ゴールキ にて、カーメネフと静養 せいよう 中 ちゅう のレーニン(1922年 ねん )
レフ・ボリソヴィチ・カーメネフ (ロシア語 ご : Лев Бори́сович Ка́менев 、ラテン文字 もじ 表記 ひょうき の例 れい :Lev Borisovich Kamenev 、1883年 ねん 7月 がつ 6日 にち (グレゴリオ暦 れき 7月 がつ 18日 にち ) - 1936年 ねん 8月 がつ 25日 にち )は、ロシア の革命 かくめい 家 か 、ソビエト連邦 れんぽう の政治 せいじ 家 か 。ユダヤ系 けい ロシア人 じん 。ソビエト 政権 せいけん の成立 せいりつ を宣言 せんげん した第 だい 2回 かい 全 ぜん 露 ろ ソビエト大会 たいかい 議長 ぎちょう 、全 ぜん 露 ろ 中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい 議長 ぎちょう 、共産党 きょうさんとう 政治 せいじ 局 きょく 員 いん 、組織 そしき 局員 きょくいん を歴任 れきにん した。雄弁 ゆうべん と宣伝 せんでん 能力 のうりょく 、交渉 こうしょう とソビエトの議事 ぎじ 能力 のうりょく を評価 ひょうか された知識 ちしき 人 じん であったが、ヨシフ・スターリン の陰謀 いんぼう によって失脚 しっきゃく し、粛清 しゅくせい された。本姓 ほんせい はローゼンフェルド (Ро́зенфельд 、Rosenfeld )。
ロシア帝国 ていこく 時代 じだい のモスクワ にて鉄道 てつどう 技師 ぎし の家庭 かてい に生 う まれる[ 1] 。グルジア のチフリス(現在 げんざい のトビリシ )の中学校 ちゅうがっこう に通 かよ うが、この時 とき にマルクス主義 まるくすしゅぎ のサークルと関係 かんけい を持 も つようになる。チフリス(現在 げんざい のトビリシ )の学校 がっこう に通 かよ い、モスクワ大学 だいがく に入学 にゅうがく する。大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう の1901年 ねん 、18歳 さい の時 とき にロシア社会民主労働党 しゃかいみんしゅろうどうとう に入党 にゅうとう し、ウラジーミル・レーニン を支持 しじ する[ 2] 。翌年 よくねん 、学生 がくせい 運動 うんどう でデモ を行 おこな い、逮捕 たいほ 、退学 たいがく 処分 しょぶん となる。
以後 いご 、カーメネフは地下 ちか 活動 かつどう に入 はい り、パリ とジュネーヴ で亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を送 おく る。1903年 ねん 、レフ・トロツキー の妹 いもうと オリガ・ブロンシテイン と結婚 けっこん 、2人 ふたり の子供 こども を授 さず かる。オリガとの結婚 けっこん 生活 せいかつ は1920年代 ねんだい 末 すえ まで続 つづ き、その後 ご 、カーメネフは再婚 さいこん する。
1903年 ねん 、第 だい 2回 かい 社会民主労働党 しゃかいみんしゅろうどうとう 大会 たいかい の後 のち 、党 とう が分裂 ぶんれつ すると、レーニンを領袖 りょうしゅう とするボリシェヴィキ に所属 しょぞく する。帰国 きこく し、プロの革命 かくめい 家 か としてサンクトペテルブルク 、モスクワ 、トビリシにて活動 かつどう するが、当局 とうきょく によってチフリスに追放 ついほう される。1905年 ねん の秋 あき にサンクトペテルブルク工業 こうぎょう 大学 だいがく に入学 にゅうがく するが、1908年 ねん に逮捕 たいほ され、亡命 ぼうめい する。
1914年 ねん 、党 とう 機関 きかん 誌 し 「プラウダ 」の編集 へんしゅう と、第 だい 4回 かい ドゥーマ (国会 こっかい )ボリシェヴィキ議員 ぎいん 団 だん を指導 しどう する目的 もくてき で帰国 きこく する。サンクトペテルブルクに党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 全権 ぜんけん 代表 だいひょう として着任 ちゃくにん し、ロシア・ビューローの責任 せきにん 者 しゃ になる。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、敗戦 はいせん を支持 しじ したため、逮捕 たいほ された。裁判 さいばん で東 ひがし シベリア のエニセイ県 けん に流刑 りゅうけい となる。流刑 りゅうけい 先 さき でスターリンと出会 であ い、親 した しい関係 かんけい になる。
1917年 ねん の二 に 月 がつ 革命 かくめい 後 ご にペトログラード に戻 もど り、再 ふたた び「プラウダ」の編集 へんしゅう を指導 しどう する。この時点 じてん でカーメネフは、臨時 りんじ 政府 せいふ を条件 じょうけん 付 つ きで支持 しじ する代 か わりに、政府 せいふ に対 たい する関与 かんよ を強 つよ めようとする立場 たちば であった。このため、レーニンとは若干 じゃっかん 、対立 たいりつ するが、レーニンの支持 しじ によって党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん に選出 せんしゅつ されている。また、上記 じょうき のような考 かんが えから、同年 どうねん 10月 がつ の武装 ぶそう 蜂起 ほうき に対 たい しては、グリゴリー・ジノヴィエフ とともに反対 はんたい したが、ペトログラードの武装 ぶそう 蜂起 ほうき には参加 さんか した。武装 ぶそう 蜂起 ほうき 後 ご の第 だい 2回 かい 全 ぜん 露 ろ ソビエト大会 たいかい で議長 ぎちょう を務 つと め、大会 たいかい をボリシェビキに有利 ゆうり に進行 しんこう し、ソビエト国家 こっか の樹立 じゅりつ を宣言 せんげん した。11月にはジノヴィエフと同調 どうちょう して広範 こうはん な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 諸 しょ 政党 せいとう との連立 れんりつ による全 ぜん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政府 せいふ 樹立 じゅりつ を支持 しじ し、中央 ちゅうおう 委員 いいん を辞任 じにん する。カーメネフは党 とう 代表 だいひょう として全 ぜん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政府 せいふ を創設 そうせつ するため、他 た の政党 せいとう と交渉 こうしょう を持 も ったが、レーニンの命令 めいれい でこれを断念 だんねん した。
1918年 ねん 1月 がつ 、共産党 きょうさんとう を紹介 しょうかい するためと称 しょう して西 にし ヨーロッパ に非合法 ひごうほう で出国 しゅっこく する。しかし、イギリス 政府 せいふ に拘束 こうそく され、8月 がつ に帰国 きこく する。帰国 きこく 後 ご はモスクワ・ソビエト議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ される。内戦 ないせん 時 じ には、南部 なんぶ で赤軍 せきぐん の政治 せいじ 指導 しどう を担当 たんとう 。さらに西側 にしがわ との平和 へいわ 状態 じょうたい を作 つく るため、代表 だいひょう 団長 だんちょう としてロンドン に渡 わた り交渉 こうしょう をする。この交渉 こうしょう は、ポーランド に侵攻 しんこう した赤軍 せきぐん が敗北 はいぼく したのを機 き に追放 ついほう され、中断 ちゅうだん された。1923年 ねん レーニン研究所 けんきゅうじょ 長 ちょう となり、レーニンの著作 ちょさく と論文 ろんぶん の編集 へんしゅう に当 あ たる。
レーニンの晩年 ばんねん 、書記 しょき 局内 きょくない に書記 しょき 長 ちょう 職 しょく を新設 しんせつ することと、書記 しょき 長 ちょう にスターリンが就 つ くことを提案 ていあん した。これは、カーメネフがスターリン、ジノヴィエフと三 さん 人組 にんぐみ (トロイカ )を組 く み、反 はん トロツキー共闘 きょうとう を成功 せいこう させたが、めぐりめぐって、カーメネフ自身 じしん を破滅 はめつ に追 お いやることとなる。
ジノヴィエフ (左 ひだり )とカーメネフ
レーニンの死後 しご 、ジノヴィエフと組 く んで1925年 ねん 秋 あき から「新 あたら しい反対 はんたい 派 は 」の指導 しどう 者 しゃ となる。第 だい 14回 かい 党 とう 大会 たいかい では、スターリンの「一 いち 国 こく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 」に反対 はんたい し、共産党 きょうさんとう に「首領 しゅりょう (ウォシチ)」はいらないと主張 しゅちょう した。また、返 かえ す刀 かたな でブハーリン に対 たい しても、その経済 けいざい 政策 せいさく を批判 ひはん している。しかし、権力 けんりょく 闘争 とうそう でスターリンに敗 やぶ れ、1926年 ねん に政治 せいじ 局員 きょくいん を解任 かいにん 、商業 しょうぎょう 人民 じんみん 委員 いいん 、駐在 ちゅうざい イタリア大使 たいし に降格 こうかく された。さらに翌 よく 1927年 ねん にはいったん党 とう を除名 じょめい される。第 だい 15回 かい 党 とう 大会 たいかい で自己 じこ 批判 ひはん を行 おこな う。
1928年 ねん 1月 がつ 2日 にち までに中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい からも除名 じょめい 処分 しょぶん [ 3] 。1月15日 にち までに反 はん 革命 かくめい 行為 こうい を理由 りゆう にペンザ に流刑 りゅうけい 処分 しょぶん となるも[ 4] 同年 どうねん 中 ちゅう に復 ふく 党 とう を許 ゆる される。以後 いご は閑職 かんしょく に回 まわ されながら、党 とう 除名 じょめい と復 ふく 党 とう を繰 く り返 かえ す。1934年 ねん にはスターリンを崇拝 すうはい する演説 えんぜつ をする羽目 はめ にまで陥 おちい った。
1934年 ねん 12月のセルゲイ・キーロフ の暗殺 あんさつ をきっかけに大 だい 粛清 しゅくせい が開始 かいし され、カーメネフは逮捕 たいほ 、党 とう を除名 じょめい される。1935年 ねん の「モスクワ本部 ほんぶ 」事件 じけん で禁固 きんこ 5年 ねん の刑 けい に。翌 よく 1936年 ねん 、別件 べっけん で禁固 きんこ 10年 ねん の刑 けい 。「合同 ごうどう 本部 ほんぶ 」事件 じけん を処理 しょり する「第 だい 一 いち 回 かい モスクワ裁判 さいばん 」で、ジノヴィエフと同様 どうよう にスターリンの奸計 かんけい に嵌 はま り、処刑 しょけい を逃 のが れることを条件 じょうけん に自身 じしん の有罪 ゆうざい を自白 じはく したが、1936年 ねん 8月 がつ 25日 にち にルビャンカ で銃殺 じゅうさつ された。死 し の直前 ちょくぜん には怯 おび えるジノヴィエフに「誇 ほこ りを持 も って死 し んでいこう」と言 い い、処刑 しょけい の際 さい には「さあ、撃 う て!」と叫 さけ んだと伝 つた えられている。
オリガ夫人 ふじん
元 もと 妻 つま オリガとその間 あいだ に産 う まれていた長男 ちょうなん アレクサンドルはラーゲリ で銃殺 じゅうさつ され、次男 じなん ユーリーも17歳 さい で銃殺 じゅうさつ された。アレクサンドルには女優 じょゆう のガリーナ・クラフチェンコ (ロシア語 ご 版 ばん ) との間 あいだ に一人 ひとり 息子 むすこ がいたものの、18歳 さい で流刑 りゅうけい され後 のち に赦 ゆる されたが健康 けんこう を損 そこ ねて1966年 ねん に亡 な くなっている。後妻 ごさい タチヤナ・グレボワとの間 あいだ に産 う まれたウラジーミルも強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に入 い れられたが、生 い き延 の びることができた。
処刑 しょけい から52年 ねん 後 ご の1988年 ねん に、ペレストロイカ による「歴史 れきし の見直 みなお し」の一環 いっかん として名誉 めいよ 回復 かいふく された。
^ Lindemann, Albert S.. Esau's Tears: Modern Anti-Semitism and the Rise of the Jews . Cambridge University Press. ISBN 0-521-79538-9
^ For a summary of Kamenev's revolutionary activities between 1901 and 1917, see Vladimir Lenin's Collected Works , Volume XX, International Publishers, 1929, ISBN 1-4179-1577-3 p.353
^ 中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん からも除名 じょめい 『東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 』昭和 しょうわ 3年 ねん 1月 がつ 4日 にち (『昭和 しょうわ ニュース事典 じてん 第 だい 1巻 かん 昭和 しょうわ 元年 がんねん -昭和 しょうわ 3年 ねん 』本編 ほんぺん p362 昭和 しょうわ ニュース事典 じてん 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 毎日 まいにち コミュニケーションズ刊 かん 1994年 ねん )
^ トロツキーら反 はん 革命 かくめい で流刑 りゅうけい 『東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん 』昭和 しょうわ 3年 ねん 1月 がつ 18日 にち (『昭和 しょうわ ニュース事典 じてん 第 だい 1巻 かん 昭和 しょうわ 元年 がんねん -昭和 しょうわ 3年 ねん 』本編 ほんぺん p362 )
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース人物 じんぶつ その他 た