゃ 達 たち に直接 ちょくせつ 面会 めんかい して親 した しく慰 なぐさ め続 つづ けるなど、王妃 おうひ としての責務 せきむ を誠実 せいじつ なまでに実行 じっこう した。短気 たんき で粗暴 そぼう な性格 せいかく だった夫 おっと が国民 こくみん の王 おう として親 した しまれ、尊敬 そんけい されたのも、メアリーによるこのような内助 ないじょ の功 こう があったからだといわれている。王 おう の晩年 ばんねん が病気 びょうき がちになると、代 か わって日記 にっき を清書 せいしょ するなどした。
また総 そう 力戦 りきせん の結果 けっか 、男女 だんじょ 分 わ け隔 へだ てなく広範囲 こうはんい を対象 たいしょう とした勲章 くんしょう として、1917年 ねん に創設 そうせつ された大 だい 英 えい 帝国 ていこく 勲章 くんしょう は、後 のち にメダルのデザインが変更 へんこう され「国父 こくふ 」ジョージ5世 せい と共 とも に「国母 こくぼ 」メアリー王妃 おうひ が刻 きざ まれている[28] 。
子供 こども たちの結婚 けっこん と後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
長女 ちょうじょ メアリー 王女 おうじょ は1922年 ねん にヘアウッド伯爵 はくしゃく と結婚 けっこん し、円満 えんまん な家庭 かてい を持 も った。そのメアリー王女 おうじょ の結婚式 けっこんしき で、花嫁 はなよめ 介添 かいぞえ 人 じん (英語 えいご 版 ばん ) を務 つと めたエリザベス が、次男 じなん アルバート 王子 おうじ と1923年 ねん 4月 がつ に結婚 けっこん した。アルバートとエリザベス夫妻 ふさい には、1926年 ねん に長女 ちょうじょ エリザベス王女 おうじょ が誕生 たんじょう した。三男 さんなん ヘンリー 王子 おうじ はスコットランド貴族 きぞく の令嬢 れいじょう アリスと結婚 けっこん した。唯一 ゆいいつ 、四男 よつお ジョージ 王子 おうじ のみが、ギリシャ王家 おうけ のマリナ王女 おうじょ と結婚 けっこん し、王族 おうぞく を妃 ひ に迎 むか えている。
国王 こくおう 夫妻 ふさい が築 きず いた円満 えんまん な家庭 かてい (のイメージ)は、1921年 ねん に英国 えいこく を含 ふく む欧州 おうしゅう 各国 かっこく を訪問 ほうもん した日本 にっぽん の皇太子 こうたいし 裕仁 ひろひと 親王 しんのう (後 ご の昭和 しょうわ 天皇 てんのう )にも強 つよ い印象 いんしょう を与 あた えた。
しかし、長男 ちょうなん エドワードは色々 いろいろ な女性 じょせい と浮 う き名 な を流 なが し、王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に相応 ふさわ しくない振 ふ る舞 ま いが続 つづ いた。ジョージ5世 せい は、40歳 さい になっても独身 どくしん のままのエドワードよりも、次男 じなん アルバートとその娘 むすめ エリザベスへの継承 けいしょう に期待 きたい をかけるようになっていった[29] 。
ジョージ5世 せい の肉体 にくたい 的 てき な衰弱 すいじゃく は著 いちじる しく、1936年 ねん 1月 がつ 20日 はつか にサンドリンガム・ハウス で崩御 ほうぎょ した。メアリー王妃 おうひ は、日記 にっき に「エディとジョージ兄弟 きょうだい の死 し に同 おな じ場所 ばしょ で立 た ち会 あ った」旨 むね を記 しる した[30] 。また後年 こうねん 、ジョージ5世 せい の崩御 ほうぎょ が、メアリー王妃 おうひ らの同意 どうい を得 え た「安楽 あんらく 死 し 」であったことも公表 こうひょう されている[30] 。
王 おう 太 ふとし 后 きさき ・太 ふとし 王 おう 太 ふとし 后 きさき 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
孫 まご のエリザベス王女 おうじょ (後 ご のエリザベス2世 せい 女王 じょおう )、マーガレット王女 おうじょ とともに(1939年 ねん 5月 がつ )
夫 おっと ジョージ5世 せい と死別 しべつ し、長男 ちょうなん エドワード8世 せい が王位 おうい に就 つ くと、メアリーは王 おう 太 ふとし 后 きさき となったが、王室 おうしつ に及 およ ぼす影響 えいきょう 力 りょく は相変 あいかわ らず強 つよ いままだった。王 おう 太 ふとし 后 きさき としての責務 せきむ を重要 じゅうよう 視 し し、中 なか でもイギリス王室 おうしつ の品位 ひんい を汚 けが すような言動 げんどう に対 たい しては、自身 じしん の子供 こども たちに対 たい しても極端 きょくたん なまでに厳格 げんかく な対応 たいおう を取 と るようになった。特 とく に、エドワード8世 せい が最終 さいしゅう 的 てき にウォリス・シンプソン と婚約 こんやく する意思 いし を表明 ひょうめい し、結婚 けっこん に対 たい して国内 こくない から強 つよ い反発 はんぱつ が沸 わ き起 お こった際 さい には、彼 かれ の退位 たいい に相当 そうとう なまでの影響 えいきょう 力 りょく をかけたことは、つとに有名 ゆうめい である。
他 ほか にも、生来 せいらい 病弱 びょうじゃく な上 うえ に吃音 きつおん の障害 しょうがい をかかえる次男 じなん ジョージ6世 せい に対 たい して、国民 こくみん から国王 こくおう としての適性 てきせい を危 あや ぶむ声 こえ があがったり、三男 さんなん グロスター公 こう ヘンリーが同性愛 どうせいあい 者 もの であるとの疑惑 ぎわく が浮上 ふじょう したりするなど、子供 こども たちに関 かん するスキャンダル等 とう への火消 ひけ しにも強 つよ い態度 たいど で臨 のぞ み続 つづ けた。
また、「未亡人 みぼうじん となった王妃 おうひ は、新 しん 王 おう の戴冠 たいかん 式 しき には出席 しゅっせき しない」という王家 おうけ の不文 ふぶん 律 りつ を破 やぶ り、ジョージ6世 せい の戴冠 たいかん 式 しき に出席 しゅっせき した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、空襲 くうしゅう の激 はげ しいロンドン (バトル・オブ・ブリテン )や、息子 むすこ ジョージ6世 せい の家族 かぞく が週末 しゅうまつ を過 す ごすウィンザー城 じょう を避 さ け、姪 めい メアリー (英語 えいご 版 ばん ) (弟 おとうと ケンブリッジ侯 こう アドルファス の娘 むすめ )の嫁 とつ ぎ先 さき であるボーフォート公 こう ヘンリー・サマセット の居城 きょじょう バドミントン・ハウス (英語 えいご 版 ばん ) へ避難 ひなん していた。
戦後 せんご 、1952年 ねん 2月 がつ 6日 にち に次男 じなん ジョージ6世 せい が崩御 ほうぎょ した。孫娘 まごむすめ のエリザベス2世 せい が女王 じょおう に即位 そくい して、エリザベス王妃 おうひ が王 おう 太 ふとし 后 きさき となり、太 ふとし 王 おう 太 ふとし 后 きさき となったメアリーの落胆 らくたん は大 おお きく、国民 こくみん にもその悲哀 ひあい が伝 つた わるほどだった[31] 。翌 よく 1953年 ねん 3月24日 にち 、同年 どうねん 6月 がつ のエリザベス2世 せい の戴冠 たいかん 式 しき を見 み ることなく満 まん 85歳 さい で崩御 ほうぎょ した。
後列 こうれつ 左 ひだり から、アルバート 、ヘンリー 、エドワード 前列 ぜんれつ 左 ひだり から、ジョン 、メアリー 、ジョージ
エドワード 王子 おうじ (1894年 ねん - 1972年 ねん ) - 連合 れんごう 王国 おうこく 国王 こくおう エドワード8世 せい
アルバート 王子 おうじ (1895年 ねん - 1952年 ねん ) - 同 どう ジョージ6世 せい
メアリー 王女 おうじょ (1897年 ねん - 1965年 ねん ) - ヘアウッド伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん 、プリンセス・ロイヤル
ヘンリー 王子 おうじ (1900年 ねん - 1974年 ねん ) - グロスター公 こう
ジョージ 王子 おうじ (1902年 ねん - 1942年 ねん ) - ケント公 こう
ジョン 王子 おうじ (1905年 ねん - 1919年 ねん ) - 夭折 ようせつ
母 はは メアリー・アデレード(2)の2人 ふたり の祖父 そふ 、ジョージ3世 せい (12)はジョージ5世 せい の父 ちち エドワード7世 せい の、フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム(14)はジョージ5世 せい の母 はは アレクサンドラ・オブ・デンマーク の、それぞれ曽 そ 祖父 そふ である。
王家 おうけ の宝石 ほうせき のリストを作 つく らせたり、貴族 きぞく の家 いえ に行 い くと家宝 かほう を褒 ほ めちぎって献上 けんじょう させたりした事 こと でも悪名 あくめい 高 たか く、「よく言 い っても強盗 ごうとう の一 いち 歩 ほ 手前 てまえ のような方 ほう で」とまで言 い われた。ロマノフ家 か の人々 ひとびと がイギリスに亡命 ぼうめい した時 とき には、王妃 おうひ に見 み つからないように一生懸命 いっしょうけんめい 品物 しなもの を隠 かく した(結局 けっきょく は取 と り上 あ げられてしまった)という。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう バドミントン・ハウスへ避難 ひなん していた折 おり 、ツタ が嫌 きら いだったメアリーは、ツタに覆 おお われた美 うつく しい館 かん と有名 ゆうめい であったにもかかわらず、自分 じぶん が連 つ れてきた召使 めしつか いに命 めい じて勝手 かって に刈 か らせた。王 おう 太 ふとし 后 きさき 付 つ きの55人 にん の召使 めしつか いたちは館 かん の右翼 うよく に陣取 じんど り、ボーフォート公爵 こうしゃく 家 か の召使 めしつか いたちにことあるごとに「我 われ らはメアリー王 おう 太 ふとし 后 きさき にお仕 つか えしている」と威張 いば るため、両者 りょうしゃ の召使 めしつか いたちの仲 なか は険悪 けんあく となった。ボーフォート公 こう 夫妻 ふさい はその中間 ちゅうかん に立 た って右往左往 うおうさおう し、避難 ひなん していた7年 ねん もの間 あいだ ひたすら忍 にん の字 じ で耐 た えたという。
「メアリー王妃 おうひ のドールハウス 」は、彼女 かのじょ に贈 おく る目的 もくてき で制作 せいさく され、1924年 ねん に完成 かんせい した。いとこおばのメアリー・ルイーズ・オブ・シュレスウィグ=ホルスタイン が発案 はつあん して作 つく られている。
1930年代 ねんだい 初頭 しょとう にキュナード・ライン が建造 けんぞう していた大型 おおがた 客船 きゃくせん は、世界 せかい 恐慌 きょうこう の影響 えいきょう で資金 しきん 不足 ふそく に直面 ちょくめん し工事 こうじ 中止 ちゅうし に追 お い込 こ まれる。最終 さいしゅう 的 てき には政府 せいふ の資金 しきん 援助 えんじょ が認 みと められ、竣工 しゅんこう の暁 あかつき には「ヴィクトリア」と命名 めいめい されることが内定 ないてい していた。その裁可 さいか のため社長 しゃちょう 代理 だいり がジョージ5世 せい に謁見 えっけん した際 さい 、「この新 しん 客船 きゃくせん には“イギリスの偉大 いだい な女王 じょおう (クイーン)”の名 な を冠 かん します」と遠 とお まわしに奏上 そうじょう したところ、王妃 おうひ (クイーン)メアリーのことと勘違 かんちが いして「そうか。ありがとう」と言 い われたことから、急遽 きゅうきょ 「クイーン・メリー 」に改称 かいしょう されている。
1935年 ねん 発行 はっこう の2カナダドル 紙幣 しへい に肖像 しょうぞう が使用 しよう されている。
メアリー王妃 おうひ の紋章 もんしょう
1867年 ねん 5月 がつ 26日 にち – 1893年 ねん 7月 がつ 6日 にち
テック公爵 こうしゃく 令嬢 れいじょう ヴィクトリア・メアリー殿下 でんか (Her Serene Highness Princess Victoria Mary of Teck )
1893年 ねん 7月 がつ 6日 にち – 1901年 ねん 1月 がつ 22日 にち
ヨーク公爵 こうしゃく 夫人 ふじん /妃殿下 ひでんか (Her Royal Highness The Duchess of York )
1901年 ねん 1月 がつ 22日 にち – 1901年 ねん 11月9日 にち
コーンウォール並 なら びにヨーク公爵 こうしゃく 夫人 ふじん /妃殿下 ひでんか (Her Royal Highness The Duchess of Cornwall and York )
1901年 ねん 11月9日 にち – 1910年 ねん 5月 がつ 6日 にち
プリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公 おおやけ 妃 ひ )殿下 でんか (Her Royal Highness The Princess of Wale s)
1910年 ねん 5月 がつ 6日 にち – 1936年 ねん 1月 がつ 20日 はつか
王 おう 后 きさき 陛下 へいか (Her Majesty The Queen )
1936年 ねん 1月 がつ 20日 はつか – 1953年 ねん 3月 がつ 24日 にち
メアリー王 おう 太 ふとし 后 きさき 陛下 へいか (Her Majesty Queen Mary )
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