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レフ・カーメネフ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
レフ・カーメネフ
Лев Каменев
生年月日せいねんがっぴ (1883-07-18) 1883ねん7がつ18にち
出生しゅっしょう ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこくモスクワ
ぼつ年月日ねんがっぴ 1936ねん8がつ25にち(1936-08-25)(53さいぼつ
死没しぼつ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこくモスクワ
出身しゅっしんこう モスクワ大学だいがく放校ほうこう
所属しょぞく政党せいとうロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう→)
ボリシェヴィキ→)
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
配偶はいぐうしゃ オリガ・カーメネワ

在任ざいにん期間きかん 1923ねん6月6にち - 1926ねん1がつ16にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう ウラジーミル・レーニン
アレクセイ・ルイコフ

在任ざいにん期間きかん 1923ねん3月31にち - 1926ねん
とう最高さいこう指導しどうしゃ
中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょきちょう
ウラジーミル・レーニン
ヨシフ・スターリン

在任ざいにん期間きかん 1917ねん11月9にち - どう21にち

在任ざいにん期間きかん 1924ねん2がつ2にち - 1926ねん1がつ19にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう アレクセイ・ルイコフ

その職歴しょくれき
ロシア共産党きょうさんとう(ボリシェヴィキ)
政治せいじ局員きょくいん

1917ねん10がつ10日とおか - 11月29にち
1919ねん3月8にち - 1926ねん1がつ1にち
ロシア共産党きょうさんとう(ボリシェヴィキ)
政治せいじ局員きょくいん候補こうほ

1926ねん1がつ1にち - 10月23にち
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ゴールキにて、カーメネフと静養せいようちゅうのレーニン(1922ねん

レフ・ボリソヴィチ・カーメネフロシア: Лев Бори́сович Ка́меневラテン文字もじ表記ひょうきれいLev Borisovich Kamenev1883ねん7がつ6にち(グレゴリオれき7がつ18にち) - 1936ねん8がつ25にち)は、ロシア革命かくめいソビエト連邦れんぽう政治せいじユダヤけいロシアじんソビエト政権せいけん成立せいりつ宣言せんげんしただい2かいぜんソビエト大会たいかい議長ぎちょうぜん中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい議長ぎちょう共産党きょうさんとう政治せいじきょくいん組織そしき局員きょくいん歴任れきにんした。雄弁ゆうべん宣伝せんでん能力のうりょく交渉こうしょうとソビエトの議事ぎじ能力のうりょく評価ひょうかされた知識ちしきじんであったが、ヨシフ・スターリン陰謀いんぼうによって失脚しっきゃくし、粛清しゅくせいされた。本姓ほんせいローゼンフェルド(Ро́зенфельдRosenfeld)。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

ロシア帝国ていこく時代じだいモスクワにて鉄道てつどう技師ぎし家庭かていまれる[1]グルジアのチフリス(現在げんざいトビリシ)の中学校ちゅうがっこうかようが、このときマルクス主義まるくすしゅぎのサークルと関係かんけいつようになる。チフリス(現在げんざいトビリシ)の学校がっこうかよい、モスクワ大学だいがく入学にゅうがくする。大学だいがく在学ざいがくちゅう1901ねん、18さいときロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう入党にゅうとうし、ウラジーミル・レーニン支持しじする[2]翌年よくねん学生がくせい運動うんどうデモおこない、逮捕たいほ退学たいがく処分しょぶんとなる。

以後いご、カーメネフは地下ちか活動かつどうはいり、パリジュネーヴ亡命ぼうめい生活せいかつおくる。1903ねんレフ・トロツキーいもうとオリガ・ブロンシテイン結婚けっこん2人ふたり子供こどもさずかる。オリガとの結婚けっこん生活せいかつ1920年代ねんだいすえまでつづき、その、カーメネフは再婚さいこんする。

1903ねんだい2かい社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう大会たいかいのちとう分裂ぶんれつすると、レーニンを領袖りょうしゅうとするボリシェヴィキ所属しょぞくする。帰国きこくし、プロの革命かくめいとしてサンクトペテルブルクモスクワ、トビリシにて活動かつどうするが、当局とうきょくによってチフリスに追放ついほうされる。1905ねんあきにサンクトペテルブルク工業こうぎょう大学だいがく入学にゅうがくするが、1908ねん逮捕たいほされ、亡命ぼうめいする。

1914ねんとう機関きかんプラウダ」の編集へんしゅうと、だい4かいドゥーマ国会こっかい)ボリシェヴィキ議員ぎいんだん指導しどうする目的もくてき帰国きこくする。サンクトペテルブルクにとう中央ちゅうおう委員いいんかい全権ぜんけん代表だいひょうとして着任ちゃくにんし、ロシア・ビューローの責任せきにんしゃになる。だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、敗戦はいせん支持しじしたため、逮捕たいほされた。裁判さいばんひがしシベリアのエニセイけん流刑りゅうけいとなる。流刑りゅうけいさきでスターリンと出会であい、したしい関係かんけいになる。

1917ねんがつ革命かくめいペトログラードもどり、ふたたび「プラウダ」の編集へんしゅう指導しどうする。この時点じてんでカーメネフは、臨時りんじ政府せいふ条件じょうけんきで支持しじするわりに、政府せいふたいする関与かんよつよめようとする立場たちばであった。このため、レーニンとは若干じゃっかん対立たいりつするが、レーニンの支持しじによってとう中央ちゅうおう委員いいん選出せんしゅつされている。また、上記じょうきのようなかんがえから、同年どうねん10がつ武装ぶそう蜂起ほうきたいしては、グリゴリー・ジノヴィエフとともに反対はんたいしたが、ペトログラードの武装ぶそう蜂起ほうきには参加さんかした。武装ぶそう蜂起ほうきだい2かいぜんソビエト大会たいかい議長ぎちょうつとめ、大会たいかいをボリシェビキに有利ゆうり進行しんこうし、ソビエト国家こっか樹立じゅりつ宣言せんげんした。11月にはジノヴィエフと同調どうちょうして広範こうはん社会しゃかい主義しゅぎてきしょ政党せいとうとの連立れんりつによるぜん社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふ樹立じゅりつ支持しじし、中央ちゅうおう委員いいん辞任じにんする。カーメネフはとう代表だいひょうとしてぜん社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふ創設そうせつするため、政党せいとう交渉こうしょうったが、レーニンの命令めいれいでこれを断念だんねんした。

1918ねん1がつ共産党きょうさんとう紹介しょうかいするためとしょうして西にしヨーロッパ非合法ひごうほう出国しゅっこくする。しかし、イギリス政府せいふ拘束こうそくされ、8がつ帰国きこくする。帰国きこくはモスクワ・ソビエト議長ぎちょう選出せんしゅつされる。内戦ないせんには、南部なんぶ赤軍せきぐん政治せいじ指導しどう担当たんとう。さらに西側にしがわとの平和へいわ状態じょうたいつくるため、代表だいひょう団長だんちょうとしてロンドンわた交渉こうしょうをする。この交渉こうしょうは、ポーランド侵攻しんこうした赤軍せきぐん敗北はいぼくしたのを追放ついほうされ、中断ちゅうだんされた。1923ねんレーニン研究所けんきゅうじょちょうとなり、レーニンの著作ちょさく論文ろんぶん編集へんしゅうたる。

レーニンの晩年ばんねん書記しょき局内きょくない書記しょきちょうしょく新設しんせつすることと、書記しょきちょうにスターリンがくことを提案ていあんした。これは、カーメネフがスターリン、ジノヴィエフとさん人組にんぐみトロイカ)をみ、はんトロツキー共闘きょうとう成功せいこうさせたが、めぐりめぐって、カーメネフ自身じしん破滅はめついやることとなる。

ジノヴィエフひだり)とカーメネフ

レーニンの死後しご、ジノヴィエフとんで1925ねんあきから「あたらしい反対はんたい」の指導しどうしゃとなる。だい14かいとう大会たいかいでは、スターリンの「いちこく社会しゃかい主義しゅぎ」に反対はんたいし、共産党きょうさんとうに「首領しゅりょう(ウォシチ)」はいらないと主張しゅちょうした。また、かえかたなブハーリンたいしても、その経済けいざい政策せいさく批判ひはんしている。しかし、権力けんりょく闘争とうそうでスターリンにやぶれ、1926ねん政治せいじ局員きょくいん解任かいにん商業しょうぎょう人民じんみん委員いいん駐在ちゅうざいイタリア大使たいし降格こうかくされた。さらによく1927ねんにはいったんとう除名じょめいされる。だい15かいとう大会たいかい自己じこ批判ひはんおこなう。 1928ねん1がつ2にちまでに中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいからも除名じょめい処分しょぶん[3]。1月15にちまでにはん革命かくめい行為こうい理由りゆうペンザ流刑りゅうけい処分しょぶんとなるも[4]同年どうねんちゅうふくとうゆるされる。以後いご閑職かんしょくまわされながら、とう除名じょめいふくとうかえす。1934ねんにはスターリンを崇拝すうはいする演説えんぜつをする羽目はめにまでおちいった。

1934ねん12月のセルゲイ・キーロフ暗殺あんさつをきっかけにだい粛清しゅくせい開始かいしされ、カーメネフは逮捕たいほとう除名じょめいされる。1935ねんの「モスクワ本部ほんぶ事件じけん禁固きんこ5ねんけいに。よく1936ねん別件べっけん禁固きんこ10ねんけい。「合同ごうどう本部ほんぶ事件じけん処理しょりする「だいいちかいモスクワ裁判さいばん」で、ジノヴィエフと同様どうようにスターリンの奸計かんけいはまり、処刑しょけいのがれることを条件じょうけん自身じしん有罪ゆうざい自白じはくしたが、1936ねん8がつ25にちルビャンカ銃殺じゅうさつされた。直前ちょくぜんにはおびえるジノヴィエフに「ほこりをってんでいこう」とい、処刑しょけいさいには「さあ、て!」とさけんだとつたえられている。

死後しご

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オリガ夫人ふじん

もとつまオリガとそのあいだまれていた長男ちょうなんアレクサンドルはラーゲリ銃殺じゅうさつされ、次男じなんユーリーも17さい銃殺じゅうさつされた。アレクサンドルには女優じょゆうガリーナ・クラフチェンコロシアばんとのあいだ一人ひとり息子むすこがいたものの、18さい流刑りゅうけいされのちゆるされたが健康けんこうそこねて1966ねんくなっている。後妻ごさいタチヤナ・グレボワとのあいだまれたウラジーミルも強制きょうせい収容しゅうようしょれられたが、びることができた。

処刑しょけいから52ねん1988ねんに、ペレストロイカによる「歴史れきし見直みなおし」の一環いっかんとして名誉めいよ回復かいふくされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Lindemann, Albert S.. Esau's Tears: Modern Anti-Semitism and the Rise of the Jews. Cambridge University Press. ISBN 0-521-79538-9 
  2. ^ For a summary of Kamenev's revolutionary activities between 1901 and 1917, see Vladimir Lenin's Collected Works, Volume XX, International Publishers, 1929, ISBN 1-4179-1577-3 p.353
  3. ^ 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんからも除名じょめい東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ3ねん1がつ4にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp362 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ トロツキーらはん革命かくめい流刑りゅうけい東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ3ねん1がつ18にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp362 )
先代せんだい
アレクサンドル・ケレンスキー
ぜん中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい議長ぎちょう
1917ねん
次代じだい
ヤーコフ・スヴェルドロフ
先代せんだい
ウラジーミル・レーニン
ソビエト連邦れんぽう労働ろうどう国防こくぼう評議ひょうぎかい議長ぎちょう
1924ねん - 1926ねん
次代じだい
アレクセイ・ルイコフ