ゴードン・ブラウン

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ゴードン・ブラウン
Gordon Brown
生年月日せいねんがっぴ (1951-02-20) 1951ねん2がつ20日はつか(73さい
出生しゅっしょう スコットランドの旗 スコットランドグラスゴー
出身しゅっしんこう エディンバラ大学だいがく
所属しょぞく政党せいとう 労働党ろうどうとう
配偶はいぐうしゃ サラ・マコーリー
公式こうしきサイト The Office of Gordon & Sarah Brown

イギリスの旗 イギリス
だい74だい 首相しゅしょう
内閣ないかく ブラウン内閣ないかく
ブラウンだい1改造かいぞうないかく
ブラウンだい2改造かいぞうないかく
ブラウンだい3改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 2007ねん6月28にち - 2010ねん5月11にち
女王じょおう エリザベス2せい

内閣ないかく だい1ブレア内閣ないかく
だい2ブレア内閣ないかく
だい3ブレア内閣ないかく
だい3ブレア改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1997ねん5月2にち - 2007ねん6月27にち

選挙せんきょ カークカルディ・カウデンビース
ダンファームリンひがし(1983-)
当選とうせん回数かいすう 6かい
在任ざいにん期間きかん 1983ねん6月9にち - 2015ねん3月30にち

その職歴しょくれき
労働党ろうどうとう党首とうしゅ
2007ねん6月24にち - 2010ねん5月11にち
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ジェイムズ・ゴードン・ブラウンJames Gordon Brown, 1951ねん2がつ20日はつか - )は、イギリスもと政治せいじ

財務ざいむ大臣だいじんだい74だい首相しゅしょう労働党ろうどうとうだい19だい党首とうしゅ(2007ねん - 2010ねん)。

1983ねんから2005ねんまではダンファームリンひがし選出せんしゅつ国会こっかい議員ぎいんつとめ、スコットランドの選挙せんきょ改変かいへんおこなわれた2005ねんそう選挙せんきょ以降いこうはカーコーディーおよびカウデンビース選出せんしゅつ国会こっかい議員ぎいんつとめている。1997ねん5がつから2007ねん6がつまでトニー・ブレア政権せいけん財務ざいむ大臣だいじんつとめる。財務ざいむ大臣だいじんとしての在任ざいにん期間きかんは、19世紀せいき政治せいじニコラス・ヴァンシタート英語えいごばんながさとなった(ただし首相しゅしょう兼任けんにんした場合ばあいのぞく)。

2007ねん6月24にち開催かいさい英国えいこく労働党ろうどうとう大会たいかい党首とうしゅ選出せんしゅつされ、同年どうねん6月27にち首相しゅしょう退しりぞいたトニー・ブレア後継こうけいとしてイギリスの首相しゅしょう任命にんめいされた。

2010ねん5月11にちそう選挙せんきょ結果けっか責任せきにんり、首相しゅしょうおよび労働党ろうどうとう党首とうしゅ辞任じにんし、13ねんおよ労働党ろうどうとう政権せいけんまくいた。2014ねん12月1にち政界せいかい引退いんたい意向いこう表明ひょうめいした。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょうから政治せいじになるまで[編集へんしゅう]

1951ねんスコットランドグラスゴーまれ。ちちスコットランド長老ちょうろう教会きょうかい牧師ぼくしであった。ファイフしゅうカーコーディー高等こうとう学校がっこう英語えいごばん在籍ざいせきラグビー競技きょうぎちゅう事故じこ網膜剥離もうまくはくりわずら左目ひだりめ失明しつめいしており、現在げんざい義眼ぎがんもちいている。成績せいせき優秀ゆうしゅうにより16さいエディンバラ大学だいがく進学しんがく歴史れきしがく専攻せんこう優等ゆうとう成績せいせき卒業そつぎょうした。1982ねん労働党ろうどうとう左派さは政治せいじジェイムズ・マクストン英語えいごばんかんする研究けんきゅうでエディンバラ大学だいがくよりPh.D.取得しゅとくしている。

学生がくせい身分みぶんでエジンバラ大学だいがく運営うんえい評議ひょうぎかい議長ぎちょう (Rector) に選出せんしゅつされたほか[1]左派さは新聞しんぶんのレッド・ペーパー・オン・スコットランドの編集へんしゅうちょうつとめた。エジンバラ大学だいがくでの臨時りんじ講師こうしグラスゴー工科こうか大学だいがく英語えいごばんにて政治せいじがく講師こうしつとめたのちスコティッシュ・テレヴィジョン英語えいごばんジャーナリストテレビプロデューサーとしてはたらいた。1979ねんそう選挙せんきょにはエジンバラみなみより労働党ろうどうとう候補こうほとして立候補りっこうほしたが、保守党ほしゅとう所属しょぞくマイケル・アンクラム英語えいごばんやぶ落選らくせんする。

1983ねんそう選挙せんきょではダンファームリンひがし労働党ろうどうとう候補こうほとして立候補りっこうほ当選とうせん1985ねんにはかげ内閣ないかく貿易ぼうえき産業さんぎょうしょうのスポークスマン、その後影うしろかげ内閣ないかく財務ざいむ大臣だいじん貿易ぼうえき産業さんぎょう大臣だいじんつとめた。

1994ねん5月の労働党ろうどうとう党首とうしゅジョン・スミス急死きゅうしさいしては後継こうけい候補こうほとして有力ゆうりょくされたが、かれはこれを辞退じたいしてトニー・ブレア党首とうしゅゆずった。このさい経緯けいいかんして、2人ふたりあいだには密約みつやくわされているとのうわさがあり、ロンドンのイズリントン地区ちくのレストランで会食かいしょくしたさいに、ブレアを党首とうしゅとする代償だいしょうとしてブラウンが経済けいざい政策せいさく仕切しきること、そしてブラウンをブレアの後継こうけいしゃとすることが約束やくそくされたとわれる(ブレア=ブラウン密約みつやく)。それぞれ労働党ろうどうとう左派さは穏健おんけん代表だいひょうする2人ふたりあいだには政治せいじてき対立たいりつがあるとの報道ほうどうがなされることがおおい。

財務ざいむ大臣だいじんへの就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1997ねん5がつそう選挙せんきょ労働党ろうどうとうだい勝利しょうりおさめブレア政権せいけん誕生たんじょうした。ブラウンはかげ内閣ないかくよりつづいて財務ざいむ大臣だいじん任命にんめいされた。ブラウンは就任しゅうにん直後ちょくご金融きんゆう政策せいさくだい転換てんかんおこな国民こくみんおどろかせた。公定歩合こうていぶあい決定けっていけんふくめた金融きんゆう政策せいさく責任せきにんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうへと大幅おおはば譲渡じょうとするこの政策せいさくは、ブラウンのアシスタントであり、げん庶民しょみんいん議員ぎいんエド・ボールズ英語えいごばんによりまとめられたものである。2002ねんには健康けんこう保険ほけん保険ほけんりょう増加ぞうかさせた。OECDによると1997ねんに39.3%だったイギリスの税率ぜいりつは2006ねんには42.4%にまで増加ぞうかしている[2]

保守党ほしゅとう政権せいけんからイギリス経済けいざい安定あんてい成長せいちょう持続じぞくしており、1997ねんから2006ねんにかけての経済けいざい成長せいちょうりつは2.7%であった。2005ねん5がつ24にちEU加盟かめい諸国しょこくODAGDPの0.56%に増額ぞうがくする合意ごういたっした[3]。ブラウンはこの決定けってい歓迎かんげいした。またブレア首相しゅしょう拠出きょしゅつきん割引わりびき譲歩じょうほ実行じっこうして、そのEU首脳しゅのう会議かいぎ争点そうてんであったイギリスの拠出きょしゅつきん割引わりびき制度せいど維持いじされることになる。これはヨーロッパ全体ぜんたいの2.1%よりたかいが、世界せかい英語えいごけん諸国しょこくちゅうでは最低さいていである。失業しつぎょうりつは1997ねんの7%から5.1%にまで改善かいぜんした(このあいだ、ヨーロッパ全体ぜんたい失業しつぎょうりつは8.1%)。

ブレアとともに「ニューレイバー」の旗頭はたがしらであったが、ブレアよりは左派さはりで「ソフト・レフト」を自称じしょうした。しかし財務ざいむ大臣だいじんとしては規制きせい緩和かんわなど市場いちば主義しゅぎ路線ろせん大胆だいたんすすめ、こう成長せいちょう維持いじした。こうした政策せいさくは、首相しゅしょう就任しゅうにん金融きんゆうバブル崩壊ほうかい、その一因いちいんとしてきびしく批判ひはんされることになるが、当時とうじたか評価ひょうかた。また国防こくぼう政策せいさくなどにおいても、徐々じょじょアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支持しじ穏健おんけんよりの言動げんどうせるようになったが、これは首相しゅしょう就任しゅうにんへの布石ふせきであったとの見方みかたつよい。

ポスト・ブレア[編集へんしゅう]

2004ねん10がつにブレア首相しゅしょうは4かいそう選挙せんきょさいしては党首とうしゅ後継こうけいゆずることを発表はっぴょうした。2005ねんそう選挙せんきょ(ブレア就任しゅうにん3かい)で労働党ろうどうとう過半数かはんすう維持いじしたものの議席ぎせきおおきくらし、2006ねんなつにはブレア首相しゅしょうは1ねん以内いない退陣たいじんすることを明言めいげんした。

2007ねんはいるとブレアのつぎ労働党ろうどうとう党首とうしゅだれになるかは、仮定かてい問題もんだいではなく現実げんじつ問題もんだいとしてあつかわれた。何人なんにんかの党内とうない有力ゆうりょくしゃ現役げんえき閣僚かくりょう)が対抗たいこうとして党首とうしゅせん立候補りっこうほすることを示唆しさするなど一時いちじ波乱はらんふくみの展開てんかい予想よそうさせたが、結局けっきょくかれらも立候補りっこうほ断念だんねんし、「後継こうけいしゃはゴードン・ブラウンで確定かくてい」というムードはわることなく、2007ねん5がつには唯一ゆいいつ対抗たいこうとして立候補りっこうほ意向いこう明示めいじしていた党内とうない左派さはジョン・マクドネルが、党首とうしゅせんるために必要ひつよう規定きてい人数にんずう支持しじられず立候補りっこうほ断念だんねん、ブラウンは投票とうひょう労働党ろうどうとう次期じき党首とうしゅとなった(就任しゅうにんは6がつ24にち臨時りんじとう大会たいかいにて)[4]。この数日すうじつまえの5がつ10日とおかには、ブレアが首相しゅしょう辞任じにん日付ひづけを「6がつ27にち」と発表はっぴょうしており、ブラウンが労働党ろうどうとう党首とうしゅ確定かくていしたことで、同日どうじつにブラウンが首相しゅしょうとして就任しゅうにんすることがかたまった。

はやくから「次期じき労働党ろうどうとう党首とうしゅさい有力ゆうりょく候補こうほ」となされつづけてきたブラウンにとって、まんもたしての首相しゅしょう就任しゅうにんであったが、ブレア時代じだい一貫いっかんして低調ていちょうだった保守党ほしゅとうが、デービッド・キャメロン党首とうしゅ就任しゅうにん支持しじかえしており、2006ねんごろの世論せろん調査ちょうさでブラウンが首相しゅしょうとなった場合ばあい支持しじりつにおいても保守党ほしゅとう下回したまわった。ブレア政権せいけんまけ遺産いさんかかえてのスタートとなるため、しん政権せいけん先行さきゆきは不透明ふとうめいなものとなるとの観測かんそく支配しはいてきだった。

イギリス首相しゅしょう[編集へんしゅう]

2007ねん6月27にち、ブラウンは正式せいしき首相しゅしょう就任しゅうにんよく28にちしん政権せいけん発足ほっそくした。英国えいこく首相しゅしょう交代こうたいは10ねんぶりで西欧せいおう主要しゅようこくでは2005ねん以来いらいどくふつ政権せいけん交代こうたいつづいており、えいしん首相しゅしょう登場とうじょうですべてしん指導しどうしゃ時代じだいはいることになった。

長年ながねん政権せいけん中枢ちゅうすうにあったブラウンは首相しゅしょうしょく着実ちゃくじつにこなし、安定あんていかんある仕事しごとりが評価ひょうかされて、就任しゅうにんしばらくは労働党ろうどうとう支持しじりつ保守党ほしゅとう上回うわまわった。このため9がつ労働党ろうどうとう大会たいかい党内とうないから年内ねんない解散かいさんもとめるこえがり、10がつ初頭しょとう政局せいきょく緊迫きんぱくした様相ようそうせたが、保守党ほしゅとう提示ていじした減税げんぜいあん好感こうかんされて支持しじりつ猛追もうついされたこともあり、解散かいさん断念だんねんまれた。この判断はんだん保守党ほしゅとうはもとより労働党ろうどうとうないからもつよ批判ひはんび、以後いご優柔不断ゆうじゅうふだん」とのひょうえなくなった。11月にはいると、ノーザン・ロック銀行ぎんこう経営けいえい危機ききへの対応たいおう歳入さいにゅう関税かんぜいちょうによる個人こじん情報じょうほう2500まんにんぶん紛失ふんしつ事件じけんとう違法いほう献金けんきん問題もんだいなどをけて支持しじりつ逆転ぎゃくてんした。

けて2008ねん1がつには献金けんきん疑惑ぎわく実力じつりょくしゃピーター・ヘイン英語えいごばん雇用こよう年金ねんきん・ウェールズしょう辞任じにんまれた。3月から4がつにかけては経済けいざい情勢じょうせい悪化あっか北京ぺきんオリンピック聖火せいかリレーめぐ対応たいおうからも批判ひはんび、とう支持しじりつ過去かこ25ねん最低さいてい保守党ほしゅとうとの過去かこ25ねん最大さいだい水準すいじゅんひらいた(労働党ろうどうとう27%、保守党ほしゅとう43%)が、これはチェンバレン首相しゅしょうえるえい史上しじょうもっと急速きゅうそくかつ大幅おおはば支持しじりつ下落げらくであるという[5][6]。5月の統一とういつ地方ちほうせんでは、労働党ろうどうとうはロンドン市長しちょううしなったのをはじめ、得票とくひょうりつ自民党じみんとう下回したまわだいさんとう転落てんらくするという結党けっとう以来いらい最大さいだい惨敗ざんぱいきっしたうえ、6月のテロ対策たいさくほう改正かいせいあんでは与党よとう大量たいりょう造反ぞうはんのため一部いちぶ野党やとう協力きょうりょくあおがざるをず、同年どうねんあき労働党ろうどうとう大会たいかいでは党内とうない退陣たいじん圧力あつりょくをかわすのにしらげいちはいという有様ありさまだった。もっともあきリーマン・ショックけた金融きんゆう不安ふあんでは公的こうてき資金しきん注入ちゅうにゅうなどで迅速じんそく対処たいしょせたことから、一部いちぶで「欧州おうしゅう救世主きゅうせいしゅ」などと賞賛しょうさんされ、支持しじりつ一時いちじてき上昇じょうしょう余勢よせいっての解散かいさんりざたされるなどした。

2009ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうバラク・オバマとの会談かいだんにて

しかし2009ねんはいるとえい経済けいざいが17ねんりの景気けいき後退こうたいはいり、ポンドやす金融きんゆう危機きき一層いっそう深刻しんこくし、経済けいざい運営うんえいへの信頼しんらいらいだ。はるには、労働党ろうどうとう議員ぎいん不明朗ふめいろう経費けいひ請求せいきゅう問題もんだいへの対応たいおう後手ごてまわつよ批判ひはんびるとともに、もとグルカへい永住えいじゅうけん問題もんだい野党やとう動議どうぎ可決かけつゆるすなど窮地きゅうちふかまるばかりで、労働党ろうどうとう支持しじりつ史上しじょう最低さいていの22%に低下ていかした(保守党ほしゅとうは45%)[7]。6月にはいると主要しゅよう閣僚かくりょうがスキャンダルで相次あいついで辞任じにんし、党内とうない党首とうしゅ交代こうたいもとめる電子でんしメール出回でまわるなど「ブラウンろし」のうごきが公然こうぜんした[8]結局けっきょく統一とういつ地方ちほうせん労働党ろうどうとうは250議席ぎせき以上いじょうらし大敗たいはいダービーシャーなど北部ほくぶ4しゅう議席ぎせきすべ保守党ほしゅとううばわれる事態じたいとなった。ブラウンは「労働党ろうどうとうにとって悲痛ひつう敗北はいぼくだ」とコメントしたが、内閣ないかく改造かいぞうおこな続投ぞくとう表明ひょうめいした[9]。しかし、閣僚かくりょうからも公然こうぜん退陣たいじん要求ようきゅう[10]

2009ねん9がつイギリス政府せいふはん世紀せいき以上いじょうわたって個人こじん対象たいしょうとしたネガティブ・キャンペーン継続けいぞくしてきたことにかんして、アラン・チューリング謝罪しゃざいした[11]

2010ねんはいるとかえし、保守党ほしゅとうとの支持しじりつちぢめたが、依然いぜんとしておおきくリードをゆるしたまま5がつ6にちそう選挙せんきょ実施じっし。ブラウンは経済けいざい政策せいさく成果せいか強調きょうちょう選挙せんきょのぞんだが、議席ぎせきを100ちからして過半数かはんすうおおきく大敗たいはいした。選挙せんきょ自民党じみんとう連立れんりつ模索もさくしたが、政権せいけん維持いじ困難こんなん状況じょうきょうとなった。

労働党ろうどうとうないからも辞任じにんもとめるこえつよまり、5がつ10日とおか、ブラウンはあきとう大会たいかいつぎ党首とうしゅえらばれるまで党首とうしゅとしてとどまり、その辞任じにんするとべた[12]風当かぜあたりはおさまらず、よく5月11にち辞任じにん表明ひょうめいした[13]。そのについては要職ようしょくにつくことはないバックベンチャー英語えいごばんとして議会ぎかい後方こうほうせきのこ意思いししめした。

首相しゅしょう退任たいにん[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつのように、首相しゅしょう退任たいにん目立めだった政治せいじ活動かつどうおこなっていなかったが、2014ねん9がつスコットランド独立どくりつ住民じゅうみん投票とうひょうさいには、投票とうひょうちかくなってから独立どくりつ反対はんたい集会しゅうかいなん演説えんぜつおこない、「大枠おおわく現状げんじょう維持いじしつつ、スコットランド議会ぎかい権限けんげん拡大かくだいすすめる」という方向ほうこうせい明確めいかくし、賛否さんぴめかねていた有権者ゆうけんしゃ説得せっとく事前じぜん予想よそう以上いじょう独立どくりつ賛成さんせいかたむいていたながれをもどし、反対はんたい勝利しょうり貢献こうけんした[14][15]

その辞任じにんしたスコットランド労働党ろうどうとうトップの後継こうけい選挙せんきょ出馬しゅつばするのではとの観測かんそくもあったが、ブラウンはこれを否定ひてい。その時点じてん政界せいかい引退いんたい意向いこうではないかとうわさされていたが、12月1にちにファイフの選挙せんきょおこなわれた労働党ろうどうとう集会しゅうかい[16]、2015ねん5がつ予定よていされるそう選挙せんきょ出馬しゅつばしないことを表明ひょうめいし、政界せいかい引退いんたい意向いこうしめした[17]慣例かんれいとして、首相しゅしょう経験けいけんしゃいちだい貴族きぞくじょせられ、庶民しょみんいんからの引退いんたい貴族きぞくいん議席ぎせきることになっているが、ブラウンはこれも辞退じたいした[18]

首相しゅしょう退しりぞいたあと、ブラウンは慈善じぜん活動かつどうんでおり、2012ねん7がつには国連こくれん教育きょういく担当たんとう特使とくし任命にんめいされている[19]

スキャンダル[編集へんしゅう]

2010ねん4がつ28にち路上ろじょう移民いみん問題もんだいについて労働党ろうどうとう支持しじする年金ねんきん生活せいかつしゃ女性じょせい対談たいだんし、その会話かいわえてさい、ブラウンがむねけていたピンマイクのスイッチがはいったままであること気付きづかず、直後ちょくごかくれていた「はなさなければかった」「偏屈へんくつだらけのおんな」などの暴言ぼうげんがマイクにひろわれる事態じたいとなった[20]。このいちけんはマスコミにおおきくスクープされ、直後ちょくご党首とうしゅ討論とうろんにもおおきな影響えいきょうあたえることとなった[21]。ブラウンはラジオ電話でんわなどをつうじて謝罪しゃざいしたのち女性じょせい自宅じたく訪問ほうもん直接ちょくせつ謝罪しゃざいをしている。 2010ねん2がつ21にち、BBC WORLD NEWSによると、ブラウンの部下ぶかから英国えいこく、National Bullying Helplineに首相しゅしょう部下ぶか暴行ぼうこうくわえているといると相談そうだんがあり、問題もんだいあきらかになった[22]

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

つまのサラ・ブラウン

独身どくしん生活せいかつながく、財務ざいむしょうになってからも独身どくしんであった。イギリスの財務ざいむしょう公邸こうてい首相しゅしょう公邸こうていよりひろかったため、当時とうじ5にん家族かぞくだったブレア一家かずや公邸こうてい交換こうかんしてんだ逸話いつわもある。

かつては、ルーマニアもと国王こくおうミハイ1せいむすめマルガレータ王女おうじょとも交際こうさいしていたが、2000ねん8がつ左派さはけいPRコンサルタント会社かいしゃ経営けいえいするサラ・マコーリー結婚けっこんした。ゴードンは49さい、サラは37さいたがいに初婚しょこんである。よく2001ねん12月にはだい1となる長女ちょうじょ誕生たんじょうしたが、未熟みじゅくであったためわずか10日とおか死亡しぼうする。だい2長男ちょうなんジョンは2003ねん10がつ誕生たんじょうした。2006ねん7がつには次男じなんのジェームスが誕生たんじょうしているが、ジェームスは嚢胞のうほうせい線維せんいしょうであると診断しんだんされている。

スコットランドのプロサッカークラブ、ライス・ローヴァーFCのサポーターであり、2005ねんどうクラブを買収ばいしゅうしたコンソーシアムのメンバーでもある。兄弟きょうだいであるジョンはグラスゴー市議会しぎかい勤務きんむ、アンドリューはEDFエナジーしゃのPR担当たんとうコンサルタントとして勤務きんむしている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • Brown, Gordon (1989). Where There's Greed: Margaret Thatcher and the Betrayal of Britain's Future. Mainstream Publishing. ISBN 1851582282.
  • Brown, Gordon (ed.); Cook, Robin (ed.) (1987). Scotland: The Real Divide - Poverty and Deprivation in Scotland. Mainstream Publishing. ISBN 0906391180.
  • Brown, Gordon (1986). Maxton: A Biography. Mainstream Publishing. ISBN 1851580425.

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ news.bbc.co.uk Brown's first taste of power, 15 July 2005
  2. ^ www.oecd.org xlsファイル
  3. ^ http://www.uknow.or.jp/be/ukview/speeches/speeches/SP000535_3_j.htm
  4. ^ news.bbc.co.uk Brown will enter No 10 unopposed, 16 May 2007
  5. ^ Brown's U.K. Support Falls Fastest on Record; Opposition Gains Bloomberg.com
  6. ^ Support for Labour hits 25-year low TIMES ONLINE
  7. ^ ブラウン政権せいけんあやうし 産経新聞さんけいしんぶん
  8. ^ 選挙せんきょにらみ「ブラウンろし」公然こうぜん 産経新聞さんけいしんぶん2009ねん6がつ4にち
  9. ^ ブラウンえい首相しゅしょう解散かいさん否定ひてい 「いたましい敗北はいぼく地方ちほうせん惨敗ざんぱいみとめる毎日まいにちjp』2009ねん6がつ6にち
  10. ^ えい閣僚かくりょう退陣たいじん要求ようきゅう首相しゅしょう内閣ないかく改造かいぞう 攻防こうぼう激化げきか 産経新聞さんけいしんぶん6がつ6にち
  11. ^ “PM apology after Turing petition”. BBC News. (2009ねん9がつ11にち). http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8249792.stm 
  12. ^ ブラウン労働党ろうどうとう党首とうしゅ辞任じにん産経さんけいニュース』2010ねん5がつ11にち
  13. ^ えいブラウン首相しゅしょう辞意じい正式せいしき表明ひょうめい. YOMIURI ONLINE (読売新聞よみうりしんぶん). (2010ねん5がつ12にち). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100512-OYT1T00145.htm 2010ねん5がつ12にち閲覧えつらん 
  14. ^ “スコットランド住民じゅうみん投票とうひょうげかけた波紋はもん. 東洋とうよう経済けいざいオンライン. (2014ねん10がつ4にち). http://toyokeizai.net/articles/-/49434 
  15. ^ “スコットランド投票とうひょうのこしたもの”. ニューズウィーク日本にっぽんばん. (2014ねん10がつ6にち). http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2014/10/post-84.php 
  16. ^ “Gordon Brown announces he will stand down as MP”. BBC News. (2014ねん12月2にち). http://www.bbc.com/news/uk-politics-30277709 2014ねん12月2にち閲覧えつらん 
  17. ^ “Gordon Brown stands down as MP”. The Guardian. (2014ねん12月1にち). http://www.theguardian.com/politics/2014/dec/01/gordon-brown-stand-down-mp 2014ねん12月2にち閲覧えつらん 
  18. ^ “Tributes abound as Brown confirms he'll stand down as MP”. The Herald Scotland. (2014ねん12月1にち). http://www.heraldscotland.com/politics/wider-political-news/brown-set-to-step-down-tonight.1417434636 2014ねん12月2にち閲覧えつらん 
  19. ^ The Office of the UN Special Envoy for Global Education
  20. ^ ブラウンえい首相しゅしょう女性じょせいを「頑固がんこしゃ」よばわりで謝罪しゃざい 選挙せんきょ痛手いたで AFPBBNews 2010ねん4がつ29にち
  21. ^ 偏屈へんくつおんな発言はつげんのブラウンえい首相しゅしょう挽回ばんかいならず テレビ討論とうろん保守党ほしゅとう軍配ぐんばい産経さんけいニュース』2010ねん4がつ30にち
  22. ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/8527170.stm

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
トニー・ブレア
イギリスの旗 イギリス首相しゅしょう
だい74だい:2007ねん - 2010ねん
次代じだい
デーヴィッド・キャメロン
イギリスの旗 イギリス行政ぎょうせい機構きこう担当たんとう大臣だいじん
2007ねん - 2010ねん
イギリスの旗 イギリスだいいち大蔵おおくらきょう
2007ねん - 2010ねん
先代せんだい
ジョン・スミス
イギリスの旗 イギリスかげ財務ざいむ大臣だいじん
1992ねん – 1997ねん
次代じだい
ケネス・クラーク英語えいごばん
先代せんだい
ケネス・クラーク英語えいごばん
イギリスの旗イギリス財務ざいむ大臣だいじん
1997ねん – 2007ねん
次代じだい
アリスター・ダーリング
イギリスの旗 イギリスだい大蔵おおくらきょう
1997ねん - 2007ねん
とうしょく
先代せんだい
トニー・ブレア
労働党ろうどうとう党首とうしゅ
2007ねん - 2010ねん
次代じだい
ハリエット・ハーマン
代行だいこう
議会ぎかい
先代せんだい
創設そうせつ
ダンファームリンひがし選挙せんきょ
1983ねん – 2005ねん
次代じだい
選挙せんきょ廃止はいし
カークカルディ・カウデンビース選挙せんきょ
2005ねん – 2015ねん
次代じだい
ロジャー・マリン英語えいごばん
がくしょく
先代せんだい
ジョナソン・W・G・ウィルズ (en)
エディンバラ大学だいがく運営うんえい評議ひょうぎかい議長ぎちょう
1973ねん – 1976ねん
次代じだい
マグナス・マグナッソン (en)