マイケル・マッキントッシュ・フット (Michael Mackintosh Foot 、1913年 ねん 7月 がつ 23日 にち - 2010年 ねん 3月3日 にち )は、イギリスのジャーナリスト、政治 せいじ 家 か 。1980年 ねん から1983年 ねん まで、労働党 ろうどうとう の党首 とうしゅ を務 つと めた。
1913年 ねん 、デヴォン のプリマス に生 う まれる。プリマス大学 だいがく プレパラトリー・スクール、レディング のレイトンパーク・スクール (Leighton Park School ) に通 とお った後 のち 、オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく ワダム・カレッジ (Wadham College ) で哲学 てつがく 、政治 せいじ 、経済 けいざい 学 がく を学 まな んだ。学生 がくせい 時代 じだい 、歴代 れきだい に渡 わた り有力 ゆうりょく 政治 せいじ 家 か を輩出 はいしゅつ してきたことで有名 ゆうめい な弁論 べんろん 部 ぶ オックスフォード・ユニオン (Oxford Union )の会長 かいちょう も務 つと めている。また、アメリカ へのディベート ツアー・ESU USAツアーにも参加 さんか していた。
卒業 そつぎょう 後 ご の1934年 ねん 、リヴァプール で積荷 つみに 事務 じむ 員 いん となる。フットはここで、これまでプリマスで見 み てきたものとは大 おお きくかけ離 はな れた失業 しつぎょう と貧困 ひんこん の現実 げんじつ を目 ま の当 あ たりにする。このことはフットに衝撃 しょうげき を与 あた え、これまで自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ だった彼 かれ は、オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく 労働 ろうどう 者 しゃ クラブのデイヴィッド・ルイス (David Lewis ) らの影響 えいきょう で社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ に転向 てんこう した[ 1] 。その後 ご 労働党 ろうどうとう に入党 にゅうとう し、22歳 さい にしてモンマス選挙 せんきょ 区 く から1935年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ にも出馬 しゅつば した。この選挙 せんきょ 戦 せん において、フットはスタンリー・ボールドウィン 首相 しゅしょう を強 つよ く批判 ひはん し、「ヨーロッパにおける再 さい 軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう を中止 ちゅうし しなくてはならない」と主張 しゅちょう した[ 2] 。また1933年 ねん 、ジェノヴァ における相互 そうご 軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ が失敗 しっぱい すると、一方 いっぽう 的 てき にでも軍縮 ぐんしゅく を進 すす めるべきだと主張 しゅちょう したが[ 3] 、この選挙 せんきょ では当選 とうせん を果 は たすことは出来 でき なかった。
その後 ご 、政治 せいじ 雑誌 ざっし 『ニュー・ステイツマン 』 (New Statesman ) でジャーナリストとして働 はたら くようになる。1937年 ねん 、左派 さは 系 けい 週刊 しゅうかん 誌 し 『トリビューン 』 (Tribune ) の創刊 そうかん と共 とも に移籍 いせき し、労働党 ろうどうとう や左派 さは 政党 せいとう との間 あいだ で組 く まれた反 はん ファシスト連合 れんごう 戦線 せんせん を支援 しえん した。このときの反 はん ファシスト連合 れんごう には、スタフォード・クリップス (Stafford Cripps ) の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 連盟 れんめい 、独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう 、イギリス共産党 きょうさんとう なども参加 さんか していた。1938年 ねん 、初代 しょだい 編集 へんしゅう 長 ちょう のウィリアム・メラーは共産党 きょうさんとう が人民戦線 じんみんせんせん 戦術 せんじゅつ に回帰 かいき すると、これに反対 はんたい して解雇 かいこ されてしまう。フットもこれに従 したが い、ファシズム と宥和 ゆうわ 政策 せいさく に反対 はんたい して職 しょく を辞 じ した。
その後 ご 、アナイリン・ベヴァン の推薦 すいせん により、フットは初代 しょだい ビーバーブルック男爵 だんしゃく マックス・エイトケン に雇 やと われ、新聞 しんぶん 『イブニング・スタンダード 』 (Evening Standard ) の編集 へんしゅう 者 しゃ として働 はたら くことになった。ベヴァンは「骨 ほね のある若者 わかもの がいます。上司 じょうし の解雇 かいこ に抗議 こうぎ して、自分 じぶん も辞職 じしょく した男 おとこ です」と言 い ってフットをビーバーブルック卿 きょう に紹介 しょうかい したという。
第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、フットは従軍 じゅうぐん を希望 きぼう するも、慢性 まんせい 的 てき な喘息 ぜんそく のせいで拒 こば まれてしまう。1940年 ねん 、"Cato" のペンネームを用 もち い、スタンダード紙 し のフランク・オーウェン (Frank Owen )・デイリー・エクスプレス紙 し のピーター・ハワード (Peter Howard ) と共 とも に Guilty Men を出版 しゅっぱん 。ネヴィル・チェンバレン 首相 しゅしょう の宥和 ゆうわ 政策 せいさく を批判 ひはん し、たちまちベストセラーとなった。1942年 ねん には、28歳 さい にしてイブニング・スタンダード紙 し の編集 へんしゅう 長 ちょう となる。
1947年 ねん には、リチャード・クロスマン (Richard Crossman )、イアン・ミカード (Ian Mikardo ) らと共 とも に、労働党 ろうどうとう 左派 さは の機関 きかん 紙 し キープ・レフト (Keep left ) に参加 さんか している。
フットの政治 せいじ 家 か としてのキャリアは、1945年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ にヴォンポート選挙 せんきょ 区 く から出馬 しゅつば し、当選 とうせん したことから始 はじ まる。彼 かれ は党内 とうない で左派 さは のリーダー格 かく だった、アニュエリン・ベヴァン の最 もっと も親 した しい盟友 めいゆう であったが、ベヴァンが1957年 ねん の党 とう 大会 たいかい で一方 いっぽう 的 てき 核 かく 廃絶 はいぜつ を断念 だんねん を表明 ひょうめい して以降 いこう 、2人 ふたり は仲 なか たがいしてしまう。
以前 いぜん 、「キープ・レフト」に参加 さんか していたこともあり、冷戦 れいせん が起 お こる以前 いぜん の1940年代 ねんだい 、彼 かれ は親 しん ソ連 それん 外交 がいこう の信望 しんぼう 者 しゃ であった。しかし、ハンガリー事件 じけん やチェコ事件 じけん でのソ連 それん の対応 たいおう が明 あき らかになると、フットは反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ への立場 たちば を明確 めいかく にし、NATO 体制 たいせい を受 う け入 い れるようになった。一方 いっぽう で、政府 せいふ のスエズ危機 きき や朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう への対応 たいおう 、西 にし ドイツ の再 さい 軍備 ぐんび に対 たい しては反対 はんたい の姿勢 しせい を貫 つらぬ き、核兵器 かくへいき 廃絶 はいぜつ 運動 うんどう (Campaign for Nuclear Disarmament ) の創設 そうせつ にも参加 さんか した。
1955年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では予想 よそう 外 がい の敗北 はいぼく を喫 きっ し落選 らくせん してしまうが、1960年 ねん にベヴァンが死亡 しぼう すると、彼 かれ のエブ・バレー選挙 せんきょ 区 く を受 う け継 つ いで補欠 ほけつ 選挙 せんきょ で当選 とうせん 。議会 ぎかい に返 かえ り咲 ざ いた。
1964年 ねん 、ハロルド・ウィルソン 党首 とうしゅ のもとで労働党 ろうどうとう が政権 せいけん 与党 よとう になると、フットは閣僚 かくりょう 入 い りを要請 ようせい されるが、これを拒否 きょひ 。党内 とうない 左派 さは のリーダーとして移民 いみん の制限 せいげん 、EC共同 きょうどう 市場 いちば への加盟 かめい 、労働 ろうどう 組合 くみあい の改革 かいかく 、ベトナム戦争 せんそう 、ローデシア の独立 どくりつ 等 とう に反対 はんたい し、政府 せいふ と対立 たいりつ した。また、世襲 せしゅう 貴族 きぞく の投票 とうひょう 権 けん を廃止 はいし し、一 いち 代 だい 貴族 きぞく だけで構成 こうせい される貴族 きぞく 院 いん を創設 そうせつ する政府 せいふ の案 あん に反対 はんたい するため、保守党 ほしゅとう 右派 うは のイノック・パウエルとも協力 きょうりょく している。1967年 ねん には、党 とう 財務 ざいむ 担当 たんとう 官 かん の座 ざ を争 あらそ ってジェームズ・キャラハン に挑戦 ちょうせん したが、敗 やぶ れてしまう。
1970年 ねん 以降 いこう 労働党 ろうどうとう は左傾 さけい 化 か し、それに伴 ともな ってウィルソン党首 とうしゅ もフットとの折 お り合 あ いをつけるようになってきた。1972年 ねん には副 ふく 党首 とうしゅ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば するが、第 だい 2回 かい 投票 とうひょう でエドワード・ショート (Edward Short ) に敗北 はいぼく する。
1974年 ねん 、労働党 ろうどうとう はウィルソン党首 とうしゅ のもとで再 ふたた び政権 せいけん に復帰 ふっき し、フットは雇用 こよう 大臣 だいじん に任命 にんめい された。彼 かれ はここで労働党 ろうどうとう と労働 ろうどう 組合 くみあい の関係 かんけい を維持 いじ し、健康 けんこう ・安全 あんぜん 労働 ろうどう 法 ほう (Health and Safety at Work Act ) を制定 せいてい するために力 ちから を発揮 はっき 。欧州 おうしゅう 経済 けいざい 共同 きょうどう 体 たい (EEC) 加盟 かめい を巡 めぐ る1975年 ねん の国民 こくみん 投票 とうひょう で、反対 はんたい 派 は の大黒柱 だいこくばしら として存在 そんざい 感 かん を発揮 はっき した。1975年 ねん 、インドの政変 せいへん の際 さい は、ジェニー・リーらと共 とも にインディラ・ガンディー を支援 しえん している。
1976年 ねん 、ウィルソンが辞任 じにん すると党首 とうしゅ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば するもジェームズ・キャラハン に敗北 はいぼく 。キャラハンの下 した で副 ふく 党首 とうしゅ ・枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう ・庶民 しょみん 院 いん 院内 いんない 総務 そうむ に就任 しゅうにん し、支持 しじ 率 りつ を維持 いじ するために尽力 じんりょく した。
党首 とうしゅ 就任 しゅうにん と総 そう 選挙 せんきょ 敗北 はいぼく [ 編集 へんしゅう ]
1979年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ で、労働党 ろうどうとう がマーガレット・サッチャー 率 ひき いる保守党 ほしゅとう に敗 やぶ れて下野 げや すると、キャラハンは党首 とうしゅ 辞任 じにん を表明 ひょうめい 。それに伴 ともな って党首 とうしゅ 選挙 せんきょ が行 おこな われることになった。フットはキャラハン政権 せいけん 時代 じだい 、副 ふく 党首 とうしゅ として党内 とうない のまとめ役 やく となり積極 せっきょく 的 てき にキャラハンに協力 きょうりょく したものの、従来 じゅうらい の左派 さは から反感 はんかん を買 か っていた。また、キャラハンとわずか1歳 さい 違 ちが いという年齢 ねんれい (当時 とうじ 67歳 さい )もあり、今回 こんかい の党首 とうしゅ 選 せん には意欲 いよく 的 てき ではなく、ピーター・ショア (Peter Shore ) の支持 しじ に回 まわ るつもりであった。しかし、左派 さは 幹部 かんぶ からの強 つよ い説得 せっとく を受 う ける形 かたち で出馬 しゅつば を表明 ひょうめい した。キャラハンを含 ふく む党内 とうない 右派 うは はデニス・ヒーリー の党首 とうしゅ 就任 しゅうにん を望 のぞ んだが、その場合 ばあい 、トニー・ベン (Tony Benn ) ら党内 とうない 急進 きゅうしん 左派 さは との亀裂 きれつ がさらに深 ふか まる事態 じたい は避 さ けがたく、フットも党首 とうしゅ 選 せん においては、自分 じぶん は党内 とうない に団結 だんけつ をもたらすのに最適 さいてき な候補者 こうほしゃ である、と喧伝 けんでん した[ 4] 。その結果 けっか 、決選 けっせん 投票 とうひょう で右派 うは が支持 しじ するヒーリーを破 やぶ り、当選 とうせん を果 は たした。
しかし、新 しん 党首 とうしゅ に就任 しゅうにん 後 ご すぐに深刻 しんこく な危機 きき に直面 ちょくめん することになる。1981年 ねん 、党内 とうない の左傾 さけい 化 か を嫌 きら って、党内 とうない 右派 うは のロイ・ジェンキンス 、シャーリー・ウィリアムズ 、デイヴィッド・オーウェン 、ウィリアム・ロジャーズ ら複数 ふくすう の議員 ぎいん が労働党 ろうどうとう を離党 りとう し、社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう を結成 けっせい する。彼 かれ らはメディアの注目 ちゅうもく を浴 あ び、一時 いちじ は世論 せろん 調査 ちょうさ で労働党 ろうどうとう を凌 しの ぐほどの支持 しじ 率 りつ を獲得 かくとく する。
一方 いっぽう で党内 とうない 急進 きゅうしん 左派 さは は勢 いきお いを増 ま し、1981年 ねん にはトニー・ベン が副 ふく 党首 とうしゅ の座 ざ を争 そう ってデニス・ヒーリーに挑戦 ちょうせん 。ヒーリーは副 ふく 党首 とうしゅ の座 ざ を守 まも ったものの、僅差 きんさ に迫 せま られてしまう。しかし、労働党 ろうどうとう の支持 しじ 率 りつ は低迷 ていめい を続 つづ け、次回 じかい 総 そう 選挙 せんきょ までに労働党 ろうどうとう 議員 ぎいん がフットに辞任 じにん を迫 せま るのではないか、との観測 かんそく が流 なが れた。結局 けっきょく 労働党 ろうどうとう はフット党首 とうしゅ 体制 たいせい のまま1983年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ に突入 とつにゅう することになる。
1983年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ に向 む けた労働党 ろうどうとう のマニフェスト は、一方 いっぽう 的 てき 核 かく 廃絶 はいぜつ 、高 こう 負担 ふたん の税金 ぜいきん 、産業 さんぎょう への積極 せっきょく 的 てき 干渉 かんしょう 、貴族 きぞく 院 いん の廃止 はいし 、銀行 ぎんこう 国有 こくゆう 化 か 、欧州 おうしゅう 経済 けいざい 共同 きょうどう 体 たい (EEC) からの脱退 だったい など、より社会 しゃかい 主義 しゅぎ 色 いろ が強 つよ いもので、党内 とうない 右派 うは のジェラルド・カウフマン (Gerald Kaufman ) は、このマニフェストを「歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も長 なが い自殺 じさつ の覚 おぼ え書 が き」と表現 ひょうげん した。事実 じじつ このマニフェストは、中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の増加 ぞうか するイギリスにおいて時代 じだい 錯誤 さくご とも言 い うべきものであり、一般 いっぱん 有権者 ゆうけんしゃ は労働党 ろうどうとう への不信 ふしん を募 つの らせ、労働党 ろうどうとう は総 そう 選挙 せんきょ で歴史 れきし 的 てき 大敗 たいはい を喫 きっ してしまう[ 5] 。フットはこの責任 せきにん を取 と って党首 とうしゅ を辞任 じにん 。新 しん 党首 とうしゅ にはニール・キノック が選 えら ばれた。
党首 とうしゅ 辞任 じにん 後 ご も、1992年 ねん に引退 いんたい するまで『悪魔 あくま の詩 し 』でイスラム教徒 きょうと からの非難 ひなん を浴 あ びたサルマン・ラシュディ を擁護 ようご したり、ユーゴスラビア のスロボダン・ミロシェヴィッチ 大統領 だいとうりょう を非難 ひなん するなど(彼 かれ は英国 えいこく ‐クロアチア協会 きょうかい のパトロンでもあった[ 6] )、議員 ぎいん として精力 せいりょく 的 てき に活動 かつどう した。1987年 ねん からは、議会 ぎかい で最 さい 高齢 こうれい の議員 ぎいん となっている。
1995年 ねん 、サンデー・タイムズ 紙 かみ に「フットはKGB のスパイだった」という見出 みだ しが掲載 けいさい される。この記事 きじ は、ソ連 それん からの亡命 ぼうめい 者 しゃ 、オレーグ・ゴルディエフスキーの記憶 きおく を元 もと に書 か かれた新聞 しんぶん の連載 れんさい を元 もと にかかれたものだった。フットはこれを否定 ひてい し、サンデー・タイムズに対 たい して訴訟 そしょう を起 お こした。また、この件 けん に関 かん してはトリビューン紙 し がフットを擁護 ようご している。
2006年 ねん 、93歳 さい の誕生 たんじょう 日 び には、ジェームズ・キャラハン の92歳 さい 364日 にち の記録 きろく を更新 こうしん し、イギリスの党首 とうしゅ 経験 けいけん 者 しゃ としては最 さい 高齢 こうれい の人物 じんぶつ となった。
2010年 ねん 3月 がつ 3日 にち 、96歳 さい で死去 しきょ 。
聡明 そうめい な政治 せいじ 家 か であることは広 ひろ く認 みと められているが、選挙 せんきょ の顔 かお としては機能 きのう せず、1983年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ を大敗 たいはい で終 お えたことから、その評価 ひょうか はきわめて低 ひく い。労働党 ろうどうとう 員 いん の間 あいだ で行 おこな われた調査 ちょうさ では、史上 しじょう 最低 さいてい の党首 とうしゅ に選 えら ばれている[ 7] 。「インテリ ではあったが、大衆 たいしゅう 受 う けしなかった」「TV全盛 ぜんせい の時代 じだい に対応 たいおう できなかった」という評価 ひょうか が一般 いっぱん 的 てき である[ 8] 。
フットは幼 おさな い頃 ころ からプリマス・アーガイルFC の熱心 ねっしん なサポーターであり、数 すう 年間 ねんかん クラブの理事 りじ として働 はたら いたこともあった。90歳 さい の誕生 たんじょう 日 び プレゼントとして、クラブは彼 かれ を選手 せんしゅ として登録 とうろく し、90番 ばん の背番号 せばんごう を与 あた えた。これにより、フットはサッカー史上 しじょう 最 さい 高齢 こうれい の選手 せんしゅ となる。彼 かれ はこのことを受 う け、「チームがプレミアリーグ に復帰 ふっき するまで、“故障 こしょう ”はできないな」とコメントした。
フットの父 ちち ・アイザック・フット (Isaac Foot ) は、プリマスで法律 ほうりつ 事務所 じむしょ を改行 かいぎょう した事務 じむ 弁護士 べんごし であった。彼 かれ はまた、自由党 じゆうとう のメンバーでもあり、1922年 ねん – 1924年 ねん 、1929年 ねん – 1935年 ねん の間 あいだ 、庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん ・プリマス市長 しちょう を務 つと めていた[ 9] 。
兄弟 きょうだい も政治 せいじ 家 か で、兄 あに に庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん のディングル・フット (Dingle Foot )、自由党 じゆうとう の政治 せいじ 家 か ジョン・フット (John Foot )、キプロス総督 そうとく ・国連 こくれん 大使 たいし のヒュー・フット (Hugh Foot ) がいる。また、甥 おい (ヒューの息子 むすこ )のポール・フット (Paul Foot ) はジャーナリストである。
1949年 ねん 、フェミニスト で歴史 れきし 家 か でもあるジル・クレイギーと結婚 けっこん している。2007年 ねん 、1970年代 ねんだい 前半 ぜんはん にフットが不倫 ふりん をし、相手 あいて の女性 じょせい に多 おお くの金額 きんがく を費 つい やしていたことが明 あき らかになった。妻 つま ジルは、いつもは服装 ふくそう にこだわらないフットが、急 きゅう に身 み だしなみに気 き を使 つか うようになってから疑 うたが いを持 も つようになったという[ 10] 。ジルは1999年 ねん に死去 しきょ した。
^ Smith, Cameron (1989). Unfinished Journey: The Lewis Family . Toronto : Summerhill Press. pp. pp.161–162. ISBN 0-929091-04-3 Foot in an interview with the author in 1985
^ Mervyn Jones,Michael Foot (Weidenfeld & Nicolson, 1994), p. 43.
^ Ibid, p. 30.
^ 長浜 ながはま 孝行 たかゆき 「フット新 しん 党首 とうしゅ に難問 なんもん 山積 さんせき 」『世界 せかい 週報 しゅうほう 』1980.12.02 時事通信社 じじつうしんしゃ p32 - 34
^ “英 えい 労働党 ろうどうとう トップに無名 むめい (?)強硬 きょうこう 左派 さは 、の衝撃 しょうげき ” . ニューズウィーク . (2015年 ねん 9月 がつ 18日 にち ). http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2015/09/post-98.php 2015年 ねん 9月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ The British Croatian Society Archived 2009年 ねん 3月 がつ 4日 にち , at the Wayback Machine .Registered Charity No. 1086139 Info and CV's of the members, retrieved 2009-01-29
^ http://www.bbc.co.uk/blogs/newsnight/michaelcrick/2008/09/place_that_labour_face.html
^ 林 はやし 信吾 しんご 『これが英国 えいこく 労働党 ろうどうとう だ』 新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、1999年 ねん p161・162
^ Foot, John. “Isaac Foot”. In Duncan Brack. Dictionary of Liberal Biography . Malcolm Baines, Katie Hall, Graham Lippiatt, Tony Little, Mark Pack, Geoffrey Sell, Jen Tankard (1st ed. ed.). Artillery Row, London: Politico's Publishing. pp. 109–112. ISBN 1902301099
^ http://www.timesonline.co.uk/tol/news/politics/article1434627.ece Michael Foot had a young black mistress - Times Online
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