ロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし では、キリスト教 きりすときょう の独立 どくりつ 正教会 せいきょうかい のひとつであるロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし を扱 あつか う。
出発 しゅっぱつ 点 てん をめぐる論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
ロシア正教会 せいきょうかい の出発 しゅっぱつ 点 てん をどこに設定 せってい するかでまず論争 ろんそう が存在 そんざい する。
「ロシア 」という地域 ちいき 名 めい が最初 さいしょ に文献 ぶんけん に登場 とうじょう するのは15世紀 せいき 末 まつ 、広 ひろ く用 もち いられるようになったのは16世紀 せいき になってからのことである。「ロシア」がどこから出発 しゅっぱつ したかが曖昧 あいまい な以上 いじょう 、「ロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし 」と言 い った場合 ばあい もどこに記述 きじゅつ の出発 しゅっぱつ 点 てん を置 お くべきかは必然 ひつぜん 的 てき に議論 ぎろん が分 わ かれるものとなる。
11世紀 せいき までは、ルーシ の中心 ちゅうしん 地域 ちいき が現在 げんざい のウクライナ の首都 しゅと であるキエフ 周辺 しゅうへん だったことを反映 はんえい し、正教会 せいきょうかい の中心 ちゅうしん 地 ち もキエフであったのだが、その周辺 しゅうへん の現代 げんだい ウクライナとなっている南西 なんせい ルーシ地域 ちいき は14世紀 せいき 前後 ぜんこう に隣国 りんごく のリトアニア大公 たいこう 国 こく とポーランド王国 おうこく によって征服 せいふく されて以来 いらい 、18世紀 せいき のエカチェリーナ2世 せい による併合 へいごう に至 いた るまでウラジーミル 、モスクワ を始 はじ めとした北東 ほくとう ルーシからは切 き り離 はな されてもいた。「ルーシ」の正教会 せいきょうかい の歴史 れきし と、北東 ほくとう ルーシのモスクワを中心 ちゅうしん とする現在 げんざい のロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし とは分 わ けて考 かんが えるべきだとする見方 みかた も説得 せっとく 力 りょく はある。
だが当初 とうしょ からキエフ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は北東 ほくとう ルーシをも管轄 かんかつ していた。キエフ・ルーシ時代 じだい の正教会 せいきょうかい とロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし との間 あいだ にどこまで連続 れんぞく 性 せい を認 みと めるかは難 むずか しい議論 ぎろん となり決着 けっちゃく はつかない。これは特 とく にウクライナにおいて、政治 せいじ 的 てき 立場 たちば と相俟 あいま って熱 あつ い論争 ろんそう となる歴史 れきし 認識 にんしき 問題 もんだい である。国境 こっきょう や民族 みんぞく の居住 きょじゅう 区域 くいき 、地域 ちいき の中心 ちゅうしん 地 ち が一定 いってい することのない、大陸 たいりく のどこでもみられる論争 ろんそう である。
本 ほん 項 こう では、連続 れんぞく 性 せい を有 ゆう しかつ時代 じだい 的 てき 境界 きょうかい 線 せん を設定 せってい し難 がた い教会 きょうかい 史 し の性質 せいしつ もあり、キエフ・ルーシ 時代 じだい の正教会 せいきょうかい とロシア正教会 せいきょうかい の連続 れんぞく 性 せい を一定 いってい 程度 ていど 認 みと め、10世紀 せいき 後半 こうはん 頃 ごろ のルーシから詳細 しょうさい な記述 きじゅつ を進 すす める。ロシア正教会 せいきょうかい の出発 しゅっぱつ 点 てん をより後代 こうだい に看做 みな す立場 たちば からも、この時代 じだい の正教会 せいきょうかい の歴史 れきし はロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし を知 し る上 じょう では必須 ひっす の「ロシア正教会 せいきょうかい 前史 ぜんし 」であるとは最低限 さいていげん 言 い えるからである。なお参考 さんこう までに、10世紀 せいき 後半 こうはん 以前 いぜん のクリミア半島 くりみあはんとう も含 ふく めた状況 じょうきょう および伝承 でんしょう についても最初 さいしょ に若干 じゃっかん 触 ふ れる。
クリミア半島 くりみあはんとう とキエフの伝承 でんしょう [ 編集 へんしゅう ]
[1] ルーシの正教会 せいきょうかい 伝道 でんどう の歴史 れきし は12使徒 しと のひとりであるアンドレイ(アンデレ) にさかのぼるとする伝承 でんしょう が残 のこ されている。黒海 こっかい 北東 ほくとう 地方 ちほう に伝道 でんどう を行 おこな ったアンドレイは、のちにキエフ が建設 けんせつ されるドニエプル川 がわ 河畔 かはん の丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい で祝福 しゅくふく の祈 いの りを行 おこな い、十字架 じゅうじか を立 た てたとされる[2] 。
東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の版図 はんと となっていたクリミア半島 くりみあはんとう には、1世紀 せいき 末 すえ のローマの聖 せい クリメント がケルソネソス 近 ちか くに流刑 りゅうけい にされ、その後 ご 致命 ちめい したという伝承 でんしょう や[3] [4] 、8世紀 せいき 後半 こうはん のクリミヤの克 かつ 肖 あやか 者 しゃ 聖 せい 神父 しんぷ イオアン の伝承 でんしょう [5] にみられるように、既 すで にキリスト教 きりすときょう が広 ひろ まっていたが、こうした黒海 こっかい 沿岸 えんがん のギリシア植民 しょくみん 市 し におけるキリスト教 きりすときょう はルーシ内陸 ないりく 部 ぶ にまでは定着 ていちゃく しなかった。
キエフからモスクワへの軌跡 きせき [ 編集 へんしゅう ]
ウラジーミル1世 せい の受洗 じゅせん とキエフ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の設立 せつりつ [ 編集 へんしゅう ]
キエフ・ルーシ 時代 じだい の聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の模型 もけい 。
正教会 せいきょうかい の伝承 でんしょう によれば、ルーシの正教 せいきょう 伝道 でんどう の歴史 れきし は12使徒 しと のひとりであるアンドレイ にさかのぼるとされるが[2] 、本格 ほんかく 的 てき な正教 せいきょう 伝道 でんどう の試 こころ みが歴史 れきし 的 てき に確認 かくにん できるのはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)総 そう 主教 しゅきょう フォティオス (在位 ざいい :858-861‚ 878-886)によるものである。また954年 ねん にはキエフ大公 たいこう ウラジーミル1世 せい の祖母 そぼ であるオリガ がキリスト教 きりすときょう (正教会 せいきょうかい )[注 ちゅう 1] の洗礼 せんれい を受 う け、ルーシにおける正教 せいきょう のさきがけとなった[6] 。
まとまった形 かたち を伴 ともな ったルーシの正教会 せいきょうかい の歴史 れきし は、988年 ねん 、キエフ大公 たいこう ウラジーミル1世 せい が、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい バシレイオス2世 せい の妹 いもうと アンナを妃 ひ とし、公式 こうしき に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の国教 こっきょう である正教会 せいきょうかい の洗礼 せんれい を受 う けた時 とき から始 はじ まるとされ、この年 とし がロシア正教会 せいきょうかい の歴史 れきし の基点 きてん とされることが多 おお い[7] [注 ちゅう 2] 。府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は当時 とうじ ルーシ [注 ちゅう 3] の中心 ちゅうしん 都市 とし であり、キエフ大公 たいこう 国 こく の首都 しゅと であったキエフ におかれた[注 ちゅう 4] 。
発足 ほっそく 当初 とうしょ から長期 ちょうき にわたってキエフ府 ふ 主教 しゅきょう はコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の監督 かんとく 下 か にあり、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう がキエフ府 ふ 主教 しゅきょう を任命 にんめい した。当初 とうしょ は府 ふ 主教 しゅきょう も東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から派遣 はけん されたギリシャ人 じん だった[8] 。なお初期 しょき の府 ふ 主教 しゅきょう の称号 しょうごう は単 たん に「キエフ府 ふ 主教 しゅきょう 」であり、「キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 」の称号 しょうごう は後代 こうだい になって使 つか われるようになった(13世紀 せいき から使 つか われ始 はじ め[9] 、恒常 こうじょう 的 てき に使 つか われるようになったのは14世紀 せいき [10] )。
キエフには後 のち にキエフ・ペチェールシク大 だい 修道院 しゅうどういん に成長 せいちょう する洞窟 どうくつ 修道院 しゅうどういん が、アトス山 さん の修道院 しゅうどういん から出身 しゅっしん 地 ち ルーシに戻 もど ったアントニイによって1051年 ねん に創始 そうし された[11] 。
東西 とうざい 両面 りょうめん からの軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい と諸公 しょこう の抗 こう 争 そう [ 編集 へんしゅう ]
キエフ大公 たいこう 国 こく は10世紀 せいき 末 まつ から11世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけてウラジーミル聖 せい 公 おおやけ とヤロスラフ賢 けん 公 こう の時 とき に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、その後 ご は10以上 いじょう の諸 しょ 公国 こうこく による割拠 かっきょ の態 たい を示 しめ したばかりか、テュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん ポロヴェツ人 じん による介入 かいにゅう をも招 まね き、ルーシは混沌 こんとん とした有様 ありさま となった[12] 。
13世紀 せいき にはルーシの動揺 どうよう は決定的 けっていてき となる[12] 。度重 たびかさ なる内紛 ないふん によりルーシの統合 とうごう は破壊 はかい された[12] 。東 ひがし からはポロヴェツ人 じん を打 う ち破 やぶ ったモンゴルが襲来 しゅうらい し、西 にし からはローマ教皇 きょうこう の意 い を受 う けた「北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん 」[注 ちゅう 5] の侵略 しんりゃく を受 う けた[13] 。バトゥ に率 ひき いられた東 ひがし からのモンゴル軍 ぐん は、1237年 ねん にはウラジーミルを陥落 かんらく させ、1240年 ねん にはポーランド・ハンガリーへの遠征 えんせい の途中 とちゅう でキエフを陥落 かんらく させた[13] 。西 にし からのルーシに対 たい する「北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん 」としては、スウェーデン軍 ぐん がノヴゴロドの奪取 だっしゅ を試 こころ み(1240年 ねん )、ドイツ騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい はプスコフを占領 せんりょう した[14] [15] 。
これら外 がい 憂 ゆう のうち、西方 せいほう からのスウェーデン軍 ぐん ・ドイツ騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい は、いずれもウラジーミル大公 たいこう アレクサンドル・ネフスキー によって撃退 げきたい された(対 たい ドイツ騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい の戦闘 せんとう としては1242年 ねん の「氷上 ひかみ の戦 たたか い」)[16] [14] 。だがモンゴルに対 たい しては、アレクサンドル・ネフスキーは基本 きほん 的 てき に恭順 きょうじゅん の姿勢 しせい を示 しめ していくことになる[17] 。以降 いこう 15世紀 せいき 中葉 ちゅうよう に至 いた るまで、ルーシはモンゴルの影響 えいきょう 下 か に置 お かれることとなる。
モンゴルの支配 しはい は苛烈 かれつ なものではあったが、ローマ・カトリック への改宗 かいしゅう を強制 きょうせい する「十字軍 じゅうじぐん 」とは違 ちが い信仰 しんこう 面 めん においては比較的 ひかくてき 寛容 かんよう だった[18] ため、当時 とうじ のキエフ府 ふ 主教 しゅきょう であったキリル3世 せい (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) もアレクサンドル・ネフスキー の「西方 せいほう 諸国 しょこく に断固 だんこ とした姿勢 しせい で臨 のぞ み、東 ひがし のモンゴルには恭順 きょうじゅん する」という外交 がいこう 政策 せいさく を支持 しじ していた(しかしアレクサンドルのこうした外交 がいこう 姿勢 しせい は「臆病 おくびょう 」「優柔不断 ゆうじゅうふだん 」との非難 ひなん も同 どう 時代 じだい に受 う けている[19] )。当時 とうじ のルーシ諸公 しょこう には極 きわ めて強力 きょうりょく なモンゴルの軍事 ぐんじ 力 りょく に対 たい して徹底 てってい 抗戦 こうせん するだけの実力 じつりょく も統一 とういつ 性 せい もなかった。ルーシ諸公 しょこう の内紛 ないふん とモンゴルの介入 かいにゅう は断続 だんぞく 的 てき に続 つづ き、ルーシの国土 こくど は荒廃 こうはい した[20] 。
キエフをはじめとするルーシ中央 ちゅうおう 部 ぶ 、および南部 なんぶ の平原 へいげん はモンゴルによって壊滅 かいめつ した。ルーシの他 ほか の地域 ちいき もモンゴルから大 おお きな被害 ひがい を受 う けたが、これ以後 いご ルーシは、北西 ほくせい のノヴゴロド およびプスコフ 、北東 ほくとう のウラジーミル、スーズダリ 、ロストフ 、ヤロスラヴリ 、南西 なんせい のハールィチ、ヴォルィーニ など、(あくまで相対 そうたい 的 てき ・比較 ひかく 的 てき にだが)被害 ひがい の少 すく なかったおおよそ三 みっ つの諸 しょ 地域 ちいき から構成 こうせい されるようになった[21] 。
このような外 そと 憂 ゆう 内患 ないかん を受 う けた結果 けっか が、キエフ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の移転 いてん である。
キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の北東 ほくとう ルーシへの移転 いてん [ 編集 へんしゅう ]
ウラジーミル の生神 うるかみ 女 おんな 就寝 しゅうしん 大 だい 聖堂 せいどう 。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー によって1912年 ねん に撮影 さつえい されたカラー写真 しゃしん 。
ルーシ 全域 ぜんいき が混乱 こんらん していた1249年 ねん 、南西 なんせい ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ 公 おおやけ ダニールはローマ教皇 きょうこう インノケンティウス4世 せい から王 おう 号 ごう を受 う け、塗 ぬり 油 ゆ と戴冠 たいかん を受 う けた。こうしたダニールの動 うご きに、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう は脅威 きょうい を感 かん じる。キエフ府 ふ 主教 しゅきょう は先述 せんじゅつ の通 とお りコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の影響 えいきょう 下 か にあり、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の利害 りがい の下 した に動 うご いていた。ダニールの推挙 すいきょ を受 う けたキエフ府 ふ 主教 しゅきょう キリルでさえもその例外 れいがい ではなかった。荒廃 こうはい したキエフ からの遷座 せんざ [注 ちゅう 6] の行 い き先 さき を決 き めるさい、親 おや ローマの旗幟 きし を鮮明 せんめい にするハールィチ・ヴォルィーニ大公 たいこう ダニールとは距離 きょり を置 お いたキリル府 ふ 主教 しゅきょう が着目 ちゃくもく したのは、ローマとの対決 たいけつ 姿勢 しせい を鮮明 せんめい にする北東 ほくとう ルーシのウラジーミル であった。
キリルはウラジーミルへの遷座 せんざ の準備 じゅんび を精力 せいりょく 的 てき に進 すす めたが、実現 じつげん 前 まえ に永眠 えいみん する(1282年 ねん )。その後 ご 、北東 ほくとう ルーシ諸公 しょこう の抗 こう 争 そう のために遷座 せんざ は暫 しばら く延期 えんき されたが、戦乱 せんらん が収束 しゅうそく した1299年 ねん 、キリルの後継 こうけい であるキエフ府 ふ 主教 しゅきょう マクシモスはウラジーミルへの遷座 せんざ を実行 じっこう した。
ウラジーミルへの遷座 せんざ 後 ご も「キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 」の称号 しょうごう は維持 いじ され、キエフ及 およ びルーシの府 ふ 主教 しゅきょう マクシモスが「ウラジーミル主教 しゅきょう 」を兼任 けんにん 。それまでのウラジーミル主教 しゅきょう はロストフ 主教 しゅきょう に転出 てんしゅつ した。これはルーシの安定 あんてい を志向 しこう した府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ が、自 みずか らの称号 しょうごう に「全 ぜん ルーシ」を加 くわ えることによって、ルーシが一体 いったい となった安定 あんてい した姿 すがた を理想 りそう として提示 ていじ しようとした意思 いし 表示 ひょうじ でもあったとされる。「キエフ」の名 な を残 のこ したのは、キエフ以外 いがい の都市 とし 名 めい を冠 かん した第 だい 二 に 府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の設置 せっち が、ルーシの教会 きょうかい 組織 そしき の統一 とういつ 性 せい の阻害 そがい 要因 よういん になると判断 はんだん されたためであった。
遷座 せんざ により、モンゴル やローマカトリック諸国 しょこく からの直接的 ちょくせつてき 脅威 きょうい から免 まぬか れるという目的 もくてき は達成 たっせい された。だがこれ以降 いこう 、理想 りそう 的 てき 状況 じょうきょう とは程遠 ほどとお い北東 ほくとう ルーシ諸公 しょこう の抗 こう 争 そう が特 とく にトヴェーリ とモスクワ の間 あいだ で戦 たたか われていく中 なか 、キエフ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は否応 いやおう 無 な しに政争 せいそう に巻 ま き込 こ まれ、あるいは政争 せいそう に介入 かいにゅう せざるを得 え ない局面 きょくめん が生 う まれてくることになる。
キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は、1325年 ねん 頃 ころ 以降 いこう 、モスクワ へその根拠地 こんきょち を移転 いてん していくことになるが、これが定着 ていちゃく するまでにはなお紆余曲折 うよきょくせつ があった(後述 こうじゅつ )。
荒野 あらの 修道院 しゅうどういん の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
モスクワ対 たい トヴェーリの抗 こう 争 そう が終息 しゅうそく に向 む かい、1328年 ねん に始 はじ まり40年間 ねんかん 続 つづ く「大 おお いなる平和 へいわ (静寂 しじま )」[22] [23] [24] [注 ちゅう 7] を迎 むか えたルーシで、中部 ちゅうぶ ・北部 ほくぶ ロシアの原生 げんせい 林 りん に多 おお くの荒野 あらの 修道院 しゅうどういん が建設 けんせつ されていった[25] 。
先述 せんじゅつ したキエフ洞窟 どうくつ 修道院 しゅうどういん にみられる通 とお りそれまでのルーシ にも修道院 しゅうどういん は存在 そんざい していたが、中部 ちゅうぶ ・北部 ほくぶ ロシアの原生 げんせい 林 りん に多 おお くの荒野 あらの 修道院 しゅうどういん が建設 けんせつ され、精神 せいしん 面 めん 、物質 ぶっしつ 面 めん 問 と わずあらゆる面 めん において、ルーシに地殻 ちかく 変動 へんどう をもたらした[25] 。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく で起 お きていたヘシュカスム[注 ちゅう 8] が修道 しゅうどう 士 し のネットワークを通 つう じてもたらされたことも影響 えいきょう している[26] 。ロシアの広大 こうだい な原生 げんせい 林 りん での修行 しゅぎょう は、中東 ちゅうとう の正教会 せいきょうかい の修道 しゅうどう 士 し が行 おこな っていた砂漠 さばく での修行 しゅぎょう と似通 にかよ ったものとして捉 とら えられた[27] 。
至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 聖 せい セルギイ大 だい 修道院 しゅうどういん
1345年 ねん 、のちに至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 聖 せい セルギイ大 だい 修道院 しゅうどういん に発展 はってん する修道院 しゅうどういん がラドネジの聖 せい セルギイ により創始 そうし された。当初 とうしょ は小 ちい さな木造 もくぞう 教会 きょうかい を有 ゆう するだけの修道院 しゅうどういん だったが、こうした荒野 あらの 修道院 しゅうどういん 運動 うんどう の主要 しゅよう な担 にな い手 て として瞬 またた く間 ま に修道院 しゅうどういん の規模 きぼ は拡大 かくだい 。至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 聖 せい セルギイ大 だい 修道院 しゅうどういん からだけでも8つの都市 とし 修道院 しゅうどういん 、27の荒野 あらの 修道院 しゅうどういん が生 う まれている。至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 聖 せい セルギイ大 だい 修道院 しゅうどういん は後々 あとあと 、帝政 ていせい ロシア・現代 げんだい ロシアに至 いた るまで、ロシア正教会 せいきょうかい 最大 さいだい 級 きゅう の修道院 しゅうどういん として大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を有 ゆう することとなる。
ソロヴェツキー諸島 しょとう の修道院 しゅうどういん 群 ぐん も、1429年 ねん にサヴァーチイにより、その基礎 きそ となる庵 あん が建 た てられたことに出発 しゅっぱつ している。サヴァーチイの死後 しご 、ノヴゴロド 出身 しゅっしん のゾシマが白 しろ 海 うみ 修道院 しゅうどういん を建設 けんせつ し、修道院 しゅうどういん 群 ぐん 発展 はってん の道筋 みちすじ をつけた。のちのソ連 それん 時代 じだい に強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に転用 てんよう されたこともある(後述 こうじゅつ )ほどその環境 かんきょう は過酷 かこく なものであるところに、当時 とうじ の荒野 あらの 修道院 しゅうどういん の目指 めざ した土地 とち の有様 ありさま が垣間見 かいまみ える。
アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 』
自給自足 じきゅうじそく を原則 げんそく とした農業 のうぎょう 共同 きょうどう 体 たい としての修道院 しゅうどういん は、精神 せいしん 面 めん ではモンゴルによる恐怖 きょうふ 政治 せいじ と相次 あいつ ぐ戦乱 せんらん にあえいでいた人心 じんしん の安定 あんてい に大 おお きく寄与 きよ した[28] 。物質 ぶっしつ 面 めん では無人 むじん の原生 げんせい 林 りん を開拓 かいたく して国土 こくど 開発 かいはつ を行 おこな った。14世紀 せいき に至 いた るまで戦乱 せんらん のために行 おこな われることのなかった西欧 せいおう の農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ (輪作 りんさく )の導入 どうにゅう を行 おこな う主体 しゅたい ともなり、ルーシの農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ の改良 かいりょう にも貢献 こうけん したと考 かんが えられている[29] 。
また当時 とうじ の修道 しゅうどう 士 し 達 たち の足跡 あしあと は、後代 こうだい 、ロシア正教会 せいきょうかい のみに留 と まらない正教会 せいきょうかい 全体 ぜんたい に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼすものとなった。当時 とうじ 活躍 かつやく したイコン 画家 がか であり修道 しゅうどう 士 し でもあったアンドレイ・ルブリョフ のイコン「至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ 」は、正教会 せいきょうかい のみならずカトリック教会 きょうかい でも使用 しよう されることがある。
第 だい 二 に の府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ 設置 せっち 要求 ようきゅう による動揺 どうよう [ 編集 へんしゅう ]
トヴェーリとモスクワの抗 こう 争 そう 、そしてリトアニア大公 たいこう 国 こく とモスクワの抗 こう 争 そう を通 つう じ、「キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 」を誰 だれ が保護 ほご 下 か に置 お くのか、そして「キエフ及 およ び全 ぜん ルーシの府 ふ 主教 しゅきょう 」が誰 だれ を保護 ほご 者 しゃ として選 えら ぶのかは重大 じゅうだい な問題 もんだい であり続 つづ けた。府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の掌握 しょうあく は、全 ぜん ルーシ支配 しはい の正当 せいとう 性 せい をもたらすものだったからである。イヴァン・カリター は1328年 ねん 、ウラジーミルからモスクワに府 ふ 主教 しゅきょう を移動 いどう させることに成功 せいこう し、モスクワによる全 ぜん ルーシ支配 しはい の正当 せいとう 性 せい を得 え る礎 いしずえ を築 きず いた。
キエフ府 ふ 主教 しゅきょう の北東 ほくとう ルーシへの遷座 せんざ に伴 ともな い、ある種 しゅ の置 お き捨 す てられた感 かん を持 も った南西 なんせい ルーシ諸公 しょこう と、南西 なんせい ルーシに自 みずか らの影響 えいきょう 下 か にある府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ を置 お くことで南西 なんせい ルーシの正 せい 教徒 きょうと への支配 しはい 権 けん 確立 かくりつ の正当 せいとう 化 か を画策 かくさく するリトアニア大公 たいこう 国 こく [注 ちゅう 9] は、新 あら たな府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の設置 せっち をコンスタンティノープルに要求 ようきゅう していくことになった。こうした要求 ようきゅう には本来 ほんらい 、全 ぜん ルーシを管轄 かんかつ する者 もの は名義 めいぎ 通 どお りキエフに所在 しょざい しなければならず、ウラジーミルにとどまらないモスクワへの遷座 せんざ は認 みと められないという主張 しゅちょう を伴 ともな っていた。これはもっともな理屈 りくつ ではあったが、ウラジーミルに遷座 せんざ した上 うえ にモスクワへの事実 じじつ 上 じょう の遷座 せんざ を行 おこな ったことには確 たし かに疑問 ぎもん が大 おお きかったとはいえすでにキエフ府 ふ 主教 しゅきょう がいる以上 いじょう 、キエフに重複 じゅうふく する府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ を設 もう けることが教会 きょうかい 法 ほう 違反 いはん であったことも確 たし かであった。ましてモンゴル系 けい 汗 あせ 国 こく やカトリック諸国 しょこく からの軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい を避 さ けるためというやむをえない事情 じじょう によって北東 ほくとう ルーシへ拠点 きょてん を移 うつ した府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ にとって、このような論 ろん は当然 とうぜん 認 みと められるものではなく、第 だい 二 に の府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ 設置 せっち はルーシ分裂 ぶんれつ の契機 けいき とも成 な り得 え る危険 きけん を孕 はら むものであった。
結局 けっきょく 、ハールィチ 府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ 、リトアニア府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ などが一時 いちじ 的 てき に成立 せいりつ はするものの、それらの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は終局 しゅうきょく 的 てき には閉鎖 へいさ されていく。この間 あいだ 、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう は効率 こうりつ 的 てき な事態 じたい 打開 だかい ができなかった。
14世紀 せいき のコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
ラドネジの聖 せい セルギイ のイコン 。その生涯 しょうがい が回 まわ りに描 えが かれている。
13世紀 せいき まではルーシ の一体 いったい 性 せい を崩 くず すことを避 さ けるために効果 こうか 的 てき な対策 たいさく を打 う ってきたコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう も、14世紀 せいき には政策 せいさく の一貫 いっかん 性 せい を欠 か き、ルーシに関 かん する裁定 さいてい は玉虫色 たまむしいろ のものとなっていき、場合 ばあい によってはリトアニア との妥協 だきょう も行 おこな うことがあった。コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の保護 ほご 者 しゃ たるパレオロゴス朝 あさ 東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく がこの時期 じき には完全 かんぜん に衰退 すいたい しており、皇帝 こうてい の教会 きょうかい 政策 せいさく に関 かん する意思 いし にもコンスタンティノープル教会 きょうかい 自身 じしん の意思 いし にも、統一 とういつ 性 せい が欠 か けていた。ルーシに関 かん して正常 せいじょう な意思 いし 決定 けってい 能力 のうりょく を発揮 はっき し一貫 いっかん 性 せい ある政策 せいさく を行 おこな うのは当時 とうじ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう には荷 に が重 おも かったと言 い えよう。
こうしたコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の態度 たいど と事情 じじょう が、ルーシにおける抗 こう 争 そう の様相 ようそう を複雑 ふくざつ 化 か させていく一 ひと つの要因 よういん ともなった。これはルーシの正 せい 教徒 きょうと 達 たち の間 あいだ にコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の紛争 ふんそう 調停 ちょうてい 能力 のうりょく への疑義 ぎぎ を持 も たせる結果 けっか となった。具体 ぐたい 的 てき には、1350年代 ねんだい に聖 せい アレクシス のロシア府 ふ 主教 しゅきょう 叙 じょ 聖 ひじり に際 さい しブルガリア総 そう 主教 しゅきょう が自 みずか らの息 いき のかかった人物 じんぶつ を叙 じょ 聖 せい しようと介入 かいにゅう 、さらに東 ひがし ローマ皇帝 こうてい 位 い を巡 めぐ ってのカンダクジノス家 か とパレオロゴス家 か での内乱 ないらん からフィロセオス 総 そう 主教 しゅきょう が疎開 そかい したことにより空座 からくら となった主教 しゅきょう 座 ざ にカリストス1世 せい が再 さい 就任 しゅうにん 、すでに聖 せい アレクシスが叙 じょ 聖 ひじり されていた事実 じじつ を無視 むし してロマンを全 ぜん ルーシ府 ふ 主教 しゅきょう として叙 じょ 聖 せい してしまう。これによりルーシには二 に 人 にん の主教 しゅきょう が並 なら び立 た つ事態 じたい となり、結果 けっか 二 に 分割 ぶんかつ された府 ふ 主教 しゅきょう 区 く のうち大 だい ロシアをアレクセイが、小 しょう ロシアをロマンがそれぞれ統轄 とうかつ することとなった[30] 。
このような状況 じょうきょう 下 か で14世紀 せいき 末 まつ にコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう から派遣 はけん されてきた府 ふ 主教 しゅきょう キプリヤンは親 しん リトアニアの姿勢 しせい を鮮明 せんめい にし、ルーシ侵略 しんりゃく を目論 もくろ むリトアニア大公 たいこう 国 こく のことは反 はん イスラームの同盟 どうめい 国 こく として扱 あつか ったのに対 たい し、ルーシに対 たい しては赤子 あかご に対 たい する教師 きょうし であるかのように振 ふ る舞 ま い、政治 せいじ 的 てき 抗争 こうそう に関与 かんよ するルーシの正教会 せいきょうかい 指導 しどう 者 しゃ の過 あやま ちを厳 きび しく叱責 しっせき した。
こうした叱責 しっせき 自体 じたい は正論 せいろん ではあったが、教会 きょうかい にしかもはや統一 とういつ 的 てき 指導 しどう 者 しゃ と保護 ほご 者 しゃ を見出 みだ せないルーシの苦悩 くのう を顧 かえり みずに無神経 むしんけい な叱責 しっせき を名高 なだか いラドネジのセルギイ にまで加 くわ え、リトアニア大公 たいこう 国 こく との友好 ゆうこう 的 てき 態度 たいど をとる府 ふ 主教 しゅきょう キプリヤンの言動 げんどう は、先述 せんじゅつ したように今 いま までルーシの紛争 ふんそう 調停 ちょうてい に無為 むい 無策 むさく であるどころか時 とき には却 かえ ってリトアニアを利 り する決定 けってい を下 くだ してきたコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の過去 かこ と相俟 あいま って、「『帝都 ていと コンスタンティノープルへの援軍 えんぐん の見返 みかえ りとしての東西 とうざい 教会 きょうかい 合同 ごうどう を推進 すいしん する』というエゴのためには、コンスタンティノープルはルーシをどうとでも扱 あつか うのではないか」との印象 いんしょう すらもルーシの正 せい 教徒 きょうと に与 あた え、ルーシにおけるコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の権威 けんい と声望 せいぼう を(あくまで相対 そうたい 的 てき にだが)低下 ていか させることとなった。
ただし文人 ぶんじん としての才能 さいのう に豊 ゆた かであった府 ふ 主教 しゅきょう キプリヤンは、教会 きょうかい 文化 ぶんか 面 めん では多大 ただい な貢献 こうけん をルーシに対 たい して行 い った。年代 ねんだい 記 き や教会 きょうかい 著作 ちょさく の執筆 しっぴつ ・編纂 へんさん を行 おこな い、祈祷 きとう 書 しょ や教父 きょうふ 著作 ちょさく などのギリシャ語 ご 文献 ぶんけん のスラヴ語 ご 翻訳 ほんやく も行 おこな っていった。ルーシの正 せい 教徒 きょうと たちも謙虚 けんきょ に旺盛 おうせい な学習 がくしゅう 意欲 いよく によってよくこれに応 こた え、主 おも に先述 せんじゅつ の荒野 あらの 修道院 しゅうどういん がこうしたビザンティン文化 ぶんか 受容 じゅよう の担 にな い手 て となった。結果 けっか 、「第 だい 二 に 次 じ 南 みなみ スラヴの影響 えいきょう 」と総括 そうかつ される、ルーシの正教会 せいきょうかい の文化 ぶんか 活動 かつどう の隆盛 りゅうせい を迎 むか えた。
クリコヴォの戦 たたか いと、モスクワ大公 たいこう 国 こく の台頭 たいとう [ 編集 へんしゅう ]
「ウラジーミルの生神 うるかみ 女 おんな 」 (イコン )。1131年 ねん にコンスタンティノープルからキエフに贈 おく られた。1155年 ねん にウラジーミル に移 うつ され、ヴァシーリー1世 せい により1395年 ねん にはモスクワに移 うつ された。ロシア正教会 せいきょうかい で最 もっと も有名 ゆうめい なイコンのひとつであり、これを複製 ふくせい したイコンは膨大 ぼうだい な数 かず に上 のぼ る。
1380年 ねん 、モスクワ大公 たいこう ドミトリイ・ドンスコイ 率 ひき いるルーシ諸公 しょこう 連合 れんごう 軍 ぐん は、クリコヴォの戦 たたか い でジョチ・ウルス のママイ・ハン軍 ぐん を破 やぶ った。この戦 たたか いの前 まえ にラドネジのセルギイ は大公 たいこう ドミトリイ・ドンスコイに対 たい して祝福 しゅくふく を与 あた えている。一般 いっぱん にはこの1380年 ねん を以 もっ てルーシは「タタールのくびき 」から解放 かいほう されたとされることが多 おお い。
依然 いぜん としてジョチ・ウルスないしその後継 こうけい ハン国 こく (クリム・ハン国 こく など)の軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい はその後 ご も15世紀 せいき までルーシの諸 しょ 都市 とし が幾度 いくど も略奪 りゃくだつ に遭 あ っていることからも判 わか る通 とお り持続 じぞく しており、17世紀 せいき 末 まつ に至 いた るまで軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい は残存 ざんそん していた。モスクワの人々 ひとびと が「ウラジーミルの生神 うるかみ 女 おんな 」のイコン を用 もち いて祈 いの ったことでティムール の軍 ぐん がモスクワから退 しりぞ いていったとされる伝承 でんしょう からも、遊牧 ゆうぼく 国家 こっか がルーシ諸公 しょこう にとり依然 いぜん として脅威 きょうい であったことが判 わか る。
しかしクリコヴォの戦 たたか いが一 ひと つのきっかけとはなり、モスクワ大公 たいこう 国 こく が名実 めいじつ ともにルーシの第一人者 だいいちにんしゃ となっていくこととなる。ただしこの頃 ころ のルーシの統合 とうごう はまだ緩 ゆる やかなものであった。
フィレンツェ公 おおやけ 会議 かいぎ に対 たい する対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
1439年 ねん 、フィリオクェ問題 もんだい をはじめとする教義 きょうぎ の違 ちが いが争点 そうてん となったものの、フィレンツェ公 おおやけ 会議 かいぎ でカトリック教会 きょうかい と、正教会 せいきょうかい の指導 しどう 者 しゃ であるコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう および東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい ヨハネス8世 せい パレオロゴス との間 あいだ で、教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ の再 さい 統合 とうごう の合意 ごうい がなされた。しかし、コンスタンティノープル市民 しみん や大 だい 貴族 きぞく (ルカス・ノタラス大公 たいこう がその筆頭 ひっとう )も含 ふく めた東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の正教 せいきょう 信者 しんじゃ 達 たち から東西 とうざい 教会 きょうかい 合同 ごうどう 決議 けつぎ に対 たい する猛 もう 反発 はんぱつ が起 お こり、結局 けっきょく 東西 とうざい 教会 きょうかい の合同 ごうどう は実現 じつげん できなかった。背景 はいけい には第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん に決定的 けっていてき となった反 はん 西方 せいほう 教会 きょうかい 感情 かんじょう があるとみられる。
この時 とき 、ロシア正教 せいきょう 信者 しんじゃ も同様 どうよう に猛 もう 反発 はんぱつ を起 お こし、ロシア正教会 せいきょうかい の代表 だいひょう として公 おおやけ 会議 かいぎ に出席 しゅっせき し、再 さい 統合 とうごう に賛成 さんせい したギリシャ人 じん のモスクワ府 ふ 主教 しゅきょう イシドール(ギリシャ語 ご 名 めい イシドロス。在任 ざいにん 1436 -1441年 ねん )は、モスクワに帰任 きにん するとモスクワ大公 たいこう ヴァシーリー2世 せい によって直 ただ ちに捕 と らえられ、府 ふ 主 ぬし 教職 きょうしょく を解 と かれて追放 ついほう された。西方 せいほう 教会 きょうかい 諸国 しょこく から軍事 ぐんじ 的 てき 圧迫 あっぱく を受 う け続 つづ けてきたという点 てん では東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく もルーシも同様 どうよう だったのであり、反 はん 西方 せいほう 教会 きょうかい 感情 かんじょう が広 ひろ く正教会 せいきょうかい 諸国 しょこく に共有 きょうゆう されていた事実 じじつ が示 しめ されている。
イシドールはローマ に逃 のが れ、ローマ・カトリック教会 きょうかい の枢機卿 すうききょう に就任 しゅうにん した。のちに、実際 じっさい の管轄 かんかつ は伴 ともな っておらずあくまで名誉 めいよ 的 てき ・名義 めいぎ 上 じょう のものであったが、コンスタンティノープル総 そう 大司教 だいしきょう ・キプロス大司教 だいしきょう にも任 にん じられる。
当時 とうじ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はオスマン帝国 ていこく によって滅亡 めつぼう 寸前 すんぜん にまで追 お い込 こ まていたために西欧 せいおう の救援 きゅうえん を求 もと めて東西 とうざい 教会 きょうかい の統合 とうごう を進 すす めたが、当時 とうじ のモスクワ大公 たいこう 国 こく にとってそのような妥協 だきょう をする必要 ひつよう はなかったのであり、民衆 みんしゅう のレベルだけでなくモスクワ大公 たいこう という世俗 せぞく 君主 くんしゅ までもが実力 じつりょく 行使 こうし に出 で るほどにまで、対応 たいおう がより先鋭 せんえい 的 てき になる事情 じじょう があったと言 い えよう。
独立 どくりつ ロシア正教会 せいきょうかい の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
イシドールの追放 ついほう 後 ご 、モスクワ大公 たいこう ヴァシーリー2世 せい は1448年 ねん 、ロシア主教 しゅきょう 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう し、新 あたら しい府 ふ 主教 しゅきょう イオナ(1448-1461)を着座 ちゃくざ させた。その後 ご 、ロシア正教会 せいきょうかい はコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう から自治 じち 独立 どくりつ 権 けん を有 ゆう するようになった。ただしこの時 とき は、他 た の正教会 せいきょうかい から自治 じち 独立 どくりつ を承認 しょうにん されてはおらず、事実 じじつ 上 じょう の自治 じち 独立 どくりつ という形 かたち であった。ヴァシーリー2世 せい は幾度 いくど もコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう にロシア正教会 せいきょうかい の独立 どくりつ を認 みと めるよう辞 じ を低 ひく くして要請 ようせい していたが、この直後 ちょくご 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は滅亡 めつぼう し(1453年 ねん )、オスマン帝国 ていこく の支配 しはい 下 か に置 お かれたコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう にはそのような重要 じゅうよう な決定 けってい を下 くだ せるような余裕 よゆう はなかった。
モスクワ大公 たいこう 国 こく の拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
ロシアの「双頭 そうとう の鷲 わし 」
1467年 ねん 、ヴァシーリー2世 せい の長子 ちょうし であるイヴァン3世 せい は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 最後 さいご の皇帝 こうてい コンスタンティノス11世 せい の姪 めい ソフィア(ゾエ・パレオロギナ )を妻 つま として迎 むか え、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の継承 けいしょう 者 しゃ であることを宣言 せんげん した。
その後 ご 、イヴァン3世 せい により、豊 ゆた かな毛皮 けがわ を産 さん する後背 こうはい 地 ち を抱 かか えるノヴゴロド (1478年 ねん )と貿易 ぼうえき の活発 かっぱつ であったプスコフ が征服 せいふく された(正式 せいしき な併合 へいごう は後年 こうねん )。同 どう 時期 じき 、ヤロスラヴリ(1463年 ねん )、ロストフ(1474年 ねん )、トヴェーリ(1485年 ねん )なども次々 つぎつぎ に併合 へいごう され、これにより独自 どくじ の豊富 ほうふ な財源 ざいげん を手 て に入 い れたモスクワ大公 たいこう はルーシ諸公 しょこう ・貴族 きぞく の中 なか で専制 せんせい 君主 くんしゅ として振舞 ふるま う実力 じつりょく を獲得 かくとく した。こうした国力 こくりょく を反映 はんえい し、生神 うるかみ 女 おんな 就寝 しゅうしん 大 だい 聖堂 せいどう (ウスペンスキー大 だい 聖堂 せいどう )がモスクワ のクレムリン 内 うち に建設 けんせつ された。
生神 うるかみ 女 おんな 就寝 しゅうしん 大 だい 聖堂 せいどう (ウスペンスキー大 だい 聖堂 せいどう )
イヴァン3世 せい は初 はじ めて「ツァーリ 」(皇帝 こうてい )の称号 しょうごう を名乗 なの った君主 くんしゅ であり、双頭 そうとう の鷲 わし の紋章 もんしょう がモスクワ大公 たいこう の紋章 もんしょう に加 くわ えられた。
モスクワ大公 たいこう の征服 せいふく 活動 かつどう の中 なか でノヴゴロド大 だい 主教 しゅきょう は明確 めいかく にモスクワ府 ふ 主教 しゅきょう の下 した に位置付 いちづ けられることとなり、カトリック国 こく リトアニアとモスクワの狭間 はざま で揺 ゆ れ動 うご いてきたプスコフの正教会 せいきょうかい 世界 せかい への編入 へんにゅう がほぼ確定 かくてい され、大半 たいはん の東 ひがし スラヴの正教会 せいきょうかい 世界 せかい のヒエラルキーが整理 せいり された。
この時代 じだい 、プスコフ近郊 きんこう の修道 しゅうどう 士 し フィロフェイが、書簡 しょかん 中 ちゅう で「モスクワは第 だい 三 さん のローマ である」と言及 げんきゅう している。モスクワに事実 じじつ 上 じょう 完全 かんぜん に屈服 くっぷく させられたプスコフ人 じん がこのような文言 もんごん を述 の べたのは聊 いささ か奇異 きい に映 うつ るが、当時 とうじ 、「世界 せかい 創造 そうぞう 紀元 きげん 」で7000年 ねん にあたったのが1492年 ねん であり、一種 いっしゅ の世紀 せいき 末 まつ 的 てき な思想 しそう が流布 るふ していたことも「第 だい 三 さん のローマ論 ろん 」の背景 はいけい にあると思 おも われる。コンスタンティノープルの陥落 かんらく とリトアニアの脅威 きょうい を前 まえ に終末 しゅうまつ 思想 しそう を伴 ともな った当時 とうじ のロシアに精神 せいしん 的 てき な緊張 きんちょう があったことは、モスクワによる権力 けんりょく 統一 とういつ への機運 きうん が高 たか まったことの背景 はいけい として指摘 してき されることがある。「モスクワは第 だい 三 さん のローマである」という言葉 ことば は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 滅亡 めつぼう 後 ご の正教会 せいきょうかい 世界 せかい にあって唯一 ゆいいつ の独立 どくりつ 国 こく となったロシアの、正教 せいきょう の守護 しゅご 者 しゃ としての自負 じふ を示 しめ すものとして流布 るふ していく。
コローメンスコエ の「主 おも の昇天 しょうてん 教会 きょうかい 」。1532年 ねん 、ヴァシリー3世 せい が後 ご のイワン雷 かみなり 帝 みかど の誕生 たんじょう を祝 しゅく して建設 けんせつ した教会 きょうかい 。世界 せかい 遺産 いさん 。
イヴァン3世 せい の後継 こうけい 者 しゃ であるヴァシーリー3世 せい は征服 せいふく 事業 じぎょう を継続 けいぞく 。プスコフ (1510年 ねん )、ヴォロク公国 こうこく (1513年 ねん )、リャザン公国 こうこく (1521年 ねん )、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国 こうこく (1522年 ねん )を大公 たいこう 国 こく に編入 へんにゅう した。ノヴゴロドとプスコフという、北方 ほっぽう に栄 さか えた中世 ちゅうせい 共和 きょうわ 政 せい 都市 とし は、ここにおいて名実 めいじつ 共 ども に解体 かいたい された。
次 つぎ のツァーリ、イヴァン4世 せい は、紙 かみ と印刷 いんさつ 機 き の導入 どうにゅう 、常備 じょうび 軍 ぐん の創設 そうせつ などの近代 きんだい 化 か を進 すす め、対外 たいがい 戦争 せんそう (リヴォニア戦争 せんそう など)を実行 じっこう するとともに、教会 きょうかい への国家 こっか の統制 とうせい を強 つよ めた[注 ちゅう 10] 。イヴァン4世 せい の統治 とうち の時代 じだい (特 とく に治世 ちせい 後半 こうはん )は、彼 かれ のあだ名 な となった「雷 かみなり 帝 みかど 」の語 かたり にも象徴 しょうちょう されるようにロシアに恐怖 きょうふ 政治 せいじ が吹 ふ き荒 あ れた時代 じだい であった。後述 こうじゅつ する所有 しょゆう 派 は の流 なが れを汲 く むモスクワの府 ふ 主教 しゅきょう 聖 きよし フィリップ は皇帝 こうてい に対 たい し痛 やめ 悔[注 ちゅう 11] を迫 せま り、国家 こっか と皇帝 こうてい を正常 せいじょう 化 か しようと努力 どりょく したが、最後 さいご には絞殺 しめころ された。
ヴァシーリー2世 せい 以降 いこう 、大公 たいこう ・ツァーリによるロシア正教会 せいきょうかい への介入 かいにゅう は強 つよ まる傾向 けいこう があったが、15世紀 せいき 中頃 なかごろ から16世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて、ロシア正教会 せいきょうかい の性格 せいかく に関 かか わる重要 じゅうよう な論争 ろんそう が教会 きょうかい において起 お こっていた。所有 しょゆう 派 は と非 ひ 所有 しょゆう 派 は の論争 ろんそう である。
所有 しょゆう 派 は と非 ひ 所有 しょゆう 派 は の対立 たいりつ [ 編集 へんしゅう ]
聖 せい イオシフ・ヴォロツキイの直筆 じきひつ 本 ほん
荒野 あらの 修道院 しゅうどういん 運動 うんどう から出発 しゅっぱつ した修道院 しゅうどういん 群 ぐん も、時 とき を経 へ て開墾 かいこん 地 ち により豊 ゆた かになっていたものが多 おお かった。こうした富 とみ を積極 せっきょく 的 てき に用 もち いて人々 ひとびと を助 たす けるべきだとした人々 ひとびと が所有 しょゆう 派 は である。他方 たほう 、隠遁 いんとん 者 しゃ を多数 たすう 生 う み出 だ し、清貧 せいひん を旨 むね とし財産 ざいさん 所有 しょゆう に反対 はんたい した人々 ひとびと が非 ひ 所有 しょゆう 派 は である。
15世紀 せいき 中頃 なかごろ から両派 りょうは の間 あいだ で論争 ろんそう が活発 かっぱつ になったのだが、そもそもこうした富 とみ を巡 めぐ った論争 ろんそう が起 お きること自体 じたい が、修道院 しゅうどういん 群 ぐん の「荒野 あらの 修道院 しゅうどういん 」からの一定 いってい の変質 へんしつ を物語 ものがた るものである。勤勉 きんべん な修道 しゅうどう 士 し 達 たち による過去 かこ の開墾 かいこん の成果 せいか が豊 ゆた かな実 みの りをこの時代 じだい にもたらしたのも事実 じじつ であるが、反面 はんめん 、世俗 せぞく 権力 けんりょく と癒着 ゆちゃく する聖職 せいしょく 者 しゃ 層 そう が形成 けいせい されてきていたのも確 たし かであった。
※ここでは両方 りょうほう のリーダーが列聖 れっせい されていることを特 とく に示 しめ すために、正教会 せいきょうかい で用 もち いられている「聖 きよし 」の称号 しょうごう を付 ふ す。
聖 せい ニル・ソルスキーが生活 せいかつ していたキリロ・ベロゼルスキイ修道院 しゅうどういん
上記 じょうき のそれぞれの派 は のリーダーに「聖 きよし 」という称号 しょうごう が付 ふ されていることから判 わか る通 とお り、後代 こうだい の正教会 せいきょうかい からはいずれも列聖 れっせい されており、両派 りょうは のいずれかが二者択一 にしゃたくいつ の結果 けっか として現代 げんだい において正統 せいとう 性 せい を獲得 かくとく するといったようなことは起 お きていない。所有 しょゆう 派 は は当時 とうじ 、権力 けんりょく 基盤 きばん が整備 せいび され統一 とういつ が進 すす んでいたロシアにおいて豊 ゆた かな財力 ざいりょく を活 い かし、荘厳 そうごん な奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや を整 ととの え、西欧 せいおう の進 すす んだ技術 ぎじゅつ を導入 どうにゅう する担 にな い手 て となり学校 がっこう 教育 きょういく ・社会 しゃかい 福祉 ふくし に力 ちから を入 い れていたと評価 ひょうか され、一方 いっぽう 非 ひ 所有 しょゆう 派 は は、祈 いの りと修道 しゅうどう を通 とお した精神 せいしん 的 てき 向上 こうじょう により、人々 ひとびと の精神 せいしん 生活 せいかつ をより豊 ゆた かにしようと働 はたら いていたと評価 ひょうか される。両派 りょうは ともに当時 とうじ も尊敬 そんけい される修道 しゅうどう 士 し ・聖人 せいじん を生 う み出 だ していた。
しかしながら当時 とうじ のロシア正教会 せいきょうかい は、組織 そしき としては両派 りょうは のバランスを志向 しこう せず、基本 きほん 的 てき に所有 しょゆう 派 は を優先 ゆうせん するようになっていった。こうした所有 しょゆう 派 は の姿勢 しせい への偏 かたよ りが後々 あとあと 、16世紀 せいき 及 およ び17世紀 せいき のロシア正教会 せいきょうかい のさまざまな問題 もんだい に影 かげ を落 お とすことになる。
なお、両派 りょうは の対立 たいりつ の時代 じだい の中 なか にあっても、精神 せいしん 的 てき 遺産 いさん が正教会 せいきょうかい に遺 のこ された。イオシフ・ヴォロツキイは当時 とうじ 隆盛 りゅうせい していた異端 いたん に対 たい する論駁 ろんばく を著 あらわ した。ニル・ソルスキーはアトス山 さん など数々 かずかず の聖地 せいち を訪 おとず れ、ヘシュカスム の神秘 しんぴ 的 てき 奥義 おうぎ を体得 たいとく 、聖 せい 師父 しふ の著作 ちょさく を読 よ んでロシアに帰郷 ききょう し、帰郷 ききょう 後 ご は隠遁 いんとん 所 しょ をつくって修道 しゅうどう 生活 せいかつ を送 おく った。膨大 ぼうだい な著作 ちょさく も遺 のこ している。
モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
イヴァン4世 せい の後継 こうけい 者 しゃ であった皇帝 こうてい フョードル1世 せい はリューリク朝 あさ モスクワ大公 たいこう 国 こく の最後 さいご のツァーリ である(在位 ざいい :1584年 ねん - 1598年 ねん )。信仰 しんこう 熱心 ねっしん であり祈 いの りに熱心 ねっしん なことで知 し られたフョードル1世 せい の在位 ざいい 下 か で、独立 どくりつ ロシア正教会 せいきょうかい のモスクワ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ に昇格 しょうかく する。ただしフョードル1世 せい はツァーリとしては全 まった く凡庸 ぼんよう であり、実権 じっけん のほぼ全 すべ ては貴族 きぞく 間 あいだ の抗 こう 争 そう に勝 か ち残 のこ った、フョードル1世 せい の義兄 ぎけい であったボリス・ゴドゥノフ に握 にぎ られていた。モスクワ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ への昇格 しょうかく もボリス・ゴドゥノフの意向 いこう に沿 そ ったものとみられている。
コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう はモスクワ府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ の総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ への昇格 しょうかく に対 たい しさしたる難色 なんしょく も示 しめ さなかった。
1589年 ねん に府 ふ 主教 しゅきょう イオフが、初代 しょだい モスクワ及 およ び全 ぜん ルーシの総 そう 主教 しゅきょう に就任 しゅうにん した。ロシア正教会 せいきょうかい はモスクワの主教 しゅきょう 座 ざ が総 そう 主教 しゅきょう 制 せい をとることおよび独立 どくりつ 教会 きょうかい としての地位 ちい を、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう イェレミアス2世 せい [注 ちゅう 12] を始 はじ めとした4人 にん の総 そう 主教 しゅきょう (コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 、アレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう 、アンティオキア総 そう 主教 しゅきょう 、エルサレム総 そう 主教 しゅきょう )から承認 しょうにん された。
[31]
17世紀 せいき 以降 いこう 、1917年 ねん のロシア革命 かくめい まではロマノフ朝 あさ の時代 じだい である。この時代 じだい 、ロシア正教会 せいきょうかい は国家 こっか の保護 ほご に入 はい り特権 とっけん 的 てき 立場 たちば を得 え ると同時 どうじ に、ツァーリの強力 きょうりょく な統制 とうせい 下 か に置 お かれた。西欧 せいおう 的 てき な国家 こっか 改革 かいかく を目指 めざ すツァーリ 主導 しゅどう の下 した でロシア正教会 せいきょうかい の西欧 せいおう 化 か が進 すす められていったのもこの時代 じだい であるとまとめられる。正教会 せいきょうかい の西 にし 欧化 おうか の是非 ぜひ はロシア・ウクライナ地域 ちいき に限 かぎ らず、この時代 じだい の全 ぜん 正教会 せいきょうかい にとって最大 さいだい の問題 もんだい であり続 つづ けた[注 ちゅう 13] 。
ただし、ツァーリの強力 きょうりょく な統制 とうせい も西欧 せいおう 化 か についても、一様 いちよう な進行 しんこう プロセスを辿 たど ったわけではない。そしてその生 う み出 だ された結果 けっか についてのステレオタイプな見解 けんかい 「体制 たいせい 従属 じゅうぞく 的 てき なロシア正教会 せいきょうかい 」「他 た の正教会 せいきょうかい に比 くら べて西欧 せいおう 的 てき なロシア正教会 せいきょうかい 」についても、それほど単純 たんじゅん なものではない。まずロマノフ朝 あさ の出発 しゅっぱつ 点 てん は、非常 ひじょう に非力 ひりき なツァーリから始 はじ まっていたことには留意 りゅうい すべきであろう。その正教会 せいきょうかい との関 かか わりの経緯 けいい 、その終結 しゅうけつ 点 てん についてはさまざまな見解 けんかい が存在 そんざい し、これも同 おな じく単純 たんじゅん なものではない。ツァーリの統制 とうせい が完成 かんせい するまでのプロセスを、主 おも に以下 いか の点 てん を順 じゅん に追 お っていくことで概観 がいかん するが、あくまで概要 がいよう でしかないことに注意 ちゅうい されたい。
総 そう 主教 しゅきょう フィラレートによる統治 とうち :世俗 せぞく 権力 けんりょく と教会 きょうかい 勢力 せいりょく の不 ふ 均衡 きんこう
総 そう 主教 しゅきょう ニーコン による改革 かいかく の顛末 てんまつ とその背景 はいけい
ロマノフ朝 あさ がウクライナ西岸 せいがん を勢力 せいりょく 下 か に置 お いたことによる西 にし 欧化 おうか の影響 えいきょう :ブレスト合同 ごうどう とキエフ神学校 しんがっこう
伝統 でんとう を重視 じゅうし する姿勢 しせい の二分 にぶん :古 こ 儀式 ぎしき 派 は の発生 はっせい
世俗 せぞく 権力 けんりょく と教会 きょうかい 勢力 せいりょく の不 ふ 均衡 きんこう [ 編集 へんしゅう ]
『ポーランド人 じん への祝福 しゅくふく を拒 こば む総 そう 主教 しゅきょう エルモゲン 』パーヴェル・チスチャコフによる。1860年 ねん に描 えが かれた作品 さくひん 。
一定 いってい の政治 せいじ 的 てき 手腕 しゅわん を有 ゆう していたボリス・ゴドゥノフ であったが、その治世 ちせい は3年間 ねんかん も続 つづ く飢饉 ききん などに見舞 みま われ安定 あんてい しなかった。ボリス・ゴドゥノフの死 し の前後 ぜんご より、ロシアは後継 こうけい 者 しゃ を巡 めぐ って大 だい 動乱 どうらん の時代 じだい を迎 むか える。
カトリック国 こく のポーランドが介入 かいにゅう して来 く るに及 およ び(ロシア・ポーランド戦争 せんそう )モスクワはポーランドに占領 せんりょう されたが、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう エルモゲン(ゲルモゲン) はモスクワを占領 せんりょう したポーランド人 じん に祝福 しゅくふく を与 あた えるのを拒 こば んだ。ポーランドにより獄中 ごくちゅう に繋 つな がれたモスクワ総 そう 主教 しゅきょう エルモゲンは、混乱 こんらん していたロシアに回状 かいじょう を出 だ し正教 せいきょう 信仰 しんこう の守護 しゅご と国土 こくど 解放 かいほう を呼 よ びかけた[32] 。ロシアではニジニ・ノヴゴロド を中心 ちゅうしん に国民 こくみん 軍 ぐん が編成 へんせい され、ポーランドからモスクワは解放 かいほう された。
その後 ご モスクワでツァーリに選 えら ばれたのはミハイル・ロマノフ であった。ロマノフ朝 あさ がここに創始 そうし されるが、16歳 さい のミハイル・ロマノフはおとなしい人物 じんぶつ であり、実権 じっけん は貴族 きぞく たちによる全国 ぜんこく 会議 かいぎ に握 にぎ られていた。ツァーリ権力 けんりょく を抑制 よくせい するという貴族 きぞく 達 たち の意図 いと が働 はたら いた人選 じんせん であった。
このミハイル・ロマノフの父 ちち であったロストフ府 ふ 主教 しゅきょう フィラレート (俗名 ぞくみょう :フョードル・ロマノフ)[注 ちゅう 14] がエルモゲン総 そう 主教 しゅきょう の後継 こうけい として1619年 ねん にモスクワ総 そう 主教 しゅきょう に着座 ちゃくざ すると(在任 ざいにん は永眠 えいみん する1633年 ねん まで)、フィラレートは精力 せいりょく 的 てき に軍制 ぐんせい 改革 かいかく を含 ふく むさまざまな世俗 せぞく 面 めん での政治 せいじ 改革 かいかく を行 おこな い。ボリス・ゴドゥノフの死後 しご 喪 うしな われていたモスクワ大公 たいこう 国 こく の国土 こくど 回復 かいふく に力 ちから を注 そそ いだ。ミハイル・ロマノフ自身 じしん の政務 せいむ への意欲 いよく の少 すく なさにも一因 いちいん のあったこの総 そう 主教 しゅきょう による政治 せいじ は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく (ビザンチン帝国 ていこく )とその正教会 せいきょうかい の理念 りねん であった、世俗 せぞく 権力 けんりょく と教会 きょうかい の調和 ちょうわ としてのビザンティン・ハーモニー [33] を善 よ しとする後代 こうだい の正教会 せいきょうかい 関係 かんけい 者 しゃ から批判 ひはん されるものである。
貴族 きぞく たちによるツァーリ権力 けんりょく の抑制 よくせい 、そして総 そう 主教 しゅきょう フィラレートによる統治 とうち にみられるように、17世紀 せいき 前半 ぜんはん には未 いま だツァーリの権力 けんりょく はそれほど絶対 ぜったい 的 てき なものではなかったとも言 い えよう。ただしこうしたビザンティン・ハーモニー[33] の破壊 はかい と教会 きょうかい の世俗 せぞく 権力 けんりょく への介入 かいにゅう は政教 せいきょう の相互 そうご 不可侵 ふかしん 性 せい を否定 ひてい した面 めん も有 ゆう しており、世俗 せぞく による教会 きょうかい への介入 かいにゅう という逆 ぎゃく もまた然 しか りとする政治 せいじ 力学 りきがく を否定 ひてい するのを難 むずか しくする結果 けっか も招来 しょうらい した。
ニーコン総 そう 主教 しゅきょう およびその後 ご の改革 かいかく [ 編集 へんしゅう ]
ロシア正教会 せいきょうかい 史 し の中 なか でも特筆 とくひつ される大 だい 事件 じけん として挙 あ げられることが多 おお い総 そう 主教 しゅきょう ニーコン による改革 かいかく は、特筆 とくひつ されて然 しか るべきさまざまな決定的 けっていてき 影響 えいきょう をロシア正教会 せいきょうかい に残 のこ した。この改革 かいかく に対 たい する評価 ひょうか は賛否 さんぴ 両論 りょうろん があり、現代 げんだい の正教会 せいきょうかい 関係 かんけい 者 しゃ からも必 かなら ずその功罪 こうざい の両面 りょうめん が挙 あ げられる。その背景 はいけい と顛末 てんまつ を、概要 がいよう のみ記 しる す。なお、この改革 かいかく は宗教 しゅうきょう 改革 かいかく とは呼 よ ばれない[注 ちゅう 15] 。
ブレスト合同 ごうどう とキエフ神学校 しんがっこう [ 編集 へんしゅう ]
「ルブリン合同 ごうどう 」(1569年 ねん )。東欧 とうおう の大国 たいこく であるポーランド・リトアニア連合 れんごう の成立 せいりつ 。画像 がぞう は19世紀 せいき ポーランドのヤン・マテイコ による絵画 かいが 。
17世紀 せいき 前半 ぜんはん まで、キエフを含 ふく むウクライナ西岸 せいがん はポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の勢力 せいりょく 下 か にあった。すなわちカトリック教会 きょうかい の影響 えいきょう 下 か にあったことになる。同 おな じ時期 じき 、カトリック教会 きょうかい にはプロテスタント に対抗 たいこう する対抗 たいこう 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が起 お きており、世俗 せぞく 権力 けんりょく からもローマカトリック教会 きょうかい からも、ウクライナにおける教会 きょうかい をローマ教皇 きょうこう の下 した に帰属 きぞく させようとする活発 かっぱつ な動 うご きが生 しょう じた。1596年 ねん にはブレスト合同 ごうどう によりウクライナ東方 とうほう カトリック教会 きょうかい が成立 せいりつ 。現在 げんざい も存続 そんぞく する、東方 とうほう 典礼 てんれい を保持 ほじ しつつローマ教皇 きょうこう の教皇 きょうこう 首位 しゅい 権 けん を認 みと める教会 きょうかい である東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい のうち最大 さいだい 級 きゅう の教会 きょうかい がウクライナに誕生 たんじょう した。
これによって、ウクライナに関 かか わるコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の庇護 ひご 下 か にあった正教会 せいきょうかい 指導 しどう 者 しゃ に生 しょう じた潮流 ちょうりゅう は、大 おお きく分 わ けて二 ふた つある。一 ひと つはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス) (1572年 ねん -1638年 ねん )[注 ちゅう 16] にみられる、反 はん ローマカトリック感情 かんじょう からプロテスタントの影響 えいきょう を受 う け入 い れる傾向 けいこう 。いま一 ひと つはキエフ府 ふ 主教 しゅきょう ペトロー・モヒラ にみられる、ローマカトリックに対抗 たいこう するためにラテン神学 しんがく を用 もち いようとする傾向 けいこう である。しかし両派 りょうは ともに西欧 せいおう の神学 しんがく 的 てき な影響 えいきょう を全 ぜん 否定 ひてい するものではなかった。寧 むし ろ「全 ぜん 否定 ひてい できなかった」という方 ほう が正 ただ しい。その要因 よういん はさまざまなものがあるが、一 ひと つの理由 りゆう として当時 とうじ 、独自 どくじ の正教会 せいきょうかい の学問 がくもん 機関 きかん がほぼ皆無 かいむ であったことが挙 あ げられる。オスマン帝国 ていこく では正教会 せいきょうかい の教育 きょういく 機関 きかん 維持 いじ は許 ゆる されず、高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ となる人々 ひとびと はイタリアに行 い ってラテン語 らてんご で神学 しんがく 教育 きょういく を受 う けるしか高度 こうど な教育 きょういく を受 う ける方法 ほうほう がなかった。
この時代 じだい 、聖 せい 師父 しふ に則 のっと った正教会 せいきょうかい の正統 せいとう 的 てき 信仰 しんこう をまだしも汲 く むものとして評価 ひょうか されているのは1672年 ねん のエルサレム総 そう 主教 しゅきょう ドシセオス2世 せい による信仰 しんこう 告白 こくはく 書 しょ であるが、ドシセオスは独学 どくがく で聖 せい 師父 しふ 学 がく を学 まな んでいた人物 じんぶつ であった。より正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう 的 てき な信仰 しんこう を明 あき らかにする著作 ちょさく としては、後代 こうだい アトス山 さん のフィロカリア を待 ま たねばならないとされる。
キエフ府 ふ 主教 しゅきょう ペトロー・モヒラ はカトリック国 こく のポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい 下 か にあって圧倒的 あっとうてき ハンディを抱 かか えつつも、1632年 ねん 、キエフ神学校 しんがっこう を設立 せつりつ する。正教会 せいきょうかい の神品 しんぴん 達 いたる にラテン的 てき 素養 そよう を具 そな えさせ、以 もっ てカトリックに対抗 たいこう しようという狙 ねら いがあったこの学校 がっこう の声望 せいぼう はすぐに高 たか まった。しかしながら当然 とうぜん このようなラテン系 けい の術語 じゅつご 等 とう を正教 せいきょう に導入 どうにゅう する試 こころ みは、いかに正教 せいきょう を護 まも るためという善意 ぜんい から出 で たものであっても、正教会 せいきょうかい 内 ない の伝統 でんとう を重 おも んじる者 もの 達 たち から反発 はんぱつ を買 か うのは自然 しぜん な流 なが れであった。
ウクライナが1654年 ねん に大幅 おおはば な自治 じち 権 けん の保証 ほしょう つきでロシアのツァーリの宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい から脱出 だっしゅつ したことで、ロシアと西 にし ウクライナの物流 ぶつりゅう と人 ひと の交流 こうりゅう は活発 かっぱつ 化 か していく。それはモスクワを中心 ちゅうしん とするロシア正教会 せいきょうかい に西 にし 欧化 おうか の波 なみ が押 お し寄 よ せて来 く ることをも意味 いみ した。
伝統 でんとう を重視 じゅうし する姿勢 しせい の二分 にぶん :古 こ 儀式 ぎしき 派 は の発生 はっせい [ 編集 へんしゅう ]
こうした時 とき に登場 とうじょう してきたのがニーコン であり、彼 かれ はアヴァクーム らと共 とも に正教会 せいきょうかい の西欧 せいおう 化 か に危機 きき 感 かん を抱 いだ き、正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう を守 まも る意識 いしき を持 も っていた人物 じんぶつ であった。だが1652年 ねん にニーコンがツァーリであるアレクセイ の支持 しじ を受 う けて総 そう 主教 しゅきょう に着座 ちゃくざ し教会 きょうかい の改革 かいかく を始 はじ めた段階 だんかい で、アヴァクーム らの一派 いっぱ と分裂 ぶんれつ が生 しょう じた。
先述 せんじゅつ の通 とお りこの時代 じだい 、ロシア正教会 せいきょうかい では所有 しょゆう 派 は が指導 しどう 的 てき 立場 たちば にあったが、所有 しょゆう 派 は は非常 ひじょう に形式 けいしき を重 おも んじる人々 ひとびと であり、形式 けいしき 主義 しゅぎ は非常 ひじょう に深 ふか くロシア正教会 せいきょうかい に根 ね を下 お ろしていた[注 ちゅう 17] 。
アレクセイ・キフシェンコによる絵画 かいが 。「奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや 書 しょ を改訂 かいてい する、総 そう 主教 しゅきょう ニーコン とエピファニー・スラヴィニェツキー」
形式 けいしき 主義 しゅぎ への偏重 へんちょう を中庸 ちゅうよう の状態 じょうたい に適正 てきせい 化 か させること。およびロシア正教会 せいきょうかい の形式 けいしき を、正教 せいきょう 世界 せかい の中心 ちゅうしん たるロシアに相応 ふさわ しくギリシャに倣 なら ったものとし、ギリシャの奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや ・伝統 でんとう ・祈祷 きとう 書 しょ を取 と り入 い れることで正教会 せいきょうかい 世界 せかい の標準 ひょうじゅん 的 てき 地位 ちい をロシアに確立 かくりつ すること。以 もっ てカトリック教会 きょうかい への対抗 たいこう とする。これらがニーコン改革 かいかく によって目指 めざ された。
なお誤解 ごかい されることもあるので注意 ちゅうい を要 よう するが、ニーコン改革 かいかく はロシア正教会 せいきょうかい を革新 かくしん しようとしたのではなく、あくまでも(少 すく なくとも改革 かいかく 者 しゃ の主観 しゅかん 的 てき には)他 た 教会 きょうかい と共通 きょうつう する正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう を確立 かくりつ しようとしたのみであって、伝統 でんとう をいかに保持 ほじ すべきかという問題 もんだい 意識 いしき についてはニーコンに賛成 さんせい した側 がわ も、ニーコンに反対 はんたい する側 がわ も、異 こと なるところはなかった。西欧 せいおう におけるカトリック とプロテスタント の間 あいだ の相違 そうい ほどには両者 りょうしゃ には見解 けんかい 上 じょう の溝 みぞ はなかったと言 い える。
だがそれでもニーコンによる改革 かいかく は、ルーシから先祖 せんぞ 代々 だいだい 、祈祷 きとう 形式 けいしき を護 まも ってきた自負 じふ を持 も つ人々 ひとびと からの猛烈 もうれつ な反発 はんぱつ を生 う み、反対 はんたい 者 しゃ から致命 ちめい 者 しゃ も出 で た。ツァーリの縁戚 えんせき からも致命 ちめい 者 しゃ が出 で たことにこの反対 はんたい 運動 うんどう が広 ひろ く起 お こっていたことが示 しめ されている。これらの改革 かいかく に反発 はんぱつ した人々 ひとびと は改革 かいかく を受 う け入 い れた人々 ひとびと から「分離 ぶんり 派 は (ラスコーリニキ )」と蔑称 べっしょう された。正教 せいきょう 古 こ 儀式 ぎしき 派 は が中立 ちゅうりつ 的 てき な呼称 こしょう である。
後代 こうだい 、帝国 ていこく の安定 あんてい を期 き す帝 みかど 権 けん の思惑 おもわく から「『分離 ぶんり 派 は 』という名称 めいしょう は差別 さべつ 的 てき である」として、彼等 かれら に対 たい して若干 じゃっかん の配慮 はいりょ が示 しめ されるようになり、エカチェリーナ2世 せい の時代 じだい から公文書 こうぶんしょ においては「古 こ 儀式 ぎしき 派 は 」の名称 めいしょう を使用 しよう するようになった。現代 げんだい においても「古 こ 儀式 ぎしき 派 は 」が、当事 とうじ 者 しゃ に配慮 はいりょ した名称 めいしょう となっている。
当初 とうしょ は古 こ 儀式 ぎしき 派 は に対 たい する弾圧 だんあつ は人頭 じんとう 税 ぜい を二 に 倍 ばい 払 はら わせるなどの間接 かんせつ 的 てき 手段 しゅだん に止 と まったが、次第 しだい に実力 じつりょく 行使 こうし の面 めん が増大 ぞうだい 。ニーコン総 そう 主教 しゅきょう はツァーリの摂政 せっしょう という立場 たちば を活 い かし、古 こ 儀式 ぎしき 派 は への実力 じつりょく 行使 こうし を伴 ともな った弾圧 だんあつ を進 すす めていった。古 こ 儀式 ぎしき 派 は による集団 しゅうだん 焼身 しょうしん 自殺 じさつ といった熱狂 ねっきょう 的 てき な抵抗 ていこう 運動 うんどう はロシア全国 ぜんこく 各地 かくち でみられた。
反対 はんたい 運動 うんどう の背景 はいけい には、当時 とうじ 、正教会 せいきょうかい 世界 せかい にあって長時間 ちょうじかん 立 た ったままで祈祷 きとう を行 おこな っていたのはロシア正教会 せいきょうかい のみであり、ロシアにやってきた外来 がいらい の正 せい 教徒 きょうと (特 とく にオスマン帝国 ていこく 領内 りょうない やポーランドといった異教徒 いきょうと の支配 しはい 下 か にある正 せい 教徒 きょうと )が長時間 ちょうじかん の起立 きりつ 姿勢 しせい に堪 こた えられない姿 すがた などを目 ま の当 あた りにしていたロシア正 せい 教徒 きょうと からすれば、「自 みずか らこそが正統 せいとう の祈 いの りを護 まも っている」という意識 いしき が生 う まれても仕方 しかた なかったという事情 じじょう もあった。
アヴァクーム らの一派 いっぱ はその後 ご 、数々 かずかず の分派 ぶんぱ を生 う みつつ「古 こ 儀式 ぎしき 派 は 」として存続 そんぞく していくことに成 な る。弾圧 だんあつ の程度 ていど に時期 じき による濃淡 のうたん はあったものの、ロシア帝国 ていこく 政府 せいふ は基本 きほん 的 てき にこれを長 なが い間 あいだ 認 みと めなかったので、彼等 かれら はシベリアなどの辺境 へんきょう に逃 のが れていくこととなった。
改革 かいかく がこうした大 だい 規模 きぼ な波乱 はらん を呼 よ び起 お こした結果 けっか 、ニーコン総 そう 主教 しゅきょう の改革 かいかく の方針 ほうしん は認 みと められたものの、全国 ぜんこく 的 てき に生 しょう じた混乱 こんらん をツァーリ・アレクセイから指弾 しだん されたニーコン総 そう 主教 しゅきょう は1666年 ねん に追放 ついほう された。元々 もともと 教権 きょうけん が俗 ぞく 権 けん に優越 ゆうえつ することを主張 しゅちょう して譲 ゆず らなかったニーコン総 そう 主教 しゅきょう とアレクセイ皇帝 こうてい は、その基本 きほん 的 てき な立場 たちば からしてすでに差異 さい が大 おお きくなってきており、改革 かいかく の是非 ぜひ 云々 うんぬん は追放 ついほう の口実 こうじつ に過 す ぎなかったという側面 そくめん も指摘 してき される。
正教会 せいきょうかい 世界 せかい 同士 どうし の交流 こうりゅう が深 ふか まる中 なか 、明 あき らかになってきた奉 たてまつ 神 かみ 礼 れい や祈祷 きとう 書 しょ の差異 さい の是正 ぜせい は確 たし かに必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ であったのであり、ニーコン総 そう 主教 しゅきょう による改革 かいかく は不可避 ふかひ であったともいわれる。この時代 じだい に、ロシア正教会 せいきょうかい が現代 げんだい に至 いた るまで保持 ほじ する奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや の骨格 こっかく が出来上 できあ がっており、ロシア以外 いがい の正教会 せいきょうかい との差異 さい は縮 ちぢ まった。だがニーコン総 そう 主教 しゅきょう は性急 せいきゅう に過 す ぎ、また暴力 ぼうりょく 的 てき に過 す ぎた。不可避 ふかひ とはいえ改革 かいかく を強引 ごういん に進 すす めた結果 けっか 生 う み出 だ されたもの、それは大 だい 規模 きぼ な分派 ぶんぱ である古 こ 儀式 ぎしき 派 は であり、加 くわ えてツァーリによる総 そう 主教 しゅきょう 追放 ついほう を招来 しょうらい したことによる、ロマノフ朝 あさ によるロシア正教会 せいきょうかい に対 たい する統制 とうせい の完成 かんせい であった。
ただし、古 こ 儀式 ぎしき 派 は の主導 しゅどう 者 しゃ であった長 ちょう 司祭 しさい アヴァクーム は、ニーコン総 そう 主教 しゅきょう が追放 ついほう された後 のち 、1682年 ねん に火刑 かけい に処 しょ されており、この「改革 かいかく 」がニーコン一 いち 人 にん の手 て によってなされたわけではないことには注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。
18世紀 せいき 前半 ぜんはん :ピョートル大帝 たいてい による教会 きょうかい 統制 とうせい 策 さく [ 編集 へんしゅう ]
ピョートル大帝 たいてい
ピョートル1世 せい (在位 ざいい 1682年 ねん - 1725年 ねん )以降 いこう 、ロマノフ朝 あさ の皇帝 こうてい はロシア正教会 せいきょうかい を国教 こっきょう として保護 ほご する一方 いっぽう でさらに厳重 げんじゅう な統制 とうせい 下 か に置 お くようになる。ピョートル1世 せい は西欧 せいおう への窓口 まどぐち および首都 しゅと として1703年 ねん にサンクトペテルブルク を建設 けんせつ したことにもみられるようにロシアの西欧 せいおう 化 か を目指 めざ していたが、それは教会 きょうかい も例外 れいがい ではなかった。
1701年 ねん 、ピョートル1世 せい は修道院 しゅうどういん 省 しょう を設置 せっち して教会 きょうかい 領 りょう を統括 とうかつ 。不穏 ふおん な空気 くうき が流 なが れることを察 さっ したツァーリは修道 しゅうどう 士 し の執筆 しっぴつ を禁止 きんし した。同年 どうねん 、教区 きょうく 聖職 せいしょく 者 しゃ に対 たい して新 あら たな義務 ぎむ を課 か した。教区 きょうく の警護 けいご と消防 しょうぼう 、刑務所 けいむしょ の見張 みは り、助産婦 じょさんぷ の監視 かんし (捨 す て子 ご の防止 ぼうし のため)等 とう であった。1708年 ねん には痛 やめ 悔 (告解 こっかい )の内容 ないよう に反 はん 国家 こっか 的 てき な言動 げんどう があった場合 ばあい 、司祭 しさい は国家 こっか に報告 ほうこく するよう秘密 ひみつ の勅 みことのり 令 れい で義務付 ぎむづ けられた。違反 いはん した司祭 しさい には罰金 ばっきん が科 か せられた。また、多 おお くの修道院 しゅうどういん 領 りょう が国庫 こっこ に没収 ぼっしゅう された。
総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう にも例外 れいがい なくツァーリの改革 かいかく の手 て が及 およ んだ。1700年 ねん のアドリアン総 そう 主教 しゅきょう の永眠 えいみん 後 ご には後任 こうにん の総 そう 主教 しゅきょう を選出 せんしゅつ することを許 ゆる されなかった。1721年 ねん にはモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう は正式 せいしき に廃止 はいし され、英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい とドイツのプロテスタント教会 きょうかい の制度 せいど に倣 なら い、皇帝 こうてい 権力 けんりょく のコントロールの下 した に置 お かれた聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん が設置 せっち された。その総裁 そうさい には俗人 ぞくじん が任命 にんめい された。総裁 そうさい 制度 せいど は1726年 ねん から1741年 ねん まで一時 いちじ 的 てき に中断 ちゅうだん したものの、エリザヴェータ 女帝 にょてい が復活 ふっかつ させ、以降 いこう 1917年 ねん の総 そう 主教 しゅきょう 制 せい の復活 ふっかつ まで、ロシア正教会 せいきょうかい は総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ が空位 くうい のままとなり、時 とき には軍人 ぐんじん ・無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ が就任 しゅうにん する総裁 そうさい の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれることとなった。
こうした痛 いた 悔機密 きみつ の世俗 せぞく 国家 こっか に対 たい する通報 つうほう 義務 ぎむ 、および聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん 制度 せいど は、正教会 せいきょうかい の教会 きょうかい 法 ほう に違反 いはん するものであった。
1721年 ねん にはウクライナ人 じん でキエフ出身 しゅっしん のF.プロコポーヴィチ[注 ちゅう 18] が作成 さくせい した草案 そうあん に基 もと づいて『宗務 しゅうむ 規定 きてい 』が定 さだ められ、ツァーリの首長 しゅちょう 権 けん の確認 かくにん ・教会 きょうかい に対 たい する国家 こっか の官吏 かんり に近 ちか い役割 やくわり の義務付 ぎむづ け・修道 しゅうどう 士 し の統制 とうせい ・古 こ 儀式 ぎしき 派 は への抑圧 よくあつ などが規定 きてい された。
また、ピョートル1世 せい は好 この んでウクライナ人 じん を登用 とうよう した。1700年 ねん から1762年 ねん までの間 あいだ の127人 にん の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ のうち70人 にん がウクライナ人 じん かベラルーシ人 じん で、ロシア人 じん は47人 にん に過 す ぎず、あとはギリシャ人 じん 、ルーマニア人 じん 、セルビア人 じん などであった。ウクライナの影響 えいきょう が強 つよ まることは必然 ひつぜん 的 てき に、カトリックの影響 えいきょう の強 つよ いキエフ・モギラ・アカデミーにみられるような同地 どうち からの西欧 せいおう 的 てき な影響 えいきょう が強 つよ まることに帰結 きけつ し、ロシア正教会 せいきょうかい の西欧 せいおう 化 か ・ラテン語 らてんご 偏重 へんちょう が著 いちじる しく進 すす んだとされる。
なおこの時代 じだい 、古 こ 儀式 ぎしき 派 は からはピョートル1世 せい は「アンチキリスト 」と忌 い み嫌 きら われ、ツァーリによる弾圧 だんあつ と終末 しゅうまつ 論 ろん 的 てき 認識 にんしき の広 ひろ まりとが相俟 あいま って古 こ 儀式 ぎしき 派 は の集団 しゅうだん 焼身 しょうしん 自殺 じさつ が多発 たはつ した。一説 いっせつ には17世紀 せいき 末 まつ までの焼身 しょうしん 自殺 じさつ 者 しゃ 数 すう は9千 せん 人 にん 、以後 いご の歴史 れきし も含 ふく めれば総数 そうすう 2万 まん 人 にん にも及 およ ぶという。
世俗 せぞく 権力 けんりょく による総 そう 主教 しゅきょう 制 せい の廃止 はいし と教会 きょうかい の統制 とうせい 、および司祭 しさい に反 はん 国家 こっか 的 てき 言動 げんどう についての通報 つうほう の義務付 ぎむづ けが行 おこな われたことは、著 いちじる しく正教会 せいきょうかい の教会 きょうかい 法 ほう に反 はん するものであり、正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう を捻 ね じ曲 ま げたとされる西欧 せいおう 化 か と合 あ わせ、後代 こうだい の正教会 せいきょうかい からこの時代 じだい のロマノフ朝 あさ の施策 しさく は激 はげ しく論難 ろんなん されるものとなっている。ピョートル1世 せい についての評価 ひょうか は正教会 せいきょうかい からは著 いちじる しく低 ひく い[注 ちゅう 19] 。
また、ピョートル1世 せい により教会 きょうかい 行政 ぎょうせい の整備 せいび は成 な ったが、ピョートルが在任 ざいにん 中 ちゅう に出 だ した勅 みことのり 令 れい ・宣言 せんげん ・協定 きょうてい ・規約 きやく ・指令 しれい ・認可 にんか 状 じょう 等 とう の数 かず は実 じつ に約 やく 3000にも及 およ んだ。こうした朝令暮改 ちょうれいぼかい は、国民 こくみん 国家 こっか の遵法 じゅんぽう 精神 せいしん ・法治 ほうち の精神 せいしん が育 そだ つことを妨 さまた げるものであったともされる[34] 。したがってこうした教会 きょうかい 機構 きこう の整備 せいび とそれに関 かん する法令 ほうれい の数々 かずかず は教会 きょうかい 法 ほう 違反 いはん であるにとどまらず、教会 きょうかい の安定 あんてい にすら繋 つな がらないものであった。
この時代 じだい 、精神 せいしん 的 てき 救済 きゅうさい を求 もと める人々 ひとびと は、各地 かくち の長老 ちょうろう 達 いたる に教 おし えを請 こ うようになっていった。
18世紀 せいき 後半 こうはん から19世紀 せいき 初頭 しょとう [ 編集 へんしゅう ]
エカチェリーナ2世 せい による宗教 しゅうきょう 政策 せいさく と古 こ 儀式 ぎしき 派 は [ 編集 へんしゅう ]
エカチェリーナ2世 せい (1794年 ねん の肖像 しょうぞう )
ピョートル1世 せい 以降 いこう の18世紀 せいき 中頃 なかごろ は、古 こ 儀式 ぎしき 派 は と、拡大 かくだい したロシア帝国 ていこく におけるイスラーム に対 たい する施策 しさく が大変 たいへん 厳 きび しい時代 じだい であったが、プガチョフの乱 らん 以降 いこう 、エカチェリーナ2世 せい (在位 ざいい 1762年 ねん - 1796年 ねん )は少数 しょうすう 民族 みんぞく に対 たい する施策 しさく を緩和 かんわ し、モスク とイスラームの学校 がっこう 設立 せつりつ を認 みと めた。
古 こ 儀式 ぎしき 派 は に対 たい する施策 しさく も緩和 かんわ された。すでにピョートル3世 せい によって方針 ほうしん 転換 てんかん が図 はか られていたが、エカチェリーナ2世 せい はこれを踏襲 とうしゅう 。グリゴリー・ポチョムキン は特 とく に古 こ 儀式 ぎしき 派 は に好意 こうい 的 てき であった。1769年 ねん には古 こ 儀式 ぎしき 派 は 信徒 しんと が裁判 さいばん で証人 しょうにん を立 た てることを認 みと め、1782年 ねん に2倍 ばい の人頭 じんとう 税 ぜい を廃止 はいし 、公文書 こうぶんしょ において「分離 ぶんり 派 は 」(ラスコーリニク)ではなく「古 こ 儀式 ぎしき 派 は 」(スタロオヴリャーヂェツ)を使 つか うことに決 き めたのもこの時 とき である。1785年 ねん には諸々 もろもろ の市民 しみん 権 けん が与 あた えられ、痛 やめ 悔 の自由 じゆう も認 みと めた。
一方 いっぽう 、ルター派 は のピョートル3世 せい を嫌 きら ったロシア正教会 せいきょうかい がエカチェリーナ2世 せい のクーデターと即位 そくい に支持 しじ を与 あた えたものの、女帝 にょてい はロシア正教会 せいきょうかい に対 たい しピョートル1世 せい 以来 いらい の政策 せいさく を踏襲 とうしゅう し、教会 きょうかい に対 たい する統制 とうせい と西欧 せいおう 化 か といった基本 きほん 方針 ほうしん には変更 へんこう が加 くわ えられなかった。このため、ピョートル1世 せい ほどではないにせよ、エカチェリーナ2世 せい に対 たい する現代 げんだい の正教会 せいきょうかい からの評価 ひょうか はあまり高 たか くない。
古 こ 儀式 ぎしき 派 は は産業 さんぎょう 面 めん において特 とく に活躍 かつやく していくこととなった。1771年 ねん 末 まつ から翌年 よくねん にかけてモスクワで流行 りゅうこう したペスト 禍 わざわい に際 さい しても古 こ 儀式 ぎしき 派 は は慈善 じぜん 活動 かつどう に熱心 ねっしん に取 と り組 く み、古 こ 儀式 ぎしき 派 は の共同 きょうどう 体 たい はこの時代 じだい に大 おお きく発展 はってん した。18世紀 せいき の女帝 にょてい 達 たち は首都 しゅと サンクトペテルブルクに工場 こうじょう を置 お くことを嫌 きら い、産業 さんぎょう 省 しょう はモスクワに置 お かれモスクワは産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん であり続 つづ けたが、19世紀 せいき のモスクワでは古 こ 儀式 ぎしき 派 は の経済 けいざい 活動 かつどう が活発 かっぱつ であった。
この時代 じだい に正教会 せいきょうかい の聖歌 せいか に、無 む 伴奏 ばんそう 声楽 せいがく という原則 げんそく は揺 ゆ るがなかったものの、イタリア 的 てき なポリフォニー を主 おも とした西欧 せいおう 的 てき な要素 ようそ が取 と り入 い れられていく。すでにその萌芽 ほうが は17世紀 せいき のウクライナに顕 あらわ れていたが、ウクライナをロシア帝国 ていこく が勢力 せいりょく 下 か に置 お いていく過程 かてい でその文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう をロシア正教会 せいきょうかい は受 う けることになった。アルテミイ・ヴェーデリ (ロシア語 ご 版 ばん ) 、ステパン・デグチャリョフ (ロシア語 ご 版 ばん ) といった作曲 さっきょく 家 か が18世紀 せいき 後半 こうはん の代表 だいひょう 的 てき 聖歌 せいか 作曲 さっきょく 家 か である。
ドミトリー・ボルトニャンスキー
18世紀 せいき 末 まつ から19世紀 せいき 初頭 しょとう にかけ、聖歌 せいか のみならず世俗 せぞく 曲 きょく でも活躍 かつやく したことで最 もっと も有名 ゆうめい な作曲 さっきょく 家 か であるドミトリー・ボルトニャンスキー (1751年 ねん - 1825年 ねん )を、「正教会 せいきょうかい 聖歌 せいか のイタリア化 か を完成 かんせい させ、伝統 でんとう 的 てき 正教会 せいきょうかい 聖歌 せいか を損 そこ なった人物 じんぶつ 」と看做 みな すか、「正教会 せいきょうかい 聖歌 せいか のイタリア化 か を一定 いってい のレベルに留 と めた、ロシア音楽 おんがく ・ロシア正教会 せいきょうかい 聖歌 せいか の原点 げんてん 」と看做 みな すかは、論者 ろんしゃ によって議論 ぎろん が分 わ かれている。アントニン・プレオブラジェンスキー (ロシア語 ご 版 ばん ) は、1924年 ねん の著書 ちょしょ 『ロシアの礼拝 れいはい 音楽 おんがく 』(ロシア語 ご : Культовая музыка в России )において、「ボルトニャンスキーは最後 さいご のイタリア人 じん である」とし、真 しん のロシア音楽 おんがく の復活 ふっかつ を試 こころ みた者 もの たちの先駆 せんく 者 しゃ であるとした。1920年代 ねんだい にボルトニャンスキーの評価 ひょうか が「イタリアかぶれ」から根本 こんぽん 的 てき に転換 てんかん している[35] 。
ボルトニャンスキーの合唱 がっしょう 聖歌 せいか コンチェルト を、1840年代 ねんだい の訪露 ほうろ 中 ちゅう に聴 き いたエクトル・ベルリオーズ は、「稀 まれ に見 み る名 な 技 わざ 、ニュアンスの絶妙 ぜつみょう な組 く み合 あ わせ、ハーモニーの響 ひび き良 よ さ、そして全 まった く驚 おどろ くべきことだが奔放 ほんぽう な声 こえ 部 ぶ 配置 はいち であり、最後 さいご に挙 あ げた特徴 とくちょう は、ボルトニャンスキーの同 どう 時代 じだい 人 じん 、とりわけ彼 かれ が師 し としたとされるイタリア人 じん が……遵守 じゅんしゅ していた全 ぜん 規則 きそく の見事 みごと な無視 むし である」と高 たか く評価 ひょうか している[36] 。
また、ボルトニャンスキーは中世 ちゅうせい 聖歌 せいか を近代 きんだい の楽譜 がくふ に転記 てんき することにも取 と り組 く んでいた[37] 。
ボルトニャンスキーは50曲 きょく におよぶ合唱 がっしょう 聖歌 せいか コンチェルト を作曲 さっきょく した[38] 。複数 ふくすう 名 めい の各 かく パートのソロと、合唱 がっしょう とがハーモニーをなす形式 けいしき である。これらのコンチェルトには日本語 にほんご 訳 やく も存在 そんざい しており(正教会 せいきょうかい の聖歌 せいか 「我 わ が霊 れい よ 爾 しか 何 な ぞ悶 もだ え泣 な き叫 さけ ぶや」 - MP3ファイルのあるページ)、水 みず の輪 わ 混声 こんせい 合唱 がっしょう 団 だん が毎年 まいとし の定期 ていき 演奏 えんそう 会 かい で必 かなら ず取 と り上 あ げている。
問題 もんだい の拡大 かくだい と改革 かいかく の模索 もさく ・聖人 せいじん の輩出 はいしゅつ [ 編集 へんしゅう ]
アレクサンドル1世 せい (在位 ざいい :1809年 ねん - 1825年 ねん )は神秘 しんぴ 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう していたが、モラヴィア兄弟 きょうだい 団 だん やドイツ神秘 しんぴ 主義 しゅぎ と接触 せっしょく しクエーカー をロシアに招待 しょうたい したことにもみられるように、彼 かれ の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ は西方 せいほう を志向 しこう していて正教会 せいきょうかい とはほとんど接点 せってん がなかったと考 かんが えられている。皇帝 こうてい の正教会 せいきょうかい に対 たい する無 む 関心 かんしん は、19世紀 せいき におけるロシア正教会 せいきょうかい の問題 もんだい の拡大 かくだい と解決 かいけつ の遅延 ちえん を結果 けっか 的 てき にもたらすこととなった。
熊 くま に食 た べ物 もの を与 あた えるサロフの聖 せい セラフィム 。聖 せい セラフィムが行 おこな った森林 しんりん での修行 しゅぎょう は、18世紀 せいき 末 すえ から19世紀 せいき にかけて、ロシアにおける荒野 あらの 修道院 しゅうどういん の伝統 でんとう 的 てき 精神 せいしん を復興 ふっこう するものの代表 だいひょう 例 れい であった。
19世紀 せいき はロシア正教会 せいきょうかい の問題 もんだい が膨 ふく れ上 あ がっていった時代 じだい であった。教会 きょうかい 法 ほう は前 ぜん 近代 きんだい 的 てき なものであった上 うえ に教会 きょうかい 司法 しほう は未 み 整備 せいび のまま、高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ の風紀 ふうき 紊乱 びんらん は最悪 さいあく のレベルに達 たっ しており、他方 たほう 、教会 きょうかい を支 ささ える底辺 ていへん に位置 いち する司祭 しさい 達 いたる の貧困 ひんこん は悲惨 ひさん を極 きわ めて社会 しゃかい 問題 もんだい 化 か していった。19世紀 せいき 中 ちゅう ごろには、もはや教会 きょうかい の改革 かいかく の必要 ひつよう 性 せい は誰 だれ の目 め にも明 あき らかなものとなっていたが、I.S.ベーリュスチンは著書 ちょしょ 『19世紀 せいき のロシア農民 のうみん 司祭 しさい の生活 せいかつ 』(訳 わけ :白石 しらいし 治朗 じろう )においてそうした情況 じょうきょう を詳細 しょうさい に告発 こくはつ した[注 ちゅう 20] 。大改革 だいかいかく を進 すす めていたアレクサンドル2世 せい (在位 ざいい 1855年 ねん - 1881年 ねん )と、開明 かいめい 的 てき であるとされていた聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん 総裁 そうさい A.P.トルストイは本書 ほんしょ に共感 きょうかん を示 しめ して問題 もんだい 意識 いしき を共有 きょうゆう したといわれるが、そのことによる皇帝 こうてい によるベーリュスチンに対 たい する保護 ほご 命令 めいれい が無 な ければ、そのあまりに赤裸々 せきらら な内容 ないよう を問題 もんだい 視 し した聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん によって、ベーリュスチン神父 しんぷ はソロヴェツキー修道院 しゅうどういん に追放 ついほう されるところであった。元々 もともと 極寒 ごっかん の地 ち において豊 ゆた かでなかったロシア帝国 ていこく はあまりにも深刻 しんこく な貧困 ひんこん というハンディを抱 かか え、改革 かいかく は遅々 ちち として進 すす まなかった。
このような悲惨 ひさん な時代 じだい にあって、ロシア正教会 せいきょうかい には精神 せいしん 的 てき な救済 きゅうさい を求 もと める人々 ひとびと が絶 た えなかった。サロフの聖 せい セラフィム 、クロンシュタットの聖 せい イオアン 、アラスカの聖 せい インノケンティ 、日本 にっぽん の亜 あ 使徒 しと 聖 せい ニコライ(ニコライ・カサートキン) といった多 おお くの聖人 せいじん も輩出 はいしゅつ されている。前述 ぜんじゅつ の開明 かいめい 的 てき な聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん 総裁 そうさい A.P.トルストイは、ニコライ・カサートキンの日本 にっぽん での伝道 でんどう 活動 かつどう に対 たい してさまざまな援助 えんじょ を行 おこな っている。
19世紀 せいき 半 なか ばはさまざまなロシア正教会 せいきょうかい の矛盾 むじゅん が顕在 けんざい 化 か した時代 じだい であったが、同時 どうじ にそれに対 たい する問題 もんだい 意識 いしき もまた広 ひろ く共有 きょうゆう され、精神 せいしん 的 てき 復興 ふっこう と教会 きょうかい の改革 かいかく が模索 もさく されていく時代 じだい でもあった。これらの模索 もさく と試 こころ みはアレクサンドル2世 せい の暗殺 あんさつ などによってほとんど中途 ちゅうと に終 お わったが、豊 ゆた かに聖人 せいじん ・文化 ぶんか が生 う み出 だ される時代 じだい 精神 せいしん を表 あらわ すものでもあった。
教会 きょうかい 文化 ぶんか :聖歌 せいか ・イコン・絵画 かいが (19世紀 せいき ~20世紀 せいき 初頭 しょとう )[ 編集 へんしゅう ]
アレクサンドル・アルハンゲルスキー 。はじめて正教会 せいきょうかい の公式 こうしき な聖歌 せいか 隊 たい に混声 こんせい 合唱 がっしょう を導入 どうにゅう し、混声 こんせい 合唱 がっしょう 団 だん の指導 しどう に当 あ たり、多 おお くの聖歌 せいか 作曲 さっきょく を行 おこな った。
19世紀 せいき も後半 こうはん に入 はい ると、教会 きょうかい 文化 ぶんか が豊 ゆた かに花開 はなひら いた。
聖歌 せいか の面 めん ではロシア・正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう を復興 ふっこう しようとした人々 ひとびと によって新 あら たな地平 ちへい が切 き り開 ひら かれた。初 はじ めてロシア聖歌 せいか に混声 こんせい 合唱 がっしょう を取 と り入 い れ、古典 こてん 聖歌 せいか の研究 けんきゅう も行 おこな っていたアレクサンドル・アルハンゲルスキー といった聖歌 せいか 作曲 さっきょく 家 か のほか、世俗 せぞく の作曲 さっきょく 家 か にもニコライ・リムスキー=コルサコフ をはじめとして伝統 でんとう 的 てき 聖歌 せいか の復興 ふっこう を模索 もさく する人々 ひとびと が現 あらわ れた。この時代 じだい 、多 おお くの作曲 さっきょく 家 か が正教会 せいきょうかい の聖歌 せいか を作曲 さっきょく している(Category:正教会 せいきょうかい 聖歌 せいか 作曲 さっきょく 家 か を参照 さんしょう )。19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてはパーヴェル・チェスノコフ が活躍 かつやく 。チェスノコフは多作 たさく な聖歌 せいか 作曲 さっきょく 家 か であり、特 とく に重 じゅう 低音 ていおん を活 い かした聖歌 せいか を得意 とくい とした。
19世紀 せいき ロシア聖歌 せいか の伝統 でんとう 復興 ふっこう の模索 もさく はまだ不十分 ふじゅうぶん であり、西欧 せいおう 的 てき 聖歌 せいか からは脱却 だっきゃく していないとする見解 けんかい も存在 そんざい するが、イタリア音楽 おんがく のほとんどコピーであった18世紀 せいき の聖歌 せいか と違 ちが い、この時代 じだい の聖歌 せいか には現代 げんだい でも正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう に則 のっと ったスタンダードとして歌 うた われるものも多 おお い。
イコン についてもイタリア・ルネッサンスの影響 えいきょう を脱 だっ してビザンチンの伝統 でんとう が見直 みなお される運動 うんどう が始 はじ められた。他方 たほう 、世俗 せぞく 絵画 かいが の領域 りょういき では西欧 せいおう 的 てき な手法 しゅほう を用 もち いつつも題材 だいざい を正教会 せいきょうかい に則 のっと った作品 さくひん の数々 かずかず が生 う み出 だ されていった。宗教 しゅうきょう 的 てき 象徴 しょうちょう 主義 しゅぎ の代表 だいひょう 的 てき 指導 しどう 者 しゃ といわれるミハイル・ネステロフ 、ワシーリー・スリコフ 、ヴィクトル・ヴァスネツォフ などが有名 ゆうめい であるが、彼 かれ らは世俗 せぞく 絵画 かいが の他 ほか に大 だい 聖堂 せいどう のフレスコ画 が も手 て がけた。
アレクサンドル・アルハンゲルスキーとヴィクトル・ヴァスネツォフの父 ちち は正教会 せいきょうかい の司祭 しさい であり、同 どう 時代 じだい のI.S.ベーリュスチン神父 しんぷ が告発 こくはつ したような「無 む 教養 きょうよう で堕落 だらく したロシアの司祭 しさい 」というようなイメージとは異 こと なる人々 ひとびと がそうした階層 かいそう からも生 う み出 だ されていたことが窺 うかが える。
19世紀 せいき のロシア正教会 せいきょうかい の教会 きょうかい 文化 ぶんか は、その時期 じき に伝道 でんどう された日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい に今日 きょう に至 いた るまで多大 ただい な影響 えいきょう を及 およ ぼしている。ボルトニャンスキー、アルハンゲルスキーの聖歌 せいか は今 いま もなお日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい で広 ひろ く歌 うた われている。この転換期 てんかんき に留学 りゅうがく したイリナ山下 やました りん が「イタリヤ画 が 」を好 この み、ビザンチンイコンを「おばけ絵 え 」として嫌 きら っていたという逸話 いつわ も、両方 りょうほう の様式 ようしき が混在 こんざい していた時代 じだい 背景 はいけい があればこそであった。
これらの19世紀 せいき のロシア正教会 せいきょうかい 文化 ぶんか については、その西欧 せいおう 化 か と伝統 でんとう 継承 けいしょう の度合 どあ い、及 およ びその是非 ぜひ を巡 めぐ り、多様 たよう な温度 おんど 差 さ を伴 ともな う賛否 さんぴ 両論 りょうろん がある。
以下 いか の絵画 かいが はイコン ではないが、正教 せいきょう に題材 だいざい をとる世俗 せぞく 絵画 かいが である。
ロマノフ朝 あさ による対外 たいがい 的 てき 宣教 せんきょう [ 編集 へんしゅう ]
対外 たいがい 的 てき には、ロシア正教会 せいきょうかい はロシア領 りょう の拡大 かくだい とともにその宣教 せんきょう 範囲 はんい を拡大 かくだい し、シベリア 、アラスカ 、さらにはロシア国外 こくがい の日本 にっぽん などへ宣教師 せんきょうし を送 おく り、教会 きょうかい を建 た てた。19世紀 せいき のロシア正教会 せいきょうかい の伝道 でんどう の当事 とうじ 者 しゃ 達 たち は、「在外 ざいがい ロシア人 じん のためのロシア正教会 せいきょうかい 」ではなく、あくまで「現地 げんち 人 じん の正教会 せいきょうかい 」を建 た てることを目指 めざ していた。このことが、現地 げんち に派遣 はけん された神品 しんぴん による、現地 げんち 語 ご による祈祷 きとう 書 しょ ・聖書 せいしょ の翻訳 ほんやく を活発 かっぱつ 化 か させた。アラスカの聖 せい インノケンティ によってアレウト語 ご への翻訳 ほんやく がなされ、日本 にっぽん の亜 あ 使徒 しと 聖 せい ニコライ によって日本語 にほんご への翻訳 ほんやく がなされた。
20世紀 せいき 初頭 しょとう :改革 かいかく への志向 しこう と革命 かくめい による頓挫 とんざ [ 編集 へんしゅう ]
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19世紀 せいき の間 あいだ に明 あき らかになった教会 きょうかい の諸 しょ 問題 もんだい を解決 かいけつ するための改革 かいかく を求 もと める声 こえ は、聖職 せいしょく 者 しゃ ・神学 しんがく 生 せい ・信徒 しんと 等 とう の間 あいだ から広範 こうはん に起 お こっていた。改革 かいかく を求 もと めていたのは信徒 しんと や下位 かい 聖職 せいしょく 者 しゃ のみではなく高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ も同様 どうよう であり、皇帝 こうてい に謁見 えっけん 可能 かのう ではあるが聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん 総裁 そうさい の許可 きょか なしに皇帝 こうてい に要望 ようぼう を伝 つた えることを許 ゆる されなかった高位 こうい の主教 しゅきょう 達 いたる は、皇帝 こうてい に贈 おく るイコン に教会 きょうかい 側 がわ の要望 ようぼう を伝 つた える手紙 てがみ を添付 てんぷ するなどしていた。
この時代 じだい において、ピョートル大帝 たいてい によって廃止 はいし されて久 ひさ しかったモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ の復活 ふっかつ (これは国家 こっか 機関 きかん たる聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん による教会 きょうかい に対 たい する硬直 こうちょく 的 てき な統制 とうせい の抜本 ばっぽん 的 てき 見直 みなお しと、教会 きょうかい 法 ほう 上 じょう の正常 せいじょう 化 か を意味 いみ する)、極貧 ごくひん にあえぐ農村 のうそん 司祭 しさい (殆 ほとん どが妻帯 さいたい 司祭 しさい )の生活 せいかつ の向上 こうじょう 、上層 じょうそう 部 ぶ 指導 しどう 者 しゃ 達 たち の腐敗 ふはい の一掃 いっそう などといった組織 そしき 上 じょう の問題 もんだい の他 ほか 、教会 きょうかい の精神 せいしん 面 めん の復興 ふっこう が改革 かいかく の課題 かだい とされ、対処 たいしょ の方策 ほうさく には様々 さまざま な見解 けんかい の差異 さい があったものの、問題 もんだい 意識 いしき は広 ひろ く共有 きょうゆう された。
これらの声 こえ は公 おおやけ 会議 かいぎ の開催 かいさい 要求 ようきゅう に結 むす びついていった。当初 とうしょ は公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい に難色 なんしょく を示 しめ していた聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん であったが、聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん 総裁 そうさい に改革 かいかく に否定 ひてい 的 てき なコンスタンチン・ポベドノスツェフ に代 か わってオブレンスキー公 こう が就任 しゅうにん するとともに、10人 にん の府 ふ 主教 しゅきょう 、21人 にん の神学 しんがく 大学 だいがく の教授 きょうじゅ が集 あつ まり、公 おおやけ 会議 かいぎ 実現 じつげん に向 む けて準備 じゅんび が進 すす められていた。しかしながら公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい の準備 じゅんび の時期 じき に前後 ぜんご して第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、ニコライ2世 せい が戦争 せんそう にかかりきりになるとともに、公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい は遅 おく れた。
聖 せい ティーホン がモスクワ総 そう 主教 しゅきょう に着座 ちゃくざ した直後 ちょくご の時期 じき の、ロシア正教会 せいきょうかい の最高 さいこう 幹部 かんぶ 達 たち 。クーコリ を着用 ちゃくよう しているのが聖 せい ティーホン(前列 ぜんれつ 右 みぎ から3人 にん 目 め 、他 た の白 しろ いクロブーク を被 こうむ っているのは府 ふ 主教 しゅきょう 達 いたる 、1917年 ねん 撮影 さつえい )
公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい が実現 じつげん したのは帝政 ていせい が終焉 しゅうえん を迎 むか えた1917年 ねん である。公 おおやけ 会議 かいぎ により、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ が2月 がつ 革命 かくめい 後 ご の1917年 ねん 6月 がつ に復興 ふっこう した。ただし改革 かいかく を志向 しこう する公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい は帝政 ていせい 下 か で長期間 ちょうきかん にわたり準備 じゅんび されていたものであり、革命 かくめい によって帝政 ていせい が崩壊 ほうかい したことが公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい に結 むす びついたわけではない。ロシア正教会 せいきょうかい における前例 ぜんれい のない規模 きぼ での公 おおやけ 会議 かいぎ 開催 かいさい は出席 しゅっせき 者 しゃ の範囲 はんい 設定 せってい とその確保 かくほ 、議事 ぎじ 進行 しんこう のあり方 かた 、教会 きょうかい 伝統 でんとう の検討 けんとう など、様々 さまざま な面 めん で膨大 ぼうだい かつ綿密 めんみつ な準備 じゅんび を必要 ひつよう としたものであり、帝政 ていせい が崩壊 ほうかい した直後 ちょくご に一朝一夕 いっちょういっせき に実現 じつげん 可能 かのう なものではなかったからである。
公 おおやけ 会議 かいぎ では総 そう 主教 しゅきょう 制 せい の復活 ふっかつ が決議 けつぎ されたほか、女性 じょせい 輔祭制度 せいど の復活 ふっかつ なども真剣 しんけん に討議 とうぎ された[40] 。しかしながら革命 かくめい と内戦 ないせん による社会 しゃかい 的 てき 混乱 こんらん と、その後 ご の革命 かくめい 政府 せいふ による教会 きょうかい に対 たい する弾圧 だんあつ により、公 おおやけ 会議 かいぎ などによる改革 かいかく への動 うご きはモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ の復活 ふっかつ を除 のぞ き殆 ほとん ど頓挫 とんざ した。
2月 がつ 革命 かくめい 後 ご に成立 せいりつ したロシア臨時 りんじ 政府 せいふ は、聖 ひじり 務 つとむ 会 かい 院 いん と同様 どうよう の教会 きょうかい に対 たい する統制 とうせい を引 ひ き継 つ ぐことを企図 きと したが、その後 ご 短期間 たんきかん で臨時 りんじ 政府 せいふ が崩壊 ほうかい し、無 む 神 かみ 論 ろん を掲 かか げるボリシェヴィキ が実権 じっけん を握 にぎ る。これはロシア正教会 せいきょうかい に対 たい する大 だい 弾圧 だんあつ の始 はじ まりとなった。教会 きょうかい は改革 かいかく どころではなくなり、何 なに よりもまず生 い き残 のこ りを目指 めざ すことを余儀 よぎ なくされた。
ソ連 それん :無 む 神 かみ 論 ろん 政権 せいけん による弾圧 だんあつ の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
左 ひだり :ペトル・クルティツキイ府 ふ 主教 しゅきょう (1937年 ねん 銃殺 じゅうさつ )、中央 ちゅうおう :ティーホン総 そう 主教 しゅきょう (1925年 ねん 病没 びょうぼつ )、右 みぎ :フェオドル・ポズデエフスキイ大 だい 主教 しゅきょう (1937年 ねん 銃殺 じゅうさつ )。1924年 ねん 撮影 さつえい 。3人 にん とも新 しん 致命 ちめい 者 しゃ として列聖 れっせい されている。
ロマノフ朝 あさ により庇護 ひご と統制 とうせい の両方 りょうほう を受 う けつつ存続 そんぞく してきたロシア正教会 せいきょうかい は、20世紀 せいき 初頭 しょとう にも文化 ぶんか 面 めん での繁栄 はんえい を19世紀 せいき に引 ひ き続 つづ いて継続 けいぞく する一方 いっぽう 、先述 せんじゅつ の通 とお り改革 かいかく への志向 しこう を強 つよ めて教会 きょうかい の諸 しょ 問題 もんだい に対処 たいしょ しようとしていたが、20世紀 せいき 前半 ぜんはん に起 お きたロシア革命 かくめい によって大 おお きな打撃 だげき を蒙 こうむ り、改革 かいかく も頓挫 とんざ することとなった。ロシア正教会 せいきょうかい 側 がわ の対応 たいおう は、ロシアに残 のこ って白 しろ 軍 ぐん に協力 きょうりょく して共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく に抵抗 ていこう する者 もの や、ロシアに残 のこ って共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく に一定 いってい 程度 ていど 妥協 だきょう する者 もの 、亡命 ぼうめい する者 もの 、地下 ちか 活動 かつどう に移 うつ る者 もの などに分 わ かれたが、やがて共産 きょうさん 主義 しゅぎ に抵抗 ていこう する者 もの の多 おお くは白 しろ 軍 ぐん とともに殲滅 せんめつ され、殺害 さつがい されるか国外 こくがい に亡命 ぼうめい するかカタコンベ系 けい 諸 しょ 正教会 せいきょうかい として地下 ちか で活動 かつどう するかのいずれかに至 いた った。
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん による弾圧 だんあつ の概要 がいよう [ 編集 へんしゅう ]
レーニン統治 とうち 時代 じだい の教会 きょうかい 財産 ざいさん の接収 せっしゅう 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
レーニン統治 とうち 時代 じだい の、革命 かくめい 派 は による裁判 さいばん で死刑 しけい を宣告 せんこく される聖職 せいしょく 者 しゃ と地主 じぬし 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
レーニン統治 とうち 時代 じだい に強制 きょうせい 労働 ろうどう に従事 じゅうじ する聖職 せいしょく 者 しゃ 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
1917年 ねん のロシア革命 かくめい によって無 む 神 かみ 論 ろん を奉 ほう じるソヴィエト政権 せいけん が成立 せいりつ すると、多数 たすう の聖堂 せいどう や修道院 しゅうどういん が閉鎖 へいさ され、財産 ざいさん が没収 ぼっしゅう された。後 のち に世界 せかい 遺産 いさん となるソロヴェツキー諸島 しょとう の修道院 しゅうどういん 群 ぐん は強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に転用 てんよう された。
聖職 せいしょく 者 しゃ や信者 しんじゃ が外国 がいこく のスパイ などの嫌疑 けんぎ で逮捕 たいほ され、また多数 たすう の者 もの が処刑 しょけい され致命 ちめい した。日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の京都 きょうと 主教 しゅきょう を務 つと めていたことのあるペルミの聖 せい アンドロニク は、生 い き埋 う めにされた上 うえ で銃殺 じゅうさつ されるという特異 とくい な致命 ちめい を遂 と げたことで知 し られている。
レーニン統治 とうち 時代 じだい の1921年 ねん から1923年 ねん にかけてだけで、主教 しゅきょう 28人 にん 、妻帯 さいたい 司祭 しさい 2691人 にん 、修道 しゅうどう 士 し 1962人 にん 、修道 しゅうどう 女 おんな 3447人 にん 、その他 た 信徒 しんと 多数 たすう が処刑 しょけい されたが、1918年 ねん から1930年 ねん にかけてみれば、およそ4万 まん 2千 せん 人 にん の聖職 せいしょく 者 しゃ が殺 ころ され、1930年代 ねんだい にも3万 まん から3万 まん 5千 せん の司祭 しさい が銃殺 じゅうさつ もしくは投獄 とうごく された。1937年 ねん と1938年 ねん には52人 にん の主教 しゅきょう のうち40人 にん が銃殺 じゅうさつ された。
当初 とうしょ は無 む 神 かみ 論 ろん を標榜 ひょうぼう するボリシェヴィキに対 たい して強硬 きょうこう な反発 はんぱつ を示 しめ していたモスクワ総 そう 主教 しゅきょう ティーホン(チーホン) は、想像 そうぞう 以上 いじょう に苛烈 かれつ な弾圧 だんあつ が教会 きょうかい に対 たい して行 おこな われていく情勢 じょうせい に対 たい して現実 げんじつ 的 てき 姿勢 しせい に転換 てんかん し、ソヴィエト政権 せいけん をロシアの正当 せいとう な政府 せいふ と認 みと め一定 いってい の協力 きょうりょく を行 おこな ったが、教会 きょうかい の活動 かつどう はなお著 いちじる しく制限 せいげん された。政府 せいふ の迫害 はくがい を恐 おそ れ、多数 たすう の亡命 ぼうめい 者 しゃ も出 で た。1927年 ねん のセルギー府 ふ 主教 しゅきょう によるソ連 それん 政権 せいけん への「忠誠 ちゅうせい 宣言 せんげん 」は反発 はんぱつ を招 まね き、カタコンベ系 けい 諸 しょ 正教会 せいきょうかい が形成 けいせい された。彼 かれ らは主流 しゅりゅう 派 は 正教会 せいきょうかい からは古 こ 儀式 ぎしき 派 は と同 おな じく分離 ぶんり 派 は と蔑称 べっしょう された。カタコンベ系 けい 諸 しょ 正教会 せいきょうかい の側 がわ はセルギー府 ふ 主教 しゅきょう の「忠誠 ちゅうせい 宣言 せんげん 」を受 う け入 い れる主流 しゅりゅう 派 は ロシア正教会 せいきょうかい を「セルギー派 は 」と呼 よ び非難 ひなん した。この分裂 ぶんれつ は現在 げんざい も継続 けいぞく している[44] 。
教会 きょうかい は文化 ぶんか 面 めん でも多大 ただい な弾圧 だんあつ を被 こうむ った。当時 とうじ 最 もっと も活躍 かつやく しており多作 たさく な聖歌 せいか 作曲 さっきょく 家 か の一人 ひとり であったパーヴェル・チェスノコフ も革命 かくめい 以降 いこう は聖歌 せいか 作曲 さっきょく を禁 きん じられ、同様 どうよう に全 すべ ての音楽家 おんがくか が聖歌 せいか に関 かか わることを禁止 きんし もしくは制限 せいげん された。革命 かくめい 後 ご 、ソ連 それん 時代 じだい を通 つう じてペレストロイカ より前 まえ に聖歌 せいか の録音 ろくおん が許 ゆる されたのは、セルゲイ・ラフマニノフ の作品 さくひん 『徹夜 てつや 祷 いのり 』を世俗 せぞく 合唱 がっしょう 団 だん が録音 ろくおん した一 いち 回 かい のみである。
爆破 ばくは され崩 くず れゆく、救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう
1931年 ねん にはスターリン の命令 めいれい によって救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう がダイナマイト爆破 ばくは された。他 ほか にもクロンシュタットのイオアン が奉職 ほうしょく していた聖 せい アンドレイ大 だい 聖堂 せいどう や、カザン・クレムリン (世界 せかい 遺産 いさん )の生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 聖堂 せいどう (ブラゴヴェシェンスキー聖堂 せいどう ・破壊 はかい は1930年 ねん )も破壊 はかい されている。
弾圧 だんあつ の度合 どあ いの濃淡 のうたん [ 編集 へんしゅう ]
ソ連 それん 時代 じだい を通 つう じてロシア正教会 せいきょうかい は過酷 かこく な弾圧 だんあつ の下 した にあったが、その度合 どあ いは一様 いちよう ではなかった。先述 せんじゅつ したように腐敗 ふはい していたロシア正教会 せいきょうかい につき、当初 とうしょ ボリシェヴィキ・ソ連 れん 政府 せいふ は弾圧 だんあつ を加 くわ えればあっさり瓦解 がかい し消滅 しょうめつ すると考 かんが えていたのだが、多数 たすう の致命 ちめい 者 しゃ を出 だ してもなお正教会 せいきょうかい の信仰 しんこう が消滅 しょうめつ しないことにみられた強固 きょうこ な信仰 しんこう の存在 そんざい という現実 げんじつ を目 ま の当 あた りにして、一定 いってい 程度 ていど の宥和 ゆうわ 策 さく をとる方向 ほうこう へ方針 ほうしん 転換 てんかん する必要 ひつよう が認 みと められたからであった。ただし宥和 ゆうわ 策 さく といってもあくまで相対 そうたい 的 てき なものであって、教会 きょうかい が抑圧 よくあつ の対象 たいしょう であることには変 か わりなかった。
1943年 ねん のナチス・ドイツの侵攻 しんこう に対 たい してソ連 それん 人民 じんみん の士気 しき を鼓舞 こぶ する必要 ひつよう に駆 か られたスターリンは、それまでの物理 ぶつり 的 てき 破壊 はかい を伴 ともな った正教会 せいきょうかい への迫害 はくがい を方向 ほうこう 転換 てんかん して教会 きょうかい 活動 かつどう の一定 いってい の復興 ふっこう を認 みと め、1925年 ねん に総 そう 主教 しゅきょう ティーホンが永眠 えいみん して以降 いこう 、空位 くうい となっていた総 そう 主教 しゅきょう の選出 せんしゅつ を認 みと めた。この時 とき 選出 せんしゅつ されたのがセルギイ・ストラゴロツキー総 そう 主教 しゅきょう である[注 ちゅう 21] 。それまで禁止 きんし されていた教会 きょうかい 関連 かんれん の出版 しゅっぱん 物 ぶつ が極 きわ めて限定 げんてい されたものではあったものの認 みと められ、1918年 ねん から閉鎖 へいさ されていたモスクワ神学 しんがく アカデミーは再開 さいかい を許可 きょか された。
だがスターリンの死後 しご 、フルシチョフ が再度 さいど 、ロシア正教会 せいきょうかい への統制 とうせい を強化 きょうか 。緩 ゆる やかかつ細々 こまごま とした回復 かいふく 基調 きちょう にあったロシア正教会 せいきょうかい は再度 さいど 打撃 だげき を蒙 こうむ り、教会 きょうかい 数 すう は半分 はんぶん 以下 いか に減少 げんしょう 。以降 いこう 、ソ連 それん 崩壊 ほうかい に至 いた るまでロシア正教会 せいきょうかい の教 きょう 勢 ぜい が回復 かいふく することはなかった。
このように、ソ連邦 それんぽう 時代 じだい は確 たし かに統制 とうせい の程度 ていど に濃淡 のうたん はあったものの、総 そう じてロシア正教会 せいきょうかい にとっては受難 じゅなん の時代 じだい 以外 いがい の何 なに 物 ぶつ でもなかった。神父 しんぷ は聖堂 せいどう での奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや の中 なか で行 おこな われるもの以外 いがい には説教 せっきょう を禁 きん じられた。埋葬 まいそう 式 しき の際 さい にロシアに伝統 でんとう 的 てき であった、聖歌 せいか 隊 たい と司祭 しさい が信徒 しんと 達 たち を先導 せんどう して聖堂 せいどう から墓地 ぼち まで聖歌 せいか を歌 うた いつつ永眠 えいみん 者 しゃ の棺 かん を運 はこ んで行進 こうしん するという習慣 しゅうかん などは勿論 もちろん 認 みと められず、墓地 ぼち における埋葬 まいそう の際 さい には司祭 しさい は祭服 さいふく の着用 ちゃくよう を聖堂 せいどう 外 がい では許 ゆる されておらず、墓地 ぼち において最後 さいご の祈 いの りを捧 ささ げることも許 ゆる されなかった。出版 しゅっぱん 物 ぶつ には厳重 げんじゅう な検閲 けんえつ が行 おこな われた。全 すべ ての宗教 しゅうきょう を弾圧 だんあつ するソ連 それん にあって、計画 けいかく 経済 けいざい の下 した で聖書 せいしょ や祈祷 きとう 書 しょ ・聖歌 せいか 譜 ふ の印刷 いんさつ などに割 わ り当 あ てられる資材 しざい はごく僅 わず かであり、聖職 せいしょく 者 しゃ や神 かみ 学生 がくせい 達 たち は限 かぎ られた印刷物 いんさつぶつ を使 つか いまわしたり先人 せんじん からのお下 さ がりを貰 もら い受 う けたりするなどして物理 ぶつり 的 てき 不足 ふそく をしのいだ。勿論 もちろん 当局 とうきょく に対 たい する批判 ひはん は許 ゆる されず、スパイも活用 かつよう した秘密 ひみつ 警察 けいさつ によって一般 いっぱん 社会 しゃかい と同様 どうよう 、教会 きょうかい は監視 かんし を受 う け続 つづ けた。
他方 たほう で、弾圧 だんあつ を緩和 かんわ して信徒 しんと を守 まも るため、ソ連 それん 当局 とうきょく に対 たい して一定 いってい の協力 きょうりょく を行 おこな った、あるいは強制 きょうせい された聖職 せいしょく 者 しゃ 達 たち がいたのは事実 じじつ である。これには「やむをえない」面 めん もありそのためにロシア正教会 せいきょうかい は存続 そんぞく することができたのは確 たし かだが、同時 どうじ に「当局 とうきょく との癒着 ゆちゃく 」の疑義 ぎぎ も生 う まれてしまうこととなった(事実 じじつ 、癒着 ゆちゃく していた聖職 せいしょく 者 しゃ もいた)。この疑義 ぎぎ は現在 げんざい に至 いた るまでロシア正教会 せいきょうかい への不信 ふしん 感 かん の源 みなもと となっており、ロシア正教会 せいきょうかい 自身 じしん にとっても解決 かいけつ の容易 ようい でない頭痛 ずつう の種 たね となっている。
ただし、このような弾圧 だんあつ 時代 じだい においても一般 いっぱん の正 せい 教徒 きょうと から抵抗 ていこう が全 まった く無 な かったわけではなく、ピアニスト であるマリヤ・ユーディナ のように、半 なか ば公然 こうぜん と体制 たいせい に対 たい して正 せい 教徒 きょうと としてのアイデンティティを表明 ひょうめい し抵抗 ていこう した者 もの もいた。
弾圧 だんあつ ・抑圧 よくあつ は、ペレストロイカ 時代 じだい に至 いた ってようやく緩和 かんわ された。ミハイル・ゴルバチョフ 書記 しょき 長 ちょう が信仰 しんこう の自由 じゆう を認 みと める姿勢 しせい を打 う ち出 だ し、1988年 ねん 4月 がつ 29日 にち にロシア正教会 せいきょうかい のピメン総 そう 司教 しきょう ら6人 にん の指導 しどう 者 しゃ と会談 かいだん した[46] 。ソ連 それん 政府 せいふ の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ が教会 きょうかい 指導 しどう 者 しゃ と会談 かいだん したのは1943年 ねん 以来 いらい のことで、ゴルバチョフは会談 かいだん で、ソ連 それん が過去 かこ に教会 きょうかい と信者 しんじゃ に過 あやま ちをおかしたことを認 みと めた[46]
亡命 ぼうめい 者 しゃ 達 たち の動向 どうこう [ 編集 へんしゅう ]
ヨーロッパ や北 きた アメリカ に亡命 ぼうめい した信徒 しんと や聖職 せいしょく 者 しゃ は、すでに移民 いみん していたロシア移民 いみん が建 た てた各地 かくち のロシア系 けい 正教会 せいきょうかい に拠 よ り、信仰 しんこう を守 まも った。それによりパリ やニューヨーク でロシア正教会 せいきょうかい の神学校 しんがっこう が建 た ち、20世紀 せいき における神学 しんがく 研究 けんきゅう の1つの中心 ちゅうしん となった。亡命 ぼうめい 後 ご 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ にユダヤ人 じん を救済 きゅうさい していたことでゲシュタポ に連行 れんこう されラーフェンスブリュック強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ で致命 ちめい した母 はは マリヤ が暮 く らしていたパリの家 いえ が、亡命 ぼうめい した正 せい 教徒 きょうと 達 いたる の知的 ちてき ・神学 しんがく 的 てき 議論 ぎろん の中心 ちゅうしん 的 てき 存在 そんざい の一 ひと つともなっていたことも、フランス 等 ひとし に亡命 ぼうめい した人々 ひとびと により信仰 しんこう 生活 せいかつ ・知的 ちてき 活動 かつどう が守 まも られていたことの一 いち 例 れい である。
亡命 ぼうめい した著名 ちょめい なロシア人 じん 神学 しんがく 者 しゃ ・哲学 てつがく 者 しゃ の中 なか には、母 はは マリヤの痛 やめ 悔担当 たんとう 神父 しんぷ でもあったセルゲイ・ブルガーコフ 、ニコライ・ベルジャーエフ 、ウラジーミル・ロースキイ 、パーヴェル・エフドキーモフ らがいる。
現地 げんち にあった既存 きそん の正教会 せいきょうかい 教区 きょうく に拠 よ る亡命 ぼうめい 者 しゃ がいた一方 いっぽう で、新 あら たな教会 きょうかい 組織 そしき を設立 せつりつ ・存続 そんぞく させていくグループも存在 そんざい した。これを在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい (ROCOR、Russian Orthodox Church Outside Russia)と呼 よ び、1922年 ねん にセルビア のスレムスキ・カルロヴツィ (Sremski Karlovci: Сремски Карловци ) に集 たか った亡命 ぼうめい ロシア人 じん 主教 しゅきょう 達 たち によって設立 せつりつ された。在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい は1927年 ねん にソヴィエト政府 せいふ に対 たい する忠誠 ちゅうせい の誓約 せいやく を要求 ようきゅう した総 そう 主教 しゅきょう 代理 だいり 代行 だいこう セルギイ(・ストラゴロツキー)の総 そう 主教 しゅきょう 位 い 継承 けいしょう を認 みと めず、セルギイの後継 こうけい 者 しゃ 達 たち に対 たい しても長 なが くその正統 せいとう 性 せい を認 みと めなかった。他方 たほう 、さまざまな事情 じじょう から亡命 ぼうめい 先 さき の各地 かくち 正教会 せいきょうかい とも若干 じゃっかん の摩擦 まさつ が起 お こり、その教会 きょうかい 法 ほう 上 じょう の立場 たちば の不安定 ふあんてい 性 せい から、長 なが く他 ほか の正教会 せいきょうかい との間 あいだ に正常 せいじょう な関係 かんけい が構築 こうちく されないままとなった。
現況 げんきょう - ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご から現在 げんざい [ 編集 へんしゅう ]
復興 ふっこう と課題 かだい 、国家 こっか との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
再建 さいけん された救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう
正教会 せいきょうかい をはじめとして宗教 しゅうきょう に大 だい 弾圧 だんあつ を加 くわ えたソヴィエト政権 せいけん が崩壊 ほうかい した後 のち 、ロシア正教会 せいきょうかい はロシア人 じん の精神 せいしん 的 てき なよりどころとして教 きょう 勢 ぜい を再 ふたた び伸 の ばしている。破壊 はかい されたカザン の生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 聖堂 せいどう 、モスクワ の救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう の復興 ふっこう をはじめとして、各地 かくち でソ連 それん 時代 じだい に破壊 はかい された聖堂 せいどう の復興 ふっこう や教会 きょうかい 組織 そしき の再建 さいけん 、および修道院 しゅうどういん の復興 ふっこう ・新設 しんせつ が進 すす んでいる。ソ連 それん 時代 じだい に禁 きん じられていた放送 ほうそう ・出版 しゅっぱん も活発 かっぱつ に行 おこな われるようになった。
ソ連 それん は崩壊 ほうかい したが、ソ連 それん 時代 じだい に当局 とうきょく に協力 きょうりょく していた聖職 せいしょく 者 しゃ がいたこと(止 や むを得 え ず信徒 しんと を守 まも るために協力 きょうりょく した者 もの がほとんどであったとされるが、進 すす んで協力 きょうりょく していた者 もの もいたとされる)による信徒 しんと ・国民 こくみん からの教会 きょうかい に対 たい する不信 ふしん が尾 お を引 ひ いており、ロシア正教会 せいきょうかい にとって解決 かいけつ の容易 ようい でない問題 もんだい となっている[47] 。
ロシア国内 こくない の宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ 達 たち とプーチン 。左 ひだり から仏教 ぶっきょう (チベット仏教 ぶっきょう )、イスラーム 、正教 せいきょう (アレクシイ2世 せい )の指導 しどう 者 しゃ 達 たち 。(2001年 ねん 2月 がつ )
ロシア連邦 れんぽう において、一 いち 宗教 しゅうきょう 団体 だんたい としては別格 べっかく の扱 あつか いを政府 せいふ から受 う けているロシア正教会 せいきょうかい ではあるが、国教 こっきょう とは位置 いち づけられていない(世界 せかい で現在 げんざい 国教 こっきょう としての扱 あつか いを受 う ける正教会 せいきょうかい 組織 そしき はギリシャ正教会 せいきょうかい 、フィンランド正教会 せいきょうかい のみである)。ロシア連邦 れんぽう は多 た 民族 みんぞく 国家 こっか でありムスリム や仏教 ぶっきょう 徒 と も多数 たすう 存在 そんざい しており、政府 せいふ も正教 せいきょう 以外 いがい の宗教 しゅうきょう に対 たい する一定 いってい の配慮 はいりょ を示 しめ している。
ロシア正教会 せいきょうかい に限 かぎ らず、正教会 せいきょうかい は現在 げんざい 、「正教 せいきょう の離散 りさん 」と呼 よ ばれる問題 もんだい を抱 かか えている。これは、正教 せいきょう が現代 げんだい に入 はい って土地 とち ではなく各 かく 民族 みんぞく 教会 きょうかい ごとに管轄 かんかつ を保持 ほじ する傾向 けいこう が強 つよ まり、教区 きょうく を巡 めぐ る争 あらそ いが複数 ふくすう 発生 はっせい している問題 もんだい を指 さ す。ロシア正教会 せいきょうかい も同様 どうよう の問題 もんだい を各地 かくち に存在 そんざい するロシア人 じん コミュニティを巡 めぐ って抱 かか えており、多 おお くは決着 けっちゃく をみていない[48] 。
在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい のラウルス府 ふ 主教 しゅきょう (向 むか って左 ひだり )と、ロシア正教会 せいきょうかい のアレクシイ2世 せい 総 そう 主教 しゅきょう (向 むか って右 みぎ )。2008年 ねん 2月 がつ 28日 にち 撮影 さつえい 。
ただし懸案 けんあん のひとつであった在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい との関係 かんけい については、ロシア正教会 せいきょうかい の首座 しゅざ 主教 しゅきょう であるアレクシイ2世 せい 総 そう 主教 しゅきょう 指導 しどう 下 か のモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ と在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい で和解 わかい 交渉 こうしょう が進 すす められ、2007年 ねん 5月 がつ 17日 にち モスクワで最終 さいしゅう 合意 ごうい 文書 ぶんしょ の締結 ていけつ に至 いた った[49] 。在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい は準 じゅん 自治 じち 正教会 せいきょうかい としての格 かく を有 ゆう することとなった。
ロシア正教会 せいきょうかい と西方 せいほう 教会 きょうかい の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
合法 ごうほう 化 か された東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい や、主 おも にアメリカ から入 はい ってくる福音 ふくいん 派 は などプロテスタント の伝道 でんどう との競争 きょうそう に晒 さら され、これらとの緊張 きんちょう 関係 かんけい におかれてもいる。特 とく に東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい と福音 ふくいん 派 は は資金 しきん が潤沢 じゅんたく であり、ロシア正教会 せいきょうかい はこれらの伝道 でんどう に神経 しんけい を尖 とが らせている[50] 。
長年 ながねん 、ローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう とは比較的 ひかくてき 緊張 きんちょう 関係 かんけい にあり[注 ちゅう 22] 、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう とローマ教皇 きょうこう の対話 たいわ もあまり進展 しんてん していない。ローマカトリックとの対立 たいりつ については、特 とく にウクライナ東方 とうほう カトリック教会 きょうかい 問題 もんだい を抱 かか えるウクライナ における対立 たいりつ が顕著 けんちょ であり、かつての西方 せいほう からの正教会 せいきょうかい に対 たい する十字軍 じゅうじぐん の歴史 れきし 的 てき 記憶 きおく と相俟 あいま って、東西 とうざい 両 りょう 教会 きょうかい の和解 わかい を喧伝 けんでん しつつ布教 ふきょう 活動 かつどう を拡大 かくだい していくローマカトリック教 かとりっくきょう 会 かい に対 たい する正教 せいきょう 信徒 しんと からの不信 ふしん 感 かん を招 まね く根源 こんげん 的 てき 理由 りゆう のひとつとなっている[51] 。
このように、深刻 しんこく な緊張 きんちょう 関係 かんけい が両 りょう 教会 きょうかい 間 あいだ には存在 そんざい し、相互 そうご 領 りょう 聖 きよし は他 た の地域 ちいき の正教会 せいきょうかい と同様 どうよう に全 まった く行 おこな われてはおらず、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう とローマ教皇 きょうこう の直接 ちょくせつ のトップ会談 かいだん は未 いま だ実現 じつげん してはいないものの、主教 しゅきょう ・枢機卿 すうききょう クラスでの交流 こうりゅう は行 おこな われ、一定 いってい の交流 こうりゅう が継続 けいぞく されている。前 ぜん 教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい の永眠 えいみん の際 さい には、ロシア正教会 せいきょうかい 渉外 しょうがい 局長 きょくちょう でありロシア正教会 せいきょうかい のナンバー2と目 め されるキリル 府 ふ 主教 しゅきょう (肩書 かたがき 当時 とうじ )が弔問 ちょうもん に訪 おとず れてもいる。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん に正教 せいきょう を浸透 しんとう させたのはロシア の修道 しゅうどう 司祭 しさい (のち大 だい 主教 しゅきょう )ニコライ である。1970年 ねん 以来 いらい 、日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい は自治 じち 教会 きょうかい となっており、その長 ちょう たる全日本 ぜんにほん の府 ふ 主教 しゅきょう の認可 にんか はモスクワおよび全 ぜん ロシアの総 そう 主教 しゅきょう によって行 おこな われる一方 いっぽう 、財政 ざいせい と信仰 しんこう 生活 せいかつ は完全 かんぜん にロシア正教会 せいきょうかい から独立 どくりつ していることなどにみられるように、教会 きょうかい 運営 うんえい においてほぼ完全 かんぜん な自治 じち を行 おこな っている。
ロシアと直接的 ちょくせつてき に関係 かんけい を持 も つ日本 にっぽん の教会 きょうかい として、ロシア正教会 せいきょうかい 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエ がある。
コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
1991年 ねん にウクライナ がソビエト連邦 れんぽう から独立 どくりつ して以降 いこう 、ウクライナ独立 どくりつ 正教会 せいきょうかい およびウクライナ正教会 せいきょうかい ・キエフ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の承認 しょうにん を巡 めぐ って、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう とコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の対立 たいりつ が続 つづ いていた。また、1996年 ねん にはエストニア における正教会 せいきょうかい の管轄 かんかつ 権 けん を巡 めぐ って、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう とロシア正教会 せいきょうかい が短期間 たんきかん ながら断交 だんこう した。
2018年 ねん 10月11日 にち 、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう は上記 じょうき ウクライナ2教会 きょうかい の独立 どくりつ 承認 しょうにん を発表 はっぴょう し[52] 、12月15日 にち には両 りょう 教会 きょうかい が合同 ごうどう して新生 しんせい ウクライナ正教会 せいきょうかい が結成 けっせい された[53] 。これに反発 はんぱつ したロシア正教会 せいきょうかい は聖 せい シノド (宗務 しゅうむ 院 いん )の決定 けってい に従 したが い、同年 どうねん 10月15日 にち を以って、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう とのフル・コミュニオン (相互 そうご 領 りょう 聖 きよし )関係 かんけい を断絶 だんぜつ した[54] 。
それに伴 ともな い、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ に所属 しょぞく する自治 じち 正教会 せいきょうかい である日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい も、同年 どうねん 10月18日 にち を以って、ロシア正教会 せいきょうかい の決定 けってい に従 したが いコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう と断交 だんこう した[55] [56] 。
^ この時期 じき (10世紀 せいき )は、東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ の象徴 しょうちょう 的 てき 年代 ねんだい とされる1054年 ねん より以前 いぜん のことであり、オリガは「正教会 せいきょうかい から洗礼 せんれい を受 う けた」というよりは「キリスト教 きょう の洗礼 せんれい を受 う けた」というべきだとする見解 けんかい も有力 ゆうりょく である。しかしながら東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ の始 はじ まりを800年 ねん のカール大帝 たいてい の戴冠 たいかん に求 もと める見解 けんかい もあるのであり、そもそも東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ は、年代 ねんだい を確定 かくてい できるような事象 じしょう ではなく、両 りょう 教会 きょうかい は徐々 じょじょ に分離 ぶんり したものである(詳細 しょうさい は記事 きじ :東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ を参照 さんしょう 、参考 さんこう となる文献 ぶんけん …久松 ひさまつ 英二 えいじ 『ギリシア正教 せいきょう 東方 とうほう の智 さとし 』第 だい 二 に 章 しょう 「教会 きょうかい 分裂 ぶんれつ の始 はじ まり」 講談社 こうだんしゃ 選書 せんしょ メチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255 )。この時代 じだい 、すでにコンスタンティノープル (コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)の教会 きょうかい とローマ の教会 きょうかい の溝 みぞ は深 ふか まっており、オリガがコンスタンティノープル教会 きょうかい から洗礼 せんれい を受 う けたことが、のちのルーシが正教会 せいきょうかい を導入 どうにゅう する始 はじ まりとなったことは間違 まちが いない。したがって本 ほん 項 こう では折衷 せっちゅう 的 てき 記述 きじゅつ として、オリガが受 う けた洗礼 せんれい を「キリスト教 きりすときょう (正教会 せいきょうかい )」からのものと表現 ひょうげん する。
^ 1988年 ねん に挙行 きょこう された「ロシア正教 せいきょう 千 せん 年 ねん 祭 さい 」は、988年 ねん をロシア正教会 せいきょうかい の出発 しゅっぱつ 点 てん とする考 かんが えに基 もと づいている。
^ 「ルーシ」の語義 ごぎ を巡 めぐ っては、「キエフ(ウクライナ読 よ みでは「キイウ」)・ペレヤスラヴリなどが存在 そんざい するドニエプル川中 かわなか 流域 りゅういき 」という狭義 きょうぎ の語義 ごぎ のみが主張 しゅちょう される場合 ばあい があるが、本稿 ほんこう では参考 さんこう 文献 ぶんけん (三浦 みうら 清美 きよみ 『ロシアの源流 げんりゅう 』p19 - p20, 講談社 こうだんしゃ 選書 せんしょ メチエ、2003年 ねん ISBN 978-4-06-258274-2 )に従 したが い、「ルーシ」の語義 ごぎ を広義 こうぎ のものとして扱 あつか い、「東 ひがし スラブ人 じん のキリスト教 きりすときょう (正教 せいきょう )的 てき 政治 せいじ 共同 きょうどう 体 たい とその影響 えいきょう 領域 りょういき の全体 ぜんたい 」とする。
^ ルーシにおける正教 せいきょう の初期 しょき の歴史 れきし はこのように現在 げんざい のウクライナに該当 がいとう する地域 ちいき で展開 てんかい していたために、「ロシア正教会 せいきょうかい 」の歴史 れきし ではなく「ウクライナ正教会 せいきょうかい の歴史 れきし 」として捉 とら えるべきであってロシア正教会 せいきょうかい のそれと混同 こんどう してはならないという議論 ぎろん も存在 そんざい するが、本稿 ほんこう ではルーシからロシアへの連関 れんかん 性 せい を一定 いってい 程度 ていど 認 みと めた上 うえ で記述 きじゅつ する。
^ 「余 よ は命令 めいれい する。首長 しゅちょう 、すなわち、ローマ教会 きょうかい から分離 ぶんり し、ギリシアの典礼 てんれい にしたがってきたまさにその地 ち において、ルーシの民 みん がラテンの典礼 てんれい を遵守 じゅんしゅ するよう強制 きょうせい されるべきである、と」:ローマ教皇 きょうこう ホノリウス3世 せい (1216-1227)による1222年 ねん の宣言 せんげん (山内 やまうち 進 すすむ 『北 きた の十字軍 じゅうじぐん 』講談社 こうだんしゃ 選書 せんしょ メチエ・1997年 ねん ・178頁 ぺーじ による)。教皇 きょうこう ホノリウス3世 せい は正教 せいきょう への信仰 しんこう を「傲慢 ごうまん 」と「分派 ぶんぱ 行為 こうい 」であるとも決 き め付 づ けた。なお「北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん 」はルーシにとどまるものではない。
^ 遷座 せんざ (せんざ)…正教会 せいきょうかい における、主教 しゅきょう 座 ざ の移動 いどう のことをいう。
^ 『ニーコン年代 ねんだい 記 き 』は、イヴァン・カリター がウズベク・ハン から勅許 ちょっきょ 状 じょう を得 え てウラジーミル大 だい 公国 こうこく に帰還 きかん した1328年 ねん から「大 おお いなる平和 へいわ (静寂 しじま )」(ロシア語 ご : Великая Тишина )が40年間 ねんかん あったと伝 つた えている。"Тишина "(ティシナー)は、「静寂 しじま 」「平穏 へいおん 」「平静 へいせい 」を含意 がんい する。
^ ヘシュカスム:静寂 しじま 主義 しゅぎ についてはグレゴリオス・パラマス の項 こう を参照 さんしょう 。
^ 14世紀 せいき 後半 こうはん までリトアニア大公 たいこう 国 こく はカトリック国家 こっか となっておらず、正教 せいきょう とカトリックの間 あいだ で自 みずか らの態度 たいど を留保 りゅうほ することによって外交 がいこう を優位 ゆうい に進 すす めることを目指 めざ し、一定 いってい の成果 せいか を挙 あ げていた。しかしながらのちにポーランドと合同 ごうどう し正式 せいしき にカトリック国 こく となることで、それまで態度 たいど を保留 ほりゅう していたことによって生 う まれていた多数 たすう の正 せい 教徒 きょうと 住民 じゅうみん と大公 たいこう 国 こく の軋轢 あつれき が増 ま し、これはリトアニア衰退 すいたい の原因 げんいん のひとつとなった。
^ イヴァン4世 せい は非常 ひじょう に複雑 ふくざつ な性格 せいかく の持 も ち主 ぬし であってその実像 じつぞう は今 いま なお謎 なぞ に包 つつ まれている。詳細 しょうさい はイヴァン4世 せい の項 こう を参照 さんしょう 。
^ 「痛 やめ 悔」(つうかい)。正教会 せいきょうかい の訳語 やくご 。カトリック教会 きょうかい の「告解 こっかい 」に相当 そうとう するが、正教会 せいきょうかい にあっての「痛 やめ 悔」は「告白 こくはく 」を重視 じゅうし するものではなく、行動 こうどう を改 あらた めていくことを重視 じゅうし する傾向 けいこう が強 つよ い。したがってこの場合 ばあい 、府 ふ 主教 しゅきょう フィリップが「痛 やめ 悔をするよう迫 せま った」というのは、単 たん に「罪 つみ を告白 こくはく せよ」と言 い ったに留 と まらない意味 いみ を持 も つ。フィリップは皇帝 こうてい に文字通 もじどお り、軌道 きどう 修正 しゅうせい をするよう説得 せっとく したのである。
^ 総 そう 主教 しゅきょう イェレミアス2世 せい は、ルター派 は からの接触 せっしょく を最初 さいしょ 期 き に持 も ったコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう として有名 ゆうめい である。ルター派 は の聖職 せいしょく 者 しゃ 達 たち はアウクスブルク信仰 しんこう 告白 こくはく をコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう に送付 そうふ し、以降 いこう 1576年 ねん から1581年 ねん にかけて両者 りょうしゃ の間 あいだ で書簡 しょかん が往復 おうふく した。この書簡 しょかん 中 ちゅう でイェレミアス2世 せい は正教会 せいきょうかい における「宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 」の必要 ひつよう 性 せい を明確 めいかく に否定 ひてい した。
^ 17世紀 せいき から19世紀 せいき までの正教会 せいきょうかい の西欧 せいおう 化 か を、ロシア・ウクライナ等 とう の東 ひがし スラヴ地域 ちいき のみに限定 げんてい するかのような認識 にんしき は誤 あやま りである。東 ひがし 地中海 ちちゅうかい においても正教会 せいきょうかい は欧化 おうか の波 なみ にさらされていた。本文 ほんぶん で後述 こうじゅつ の通 とお り、東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき の聖職 せいしょく 者 しゃ 達 たち はオスマン帝国 ていこく の下 した で伝統 でんとう 的 てき な神学 しんがく 教育 きょういく を受 う けることが許 ゆる されず、西欧 せいおう のローマカトリック系 けい の大学 だいがく に赴 おもむ いてラテン語 らてんご で教育 きょういく を受 う ける他 ほか に高度 こうど な神学 しんがく 知識 ちしき を獲得 かくとく する方法 ほうほう がなかったからである。
^ 正教会 せいきょうかい では夫婦 ふうふ が同時 どうじ に別々 べつべつ の修道院 しゅうどういん に入 はい ることができるが、この例外 れいがい 的 てき な規定 きてい を利用 りよう し、強力 きょうりょく なライヴァルであったロマノフ家 か 当主 とうしゅ であるフョードルに対 たい し、夫婦 ふうふ それぞれ修道 しゅうどう 士 し になることを強要 きょうよう したのがボリス・ゴドゥノフであった。この時 とき 、フョードル・ロマノフは修道 しゅうどう 士 し となり、修道 しゅうどう 名 めい 「フィラレート」を与 あた えられた。フョードル夫妻 ふさい にはすでに子 こ がおり、これがミハイルである。このミハイルがツァーリになったことから、総 そう 主教 しゅきょう とツァーリが親子 おやこ であるという歴史 れきし 上 じょう 非常 ひじょう に珍 めずら しい事態 じたい が生 しょう じた。
^ 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく も参照 さんしょう 。本 ほん 記事 きじ 作成 さくせい について使 つか っている主要 しゅよう 参考 さんこう 文献 ぶんけん をはじめ正教会 せいきょうかい 関係 かんけい 者 しゃ および正教会 せいきょうかい ・ロシア史 し の専門 せんもん 的 てき な研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ では、ニーコン改革 かいかく を「宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 」と呼 よ んでいるケースは皆無 かいむ である。後述 こうじゅつ の通 とお り、西欧 せいおう における宗教 しゅうきょう 改革 かいかく とニーコン改革 かいかく とでは、あまりにも内実 ないじつ が異 こと なるからであり、そもそも同 おな じ語 ご を使 つか うという発想 はっそう が絶無 ぜつむ である。
^ キリロス・ルカリスは若 わか くしてウクライナにおいて目 ま の当 あた りにしたカトリック教会 きょうかい のやり方 かた に対 たい し死 し ぬまで反感 はんかん を抱 いだ き、正教会 せいきょうかい の立場 たちば を確立 かくりつ しようと努力 どりょく した。のち30歳 さい にしてアレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう 、さらには48歳 さい の時 とき にコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう となる。彼 かれ のこうした思想 しそう 性 せい と熱血漢 ねっけつかん としての性質 せいしつ はオスマン帝国 ていこく からも危険 きけん 視 し され、最後 さいご には刺客 しかく によって絞殺 こうさつ されボスフォラス海峡 かいきょう に投 な げ入 い れられた。
^ 当時 とうじ 流布 るふ していた形式 けいしき の尊重 そんちょう は、表面 ひょうめん 的 てき な誤魔化 ごまか しのレベルにとどまるものではなかった。夫婦 ふうふ で自室 じしつ で行 おこな う毎日 まいにち の就寝 しゅうしん 前 まえ の祈 いの りにおいても、イスス・ハリストス (イエス・キリスト)に600回 かい の祈 いの り、生神 うるかみ 女 おんな マリヤに100回 かい の祈 いの り、さらに300回 かい の伏拝 ふしおがみ (起立 きりつ 姿勢 しせい からいわゆる土下座 どげざ をし、また起立 きりつ する方式 ほうしき )を、リーダーである長 ちょう 司祭 しさい アヴァクーム とその妻 つま が行 おこな っていたこと、そしてそれは決 けっ して珍 めずら しい物 もの ではなかったことにもみられる通 とお り、その形式 けいしき 主義 しゅぎ は正 まさ に筋金入 すじがねい りのものである。それだけにそうした伝統 でんとう を大事 だいじ にする者 もの 達 たち を翻意 ほんい させるのは容易 ようい ではなかった。
^ F.プロコポーヴィチ…ポーランドのクラクフ、ローマ、フィレンツェに学 まな び、カトリックに改宗 かいしゅう したものの帰国 きこく 後 ご また正教会 せいきょうかい に戻 もど った。1716年 ねん にピョートルから宗務 しゅうむ 規定 きてい 作成 さくせい のために首都 しゅと に招聘 しょうへい された。
^ 正教会 せいきょうかい からのピョートル1世 せい に対 たい する評価 ひょうか は、【高橋 たかはし 保行 やすゆき 『ギリシャ正教 せいきょう 』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 】、【オリヴィエ・クレマン (訳 わけ :冷 ひや 牟田 むた 修二 しゅうじ )『東方 とうほう 正教会 せいきょうかい 』白水 しろみず 社 しゃ 文庫 ぶんこ クセジュ】によく示 しめ されている。というよりも、ピョートル1世 せい に好意 こうい 的 てき な正教会 せいきょうかい 関係 かんけい の文献 ぶんけん は皆無 かいむ である。
^ 精確 せいかく に言 い えば、ベーリュスチンは著書 ちょしょ を発行 はっこう するつもりはなかったのだが、本書 ほんしょ を受 う け取 と った人物 じんぶつ が勝手 かって にライプツィヒ とパリ で出版 しゅっぱん し、それが検閲 けんえつ の厳 きび しいロシアに逆 ぎゃく 輸入 ゆにゅう されて地下 ちか で流通 りゅうつう していったものである。
^ セルギイ・ストラゴロツキーには日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい を牧 まき 会 かい した経験 けいけん がある。北海道 ほっかいどう を巡回 じゅんかい した際 さい の著作 ちょさく には邦訳 ほうやく もある[45] 。なお日本 にっぽん に正教会 せいきょうかい を伝道 でんどう したニコライ 大 だい 主教 しゅきょう の後継 こうけい 者 しゃ であるセルギイ・チホミーロフ 府 ふ 主教 しゅきょう とは別人 べつじん 。
^ ちなみにコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう はローマ教皇 きょうこう の訪問 ほうもん を受 う け入 い れるなど、比較的 ひかくてき カトリックに対 たい して融和 ゆうわ 的 てき である。ただし、管轄 かんかつ 下 か にあるアトス山 さん の修道院 しゅうどういん の中 なか には、こうしたコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の「西側 にしがわ 」への融和 ゆうわ 的 てき 姿勢 しせい に激 はげ しく反発 はんぱつ しているものもあり、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう 管轄 かんかつ 下 か の全 すべ ての教会 きょうかい ・修道院 しゅうどういん が「親 おや 西方 せいほう 教会 きょうかい 」で一枚岩 いちまいいわ である訳 わけ ではない。西方 せいほう 教会 きょうかい に比較的 ひかくてき 融和 ゆうわ 的 てき なルーマニア正教会 せいきょうかい のダニエル総 そう 主教 しゅきょう と、ルーマニア正教会 せいきょうかい についても、同 おな じことが言 い える。
^ この項 こう の主要 しゅよう 参考 さんこう 箇所 かしょ :黒川 くろかわ 知 とも 文 ぶん 『ロシア・キリスト教 きりすときょう 史 し 』42頁 ぺーじ (教 きょう 文 ぶん 館 かん 、1999年 ねん 初版 しょはん )
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^ The PriestMartyr Clement, Pope of Rome
^ The Monk John, Bishop of the Goths
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^ Christianity and the Eastern Slavs Vol. I: Slavic Cultures in the Middle Ages p113, Edited by Boris Gasparov, Olga Raevsky-Hughes ISBN 9780520079458
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^ N. ゼルノーフ、宮本 みやもと (1991 , p. 31)
^ 三浦 みうら 清美 きよみ (2003 , p. 110)
^ ТВЕРСКАЯ ЛЕТОПИСЬ→ЧАСТЬ 1 (ЛЕТОПИСНЫЙ СБОРНИК, ИМЕНУЕМЫЙ ТВЕРСКОЮ ЛЕТОПИСЬЮ)
^ Глава III - Житие и подвиги преподобного и богоносного отца нашего Сергия
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^ 参考 さんこう 図書 としょ :栗生 くりゅう 沢 さわ 猛夫 たけお ・土肥 どい 恒 ひさし 之 の (以上 いじょう 2人 にん が該当 がいとう 項目 こうもく 第 だい 4章 しょう 第 だい 5章 しょう の執筆 しっぴつ 者 しゃ )『ロシア史 し 』(編 へん :和田 わだ 春樹 はるき )山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ
^ Hieromartyr Hermogenes the Patriarch of Moscow and Wonderworker of All Russia
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