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ウィリアム・ラム (だい2だいメルバーン子爵ししゃく)

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だい2だいメルバーン子爵ししゃく
ウィリアム・ラム
William Lamb
2nd Viscount of Melbourne
メルバーン子爵ししゃく(1844ねん
生年月日せいねんがっぴ 1779ねん3月15にち
出生しゅっしょう グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく ロンドン
ぼつ年月日ねんがっぴ (1848-11-24) 1848ねん11月24にち(69さいぼつ
死没しぼつ イギリスの旗 イギリス ハートフォードシャー
出身しゅっしんこう ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ
ぜんしょく 弁護士べんごし
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとうトーリーとうカニング英語えいごばん→ホイッグとう
称号しょうごう だい2だいメルバーン子爵ししゃく枢密すうみつ顧問こもんかん(PC)、王立おうりつ協会きょうかいフェロー(FRS)
配偶はいぐうしゃ キャロライン
親族しんぞく 初代しょだいメルバーン子爵ししゃく英語えいごばんちち
だい4だいベスバラ伯爵はくしゃく(義兄ぎけい)
だい3だいパーマストン子爵ししゃく(義弟ぎてい)
サイン

在任ざいにん期間きかん 1834ねん7がつ16にち - 1834ねん11月14にち
1835ねん4がつ18にち - 1841ねん8がつ30にち
おう/女王じょおう ウィリアム4せい
ウィリアム4せいヴィクトリア

内閣ないかく グレイ伯爵はくしゃく内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1830ねん11月22にち - 1834ねん7がつ16にち

内閣ないかく カニング内閣ないかくゴドリッチ子爵ししゃく内閣ないかくウェリントン公爵こうしゃく内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1827ねん4がつ29にち - 1828ねん6月21にち

イギリスの旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1828ねん7がつ22にち - 1848ねん11月24にち[1]

選挙せんきょ レオミンスター選挙せんきょ英語えいごばん
ハーディントン・バー選挙せんきょ英語えいごばん
ポーターリントン選挙せんきょ英語えいごばん
ピーターバラ選挙せんきょ英語えいごばん
ハートフォードシャー選挙せんきょ英語えいごばん
ニューポート選挙せんきょ英語えいごばん
ブレッチングリー選挙せんきょ英語えいごばん[1]
在任ざいにん期間きかん 1806ねん1がつ31にち - 1806ねん11月1にち
1806ねん11月24にち - 1807ねん5月30にち
1807ねん5月23にち - 1812ねん10月24にち
1816ねん4がつ16にち - 1819ねん11月30にち
1819ねん11月29にち - 1826ねん6月16にち
1827ねん4がつ24にち - 1827ねん5月25にち
1827ねん5月7にち - 1828ねん7がつ23にち[1]
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だい2だいメルバーン子爵ししゃくウィリアム・ラム英語えいご: William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC PC (Ire) FRS1779ねん3月15にち - 1848ねん11月24にち)は、イギリス政治せいじ貴族きぞく弁護士べんごし

グレイ伯爵はくしゃく退任たいにんホイッグとう指導しどうし、ホイッグとう政権せいけん首相しゅしょうを2にわたってつとめた(だい11834ねんだい21835ねん-1841ねん)。ウィリアム4せい治世ちせいからヴィクトリアあさ初期しょきにかけて保守党ほしゅとうトーリーとう党首とうしゅロバート・ピール政権せいけんうばった。ヴィクトリア女王じょおう即位そくい首相しゅしょうであり、女王じょおう寵愛ちょうあいけた。1842ねん政界せいかいだい一線いっせん退しりぞき、わってジョン・ラッセルきょうがホイッグとう指導しどうしていく。

概要がいよう

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1779ねんメルバーン子爵ししゃくいえ次男じなんとして誕生たんじょうケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ進学しんがく。さらにリンカーン法曹ほうそういんまなび、弁護士べんごしとなる。1805ねんあににメルバーン子爵ししゃく跡取あととりとなる。また同年どうねんキャロライン・ポンソンビー結婚けっこんした()。

1806ねん庶民しょみんいん議員ぎいんはつ当選とうせんはじホイッグとう所属しょぞくしていたが、1816ねんからトーリーとう移籍いせきした。つまキャロラインの不倫ふりん事件じけん著名ちょめいとなる(若手わかて議員ぎいん)。

1827ねんジョージ・カニング内閣ないかくアイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばんつとめた。1828ねんのカニングの死後しごカニング英語えいごばんばれるカニングの路線ろせん継承けいしょうする派閥はばつくわわる。ウェリントン公爵こうしゃく内閣ないかくではのカニング閣僚かくりょうとともに首相しゅしょうウェリントン公爵こうしゃく守旧しゅきゅうてき方針ほうしん反発はんぱつして辞職じしょくした(トーリーとう政権せいけん閣僚かくりょう)。

そのウィリアム・ハスキソン指導しどうのカニングぞくして野党やとうとなった。1828ねん爵位しゃくい継承けいしょうし、貴族きぞくいん議員ぎいんとなる。1830ねんのハスキソンの死後しごにはカニング継承けいしょう。ホイッグとうとの連携れんけい推進すいしんし、同年どうねん11がつにはウェリントン公爵こうしゃくないかく倒閣とうかくした(カニングとしての野党やとう)。

わって成立せいりつしたホイッグとう政権せいけんグレイ伯爵はくしゃく内閣ないかく内務ないむ大臣だいじんとして入閣にゅうかくどう内閣ないかくおこなわれただいいち選挙せんきょほう改正かいせいをめぐっては慎重しんちょうだった(ホイッグとう政権せいけん閣僚かくりょう)。

1834ねん7がつにグレイ伯爵はくしゃく首相しゅしょう辞職じしょくするとわって組閣そかく大命たいめいけ、だいいちメルバーン子爵ししゃくないかく英語えいごばん組閣そかくした。しかし国王こくおうウィリアム4せい人事じんじあんをめぐって対立たいりつふかめ、同年どうねん11がつ罷免ひめんされた(だいいちメルバーン子爵ししゃくないかく)。

後任こうにん保守党ほしゅとう政権せいけんだい1ピール内閣ないかく1835ねん4がつそう辞職じしょくみ、だいメルバーン子爵ししゃくないかく英語えいごばん成立せいりつさせた。改革かいかくおさえることを条件じょうけん与党よとう攻撃こうげきひかえるという協約きょうやく野党やとう保守党ほしゅとうむすんで政権せいけん運営うんえいおこなった(組閣そかくまでの経緯けいい)。1837ねん6がつ即位そくいしたヴィクトリア女王じょおうから相談役そうだんやくとして信頼しんらいされ、寵愛ちょうあいけた(ヴィクトリア女王じょおう即位そくい)。1838ねんがった労働ろうどうしゃ運動うんどうチャーティズム運動うんどう徹底的てっていてき弾圧だんあつした(チャーティズム運動うんどうまり)。1839ねん5月には議会ぎかい掌握しょうあくまりで辞表じひょう提出ていしゅつしたが、後任こうにんピールの寝室しんしつ女官にょかん人事じんじ女王じょおう拒否きょひする事件じけんがあったため、メルバーンが続投ぞくとうすることになった(寝室しんしつ女官にょかん事件じけん)。在任ざいにんちゅう外務がいむ大臣だいじんパーマストン子爵ししゃく主導しゅどう阿片あへん戦争せんそうだいいちアフガン戦争せんそう開始かいしし、またベルギー独立どくりつ革命かくめいだいエジプト・トルコ戦争せんそう仲裁ちゅうさいおこなった(外交がいこう問題もんだい)。1841ねん6がつ解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんにホイッグとうやぶれた結果けっかそう辞職じしょくした(そう辞職じしょく)。

首相しゅしょう退任たいにん翌年よくねん1842ねんにホイッグとう党首とうしゅジョン・ラッセルきょうランズダウン侯爵こうしゃくゆずった。退任たいにん女王じょおう親密しんみつだったが、女王じょおう相談役そうだんやくおっとアルバート公子こうしてんじつつあったため、宮中きゅうちゅうでの影響えいきょうりょく低下ていかしていった。1848ねん死去しきょ首相しゅしょう退任たいにん)。

経歴けいれき

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わかころ肖像しょうぞうトマス・ローレンス

1779ねん3月15にち初代しょだいメルバーン子爵ししゃくペニストン・ラム英語えいごばん次男じなんとしてロンドンまれた。はははその夫人ふじんエリザベス英語えいごばん

はは浮気うわき相手あいてエグルモント伯爵はくしゃく英語えいごばんともわれる[2][3]。ラム代々だいだいホイッグとう支持しじ家系かけいであった[2]

イートンこうグラスゴー大学だいがくケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジまなぶ。そのリンカーン法曹ほうそういん入学にゅうがくし、1804ねん弁護士べんごし資格しかく取得しゅとくした[4]

ウィリアムは次男じなんであり、メルバーン子爵ししゃく継承けいしょうしゃとして期待きたいされていなかったが、1805ねんあにペニストン英語えいごばんにより跡取あととりとなった[2]同年どうねんベスバラ伯爵はくしゃくむすめ小説しょうせつキャロライン・ポンソンビー結婚けっこんした[2][5]

若手わかて議員ぎいん

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1806ねんレオミンスター選挙せんきょ英語えいごばんからはじめて庶民しょみんいん議員ぎいん当選とうせんした[4]所属しょぞく政党せいとう当初とうしょホイッグとうだったが、1812ねんにはカトリック解放かいほう支持しじしたために落選らくせん[6]

1816ねん再選さいせんされたさいトーリーとう移籍いせきした[7]。トーリー党内とうない自由じゆう主義しゅぎであるジョージ・カニング支持しじしゃになっていった[6]

つまキャロライン

かれ名前なまえ一般いっぱんわたったのは、1812ねんつまキャロラインの醜聞しゅうぶんのせいだった。キャロラインがウィリアムの友人ゆうじんであった詩人しじんバイロン男爵だんしゃくとの不倫ふりんはしったのである。この結果けっか2人ふたり1825ねん離婚りこんした[2][5]

一方いっぽうでウィリアム自身じしん国王こくおうジョージ4せい放蕩ほうとう仲間なかまであり、おおくの女性じょせい関係かんけいした[5]二人ふたり女性じょせいから離婚りこんをめぐりうったえられたことがあるほどである[8]

トーリーとう政権せいけん閣僚かくりょう

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1827ねん4がつにトーリーとう穏健おんけんホイッグとう穏健おんけんによる連立れんりつ政権せいけんジョージ・カニング内閣ないかく誕生たんじょうすると、そのアイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん閣外かくがい大臣だいじん)となった[7]

8がつにカニングが急死きゅうしし、ゴドリッチ子爵ししゃく短期たんき政権せいけんて、1828ねん1がつにトーリーとう守旧しゅきゅうウェリントン公爵こうしゃく内閣ないかく発足ほっそくした。この内閣ないかくにも一応いちおう残留ざんりゅうしたウィリアムだったが、かれカニング英語えいごばんばれるカニング首相しゅしょう路線ろせん支持しじする派閥はばつぞくしていた。カニングはカトリック問題もんだい選挙せんきょほう改正かいせい問題もんだいをめぐってウェリントン公爵こうしゃく対立たいりつふかめていき、結局けっきょく1828ねん6がつには陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんウィリアム・ハスキソン陸軍りくぐん植民しょくみんしょう事務じむ長官ちょうかんパーマストン子爵ししゃく外相がいしょうダドリー伯爵はくしゃく英語えいごばん商務しょうむしょうチャールズ・グラント(のグレネルグ男爵だんしゃく)英語えいごばんカニング閣僚かくりょう英語えいごばんとともに辞職じしょくした[9]

カニングとしての野党やとう

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下野げやは、ハスキソンをリーダーとするカニングなか最大さいだい派閥はばつハスキソンぞくした。

1828ねん7がつ22にちちち死去しきょによりメルバーン子爵ししゃくをはじめとする爵位しゃくい継承けいしょう。メルバーン子爵ししゃくアイルランド貴族きぞく爵位しゃくいだが、いだ爵位しゃくいなかには連合れんごう王国おうこく貴族きぞくのメルバーン男爵だんしゃくもあったため、貴族きぞくいん移籍いせきすることとなった。

1830ねん9月にハスキソンが鉄道てつどう事故死じこしするとパーマストン子爵ししゃくとともにカニングハスキソンのリーダーとなった。メルバーンきょうとパーマストンきょう早速さっそくホイッグとうホランド男爵だんしゃくとロンドンで会合かいごうし、りょうとう協力きょうりょく確認かくにんした。野党やとう結束けっそくのもと、11月15にちには王室おうしつ反対はんたい動議どうぎ可決かけつさせてウェリントン公爵こうしゃくないかくそう辞職じしょくんだ[10]

ホイッグとう政権せいけん閣僚かくりょう

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ホイッグとうぎらいの国王こくおうジョージ4せい崩御ほうぎょ野党やとう勢力せいりょく結集けっしゅうにより、1830ねん11月にホイッグとうきゅうカニング、トーリー分派ぶんぱ連立れんりつによるグレイ伯爵はくしゃく内閣ないかく成立せいりつした[11]。メルバーン子爵ししゃくはこの内閣ないかく内務ないむ大臣だいじんとして入閣にゅうかくした。

内閣ないかくさい優先ゆうせん目標もくひょう選挙せんきょほう改正かいせいであった。しかしどの程度ていど改正かいせいおこなうかはかくないでも意見いけんがあった。だい法官ほうかんブルーム男爵だんしゃくおう璽尚しょダラム男爵だんしゃく陸軍りくぐん植民しょくみんしょう事務じむ長官ちょうかんジョン・ラッセルきょう積極せっきょくてき改正かいせい希望きぼうしていたが、メルバーン子爵ししゃく外相がいしょうパーマストン子爵ししゃく最低さいてい限度げんど改正かいせい希望きぼうしていた[12]

しかしグレイ伯爵はくしゃく指導しどうりょくにより内閣ないかく分裂ぶんれつすることなく1832ねん6がつだいいち選挙せんきょほう改正かいせい達成たっせいした[13]

だいいちメルバーン子爵ししゃくないかく

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1833ねん庶民しょみんいんえがいた

1834ねん5がつのアイルランド国教こっきょうかいおさめられる教会きょうかいぜい転用てんよう問題もんだいをめぐってかくない分裂ぶんれつし、転用てんよう反対はんたいする陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんスタンリーきょうのダービー伯爵はくしゃくらホイッグとう右派うは離党りとうしたことでグレイ伯爵はくしゃくないかく1834ねん7がつそう辞職じしょくした。グレイ伯爵はくしゃく国王こくおうウィリアム4せい後任こうにん首相しゅしょうとしてメルバーン子爵ししゃく推挙すいきょした。これは退任たいにんする首相しゅしょう後任こうにん首相しゅしょう国王こくおう推挙すいきょしたはじめての事例じれいとなった[14]

しかしホイッグ左派さはのジョン・ラッセルきょう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむにすることに反対はんたいした国王こくおうウィリアム4せいとメルバーン子爵ししゃく対立たいりつふかまり、国王こくおうは1834ねん11月14にちにはメルバーン子爵ししゃく罷免ひめんしたため、このだいいちメルバーン子爵ししゃくないかく英語えいごばん短命たんめい政権せいけんわった[15]

もっともメルバーン子爵ししゃくにとって罷免ひめん計算けいさんのうちであったという。というのも少数しょうすうとう保守党ほしゅとう(トーリーとう政権せいけんをわざと誕生たんじょうさせることでその無能むのうさをさらし、すぐに政権せいけん復帰ふっきして政権せいけん安定あんていはかることができるとかんがえられたからである[16]

だいメルバーン子爵ししゃくないかく

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組閣そかくまでの経緯けいい

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ウィリアム4せい保守党ほしゅとうウェリントン公爵こうしゃく大命たいめいあたえたが、ウェリントン公爵こうしゃく保守党ほしゅとう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむサー・ロバート・ピール推挙すいきょし、イタリア訪問ほうもんちゅうのピールがもどるまでの暫定ざんていという条件じょうけん組閣そかくした。1834ねん12月にだい1ピールないかく樹立じゅりつされた[15]

ピール首相しゅしょうはウィリアム4せいすすめで解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんおこない、保守党ほしゅとう議席ぎせき多少たしょう回復かいふくさせたものの、選挙せんきょにメルバーン子爵ししゃくはホイッグとう急進きゅうしん・オコンネル(アイルランド独立どくりつ野党やとう共闘きょうとう関係かんけい成立せいりつさせ、アイルランド教会きょうかいぜい問題もんだいで1835ねん4がつにピールないかくそう辞職じしょくんだ[15]

ウィリアム4せいはメルバーン子爵ししゃくきらい、信頼しんらいするグレイ伯爵はくしゃく組閣そかく大命たいめいあたえようとしたものの、高齢こうれいにより政界せいかい引退いんたい決意けついしていたグレイ伯爵はくしゃく大命たいめい拝辞はいじし、わりにメルバーン子爵ししゃく大命たいめいあたえるよう助言じょげんした。その結果けっかだいメルバーン子爵ししゃくないかく英語えいごばん成立せいりつした[17]

保守党ほしゅとうは、急進きゅうしんやオコンネルもとめる過激かげき改革かいかくおこなわないかぎりホイッグとう政権せいけん攻撃こうげきしないことをメルバーン政権せいけん密約みつやく約定やくじょうした[18]。メルバーン子爵ししゃく政権せいけんはこの密約みつやく基礎きそとして保守党ほしゅとう急進きゅうしん・オコンネルあいだ均衡きんこうをとりながら6ねんにわたって政権せいけん担当たんとうすることになった[19]

ヴィクトリア女王じょおう即位そくい

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わか女王じょおうヴィクトリア

1837ねん6がつ20日はつか深夜しんやにウィリアム4せい崩御ほうぎょした。首相しゅしょうメルバーン子爵ししゃく同日どうじつ午前ごぜん9国王こくおうめい推定すいてい王位おうい継承けいしょうしゃヴィクトリア王女おうじょのいるケンジントン宮殿きゅうでん参内さんだいした。ヴィクトリアの引見いんけんけ、つづ国政こくせいまかせるとの言葉ことばたまわった[20]

ヴィクトリアは5月24にちに18さいとなり、成人せいじんむかえて、ははケントこうははのアドバイザーであるケント公爵こうしゃく家令かれいサー・ジョン・コンロイ影響えいきょうからだっしたばかりであり、みずからのアドバイザーを必要ひつようとしていた。その役割やくわりたすことになったのがメルバーン子爵ししゃくだった。女王じょおうかれに、わずか生後せいご8ヶ月かげつ死別しべつしたちちケントこう面影おもかげいだしてしたい、かれもそのころ息子むすこくしていたのだった。メルバーン子爵ししゃくウィンザーじょう私室ししつあたえられていたため、女王じょおうは40さい年上としうえ首相しゅしょう結婚けっこんするつもりなのかとうわさがたてられた。

メルバーン子爵ししゃくいちにちのほとんどを宮廷きゅうていですごし、様々さまざま問題もんだいでヴィクトリアの相談そうだんり、なかばヴィクトリアの個人こじん秘書ひしょになっていった[21]かれ洗練せんれんされたマナーと話術わじゅつはヴィクトリアを魅了みりょうしてまなかった[22]二人ふたり毎日まいにち6あいだがくわせてごしたといい[23]君臣くんしん関係かんけいえて、まるでちちむすめのような関係かんけいになっていった[24]

このころ女王じょおう日記にっきにも毎日まいにちのように「メルバーンきょう」「Mきょう」の名前なまえ登場とうじょうする[24][25]。ヴィクトリアがはじめて貴族きぞくいん出席しゅっせきして議会ぎかい開会かいかい宣言せんげんおこなった日記にっきには「かれ玉座ぎょくざがわひかえていてくれるだけで安心あんしんできる。」とかれている[26]

チャーティズム運動うんどうまり

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1838ねんには労働ろうどうしゃ運動うんどうさかんになり、「劣等れっとう処遇しょぐう原則げんそく[注釈ちゅうしゃく 1]もうとする救貧きゅうひんほう改正かいせい英語えいごばん反対はんたいする運動うんどう工場こうじょうほう改正かいせいによる10あいだ労働ろうどうほう文化ぶんかもとめる運動うんどう拡大かくだいしてイングランド北部ほくぶ中心ちゅうしんチャーティズム運動うんどう形成けいせいされるようになった[28]

1838ねん5がつにはウィリアム・ラベット英語えいごばんによって「人民じんみん憲章けんしょう[注釈ちゅうしゃく 2]提唱ていしょうされ、チャーティズム運動うんどう旗印はたじるしとなった[29]。チャーティズム運動うんどうは、人民じんみん憲章けんしょう支持しじ署名しょめい国民こくみんからあつめて、1839ねん7がつ議会ぎかい請願せいがんするというかたち進展しんてんしていった[30]

ところが急進きゅうしんふくめて議会ぎかいのほぼぜん議員ぎいんがこの請願せいがん拒否きょひした。メルバーン子爵ししゃく政治せいじ改革かいかくはあくまで議会ぎかいないおこなわれるべきとかんがえており、こうした議会ぎかいがいからの圧力あつりょく運動うんどうには抑圧よくあつ姿勢しせいのぞんだ[31]。メルバーン子爵ししゃくは1839ねんから1840ねんにかけて500にんのチャーティズム運動うんどう指導しどうしゃ逮捕たいほさせている[32]

寝室しんしつ女官にょかん事件じけん

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保守党ほしゅとうだい2だいじゅん男爵だんしゃくサー・ロバート・ピール

1839ねん5がつはじめにメルバーン子爵ししゃく議会ぎかい提出ていしゅつしたえいりょうジャマイカ奴隷どれい制度せいど廃止はいし法案ほうあん庶民しょみんいん通過つうかしたものの、わずか5ひょうという僅差きんさであったため、メルバーン子爵ししゃくみずからの求心力きゅうしんりょく低下ていかさとり、5月7にちにヴィクトリアに辞表じひょう提出ていしゅつした[33]。ヴィクトリアの衝撃しょうげきおおきく、くずれたという[34][35]

わって組閣そかく大命たいめいけた保守党ほしゅとう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむサー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃくは、現在げんざいホイッグとう議員ぎいんつまめられる宮中きゅうちゅう女官にょかん保守党ほしゅとう議員ぎいんつまえることを提言ていげんして、女王じょおう拒否きょひされた。これにより女王じょおうとピールのあいだ寝室しんしつ女官にょかん人事じんじけんをめぐって政治せいじ闘争とうそう勃発ぼっぱつした(寝室しんしつ女官にょかん事件じけん[36]

メルバーンきょう女王じょおうへの書簡しょかんなかで「(女官にょかん人事じんじは)陛下へいか個人こじん事柄ことがらなので、陛下へいかのご希望きぼうどお主張しゅちょうされるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩じょうほできぬなら、拒絶きょぜつして交渉こうしょう長引ながびかせるべきではない」と助言じょげんした[37]。しかし女王じょおうもピールもいちかず両者りょうしゃ対立たいりつふかまると、メルバーンきょうはピールの強引ごういん態度たいど反感はんかんち、ホイッグとう幹部かんぶかいにもはかったうえで女王じょおう支持しじ表明ひょうめいした[38]

結局けっきょくピールは5月12にちにも組閣そかく大命たいめい拝辞はいじし、メルバーンきょう首相しゅしょう続投ぞくとうすることに同意どういした。よく13にちには保守党ほしゅとう貴族きぞくいん院内いんない総務そうむウェリントン公爵こうしゃくもメルバーンきょう政権せいけん運営うんえい協力きょうりょくすることを表明ひょうめいした[39]

メルバーン子爵ししゃくもこの事件じけん立憲りっけん主義しゅぎ抵触ていしょくする可能かのうせいがあると理解りかいしており、留任りゅうにん複雑ふくざつ気持きもちであったという[40]

こののちもメルバーン子爵ししゃくとヴィクトリア女王じょおう親密しんみつ関係かんけいつづいたが、次第しだい女王じょおう相談役そうだんやくは1840ねん女王じょおう結婚けっこんしたアルバート公子こうしになっていたため、メルバーン子爵ししゃく宮廷きゅうていない影響えいきょうりょく徐々じょじょちいさくなっていった[41]

ただ、メルバーン子爵ししゃくをこまねいていたわけではなく、自身じしん秘書官ひしょかんジョージ・アンソン英語えいごばんをアルバート公子こうし秘書官ひしょかん推挙すいきょするなど、宮廷きゅうていへの影響えいきょうりょく保持ほじつとめている。メルバーン子爵ししゃくいきのかかった人物じんぶつけられたかたちになったアルバート公子こうしは、女王じょおう不満ふまんをこぼした[42]。しかし、アンソンは公平こうへい態度たいど公子こうし有力ゆうりょく政治せいじとのあいだささえ、二人ふたりつよ信頼しんらい関係かんけいきずいていった。アンソンとともに政治せいじ経験けいけんかさねたアルバート公子こうしはメルバーン子爵ししゃく死後しご女王じょおうもっと影響えいきょうりょくおよぼす立場たちばとなった[43]

外交がいこう問題もんだい

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メルバーン子爵ししゃく首相しゅしょう在任ざいにんちゅう外交がいこう問題もんだいあわただしかった。ベルギー独立どくりつ革命かくめいをめぐる国際こくさい紛争ふんそう仲裁ちゅうさいだいエジプト・トルコ戦争せんそうによってきた国際こくさい紛争ふんそう仲裁ちゅうさいだい東方とうほう問題もんだい)、アメリカとの国境こっきょう紛争ふんそうきよし自由じゆう貿易ぼうえき強要きょうようするために発動はつどうしたアヘン戦争せんそう、ロシアの南下なんか政策せいさくへの対抗たいこうのために発動はつどうしただいいちアフガン戦争せんそう外交がいこう紛争ふんそうがたてつづけにきた。外交がいこう問題もんだい基本きほんてき外相がいしょうであったパーマストン子爵ししゃく全幅ぜんぷく信頼しんらいをおいてまかせていた。パーマストン子爵ししゃくはメルバーン首相しゅしょういもうと長年ながねん愛人あいじん関係かんけいすえ結婚けっこんしており公私こうしどもしたしい間柄あいだがらであった[44]

しかしパーマストン外交がいこうのうちだいいちアフガン戦争せんそう散々さんざん失敗しっぱいわり、内閣ないかく崩壊ほうかい原因げんいんともなった[45]

そう辞職じしょく

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1841ねん4がつ穀物こくもつほう廃止はいし穀物こくもつ自由じゆう貿易ぼうえき運動うんどうへの譲歩じょうほ政権せいけん延命えんめいねらったが、地主じぬしなど農業のうぎょう利益りえき代弁だいべんしゃたちの反発はんぱつい、1841ねん4がつ提出ていしゅつした砂糖さとう関税かんぜい低減ていげん法案ほうあん議会ぎかい否決ひけつされた。内閣ないかく信任しんにん相当そうとう法案ほうあん否決ひけつそう辞職じしょく解散かいさんそう選挙せんきょすべきであったが、メルバーン子爵ししゃくはそのまま政権せいけん居座いすわった。これに対抗たいこうしてピールは6がつ内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつし、1ひょう可決かけつされた。これをけてメルバーン子爵ししゃく解散かいさんそう選挙せんきょ英語えいごばんってたが、敗北はいぼくした[46]

メルバーン子爵ししゃくないかくは1841ねん8がつ内閣ないかくそう辞職じしょくすることとなった[46]保守党ほしゅとうへの政権せいけん交代こうたいまえにしたメルバーン子爵ししゃくは、アルバート公子こうし仲介ちゅうかいやくとしてピールと交渉こうしょうすることにめた。アルバート公子こうしアンソン秘書官ひしょかんつうじてピールと連絡れんらくをとり、両者りょうしゃは「保守党ほしゅとう政権せいけん樹立じゅりつともない、ホイッグ女王じょおう女官にょかん退しりぞき、ピールが推挙すいきょした女官にょかんえること」に合意ごういたっした[47]

こうしてピール政権せいけん英語えいごばんはスムーズに発足ほっそくすることができた。

首相しゅしょう退任たいにん

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首相しゅしょう退任たいにん翌年よくねん1842ねんやまいたおれたことでホイッグとう党首とうしゅしょくとホイッグとう貴族きぞくいん院内いんない総務そうむしょくからも退任たいにんした。後任こうにんとなったのはジョン・ラッセルきょう庶民しょみんいん)とランズダウン侯爵こうしゃく貴族きぞくいん)だった[41]

首相しゅしょう退しりぞいたのちも女王じょおうとの文通ぶんつうつづいた。文通ぶんつうでは女王じょおう政治せいじ問題もんだい議論ぎろんし、退任たいにんしたにもかかわらず官吏かんり任命にんめいについて意見いけんもした[48]。そのため、メルバーン子爵ししゃくが「ヘイツベリー男爵だんしゃく有能ゆうのうなのでちゅうオーストリア大使たいし英語えいごばんとすべき」とすと、女王じょおう外務がいむ大臣だいじんに「有能ゆうのうなヘイツベリーきょうをなにか重要じゅうよう任務にんむかせよ」と要求ようきゅうした[48]。これをったシュトックマー男爵だんしゃく侍医じい、アルバート公子こうし顧問こもん)はおどろき、アンソン秘書官ひしょかん派遣はけんして「立憲りっけんてきである」といましめた。行動こうどうを諫められたメルバーン子爵ししゃくはアンソン秘書官ひしょかんいかりを爆発ばくはつさせ、そのもおかまいなしに女王じょおう文通ぶんつうつづけた。しかしシュトックマー男爵だんしゃくあきらめずも諫言をつづけると、メルバーン子爵ししゃく女王じょおうへの手紙てがみ次第しだいどくにもくすりにもならない内容ないようわっていったという[49]

1845ねん7がつにグレイ伯爵はくしゃく死去しきょするとメルバーン子爵ししゃく一番いちばんの「長老ちょうろう政治せいじ」になった[50]

1845ねんまつにはピールないかく穀物こくもつほう廃止はいしをめぐってかくない分裂ぶんれつ状態じょうたいになり、そう辞職じしょく意向いこう表明ひょうめいした。ホイッグとう党首とうしゅジョン・ラッセルきょう指導しどうりょく不安ふあんかんじたヴィクトリア女王じょおうはメルバーン子爵ししゃくちからりたがっていたが、そのころにはかれ病状びょうじょうはだいぶ深刻しんこくしており、ヴィクトリア女王じょおうした参内さんだいすることさえ困難こんなんになっていたため、政局せいきょく主導しゅどうすることはできなかった(またそもそもメルバーン子爵ししゃく穀物こくもつほう廃止はいし反対はんたいだった)[51]

結局けっきょくピールないかく1846ねん6がつ穀物こくもつほう廃止はいしできたが、保守党ほしゅとう分裂ぶんれつしてそう辞職じしょく余儀よぎなくされ、ジョン・ラッセルきょう組閣そかく大命たいめいがあり、ホイッグとう政権せいけん奪還だっかんした[52]。しかしいたメルバーン子爵ししゃくにラッセル首相しゅしょうからの入閣にゅうかく打診だしんはなかった[53]

1848ねん11月に69さい死去しきょした[50]。メルバーン子爵ししゃく逝去せいきょ数日すうじつまえ、ヴィクトリア女王じょおう叔父おじベルギー国王こくおうレオポルド1せいに「メルバーンきょう善良ぜんりょう親切しんせつ愛情あいじょうふかほうであったことはけっしてわすれられません。…(中略ちゅうりゃく)…あのころがまたかえってきてほしいとはまったのぞみませんけれど…」とおくっている[54]

いちなんいちじょがいたがとも先立さきだたれ、メルバーン子爵ししゃく爵位しゃくいおとうとフレデリック・ラム英語えいごばん継承けいしょうした。

人物じんぶつ

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メルバーン子爵ししゃく肖像しょうぞう

ホイッグとう党首とうしゅだが、内部ないぶ分裂ぶんれつのために庶民しょみんいんでギリギリのひょうしかあつめられない首相しゅしょうだった。そのためかれ政治せいじてきスタンスは保守党ほしゅとうよりだった[55]

宗教しゅうきょう進歩しんぽしんじず、なにたいしても価値かちみとめないひとだった。社会しゃかい改革かいかく最悪さいあく事態じたいまねくとかんがえており、「善行ぜんこうなどというかんがえはこさないだけマシである。そうすれば窮地きゅうちおちいこともない」[56][55]、「『悪人あくにん』というだけで毛嫌けぎらいするべきではない。その範疇はんちゅうはいものはあまりにだいいきおいすぎる」とべている[55]

政府せいふ責務せきむとは犯罪はんざい防止ぼうしし、契約けいやく保障ほしょうすることにきる」とかたっていた。メルバーンきょうによれば、教育きょういく普及ふきゅうなどくて無益むえき貧者ひんじゃ教育きょういくあたえるのはむしろ危険きけんなことであった。自由じゆう貿易ぼうえき欺瞞ぎまんであり、民主みんしゅ主義しゅぎなどというもの馬鹿ばか骨頂こっちょうだった。工場こうじょう労働ろうどうするまずしい子供こどもたちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」でわりだった。このように徹底てっていした保守ほしゅ主義しゅぎしゃ貴族きぞく主義しゅぎしゃだったにもかかわらず、かれ反動はんどうではなかった。内務ないむ大臣だいじん時代じだい選挙せんきょほう改正かいせいれたように政権せいけん維持いじ必要ひつよう判断はんだんすれば平然へいぜん改革かいかくおこな狡猾こうかつ機会きかい主義しゅぎしゃだった[56]

ヴィクトリアの宮廷きゅうていでは品行ひんこう方正ほうせいうやうやしくヴィクトリアにつかえたメルバーン子爵ししゃくだが[57]首相しゅしょう職務しょくむはかなりいい加減かげんにやっていたという。された高官こうかんがメルバーン子爵ししゃく部屋へやはいるとメルバーン子爵ししゃくほんなどがらばるベッドのなか寝転ねころがっていたり、化粧けしょうしつでヒゲをっていたりしたという。また閣議かくぎさい居眠いねむりすることもあった[58]

話術わじゅつたくみだったので社交しゃこうかいでは魅力みりょくてきひとであったという[3]

栄典えいてん

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爵位しゃくいじゅん男爵だんしゃく

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1828ねん7がつ22にち死去しきょしたちちから以下いか爵位しゃくいじゅん男爵だんしゃく継承けいしょうした[59]

その

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メルバーン子爵ししゃくえんじた人物じんぶつ

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映画えいが

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 救貧きゅうひんいん収容しゅうようされる貧困ひんこん労働ろうどうしゃ生活せいかつ水準すいじゅんは、収容しゅうようされていない労働ろうどうしゃ生活せいかつ水準すいじゅん下回したまわらねばならないとする原則げんそく[27]
  2. ^ 男子だんし普通ふつう選挙せんきょ秘密ひみつ投票とうひょう毎年まいとし解散かいさんそう選挙せんきょ議員ぎいん財産ざいさん資格しかく廃止はいし議員ぎいん歳費さいひ支給しきゅう選挙せんきょ平等びょうどうの6つをかかげている[29]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c UK Parliament. “Mr William Lamb” (英語えいご). HANSARD 1803–2005. 2014ねん8がつ10日とおか閲覧えつらん
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  11. ^ 君塚きみづか(1999) p.59
  12. ^ 君塚きみづか(1999) p.60
  13. ^ 君塚きみづか(1999) p.61
  14. ^ 君塚きみづか(1999) p.62
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  17. ^ 君塚きみづか(1999) p.64
  18. ^ はたけ秋田あきた(2011) p.89
  19. ^ 君塚きみづか(1999) p.65
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  21. ^ なべ(1984) p.54
  22. ^ もり(1986) p.559
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  28. ^ 村岡むらおかはたけ(1991) p.84
  29. ^ a b 村岡むらおかはたけ(1991) p.105
  30. ^ 村岡むらおかはたけ(1991) p.105-106
  31. ^ はたけ秋田あきた(2011) p.90
  32. ^ 君塚きみづか(1999) p.73
  33. ^ なべ(1984) p.65
  34. ^ ストレイチイ(1953) p.87
  35. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻じょうかん p.193
  36. ^ 君塚きみづか(1999) p.70
  37. ^ ストレイチイ(1953) p.88-89
  38. ^ 君塚きみづか(1999) p.70-71
  39. ^ 君塚きみづか(1999) p.71-72
  40. ^ ワイントラウブ(1993) 上巻じょうかん p.196
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  47. ^ ストレイチイ(1953) p.131
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  49. ^ ストレイチイ(1953) p.133
  50. ^ a b 君塚きみづか(1999) p.78
  51. ^ 君塚きみづか(1999) p.80-82
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  57. ^ ストレイチイ(1953) p.68
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  60. ^ (PDF) List of Fellows of the Royal Society 1660 – 2007. The Royal Society. https://royalsociety.org/~/media/Royal_Society_Content/about-us/fellowship/Fellows1660-2007.pdf 
  61. ^ a b c d e f IMDb

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
ヘンリー・ゴールバーン英語えいごばん
イギリスの旗 アイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん
1827ねん-1828ねん
次代じだい
フランシス・ルーソン=ゴアきょう英語えいごばん
先代せんだい
サー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃく
イギリスの旗 内務ないむ大臣だいじん
1830ねん-1834ねん
次代じだい
だい4だいベスバラ伯爵はくしゃく
先代せんだい
だい2だいグレイ伯爵はくしゃく
イギリスの旗 首相しゅしょう
1834ねん7がつ16にち1834ねん11月14にち
次代じだい
初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
イギリスの旗 貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
1834ねん
先代せんだい
サー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃく
イギリスの旗 首相しゅしょう
1835ねん-1841ねん
次代じだい
サー・ロバート・ピールじゅん男爵だんしゃく
先代せんだい
初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
イギリスの旗 貴族きぞくいん院内いんない総務そうむ
1835ねん-1841ねん
次代じだい
初代しょだいウェリントン公爵こうしゃく
グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
ジョン・ラボック英語えいごばん
チャールズ・キネアード
レオミンスター選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1806ねん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
ジョン・ラボック英語えいごばん
次代じだい
ジョン・ラボック英語えいごばん
ヘンリー・ボーナム英語えいごばん
先代せんだい
サー・オズヴァルド・モズレー英語えいごばん
ポーターリントン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1807ねん英語えいごばん - 1812ねん英語えいごばん
次代じだい
アーサー・シェイクスピア
先代せんだい
ウィリアム・エリオット英語えいごばん
ジョージ・ポンソンビー英語えいごばん
ピーターバラ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1816ねん - 1819ねん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
ウィリアム・エリオット英語えいごばん(1816–1819)
サー・ジェームズ・スカーレット英語えいごばん(1819)
次代じだい
サー・ジェームズ・スカーレット英語えいごばん
サー・ロバート・ヘロンじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
先代せんだい
トマス・ブランド英語えいごばん
サー・ジョン・サンダース・セブライト
ハートフォードシャー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1819ねん1826ねん英語えいごばん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
サー・ジョン・サンダース・セブライト
次代じだい
サー・ジョン・サンダース・セブライト
ニコルソン・カルバート英語えいごばん
先代せんだい
ジョージ・カニング
ウィリアム・スコット
ニューポート選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1827ねん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
ウィリアム・スコット
次代じだい
ウィリアム・スコット
スペンサー・パーシヴァル英語えいごばん
先代せんだい
ウィリアム・ラッセル英語えいごばん
チャールズ・テニソン英語えいごばん
ブレッチングリー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1827ねん - 1828ねん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
チャールズ・テニソン英語えいごばん
次代じだい
チャールズ・テニソン英語えいごばん
ウィリアム・エワート英語えいごばん
とうしょく
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庶民しょみんいんジョン・ラッセルきょう
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先代せんだい
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