藤井ふじい英男ひでお

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藤井ふじい 英男ひでお(ふじい ひでお、1913ねん3がつ20日はつか - 2002ねん10月1にち)は、日本にっぽん弁護士べんごし日本にっぽん弁護士べんごし連合れんごうかい会長かいちょう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょう出身しゅっしん山口やまぐちけんそだち。1939ねん九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう高等こうとう試験しけん司法しほう合格ごうかく東京とうきょう弁護士べんごしかい会長かいちょう日本にっぽん弁護士べんごし連合れんごうかいふく会長かいちょうて、1988ねん日本にっぽん弁護士べんごし連合れんごうかい会長かいちょう[2]

  • きむ大中でじゅん事件じけんこったさい東京とうきょう弁護士べんごし会長かいちょうとして抗議こうぎ声明せいめいしたが、それにより韓国かんこくへの入国にゅうこく拒否きょひされることとなった。
  • 日弁連にちべんれん会長かいちょう選挙せんきょでは、「日弁連にちべんれん在野ざいやせい確立かくりつ」をうったえた[2]
  • 日弁連にちべんれん会長かいちょう昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょしたことによって実施じっしされる大喪たいそうれい参加さんかもとめられていたが、「個人こじんとしての判断はんだんから出席しゅっせき見合みあわせる」との意向いこうしめし、参列さんれつ見送みおくった。これにたいし、高辻たかつじただしおのれ法務大臣ほうむだいじん記者きしゃ会見かいけんで、欠席けっせき方針ほうしん批判ひはんてきかんがえをっていることを示唆しさした。
  • 1988ねん国際こくさい連合れんごう拘禁こうきんしゃ人権じんけん原則げんそく採択さいたくしたのをけて、「わがくに刑事けいじ司法しほうを、この原則げんそくらして全面ぜんめんてき見直みなおすべきだ」とする緊急きんきゅう声明せいめい発表はっぴょうした。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • はたらくものの法律ほうりつ知識ちしき』(共著きょうちょ自由じゆう法曹ほうそうだんへん、1950ねん
  • 『ゴルフクラブの法律ほうりつ知識ちしき』(ゴルフ日本にっぽん、1979ねん
  • 『臨司20ねん軌跡きせき今後こんご課題かだい : 司法しほう民主みんしゅのために』(東京とうきょう弁護士べんごしかい司法しほう問題もんだい対策たいさく特別とくべつ委員いいんかいへん、1986ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「94ねんあき叙勲じょくん くんさんとう以上いじょうおよび在外ざいがい邦人ほうじん外国がいこくじん受章じゅしょうしゃ」『読売新聞よみうりしんぶん』1994ねん11月3にち朝刊ちょうかん
  2. ^ a b 朝日新聞あさひしんぶん 1988ねん2がつ7にち朝刊ちょうかん