レフ・トロツキー

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レフ・トロツキー
Лев Троцкий
レフ・トロツキー(1924ねん
生年月日せいねんがっぴ (1879-11-07) 1879ねん11月7にち
出生しゅっしょう ロシア帝国ていこくヘルソンけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1940-08-21) 1940ねん8がつ21にち(60さいぼつ
死没しぼつ メキシコの旗 メキシコメキシコシティ
現職げんしょく 政治せいじ
編集へんしゅうしゃ
所属しょぞく政党せいとう ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう
スイス社会しゃかい民主党みんしゅとう
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
配偶はいぐうしゃ アレクサンドラ・ソコロフスカヤAleksandra Sokolovskaya
ナターリア・セドーヴァNatalia Sedova
宗教しゅうきょう ユダヤじんまれであるが、のちに宗教しゅうきょう否定ひてい[1]
サイン

在任ざいにん期間きかん 1918ねん9月6にち - 1925ねん1がつ26にち

在任ざいにん期間きかん 1918ねん8がつ29にち - 1925ねん1がつ25にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう ウラジーミル・レーニン
アレクセイ・ルイコフ

在任ざいにん期間きかん 1918ねん3月14にち - 1923ねん11月12にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう ウラジーミル・レーニン

在任ざいにん期間きかん 1917ねん11月8にち - 1918ねん3月13にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう ウラジーミル・レーニン

在任ざいにん期間きかん 1917ねん10月8にち - 11月8にち
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レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーロシア: Лев Давидович Троцкий発音はつおんれい: リィエーフ・ダヴィーダヴィチ・トローツキーラテン文字もじ転写てんしゃれいLev Davidovich Trotsky1879ねん10月26にちグレゴリオれき11月7にち) - 1940ねん8がつ21にち)は、ウクライナまれのソビエト連邦れんぽう政治せいじボリシェヴィキ革命かくめい思想家しそうか本名ほんみょうレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインロシア: Лев Давидович Бронштейн, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Lev Davidovich Bronstein)。

名前なまえ[編集へんしゅう]

トロツキーというせいは、最初さいしょ革命かくめいオデッサ収監しゅうかんされていた当時とうじ看守かんしゅ名前なまえ印象いんしょうのこったため、それを借用しゃくようしたものである[2]晩年ばんねん後妻ごさいナターリアのせいってセドフロシア: Лев Давидович Седов, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Lev Davidovich Sedov)に改姓かいせいした。ただし、一般いっぱんに「レフ・セドフ」という場合ばあいは、トロツキーとナターリアのあいだまれた長男ちょうなん愛称あいしょう「リョーヴァ」)をす。「レフ」は英語えいごの「レオン」とおなじで、「ライオン」という意味いみ名前なまえである。英語えいごふうつづりにもとづいたレオン・トロツキーLeon Trotsky)の表記ひょうきおおい。

「トロツキー」という表記ひょうきかんしては、日本にっぽん場合ばあいふる文献ぶんけん高齢こうれい共産きょうさん主義しゅぎしゃなどで「トロッキー」という表現ひょうげんおお使つかわれている(関連かんれんとして、「トロッキスト」、「トロッキズム」という表現ひょうげんもある。日本にっぽんトロッキスト聯盟れんめいなど)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1917ねんのロシアじゅうがつ革命かくめいにおける指導しどうしゃ1人ひとりであり、ウラジーミル・レーニン中央ちゅうおう委員いいんかい一員いちいんであった。赤軍せきぐん創設そうせつしゃおよび指揮しきかんとして、ソビエト連邦れんぽう初期しょきころには外務がいむ人民じんみん委員いいん外相がいしょう)として外交がいこう問題もんだい担当たんとうソ連それん共産党きょうさんとう政治せいじ局員きょくいんの1にんでもあった。

1920年代ねんだい政策せいさくめぐって政治せいじ局内きょくない多数たすう対立たいりつ、「左翼さよく反対はんたい」を結成けっせいした。しかし、権力けんりょく闘争とうそうやぶれたトロツキーはソ連それん共産党きょうさんとう除名じょめいされた。初期しょきのトロツキーは、ヨーロッパの結束けっそく主義しゅぎたいする赤軍せきぐんによる介入かいにゅう提唱ていしょうしゃであり[3]、1930年代ねんだいソ連それんドイツむすんだ和平わへい協定きょうていen:Soviet–German relations before 1941)にも反対はんたいしている。

メキシコ亡命ぼうめいしたトロツキーはだいよんインターナショナル結成けっせいし、官僚かんりょうせい反対はんたいつづけたが、1940ねんスターリン刺客しかくラモン・メルカデルによって同地どうち暗殺あんさつされた[4]。トロツキーおよびその継承けいしょうしゃ思想しそうを、トロツキズムぶが、このかたり自体じたいは、対立たいりつしゃによって1905ねんはや時期じきつくられた造語ぞうごである。その意味いみするものも、1905ねん革命かくめい、そののロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうないでの対立たいりつ、1917ねん革命かくめい、スターリンによる権力けんりょく掌握しょうあく、といった時期じきによって変化へんかしてきた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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8さいのトロツキー(1888ねん
トロツキー(1897ねん

1879ねんロシア帝国ていこく時代じだいのウクライナ南部なんぶヘルソンけんエリザヴェトグラード近郊きんこうの、さいよせ郵便ゆうびんきょくから15マイルはなれたちいさなむらヤノフカにてちちダヴィード(1847ねん – 1922ねん)とははアンナのだい5としてまれる。両親りょうしんユダヤけい富農ふのうであった。ちちのダヴィードは、ねばづよく、企業きぎょう精神せいしん家長かちょうであり、ウクライナ・ヘルソンけんのボーブリネツというちいさなまちちかくにある土地とち100ヘクタールを退役たいえき軍人ぐんじん大佐たいさのヤノフスキーからけ、貯蓄ちょちくはげみ、そのはたらきづめにはたらいてまえ如才じょさいなさで次第しだいにのしがって裕福ゆうふくとなる。土地とち次々つぎつぎみ、賃借ちんがりし、だい土地とち所有しょゆうしゃとなった[5]ははのアンナはオデッサ近郊きんこう典型てんけいてきなユダヤじん町人ちょうにん階級かいきゅう出身しゅっしんで、同地どうち教育きょういくけた。のちにダヴィードと恋愛れんあい結婚けっこんし、農民のうみんとなる。アンナは読書どくしょはげみ、子供こどもたちに教養きょうようをつけさせるために努力どりょくした。ダヴィードとのあいだ子供こどもを8にんんだが、夭折ようせつするおおく、最終さいしゅうてきには2人ふたり姉妹しまい、レフのあに、そしてレフと、4にんのみとなった[6]

家族かぞく民族みんぞくてきにユダヤじんであったが、信心しんじんふかくはなく、自宅じたくではイディッシュではなくロシアウクライナ会話かいわしていた。レフのいもうとオリガは、ボリシェヴィキの指導しどうしゃ1人ひとりであるレフ・カーメネフと1900年代ねんだい早期そうき結婚けっこんし、子供こどもを2にんもうけることになる。レフが9さいのとき、ちち教育きょういくけさせるために息子むすこをオデッサにおくり、ドイツじん学校がっこう入学にゅうがくさせた。これは母親ははおやつよ希望きぼうでもあった。ブロンシュテイン親類しんるいで、南部なんぶ出版しゅっぱん業者ぎょうしゃとして成功せいこうしたシュペンツェルの援助えんじょにより、レフは国費こくひ勉強べんきょうする有名ゆうめいこう入学にゅうがくできた。教育きょういく機関きかんへのユダヤじん子弟していすう制限せいげんされていた当時とうじとしては、これはかなり大変たいへんなことであった[7]在学ざいがくちゅうに、トルストイシェイクスピアプーシキンネクラーソフディケンズウスペンスキー、ベレサーエフらの作品さくひん大方おおかた読破どくはしたほどの読書どくしょであった。

アイザック・ドイッチャーが、大作たいさく評伝ひょうでんいているように、オデッサは当時とうじ典型てんけいてきなロシアの都市としとはおおきくちがって、活気かっきちた国際こくさいてき港湾こうわん都市としであった。この環境かんきょうは、青年せいねんレフが国際こくさいてき視野しやをつちかう一因いちいんとなった。レフ自身じしん自伝じでん『わが生涯しょうがい』で「ロシアウクライナのほか、完全かんぜん流暢りゅうちょうはなせる言語げんごはなかった」とべているが、レイモン・モリニエRaymond Molinier)は、トロツキーはフランス語ふらんすご流暢りゅうちょうはなしていたといている[8]

革命かくめい活動かつどう流刑りゅうけい[編集へんしゅう]

1896ねん – 1902ねん[編集へんしゅう]

シベリア流刑りゅうけいちゅうのトロツキー(1900ねん

ニコラーエフ(現在げんざいムィコラーイウ)に移動いどうしたあとの1896ねんに、レフは革命かくめい活動かつどうかかわりはじめていた。学生がくせい時代じだいはじめてマルクス主義まるくすしゅぎれたレフは共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどうくわわった。当初とうしょナロードニキnarodnik)のレフがマルクス主義まるくすしゅぎ紹介しょうかいされたそのとしは、当初とうしょはその思想しそう反対はんたいしていたが、流刑りゅうけい投獄とうごく時期じき徐々じょじょマルクス主義まるくすしゅぎしゃとなっていく。1897ねん早期そうきに、レフはニコラーエフにて数学すうがく学位がくい追求ついきゅうするわりにみなみロシア労働ろうどうしゃ同盟どうめい組織そしき手伝てつだい、幹部かんぶとしてはたらいた。レフは「リヴォフ」という名前なまえもちいて[9]しょう冊子さっし声明せいめい印刷いんさつし、革命かくめいしょう冊子さっし配布はいふして工員こういん革命かくめい学生がくせいたちのあいだで社会しゃかい主義しゅぎかんがえを大衆たいしゅうさせた。1898ねん1がつ、レフをふくめたメンバー200にん逮捕たいほされ、裁判さいばんつのに2ねんついやした。懲役ちょうえきけい2ねんけたレフはオデッサに収監しゅうかんされた。投獄とうごくから2ヶ月かげつあたらしく結成けっせいされたロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうはつ会議かいぎひらかれた。以来いらいレフは、自分じぶん自身じしんとう一員いちいんであるとなすようになった。レフは仲間なかまマルクス主義まるくすしゅぎしゃアレクサンドラ・ソコロフスカヤAleksandra Sokolovskaya)と獄中ごくちゅう結婚けっこんし、けいふくしているあいだに哲学てつがく勉強べんきょうした。トロツキーというせいは、最初さいしょ革命かくめいでオデッサで収監しゅうかんされていた当時とうじ看守かんしゅ名前なまえ印象いんしょうのこったため、それを借用しゃくようしたものである[2]

1900ねん、トロツキーはシベリアイルクーツク地域ちいきウスチ・クートUst-Kut)とヴェルホレンスク(Verkholensk)に4年間ねんかん流刑りゅうけい判決はんけつけた。かれ同地どうちで、ニーナ・ネヴェルソンとジナイダ(ジーナ)・ボルコヴァZinaida Volkova)という2人ふたりむすめもうけた[10]。シベリアでのトロツキーは、1898ねん1899ねん多数たすう党員とういんたちが逮捕たいほ殺害さつがいされたことで、党内とうないあらそいがあったことに気付きづいた。「経済けいざい学者がくしゃ」としてられている一部いちぶ社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎしゃは、「産業さんぎょう労働ろうどうしゃ生活せいかつ向上こうじょう尽力じんりょく重点的じゅうてんてきむべきである」と主張しゅちょうし、ものたちは「君主くんしゅせい打倒だとうと、よく組織そしきされ、規律きりつまも革命かくめいとうがもっとも重要じゅうようである」と主張しゅちょうした。後者こうしゃは1900ねん創立そうりつされたロンドン本拠地ほんきょち機関きかんイスクラ』を統率とうそつしていた。トロツキーはすぐにイスクラの見解けんかい支持しじした。2ねん1902ねんなつ、トロツキーはシベリアから逃亡とうぼうした。

最初さいしょ海外かいがい移住いじゅうと2度目どめ結婚けっこん[編集へんしゅう]

1902ねん – 1903ねん[編集へんしゅう]

トロツキーは1ゲオルギー・プレハーノフウラジーミル・レーニンユーリー・マルトフ、そののイスクラの編集へんしゅういんとともにロンドンへ移住いじゅうしたことがあった。トロツキーはスイスてロンドンに亡命ぼうめいし、そこで『イスクラ』を出版しゅっぱんしていたロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう合流ごうりゅうした。よく1903ねん社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう分裂ぶんれつすると、トロツキーはレーニンらの「多数たすう」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数しょうすう」(メンシェヴィキ)に所属しょぞくした。トロツキーは「ペロ」(「はね」や「ペン」「文筆ぶんぴつ」を意味いみするロシア)というペンネームで、すぐに新聞しんぶん第一人者だいいちにんしゃ1人ひとりとなった。

トロツキーはづいていなかったが、イスクラの6にん編集へんしゅういんはプレハーノフを中心ちゅうしんとする「保守ほしゅ(オールド・ガード)」とレーニンやマルトフを中心ちゅうしんとする「革新かくしん(ニュー・ガード)」に分裂ぶんれつしていた。プレハーノフの支持しじしゃ古参こさん(40だいから50だい)であるのみならず、過去かこ20ねんにわたってヨーロッパでの亡命ぼうめい生活せいかつをともにしていた。一方いっぽう革新かくしんのメンバーは30だい前半ぜんはんで、つい最近さいきんロシアから移住いじゅうしてきたものたちだった。イスクラないでプレハーノフに対抗たいこうする確固かっことした多数たすう形成けいせいしようとしていたレーニンは当時とうじ23さいのトロツキーが革新かくしんがわにつくことを期待きたいしていた。1903ねん3がつにレーニンはつぎのようにいている。

わたし編集へんしゅう委員いいんかいのメンバー全員ぜんいんに、のメンバーとおな権限けんげんつメンバーとして「ペロ」を採用さいようすることを提案ていあんする。 [...] 投票とうひょう便宜べんぎじょう (6にん偶数ぐうすう)でも勢力せいりょく拡大かくだいのためにも、わたしたちには7にんのメンバーがぜひとも必要ひつようである。「ペロ」はこの数ヶ月すうかげつあいだ、すべてのごう寄稿きこうしてきた。全体ぜんたいてきて、かれはイスクラのためにもっと精力せいりょくてきはたらいている。かれ指導しどうてきである(そしてそれを非常ひじょうにうまくやっている)。その出来事できごとかんする記事きじ記録きろくらんでは、じつ有用ゆうようであるだけでなく、絶対ぜったいてき必要ひつよう可決かけつである。うたがいなく稀有けう才能さいのうぬしであり、信念しんねんとエネルギーをっており、さらにとおくまですすんでいくだろう。[11]

プレハーノフの反対はんたいによって、トロツキーは編集へんしゅう委員いいんかい正式せいしきメンバーとなることはなかった。しかしこれ以降いこう助言じょげんてき立場たちば編集へんしゅう委員いいんかい会合かいごう参加さんかするようになり、プレハーノフからはきらわれるようになる。

1902ねん後半こうはんに、ナタリア・セドワ (1882–1962) と出会であい、まもなく交際こうさいはじめる。二人ふたりは1903ねん結婚けっこんし、トロツキーのまで生涯しょうがいった。2人ふたり子供こども、レフ・セドフ (1906–1938) とセルゲイ・セドフ (1908–1937) をもうけるが、いずれも両親りょうしんよりもはやくなっている。息子むすこたちのせいについては、1917ねん革命かくめいつぎのように説明せつめいした。

名前なまええる義務ぎむ息子むすこたちにわせないよう、「市民しみんけん」の要求ようきゅうするところにたいしてつま名前なまえ使つかうことにした。[12]

トロツキーは公的こうてきにも私的してきにも「セドフ」という名前なまえ使つかったことはいちもない。ナタリア・セドワは「セドワ・トロツカヤ」と署名しょめいすることもあった。

レーニンとの決別けつべつ[編集へんしゅう]

1903ねんのロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうだい2かい大会たいかいで、組織そしき問題もんだいかんしてレーニンと対立たいりつし、レーニンらの「多数たすう」(ボリシェヴィキ)と決別けつべつする。以来いらい1917ねんの10がつ革命かくめい直前ちょくぜんまでボリシェヴィキとはほとんど絶縁ぜつえん状態じょうたいとなった[13]

ロシア革命かくめい[編集へんしゅう]

むすめのニーナと(1915ねん
トロツキー(1918ねん
「ボリシェヴィキの自由じゆう」 - はだか戯画ぎがされたトロツキーがえがかれた、ポーランド・ソビエト戦争せんそうでのポーランドのはんボリシェヴィキ宣伝せんでんポスター

1905ねん、メンシェヴィキからも早々そうそう離脱りだつしたトロツキーは、日曜日にちようび事件じけん以来いらい政治せいじ変動へんどうつづくロシアに帰国きこくして地下ちか活動かつどうはいり、サンクトペテルブルクソビエト指導しどうしゃとなった。10月にはロシア全土ぜんどこったゼネラル・ストライキにも関与かんよするが、12月に逮捕たいほされ、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅かいめつした。トロツキーはシベリアへの終身しゅうしん流刑りゅうけい宣告せんこくされたが、護送ごそうちゅう脱走だっそうウィーンへと亡命ぼうめいして、雑誌ざっしプラウダ』で永続えいぞく革命かくめいろん提唱ていしょうした。

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせんはじまると、きょスイス、ついでフランスうつし、雑誌ざっし『ナーシェ・スローヴォ』にってドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうフランス社会党しゃかいとうなど戦争せんそう支持しじめた社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう批判ひはんする論陣ろんじん一方いっぽう1915ねんにはスイス社会党しゃかいとう主宰しゅさいした「ツィンメルワルト会議かいぎ」で反戦はんせんうったえた。しかし翌年よくねん、フランスから追放ついほうされ、スペイン経由けいゆアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークへとうつる。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらととも新聞しんぶん『ノーヴィ・ミール』に参加さんかしている。

ペトログラード到着とうちゃくしたトロツキー

1917ねん、ロシアで2がつ革命かくめいこってロシア革命かくめいはじまるとニューヨークをってロシアへ帰国きこくメジライオンツィ(「統一とういつ社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎしゃ地区ちくあいだ組織そしき」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しょぞくしない社会しゃかい主義しゅぎしゃ組織そしき)の指導しどうしゃとしてボリシェヴィキと歩調ほちょうをあわせ、革命かくめい運動うんどう参加さんかした。7月にはボリシェヴィキに入党にゅうとうし、9月にペトログラード・ソビエト議長ぎちょう就任しゅうにん10がつ革命かくめいでは、軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかい委員いいんちょうとして軍事ぐんじ蜂起ほうき指導しどうし、印刷所いんさつしょ郵便ゆうびんきょく発電はつでんしょ銀行ぎんこうなどの要所ようしょ制圧せいあつするなどしてボリシェヴィキの権力けんりょく奪取だっしゅ貢献こうけんした。

レーニンが人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう首相しゅしょう相当そうとう)に就任しゅうにんしたボリシェヴィキ・左派さはエスエル社会しゃかい革命かくめいとう連立れんりつ政権せいけんのもとでは外務がいむ人民じんみん委員いいん外相がいしょう相当そうとう)に就任しゅうにんドイツとの講和こうわ交渉こうしょう担当たんとうし、ブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつかかわった。条約じょうやく締結ていけつさいしては、ボリシェヴィキ党内とうないでは意見いけんかれ、トロツキーは当初とうしょ、ブハーリンら戦争せんそう継続けいぞくには反対はんたいしつつ、即時そくじ講和こうわ主張しゅちょうするレーニンの立場たちば危険きけんおおきいとし、「戦争せんそうもなく、講和こうわもなく、ドイツ労働ろうどうしゃ蜂起ほうきつ」との姿勢しせいをとった。しかしドイツ政府せいふ強硬きょうこう姿勢しせいせ、ぐんをロシア領内りょうない侵攻しんこうさせると、レーニンに賛成さんせいし、講和こうわった。

亡命ぼうめいのトロツキー(1937)

1918ねん2がつ外務がいむ人民じんみん委員いいん辞任じにんし、かわって軍事ぐんじ人民じんみん委員いいん最高さいこう軍事ぐんじ会議かいぎ(9がつ以降いこう共和きょうわこく革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎ議長ぎちょう就任しゅうにんする。軍事ぐんじてき組織そしき扇動せんどうたくみで、大衆たいしゅう人気にんきたかかったといわれるトロツキーは赤軍せきぐん組織そしき着手ちゃくしゅし、内戦ないせんにおいて赤軍せきぐん指揮しきしゃとしてはん革命かくめいぐんしろぐん)の撃破げきは外国がいこく干渉かんしょう排除はいじょおおきな功績こうせきをあげた。しかし、1922ねんクロンシュタット軍港ぐんこうの「だいさん革命かくめい」を呼号こごうする水兵すいへいたちの蜂起ほうきとそれに呼応こおうしたストライキにたいする革命かくめい政権せいけんによる武力ぶりょく弾圧だんあつや、ウクライナ地方ちほうネストル・マフノひきいる農民のうみんアナキズム運動うんどう圧殺あっさつ支持しじするなど、「トロツキーにはのスターリンとの共通きょうつうてん見出みだせる」とする指摘してき批判ひはんもある。

失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

10がつ革命かくめいもっと指導しどうりょく発揮はっきしたのはトロツキーであった。トロツキーは赤軍せきぐんあかまもるぐん)の創始そうししゃで、しろぐんはくまもるぐん)にたいする内戦ないせんでこれを勝利しょうりみちびいた立役者たてやくしゃだった。

1924ねんのレーニンの死後しご共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいなな人組にんぐみ台頭たいとうすると、トロツキーはニコライ・ブハーリンルイコフらの中央ちゅうおう委員いいんかい主流しゅりゅう対立たいりつ次第しだい政策せいさく決定けっていからはずれる。トロツキーはイデオロギーでもとう主流しゅりゅう対立たいりつ。「左翼さよく反対はんたい」、ついで「合同ごうどう反対はんたい」を組織そしきして抵抗ていこうするが、戦争せんそう相次あいつ内戦ないせん疲弊ひへいした大衆たいしゅう味方みかたにつけた主流しゅりゅうまえ敗北はいぼくした。

1925ねんトロツキーは革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎ議長ぎちょう[14]ぐんコミッサール外務がいむ人民じんみん委員いいん地位ちい解任かいにんされ、閑職かんしょくいやられた。1927ねんには政府せいふとうぜん役職やくしょく解任かいにん1928ねん1がつ2にちまでに中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいからも除名じょめい処分しょぶん[15]同年どうねん1がつ15にちまでにはん革命かくめい行為こうい理由りゆう流刑りゅうけい処分しょぶんとなり[16]中央ちゅうおうアジアのアルマ・アタ(現在げんざいカザフスタンアルマトイ)へ、1929ねんにはソビエト連邦れんぽうから国外こくがい追放ついほうされるにいたった。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

メキシコにてアメリカじん同志どうしとともにうつるトロツキー。(1940ねん
1938ねんのメキシコでの演説えんぜつ

トロツキーは国外こくがいから運動うんどうつづけた。まず、トルコかれ亡命ぼうめいみとめた。イスタンブールからもちかい、マルマラうみプリンスィズ諸島しょとう(アダラル)での生活せいかつなかで、げん体制たいせい批判ひはんソ連それんとどけるために事実じじつじょう個人こじん雑誌ざっし反対はんたい通報つうほう」の発行はっこう開始かいしする(トロツキーのいちねん1941ねんまでけい87ごう・65さつ刊行かんこうされたが、ソ連それんではほとんどNKVDおよびスターリン個人こじんしかにすることは事実じじつじょうなかった)。その1933ねんにはフランスへ、1935ねんにはノルウェーうつった。このときげん体制たいせい批判ひはんしょソ連それんとはなにか、そしてソ連それんはどこにきつつあるか」をあらわす。このしょのちフランス語ふらんすごばん表題ひょうだい裏切うらぎられた革命かくめい」のられるようになる。しかし、よく1936ねんソ連それん圧力あつりょくでノルウェーのトリグブ・リー法務大臣ほうむだいじんかれ国外こくがい退去たいきょもとめた。トロツキーはラサロ・カルデナス体制たいせいメキシコきょさだめた。このあいだ1938ねんにはだいよんインターナショナル結成けっせいし、コミンテルンわる国際こくさい社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう組織そしきす。当時とうじのスターリンはソ連それん国内こくない反対はんたいしゃだい粛清しゅくせいすすめており、国外こくがいにいたトロツキーの身辺しんぺんにもエージェントや襲撃しゅうげきしゃあらわれるようになっていた。とくに、パリにいた長男ちょうなんレフ・セドフ夫妻ふさいとおして接近せっきんした「チューリップ」ことマルク・ズボロフスキはトロツキー親子おやこから信頼しんらいかれらの資料しりょうソ連それんおくったことでられる。

1940ねん先立さきだすう年間ねんかん、スターリンはオールド・ボリシェヴィキ大量たいりょう粛清しゅくせいしている。反対はんたいを「せしめ裁判さいばん」とばれる公開こうかい裁判さいばん、いわゆるモスクワ裁判さいばんによってみずからの「はん革命かくめい活動かつどう」を「自供じきょう」させたうえで処刑しょけいした。ジノヴィエフカーメネフラデックブハーリンピャタコフひとしのかつてトロツキーと敵対てきたいした中央ちゅうおう委員いいんかい多数たすうふくまれる。トロツキーは相次あいつ裁判さいばん処刑しょけいを「暗黒あんこく裁判さいばん」と非難ひなん1937ねん6月17にち、メキシコからソビエト中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいあてにスターリン独裁どくさい非難ひなんする電報でんぽうおくった[17]無視むしされた。

メキシコシティコヨアカン地区ちくにあるレフ・トロツキー博物館はくぶつかんてられたトロツキーのはか

トロツキーの親族しんぞく粛清しゅくせい例外れいがいではなく、トロツキーの息子むすこレフ・セドフはパリ留学りゅうがくちゅうNKVDの刺客しかくにより暗殺あんさつ(毒殺どくさつ)された。息子むすこ誘拐ゆうかい殺害さつがいされたことで身辺しんぺんへの危機ききがさらにせまったトロツキーは、メキシコ郊外こうがい自宅じたく要塞ようさいして防衛ぼうえいする。しかし、この自宅じたくにも暗殺あんさつしゃびるようになり、なん銃撃じゅうげき見舞みまわれているが、そのたびなんのがれている[18]。トロツキー自身じしんも、は「もうおなじみだ」「スターリンのくろ憎悪ぞうお世界せかい半周はんしゅうぶんわれてきた」と現地げんちかたっている[18]

だが、1940ねん8がつ20日はつか午後ごご5ごろ秘書ひしょ恋人こいびとになりすましたカナダじんラモン・メルカデルによってピッケル後頭部こうとうぶくだかれる。トロツキーはただちに病院びょういん搬送はんそうされたが、翌日よくじつ午後ごご7ごろ病院びょういん死亡しぼうした[19]。このとき、「スターリンでん」を執筆しっぴつちゅうだったという。メルカデルは現場げんば逮捕たいほされるが、調しらべではあくまで「単独たんどく犯行はんこう」を強調きょうちょうし、自身じしん背後はいご関係かんけい隠蔽いんぺいした。かれはメキシコで20年間ねんかん服役ふくえきしたあとソ連それん帰国きこくし、1961ねんにレーニン勲章くんしょう授与じゅよされている。なお、当時とうじメキシコに滞在たいざい事実じじつじょう亡命ぼうめい)していた日本にっぽん演劇えんげきじん佐野さのせきがトロツキー暗殺あんさつ関係かんけいしていたというせつがある(詳細しょうさい佐野さの記事きじ参照さんしょう)。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 文芸ぶんげい評論ひょうろんでもあり、イプセンろんもある。
  • 1920ねん著作ちょさく『テロリズムと共産きょうさん主義しゅぎ』(英語えいごばんIn Defense of Terrorism テロリズム擁護ようご)を刊行かんこうし、ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうカウツキーらの「ソビエトはボルシェビキによる赤色あかいろ恐怖きょうふ支配しはい」という批判ひはんたいして、「革命かくめいのさなかにおいて、資本しほんのテロ歴史れきし若干じゃっかんおくらせるだけだが、革命かくめい資本しほんへのテロ歴史れきし促進そくしんする」と革命かくめいのためのテロを擁護ようごした[注釈ちゅうしゃく 1]。この著作ちょさくはスターリンの蔵書ぞうしょの1さつとして、現在げんざいきゅうソ連それん共産党きょうさんとう古文書こもんじょかんにて保管ほかんされている。なお、政敵せいてきのスターリン[20]もこのほんのテロを賛美さんびしている箇所かしょすべてに「同感どうかん!」「的確てきかく!」などとみをれている。
  • 赤軍せきぐんひきいていたさい兵士へいしあいだで「しろむししろぐん)をころせ」といううたがはやったが、トロツキーは「赤軍せきぐん役目やくめは、しろぐん兵士へいしころすことではなくかれらを武装ぶそう解除かいじょすることであり、しろぐん兵士へいしおな階級かいきゅうなのだから、かれらを組織そしきするつもりでたたかおう」とうったえて、そのうたうたうことをきんじた。
  • トロツキーの亡命ぼうめいさきのメキシコで、トロツキーがせていた住居じゅうきょ銃撃じゅうげきされる。住居じゅうきょ要塞ようさいされ、トロツキーは秘書ひしょ支援しえんしゃとともに「避難ひなん訓練くんれん」をかえした。トロツキーの秘書ひしょだったジャン・ヴァン・エジェノルトJean van Heijenoort)は、トロツキーの性格せいかくかんがえて何故なぜトロツキーが避難ひなん訓練くんれん熱心ねっしんなのかいぶかったが、じつはトロツキーにとって愛人あいじんたくくための「脱出だっしゅつ訓練くんれん」だったことをり、エジュノールは避難ひなん訓練くんれんをボイコットした。なお、この時点じてんでトロツキーはすでにフリーダ・カーロ愛想あいそをつかされており、この愛人あいじんべつ無名むめい女性じょせいである。(出所しゅっしょ避難ひなん訓練くんれんはエジュノール『トロツキーとの7年間ねんかん』p.163, フリーダ・カーロとの関係かんけい途絶とぜつについては Service Trotsky
  • 革命かくめい当初とうしょ地方ちほうまわって督戦とくせんちゅうっていたくるま反対はんたい包囲ほういされた。じゅうけられ万事ばんじきゅうしたトロツキーは即興そっきょう演説えんぜつおこない、てき説得せっとくして味方みかたにしてしまった。
  • 鍋山なべやまさだおやがコミンテルンだいろくかい拡大かくだい執行しっこう委員いいんかい出席しゅっせきしたさい休憩きゅうけいせきでトロツキーとはつ対面たいめんし、そこでかれはニコニコとわらいながら「中国ちゅうごく同志どうしか?」といて、鍋山なべやまが「日本人にっぽんじんだ」とったら、いきなり鍋山なべやまうでかかえて喫煙きつえんしつまでって、ひとなつかしげに「ロシアはわかるか、英語えいごはどうだ」といかけた。どちらもうまくはなせないむね鍋山なべやまつたえると、トロツキーはそれじゃあしょうがない、という面持おももちをしながら手帳てちょうひろげ、れてない日本にっぽんで「日本にっぽんとも」といてせた。鍋山なべやまはこのことを、「どこで、だれおしえてもらったのからぬが、器用きようひとである。」と評価ひょうかしている。(出所しゅっしょ鍋島なべしまさだおや非合法ひごうほう共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう特集とくしゅう』1956ねん12がつごう
  • イスラエル極右きょくう活動かつどうダヴィド・アクセルロッドは、トロツキーのまごである。

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

入手にゅうしゅしやすい日本語にほんご資料しりょう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ
  • 『トロツキー わが生涯しょうがい森田もりたしげる也・志田しだのぼるやく岩波いわなみ文庫ぶんこぜん2かんISBN 4003412796ISBN 400341280X
  • 裏切うらぎられた革命かくめいたいうま忠行ただゆき西田にしだいさおやく現代げんだい思潮しちょうしんしゃ ISBN 4329002140
    • の『トロツキー選集せんしゅう現代げんだい思潮しちょうしんしゃ ぜん22さつは、オンデマンドばん再刊さいかん(2008ねん
  • 裏切うらぎられた革命かくめい藤井ふじい一行いっこうやく岩波いわなみ文庫ぶんこ ISBN 4003412710
  • 文学ぶんがく革命かくめい桑野くわのたかしやく岩波いわなみ文庫ぶんこぜん2かんISBN 4003412729ISBN 4003412737
  • 『ロシア革命かくめい藤井ふじい一行いっこうやく岩波いわなみ文庫ぶんこぜん5かん)。山西さんせい英一ひでかずやく角川かどかわ文庫ぶんこ ぜん3かん
  • 『レーニン』 森田もりたしげる也訳、光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ ISBN 4334751253
  • 永続えいぞく革命かくめいろん森田もりたしげる也訳、光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ ISBN 4334751555
  • 『ニーチェからスターリンへ トロツキー人物じんぶつ論集ろんしゅう 1900-1939』 森田もりたしげる也・志田しだのぼるやく光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ ISBN 4334752020
  • 『ロシア革命かくめいとはなにか トロツキー革命かくめい論集ろんしゅう森田もりたしげる也訳、光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ ISBN 4334753647
伝記でんき研究けんきゅう
  • アイザック・ドイッチャー『武装ぶそうせる予言よげんしゃ・トロツキー』(田中たなか西二郎せいじろう橋本はしもと福夫ふくお山西さんせい英一ひでかずやく新潮社しんちょうしゃ、1964ねん
  • 武力ぶりょくなき予言よげんしゃ・トロツキー』(田中たなか西二郎せいじろう橋本はしもと福夫ふくお山西さんせい英一ひでかずやく新潮社しんちょうしゃ、1964ねん。トロツキーでんさんさく
  • 追放ついほうされた予言よげんしゃ・トロツキー』(山西さんせい英一ひでかずやく新潮社しんちょうしゃ、1964ねん)。改訂かいてい新版しんぱんしん評論ひょうろん(3かんぐみ)、1992ねん
  • ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『トロツキー その政治せいじてき肖像しょうぞうじょうした生田いくた真司しんじやく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1994ねん
  • ピエール・ブルーエ『トロツキー』ぜん3かん杉村すぎむら昌昭まさあき毬藻まりもたかし監訳かんやく柘植つげ書房しょぼうしんしゃ、1997ねん
  • ジャン・ヴァン・エジュノール『亡命ぼうめいしゃトロツキー』 小笠原おがさわら豊樹とよきやくくさおもえしゃ文庫ぶんこ、2019ねん
    • もとはん『トロツキーとのなな年間ねんかん――プリンキポからコヨアカンまで』小笠原おがさわら豊樹とよきやくくさおもえしゃ、1984ねん秘書ひしょ回想かいそう
  • ロバート・サーヴィス『トロツキー』じょうした山形やまがたひろしせい守岡もりおかさくらやく白水しろみずしゃ、2013ねん
著者ちょしゃ序文じょぶんで「ロシアがい人物じんぶつでトロツキー主義しゅぎしゃ以外いがいによるはつ本格ほんかくてきなトロツキーでん」と紹介しょうかい
  • 片島かたしま紀男のりお『トロツキーの挽歌ばんかどう時代じだいしゃ、2007ねん
  • 小倉おぐらえいけい『メキシコ時代じだいのトロツキー 1937-1940』 新泉しんいずみしゃ、2007ねん
トロツキーをあつかった映画えいが作品さくひん
  • 暗殺あんさつしゃのメロディ』(1972ねん 監督かんとく:ジョセフ・ロージー)えんじ:リチャード・バートン
  • 『フリーダ・カーロ』(1984ねん 監督かんとく:ポール・ルデュク)えんじ:マックス・カーロフ
  • 『フリーダ』(2002ねん 監督かんとく:ジュリー・テイモア)えんじ:ジェフリー・ラッシュ
トロツキーをあつかった創作そうさく
  • 安彦やすひこ良和よしかず虹色にじいろのトロツキー』中公ちゅうこう文庫ぶんこほか。漫画まんが
  • 荒巻あらまき義雄よしお紺碧こんぺき艦隊かんたい』「18かん ひがしシベリヤ共和きょうわこく徳間とくま文庫ぶんこほか。架空かくう戦記せんきSF小説しょうせつ
  • ペーター・ヴァイス『亡命ぼうめいのトロツキー』岩淵いわぶち達治たつじやく白水しろみずしゃ戯曲ぎきょく

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 一方いっぽうで、1911ねんにオーストリア社会しゃかい民主党みんしゅとう理論りろん機関きかん『カンプ(闘争とうそう)』へ寄稿きこうした『テロリズム』などで、テロリズムにたいする批判ひはんふくんだ著作ちょさくおお執筆しっぴつしている。この『テロリズム』で批判ひはんするところのテロリズムは要人ようじん暗殺あんさつなどの個人こじんテロをしており、資本しほんがテロリズムと表現ひょうげんするストライキなどはふくまない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Trotsky on Religion Retrieved March 19, 2010
  2. ^ a b cf, for instance, The Columbia Encyclopedia
  3. ^ See, for example, the letter published in the Internal Bulletin of the Communist League of America, no.11, 31 March 1933 Leon Trotsky: Germany and the USSR (1933)”. Trotsky Internet Archive. 2009ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ The murder weapon was a hidden cut-down ice axe, not an ice pick. Many history and reference books have confused the two. See Robert Conquest, The Great Terror: A Reassessment, Oxford University Press, 1991, ISBN 0-19-507132-8, p.418 for a detailed account
  5. ^ 『トロツキー 〜その政治せいじてき肖像しょうぞう〜』(うえ)33ページ
  6. ^ 『トロツキー 〜その政治せいじてき肖像しょうぞう〜』(うえ)34ページ
  7. ^ 『トロツキー 〜その政治せいじてき肖像しょうぞう〜』(うえ)37ページ
  8. ^ On Meeting with Trotsky
  9. ^ See chapter III of his autobiography, 'My Life'
  10. ^ 地図ちずmap
  11. ^ '「生涯しょうがい」12しょう ' Archived 21 November 2005 at the Wayback Machine., Marxist Internet Archive
  12. ^ Trotsky's 'Thermidor and anti-Semitism' (1937) Archived 29 November 2005 at the Wayback Machine.
  13. ^ レフ・トロツキー『裏切うらぎられた革命かくめい藤井ふじい一行いっこうわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1992ねんだい1さつ、394ぺーじ、「訳者やくしゃあとがき」。
  14. ^ 「トロツキーの革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎ議長ぎちょう解任かいにん」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう』1925ねん1がつ22にち大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp.356 毎日まいにちコミュニケーションズ 1994ねん
  15. ^ 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんからも除名じょめい」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1928ねん1がつ4にち昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp.362 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  16. ^ 「トロツキーらはん革命かくめい流刑りゅうけい」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1928ねん1がつ18にち昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp.362 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  17. ^ トロツキーがスターリン非難ひなん電報でんぽう東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ12ねん6がつ19にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース事典じてんだい6かん 昭和しょうわ12ねん-昭和しょうわ13ねん本編ほんぺんp344 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  18. ^ a b “ロシアの革命かくめい、トロツキー暗殺あんさつから80ねん. AFP BB. (2020ねん8がつ20日はつか). https://www.afpbb.com/articles/-/3300078 2023ねん9がつ22にち閲覧えつらん 
  19. ^ 亡命ぼうめいさきのメキシコ郊外こうがい殺害さつがいされる『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ15ねん8がつ23にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp554
  20. ^ ジェフリー・ロバーツ『スターリンの図書としょしつ』(松島まつしま芳彦よしひこやく白水しろみずしゃ、2023ねん)にくわしい。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
創設そうせつ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう陸海りくかいぐん人民じんみん委員いいん
1923ねん - 1925ねん
次代じだい
ミハイル・フルンゼ
先代せんだい
創設そうせつ
ソビエト連邦の旗 ソビエト共和きょうわこく革命かくめい軍事ぐんじ会議かいぎ議長ぎちょう
初代しょだい:1918ねん - 1925ねん
次代じだい
ミハイル・フルンゼ
先代せんだい
ニコライ・クルィレンコ (en
ロシア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
陸海りくかいぐん人民じんみん委員いいん

初代しょだい:1918ねん - 1923ねん
次代じだい
廃止はいし
ソビエト連邦れんぽう成立せいりつ
先代せんだい
ミハイル・テレシチェンコ
(ロシア臨時りんじ政府せいふ外務がいむ大臣だいじん
ロシア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
外務がいむ人民じんみん委員いいん

初代しょだい:1917ねん - 1918ねん
次代じだい
ゲオルギー・チチェーリン