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ウラジーミル・レーニン

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レーニンから転送てんそう
ウラジーミル・レーニン
Владимир Ленин
1920ねんのレーニン
ソビエト連邦れんぽう
初代しょだい 人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
任期にんき
1923ねん7がつ6にち – 1924ねん1がつ21にち
後任こうにんしゃアレクセイ・ルイコフ
ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく
初代しょだい 人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
任期にんき
1917ねん11月8にち – 1924ねん1がつ21にち
後任こうにんしゃアレクセイ・ルイコフ
ソビエト連邦れんぽう
初代しょだい 労働ろうどう国防こくぼう会議かいぎ議長ぎちょう
任期にんき
1923ねん7がつ17にち – 1924ねん1がつ21にち
後任こうにんしゃレフ・カーメネフ
ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく
労農ろうのう国防こくぼう会議かいぎ議長ぎちょう労働ろうどう国防こくぼう会議かいぎ議長ぎちょう
任期にんき
1918ねん11月30にち – 1920ねん4がつ
1920ねん4がつ - 1923ねん7がつ17にち
後任こうにんしゃ廃止はいし
ロシア共産党きょうさんとう(ボリシェヴィキ)
政治せいじ局員きょくいん
任期にんき
1918ねん3月 – 1924ねん1がつ21にち
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたんウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов
(1870-04-22) 1870ねん4がつ22にち
ロシア帝国ていこく シンビルスク
死没しぼつ1924ねん1がつ21にち(1924-01-21)(53さいぼつ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく モスクワけんポドリスクぐんゴールキ
政党せいとう
配偶はいぐうしゃナデジダ・クルプスカヤ (1898–1924)
おや
出身しゅっしんこうサンクトペテルブルク大学さんくとぺてるぶるくだいがく
宗教しゅうきょうかみろん
署名しょめい

ウラジーミル・イリイチ・レーニンロシア: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин1870ねん4がつ22にち[注釈ちゅうしゃく 1]1924ねん1がつ21にち)は、ロシア革命かくめい政治せいじ哲学てつがくしゃロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくおよびソビエト連邦れんぽう初代しょだい指導しどうしゃ人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう)。「レーニン」は筆名ひつめい#筆名ひつめい参照さんしょう)であり、本名ほんみょうウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフロシア: Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)。

ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうボリシェヴィキ指導しどうしゃとして活動かつどうし、1917ねんじゅうがつ革命かくめい成功せいこうさせたのちはつ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかであるロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく樹立じゅりつし、その行政府ぎょうせいふである人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう就任しゅうにんした。1919ねんにはだいインターナショナルわる共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとう国際こくさい組織そしきとしてコミンテルン創設そうせつ主導しゅどう、その1922ねんにはソビエト連邦れんぽう成立せいりつ指導しどうし、1924ねん死去しきょするまで同国どうこく政府せいふ首脳しゅのうソ連それん人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう)の地位ちいにあった。マルクス主義まるくすしゅぎものとして政治せいじ経済けいざい分析ぶんせきから哲学てつがくいたるまでさまざまな著作ちょさくのこし、その思想しそうレーニン主義しゅぎおよびマルクス・レーニン主義しゅぎとして継承けいしょうされ、世界せかい社会しゃかい主義しゅぎこく影響えいきょうあたえた( § 国際こくさいてき影響えいきょう)。

概要がいよう

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1870ねんロシア帝国ていこくシンビルスク(げんウリヤノフスク)で中流ちゅうりゅう階級かいきゅう教育きょういくしゃ家庭かていまれた。1887ねん皇帝こうてい暗殺あんさつ計画けいかく関与かんよしたあに処刑しょけいされたのちに革命かくめい思想しそうまり、学生がくせい運動うんどう参加さんかしてカザン大学だいがく放校ほうこうされた。1893ねんにはサンクトペテルブルクにうつり、マルクス主義まるくすしゅぎ活動かつどうとなったが、1897ねん扇動せんどうざい逮捕たいほされ、シベリアの寒村かんそんでの流刑りゅうけいしょされた。刑期けいきわると西にしヨーロッパにうつり、ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう幹部かんぶとして頭角とうかくあらわしたが、どうとうは1903ねんにレーニンのボリシェヴィキとマルトフメンシェヴィキ分裂ぶんれつした。1914ねん勃発ぼっぱつしただいいち世界せかい大戦たいせんについては資本しほんによる帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう定義ていぎし、戦争せんそうぜんヨーロッパてきなプロレタリア革命かくめいへと転化てんかすることを提唱ていしょうした。1917ねんがつ革命かくめい帝政ていせい崩壊ほうかいし、ロシア臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつされると、封印ふういん列車れっしゃ帰国きこくしたレーニンはボリシェヴィキの指導しどうしゃとしてはん臨時りんじ政府せいふ運動うんどう展開てんかいし、じゅうがつ革命かくめいによって体制たいせい転覆てんぷくさせ、自身じしん首班しゅはんとなるソビエト政権せいけん樹立じゅりつした。

レーニンのソビエト政権せいけん社会しゃかい主義しゅぎてき改革かいかく実行じっこうする一方いっぽうで、ブレスト=リトフスク条約じょうやくむすんでだいいち世界せかい大戦たいせんから離脱りだつした。1918ねんにはボリシェヴィキによるいちとう独裁どくさい体制たいせい確立かくりつし、党名とうめいをロシア民主みんしゅ労働党ろうどうとうから「ロシア共産党きょうさんとう(ボリシェヴィキ)」へとあらためた。また、秘密ひみつ警察けいさつ組織そしきチェーカー)によって指揮しきされる赤色あかいろテロ開始かいしし、反対はんたいたいするだい規模きぼ弾圧だんあつ実行じっこうした。1919ねんには世界せかい革命かくめい推進すいしんするためにコミンテルン創設そうせつし、じゅうがつ革命かくめいロシア内戦ないせんでソビエトぐん赤軍せきぐん)がしろぐん勝利しょうりしたのちには、隣国りんごくポーランドに侵攻しんこうし、革命かくめいぜんヨーロッパへの波及はきゅうこころみたが失敗しっぱいした。1921ねんにはだい飢饉ききんはしはっするはんボリシェヴィキてき騒乱そうらん拡大かくだいへの対応たいおうとして、従来じゅうらい戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎからしん経済けいざい政策せいさく(ネップ)への転換てんかんすすめた。

1921ねんごろからレーニンの健康けんこう状態じょうたいいちじるしく悪化あっかし、静養せいようのためクレムリンをはなれることがおおくなった。病状びょうじょう悪化あっかするなか、ソビエト連邦れんぽうソ連それん)の形成けいせいには構想こうそう段階だんかいから関与かんよし、1922ねん12月にソ連それん建国けんこくされると、その行政府ぎょうせいふ初代しょだい議長ぎちょう選出せんしゅつされた。一方いっぽうで、このころにはグルジア問題もんだいなどをめぐってスターリンとの対立たいりつふかめ、口述こうじゅつ筆記ひっきさせた文書ぶんしょなかとう書記しょきちょうからスターリンを解任かいにんするようもとめた。1923ねんに3度目どめ脳卒中のうそっちゅうこすと、意思いし疎通そつう困難こんなんをきたす状態じょうたいおちいった。1924ねん1がつ21にち、ゴールキの邸宅ていたく意識いしき不明ふめい状態じょうたいとなり、そのまま死去しきょした。遺体いたい防腐ぼうふ処理しょりほどこされたうえで、あか広場ひろばてられた霊廟れいびょうレーニンびょう)にて一般いっぱん公開こうかいされた。

出生しゅっしょうから青年せいねんまで

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出自しゅつじ

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ウリヤノフ家族かぞく写真しゃしん下段げだんみぎはしがレーニン

レーニンのちちイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフもと農奴のうど家系かけい出身しゅっしんであり、イリヤの父親ちちおや民族みんぞくせい不明瞭ふめいりょうなものの[注釈ちゅうしゃく 2]母親ははおやカルムイクじんロシアじん半分はんぶんずついていた[3]。イリヤは下層かそう階級かいきゅう出自しゅつじであったが、カザン帝国ていこく大学だいがく物理ぶつりがく数学すうがくまなんだのち[注釈ちゅうしゃく 3]ペンザ貴族きぞく学校がっこう教職きょうしょくて、中流ちゅうりゅう階級かいきゅう身分みぶんにした[5]。1863ねんなかば、イリヤはのちにレーニンのははとなるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク結婚けっこんした[6]。マリアは裕福ゆうふくなドイツ・スウェーデンけいははと、ユダヤけいロシアじんちちとのあいだまれ、彼女かのじょちちキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうし、医師いしとしてはたらいていた[7]結婚けっこん、イリヤは教育きょういくしゃとして出世しゅっせつづけ、やがてシンビルスク地方ちほう公立こうりつ学校がっこう視学しがくかんとなり、帝国ていこく政府せいふによる近代きんだい計画けいかく一環いっかんとして450こう以上いじょう学校がっこう設立せつりつ監督かんとくした。1882ねん1がつには教育きょういく分野ぶんやにおける功績こうせきみとめられてひじりウラジーミル勲章くんしょう英語えいごばん授与じゅよされ、世襲せしゅう貴族きぞく地位ちい[8][9]

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当時とうじ3さいのウラジーミル・ウリヤノフ(ひだり)といもうとのオルガ(みぎ)(1874ねん

1870ねん4がつ22にちロシアれきの4がつ10日とおか[1])、レーニンはロシア帝国ていこくのシンビルスクでウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとしてまれ、生後せいご6にち洗礼せんれいけた[10]。ウラジーミルは両親りょうしんの3番目ばんめであり、うえにはあねのアンナ(1864年生ねんせい)とあにアレクサンドル(1866年生ねんせい)が、したにはオルガ(1871年生ねんせい)とドミトリー(1874年生ねんせい)、マリア(1878年生ねんせい)がおり、生後せいごすぐ早世そうせいした2人ふたりあねおとうとがいた[11]ちちのイリヤがロシア正教会せいきょうかい敬虔けいけん信者しんじゃであった一方いっぽうで、ははのマリアはルーテル教会きょうかい信徒しんととしてそだてられたもののキリスト教きりすときょうてき信仰しんこうにはほとんど関心かんしんがなく、彼女かのじょ宗教しゅうきょうかん子供こどもたちにも影響えいきょうあたえた[12]両親りょうしんはともに君主くんしゅせい主義しゅぎしゃかつ自由じゆう保守ほしゅ主義しゅぎしゃであり、ロシア皇帝こうていアレクサンドル2せい実施じっしした農奴のうど解放かいほうれい熱心ねっしん支持しじしており[13]子供こどもたちをロシアじんとしてそだてた[14]2人ふたり政治せいじてき過激かげきけており、危険きけん人物じんぶつとして帝国ていこく警察けいさつ監視かんしかれていたという記録きろく存在そんざいしていない[13]。ウラジーミルはあねおとうとなかでもとくいもうとのオルガとしたしく、彼女かのじょたいしてはしばしば威張いばらしていた。当時とうじかれきわめて競争心きょうそうしんつよく、気性きしょうあらさをせていたが、自分じぶんおかした間違まちがいについてはみとめることがおおかった[15]入学にゅうがくしたシンビルスク古典こてんちゅう高等こうとう学校がっこうでは非常ひじょう成績せいせき優秀ゆうしゅうであった一方いっぽう、スポーツにも熱心ねっしんであり、自由じゆう時間じかんはほとんど屋外おくがいるかチェスあそんでごした[16]

青年せいねん時代じだい

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1887ねんのウラジーミル・ウリヤノフ

1886ねん1がつちちのイリヤがのうない出血しゅっけつによって死亡しぼうした[17]ちち死後しご、レーニンのいは突飛とっぴ攻撃こうげきてきになり、かみへの信仰しんこう放棄ほうきした[18]。そのころあにのアレクサンドルはサンクトペテルブルク大学さんくとぺてるぶるくだいがく絶対ぜったい君主くんしゅせい反対はんたいする政治せいじてき活動かつどうんでいた。かれはその、ロシア皇帝こうていであるアレクサンドル3せい暗殺あんさつ目論もくろ革命かくめいてき結社けっしゃくわわり、暗殺あんさつようばくだん製造せいぞうやくえらばれた。しかし暗殺あんさつ計画けいかく決行けっこうされるまえ露呈ろていし、アレクサンドルら計画けいかくしゃ逮捕たいほされたのち裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくされ、1887ねん5がつ絞首刑こうしゅけいしょされた[19]ちちあににより精神せいしんてきショックをけたものの、つづ学業がくぎょうはげんだレーニンは古典こてんちゅう高等こうとう学校がっこう首席しゅせき卒業そつぎょうし、そのさいには突出とっしゅつした成績せいせきとなえてきんメダルを授与じゅよされた[20]1887ねん8がつちち母校ぼこうであるカザン大学だいがく入学にゅうがくして法学ほうがく専攻せんこうしたが[21]、12月には学生がくせい運動うんどう集会しゅうかい参加さんかしたことから警察けいさつ拘束こうそくされて大学だいがくから退学たいがく処分しょぶん[22]帝国ていこく内務省ないむしょうによってコクシキノむらのウリヤノフ所有しょゆう追放ついほうされた[23]

コクシキノむらでの追放ついほう期間きかんちゅう、レーニンは書物しょもつあさり、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが1863ねんあらわした革命かくめい小説しょうせつなにをなすべきか?ロシアばん英語えいごばん』に熱中ねっちゅうした[24]ははマリアはウラジーミルの思想しそう先鋭せんえい懸念けねんいだき、内務省ないむしょうにかけあって息子むすこをカザン市内しない帰還きかんさせる許可きょか[25]。カザンにもどったウラジーミルはニコライ・フェドセーエフ英語えいごばん主催しゅさいする革命かくめいサークルに参加さんかし、そこでカール・マルクス1867ねんあらわした『資本しほんろん』と出会であい、マルクス主義まるくすしゅぎへの興味きょうみいた[26]

1889ねん5月、一家いっかでシンビルスクからサマーラけん農場のうじょう移住いじゅうしたもののうまくいかず、9月にはサマーラ市内しないへと転居てんきょした[27]。サマーラ市内しないでレーニンはアレクセイ・スクリアレンコ英語えいごばんによる社会しゃかい主義しゅぎ議論ぎろんサークルに参加さんか[28]、その影響えいきょうマルクス主義まるくすしゅぎ本格ほんかくてき信奉しんぽうしゃとなり、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが1848ねん発表はっぴょうした『共産党きょうさんとう宣言せんげん』のロシアやく手掛てがけた[29]

1890ねん5がつははのマリアによる当局とうきょくとの交渉こうしょうすえ、レーニンは学外がくがい学生がくせいとしてサンクトペテルブルク大学さんくとぺてるぶるくだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう検定けんてい試験しけんけることを許可きょかされた[30][31]。1891ねん、レーニンは試験しけんけるためはるあきの2サンクトペテルブルクをおとずれ、すべての試験しけん合格ごうかくしたが[32]、2試験しけん合間あいまである5がつにはいもうとのオルガがちょうチフス病死びょうしした[33][30]。1892ねん1がつ、レーニンはサンクトペテルブルク教育きょういく管区かんくきょくからだいいちきゅう学位がくい授与じゅよされ[32]同月どうげつからサマーラの弁護士べんごし事務所じむしょ弁護士べんごしとしていちねんはんほどつとめたが、1893ねん8がつにはそのしょくしてサンクトペテルブルクに移住いじゅうした[34]

1891ねんから92ねんにかけて、レーニンが当時とうじんでいたロシアのヴォルガがわ流域りゅういき飢饉ききん発生はっせいし、知識ちしきじんふくおおくの人々ひとびと救済きゅうさい活動かつどうをはじめたが、レーニンは飢饉ききん大衆たいしゅう急進きゅうしんさせるのに役立やくだつとの見解けんかいっており、それらの知識ちしきじんによる救済きゅうさい活動かつどうを「あまったるい感傷かんしょう行為こうい」として否定ひていした[35][36]

革命かくめいとして

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初期しょき活動かつどう

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1895ねんのレーニン

サンクトペテルブルクうつったレーニンは、弁護士べんごし助手じょしゅとしてはたらかたわマルクス主義まるくすしゅぎ革命かくめい結社けっしゃ社会しゃかい民主党みんしゅとう」に参加さんかし(結社けっしゃめいドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう由来ゆらい)、やがてとう幹部かんぶ昇格しょうかくした[37]。このころには、おなマルクス主義まるくすしゅぎしゃ学校がっこう教師きょうしナデジダ・クルプスカヤとの交際こうさいはじめた[38]。レーニンはみずからが所属しょぞくする社会しゃかい民主党みんしゅとうと、スイスのロシアじん亡命ぼうめいしゃによるマルクス主義まるくすしゅぎ組織そしき労働ろうどう解放かいほうだん」とのあいだ関係かんけい確立かくりつすることをのぞみ、労働ろうどう解放かいほうだんメンバーのゲオルギー・プレハーノフパーヴェル・アクセリロードうためスイスを訪問ほうもんした[39]

帰国きこくはロシア各地かくちめぐり、国外こくがいから大量たいりょうかえった非合法ひごうほう革命かくめいてき出版しゅっぱんぶつ当地とうちのストライキ労働ろうどうしゃくばった[40]1895ねんあき、レーニンはサンクトペテルブルクのすべてのマルクス主義まるくすしゅぎ労働ろうどうしゃグループを統合とうごうして「労働ろうどうしゃ階級かいきゅう解放かいほう闘争とうそう同盟どうめい英語えいごばん」を結成けっせいした[21]。その闘争とうそう同盟どうめい非合法ひごうほう機関きかんラボーチェエ・デーロ』の発行はっこう関与かんよしたが、同年どうねん12がつの39にん活動かつどうとも逮捕たいほされ、扇動せんどうざいわれた[41]逮捕たいほされたレーニンは罪状ざいじょう全面ぜんめんてき否認ひにんしたが、そのけい宣告せんこくまで1ねんにわたって収監しゅうかんされることとなった[42]

1897ねん2がつ、レーニンはひがしシベリアでの3年間ねんかん流刑りゅうけい宣告せんこくされ、まわりの整理せいりのためサンクトペテルブルクで3日間にちかんごすことを許可きょかされたが、かれはその猶予ゆうよ期間きかん闘争とうそう同盟どうめいのメンバーとうために利用りようした[43]。レーニンは政府せいふたいするおおきな脅威きょういではないとみなされており、流刑りゅうけいシュシェンスコエ英語えいごばんむらでは警察けいさつ監視かんしかれたものの、むらから革命かくめい活動かつどう文通ぶんつうすることは可能かのうであり、ちかくのエニセイがわおよぐことや水鳥みずとり狩猟しゅりょうたのしむことも許可きょかされていた[44]

ウラジーミル・ウリヤノフ(中央ちゅうおう)と労働ろうどうしゃ階級かいきゅう解放かいほう闘争とうそう同盟どうめい英語えいごばんのメンバー(1897ねん撮影さつえい

1898ねん5がつ、レーニンは流刑りゅうけいでクルプスカヤと再会さいかいした。彼女かのじょはストライキを組織そしきしたことで1896ねん8がつ逮捕たいほされ、当初とうしょウファでの流刑りゅうけいしょされていたが、自分じぶんとレーニンが婚約こんやくしていると主張しゅちょうして当局とうきょく説得せっとくし、シュシェンスコエむら移送いそうされてきた[45]。その、1898ねん7がつ10日とおかにレーニンとクルプスカヤは結婚けっこんした[45]。このころ、ドイツでは選挙せんきょによる平和へいわてき社会しゃかい主義しゅぎ実現じつげん主張しゅちょうするエドゥアルト・ベルンシュタイン修正しゅうせい主義しゅぎもの台頭たいとうし、マルクス主義まるくすしゅぎしゃあいだでイデオロギーじょう対立たいりつしょうじていた。そのなかでもレーニンは暴力ぼうりょく革命かくめい強力きょうりょく支持しじつづけ、『ロシア社会しゃかい民主みんしゅ党員とういんによる抗議こうぎ』という著作ちょさくなか修正しゅうせい主義しゅぎしゃ主張しゅちょう攻撃こうげきした[46]。1899ねんには『ロシアにおける資本しほん主義しゅぎ発展はってん英語えいごばん』をあらわし、 農業のうぎょう社会しゃかい主義しゅぎ英語えいごばん批判ひはんするとともに、ロシアの経済けいざい発展はってんたいするマルクス主義まるくすしゅぎてき分析ぶんせき提示ていじした。この著作ちょさくはウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名ひつめい出版しゅっぱんされたが、内容ないようへの評価ひょうかひくかった[47]

ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう分裂ぶんれつ

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1900ねん1がつ刑期けいき終了しゅうりょうし、プスコフにしばらくとどまったのち7がつスイス亡命ぼうめいした[48]。1900ねん9がつバイエルン王国おうこく首都しゅとミュンヘン移住いじゅうし、同年どうねん12がつには流刑りゅうけいちゅう結成けっせいされていたロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう[注釈ちゅうしゃく 4]機関きかんイスクラ』を創刊そうかんした。編集へんしゅうきょくのメンバーはかれほかユーリー・マルトフポトレソフプレハーノフアクセリロードザスーリチであった。この新聞しんぶん中心ちゅうしんとするグループは「イスクラ」とばれた。ヨーロッパの著名ちょめいマルクス主義まるくすしゅぎしゃ寄稿きこうした『イスクラ』はロシア帝国ていこくないへと密輸みつゆされたが[49]、そのような地下ちか流通りゅうつうもう構築こうちくオシップ・ピアトニツキーまかせられていた[50]

ウラジーミル・ウリヤノフがはじめて「レーニン」の筆名ひつめい使用しようしたのは1901ねん12月であり[51]よく1902ねんにはこの筆名ひつめいで『なにをなすべきか?』とだいするパンフレット出版しゅっぱんし、前衛ぜんえいとうがプロレタリアート革命かくめい指導しどうすることの必要ひつようせいについてろんじた[52]。レーニンはカール・カウツキー言葉ことば引用いんようし、「社会しゃかい主義しゅぎ意識いしきは、プロレタリアート階級かいきゅう闘争とうそうのなかへ外部がいぶからもちこまれたあるものであって、この階級かいきゅう闘争とうそうのなかから自然しぜん発生はっせいてきまれてきたものではない」とべ、このかんがかたのちに「外部がいぶ注入ちゅうにゅうろん」とばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版しゅっぱんおおきな反響はんきょうび、以降いこうかれは「レーニン」のでロシア帝国ていこくマルクス主義まるくすしゅぎしゃひろられるようになった[53]

どう時期じきにはミュンヘンで『イスクラ』の執筆しっぴつつづけ、イデオロギーじょう対立たいりつしゃ批判ひはんしゃ、とりわけ社会しゃかい革命かくめいとう(エスエル)にたいして攻撃こうげきくわえた[54]。1902ねん4がつ、バイエルンの警察けいさつおそれたレーニンは『イスクラ』とともにロンドンに移住いじゅうした[55]。ロンドンでは同胞どうほうマルクス主義まるくすしゅぎしゃレフ・トロツキー友人ゆうじんになった一方いっぽう[56]丹毒たんどくわずらって『イスクラ』編集へんしゅうきょく中心ちゅうしんてき役割やくわりになうことができなくなり[57]、レーニン不在ふざいあいだに『イスクラ』の本部ほんぶジュネーヴうつされた[57]

1903ねん7がつ、ロンドンでロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうだい2かいとう大会たいかいひらかれたが[58]大会たいかいではレーニンの支持しじしゃとマルトフの支持しじしゃはげしく対立たいりつし、マルトフは、党員とういんとう指導しどうしばられることなく独自どくじ意見いけん表明ひょうめいすることをゆるされるべきと主張しゅちょうしたが、レーニンはそれに反対はんたいし、強力きょうりょく指導しどうとう全体ぜんたい完全かんぜんにコントロールすることの必要ひつようせいつよ主張しゅちょうした[59]。ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうはレーニン支持しじの「ボリシェヴィキ多数たすう)」とマルトフ支持しじの「メンシェヴィキ少数しょうすう)」という2つの派閥はばつ分裂ぶんれつし、『イスクラ』編集へんしゅうきょくの6めいのうち、レーニン以外いがいの5めいはメンシェヴィキへうつったため、レーニンはボリシェヴィキの突出とっしゅつした指導しどうしゃとなった。とう大会たいかい両者りょうしゃ論争ろんそうつづき、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律きりつ日和見ひよりみ主義しゅぎ社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎ」と批判ひはんした一方いっぽうで、メンシェヴィキはレーニンを「独裁どくさい専制せんせい主義しゅぎしゃ」として非難ひなんした[60]。メンシェヴィキに憤慨ふんがいしたレーニンは『イスクラ』編集へんしゅうきょく辞職じしょくし、1904ねん5がつにメンシェヴィキを批判ひはんした著作ちょさくいち前進ぜんしん後退こうたい』を出版しゅっぱんした[61]

ロシアだいいち革命かくめい労農ろうのう民主みんしゅ独裁どくさいろん

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1905ねんタンペレスターリンとレーニンがはじめてったことにかんする芸術げいじゅつ作品さくひん

1905ねん1がつ、サンクトペテルブルクでこった日曜日にちようび事件じけんをきっかけに動乱どうらんがロシア帝国ていこく全土ぜんどひろがり、1905ねん革命かくめい(ロシアだいいち革命かくめい)としてられる革命かくめいへと発展はってんした[62]。レーニンはこの動乱どうらんにおいてボリシェヴィキがよりおおきな役割やくわりえんじることを要求ようきゅうし、暴力ぼうりょくてき蜂起ほうきびかけた[63]。1905ねん8がつには『民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめいにおける社会しゃかい民主党みんしゅとうふたつの戦術せんじゅつ』を出版しゅっぱんして革命かくめいたいする見解けんかい提示ていじし、ロシアの自由じゆう主義しゅぎてきブルジョワジーは立憲りっけん君主くんしゅせいへの移行いこう満足まんぞくしてしまうため革命かくめい遂行すいこう裏切うらぎると予想よそうしたうえで、プロレタリアートは農民のうみん同盟どうめいむすんで君主くんしゅせい打倒だとうし、臨時りんじてきに「プロレタリアートと農民のうみん革命かくめいてき民主みんしゅ主義しゅぎてき独裁どくさい労農ろうのう民主みんしゅ独裁どくさい)」体制たいせい樹立じゅりつする必要ひつようがあるとろんじた[64]

ロシアだいいち革命かくめいへのはんおうとしてニコライ2せいじゅうがつ詔書しょうしょ発布はっぷし、いくつかの自由じゆう主義しゅぎてき改革かいかく約束やくそくした。レーニンはこの状況じょうきょうでは安全あんぜんてサンクトペテルブルクに帰還きかんした[65] このころ、レーニンは党員とういんからの徴収ちょうしゅう裕福ゆうふく支援しえんしゃからの寄付きふだけでは活動かつどう資金しきんげんとして不十分ふじゅうぶん認識にんしきし、郵便ゆうびんきょく列車れっしゃ銀行ぎんこうなどへの強盗ごうとうによる資金しきんあつめを承認しょうにんした。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシン指導しどうでそのような犯罪はんざい行為こういはじめ、1907ねん6がつにはヨシフ・スターリン指揮しき党員とういんがグルジアのトビリシ帝国ていこく銀行ぎんこうたいする武装ぶそう強盗ごうとう決行けっこうした[66]。1906ねん4がつストックホルムひらかれただい4かいとう大会たいかいにおいて、レーニンによる暴力ぼうりょく強盗ごうとう支持しじはメンシェヴィキからはげしく非難ひなんされた[67]

1907ねん1がつ、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公たいこうこくりょうクオッカラ地区ちく生活せいかつはじ[32]当地とうちではボリシェヴィキの拠点きょてん構築こうちく関与かんよした[68]。その、1907ねん5がつにロンドンで開催かいさいされただい5かいとう大会たいかいではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうにおける支配しはいてき勢力せいりょくもどした[68]帝政ていせい政府せいふ反対はんたいへの弾圧だんあつつよめ、秘密ひみつ警察けいさつ機関きかんの「オフラーナ」に革命かくめい活動かつどう逮捕たいほめいじると、レーニンはフィンランドりょうから逃亡とうぼうしてスイスに移住いじゅうした[69]

1908ねん、レーニンはロンドンのだいえい博物館はくぶつかん図書としょしつ写真しゃしん)で研究けんきゅうおこなった。

1908ねん5がつ、レーニンは短期間たんきかんロンドンで生活せいかつし、だいえい博物館はくぶつかん図書としょしつ利用りようして『唯物ゆいぶつろん経験けいけん批判ひはんろん英語えいごばん』 をあらわし、有力ゆうりょくなボリシェヴィキであるアレクサンドル・ボグダーノフ主張しゅちょうする相対そうたい主義しゅぎの「ブルジョワ反動はんどうてき欺瞞ぎまん」を攻撃こうげきした[70]。レーニンの分派ぶんぱてき行動こうどうのボリシェヴィキとの不和ふわみ、アレクセイ・ルイコフレフ・カーメネフといった元々もともと支持しじしゃをもとおざけた[71]。オフラーナはこのレーニンの傾向けいこう利用りようし、スパイとしてロマン・マリノフスキーをボリシェヴィキにおくみ、レーニンの分派ぶんぱ行動こうどう積極せっきょくてき支持しじさせることで党内とうない対立たいりつあおった[72]

1910ねん8がつコペンハーゲンひらかれただいインターナショナルだい8かい大会たいかいにロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう代表だいひょうとして参加さんかしたのち[73]、レーニンはつまあねらとともにフランスの首都しゅとパリにきょうつ[74]当地とうちではフランスじんボリシェヴィキのイネッサ・アルマンド親密しんみつなかになった[75]一部いちぶ伝記でんき作家さっかは1910ねんから1912ねんにかけてレーニンがアルマンドと不倫ふりん関係かんけいにあったと示唆しさしている[75]。1912ねん1がつ、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう協議きょうぎかい主催しゅさいしたが、召集しょうしゅうされた参加さんかしゃ18めいのうち16めいがボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2めいだけだった[76]。このプラハ協議きょうぎかい英語えいごばんでボリシェヴィキは独自どくじあらたなとう中央ちゅうおう委員いいんかい選出せんしゅつした[76][77]とう中央ちゅうおう委員いいんえらばれた7めいにはレーニン、ジノヴィエフオルジョニキーゼほか帝国ていこくのスパイであるマリノフスキーもふくまれており[76]選任せんにんされたばかりの委員いいんおおくがロシアへの帰国きこく逮捕たいほされた[78]逮捕たいほによって欠員けついんしょうじたことをけ、レーニンはスターリンをあらたなとう中央ちゅうおう委員いいんとして抜擢ばってきした[78]

1912ねん7がつ、レーニンはガリツィア・ロドメリア王国おうこくクラクフきょうつし、そこではヤギェウォ大学だいがく図書館としょかん利用りようして研究けんきゅうおこなった[79][32]。1913ねん1がつ、スターリン(当時とうじのレーニンは「素晴すばらしいグルジアじん」とひょうしていた)がクラクフのレーニンを訪問ほうもんし、2人ふたり帝国ていこくないロシアじん民族みんぞく集団しゅうだん将来しょうらいについて議論ぎろんわした[80]。その、レーニンはつまとも田舎町いなかまちビャウィ・ドゥナイェツ英語えいごばん移住いじゅう[81]、1913ねん5がつにはつまクルプスカヤに甲状腺こうじょうせんしゅ手術しゅじゅつけさせるためベルンうつった[82][32]

だいいち世界せかい大戦たいせんと『帝国ていこく主義しゅぎろん

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1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつしたとき、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国ていこくりょうガリツィア[83]。ロシア帝国ていこくとオーストリア=ハンガリー帝国ていこく敵国てきこく同士どうしとなったため、ロシア国籍こくせきのレーニンは逮捕たいほされ、すこしのあいだ収監しゅうかんされた[84]釈放しゃくほう、レーニン夫妻ふさいはベルンにもど[85]、1916ねん2がつにはチューリヒきょうつした[86]。レーニンはドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうだいインターナショナルのシュトゥットガルト決議けつぎ社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう戦争せんそう反対はんたいすることを義務付ぎむづけていた)にはんし、自国じこく戦争せんそう遂行すいこう支持しじしたことにいかり、だいインターナショナルは消滅しょうめつしたものとみなした[87]。その社会しゃかい主義しゅぎしゃによる1915ねん9がつツィンマーヴァルト会議かいぎと1916ねん4がつキーンタール会議かいぎ出席しゅっせき[88]ぜんヨーロッパでこの「帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう」を、プロレタリアートが貴族きぞく階級かいきゅう・ブルジョワ階級かいきゅうかう「内乱ないらん」へと転化てんかするよう、各国かっこく社会しゃかい主義しゅぎしゃびかけた[89]

1916ねん7がつには『資本しほん主義しゅぎ最高さいこう段階だんかいとしての帝国ていこく主義しゅぎ帝国ていこく主義しゅぎろん)』の執筆しっぴつ完了かんりょうした[32]よく1917ねんの9がつ出版しゅっぱんされたこの著作ちょさくでレーニンは、帝国ていこく主義しゅぎ資本しほんによる利益りえき追求ついきゅう結果けっかとしてしょうじる国家こっか独占どくせん資本しほん主義しゅぎ産物さんぶつであるとろんじた。そのうえで、競争きょうそう衝突しょうとつ今後こんごもエスカレートし、大国たいこくあいだ戦争せんそう帝国ていこく主義しゅぎ政権せいけんがプロレタリア革命かくめいによって打倒だとうされ、社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつされるまで継続けいぞくすると予想よそうした[90]おなじ7がつにはははマリアがペトログラードで死去しきょしたが、レーニンは葬儀そうぎ参列さんれつすることができなかった[91][32]はははレーニンを意気いき消沈しょうちんさせ、みずからもプロレタリア革命かくめい目撃もくげきするまえぬことになるのではないかという恐怖きょうふいだかせた[92]

がつ革命かくめい・ロシアへの帰国きこくよんがつテーゼの発表はっぴょう

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レーニンがスイスのチューリッヒからロシアのペトログラードへと帰還きかんするさい利用りようしたルート(あかせん)。ドイツ帝国ていこくりょう通過つうかするさいには、列車れっしゃはなれることやドイツ市民しみんとの接触せっしょくゆるされない「封印ふういん列車れっしゃ」が使用しようされた[93]
レーニンによるよんがつテーゼ草稿そうこう

1917ねん2がつがつ革命かくめい首都しゅとペトログラード開戦かいせんにサンクトペテルブルクから改称かいしょうされた)で勃発ぼっぱつし、ロシア皇帝こうていニコライ2せい退位たいいした。権力けんりょく掌握しょうあくした国家こっかドゥーマによってロシア臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつされ、ロシア帝国ていこくは「ロシア共和きょうわこく」へと改革かいかくされた[94]。スイスでがつ革命かくめいについてらされたレーニンは、はん体制たいせい活動かつどうらととも革命かくめい発生はっせいいわった[95]。レーニンはボリシェヴィキを指導しどうするためロシアに帰国きこくする意思いしかためたが、戦争せんそうによりほとんどの帰国きこくルートは封鎖ふうさされており、唯一ゆいいつ方法ほうほうはドイツ帝国ていこく国土こくど通過つうかすることだった。ドイツ政府せいふはレーニンのようなはん体制たいせい分子ぶんし敵国てきこくロシアに混乱こんらんをもたらすと判断はんだんし、かれとそのつまふくむ32めいのロシアじん封印ふういん列車れっしゃロシアばんみ、ドイツ領内りょうない通過つうかして母国ぼこくへとかうことを許可きょかした[96]。レーニンらのいちぎょう封印ふういん列車れっしゃでチューリヒからドイツのザスニッツ英語えいごばん移動いどうしたのち、スウェーデンを経由けいゆしてヘルシンキへとかい、そこからペトログラードきの最後さいご列車れっしゃんだ[97]

1917ねん4がつ、ペトログラードのフィンリャンツキーえき到着とうちゃくしたレーニンは、ボリシェヴィキの支持しじしゃらにけて演説えんぜつおこない、ロシア臨時りんじ政府せいふきびしく批判ひはんするとともに、ぜんヨーロッパでのプロレタリア革命かくめいという主張しゅちょうかえした[98][32]。その数日すうじつあいだにはボリシェヴィキのしょ会議かいぎ出席しゅっせきしてメンシェヴィキとの融和ゆうわ主張しゅちょうする党員とういん譴責けんせきするとともに、スイスからのたび途中とちゅうげた『よんがつテーゼ』をとう綱領こうりょうあんとして発表はっぴょうした[99]。レーニンは権勢けんせいあるペトログラード・ソビエト英語えいごばん支配しはいしているメンシェヴィキと社会しゃかい革命かくめいとうがロシア臨時りんじ政府せいふ協力きょうりょくしていることを非難ひなんし、両者りょうしゃ社会しゃかい主義しゅぎへの裏切うらぎものとして糾弾きゅうだんした。そして、臨時りんじ政府せいふはツァーリの政府せいふどう程度ていど帝国ていこく主義しゅぎてきであると定義ていぎし、プロレタリア政権せいけん樹立じゅりつして社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいかうための手段しゅだんとして、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時そくじ和平わへいソビエトへの権力けんりょく集中しゅうちゅう産業さんぎょう銀行ぎんこう国有こくゆう国家こっかによる土地とち収用しゅうようなどを提唱ていしょうした。対照たいしょうてきに、メンシェヴィキはロシアがまだ社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかい移行いこうする段階だんかいたっしていないとかんがえており、レーニンは誕生たんじょうしたばかりのしん共和きょうわこく内戦ないせんへとみちびこうとこころみていると批判ひはんした[100]

1917ねん7がつ、ペトログラードでこったはんロシア臨時りんじ政府せいふのデモ(なながつ蜂起ほうき

その数カ月すうかげつあいだ、レーニンはみずからの綱領こうりょうひろめるための運動うんどうはげみ、ボリシェヴィキ中央ちゅうおう委員いいんかいしょ会議かいぎ出席しゅっせきし、とう機関きかんプラウダ』におお寄稿きこうする一方いっぽうで、労働ろうどうしゃ兵士へいし農民のうみんからの支持しじるため、ペトログラードのまちちゅう大衆たいしゅうけた演説えんぜつおこなった[101]とくに、ソビエトへの権力けんりょく集中しゅうちゅう要求ようきゅうは「すべての権力けんりょくをソビエトへ」のスローガンとともに喧伝けんでんされた。のちにレーニンは、このスローガンが「我々われわれによって広範こうはん一般いっぱん大衆たいしゅう意識いしきけられ」、じゅうがつ革命かくめいにおけるボリシェヴィキの勝利しょうり容易よういにしたと述懐じゅっかいしている[102]

1917ねん7がつ、ペトログラードで兵士へいしたちによるはんロシア臨時りんじ政府せいふ武装ぶそうデモ(なながつ蜂起ほうき)が発生はっせいしたが、その武装ぶそうデモにかかわるボリシェヴィキの求心力きゅうしんりょく低下ていかねらった臨時りんじ政府せいふは、「レーニンはドイツのスパイである」との情報じょうほう新聞しんぶんしゃやペトログラード駐留ちゅうりゅう部隊ぶたいたいして流出りゅうしゅつさせた[103]結果けっかとして、レーニンおよびボリシェヴィキの支持しじ急落きゅうらくし、武装ぶそうデモに参加さんかした部隊ぶたい臨時りんじ政府せいふがわ部隊ぶたい次々つぎつぎ武装ぶそう解除かいじょされ、武装ぶそうデモは鎮圧ちんあつされた[104]臨時りんじ政府せいふはレーニンとのボリシェヴィキ幹部かんぶ逮捕たいほれいはっしたが[105]、レーニンは逮捕たいほのがれ、ペトログラード市内しないおおくのかく転々てんてんとしつつ潜伏せんぷくした[106]

臨時りんじ政府せいふ殺害さつがいされることをおそれたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフ変装へんそうしてペトログラードから逃走とうそうし、ラズリーフ英語えいごばん周辺しゅうへん拠点きょてんうつした[107]。レーニンは逃亡とうぼう成功せいこうしたものの、臨時りんじ政府せいふによりおおくのボリシェヴィキ幹部かんぶ逮捕たいほされ、ボリシェヴィキの勢力せいりょく一時いちじてきおおきく後退こうたいすることになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家こっか革命かくめい』として出版しゅっぱんされるほん執筆しっぴつ開始かいしした[108]同書どうしょではみずからの国家こっかかん提示ていじし、プロレタリア革命かくめい社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか発展はってんすることでいずれ国家こっか消滅しょうめつし、純粋じゅんすい共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかいのこすのみとなる過程かていについてろんじた[108]。このころ、レーニンはボリシェヴィキが武装ぶそう蜂起ほうきこして臨時りんじ政府せいふ転覆てんぷくすることを主張しゅちょうはじめたが、秘密裏ひみつりひらかれたとう中央ちゅうおう委員いいんかいでレーニンの提案ていあん退しりぞけられた[109]。その列車れっしゃ徒歩とほでフィンランドにかい、8がつ10日とおかにはヘルシンキに到着とうちゃくし、当地とうちではボリシェヴィキ支持しじしゃ所有しょゆうするかく潜伏せんぷくした[110]

じゅうがつ革命かくめいによる権力けんりょく掌握しょうあく

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スモーリヌイ学院がくいんまえつレーニンの肖像しょうぞうイサーク・ブロツキー英語えいごばんさく

レーニンがフィンランドにた1917ねん8がつ、ロシア共和きょうわ国軍こくぐん最高さいこうそう司令しれいかんラーヴル・コルニーロフ軍事ぐんじクーデターをこころみ、首都しゅとペトログラードに指揮しき部隊ぶたい進軍しんぐんさせた。ロシア臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょうアレクサンドル・ケレンスキーは(ボリシェヴィキをふくむ)ペトログラード・ソビエトに支援しえん要請ようせいし、首都しゅと防衛ぼうえいのためボリシェヴィキが労働ろうどうしゃ武装ぶそうし「あかまもるたい英語えいごばん」として組織そしきすることを容認ようにんした。コルニーロフの反乱はんらんはペトログラードに到達とうたつするまえ鎮圧ちんあつされたが、一連いちれん出来事できごとはボリシェヴィキを政治せいじおもて舞台ぶたいへと復帰ふっきさせた[111]。また、社会しゃかい主義しゅぎ敵視てきしする右派うはによるはん革命かくめいうごきをおそれたメンシェヴィキと社会しゃかい革命かくめいとう臨時りんじ政府せいふ圧力あつりょくをかけ、ボリシェヴィキとの関係かんけい正常せいじょうさせた[112]。その臨時りんじ政府せいふ逮捕たいほされていたとう幹部かんぶ釈放しゃくほうおうじたため、ボリシェヴィキの党勢とうせい急速きゅうそく挽回ばんかいすることが出来できた。メンシェヴィキと社会しゃかい革命かくめいとう人気にんきのない戦争せんそう継続けいぞくするロシア臨時りんじ政府せいふとの協力きょうりょく関係かんけいによって大衆たいしゅうからの支持しじうしなっており、ボリシェヴィキはそれにじょうじて支持しじ拡大かくだいし、やがてボリシェヴィキマルクス主義まるくすしゅぎしゃレフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長ぎちょう選出せんしゅつされた[113]。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ろうどうソビエトで過半数かはんすう支持しじ獲得かくとくした[114]

1917ねん10がつ、レーニンはペトログラードへともどった[32]。ペトログラードとモスクワのりょう都市とし多数たすうめることに成功せいこうしたことをけ、レーニンは武装ぶそう蜂起ほうきによる権力けんりょく奪取だっしゅをボリシェヴィキない主張しゅちょうし、反対はんたいするジノヴィエフとカーメネフを批判ひはんした[115]。また、トロツキーがソビエト大会たいかいにあわせた蜂起ほうき主張しゅちょうしたことについても、絶好ぜっこうのチャンスをのがしてしまうことをおそれ、ボリシェヴィキ単独たんどくでの即時そくじ蜂起ほうき主張しゅちょうした[116]。10月11にち夜明よあまえ、ボリシェヴィキ中央ちゅうおう委員いいんかい投票とうひょうおこなわれ、10たい2でレーニンが主張しゅちょうする武装ぶそう蜂起ほうき決行けっこう採択さいたくされた[117]。ボリシェヴィキは武装ぶそう蜂起ほうき計画けいかく着手ちゃくしゅし、10月24にちにはペトログラードのスモーリヌイ学院がくいん英語えいごばん会議かいぎひらき、最終さいしゅうてきわせをおこなった[118]。スモーリヌイ学院がくいんはボリシェヴィキに忠実ちゅうじつ軍事ぐんじ機関きかんである「軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかい英語えいごばん」の本拠ほんきょとして使つかわれていた[119]

10月24にちよる軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかい指揮しきへいあかまもるたい命令めいれい[120]、ペトログラード市内しないおも輸送ゆそう機関きかん通信つうしん機関きかん印刷いんさつ機関きかん公共こうきょう公益こうえき設備せつび制圧せいあつするよう指示しじした[121]。ボリシェヴィキの軍勢ぐんぜい無血むけつ目標もくひょう達成たっせいすることに成功せいこう[121]つづいて臨時りんじ政府せいふかれているふゆ宮殿きゅうでん包囲ほういした。ボリシェヴィキ水兵すいへい巡洋艦じゅんようかんアヴローラ」が宮殿きゅうでんへの砲撃ほうげき実行じっこうしたのちふゆみや制圧せいあつされ、臨時りんじ政府せいふ閣僚かくりょう逮捕たいほされた[122]。この武装ぶそう蜂起ほうき最中さいちゅう、レーニンはペトログラード・ソビエトにけて演説えんぜつおこない、ロシア臨時りんじ政府せいふ打倒うちたおされたと宣言せんげんした[123]

権力けんりょく獲得かくとく以降いこう

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人民じんみん委員いいん会議かいぎ発足ほっそく憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい解散かいさん

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人民じんみん委員いいん会議かいぎのメンバー

じゅうがつ革命かくめい、ボリシェヴィキはあらたな行政府ぎょうせいふとして 「人民じんみん委員いいん会議かいぎ」を設立せつりつした。当初とうしょレーニンは人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょうへの就任しゅうにん固辞こじし、議長ぎちょうしょくにはトロツキーを推薦すいせんしたが、党員とういんからのつよ要請ようせいにより最終さいしゅうてき議長ぎちょう就任しゅうにんれた[124]。レーニンらボリシェヴィキ幹部かんぶは1917ねん10がつ26にちから27にち(ロシアれき)にかけ開催かいさいされただい2かいぜんロシア・ソビエト大会たいかい英語えいごばん出席しゅっせきし、しん政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげんしたが、大会たいかい参加さんかしたメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力けんりょく奪取だっしゅ違法いほうであり内戦ないせん危険きけんをもたらすものであるとして非難ひなんした[125]。この当時とうじ、レーニンをふくおおくのボリシェヴィキはプロレタリア革命かくめいぜんヨーロッパへの波及はきゅう目前もくぜんせまっているとかんがえていた[126]

ペトログラードのタヴリーダ宮殿きゅうでん開催かいさいされたぜんロシア憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい(1918ねん1がつ

ボリシェヴィキによって転覆てんぷくされたロシア臨時りんじ政府せいふは、将来しょうらいてき選挙せんきょによってぜんロシア憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい英語えいごばん開催かいさいされるまでの暫定ざんてい政権せいけんとして発足ほっそくしていた[127]当初とうしょ、ボリシェヴィキは憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい構想こうそう尊重そんちょうしており、レーニンが首班しゅはんつとめる人民じんみん委員いいん会議かいぎ憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいひらかれるまでのあたらしい暫定ざんてい政権せいけんとされていた[128]臨時りんじ政府せいふは1917ねん11月にぜんロシア憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい選挙せんきょ英語えいごばん実施じっし約束やくそくしていたが、レーニンはこの選挙せんきょでボリシェヴィキが勝利しょうりすることはないと予想よそうし、実施じっし延期えんきとう提案ていあんした[129]。しかし、人民じんみん委員いいん会議かいぎはレーニンの反対はんたいして予定よていどおりに選挙せんきょおこなうことを決定けっていした[130]。11月に選挙せんきょ実施じっしされるとだいいちとう得票とくひょうりつ40パーセント社会しゃかい革命かくめいとうとなり、一方いっぽうでボリシェヴィキの得票とくひょうりつは24パーセントにとどまった[131]。レーニンはこの選挙せんきょについて、有権者ゆうけんしゃにボリシェヴィキの政策せいさく十分じゅうぶん理解りかいする時間じかんあたえられず、また候補者こうほしゃリストが社会しゃかい革命かくめいとう右派うは左派さは分裂ぶんれつする以前いぜん作成さくせいされたことで、人民じんみん意志いしただしく反映はんえいされなかったと主張しゅちょうした[132]

1918ねん1がつあらたにえらばれたぜんロシア憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいがペトログラードで開会かいかいされたが[133]出席しゅっせきしたレーニンらボリシェヴィキはこの議会ぎかいがソビエトから権力けんりょくうばうことを企図きとしておりはん革命かくめいてきであると主張しゅちょうした[134]。メンシェヴィキと社会しゃかい革命かくめい党員とういんはそれを否定ひていしたが[134]、ボリシェヴィキは議会ぎかいからほとんどの法的ほうてき権力けんりょく剥奪はくだつする動議どうぎ提出ていしゅつし、それが議会ぎかいによって却下きゃっかされると、はん革命かくめいてき性質せいしつ証明しょうめいされたとして憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい強制きょうせいてき解散かいさんさせた[135]


各種かくしゅ改革かいかく実施じっし

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すべての労働ろうどうしゃ兵士へいし農民のうみん諸君しょくん。ソビエト政権せいけんぜん交戦こうせんこくたいして民主みんしゅてき講和こうわを、ぜん戦線せんせんにおいて即時そくじ休戦きゅうせんただちに提起ていきする。地主じぬし皇室こうしつ修道院しゅうどういん土地とちをすべて農民のうみん委員いいんかい無償むしょうわたすことを保障ほしょうする。軍隊ぐんたい完全かんぜん民主みんしゅ実行じっこうし、兵士へいし権利けんり保護ほごする。産業さんぎょうにおける労働ろうどうしゃ統制とうせい確立かくりつする。憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい期日きじつどおりに招集しょうしゅうすることを約束やくそくする。都市としにはパンを、むらには必需ひつじゅひん供給きょうきゅうする。そして、ロシアに居住きょじゅうするぜん民族みんぞく民族みんぞく自決じけつけん保証ほしょうする。……革命かくめいまんさい
―レーニン、1917ねん10がつ[136]

レーニンのしん政府せいふ発足ほっそくただちに一連いちれん布告ふこくはっした。「平和へいわかんする布告ふこく」は、だいいち世界せかい大戦たいせん交戦こうせんこくたいして「併合へいごう賠償ばいしょう民族みんぞく自決じけつ」の講和こうわ提議ていぎした[137]。「土地とちかんする布告ふこく」では、貴族きぞく正教会せいきょうかい所有しょゆう国有こくゆうし、地方ちほう行政ぎょうせい機関きかんつうじて農民のうみんさい分配ぶんぱいすると宣言せんげんした。これは農業のうぎょう集団しゅうだん希望きぼうするレーニンの意向いこうはんしていたが、すでに蔓延まんえんしていた農民のうみんによる土地とち接収せっしゅう国家こっかてき承認しょうにんあたえるものであった[138]。「言論げんろんかんする布告ふこく」は、ボリシェヴィキに反対はんたいする報道ほうどう機関きかんおおくをはん革命かくめいであるとして廃止はいしさせたが、これは報道ほうどう自由じゆう侵害しんがいするものとして広範こうはん批判ひはんこし、批判ひはんしゃには多数たすうのボリシェヴィキ党員とういんふくまれていた[139]。さらにべつ布告ふこく人民じんみん委員いいん会議かいぎ従来じゅうらいのロシアのほう制度せいどはいすることを宣言せんげんし、廃止はいしされた法律ほうりつわって「革命かくめいてき良心りょうしん」をもちいることをびかけた[140]旧来きゅうらい裁判所さいばんしょは、はん革命かくめい犯罪はんざいせんもんあつかう「革命かくめい裁判所さいばんしょ英語えいごばん」と、その犯罪はんざいあつかう「人民じんみん裁判所さいばんしょ」のじゅうのシステムにえられ[141]裁判所さいばんしょ既存きそん法律ほうりつ無視むしし、人民じんみん委員いいん会議かいぎ布告ふこくと「社会しゃかい主義しゅぎてき正義せいぎかん」にもとづいて裁定さいていくだすよう指導しどうされた[142]

レーニンは1917ねん10がつ布告ふこくでロシアのぜん労働ろうどうしゃ労働ろうどう時間じかんを1にちあたり8あいだ制限せいげんしたほか[143]、ロシアのすべての子供こども対象たいしょうとした無料むりょう普通ふつう教育きょういく公的こうてき約束やくそくされることをさだめた[143]。さらにべつ布告ふこくでは国営こくえい孤児こじいん制度せいど創設そうせつされた[144]強硬きょうこうかみろんしゃであるレーニンとそのとう組織そしきてき宗教しゅうきょう解体かいたいのぞんでおり[145]しん政府せいふ1918ねん1がつ布告ふこく教会きょうかい国家こっか分離ぶんり宣言せんげんするとともに、学校がっこうにおける宗教しゅうきょうてき教育きょういく禁止きんしした[146]。レーニン政権せいけんで、ロシアは妊娠にんしん初期しょきにおけるにん意思いしによる中絶ちゅうぜつ合法ごうほうした世界せかい最初さいしょくにとなった[147]。また、男女だんじょ同権どうけん理念りねんのもと女性じょせい解放かいほうすすめるためのあらたな法律ほうりつ制定せいていされ、既婚きこん女性じょせいおっとからの経済けいざいてき自律じりつせいみとめられ、離婚りこんかんしての各種かくしゅ制限せいげん撤廃てっぱいされた[148]

1917ねん11月、レーニンは「ロシアしょ民族みんぞく権利けんり宣言せんげん英語えいごばん」をはっし、ロシア共和きょうわ国内こくない居住きょじゅうするロシア民族みんぞくは、ロシアによる支配しはいから離脱りだつし、独自どくじ民族みんぞく国家こっか建設けんせつする権利けんりゆうすると宣言せんげんした[149]。この宣言せんげん、1917ねん12月にフィンランドリトアニアが、1918ねん1がつウクライナラトビアが、1918ねん2がつエストニアが、1918ねん4がつザカフカースが、1918ねん11月にポーランドがそれぞれ独立どくりつ宣言せんげんした[150]。しかし実際じっさいには、レーニンらボリシェヴィキ首脳しゅのうきゅうロシア帝国ていこくりょう喪失そうしつ黙認もくにんせず、分離ぶんり独立どくりつうごきの背後はいごには「はん革命かくめい勢力せいりょく」が存在そんざいするとして反発はんぱつした[151]。ロシアからの独立どくりつ宣言せんげんしたウクライナ人民じんみん共和きょうわこくたいしてボリシェヴィキは、アントノフ・オフセエンコ (Vladimir Antonov-Ovseenko) ひきいる3まんぐんでウクライナに侵攻しんこうし、ソビエト・ウクライナ戦争せんそう勃発ぼっぱつした[152]

レーニンひきいるボリシェヴィキは権力けんりょく掌握しょうあくした直後ちょくご産業さんぎょう運輸うんゆ銀行ぎんこう国有こくゆう宣言せんげんし、だい企業きぎょうは1918ねん6がつまでにすべ国有こくゆうされた[153]民間みんかん銀行ぎんこうおさむおおやけされて国立こくりつ銀行ぎんこう統合とうごう人民じんみん銀行ぎんこうしょうされるようになった[153]。また、レーニンの政府せいふ革命かくめい以前いぜんのロシア政府せいふ発行はっこうした一切いっさい国債こくさい償還しょうかん拒否きょひし、1918ねん1がつにデフォルトを宣言せんげんした[154]。 また、レーニンのしん政府せいふさきのロシア政府せいふ締結ていけつした各種かくしゅ条約じょうやく継承けいしょうしないと宣言せんげんした。また秘密ひみつ外交がいこう廃止はいし主張しゅちょうし、サイクス・ピコ協定きょうていにち協約きょうやくなどのさきのロシア政府せいふ各国かっこく締結ていけつした秘密ひみつ条約じょうやく秘密ひみつ協定きょうてい暴露ばくろおこなった[155]

憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい開催かいさい先立さきだつ1918ねん1がつ1にち[注釈ちゅうしゃく 5]、レーニンはペトログラードの馬術ばじゅつ学校がっこうでの演説えんぜつえた帰途きと車中しゃちゅうすうにんおとこから発砲はっぽうされたが、同乗どうじょうしていたフリッツ・プラッテン英語えいごばんたてとなりていして銃弾じゅうだんけたことで負傷ふしょうまぬかれた[156]捜査そうさによってレーニンの暗殺あんさつこころみたのはおう党派とうはであったことが判明はんめいしたが、人民じんみん委員いいん会議かいぎはボリシェヴィキと敵対てきたいするほか社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとうにテロ行為こうい加担かたん容疑ようぎをかけた[157]

1918ねん3がつ、ボリシェヴィキはとう正式せいしきめい従来じゅうらいの「ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう」から「ロシア共産党きょうさんとう(ボリシェヴィキ)」へと改称かいしょうしたが[158]、これは修正しゅうせい主義しゅぎてき傾向けいこうつよめるドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう距離きょりき、同時どうじ共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかいというとう最終さいしゅう目的もくてき強調きょうちょうすることをのぞむレーニンの意向いこう反映はんえいしたものだった[159]同月どうげつ、ペトログラードがドイツぐんおびやかされることへの懸念けねんから、ボリシェヴィキは政府せいふをモスクワに移転いてんした(当初とうしょ移転いてん一時いちじてき処置しょちとなる予定よていだった)[160]。それにともない、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導しどうしゃもモスクワのクレムリンきょうつしたが[161]、レーニンはペトログラードにくらべて西欧せいおうされておらず、伝統でんとうてきロシアのいろいモスクワをきらった[162]

1918ねん7がつだい5かいぜんロシア・ソビエト大会たいかいロシアばん英語えいごばんにおいてあたらしいソビエト憲法けんぽうロシアばん英語えいごばん制定せいてい承認しょうにんされ、ロシア共和きょうわこくは「ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく」へとあらためられた[163]。また、国家こっか近代きんだい目的もくてきとして、ロシアの従来じゅうらいこよみであるユリウスれき使用しよう廃止はいしされ、のヨーロッパ諸国しょこく同様どうようグレゴリオれきえられた[164]

1920ねんにレーニンは、ぜん国土こくど電化でんか推進すいしんによって社会しゃかい問題もんだい解決かいけつできるとして、いわゆるゴエルロ計画けいかく立案りつあんし、委員いいんかい設立せつりつされた。「共産きょうさん主義しゅぎとはソビエト政府せいふ、プラス、ぜん国土こくど電化でんかである[165]」とするレーニンの言葉ことばひろられる。レーニンはぜん国土こくど電化でんかによって「地方ちほう文化ぶんかレベルをげ、くにちゅうどんな遠隔えんかくだったとしても、後進こうしんせい無知むち貧困ひんこん病気びょうき、そして野蛮やばん克服こくふくできるようになる」[166]とした。

ブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつ

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1917ねん12月、ブレスト=リトフスク休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういんするドイツとロシアの代表だいひょうだん

権力けんりょくたレーニンは、政権せいけんにとって緊急きんきゅう課題かだいドイツ帝国ていこくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく中心ちゅうしんとする中央ちゅうおう同盟どうめいこく講和こうわむすび、だいいち世界せかい大戦たいせんから離脱りだつすることであると認識にんしきしていた[167]。レーニン政権せいけんは1917ねん11月の「平和へいわかんする布告ふこく」のなかでドイツおよびオーストリア=ハンガリーのりょう政府せいふたいして3カ月かげつ休戦きゅうせん提案ていあんした[168]。これを西部せいぶ戦線せんせん集中しゅうちゅうする好機こうきとらえたドイツ政府せいふ前向まえむきな反応はんのうしめ[169]、12月には休戦きゅうせん協定きょうてい交渉こうしょうがドイツぐん東部とうぶ戦線せんせん司令しれいかれるブレスト=リトフスクはじまり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェによってひきいられるロシアがわ代表だいひょうだん到着とうちゃくした[170]もなく1918ねん1がつまでの休戦きゅうせん協定きょうてい合意ごういされたが[171]、その和平わへい交渉こうしょうでドイツがわはポーランド、リトアニア、クールラントなど戦争せんそうちゅう獲得かくとくした領土りょうど維持いじ要求ようきゅうし、ロシアがわはその要求ようきゅう民族みんぞく自決じけつけん侵害しんがいであると抗議こうぎした[172]。この時期じき、ボリシェヴィキの一部いちぶ交渉こうしょう長引ながびかせることでプロレタリア革命かくめいがヨーロッパ全域ぜんいきこるまで時間じかんかせぐことをのぞんでいた[173]一方いっぽうで、ニコライ・ブハーリンのような強硬きょうこうのボリシェヴィキ指導しどうしゃはドイツで革命かくめい誘発ゆうはつする手段しゅだんとして戦争せんそう継続けいぞく主張しゅちょうしていた。1918ねん1がつ7にち、トロツキーが中央ちゅうおう同盟どうめいこくからの最後さいご通牒つうちょうたずさえてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還きかんし、ボリシェヴィキはドイツによる領土りょうどてき要求ようきゅう受諾じゅだく戦争せんそう再開さいかいかの選択せんたくせまられた[174]

ブレスト=リトフスク条約じょうやくによってロシアが喪失そうしつした領土りょうど着色ちゃくしょく)。

1918ねん1がつから2がつにかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権せいけん存続そんぞく確実かくじつにできるならば領土りょうど喪失そうしつ容認ようにん可能かのうであり、ドイツがわ要求ようきゅうれるべきであると主張しゅちょうした。だい多数たすうのボリシェヴィキはレーニンの提言ていげん拒絶きょぜつし、ドイツのおどしをはったりと休戦きゅうせんばすことをのぞんだ[175]

1918ねん1がつ27にちには、中央ちゅうおう同盟どうめいこくウクライナ人民じんみん共和きょうわこく講和こうわむすび、はんボリシェヴィキ共同きょうどう戦線せんせんることに合意ごういしたほか[152]、2がつ18にちにはドイツぐんファウストシュラーク作戦さくせん発動はつどうしてロシアに攻勢こうせい仕掛しかけ、作戦さくせん初日しょにちドヴィンスク占領せんりょうするなど支配しはい領域りょういき拡大かくだいした[176]。この状況じょうきょう、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央ちゅうおう委員いいんかい過半数かはんすう説得せっとくすることに成功せいこうし、中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわ要求ようきゅう受諾じゅだくすることが決定けっていされた[177]。2月23にち中央ちゅうおう同盟どうめいこくあらたな最後さいご通帳つうちょうはっし、ポーランドとバルトさんこくくわえウクライナもドイツの影響えいきょう衛星えいせいこく)になることをみとめるか、ドイツぐんによる本格ほんかくてき侵攻しんこう直面ちょくめんするかの選択せんたくをボリシェヴィキにせまった[178]

1918ねん3がつ3にち中央ちゅうおう同盟どうめいこくとの講和こうわ条約じょうやくであるブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつされた[179]。この条約じょうやく結果けっかとしてロシアがわうしなった領土りょうど甚大じんだいであり、きゅうロシア帝国ていこく人口じんこうの26パーセント、農業のうぎょう収穫しゅうかく面積めんせきの37パーセント、産業さんぎょうの28パーセント、てつ石炭せきたん埋蔵まいぞうりょうの4ぶんの3がドイツ帝国ていこくわたされることとなった[180]。したがって、この条約じょうやくはロシア国内こくないのあらゆる政党せいとうきわめて不評ふひょうであり[181]一部いちぶのボリシェヴィキは条約じょうやく締結ていけつへの抗議こうぎとして人民じんみん委員いいん会議かいぎ離脱りだつした[182]。また、当時とうじボリシェヴィキと連立れんりつ政権せいけんんでいた左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう左翼さよくエスエル)は政権せいけんから離脱りだつし、同年どうねん7がつ6にちちゅうドイツ大使たいしヴィルヘルム・フォン・ミルバッハドイツばん暗殺あんさつ皮切かわきりにはんボリシェヴィキ運動うんどうこした。

ブレスト=リトフスク条約じょうやく調印ちょういん中央ちゅうおう同盟どうめいこく敗戦はいせんふせぐにはいたらず、1918ねん11月にはドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい退陣たいじんし、あらたに発足ほっそくしたしんドイツ政府せいふ連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうていむすんだ。これをけて、ボリシェヴィキ政府せいふ人民じんみん委員いいん会議かいぎ)はブレスト=リトフスク条約じょうやく無効むこう宣言せんげんした[183]

チェーカーの創設そうせつはん富農ふのう運動うんどう赤色あかいろテロ

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1917ねん12月、レーニンははんボリシェヴィキ勢力せいりょくによる政権せいけん転覆てんぷく防止ぼうしするため、フェリックス・ジェルジンスキーひきいる秘密ひみつ警察けいさつ組織そしきはん革命かくめい・サボタージュ取締とりしまぜんロシア非常ひじょう委員いいんかい(ВЧК、通称つうしょうチェーカー)」の創設そうせつめいじた[184]。レーニンはきゅう体制たいせい転覆てんぷくし、革命かくめい成功せいこう確実かくじつにするには恐怖きょうふ暴力ぼうりょく不可欠ふかけつであると提唱ていしょうしており[185]死刑しけい撤廃てっぱい提案ていあんにもつよ反対はんたいした[186]

同志どうし諸君しょくん!5つの富農ふのう地区ちくにおける蜂起ほうき容赦ようしゃなく制圧せいあつされなければならない。革命かくめい全体ぜんたい利益りえきがそれを必要ひつようとしている。いま富農ふのうとの「最後さいご決戦けっせん」がいたところ進行しんこうしているからだ。手本てほんしめさなければならない。
  1. 最低さいていでも100にんれた富農ふのう金持かねもち、搾取さくしゅものしばくびにせよ(かなら大衆たいしゅう面前めんぜんしばくびにすること)。
  2. かれらの名前なまえ公表こうひょうせよ。
  3. かれらの穀物こくもつをすべて没収ぼっしゅうせよ。
  4. 昨日きのう電報でんぽうしたがって人質ひとじち指名しめいせよ。
周囲しゅういなんひゃくキロもの人々ひとびとて、ふるえ、さとり、さけぶような方法ほうほう実行じっこうせよ。をすする富農ふのうどもが我々われわれころされており、今後こんごころされるのだと。
—レーニン、1918ねん8がつ[187]

1918ねん初頭しょとうまでに、ロシア西部せいぶ都市としおおくでは慢性まんせいてき食糧しょくりょう不足ふそくによる飢饉ききん発生はっせいしていた[188]。レーニンは、富農ふのう(クラーク)生産せいさんした穀物こくもつひそかに備蓄びちくしていることがその原因げんいんであるとし、1918ねん5がつには徴発ちょうはつれいはっして富農ふのうから穀物こくもつ没収ぼっしゅうするための武装ぶそう分遣ぶんけんたい組織そしきし、6がつには徴発ちょうはつたすける目的もくてきで「貧農ひんのう委員いいんかい英語えいごばん」の結成けっせいめいじた[189]武装ぶそう分遣ぶんけんたいによる強制きょうせいてき穀物こくもつ徴発ちょうはつは、それに反発はんぱつする農民のうみんとの武力ぶりょく衝突しょうとつなど、おおきな社会しゃかいてき混乱こんらん暴力ぼうりょくをもたらし、ロシア内戦ないせん勃発ぼっぱつする背景はいけいのひとつとなった[190]。この問題もんだいたいする当時とうじのレーニンの見解けんかいしめ顕著けんちょいちれいペンザ同志どうしてた1918ねん8がつ電報でんぽうであり、そのなかでレーニンは、農民のうみん反乱はんらん抑制よくせいするためのせしめとして「最低さいていでも100にん」の富農ふのうなどの公開こうかい処刑しょけいめいじていた[191]

1918ねん8がつ30にち、モスクワでレーニンはふたた暗殺あんさつ未遂みすいい、工場こうじょうでの演説えんぜつえた帰途きとじゅうたれ重傷じゅうしょうった[192]。レーニンはくび銃弾じゅうだんけて大量たいりょう出血しゅっけつし、一時いちじ生死せいしさかい彷徨ほうこうったが、その急速きゅうそく回復かいふくした[193]実行じっこうはんとして現場げんば逮捕たいほされ、9月3にち処刑しょけいされた社会しゃかい革命かくめいとういんファニィ・カプランロシアばん英語えいごばんは、ぜんロシア憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい解散かいさんさせ、またブレスト=リトフスク条約じょうやくむすんだレーニンをばっすることが動機どうきであったとべた[194][注釈ちゅうしゃく 6]。この暗殺あんさつ未遂みすいはロシアでひろ報道ほうどうされ、同情どうじょうけたレーニンへの支持しじたかまった[196]。1918ねん9がつ、レーニンは静養せいようのためモスクワ近郊きんこうゴールキ邸宅ていたくうつされた[197]

モスクワでの赤軍せきぐんによるパレードの視察しさつえ、つまともくるまるレーニン (1918ねん5がつ

レーニンが暗殺あんさつ未遂みすいによって重傷じゅうしょうったことは、同日どうじつ発生はっせいしたチェーカー指導しどうしゃモイセイ・ウリツキー暗殺あんさつ事件じけんとともに、ボリシェヴィキが「階級かいきゅうてき」にたいするだい規模きぼ暴力ぼうりょく行使こうし発動はつどうする契機けいきとなった[198]。レーニン暗殺あんさつ未遂みすい直後ちょくご、ペトログラードのチェーカーはけい512めい帝政ていせい関係かんけいしゃ処刑しょけい執行しっこうし、5000にん以上いじょうの「ブルジョアジーの代表だいひょうしゃ」を逮捕たいほした[198]。1918ねん9がつ5にち人民じんみん委員いいん会議かいぎは「赤色あかいろテロかんする布告ふこく」をはっし、チェーカーによって組織そしきてきおこなわれるだい規模きぼテロの開始かいし宣言せんげんした[198]赤色あかいろテロによる犠牲ぎせいしゃ大半たいはんがブルジョアジーかきゅう帝国ていこく政府せいふ関係かんけいしゃであったが[199]はんボリシェヴィキのブルジョワジーや社会しゃかいてきのぞましくないと做された売春ばいしゅんのような人々ひとびとふくまれていた[200]。チェーカーはそれが政府せいふてき做すあらゆる人間にんげん死刑しけいをいいわたし、けい執行しっこうする権限けんげんあたえられており、革命かくめい裁判所さいばんしょたよ必要ひつようもなかったため[201]、ソビエト・ロシア各地かくちでしばしばだい規模きぼ処刑しょけい実行じっこうされることとなった[202]赤色あかいろテロによる正確せいかく犠牲ぎせいしゃすうしめ記録きろく現存げんそんしていないが[203]、のちに歴史れきし推定すいていした死者ししゃすうには1まんにん – 1まん5000にん[204]とするものや5まんにん – 14まんにんとするものがある[205]。このような暴力ぼうりょく行使こうしにレーニンがったことや直接的ちょくせつてき参加さんかしたことはなく[206]公的こうてきには暴力ぼうりょくから距離きょりたもっていた[207]。レーニンは機密きみつ文書ぶんしょ暗号あんごうされた電報でんぽうなか頻繁ひんぱん処刑しょけい執行しっこう要求ようきゅうしたが、公表こうひょうされる文書ぶんしょ演説えんぜつなか要求ようきゅうすることはほとんどなかった[208]

1918ねん8がつ、レーニンおよびトロツキーは恒常こうじょうてき強制きょうせい収容しゅうようしょ創設そうせつめいじた[209]。1918ねん9がつ赤色あかいろテロにかんする布告ふこくにより、「階級かいきゅうてき」が強制きょうせい収容しゅうようしょ隔離かくりされることがさだめられた[209]。その、1919ねん4がつ布告ふこくによって各地かくちにチェーカーが管理かんりする強制きょうせい収容しゅうようしょ設立せつりつされ[210]、のちに収容しゅうようしょ管理かんりになせんもん政府せいふ機関きかんグラーグ」が創設そうせつされた[211]。1920ねんまつ時点じてんで、ソビエト・ロシアには84の収容しゅうようしょやく5まんにん収容しゅうようしゃ存在そんざいしたが、1923ねん10がつには収容しゅうようしょかずは315となり、収容しゅうようしゃやく7まんにん増加ぞうかした[212]。これらの収容しゅうようしゃ強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじさせられていた[213]


ロシア内戦ないせんとポーランド・ソビエト戦争せんそう

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しろぐんによるはんボリシェヴィキのプロパガンダようポスター。あかいローブをまつわったレーニンが、擬人ぎじんされたロシアをのボリシェヴィキとともにマルクスぞうへの生贄いけにえとしてささげる様子ようすえがかれている (1918–1919ねんごろ)

レーニンは、ロシアの貴族きぞく階級かいきゅうとブルジョワ階級かいきゅうみずからの政権せいけん敵対てきたいすることは予想よそうしていたが、すうてき優位ゆうい下層かそう階級かいきゅうをボリシェヴィキが有効ゆうこう組織そしきすることにより、いかなるこうそうでもすみやかに勝利しょうりすることが可能かのうであるとかんがえており[214]、ボリシェヴィキによる支配しはいたいして実際じっさいしょうじた抵抗ていこうはげしさを予期よきしていなかった[214]じゅうがつ革命かくめい勃発ぼっぱつしたロシア内戦ないせんは、ボリシェヴィキ赤軍せきぐんはんボリシェヴィキしろぐんとのあいだ戦争せんそうであっただけでなく、ロシア国境こっきょう地帯ちたいにおける民族みんぞくあいだ紛争ふんそうをも包含ほうがんするものであり、またきゅうロシア帝国ていこくりょう全域ぜんいき農民のうみん中心ちゅうしんとしたみどりぐん赤軍せきぐんしろぐん両者りょうしゃ敵対てきたいした[215]

しろぐんきゅうロシア帝国ていこくぐん将校しょうこうにより組織そしきされ[216]、ロシア南部なんぶ拠点きょてんとするアントーン・デニーキン義勇軍ぎゆうぐん[217]、シベリアを拠点きょてんとするアレクサンドル・コルチャークぐん[218]あらたに独立どくりつ獲得かくとくしたバルト諸国しょこく拠点きょてんニコライ・ユデーニチぐんなどによって構成こうせいされた[219]しろぐんは、1918ねん5がつチェコ軍団ぐんだんがボリシェヴィキにたいして反乱はんらんこし、そのはんボリシェヴィキ政府せいふである「憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい議員ぎいん委員いいんかい(コムーチ)」と同盟どうめいむすんだことで鼓舞こぶされた[220]社会しゃかい革命かくめい党員とういんによって1918ねん6がつサマーラ結成けっせいされたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制きょうせいてき解散かいさんさせられた憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいかんし、みずからがロシアの正当せいとう政府せいふであると主張しゅちょうした。さらにしろぐんは、ブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつ裏切うらぎ行為こういとらえ、またボリシェヴィキが提唱ていしょうする世界せかい革命かくめい勃発ぼっぱつおそれる連合れんごうこくしょ政府せいふから支援しえんけた

1918ねん7がつもとロシア皇帝こうていニコライ2せい一家いっか進撃しんげきちゅうしろぐん救出きゅうしゅつされることをふせぐため、エカテリンブルク一家いっか処刑しょけい実行じっこうされたことが、ヤーコフ・スヴェルドロフによって人民じんみん委員いいん会議かいぎ報告ほうこくされた[221]一部いちぶ歴史れきしおよび伝記でんき作家さっかリチャード・パイプスドミトリー・ヴォルコゴーノフなど)は、証拠しょうこ存在そんざいしないものの、処刑しょけい実行じっこうがレーニンによって認可にんかされていた可能かのうせいたかいとの見解けんかいしめしている[222]反対はんたいに、ジェームズ・ライアンのような歴史れきしはそのような見解けんかいしんじるべき理由りゆうはないと警告けいこくしている[223]処刑しょけい認可にんかしたかかにかかわらず、レーニンはフランス革命かくめいにおけるルイ16せい処刑しょけいいにし、もとロシア皇帝こうてい一家いっか殺害さつがい必要ひつよう不可欠ふかけつなものであったと評価ひょうかした[224]

モスクワ・あか広場ひろばあるくレーニンらボリシェヴィキ指導しどうしゃ(1919ねんがつ

ブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつ左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう連立れんりつ政権せいけんから離脱りだつし、ボリシェヴィキは革命かくめい裏切うらぎものであるとの見方みかたつよめていった[225]。1918ねん7がつ左翼さよく社会しゃかい革命かくめい党員とういんヤーコフ・ブリュムキン英語えいごばんちゅうドイツ大使たいしヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺あんさつしたが、その動機どうき大使たいし暗殺あんさつによってこされる外交がいこう問題もんだいがドイツ帝国ていこくたいする革命かくめい戦争せんそう再開さいかいにつながるとの希望きぼうであった[226]。その左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとうはモスクワでクーデターをこし、クレムリンを砲撃ほうげきし、モスクワ中央ちゅうおう郵便ゆうびんきょく占拠せんきょしたが、最終さいしゅうてきにトロツキーがひきいる軍勢ぐんぜいによって制圧せいあつされた[227]左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう指導しどうしゃ党員とういんおおくは逮捕たいほ収監しゅうかんされたが、はんボリシェヴィキ勢力せいりょく比較ひかくしてより寛大かんだいあつかいをけた[228]

1919ねんまでに、しろぐんは3方面ほうめんすべての前線ぜんせん劣勢れっせいいやられ、1920ねんむかえるころには赤軍せきぐんへの敗北はいぼく確定かくていてきとなった[229]。ボリシェヴィキはしろぐん勝利しょうりしたものの、そのあいだおおくのロシアけい民族みんぞく混乱こんらんじょうじて国家こっかてき独立どくりつすすめたため、ロシアの領土りょうど範囲はんい縮小しゅくしょうしていた[230]北東ほくとうヨーロッパ諸国しょこく(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランドとう)の場合ばあいなどには、ソビエト政府せいふはその独立どくりつ承認しょうにんしたうえで、それぞれと平和へいわ条約じょうやく締結ていけつしたが[231]、その分離ぶんり独立どくりつ運動うんどう赤軍せきぐんによって鎮圧ちんあつされた[232]赤軍せきぐんは1921ねんまでにウクライナの民族みんぞく運動うんどう制圧せいあつし、またコーカサスを占領せんりょうしたが、中央ちゅうおうアジアでの戦闘せんとうは1920年代ねんだいまつまで継続けいぞくした[232]

ドイツぐん連合れんごうこくとの休戦きゅうせん協定きょうていむす東部とうぶ前線ぜんせんから撤退てったいしたのち空白くうはくとなった地域ちいきウクライナベラルーシなど)には赤軍せきぐんとポーランドぐん両者りょうしゃ進出しんしゅつした[233]あらたに独立どくりつ獲得かくとくしたポーランドはソビエト政府せいふおなじくこの地域ちいきでの領土りょうど獲得かくとくのぞんでおり[234]、1919ねん2がつにはポーランドぐん赤軍せきぐんあいだ最初さいしょ衝突しょうとつ発生はっせい[235]両者りょうしゃあらそいはポーランド・ソビエト戦争せんそうへと発展はってんした[236]。ソビエト政府せいふがそれまでに経験けいけんしたこうそうとはことなり、ポーランドとの戦争せんそう革命かくめい国外こくがいへの輸出ゆしゅつおよびヨーロッパの未来みらいたいしておおきな意味合いみあいをっていた[237]。ポーランドはウクライナにぐん展開てんかいし、いち赤軍せきぐんおさえたキエフを、ウクライナのディレクトーリヤぐん合同ごうどうして、1920ねん5がつまでに占領せんりょうしていた[注釈ちゅうしゃく 7]キーウ攻勢こうせいウクライナばん英語えいごばん[238]。ポーランド赤軍せきぐんがポーランドぐんをウクライナから撤退てったいさせることに成功せいこうしたのち、レーニンは赤軍せきぐんによるポーランド本国ほんごくへの侵攻しんこう要求ようきゅうした。レーニンは、侵攻しんこう実行じっこうすればポーランドのプロレタリアートは赤軍せきぐんたすけるために反乱はんらんこし、それがぜんヨーロッパてき革命かくめい勃発ぼっぱつ導火どうかせんとなることをしんじていた[239]。トロツキーらのボリシェヴィキはレーニンの予想よそう懐疑かいぎてきであったものの、ポーランド侵攻しんこうには同意どういした[239]結果けっかてきに、ポーランドのプロレタリアートが反乱はんらんこすことはなく、赤軍せきぐんワルシャワのたたかでポーランドぐん敗北はいぼくきっした[239]。ポーランドぐんによって赤軍せきぐんがロシアまでかえされると、ソビエト政府せいふ和平わへい模索もさくし、ポーランドにウクライナベラルーシ領土りょうど一部いちぶ割譲かつじょうすることをみとめたリガ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつによって戦争せんそう終結しゅうけつした[240]

コミンテルンの創設そうせつ

[編集へんしゅう]
演説えんぜつおこなうレーニン(1920ねん5がつ
しんレーニンのプロパガンダポスター(1920ねん)。同志どうしレーニンが地球ちきゅうじょうのブルジョア(王侯おうこう貴族きぞく聖職せいしょくしゃ資本しほん)を一掃いっそうするとしている。

西部せいぶ戦線せんせん休戦きゅうせん協定きょうていむすばれたのち、レーニンはヨーロッパ諸国しょこく革命かくめいこるのはいま時間じかん問題もんだいであるとかんがえた[241]革命かくめい促進そくしんするため、人民じんみん委員いいん会議かいぎは1919ねん3がつクン・ベーラによるハンガリーの共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつ支援しえんし、それにつづいてバイエルンでも社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつされ、ドイツの地域ちいきでも(1がつスパルタクスだん武装ぶそう蜂起ほうきふくむ)社会しゃかい主義しゅぎしゃによる革命かくめいてき蜂起ほうき続発ぞくはつしていた[242]。1919ねん3がつにはモスクワで国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎ組織そしきコミンテルン」の創立そうりつ大会たいかい開催かいさいされ、レーニンはその開会かいかい演説えんぜつおこなった[243][32]大会たいかい期間きかんちゅう、レーニンは参加さんか各国かっこく代表だいひょうだんけて、修正しゅうせい主義しゅぎてきマルクス主義まるくすしゅぎしゃ信奉しんぽうする議会ぎかい主義しゅぎきびしく批判ひはんし、ヨーロッパのブルジョワ政権せいけん暴力ぼうりょくてき手段しゅだんによって転覆てんぷくするようあらためてびかけた[244]。コミンテルンの初代しょだい議長ぎちょうにはジノヴィエフが就任しゅうにんしたが、レーニンはこの組織そしきたいする重大じゅうだい影響えいきょうりょくたもつづけた[245]

1920ねん7がつ、ペトログラードのスモーリヌイ学院がくいん英語えいごばんだい2かいコミンテルン大会たいかい開会かいかい[246]大会たいかいちゅうレーニンは各国かっこく代表だいひょうだんにボリシェヴィキによる権力けんりょく奪取だっしゅ再現さいげんするよう激励げきれいするとともに、社会しゃかい進化しんか過程かていにおいて資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい段階だんかい不可避ふかひとするみずからの長年ながねん見解けんかい段階だんかい革命かくめいろん)をて、植民しょくみん支配しはい地域ちいきからの代表だいひょうだんたい資本しほん主義しゅぎ段階だんかいばしてそれぞれの社会しゃかい直接ちょくせつ社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいへと変革へんかくするよううったえかけた[247]。レーニンはこの大会たいかいのために『共産きょうさん主義しゅぎにおける左翼さよく小児しょうにびょう』をあらわし、イギリスおよびドイツの共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとうられる、各々おのおのくに議会ぎかい制度せいど労働ろうどう組合くみあいへの参加さんか拒否きょひする態度たいど批判ひはんし、革命かくめいてき目標もくひょう達成たっせいするためそのような行動こうどうあらためるよう要求ようきゅうした[248]最終さいしゅうてきに、レーニンが予想よそうした世界せかい革命かくめい勃発ぼっぱつ実現じつげんせず、ハンガリーの共産きょうさん主義しゅぎ政府せいふたおされ、ドイツのマルクス主義まるくすしゅぎしゃによる蜂起ほうき鎮圧ちんあつされた[249]

飢饉ききんしん経済けいざい政策せいさく導入どうにゅう宗教しゅうきょう弾圧だんあつ

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旱魃かんばつ(かんばつ)を一因いちいんとする1921ねんから1922ねんにかけてのロシア飢饉ききんは、1891ねん - 1892ねん以来いらい深刻しんこく飢饉ききんであり[250]ヴォルガかわ流域りゅういき中心ちゅうしんに1000まんにん単位たんい飢餓きがせんじょうにおかれ、死者ししゃは150まんにん - 200まんにん[251]、または、やく500まんにんにのぼったともされる[252]。レーニンひきいるボリシェヴィキ政府せいふおこなった強制きょうせいてき食糧しょくりょう徴発ちょうはつおよび、外貨がいか獲得かくとくのための大量たいりょう穀物こくもつ国外こくがい輸出ゆしゅつ飢餓きが輸出ゆしゅつ)は、この飢饉ききん拍車はくしゃをかけた[253]飢饉ききんによる被害ひがいしゃ救援きゅうえんするため、アメリカ政府せいふ救済きゅうさい管理かんりきょく英語えいごばん設立せつりつし、食糧しょくりょう支援しえんおこなったが[254]、レーニンはこの支援しえんうたがいのけ、注意深ちゅういぶかかんした[255]

1921ねん - 1922ねんのロシア飢饉ききんによる犠牲ぎせいしゃ山積やまづみにされた遺体いたい

1920ねんから1921ねんにかけ、食糧しょくりょう徴発ちょうはつたいする地方ちほう抵抗ていこう運動うんどうはんボリシェヴィキをかかげる農民のうみん反乱はんらんへと発展はってんする事例じれいが、ロシア各地かくちおよび、赤軍せきぐんおさえていたウクライナ占領せんりょう発生はっせいしたが、いずれも政府せいふによって鎮圧ちんあつされた[256]。レーニンは国内こくない飢餓きが救済きゅうさいのため、穀倉こくそう地帯ちたいであるウクライナ占領せんりょうでも穀物こくもつ徴発ちょうはつめいじており、ヴォルガ地方ちほう、モスクワ、ペトログラードへ輸送ゆそうされた。これによりウクライナも飢饉ききん見舞みまわれていたが、被害ひがいがさらに拡大かくだいしていた[257]

1921ねん2がつ、ペトログラードの労働ろうどうしゃがストライキを決行けっこうしたため、政府せいふ戒厳かいげんれいき、デモを鎮圧ちんあつするため赤軍せきぐん派遣はけんした[258]。3月には、クロンシュタット水兵すいへい出版しゅっぱん集会しゅうかい自由じゆう農民のうみんからの食糧しょくりょう徴発ちょうはつ停止ていしなどをもとめてボリシェヴィキ政府せいふたいする反乱はんらんこしたが、レーニンは反乱はんらんへい社会しゃかい革命かくめいとうおよび外国がいこく帝国ていこく主義しゅぎしゃによって煽動せんどうされていると宣言せんげんし、暴力ぼうりょくてき報復ほうふく措置そち要求ようきゅうした[259]。トロツキーが指揮しきする赤軍せきぐん反乱はんらんを3がつ17にちまでに鎮圧ちんあつしたが、その過程かていすうせんにん死者ししゃし、生存せいぞんしゃ強制きょうせい労働ろうどう収容しゅうようしょ抑留よくりゅうされることとなった[260]

1921ねん2がつ、レーニンはとう政治せいじきょくたいして「しん経済けいざい政策せいさく(NEP、ネップ)」を提出ていしゅつし、ボリシェヴィキ幹部かんぶ大半たいはんにその必要ひつようせい納得なっとくさせたうえで、4がつには法律ほうりつとして通過つうかさせた[261]。レーニンは『食糧しょくりょうぜいについて』とだいするしょう冊子さっしなかしん経済けいざい政策せいさく解説かいせつし、ネップの施行しこうはボリシェヴィキが本来ほんらい経済けいざい計画けいかくへと復帰ふっきしたことをしめすものであり、これまで政府せいふは「戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ」という経済けいざい政策せいさく内戦ないせんによっていられていたと主張しゅちょうした[注釈ちゅうしゃく 8][264]。ネップにおいて、ソビエト政府せいふ戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ時代じだい(1918ねん - 1921ねん)に実施じっしされた産業さんぎょう完全かんぜん国有こくゆう部分ぶぶんてき撤回てっかいし、私人しじん中小ちゅうしょう規模きぼ事業じぎょういとなむことをみとめた(だい規模きぼ産業さんぎょう銀行ぎんこう外国がいこく貿易ぼうえきなどはつづ国家こっか統制とうせいかれた)[265][266]。さらに農民のうみんからの強制きょうせいてき穀物こくもつ徴発ちょうはつ (Prodrazvyorstka) が廃止はいしされ、農産物のうさんぶつ現物げんぶつというかたち支払しはらあらたなぜい (Prodnalog) が導入どうにゅうされた[265][267]。また、ぜいおさめたのちのこりは市場いちば自由じゆう処分しょぶんすることをみとめた[268]。レーニンはネップを「国家こっか資本しほん主義しゅぎ」と表現ひょうげん[269]、ロシアの現状げんじょうでは国家こっか資本しほん主義しゅぎいち前進ぜんしんだと主張しゅちょうしたが[270]おおくのボリシェヴィキはこのような政策せいさく社会しゃかい主義しゅぎ原理げんりへの背信はいしんであるとかんがえた[271]

レーニンの経済けいざい政策せいさく穀物こくもつ強制きょうせい徴発ちょうはつ産業さんぎょう国有こくゆうとう)で、ロシアはハイパーインフレにおちいり、ルーブルの価値かち戦前せんぜんの500おくぶんの1になった[154]ソビエト初期しょきのハイパーインフレーション英語えいごばん参照さんしょう)。経済けいざい学者がくしゃジョン・メイナード・ケインズによれば、レーニンはこのインフレについて「資本しほん主義しゅぎ破壊はかいする最善さいぜん方法ほうほうは、通貨つうか堕落だらくさせることだ。政府せいふはインフレを継続けいぞくすることで、ひそかに、づかれることなく、国民こくみんとみのうち、かなりの部分ぶぶん没収ぼっしゅうできる。」とべたという[272]。そのルーブルは、1924ねん4がつまでに3かいのデノミがおこなわれ、インフレは沈静ちんせいした[154]

ボリシェヴィキによる教会きょうかい財産ざいさん接収せっしゅうイワン・ウラジミーロフロシアばんさく

飢饉ききんさいし、ロシア正教会せいきょうかい救済きゅうさい活動かつどううごいた[251]。モスクワそう主教しゅきょうであるティーホンは、正教会せいきょうかいたいして飢餓きがみん救済きゅうさいのため必要ひつよう物品ぶっぴん売却ばいきゃくするようびかけ、当初とうしょはソビエト政府せいふもこの活動かつどう支持しじしたが[273]、レーニンは1922ねん2がつ飢餓きが対策たいさくとして教会きょうかい財産ざいさん没収ぼっしゅうしたうえ海外かいがい売却ばいきゃくすべきととう政治せいじきょくたいして提案ていあんした[251]同月どうげつ、ソビエト政府せいふ弾圧だんあつてんじ、教会きょうかいによる援助えんじょ禁止きんし[274][251]、さらに宗教しゅうきょう施設しせつ所有しょゆうするぜん財産ざいさん貴重きちょうひん没収ぼっしゅう売却ばいきゃくめいじた[275]。これにたいしティーホンは、必要ひつようなものは寄付きふするが、礼拝れいはいのために必要ひつよう貴重きちょうひんうばるのはかみへの冒涜ぼうとくであるとボリシェヴィキを批判ひはんした。両者りょうしゃ関係かんけい極度きょくど悪化あっかした[276]ほかにもおおくの聖職せいしょくしゃ政府せいふによる接収せっしゅう抵抗ていこうした、暴力ぼうりょくてき衝突しょうとつがもたらされた[277]1922ねん3月、イワノボ・ボズネセンスクけんシューヤ政府せいふによる教会きょうかい財産ざいさん接収せっしゅうたいする発砲はっぽう事件じけんシューヤ発砲はっぽう事件じけんロシアばん)が発生はっせいすると、レーニンはこの事件じけん教会きょうかい上層じょうそうによって指導しどうされたものとなし、また直接的ちょくせつてき弾圧だんあつ実行じっこうする機会きかいとらえた[278]シューヤ発砲はっぽう事件じけんたいして、ルイコフ・カリーニンが農民のうみんとの宥和ゆうわ主張しゅちょうしたのにたいして、レーニン、スターリン、トロツキーは聖職せいしょくしゃ銃殺じゅうさつ主張しゅちょうした[251]。レーニンは3月19にち、シューヤだけでなくモスクワなどかく都市とし正教会せいきょうかい指導しどうしゃ逮捕たいほ[注釈ちゅうしゃく 9]裁判さいばんにかけるべきであるととう政治せいじきょく文書ぶんしょつたえ「このころせる反動はんどうてき聖職せいしょくしゃ反動はんどうてきブルジョワの代表だいひょうしゃおおければおおいほどよい。いまがまさに、あのものたちに今後こんごすうじゅう年間ねんかん抵抗ていこうかんがえるきないほどの教訓きょうくんあたえるべきときである」と宣言せんげんした[278]。1922ねん5がつ、レーニンははんボリシェヴィキの聖職せいしょくしゃ処刑しょけいめいじる布告ふこくはっし、その結果けっかとして8000にん(8100にん[251])以上いじょう聖職せいしょくしゃ処刑しょけいされ殺害さつがいされた[274]殺害さつがいされた聖職せいしょくしゃは1まん4000にん – 2まんにんにのぼるとする研究けんきゅうもある[279]

まさに現在げんざい飢饉ききん地域ちいきひとべられ、とおりでなんせんでないとしてもなんひゃく屍体したいよこたわっているいまだからこそ、犯罪はんざいてき抵抗ていこう弾圧だんあつするのを躊躇ちゅうちょすることなく、もっとも苛烈かれつ容赦ようしゃのないエネルギーでわれわれは教会きょうかい貴重きちょうひん収用しゅうようおこなうことができる(そのため、そうしなければならない)。
—レーニン、1922ねん3がつ[276]

1922ねんの3がつはじまった教会きょうかい財産ざいさん強制きょうせい収用しゅうようは、ぐん秘密ひみつ警察けいさつ動員どういんしておこなわれたが、収用しゅうよう活動かつどう自体じたい莫大ばくだい費用ひようがかかり、財政ざいせいてき成果せいか想定そうてい下回したまわった[280]。また、接収せっしゅうした教会きょうかい財産ざいさん貴重きちょうひんるい)を換金かんきんしてられたざいおおくは、飢饉ききん救済きゅうさいのためにてられることはなく、とうとソビエトかく機関きかん強化きょうかのための資金しきん流用りゅうようされた[280]。また、おおきな救済きゅうさい能力のうりょくゆうする教会きょうかいたいするレーニン政権せいけん敵対てきたいてき対応たいおうは、飢饉ききんによる犠牲ぎせいしゃ拡大かくだいさせた[276]

こうした教会きょうかい弾圧だんあつ要因よういんとして、レーニンがかみろんしゃであり、教会きょうかい共産党きょうさんとう権力けんりょくへの対抗たいこう拠点きょてんになることをおそれたことがある[251]。レーニンは、党員とういん正教会せいきょうかい信者しんじゃにも棄教を要求ようきゅう[251]信教しんきょう自由じゆう一切いっさいみとめなかった。もっとおおきな被害ひがいけたのはロシア正教会せいきょうかいであったが、レーニン政権せいけん宗教しゅうきょう弾圧だんあつカトリックプロテスタント教会きょうかいユダヤきょうのシナゴーグ、イスラム教いすらむきょうのモスクなどにも打撃だげきあたえた[281]

健康けんこう悪化あっか・スターリンとの対立たいりつソ連それん形成けいせいとグルジア問題もんだい

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レーニンの健康けんこう状態じょうたい1921ねん後半こうはんまでにいちじるしく悪化あっかし、聴覚ちょうかく過敏かびん不眠ふみん慢性まんせいてき頭痛ずつうなどの症状しょうじょうなやまされるようになった[282]。1921ねん7がつとう政治せいじきょく要求ようきゅうにより、モスクワをはなれてゴールキの邸宅ていたくでの1カ月かげつあいだ静養せいようはいった[283]。レーニンは自殺じさつかんがはじめ、つまのクルプスカヤとスターリンの両者りょうしゃ自殺じさつよう青酸せいさんカリを入手にゅうしゅするよう依頼いらいした[284]晩年ばんねんのレーニンの治療ちりょうのためやとわれた医師いしは26にんにのぼり、多額たがく報酬ほうしゅうまねかれたかれらのおおくは外国がいこくじんだった[285][注釈ちゅうしゃく 10]一部いちぶ医師いしは、病因びょういんが1918ねん暗殺あんさつ未遂みすいから体内たいないのこ銃弾じゅうだん金属きんぞく酸化さんかである可能かのうせい指摘してきし、1922ねん4がつには銃弾じゅうだん体内たいないからのぞ手術しゅじゅつおこなわれた[287]。1922ねん5がつ、レーニンは最初さいしょ脳卒中のうそっちゅう発作ほっさこし、一時いちじてき会話かいわ能力のうりょく喪失そうしつみぎ半身はんしん麻痺まひしょうじた[288]。そのはゴールキで療養りょうようし、7がつまでにほぼ回復かいふくした[289]。10月にはモスクワにもどったが、12月に2度目どめ発作ほっさこし、ふたたびゴールキでの静養せいよう生活せいかつはいった[290]

レーニンは晩年ばんねん大半たいはんをゴールキの邸宅ていたくごした。
レーニンとナデジダ・クルプスカヤ(1922ねん

病状びょうじょう悪化あっかしていたものの、レーニンは政治せいじてき動向どうこうつよ関心かんしんつづけた。1922ねん6がつ - 8がつおこなわれた裁判さいばんにおいて社会しゃかい革命かくめいとう指導しどうしゃらがソビエト政府せいふへの謀反むほんくわだてたことが認定にんていされると、レーニンは有罪ゆうざいとなったものたちを処刑しょけいするよう要求ようきゅうした(かれらは実際じっさいには期限きげん懲役ちょうえきけいしょされたが、のちにスターリンの指導しどうおこなわれただい粛清しゅくせいによって処刑しょけいされた)[291]。レーニンは帝政ていせい時代じだい官僚かんりょう体制たいせいがソビエト・ロシアにがれていることに懸念けねんいており[292]晩年ばんねんにはとくにそのおもいをつよめた[293]

病気びょうき療養りょうようちゅうのレーニンのところにスターリンが見舞みまいにおとずれたさい撮影さつえいされたとする写真しゃしん真贋しんがん諸説しょせつあり)

レーニンが不在ふざいあいだ、スターリンはみずからの支持しじしゃ要職ようしょく任命にんめいするとともに、自身じしんはレーニンにもっとちかしい盟友めいゆうであり、その後継こうけいしゃにふさわしい人物じんぶつとのイメージをきずくことで権力けんりょく基盤きばんかたはじめていた[294][295]。スターリンは1922ねん12月にとう政治せいじきょくによってレーニンの治療ちりょう計画けいかく責任せきにんしゃ任命にんめいされ、かれ他者たしゃ面会めんかいすることを監督かんとくする役割やくわりあたえられたが[296]実際じっさいにはこの時期じき両者りょうしゃ関係かんけい悪化あっかした。1922ねんなかば、レーニンが外国がいこく貿易ぼうえき国家こっか独占どくせん維持いじすべきと主張しゅちょうしたのにたいし、スターリンはのボリシェヴィキをひきいてそれに反対はんたいすることをこころみたため、レーニンはスターリンにたいして次第しだい批判ひはんてきになった[297]。1922ねんまつにはスターリンがクルプスカヤ(レーニンのつま)を電話でんわでの会話かいわちゅう面罵めんばし、それに激怒げきどしたレーニンが不快ふかいかんあらわした手紙てがみをスターリンにおくりつけるなど、両者りょうしゃには私的してき衝突しょうとつもあった[298]

レーニンとスターリンの最大さいだい政治せいじてき対立たいりつは「グルジア問題もんだい」をめぐって発生はっせいした。1921ねん2がつグルジア社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこく成立せいりつして以来いらい、ロシア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいがグルジアをアゼルバイジャンアルメニアとともにザカフカース連邦れんぽうとして構成こうせいしようとする計画けいかくすすめたのにたいし、グルジア共産党きょうさんとうがグルジアの独立どくりつせい主張しゅちょうして抵抗ていこうしていた。1922ねんなつ、スターリンはグルジアをはじめウクライナベラルーシ、アゼルバイジャン、アルメニアのかくソビエト共和きょうわこくロシア・ソビエト共和きょうわこくうちの「自治じち共和きょうわこく」として再編さいへんするという「自治じちあん提示ていじした[299]。レーニンはこれをスターリンとその支持しじしゃらによるだいロシア排外はいがい主義しゅぎあらわれであると批判ひはんし、代案だいあんとしてロシアがグルジアなどとともによりおおきな1つの連邦れんぽう国家こっか構成こうせいすることをもとめ、そのような国家こっか名称めいしょうとして「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和きょうわこく連邦れんぽう」を提示ていじした[300]。スターリンはレーニンの「民族みんぞく自由じゆう主義しゅぎ」に不満ふまんべたが、代案だいあんれ、同年どうねん10がつのロシア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいではレーニンあんにそった決議けつぎ通過つうかさせた[301]。ただし、スターリンはレーニンの同意どういうえしん国家こっか名称めいしょうを「ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう(ソビエト連邦れんぽう)」へと変更へんこうさせた[302]。1922ねん12月30にちしん国家こっか形成けいせいソビエト大会たいかいによって正式せいしき承認しょうにんされ、ソビエト連邦れんぽう以下いかソ連それん)が成立せいりつした[303]。レーニンは病床びょうしょうにあったが、新設しんせつされたソ連それん行政府ぎょうせいふソ連それん人民じんみん委員いいん会議かいぎ)の議長ぎちょう任命にんめいされた[304]。こうして1922ねんまでに共産党きょうさんとうきゅうロシア帝国ていこく版図はんとさい統合とうごう意図いとし、一度いちど分離ぶんりみとめたウクライナベラルーシザカフカース赤軍せきぐん進出しんしゅつし、共産党きょうさんとう政権せいけん成立せいりつした[251]

他方たほう、グルジアでは、ザカフカーズ連邦れんぽうつうじてソ連それん加入かにゅうすることになっていたため反対はんたい運動うんどう継続けいぞくするなか、ロシア共産党きょうさんとうグリゴリー・オルジョニキーゼ独立どくりつのグルジア共産きょうさん党員とういん殴打おうだする事件じけんきた。病床びょうしょうにあったレーニンはこれを重大じゅうだいなこととめ、オルジョニキーゼやそのうしろだてとなっていたスターリンを非難ひなんした[305]。レーニンはグルジアのナショナリズムを是認ぜにんしなかったが、それを抑圧よくあつするだいロシア排外はいがい主義しゅぎはよりおおきな問題もんだいであるとかんがえていた[305]

1922ねん12月から1923ねん1がつにかけ、レーニンは同志どうしのボリシェヴィキ、とくにトロツキーとスターリンの個人こじんてき資質ししつについてろんじた、いわゆる「レーニンの遺書いしょ英語えいごばんロシアばん」を口述こうじゅつ筆記ひっきさせた[306]。レーニンはこの文書ぶんしょなかで、スターリンはとう書記しょきちょうとして適格てきかくであり、その地位ちいから解任かいにんされるべきと[307]、トロツキーについては「現在げんざいとう中央ちゅうおう委員いいんかいにおいてもっと有能ゆうのうおとこ」と評価ひょうかする一方いっぽうで、自己じこ過信かしんし、過度かど行政ぎょうせいてき傾向けいこうがあることを批判ひはんした[308]1923ねん3がつにはトロツキーにグルジア問題もんだいへのみを依頼いらいし(トロツキーは病気びょうき理由りゆう拒否きょひ)、その翌日よくじつにはグルジアの反対はんたいけて「あなたがたのためにおぼきと演説えんぜつ準備じゅんびちゅうです」という手紙てがみ口述こうじゅつした[305]。しかし3がつ10日とおか発作ほっさおそわれてみぎ半身はんしん麻痺まひし、会話かいわ能力のうりょくとも筆記ひっき能力のうりょくうしなった[309]

葬儀そうぎ

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1923ねんなつ右手みぎて後遺症こういしょうのために内側うちがわがっている
レーニンの葬儀そうぎえがいた1925ねん作品さくひん(イサーク・ブロツキーさく

1923ねん3がつ、レーニンは3度目どめ脳卒中のうそっちゅう発作ほっさ見舞みまわれ、発話はつわ能力のうりょくうしなった[310]同月どうげつにはみぎ半身はんしん部分ぶぶん麻痺まひと、みみいた言葉ことば理解りかい支障ししょうをきたす感覚かんかくせい失語しつご英語えいごばん症状しょうじょうあらわれた[311]。その、5がつまでにゆるやかな回復かいふくきざしをせ、運動うんどう発話はつわ筆記ひっき能力のうりょく一部いちぶもど[312]、10月にはクレムリンへの生前せいぜん最後さいご訪問ほうもんおこなった[313]最期さいごすう週間しゅうかん、レーニンは同志どうしであるジノヴィエフカーメネフブハーリン訪問ほうもんけ、なかでもブハーリンはレーニンの当日とうじつにゴールキの邸宅ていたくおとずれていた[314]

1924ねん1がつ21にち、レーニンは昏睡こんすい状態じょうたいおちいり、そのまま同日どうじつちゅう死亡しぼうした[315]。レーニンの公式こうしき死因しいんは「血管けっかん不治ふじやまい」として記録きろくされた[316]脳神経のうしんけい外科げかオトフリート・フェルスター英語えいごばんらがって翌日よくじつおこなわれた病理びょうり解剖かいぼうでは、椎骨ついこつ動脈どうみゃくのうそこ動脈どうみゃくうち頸動みゃくぜん大脳だいのう動脈どうみゃく頭蓋とうがいないひだり頸動みゃくひだりシルビウス動脈どうみゃく硬化こうか閉塞へいそくみとめられ、左脳さのう大半たいはん壊死えしして空洞くうどうができていた。また、心臓しんぞうなどの循環じゅんかんにもつよ動脈どうみゃく硬化こうか確認かくにんされた[317]歴史れきしドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンのちちイリヤ、あねアンナ、おとうとドミトリーがいずれも脳出血のうしゅっけつにより死去しきょしていることから、レーニンの動脈どうみゃく硬化こうか遺伝いでんせい疾患しっかんであり、権力けんりょく獲得かくとく重圧じゅうあつによるストレスがその悪化あっか拍車はくしゃをかけたと主張しゅちょうしている[318]

同年どうねん1がつ22にち、ソビエト政府せいふはレーニンの公表こうひょうした[319]。23にちには共産党きょうさんとうかく労働ろうどう組合くみあいかくソビエトからの哀悼あいとうしゃがゴールキの邸宅ていたくおとずれ、レーニンの遺体いたいはいったあかかんがボルシェヴィキの指導しどうしゃらによってかつされた[320]。その、レーニンのかんはモスクワまで列車れっしゃ輸送ゆそうされたのち、労働ろうどう組合くみあい会館かいかんロシアばんへとはこばれ、その正装せいそう安置あんち英語えいごばんされた[321]。そのの3日間にちかん、レーニンの遺体いたいるため労働ろうどう組合くみあい会館かいかんには100まんにんちかくの哀悼あいとうしゃおとずれた(そのおおくはきびしいさむさのなかなんあいだれつならんだ)[322]。1月26にち開催かいさいされたぜん連邦れんぽうソビエト大会たいかいではレーニンへの敬意けいいしめされ、スターリン、カリーニン、ジノヴィエフによる演説えんぜつおこなわれた[322]。トロツキーは当時とうじコーカサスで病後びょうご療養りょうようしており、この大会たいかいには出席しゅっせきしなかった。のちにトロツキーは、レーニンの葬儀そうぎについてスターリンがあやまった日付ひづけ電報でんぽうおくったことにより、それにうようモスクワにもどることができなかったと主張しゅちょうした[323]

葬儀そうぎは1924ねん1がつ27にち挙行きょこうされ、レーニンの遺体いたい軍歌ぐんか演奏えんそうされるなかあか広場ひろばまではこばれ、あつまった群衆ぐんしゅうまえ一連いちれん演説えんぜつおこなわれたのち急造きゅうぞうされた仮設かせつびょう安置あんちされた[324][325]葬儀そうぎきびしいさむさのなかおこなわれたが、参列さんれつしゃすうまんにんにのぼった[326]

そのあか広場ひろばには建築けんちくアレクセイ・シューセフ設計せっけいによるあたらしい木造もくぞう霊廟れいびょう建設けんせつされた[325]つまであるクルプスカヤの抗議こうぎにもかかわらず、レーニンの遺体いたい長期間ちょうきかん展示てんじえるよう防腐ぼうふ処理しょりほどこされたうえで、あたらしい霊廟れいびょううつされ、1924ねん8がつから一般いっぱん公開こうかいされた[327][325]防腐ぼうふ処理しょり過程かていのうのぞかれたが、1925ねん研究けんきゅうのため解剖かいぼうされ、その結果けっかレーニンが極度きょくど硬化こうかしょうわずらっていたことが確認かくにんされた[328]。1929ねん7がつ共産党きょうさんとう政治せいじきょく木造もくぞう霊廟れいびょう花崗岩かこうがんみやつこあたらしい霊廟れいびょうえることを決定けっていし、しん霊廟れいびょう建設けんせつは1933ねん完了かんりょうした[329]

だい世界せかい大戦たいせんなかの1941ねんから1945ねんにかけて、レーニンの遺体いたい安全あんぜんのため一時いちじてきチュメニうつされていたが[330]、その期間きかんのぞき、遺体いたいつね霊廟れいびょう(レーニンびょう)で展示てんじされつづけてきた[331]レーニンびょうは2021ねん12月時点じてんでもモスクワ・あか広場ひろば存在そんざいしている[332][注釈ちゅうしゃく 11]

影響えいきょう評価ひょうか

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ソ連それんにおける影響えいきょう

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モスクワ・あか広場ひろばレーニンびょう

ソビエト連邦れんぽうにおいて、レーニンへの個人こじん崇拝すうはい存命ぞんめいからすでにはじまっていたが、本格ほんかくてきにそれが確立かくりつされたのは死後しごにおいてであった[333]歴史れきしのニナ・トゥマーキンによれば、それはアメリカにおけるジョージ・ワシントン個人こじん崇拝すうはい以来いらい、「もっとんだ革命かくめい指導しどうしゃ個人こじん崇拝すうはい」であり[334]、 しばしば「宗教しゅうきょうじみた」性質せいしつ指摘してきされている[335]。レーニンの胸像きょうぞう銅像どうぞうくにちゅうのほぼすべてのむらてられ[336]郵便ゆうびん切手きってやポスター、『プラウダ』と『イズベスチヤ』の1めんなどはレーニンのかおかざられた[337]。レーニンがんだ、もしくは滞在たいざいした場所ばしょかれ記念きねんかん姿すがた[336]おおくの図書館としょかんとおり・農場のうじょう博物館はくぶつかんまち地域ちいきなどがレーニンにちなんだ名前なまえ改名かいめいされた[336]。ペトログラードは1924ねんに「レニングラード」と改名かいめいされ[338][注釈ちゅうしゃく 12]出生しゅっしょうであるシンビルスクは「ウリヤノフスク」にあらためられた[340]。また、ソビエト連邦れんぽうにおける最高さいこう勲章くんしょうとしてレーニン勲章くんしょう設立せつりつされた[337]。これらすべてはレーニン自身じしんのぞみにはんしており、未亡人みぼうじんのクルプスカヤによって公然こうぜん批判ひはんされた[326]おおくの伝記でんき作家さっかが、レーニンの著作ちょさくはソビエト連邦れんぽうにおいて聖書せいしょのようなあつかわれかたをしていたとべており[341]、リチャード・パイプスは「かれ(レーニン)の意見いけんはすべて、ある政策せいさく政策せいさく正当せいとうするために引用いんようされ、福音ふくいんしょのようなあつかいをけていた」と指摘してきしている[342]。レーニンの死後しご、スターリンはとう中央ちゅうおう委員いいんかい決定けっていとして、あらゆるレーニンの著述ちょじゅつ手紙てがみ私的してき性質せいしつのものをふくむ)を収集しゅうしゅうし、マルクス・エンゲルス・レーニン研究所けんきゅうじょうち秘密ひみつ書物しょもつ収蔵しゅうぞうするようめいじた[343]。クラクフのレーニンの蔵書ぞうしょのように、国外こくがい存在そんざいする資料しりょうも、研究所けんきゅうじょ書物しょもつ保管ほかんするため(おおくの場合ばあい多額たがく費用ひようで)収集しゅうしゅうされた[344]ソ連それん時代じだい、レーニンの書物しょもつ厳格げんかく管理かんりされており、アクセスできるものとう幹部かんぶなどごく一部いちぶかぎられていた[345]。レーニンの著述ちょじゅつのうち、スターリンにとって有益ゆうえきなものはすべて出版しゅっぱんされたが、それ以外いがいのものは公表こうひょうのままにされた[346]。スターリン体制たいせい、レーニンはさかんにスターリンの親友しんゆうとして描写びょうしゃされ、 ソビエトの次期じき指導しどうしゃがスターリンとなることを支持しじしていたと主張しゅちょうされた[347]他方たほう、レーニンがロシアけいいていた事実じじつ、および貴族きぞく地位ちいゆうしていた事実じじつ隠蔽いんぺいされ[337]とくにレーニンがユダヤけいいていたことは1980年代ねんだいまで公表こうひょうされなかったが[348]、その理由りゆうソ連それんない存在そんざいしたはんユダヤ主義しゅぎであるとも[349]、それがスターリンによるロシア政策せいさくさまたげとなるためとも[350]国際こくさいてきはんユダヤ主義しゅぎしゃはん感情かんじょう激化げきかさせないようにするためとも指摘してきされている[349]。レーニンがユダヤけいくことがあきらかにされると、この事実じじつはロシアの極右きょくう勢力せいりょくによってかえ強調きょうちょうされ、レーニンが伝統でんとうてきロシア社会しゃかい根絶こんぜつねがったことはユダヤけい遺伝子いでんしによって説明せつめいできるとかれらは主張しゅちょうした[351]

レーニン生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねんして1970ねん鋳造ちゅうぞうされた1ルーブル硬貨こうか

スターリンの死後しごソ連それん指導しどうしゃとなったニキータ・フルシチョフによってスターリンのプロセスが開始かいしされたが、フルシチョフはこのプロセスを正当せいとうするため、レーニンの著述ちょじゅつ(スターリンについてのものをふくむ)を引用いんようした[352]。1985ねんソ連それん指導しどうしゃとなったミハイル・ゴルバチョフが「グラスノスチ」および「ペレストロイカ」の政策せいさく導入どうにゅうしたさいにも、ゴルバチョフはみずからの政策せいさくを「レーニンの原理げんり」への回帰かいき表現ひょうげんした[353]。1991ねんまつソ連それん解体かいたい最中さいちゅう、ロシア大統領だいとうりょうボリス・エリツィンは、レーニンの書物しょもつ共産党きょうさんとう管理かんりから解放かいほうすることをめいじ、その結果けっか6000てん以上いじょうのレーニンによる著述ちょじゅつ公表こうひょうのままにされていたことが発覚はっかくした。それらの文書ぶんしょ機密きみつ指定していからはずされ、 学術がくじゅつてき研究けんきゅう対象たいしょうとして利用りよう可能かのうになった[354]一方いっぽうで、エリツィンはレーニンびょう撤去てっきょしなかった。エリツィンは、撤去てっきょ実行じっこうするにはレーニンはあまりにも一般いっぱん大衆たいしゅうから人気にんき尊敬そんけいあつめていると認識にんしきしていた[355]。レーニンは死後しごソ連それんにおいてつねきわめてたか評価ひょうかされ、死後しご評価ひょうかとしたスターリンと比較ひかくしてはるかに長期間ちょうきかんその名声めいせいたもっていた[356]

2012ねんロシア自由民主党じゆうみんしゅとう議員ぎいんによってロシアからレーニンのモニュメントをすべて撤去てっきょする提案ていあんされたが、この提案ていあんロシア連邦れんぽう共産党きょうさんとうからのもう反対はんたいった[357]同年どうねんには、モンゴルの首都しゅとウランバートルにのこっていた最後さいごのレーニンの銅像どうぞう撤去てっきょされ、そのさい同市どうし市長しちょうはレーニンを「殺人さつじんしゃ」と表現ひょうげんした[358]。2012ねん12月、ロシア大統領だいとうりょうウラジーミル・プーチンはレーニンびょうせい遺物いぶつになぞらえて保存ほぞん主張しゅちょうした[359]。また、2019ねん4がつには現代げんだい政治せいじ問題もんだい研究所けんきゅうじょ所長しょちょうであるアントン・オルロフがロシア中央ちゅうおう選挙せんきょ管理かんり委員いいんかいに、レーニンの遺体いたい埋葬まいそうかんする国民こくみん投票とうひょう実施じっし提案ていあんする書簡しょかんおくったことがほうじられた[360]

ウクライナでは、2013ねん - 2014ねんにかけてのユーロマイダン運動うんどう期間きかんちゅう、デモ参加さんかしゃによって各地かくちのレーニンぞう破壊はかいされた[361]。2015ねん4がつ、ウクライナ政府せいふだつ共産きょうさんほうもとづき、レーニンぞうふくむすべての共産きょうさん主義しゅぎてきモニュメントの撤去てっきょめいじた[362]

国際こくさいてき影響えいきょう

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ソ連それんのプロパガンダにおけるレーニンの横顔よこがお
ユーロマイダンたおされるウクライナ・フメリニツキーのレーニンぞうウクライナのウラジーミル・レーニンぞうこわ参照さんしょう)。ソビエト政権せいけん多数たすう造立ぞうりゅうされたレーニンぞうは、ロシアけい民族みんぞくにとっては、ロシアによる支配しはい象徴しょうちょうともなされている。

レーニンの政権せいけんやく70ねんにわたりロシアを支配しはいすることとなる政体せいたい枠組わくぐみをきずき、それは後発こうはつ共産党きょうさんとう国家こっかにとっての模範もはんともなったため、その影響えいきょうぜん世界せかいおよんでいる[363][364]。20世紀せいきには、レーニンの思想しそうならった社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか世界せかい各地かくち出現しゅつげんした[365]。1972ねん歴史れきしマルセル・リーブマン英語えいごばんは「ラテンアメリカからアンゴラまで、今日きょう世界せかいでレーニン主義しゅぎ継承けいしょう主張しゅちょうしない反乱はんらんてき運動うんどうはほぼ存在そんざいしない」とのこしている[366]

レーニンの死後しご、スターリンの政府せいふマルクス・レーニン主義しゅぎとしてられるイデオロギーを確立かくりつさせたが、このイデオロギーはやがて共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう派閥はばつによって各々おのおのことなる解釈かいしゃく受容じゅようされるようになった[367]。また、マルクス・レーニン主義しゅぎは20世紀せいきあらわれた主要しゅよう革命かくめい運動うんどうおおくに応用おうようされ、毛沢東もうたくとう思想しそう主体しゅたい思想しそうホー・チ・ミン思想しそうカストロ主義しゅぎスターリン主義しゅぎなどの派生はせい思想しそうした[368]。スターリンによって亡命ぼうめい生活せいかつ余儀よぎなくされたトロツキーは、スターリン主義しゅぎとは堕落だらくしたレーニン主義しゅぎであり、それは官僚かんりょう主義しゅぎとスターリンによる個人こじん独裁どくさい主体しゅたいとしたものであると主張しゅちょうした[369]

評価ひょうか

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ひがしベルリンにかつて存在そんざいしたレーニンぞう(1992ねん撤去てっきょ

ドミトリー・ヴォルコゴーノフはレーニンをひょうして「あれほどの規模きぼで、あのように巨大きょだい社会しゃかいを、あれほどにおおきく変革へんかくした人物じんぶつ歴史れきしじょうほとんどれいない」とべている[370]歴史れきし学者がくしゃアルバート・レシス英語えいごばんは、20世紀せいきもっと重要じゅうよう出来事できごとじゅうがつ革命かくめいとみなされるならば、レーニンは「かれしかれ、今世紀こんせいきもっと重要じゅうよう政治せいじ指導しどうしゃとしてあつかわれなければならない」と指摘してきしている[1]ロバート・サーヴィス一般いっぱんにレーニンは20世紀せいきにおける「主要しゅよう人物じんぶつ (principal actor) 」の1人ひとりあつかわれているとしており[371]同様どうようにクリストファー・リードも「もっとひろられ、ぜん世界せかいてき認識にんしきされる20世紀せいき象徴しょうちょうてき人物じんぶつ1人ひとり」とレーニンをひょうしている[368]。アメリカの雑誌ざっしタイム』はレーニンを 「20世紀せいきもっと重要じゅうような100にん」にリストしているほか[372]歴史れきしじょう象徴しょうちょうてき政治せいじ上位じょうい25めいにも選出せんしゅつしている[373]

レーニンの政権せいけんおおくの歴史れきし学者がくしゃ伝記でんき作家さっかによって全体ぜんたい主義しゅぎ体制たいせい、あるいは警察けいさつ国家こっか表現ひょうげんされ[374][375]、またいちとう独裁どくさい体制たいせいであったとひょうされている[376]一部いちぶ学者がくしゃはレーニンを独裁どくさいしゃ形容けいようしているが[377]歴史れきしジェームズ・ライアンはレーニンが「一切いっさい提案ていあん承認しょうにんされ、実行じっこうされるという意味いみ独裁どくさいしゃではなかった」とべ、党員とういんがレーニンの意見いけん異議いぎとなえることもおおかったと指摘してきしている[378]同様どうように、ルイス・フィッシャー英語えいごばんも「レーニンは一種いっしゅ独裁どくさいしゃであったが、のちにスターリンがなったような種類しゅるい独裁どくさいしゃではなかった」とべている[379]。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「とうによる独裁どくさい」を確立かくりつしたが、ソビエト連邦れんぽう政体せいたいが「1人ひとりおとこによる独裁どくさい」に変化へんかしたのはスターリンの時代じだいになってからであったとの見解けんかいしめしている[380]一方いっぽうでヴォルコゴーノフは、国家こっかてき暴力ぼうりょく共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい実現じつげんには不可欠ふかけつしんじ、チェーカー秘密ひみつ警察けいさつ)やグラーグ強制きょうせい収容しゅうようしょ)などのシステムを創設そうせつしたレーニンを「寛容かんようという全体ぜんたい主義しゅぎてきイデオロギーのみのおや」とひょうしている[381]

レーニン政権せいけん独裁どくさいてき民主みんしゅてき性質せいしつは、ロシア国内外こくないがい社会しゃかい主義しゅぎしゃによって批判ひはんされた[382][383]。チェコけいオーストリアじんマルクス主義まるくすしゅぎしゃカール・カウツキーは、1918ねんはんレーニン主義しゅぎてき著作ちょさく『プロレタリアートの独裁どくさい』を出版しゅっぱんし、ソビエト・ロシアのはん民主みんしゅ主義しゅぎてき性質せいしつ非難ひなんした(レーニンはこの批判ひはんたいして攻撃こうげきてき反論はんろん出版しゅっぱんした)[384][383]。ドイツのマルクス主義まるくすしゅぎしゃローザ・ルクセンブルクもカウツキーと同様どうよう見解けんかいしめ[385]、ボリシェヴィキが民主みんしゅてきえらばれた憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい解散かいさんしたことを批判ひはんするとともに、レーニン政権せいけんを「プロレタリアートによる独裁どくさいではなく、ほんのいちにぎりの政治せいじによる独裁どくさい」とひょうした[383]

イギリスの首相しゅしょうウィンストン・チャーチルはレーニンについて「かれ慈愛じあい北極ほっきょくかいのようにつめたくひろい。かれ憎悪ぞうお絞首刑こうしゅけい執行しっこうじんくびなわよりかたい。」「かれ目的もくてき世界せかいすくうことだった。そしてその方法ほうほう世界せかい爆破ばくはすることだった。」「ロシアじん最大さいだい不幸ふこうはレーニンがまれてきたことだが、そのつぎ不幸ふこうかれんだことだ(レーニンがこころざしなかばで死去しきょし、スターリン体制たいせい出現しゅつげんしたことをす)」とひょうした[386]反共はんきょう主義しゅぎしゃのチャーチルは、ロシア革命かくめいでボリシェヴィキ政権せいけん誕生たんじょうしたことに否定ひていてきで、かれはロシア革命かくめい当時とうじに、ボリシェヴィキ政権せいけん強大きょうだいするまえ打倒だとうしなければ、しょ列強れっきょう後悔こうかいするときがくるだろうと警鐘けいしょうらしていた[387]

政治せいじ思想しそう

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レーニンは忠実ちゅうじつマルクス主義まるくすしゅぎしゃであり[388]みずからのマルクス主義まるくすしゅぎ解釈かいしゃく(1904ねんマルトフによって「レーニン主義しゅぎ」とはじめてばれた[389])こそが唯一ゆいいつ真正しんせい正統せいとうなものであるとかんがえていた[390]。レーニンのマルクス主義まるくすしゅぎてき見解けんかいでは、人類じんるい最終さいしゅうてき純粋じゅんすい共産きょうさん主義しゅぎへと到達とうたつし、国家こっか階級かいきゅう存在そんざいしない平等びょうどう主義しゅぎ社会しゃかいきずき、そのような社会しゃかい労働ろうどうしゃ搾取さくしゅ疎外そがいから解放かいほうされ、みずからの運命うんめいをコントロールし、「能力のうりょくおうじてはたらき、必要ひつようおうじて」というルールを順守じゅんしゅしてくものとされた[391]。ヴォルコゴーノフによれば、 レーニンはみずからがロシアにけた道筋みちすじは、最終さいしゅうてきにはこのような共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい実現じつげんにつながると「ふかく、しんから」しんじていた[392]

演説えんぜつするレーニン(1919ねん

みずからのマルクス主義まるくすしゅぎてき見解けんかいもとづき、レーニンは当時とうじ社会しゃかい状態じょうたいから直接ちょくせつ共産きょうさん主義しゅぎ移行いこうすることは不可能ふかのうであり、そのまえにまず社会しゃかい主義しゅぎ段階だんかいはいることが必要ひつようであるとかんがえていた。したがって、レーニンのおも関心事かんしんじはいかにロシアを社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいへと変革へんかくするかということであり、そのためには「プロレタリアートによる独裁どくさい」が、ブルジョワジーを抑圧よくあつし、社会しゃかい主義しゅぎてき経済けいざい発達はったつさせるじょう不可欠ふかけつであるとかんがえていた[393]。レーニンは社会しゃかい主義しゅぎを「生産せいさん手段しゅだん社会しゃかいてき所有しょゆうされている、良識りょうしきある協力きょうりょくしゃによる体制たいせい」 と定義ていぎ[394]、 その経済けいざい体制たいせい潤沢じゅんたく社会しゃかい達成たっせいするまで発展はってんする必要ひつようがあるとかんがえていた[391]。その実現じつげんのため、レーニンは中心ちゅうしん課題かだいがロシア経済けいざい国家こっか統制とうせいくことであり、「すべての市民しみん」を、かれうところの「国家こっかによって雇用こようされる従業じゅうぎょういん」に転化てんかすることであるとかんがえていた[395]

レーニンの解釈かいしゃくによる社会しゃかい主義しゅぎは、中央ちゅうおう集権しゅうけんてきで、計画けいかくてきで、国家こっか統制とうせいてきなものであり、そこでは生産せいさん分配ぶんぱい両方りょうほう厳格げんかくにコントロールされた[391]。レーニンは、国中くになかぜん労働ろうどうしゃ自発じはつてき協力きょうりょくし、国家こっかによる経済けいざいてき政治せいじてき中央ちゅうおう集権しゅうけん可能かのうにするとしんじていた[396]。レーニンが要求ようきゅうした生産せいさん手段しゅだんの「労働ろうどうしゃによる統制とうせい」とは、事業じぎょうがそれに従事じゅうじする労働ろうどうしゃによって直接ちょくせつ統制とうせいされることではなく、すべての事業じぎょう運営うんえいが1つの「労働ろうどうしゃ国家こっか」の統制とうせいかれることを意味いみしていた[397]。その結果けっか、レーニンの思想しそうには、一般いっぱん労働ろうどうしゃによる統制とうせいと、中央ちゅうおう集権しゅうけんされた階層かいそうてき威圧いあつてき国家こっか機構きこうという、2つの矛盾むじゅんするようにかんじられるテーマがふくまれていた[398]

1914ねん以前いぜんには、レーニンの見解けんかいはヨーロッパの正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎ大筋おおすじ一致いっちしていた[388]。しかし、レーニンの思想しそう(レーニン主義しゅぎ)はその発展はってんともなって既存きそん正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎ修正しゅうせいくわえ、マルクス主義まるくすしゅぎ思想しそうあたらしい要素ようそ導入どうにゅうした[388]。レーニン主義しゅぎマルクス主義まるくすしゅぎ思想しそうくらべてより絶対ぜったい主義しゅぎてき純理じゅんりろんてき観点かんてん採用さいようしており[388]、プロレタリアートを革命かくめいみちび前衛ぜんえい役割やくわり重視じゅうししているてん際立きわだっていたほか[399]革命かくめいてき手段しゅだんとして暴力ぼうりょくたす役割やくわり強調きょうちょうしていた[400]。プロレタリア国家こっかがどのようにあるべきかについても、レーニンの信念しんねんマルクス主義まるくすしゅぎ主流しゅりゅう思想しそうから逸脱いつだつしていた[399]。レーニンが、ブルジョワジーの協力きょうりょく一切いっさい排除はいじょした、強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけんされた国家こっか機構きこうもとめたのにたいし、カウツキーのようなヨーロッパのマルクス主義まるくすしゅぎしゃは、民主みんしゅてきえらばれ、プロレタリアートが多数たすうめる議会ぎかいせい政府せいふ想定そうていしていた[399]

レーニンは、資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくにおける議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎが、民主みんしゅ主義しゅぎ幻想げんそうあたえつつ、「ブルジョワジーによる独裁どくさい」を維持いじしているとかんがえており[401]、「ソビエト政府せいふは、もっと民主みんしゅてきなブルジョワ共和きょうわこくよりなんひゃくまんばい民主みんしゅてきである」と宣言せんげんしていた[402]。レーニンはみずからの「プロレタリアートによる独裁どくさい」は民主みんしゅてきであるとなしており、その理由りゆうとしてソビエトへの代表だいひょうしゃえらぶための選挙せんきょ存在そんざいすること、すべての労働ろうどうしゃ国家こっか統治とうち参加さんかしていることなどを主張しゅちょうした[403]。レーニンはアメリカの議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ制度せいどについて、「2つのブルジョワ政党せいとうによる、壮観そうかんかつ無意味むいみ決闘けっとう」と表現ひょうげんし、どちらの政党せいとうもアメリカのプロレタリアートを搾取さくしゅする「ないおくまん長者ちょうじゃ」によって指導しどうされているとべた[401]。レーニンは自由じゆう主義しゅぎ反対はんたいし、価値かちとしての自由じゆうへの嫌悪けんおかんしめしており[404]自由じゆう主義しゅぎにおける自由じゆう資本しほんによる搾取さくしゅから労働ろうどうしゃ解放かいほうせず、詐欺さぎてきなものであるとかんがえていた[405]

かれはマルクスがつたえた真実しんじつれており、その真実しんじつ補強ほきょうするために資料しりょう論拠ろんきょ選定せんていした。かれふるくからのマルクス主義まるくすしゅぎ聖典せいてんうたがうことをしなかった。かれはただそれを解説かいせつしたのであったが、その解説かいせつあらたな聖典せいてんとなった。
ルイス・フィッシャー英語えいごばん、1964ねん[406]

レーニンは国際こくさい主義しゅぎしゃであり、世界せかい革命かくめい熱心ねっしん支持しじし、国境こっきょう時代遅じだいおくれの概念がいねんかんがえ、ナショナリズム階級かいきゅう闘争とうそうさまたげであるととらえていた[407]。また、社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいにおいて世界せかい各国かっこく必然ひつぜんてき合併がっぺいし、最終さいしゅうてきに1つの世界せかい政府せいふ形成けいせいするとかんがえていた[408]他方たほう、レーニンは著述ちょじゅつなかはん帝国ていこく主義しゅぎ思想しそう支持しじし、すべての民族みんぞくが「民族みんぞく自決じけつけん」をゆうすると宣言せんげんしていた[409]。レーニンは民族みんぞく解放かいほう戦争せんそう支持しじしており、そのような闘争とうそうが、ある社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかから少数しょうすう分離ぶんり独立どくりつするために必要ひつようとなる可能かのうせいみとめ、社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかは「神聖しんせいで、あやまりや脆弱ぜいじゃくさがないと保証ほしょうされている」わけではないとべていた[410]

レーニンは、マルクス主義まるくすしゅぎ哲学てつがくしゃ社会しゃかい学者がくしゃなどからかんがえをれるマルクス主義まるくすしゅぎしゃたちを冷笑れいしょうしていたが[411]かれ自身じしん思想しそうもまた、ロシアのマルクス主義まるくすしゅぎ理論りろんだけでなく、ナロードニキ運動うんどうなどロシア革命かくめい運動うんどうの(マルクス主義まるくすしゅぎてきな)思想しそうから影響えいきょうけていた[412][413]。レーニンは変化へんかする環境かんきょうわせてみずからの思想しそう適応てきおうさせており[414]戦争せんそう飢饉ききん経済けいざい崩壊ほうかいなどのなかでロシアを統治とうちするという実際じっさいてき現実げんじつもその思想しそう影響えいきょうあたえた[415]

人物じんぶつ

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伝記でんき作家さっかルイス・フィッシャー英語えいごばんは、レーニンが「急激きゅうげき変化へんか極端きょくたん変革へんかく愛好あいこうしゃ」であり、「折衷せっちゅうとはまった無縁むえんであって、何事なにごとくろあかかの二者択一にしゃたくいつ誇張こちょうする人間にんげん」であったとひょうしている[416]歴史れきし学者がくしゃリチャード・パイプスは、レーニンが非常ひじょうカリスマせいのある人物じんぶつであったと指摘してきしており[417]ドミトリー・ヴォルコゴーノフ同様どうように「(レーニンは)その強烈きょうれつ個性こせいそのものによって、人々ひとびと影響えいきょうおよぼすことができた」とひょうしている[418]他方たほう、レーニンの友人ゆうじんであったマクシム・ゴーリキーかれ容姿ようしについて「禿頭はげあたまで、ずんぐりと」して「あまりにも平凡へいぼん」であり、「指導しどうしゃしかとした印象いんしょう」をあたえるものではなかったとべている[419]歴史れきし学者がくしゃロバート・サーヴィスによれば、レーニンは自分じぶん宿命しゅくめいった人間にんげん (man of destiny) であるとかんがえており、みずからの理想りそうただしさと革命かくめい指導しどうしゃとしての能力のうりょくすこしの疑念ぎねんいていなかった[420]

サーヴィスによれば、わかのレーニンは非常ひじょう感情かんじょうてきであり[421]皇帝こうてい権威けんいたいしてつよ憎悪ぞうおしめすのと同時どうじ[422]、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキーといった思想家しそうかたちへの「愛情あいじょう」をつちかい、かれらのポートレイト所有しょゆう[423]私的してき会話かいわなかみずからがマルクスとエンゲルスを「あいしている」ともかたっていた[424]。ヴォルコゴーノフの見解けんかいでは、レーニンはマルクス主義まるくすしゅぎを「絶対ぜったいてき真理しんり」ととらえており、「宗教しゅうきょうてき狂信きょうしんしゃ」のようにっていた[425]バートランド・ラッセルもまた、レーニンが「マルクス主義まるくすしゅぎ福音ふくいんへの確固かっこたる、宗教しゅうきょうてき信仰しんこう」をゆうしているとの印象いんしょういた[426]。それらの指摘してきにもかかわらず、レーニンはかみろんしゃであり、また宗教しゅうきょう批判ひはんしゃであった。レーニンはかみろん社会しゃかい主義しゅぎ前提ぜんていであると理解りかいしており、したがって「キリスト教きりすときょう社会しゃかい主義しゅぎ」はめい矛盾むじゅんであるとかんがえていた[427]

クレムリンでアメリカじんジャーナリストと会談かいだんするレーニン。ネコをひざせている(1920ねん2がつ

レーニンはロシアほかフランス語ふらんすご、ドイツ英語えいごはなし、またむことができた[428]健康けんこうって定期ていきてき運動うんどうこころがけており[429]水泳すいえい狩猟しゅりょう、サイクリングをこのんだほか[430]、スイスでは山歩やまあるきへの情熱じょうねつはぐくんだ[431]。ペットもこの[432]とくネコ可愛かわいがっていた[433]乱雑らんざつさをきらい、デスクはつね片付かたづけられ、鉛筆えんぴつとがった状態じょうたいたもたれており、仕事しごとちゅうには完全かんぜん静寂しじま要求ようきゅうした[434]。パイプスは、レーニンが「私的してき欲望よくぼうについて極端きょくたん自制じせいてき」であり、したがって「質素しっそな、ほとんど禁欲きんよくてきえる生活せいかつスタイル」をおくっていたと指摘してきしている[435]。フィッシャーによればレーニンは「最低さいてい限度げんど」の虚栄きょえいしんしかっておらず[436]、したがってみずからにたいする個人こじん崇拝すうはいきらっていたが、それが共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう統一とういつ有益ゆうえきである可能かのうせいみとめていた[437]

レーニンの性格せいかくについて、サーヴィスはときに「まぐれで短気たんき」であったと[438]、パイプスは「徹底的てっていてき人間にんげんぎらい」であったとひょうしたが[439]歴史れきしクリストファー・リードはパイプスの見解けんかい反論はんろんし、レーニンが人間にんげんとく子供こどもたいして親切心しんせつしんしめしたれい数多かずおお存在そんざいすると指摘してきしている[440]複数ふくすう伝記でんき作家さっかによれば、レーニンは反論はんろんされることを許容きょようできず、しばしば自分じぶんことなる率直そっちょく意見いけんをはねつけたほか[441]みずからの見解けんかいにとって不都合ふつごう事実じじつ無視むし[442]妥協だきょうすることを極度きょくどきら[443]間違まちがいをみとめることは非常ひじょうまれだった[444]

レーニンはみずからが民族みんぞくてきロシアじんであると認識にんしきしていたが[445]母国ぼこくロシアよりものヨーロッパ諸国しょこくとくにドイツは文化ぶんかてきすぐれているとかんがえており[446]、ロシアを「アジア諸国しょこくなかでももっと未開みかいで、中世ちゅうせいふうの、ずべき後進こうしんこく」とひょうしていた[401]。また、ロシア国民こくみんられる規律きりつ勤勉きんべんさの欠如けつじょ苛立いらだっており、青年せいねんからロシアが文化ぶんかてきにより西洋せいようてき・ヨーロッパてきになることをのぞんでいた[447]

筆名ひつめい

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ウラジーミル・ウリヤノフがおそらくシベリアのレナがわ由来ゆらいする「レーニン」という筆名ひつめいはじめておおやけ使用しようしたのは1901ねん12月であった[448][注釈ちゅうしゃく 13]。ウラジーミルはほかにも複数ふくすう偽名ぎめい使用しようしていたが、『なにをなすべきか』を「レーニン」の筆名ひつめい発表はっぴょうして以降いこうマルクス主義まるくすしゅぎしゃからこの名前なまえひろ認知にんちされるようになった[53]。ウラジーミルはしばしば「N・レーニン(Н. Ленин)」というかたちでこのもちい、イニシャルの「N」は実際じっさいには無意味むいみであったが、のちにこれが「ニコライ」をしめすとする誤解ごかい一般いっぱんてきひろまった[451]。なお、一般いっぱんてきに「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前なまえ表記ひょうきもちいられるが、本人ほんにんみずからがそのように署名しょめいしたれいはなく、[452]上記じょうきサインのように「ウリヤノフ/レーニン(Ульянов/Ленин)」またはたんに「レーニン」とつづっていた。

「レーニン」のは、帝国ていこく警察けいさつから身元みもとかくすためにウラジーミルが使用しようした150以上いじょう偽名ぎめいなかの1つであり、その由来ゆらいについての定説ていせつ存在そんざいしていない[449]。ウラジーミルが1901ねん当時とうじ敬愛けいあいしていたゲオルギー・プレハーノフもちいた多数たすう偽名ぎめいなかに、ヴォルガがわにちなんだ「ヴォルギン」があり、そこからおなじくロシアの大河たいがであるレナがわにちなんだ「レーニン」の考案こうあんしたとのせつがあるほか[449]自身じしんおくられた流刑りゅうけいちかくをながれていたのがレナがわだったためというせつげられるが、かれのいたシュシェンスコエがわながれていたのはエニセイがわであり、実際じっさいにレナがわおとずれたことはいちもなかった[453]。ほかにも、ちゅう高等こうとう学校がっこう時代じだい級友きゅうゆう名前なまえ由来ゆらいするというせつ[449]過去かこ交際こうさいした女性じょせい名前なまえ由来ゆらいするとのせつなどが存在そんざいするが、ロバート・サーヴィス諸説しょせつについて「擬似ぎじ心理しんりがくてき憶測おくそく」とべている[450]

著作ちょさく

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おも著作ちょさく

全集ぜんしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ グレゴリオれき。ロシアれきユリウスれき)では4がつ10日とおか[1]
  2. ^ ロシアけいチュヴァシけいモルドヴィンけい、カルムイクけいなど諸説しょせつ存在そんざいする[2]
  3. ^ 1854ねんにカザン大学だいがく卒業そつぎょうしたイリヤは、著名ちょめい数学すうがくしゃであるニコライ・ロバチェフスキーから学者がくしゃとしてのみちすすむよう激励げきれいされたとわれている[4]
  4. ^ Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия = РСДРП, RSDRP
  5. ^ ロシアれき。グレゴリオれきでは1がつ14にち
  6. ^ ヴォルコゴーノフのような歴史れきし犯人はんにん別人べつじんであった可能かのうせいたかいと指摘してきしている[195]。いずれにしてもこの事件じけんはミルバッハ暗殺あんさつわせて社会しゃかい革命かくめいとう弾圧だんあつするきっかけになった。
  7. ^ ウクライナのディレクトーリヤ政府せいふは、ポーランドによるリヴィウなどハリチナー地方ちほう領有りょうゆうみとめるわりに、ディレクトーリヤをウクライナを代表だいひょうする唯一ゆいいつ政府せいふとして承認しょうにんし、ソビエトをウクライナ領内りょうないから排除はいじょすることを全面ぜんめんてき支援しえんする確約かくやくをポーランドよりけ、ポーランドと共闘きょうとうしていた。
  8. ^ ボリシェヴィキが戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ導入どうにゅうした目的もくてきについては諸説しょせつある。ソ連それん公的こうてき見解けんかいでは、内戦ないせん勝利しょうりのため過酷かこく徴発ちょうはつをやむをったとされ、レーニンは「農民のうみんから余剰よじょう生産せいさんぶつ徴発ちょうはつしたのは戦時せんじ緊急きんきゅう事態じたいにより余儀よぎなくされた方針ほうしんであった」とべている[262]。しかし一方いっぽうで、戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ内戦ないせんという異常いじょう事態じたいたいして、仕方しかたなくとった政策せいさくではなかったとするせつもあり、社会しゃかい哲学てつがくしゃマイケル・ポランニー著書ちょしょ自由じゆう論理ろんり』などにおいて、革命かくめいにボリシェヴィキがはじめた計画けいかく経済けいざい実験じっけん完全かんぜん失敗しっぱいわったため、これを内戦ないせんによる一時いちじてきな「戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ」としょうして計画けいかく経済けいざい失敗しっぱいかくそうとしたとしている[263]
  9. ^ 反乱はんらん発生はっせいするのをけるため、レーニンはティーホンのみ対象たいしょうから除外じょがいするよう推奨すいしょうしていた[278]
  10. ^ レーニンを診察しんさつするため、国外こくがいからオトフリート・フェルスター英語えいごばんオスカル・ミンコフスキー英語えいごばんアドルフ・シュトリュンペル英語えいごばんゲオルク・クレンペラードイツばんらの著名ちょめいのう医学いがくしゃ神経しんけい学者がくしゃ高額こうがく報酬ほうしゅうやとわれた[286]
  11. ^ レーニンの遺体いたい保存ほぞん方法ほうほうながらく不明ふめいであり、そのろう人形にんぎょうのようなから全体ぜんたいあるいは一部いちぶ偽物にせものなのではないかとうわさされたが[331]ちち当初とうしょ防腐ぼうふ処理しょりたずさわった技術ぎじゅつしゃであり、のちにみずからも遺体いたい管理かんり担当たんとうしたイリヤ・ズバルスキー英語えいごばんはそのような主張しゅちょう否定ひていしている[331]実際じっさいにはしゅうに2かい頻度ひんど専門せんもんがガラスケースをけてかお防腐ぼうふざい注入ちゅうにゅうしており、さらに1ねんはんに1かい頻度ひんど全体ぜんたいグリセリン酢酸さくさんカリウム溶液ようえきける処置しょちおこなうことで遺体いたい保存ほぞんしているという[331]
  12. ^ レニングラードはソ連それん崩壊ほうかい先立さきだ1991ねん9月、住民じゅうみん投票とうひょうによってだいいち世界せかい大戦たいせん以前いぜん名称めいしょうである「サンクトペテルブルク」にもどされた[339]一方いっぽうで、同市どうしぞくするしゅうレニングラードしゅうのまま変更へんこうされなかった。
  13. ^ 私的してき範囲はんいでは、それ以前いぜんの1901ねん1がつゲオルギー・プレハーノフてた手紙てがみで「レーニン」の署名しょめいもちいていた[449][450]

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
創設そうせつ ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく
人民じんみん委員いいん会議かいぎ英語えいごばん議長ぎちょう英語えいごばん

1917ねん–1924ねん
次代じだい
アレクセイ・ルイコフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
1922ねん–1924ねん
ぐんしょく
創設そうせつ 労働ろうどう防衛ぼうえい評議ひょうぎかい英語えいごばん議長ぎちょう
1918ねん–1924ねん
次代じだい
レフ・カーメネフ