人民戦線じんみんせんせん

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人民戦線じんみんせんせん(じんみんせんせん、ふつ: Front populaire, 西にし: Frente popular)とは、はんファシズムはん帝国ていこく主義しゅぎ反戦はんせん主義しゅぎ共同きょうどう目標もくひょうとする集団しゅうだんである。その起源きげんフランス労働ろうどう階級かいきゅうにおける統一とういつ戦線せんせんから発展はってんしたものであるが、「人民戦線じんみんせんせん」という言葉ことば1935ねんだい7かいコミンテルン世界せかい大会たいかいにおいてブルガリア共産党きょうさんとう指導しどうしゃゲオルギ・ディミトロフによる提唱ていしょうのち一般いっぱんした[1]フランススペインチリでは政権せいけん掌握しょうあくし、労働ろうどう改革かいかく社会しゃかい改革かいかくなどを実現じつげんした。

人民戦線じんみんせんせん結成けっせいされた国々くにぐに[編集へんしゅう]

イギリス[編集へんしゅう]

1936ねん12月に自由党じゆうとうのリチャード・アクランド、マルクス主義まるくすしゅぎしゃジョン・ストレイチー労働党ろうどうとうのG.D.H.コール、保守党ほしゅとうのロバート・ブースビーがイギリス人民戦線じんみんせんせん結成けっせい選挙せんきょでは一定いってい成功せいこうおさめたものの、政権せいけん獲得かくとくにはいたらなかった[2]

フランス[編集へんしゅう]

1932ねん8がつ作家さっかロマン・ロランアンリ・バルビュスアンドレ・ジッドアンドレ・マルローらのびかけによってアムステルダム国際こくさい反戦はんせん大会たいかい開催かいさいされ、38カ国かこくから2196にん参加さんかし、よく33ねん6がつパリのプレイエル会館かいかんだい2かい大会たいかい開催かいさいされた。この運動うんどうは、アムステルダム・プレイエル運動うんどうわれる反戦はんせんはんファシズム運動うんどうとして発展はってんした(日本にっぽんからは片山かたやません発起人ほっきにんとして参加さんか)。そのような状況じょうきょうの1934ねん2がつ6にち前年ぜんねんにドイツでナチス政権せいけん掌握しょうあくしたのに刺激しげきされて、右翼うよくファシスト議会ぎかい攻撃こうげきする事件じけん1934ねん2がつ6にち危機きき)がこった。当時とうじフランス社会党しゃかいとうフランス共産党きょうさんとう分裂ぶんれつし、対立たいりつしていたが、この2がつ6にち事件じけんに、はんファッショ勢力せいりょく結集けっしゅう行動こうどう統一とういつがはかられ、社会党しゃかいとうけい労働ろうどうそう同盟どうめい提唱ていしょうしたゼネラル・ストライキ共産党きょうさんとうけい統一とういつ労働ろうどうそう同盟どうめい参加さんかし、共同きょうどう行動こうどう発展はってんした。これに急進きゅうしん社会党しゃかいとうくわわり、1936ねん4がつおこなわれた議会ぎかい選挙せんきょ人民戦線じんみんせんせん圧勝あっしょうし、社会党しゃかいとうレオン・ブルム首班しゅはんとする人民戦線じんみんせんせん政府せいふ成立せいりついたる。

フランス共産党きょうさんとう書記しょきちょうモーリス・トレーズによれば「人民戦線じんみんせんせん政府せいふ労働ろうどうしゃおよ農民のうみん政府せいふ先駆せんくであり、ソビエト主権しゅけん確立かくりつ無産むさんしゃ独裁どくさい社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい準備じゅんびであらねばならぬ。しかしながら今日きょういまだそれらの実現じつげんのための条件じょうけんそなわっておらぬ」と目標もくひょう現実げんじつ分析ぶんせきしているが、フランスではプロレタリア指導しどう盲目的もうもくてき服従ふくじゅうすることはない中産ちゅうさん農民のうみんそうがその人口じんこうおおきな部分ぶぶんめ、その民主みんしゅ主義しゅぎ意識いしき共産きょうさん主義しゅぎをファシズム反対はんたいということ以上いじょうには評価ひょうかしなかった。フランス共産党きょうさんとうは1936ねん6がつはじめにはフランス全土ぜんどストライキ騒動そうどうたいして社会党しゃかいとう労働ろうどうそう同盟どうめいなどと協力きょうりょくしてストライキ中止ちゅうし指令しれいしたり、同年どうねん10がつ中旬ちゅうじゅんアルザス=ロレーヌ地方ちほう共産党きょうさんとう示威じい集会しゅうかい政府せいふ要求ようきゅうにより集会しゅうかいかず制限せいげんしたことなどにられるようにはんファシズムに重点じゅうてんいたことで人民戦線じんみんせんせん維持いじのための消極しょうきょくてき努力どりょくをしている[3]

フランスの場合ばあい知識ちしきじんたした役割やくわりおおきく、有給ゆうきゅう休暇きゅうかバカンス)・労働ろうどうしゃ組合くみあい地位ちい向上こうじょうマティニョン協定きょうてい)・しゅう40あいだせい実施じっし・ランジュバン・ワロンの教育きょういく改革かいかくなど重要じゅうよう労働ろうどう社会しゃかい立法りっぽうおこなったが、さき成立せいりつしていたスペイン人民戦線じんみんせんせんへの軍部ぐんぶ反乱はんらんスペイン内戦ないせん)にたいして態度たいど明確めいかく出来できず、また共産党きょうさんとう急進きゅうしん社会党しゃかいとう決裂けつれつしたことによって、1937-1938ねん解消かいしょうされるにいたった。

スペイン[編集へんしゅう]

1936ねん1がつ共和きょうわ主義しゅぎ左派さは社会党しゃかいとう共産党きょうさんとうマルクス主義まるくすしゅぎ統一とういつ労働ろうどうしゃとう(POUM)のあいだ協定きょうていむすばれ、2がつ選挙せんきょ勝利しょうりして、共和きょうわ主義しゅぎ左派さはマヌエル・アサーニャ首班しゅはんとする人民戦線じんみんせんせん政府せいふ成立せいりつした。しかしそのはんファシズム・ファシズムりょう勢力せいりょくあいだこうそう激化げきかし、モロッコ軍部ぐんぶフランコ反乱はんらんこし、それをナチス・ドイツヒトラーファシスト・イタリアムッソリーニ支援しえんした。たいする人民じんみん政府せいふがわソ連それん支援しえんし、だい世界せかい大戦たいせん前哨ぜんしょうせん様相ようそうていした。スペインは内戦ないせん状態じょうたいとなり、人民戦線じんみんせんせん支援しえんする国際こくさい義勇軍ぎゆうぐん派遣はけんされた(スペイン内戦ないせん)。

このスペイン内戦ないせんは3年間ねんかんにわたりつづいたが、この内戦ないせんつうじて人民戦線じんみんせんせん政府せいふ転覆てんぷくされ、そのながくフランコ独裁どくさい体制たいせいつづいた。

この人民戦線じんみんせんせん政府せいふたいしては、アナーキスト(CNT急進きゅうしん)やトロツキスト(ここではPOUMもふくむが、POUMは厳密げんみつにはトロツキストではない)は「はんファッショ戦争せんそう社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいへ」と主張しゅちょうし、スペイン共産党きょうさんとうソ連それん援助えんじょもとで、これらの革命かくめいたいする粛清しゅくせい狂奔きょうほんした。内戦ないせん過程かていで、ナチス・ドイツ義勇ぎゆう航空こうくうたい差別さべつ爆撃ばくげきゲルニカ爆撃ばくげき)に抗議こうぎして、ピカソの『ゲルニカ』がえがかれた。またマルローの『希望きぼう』やヘミングウェイの『だれがためにかね』はこのとき内戦ないせん人民戦線じんみんせんせんがわから取材しゅざいしたものである。

チリ[編集へんしゅう]

1937ねん急進きゅうしんとう社会党しゃかいとうチリ共産党きょうさんとう労働ろうどう組合くみあいなどが人民戦線じんみんせんせんとして結束けっそくよく1938ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ急進きゅうしんとうのペドロ・アギーレ・セルダを当選とうせんさせた。1941ねんまつにアギーレ・セルダが大統領だいとうりょう在任ざいにんのまま死去しきょすると、人民戦線じんみんせんせん民主みんしゅ主義しゅぎ同盟どうめい改称かいしょうして、つづ急進きゅうしんとうのフアン・アントニオ・リオスを当選とうせんさせた。

しかし、1946ねん大統領だいとうりょうせんでは社会党しゃかいとう同盟どうめいから離脱りだつして、独自どくじ候補こうほてた。急進きゅうしんとう共産党きょうさんとうつづ同盟どうめい維持いじして、急進きゅうしんとうガブリエル・ゴンサレス・ビデラ当選とうせんさせた。ところが、ビデラは1948ねんに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく圧力あつりょくなどもあり、突如とつじょとして共闘きょうとうしていた共産党きょうさんとう非合法ひごうほうし(民主みんしゅ主義しゅぎ防衛ぼうえいほう)、チリの人民戦線じんみんせんせん名実めいじつともに崩壊ほうかいした。

コミンテルンの人民戦線じんみんせんせん[編集へんしゅう]

コミンテルンから1928ねん除名じょめいされたレフ・トロツキーは、ナチスが伸張しんちょうしていた1930ねん時期じきにスターリンが提唱ていしょうドイツ共産党きょうさんとう実践じっせんしていた「社会しゃかいファシズムろん」(社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎはファシズムの双生児そうせいじであり、ファシストより優先ゆうせんして打倒だとうすべき対象たいしょうとする理論りろん方針ほうしん)を批判ひはんして「ナチスと対抗たいこうする社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ共産党きょうさんとう統一とういつ戦線せんせん」をびかけた。しかし、トロツキーのびかけは一顧いっこだにされず、ドイツ共産党きょうさんとうがナチスと敵対てきたいするどころか同盟どうめいんでストライキなどをおこない、ナチスが政権せいけん獲得かくとく、ドイツ共産党きょうさんとう社会しゃかい民主党みんしゅとう諸共もろとも非合法ひごうほうにより消滅しょうめつする。

イタリアにはしはっするファシズムがドイツにも伝播でんぱして流行りゅうこうしたことをけて、スターリン社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎファシズム同一どういつして敵視てきし糾弾きゅうだんする「社会しゃかいファシズムろん」から社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ協調きょうちょうして歩調ほちょうわせる人民戦線じんみんせんせん推進すいしん路線ろせん転換てんかんした。トロツキーはこのスターリン現実げんじつ主義しゅぎてき転換てんかんを「社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい全面ぜんめんてき放棄ほうきによるブルジョア政党せいとうとの野合やごう統一とういつ戦線せんせん戯画ぎが」と批判ひはんした。実際じっさい人民戦線じんみんせんせん運動うんどうフランス共産党きょうさんとうは、こるストライキ運動うんどう穏当おんとうな「権利けんり獲得かくとく運動うんどう」に維持いじし、社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい即時そくじ直結ちょっけつさせるような強引ごういん急進きゅうしんてき活動かつどうひかえたとえる。レオン・ブルム首班しゅはん指名しめい協力きょうりょくし、閣外かくがいからブルムないかく協力きょうりょくつづけることになる。

スペイン共和きょうわこく政府せいふにおいてスペイン共産党きょうさんとうは、その支配しはい地域ちいきにおいて地主じぬしせい廃止はいし工場こうじょう労働ろうどうしゃ所有しょゆう推進すいしんし「はんファシズム戦争せんそう社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいへ」をかかげるアナーキストやコミンテルンけいマルクス主義まるくすしゅぎ政党せいとう(CNT急進きゅうしん、POUMなど)にたいして、一貫いっかんして「革命かくめいよりはんファシズム戦争せんそう勝利しょうり優先ゆうせんするべき」あるいは「急激きゅうげき革命かくめい中産ちゅうさん階級かいきゅうはんファシズムの戦線せんせんから離反りはんさせる」と主張しゅちょうした。スペイン共産党きょうさんとうは、共和きょうわこく支配しはい地域ちいきでは「ブルジョア政党せいとう」もふくめたアサーニャを首班しゅはんとする人民戦線じんみんせんせん政府せいふ参加さんかする一方いっぽうで、スペインに潜入せんにゅうしたソ連それん秘密ひみつ警察けいさつ援助えんじょしたでCNT急進きゅうしん、POUM、CNT-FAIなどの社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい弾圧だんあつし、すうおおくの活動かつどう抹殺まっさつする。

アメリカでは、1936ねん大統領だいとうりょうせんさい人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつもとづいてアメリカ共産党きょうさんとうがノーマン・トーマスひきいるアメリカ社会党しゃかいとうたいし、共同きょうどうでの出馬しゅつばびかけたが拒否きょひされている。当時とうじ共産党きょうさんとう路線ろせんニューディールたいする批判ひはんてき支持しじかかげるなど愛国あいこく主義しゅぎてきポピュリストてきであり、この路線ろせん当時とうじ党首とうしゅアール・ブラウダー名前なまえから「ブラウダー主義しゅぎ」と呼称こしょうされる。

人民戦線じんみんせんせん運動うんどうは1935ねん7がつモスクワ開催かいさいされたコミンテルンだい7かい大会たいかい提唱ていしょうされ、コミンテルンの方針ほうしん転換てんかんをもたらしたが、1939ねん8がつソ連それんスターリンどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつすることで終結しゅうけつさせられる。コミンテルン(スターリン)の方針ほうしんは、はんファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国ていこく主義しゅぎへの反対はんたい」が強調きょうちょうされ、コミンテルン支部しぶ各国かっこく共産党きょうさんとうはんファシズム運動うんどう内部ないぶ混乱こんらんがもたらされた。また、フランス共産党きょうさんとう党員とういんの3ぶんの1が「どく協定きょうてい」に反発はんぱつして離脱りだつし、政府せいふからは「利敵りてき団体だんたい」として非合法ひごうほうされた。

1940ねんナチス・ドイツによるフランス侵攻しんこうという段階だんかいいたっても、(のちに捏造ねつぞうされる伝説でんせつとはちがって)フランス共産党きょうさんとうはんナチ・レジスタンス運動うんどう開始かいしするどころか、当初とうしょ占領せんりょう当局とうきょく機関きかんユマニテ』の発行はっこう請願せいがんし、アナーキストやトロツキストの名簿めいぼをナチスにわたしたりしている。

1941ねんのナチス・ドイツのソ連それん侵攻しんこうによって、フランス共産党きょうさんとう武装ぶそうしてレジスタンスを開始かいしする。フランス共産党きょうさんとうのレジスタンスは「ドイツへいいちへいでもおおソ連それんからはなせ」というスターリンの指令しれいによって、その開始かいし当初とうしょからナチ将校しょうこう射殺しゃさつかえはげしい戦術せんじゅつ採用さいようする。それにたいするナチスがわ弾圧だんあつも「うたがわしきは処刑しょけい」と熾烈しれつきわめたことから、フランス共産党きょうさんとうは「銃殺じゅうさつおそれぬとう」としてフランス社会しゃかい権威けんいもどすことになる。また、フランス共産党きょうさんとうは「愛国あいこく主義しゅぎとインターナショナリズムの融合ゆうごう」をレジスタンス運動うんどうにおけるスローガンかかげ、ドゴールブルジョアジーのレジスタンス組織そしきとも協調きょうちょうした。あるいは、レジスタンスの大衆たいしゅう組織そしきとして「国民こくみん戦線せんせん」を結成けっせいし、おも中産ちゅうさん階級かいきゅうみをはかった。

1944ねんにナチスを放逐ほうちくした国民こくみんてきなレジスタンス運動うんどうは、共産党きょうさんとう権威けんいたかまりとあいまって「ブルジョアジーすら社会しゃかい主義しゅぎ希求ききゅうする」とわれたような状況じょうきょう現出げんしゅつさせる。しかし、モスクワに亡命ぼうめいしていたフランス共産党きょうさんとう指導しどうしゃモーリス・トレーズ帰国きこくするなりレジスタンスの武装ぶそう解除かいじょめいじ、資本しほん主義しゅぎ体制たいせい再建さいけん協力きょうりょくすることになる。

イタリアでも同様どうよう現象げんしょうこり、はんファシズム・パルチザンとして武装ぶそうした小作こさく農民のうみんによる土地とち占拠せんきょ農民のうみん自治じちうごきをイタリア共産党きょうさんとう武装ぶそう解除かいじょさせ、イタリアキリスト教民主党きりすときょうみんしゅとうとの協調きょうちょうによる資本しほん主義しゅぎ体制たいせい再建さいけんした。戦後せんごのフランス・ドゴール政権せいけんではフランス共産党きょうさんとう書記しょきちょうトレーズが、またイタリアでは共産党きょうさんとうトリアッティがいずれもふく首相しゅしょうとして入閣にゅうかくした。

あるいは、この「はんファシズム世界せかい戦争せんそう」の時期じきには、植民しょくみんでの民族みんぞく解放かいほう運動うんどうにスターリンは反対はんたいする。それは「はんナチス同盟どうめい」によるアメリカ・イギリスとの協調きょうちょうさい優先ゆうせんにしたスターリンのかんがえ(コミンテルンだい7かい大会たいかい)にもとづくものであり、アメリカ共産党きょうさんとう広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかを「はんファシズムの正義せいぎ行為こうい」と賞賛しょうさんし、戦後せんご日本にっぽん共産党きょうさんとうGHQ一時いちじてきに「解放かいほうぐん」と規定きていしたような情況じょうきょうつくすことになる。その背景はいけい詳細しょうさいについては、レーニンの敗戦はいせん革命かくめいろん敗戦はいせん革命かくめい戦略せんりゃく、も参照さんしょう

以上いじょうのことから、「人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつとは、ソ連それん自由じゆう主義しゅぎ諸国しょこく影響えいきょうりょくつため、資本しほん中産ちゅうさん階級かいきゅう共産党きょうさんとう、あるいはアメリカやイギリスなどとソ連それん協調きょうちょうする統一とういつ戦線せんせん政策せいさくという側面そくめんがある。これは、フランス、イギリス、アメリカにおける共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく拡大かくだいといった一定いってい成功せいこうおさめた。ソ連それんによるその影響えいきょうりょく工作こうさくについては、ヴェノナ文書ぶんしょ米国べいこく共産党きょうさんとう調書ちょうしょレフチェンコ事件じけんミトロヒン文書ぶんしょなども参照さんしょう

人民戦線じんみんせんせん運動うんどう発想はっそうは、戦後せんごふつにおける挙国一致きょこくいっち政権せいけんや1970年代ねんだいチリの人民じんみん連合れんごう連合れんごう政権せいけんなどの統一とういつ戦線せんせん政党せいとうあいだ共闘きょうとうなどにも継承けいしょうされている。日本にっぽんにおいては、日本にっぽん共産党きょうさんとうの1970年代ねんだいでの「民主みんしゅ連合れんごう政府せいふ」の提案ていあんや、「『核兵器かくへいきには資本しほんでも反対はんたいする』からそのいちてん共闘きょうとうする」という1980年代ねんだいの「反核はんかく統一とういつ戦線せんせん」(反戦はんせん運動うんどう参照さんしょう)、2010年代ねんだいの「国民こくみん連合れんごう政府せいふ」の提案ていあんなどで、この人民戦線じんみんせんせん方法ほうほうろんがれている。

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 竹内たけうち良知よしともへん 『ドキュメント現代げんだい6 人民戦線じんみんせんせん』 平凡社へいぼんしゃ、1973ねん
  • 山内やまうちあきらへん 『ドキュメント現代げんだい7 スペイン革命かくめい』 平凡社へいぼんしゃ、1973ねん
  • 海原うなばらたかしへん 『ドキュメント現代げんだい8 レジスタンス』 平凡社へいぼんしゃ、1973ねん
  • 松本まつもと忠雄ただお 『共産党きょうさんとうにリードされるささえ抗日こうにち人民戦線じんみんせんせん』 だいひゃく書房しょぼう、1936ねん
  • ヒットラー、ゲッベルス共著きょうちょ大東だいとう文化ぶんか協会きょうかい研究けんきゅうやくへん 『人民戦線じんみんせんせんたいするナチスの宣戦せんせん』 青年せいねん教育きょういく普及ふきゅうかい、1937ねん
  • ねずまさし 『フランスの人民戦線じんみんせんせん』 民主みんしゅ評論ひょうろんしゃ、1948ねん
  • 斉藤さいとうたかし 『スペイン戦争せんそう-ファシズムと人民戦線じんみんせんせん』 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ<中公新書ちゅうこうしんしょ>、1966ねん
  • 海原うなばらたかし 『フランス人民戦線じんみんせんせん統一とういつ論理ろんり倫理りんり』 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ<中公新書ちゅうこうしんしょ>、1967ねん
  • D・ゲラン 『人民戦線じんみんせんせん革命かくめい破産はさん』 海原うなばらたかしやく現代げんだい思潮しちょうしゃ、1968ねん
  • 清水しみず幾太郎いくたろう 『スペイン革命かくめい人民戦線じんみんせんせん』 さわ五郎ごろうわけ現代げんだい思潮しちょうしゃ<トロツキー文庫ぶんこ>、1969ねん
  • ジョルジュ・ルフラン 『フランス人民戦線じんみんせんせん』 高橋たかはし治男はるおわけ白水しろみずしゃ<文庫ぶんこクセジュ>、1969ねん
  • ジャン・ゲーノ 『ある革命かくめい証言しょうげん人民戦線じんみんせんせんきて』 山口やまぐち俊章としあきわけ二見ふたみ書房しょぼう<現代げんだい証言しょうげん>、1970ねん
  • スペイン共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいしょう委員いいんかい編纂へんさん 『スペイン人民戦線じんみんせんせん』 人民戦線じんみんせんせん翻訳ほんやく刊行かんこう委員いいんかいやく新日本選書しんにほんせんしょ、1970ねん
  • フランス共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい付属ふぞく歴史れきししょう委員いいんかい編纂へんさん 『フランス人民戦線じんみんせんせん』 人民戦線じんみんせんせん翻訳ほんやく刊行かんこう委員いいんかいやく新日本選書しんにほんせんしょ、1971ねん
  • ロバート・モス 『アジェンデの実験じっけん-チリ人民戦線じんみんせんせん勝利しょうり崩壊ほうかい』 上智大学じょうちだいがくイベロアメリカ研究所けんきゅうじょやく時事通信社じじつうしんしゃ、1974ねん
  • 猪俣いのまた津南雄つなお 『横断おうだん左翼さよくろん日本にっぽん人民戦線じんみんせんせん』 而立じりつ書房しょぼう、1974ねん
  • ジャン・プラデル 『スペインに武器ぶきを-人民戦線じんみんせんせんとフランス革命かくめい1936』 吉田よしだ八重子やえこやく鹿砦ろくさいしゃ、1974ねん
  • 国際こくさい問題もんだい研究けんきゅうかいへんやく 『チリの悲劇ひげき破産はさんしたもうひとつの人民戦線じんみんせんせん』 柘植つげ書房しょぼう、1974ねん
  • J・エレンスタインほか 『フランス現代げんだい史上しじょう人民戦線じんみんせんせんとレジスタンス)』 すぎこう栄一えいいち安藤あんどう隆之たかゆきわけ青木あおき書店しょてん、1974ねん
  • 平瀬ひらせ徹也てつや 『フランス人民戦線じんみんせんせん』 近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ<世界せかい研究けんきゅう双書そうしょ>、1974ねん
  • レオン・ブルム 『人間にんげんから人間にんげんへ-わが人民戦線じんみんせんせん回想かいそう』 吉田よしだ八重子やえこわけ人文書院じんぶんしょいん、1975ねん
  • ジャック・ダノス、マルセル・ジブラン共著きょうちょ 『フランス人民戦線じんみんせんせん-1936ねん民衆みんしゅう蜂起ほうき』 吉田よしだ八重子やえこやく柘植つげ書房しょぼう、1975ねん
  • トレーズ 『フランス人民戦線じんみんせんせん』 坂井さかい信義のぶよしやく大月書店おおつきしょてん<国民こくみん文庫ぶんこ>、1976ねん
  • 平田ひらた好成よしなり 『フランス人民戦線じんみんせんせんろん序説じょせつ』 法律文化社ほうりつぶんかしゃ、1977ねん
  • 犬丸いぬまる義一ぎいち 『日本にっぽん人民戦線じんみんせんせん運動うんどう』 青木あおき書店しょてん、1978ねん
  • G・ディミトロフ 『人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつしょ問題もんだい』 藤井ふじい英男ひでおわけ運動うんどう研究けんきゅうかい<運動うんどう研究けんきゅう資料しりょう>、1979ねん
  • J・J・L・ソペーニャ編著へんちょ 『スペイン人民戦線じんみんせんせん史料しりょう』 法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1980ねん
  • やまごくきよし 『コミンテルンと人民戦線じんみんせんせん』 青木あおき書店しょてん、1981ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 世界せかい戦慄せんりつ赤化せっか陰謀いんぼう東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんしゃ〔ほか〕、1936ねん 71ぺーじ
  2. ^ The Liberal Party and the Popular Front, English Historical Review (2006)
  3. ^ 世界せかい戦慄せんりつ赤化せっか陰謀いんぼう東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんしゃ〔ほか〕、1936ねん 68-69ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]