(Translated by https://www.hiragana.jp/)
マイケル・フット - Wikipedia コンテンツにスキップ

マイケル・フット

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイケル・フット
Michael Mackintosh Foot
生年月日せいねんがっぴ 1913ねん7がつ23にち
出生しゅっしょう イギリスの旗 イギリス デヴォン プリマス
ぼつ年月日ねんがっぴ 2010ねん3月3にちまん96さいぼつ
出身しゅっしんこう オックスフォおっくすふぉド大学どだいがくワダム・カレッジ
ぜんしょく ジャーナリスト
所属しょぞく政党せいとう 労働党ろうどうとう
配偶はいぐうしゃ ジル・クレイギー
親族しんぞく アイザック・フットちち
ディングル・フットあに
ジョン・フットあに
ヒュー・フットあに

イギリスの旗 かげ首相しゅしょう
在任ざいにん期間きかん 1980ねん11月4にち - 1983ねん10月2にち

内閣ないかく ジェームズ・キャラハン内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1976ねん4がつ8にち - 1979ねん5月4にち

イギリスの旗 雇用こよう大臣だいじん
内閣ないかく ハロルド・ウィルソンないかく
在任ざいにん期間きかん 1974ねん3月5にち - 1976ねん4がつ8にち
テンプレートを表示ひょうじ

マイケル・マッキントッシュ・フットMichael Mackintosh Foot1913ねん7がつ23にち - 2010ねん3月3にち)は、イギリスのジャーナリスト、政治せいじ1980ねんから1983ねんまで、労働党ろうどうとう党首とうしゅつとめた。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

若年じゃくねん

[編集へんしゅう]

1913ねんデヴォンプリマスまれる。プリマス大学だいがくプレパラトリー・スクール、レディングレイトンパーク・スクール (Leighton Park School) にとおったのちオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくワダム・カレッジ (Wadham College) で哲学てつがく政治せいじ経済けいざいがくまなんだ。学生がくせい時代じだい歴代れきだいわた有力ゆうりょく政治せいじ輩出はいしゅつしてきたことで有名ゆうめい弁論べんろんオックスフォード・ユニオンOxford Union)の会長かいちょうつとめている。また、アメリカへのディベートツアー・ESU USAツアーにも参加さんかしていた。

卒業そつぎょう1934ねんリヴァプール積荷つみに事務じむいんとなる。フットはここで、これまでプリマスでてきたものとはおおきくかけはなれた失業しつぎょう貧困ひんこん現実げんじつたりにする。このことはフットに衝撃しょうげきあたえ、これまで自由じゆう主義しゅぎしゃだったかれは、オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく労働ろうどうしゃクラブのデイヴィッド・ルイス (David Lewis) らの影響えいきょう社会しゃかい主義しゅぎしゃ転向てんこうした[1]。その労働党ろうどうとう入党にゅうとうし、22さいにしてモンマス選挙せんきょから1935ねんそう選挙せんきょにも出馬しゅつばした。この選挙せんきょせんにおいて、フットはスタンリー・ボールドウィン首相しゅしょうつよ批判ひはんし、「ヨーロッパにおけるさい軍拡ぐんかく競争きょうそう中止ちゅうししなくてはならない」と主張しゅちょうした[2]。また1933ねんジェノヴァにおける相互そうご軍縮ぐんしゅく会議かいぎ失敗しっぱいすると、一方いっぽうてきにでも軍縮ぐんしゅくすすめるべきだと主張しゅちょうしたが[3]、この選挙せんきょでは当選とうせんたすことは出来できなかった。

ジャーナリスト時代じだい

[編集へんしゅう]

その政治せいじ雑誌ざっしニュー・ステイツマン』 (New Statesman) でジャーナリストとしてはたらくようになる。1937ねん左派さはけい週刊しゅうかんトリビューン』 (Tribune) の創刊そうかんとも移籍いせきし、労働党ろうどうとう左派さは政党せいとうとのあいだまれたはんファシスト連合れんごう戦線せんせん支援しえんした。このときのはんファシスト連合れんごうには、スタフォード・クリップス (Stafford Cripps) の社会しゃかい主義しゅぎしゃ連盟れんめい独立どくりつ労働党ろうどうとうイギリス共産党きょうさんとうなども参加さんかしていた。1938ねん初代しょだい編集へんしゅうちょうのウィリアム・メラーは共産党きょうさんとう人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつ回帰かいきすると、これに反対はんたいして解雇かいこされてしまう。フットもこれにしたがい、ファシズム宥和ゆうわ政策せいさく反対はんたいしてしょくした。

そのアナイリン・ベヴァン推薦すいせんにより、フットは初代しょだいビーバーブルック男爵だんしゃくマックス・エイトケンやとわれ、新聞しんぶんイブニング・スタンダード』 (Evening Standard) の編集へんしゅうしゃとしてはたらくことになった。ベヴァンは「ほねのある若者わかものがいます。上司じょうし解雇かいこ抗議こうぎして、自分じぶん辞職じしょくしたおとこです」とってフットをビーバーブルックきょう紹介しょうかいしたという。

だい2世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、フットは従軍じゅうぐん希望きぼうするも、慢性まんせいてき喘息ぜんそくのせいでこばまれてしまう。1940ねん、"Cato" のペンネームをもちい、スタンダードフランク・オーウェン (Frank Owen)・デイリー・エクスプレスピーター・ハワード (Peter Howard) とともGuilty Men出版しゅっぱんネヴィル・チェンバレン首相しゅしょう宥和ゆうわ政策せいさく批判ひはんし、たちまちベストセラーとなった。1942ねんには、28さいにしてイブニング・スタンダード編集へんしゅうちょうとなる。

1947ねんには、リチャード・クロスマン (Richard Crossman)、イアン・ミカード (Ian Mikardo) らとともに、労働党ろうどうとう左派さは機関きかんキープ・レフト (Keep left) に参加さんかしている。

政界せいかい

[編集へんしゅう]

フットの政治せいじとしてのキャリアは、1945ねんそう選挙せんきょにヴォンポート選挙せんきょから出馬しゅつばし、当選とうせんしたことからはじまる。かれ党内とうない左派さはのリーダーかくだった、アニュエリン・ベヴァンもっとしたしい盟友めいゆうであったが、ベヴァンが1957ねんとう大会たいかい一方いっぽうてきかく廃絶はいぜつ断念だんねん表明ひょうめいして以降いこう2人ふたりなかたがいしてしまう。

以前いぜん、「キープ・レフト」に参加さんかしていたこともあり、冷戦れいせんこる以前いぜんの1940年代ねんだいかれしんソ連それん外交がいこう信望しんぼうしゃであった。しかし、ハンガリー事件じけんチェコ事件じけんでのソ連それん対応たいおうあきらかになると、フットははん共産きょうさん主義しゅぎへの立場たちば明確めいかくにし、NATO体制たいせいれるようになった。一方いっぽうで、政府せいふスエズ危機きき朝鮮ちょうせん戦争せんそうへの対応たいおう西にしドイツさい軍備ぐんびたいしては反対はんたい姿勢しせいつらぬき、核兵器かくへいき廃絶はいぜつ運動うんどう (Campaign for Nuclear Disarmament) の創設そうせつにも参加さんかした。

1955ねんそう選挙せんきょでは予想よそうがい敗北はいぼくきっ落選らくせんしてしまうが、1960ねんにベヴァンが死亡しぼうすると、かれのエブ・バレー選挙せんきょいで補欠ほけつ選挙せんきょ当選とうせん議会ぎかいかえいた。

1964ねんハロルド・ウィルソン党首とうしゅのもとで労働党ろうどうとう政権せいけん与党よとうになると、フットは閣僚かくりょうりを要請ようせいされるが、これを拒否きょひ党内とうない左派さはのリーダーとして移民いみん制限せいげん、EC共同きょうどう市場いちばへの加盟かめい労働ろうどう組合くみあい改革かいかくベトナム戦争せんそうローデシア独立どくりつとう反対はんたいし、政府せいふ対立たいりつした。また、世襲せしゅう貴族きぞく投票とうひょうけん廃止はいしし、いちだい貴族きぞくだけで構成こうせいされる貴族きぞくいん創設そうせつする政府せいふあん反対はんたいするため、保守党ほしゅとう右派うはのイノック・パウエルとも協力きょうりょくしている。1967ねんには、とう財務ざいむ担当たんとうかんあらそってジェームズ・キャラハン挑戦ちょうせんしたが、やぶれてしまう。

閣僚かくりょう

[編集へんしゅう]

1970ねん以降いこう労働党ろうどうとう左傾さけいし、それにともなってウィルソン党首とうしゅもフットとのいをつけるようになってきた。1972ねんにはふく党首とうしゅ選挙せんきょ出馬しゅつばするが、だい2かい投票とうひょうエドワード・ショート (Edward Short) に敗北はいぼくする。

1974ねん労働党ろうどうとうはウィルソン党首とうしゅのもとでふたた政権せいけん復帰ふっきし、フットは雇用こよう大臣だいじん任命にんめいされた。かれはここで労働党ろうどうとう労働ろうどう組合くみあい関係かんけい維持いじし、健康けんこう安全あんぜん労働ろうどうほう (Health and Safety at Work Act) を制定せいていするためにちから発揮はっき欧州おうしゅう経済けいざい共同きょうどうたい (EEC) 加盟かめいめぐ1975ねん国民こくみん投票とうひょうで、反対はんたい大黒柱だいこくばしらとして存在そんざいかん発揮はっきした。1975ねん、インドの政変せいへんさいは、ジェニー・リーらとともインディラ・ガンディー支援しえんしている。

1976ねん、ウィルソンが辞任じにんすると党首とうしゅ選挙せんきょ出馬しゅつばするもジェームズ・キャラハン敗北はいぼく。キャラハンのしたふく党首とうしゅ枢密院すうみついん議長ぎちょう庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ就任しゅうにんし、支持しじりつ維持いじするために尽力じんりょくした。

党首とうしゅ就任しゅうにんそう選挙せんきょ敗北はいぼく

[編集へんしゅう]

1979ねんそう選挙せんきょで、労働党ろうどうとうマーガレット・サッチャーひきいる保守党ほしゅとうやぶれて下野げやすると、キャラハンは党首とうしゅ辞任じにん表明ひょうめい。それにともなって党首とうしゅ選挙せんきょおこなわれることになった。フットはキャラハン政権せいけん時代じだいふく党首とうしゅとして党内とうないのまとめやくとなり積極せっきょくてきにキャラハンに協力きょうりょくしたものの、従来じゅうらい左派さはから反感はんかんっていた。また、キャラハンとわずか1さいちがいという年齢ねんれい当時とうじ67さい)もあり、今回こんかい党首とうしゅせんには意欲いよくてきではなく、ピーター・ショア (Peter Shore) の支持しじまわるつもりであった。しかし、左派さは幹部かんぶからのつよ説得せっとくけるかたち出馬しゅつば表明ひょうめいした。キャラハンをふく党内とうない右派うはデニス・ヒーリー党首とうしゅ就任しゅうにんのぞんだが、その場合ばあいトニー・ベン (Tony Benn) ら党内とうない急進きゅうしん左派さはとの亀裂きれつがさらにふかまる事態じたいけがたく、フットも党首とうしゅせんにおいては、自分じぶん党内とうない団結だんけつをもたらすのに最適さいてき候補者こうほしゃである、と喧伝けんでんした[4]。その結果けっか決選けっせん投票とうひょう右派うは支持しじするヒーリーをやぶり、当選とうせんたした。

しかし、しん党首とうしゅ就任しゅうにんすぐに深刻しんこく危機きき直面ちょくめんすることになる。1981ねん党内とうない左傾さけいきらって、党内とうない右派うはロイ・ジェンキンスシャーリー・ウィリアムズデイヴィッド・オーウェンウィリアム・ロジャーズ複数ふくすう議員ぎいん労働党ろうどうとう離党りとうし、社会しゃかい民主党みんしゅとう結成けっせいする。かれらはメディアの注目ちゅうもくび、一時いちじ世論せろん調査ちょうさ労働党ろうどうとうしのぐほどの支持しじりつ獲得かくとくする。

一方いっぽう党内とうない急進きゅうしん左派さはいきおいをし、1981ねんにはトニー・ベンふく党首とうしゅそうってデニス・ヒーリーに挑戦ちょうせん。ヒーリーはふく党首とうしゅまもったものの、僅差きんさせまられてしまう。しかし、労働党ろうどうとう支持しじりつ低迷ていめいつづけ、次回じかいそう選挙せんきょまでに労働党ろうどうとう議員ぎいんがフットに辞任じにんせまるのではないか、との観測かんそくながれた。結局けっきょく労働党ろうどうとうはフット党首とうしゅ体制たいせいのまま1983ねんそう選挙せんきょ突入とつにゅうすることになる。

1983ねんそう選挙せんきょけた労働党ろうどうとうマニフェストは、一方いっぽうてきかく廃絶はいぜつこう負担ふたん税金ぜいきん産業さんぎょうへの積極せっきょくてき干渉かんしょう貴族きぞくいん廃止はいし銀行ぎんこう国有こくゆう欧州おうしゅう経済けいざい共同きょうどうたい (EEC) からの脱退だったいなど、より社会しゃかい主義しゅぎいろつよいもので、党内とうない右派うはジェラルド・カウフマン (Gerald Kaufman) は、このマニフェストを「歴史れきしじょうもっとなが自殺じさつおぼき」と表現ひょうげんした。事実じじつこのマニフェストは、中産ちゅうさん階級かいきゅう増加ぞうかするイギリスにおいて時代じだい錯誤さくごともうべきものであり、一般いっぱん有権者ゆうけんしゃ労働党ろうどうとうへの不信ふしんつのらせ、労働党ろうどうとうそう選挙せんきょ歴史れきしてき大敗たいはいきっしてしまう[5]。フットはこの責任せきにんって党首とうしゅ辞任じにんしん党首とうしゅにはニール・キノックえらばれた。

その

[編集へんしゅう]

党首とうしゅ辞任じにんも、1992ねん引退いんたいするまで『悪魔あくま』でイスラム教徒きょうとからの非難ひなんびたサルマン・ラシュディ擁護ようごしたり、ユーゴスラビアスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領だいとうりょう非難ひなんするなど(かれ英国えいこく‐クロアチア協会きょうかいのパトロンでもあった[6])、議員ぎいんとして精力せいりょくてき活動かつどうした。1987ねんからは、議会ぎかいさい高齢こうれい議員ぎいんとなっている。

1995ねんサンデー・タイムズかみに「フットはKGBのスパイだった」という見出みだしが掲載けいさいされる。この記事きじは、ソ連それんからの亡命ぼうめいしゃ、オレーグ・ゴルディエフスキーの記憶きおくもとかれた新聞しんぶん連載れんさいもとにかかれたものだった。フットはこれを否定ひていし、サンデー・タイムズにたいして訴訟そしょうこした。また、このけんかんしてはトリビューンがフットを擁護ようごしている。

2006ねん、93さい誕生たんじょうには、ジェームズ・キャラハンの92さい364にち記録きろく更新こうしんし、イギリスの党首とうしゅ経験けいけんしゃとしてはさい高齢こうれい人物じんぶつとなった。

2010ねん3がつ3にち、96さい死去しきょ

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

聡明そうめい政治せいじであることはひろみとめられているが、選挙せんきょかおとしては機能きのうせず、1983ねんそう選挙せんきょ大敗たいはいえたことから、その評価ひょうかはきわめてひくい。労働党ろうどうとういんあいだおこなわれた調査ちょうさでは、史上しじょう最低さいてい党首とうしゅえらばれている[7]。「インテリではあったが、大衆たいしゅうけしなかった」「TV全盛ぜんせい時代じだい対応たいおうできなかった」という評価ひょうか一般いっぱんてきである[8]

サッカー

[編集へんしゅう]

フットはおさなころからプリマス・アーガイルFC熱心ねっしんなサポーターであり、すう年間ねんかんクラブの理事りじとしてはたらいたこともあった。90さい誕生たんじょうプレゼントとして、クラブはかれ選手せんしゅとして登録とうろくし、90ばん背番号せばんごうあたえた。これにより、フットはサッカー史上しじょうさい高齢こうれい選手せんしゅとなる。かれはこのことをけ、「チームがプレミアリーグ復帰ふっきするまで、“故障こしょう”はできないな」とコメントした。

家族かぞく

[編集へんしゅう]

フットのちちアイザック・フット (Isaac Foot) は、プリマスで法律ほうりつ事務所じむしょ改行かいぎょうした事務じむ弁護士べんごしであった。かれはまた、自由党じゆうとうのメンバーでもあり、1922ねん – 1924ねん、1929ねん – 1935ねんあいだ庶民しょみんいん議員ぎいん・プリマス市長しちょうつとめていた[9]

兄弟きょうだい政治せいじで、あに庶民しょみんいん議員ぎいんディングル・フット (Dingle Foot)、自由党じゆうとう政治せいじジョン・フット (John Foot)、キプロス総督そうとく国連こくれん大使たいしヒュー・フット (Hugh Foot) がいる。また、おい(ヒューの息子むすこ)のポール・フット (Paul Foot) はジャーナリストである。

1949ねんフェミニスト歴史れきしでもあるジル・クレイギーと結婚けっこんしている。2007ねん、1970年代ねんだい前半ぜんはんにフットが不倫ふりんをし、相手あいて女性じょせいおおくの金額きんがくついやしていたことがあきらかになった。つまジルは、いつもは服装ふくそうにこだわらないフットが、きゅうだしなみに使つかうようになってからうたがいをつようになったという[10]。ジルは1999ねん死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Smith, Cameron (1989). Unfinished Journey: The Lewis Family. Toronto: Summerhill Press. pp. pp.161–162. ISBN 0-929091-04-3  Foot in an interview with the author in 1985
  2. ^ Mervyn Jones,Michael Foot (Weidenfeld & Nicolson, 1994), p. 43.
  3. ^ Ibid, p. 30.
  4. ^ 長浜ながはま孝行たかゆき「フットしん党首とうしゅ難問なんもん山積さんせき」『世界せかい週報しゅうほう』1980.12.02 時事通信社じじつうしんしゃ p32 - 34
  5. ^ えい労働党ろうどうとうトップに無名むめい(?)強硬きょうこう左派さは、の衝撃しょうげき. ニューズウィーク. (2015ねん9がつ18にち). http://www.newsweekjapan.jp/joyce/2015/09/post-98.php 2015ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん 
  6. ^ The British Croatian Society Archived 2009ねん3がつ4にち, at the Wayback Machine.Registered Charity No. 1086139 Info and CV's of the members, retrieved 2009-01-29
  7. ^ http://www.bbc.co.uk/blogs/newsnight/michaelcrick/2008/09/place_that_labour_face.html
  8. ^ はやし信吾しんご 『これが英国えいこく労働党ろうどうとうだ』 新潮しんちょう選書せんしょ、1999ねん p161・162
  9. ^ Foot, John. “Isaac Foot”. In Duncan Brack. Dictionary of Liberal Biography. Malcolm Baines, Katie Hall, Graham Lippiatt, Tony Little, Mark Pack, Geoffrey Sell, Jen Tankard (1st ed. ed.). Artillery Row, London: Politico's Publishing. pp. 109–112. ISBN 1902301099 
  10. ^ http://www.timesonline.co.uk/tol/news/politics/article1434627.ece Michael Foot had a young black mistress - Times Online

書籍しょせき

[編集へんしゅう]

フットの著作ちょさく

[編集へんしゅう]
  • "Cato". Guilty Men. Left Book Club. 1940.
  • "Brendan and Beverley" (as "Cassius"). Victor Gollancz. 1940.
  • Foot, Michael: The Pen and the Sword. MacGibbon and Kee. 1957. ISBN 0-261-61989-6
  • Foot, Michael: Aneurin Bevan. MacGibbon and Kee. 1962 (vol 1); 1973 (vol 2) ISBN 0-261-61508-4
  • Foot, Michael: Debts of Honour. Harper and Row. 1981. ISBN 0-06-039001-8
  • Foot, Michael: Another Heart and Other Pulses. Collins. 1984.
  • Foot, Michael: H. G.: The History of Mr Wells. Doubleday. 1985.
  • Foot, Michael: Loyalists and Loners. Collins. 1986.
  • Foot, Michael: Politics of Paradise. HarperCollins. 1989. ISBN 0-06-039091-3
  • Foot, Michael: 'Introduction' in Swift, Jonathan. Gulliver's Travels. Penguin (Penguin Classics), 1967 & 1985.
  • Foot, Michael (1997). “Bevan's Message to the World”. In Goodman, Geoffrey (ed.). The State of the Nation: The Political Legacy of Aneurin Bevan. London: Gollancz. pp. 179–207. ISBN 0575063084 
  • Foot, Michael: 'Introduction' in Russell, Bertrand: Autobiography (Routledge, 1998)
  • Foot, Michael: Dr Strangelove, I Presume (Gollancz, 1999)
  • Foot, Michael: The Uncollected Michael Foot (ed Brian Brivati, Politicos Publishing, 2003)
  • Foot, Michael: 'Foreword' in Rosen, Greg: Old Labour to New (Methuen Publishing, 2005)
  • Foot, Michael: Isaac Foot: A West Country Boy - Apostle of England. (Politicos, 2006)

フットにかんする著作ちょさく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
レスリー・ホーア=ベリシャ
プリマス・デヴォンポート選挙せんきょ選出せんしゅつ
1945–1955
次代じだい
ジャン・ヴィッカース
先代せんだい
アニュエリン・ベヴァン
エブ・バレー選挙せんきょ選出せんしゅつ
1945–1955
次代じだい
ルウェリン・スミス
先代せんだい
ロバート・エドワーズ
さい高齢こうれい議員ぎいん
1987 - 1992
次代じだい
エドワード・ヒース
公職こうしょく
先代せんだい
ウィリアム・ホワイトロー
雇用こよう大臣だいじん
1974–1976
次代じだい
アルバート・ブース
先代せんだい
エドワード・ショート
枢密院すうみついん議長ぎちょう
1976–1979
次代じだい
クリストファー・ソーム
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
1976–1979
次代じだい
ノーマン・セント・ジョン=スティーブス
先代せんだい
ジェームズ・キャラハン
かげ首相しゅしょう
1980–1983
次代じだい
ニール・キノック
とうしょく
先代せんだい
エドワード・ショート
労働党ろうどうとうふく党首とうしゅ
1976–1980
次代じだい
デニス・ヒーリー
先代せんだい
ジェームズ・キャラハン
労働党ろうどうとう党首とうしゅ
1980–1983
次代じだい
ニール・キノック
メディア
先代せんだい
フランク・オーウェン
イブニング・スタンダード編集へんしゅうちょう
1942–1945
次代じだい
バート・ガン
先代せんだい
ジョン・キムヘ
トリビューン編集へんしゅうちょう
1948–1952
次代じだい
ボブ・エドワーズ
先代せんだい
ボブ・エドワーズ
トリビューン編集へんしゅうちょう
1955–1960
次代じだい
リチャード・クレメンツ