ロシア正教会せいきょうかい歴史れきし

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ロシア正教会せいきょうかい歴史れきしでは、キリスト教きりすときょう独立どくりつ正教会せいきょうかいのひとつであるロシア正教会せいきょうかい歴史れきしあつかう。

出発しゅっぱつてんをめぐる論争ろんそう[編集へんしゅう]

ロシア正教会せいきょうかい出発しゅっぱつてんをどこに設定せっていするかでまず論争ろんそう存在そんざいする。

ロシア」という地域ちいきめい最初さいしょ文献ぶんけん登場とうじょうするのは15世紀せいきまつひろもちいられるようになったのは16世紀せいきになってからのことである。「ロシア」がどこから出発しゅっぱつしたかが曖昧あいまい以上いじょう、「ロシア正教会せいきょうかい歴史れきし」とった場合ばあいもどこに記述きじゅつ出発しゅっぱつてんくべきかは必然ひつぜんてき議論ぎろんかれるものとなる。

11世紀せいきまでは、ルーシ中心ちゅうしん地域ちいき現在げんざいウクライナ首都しゅとであるキエフ周辺しゅうへんだったことを反映はんえいし、正教会せいきょうかい中心ちゅうしんもキエフであったのだが、その周辺しゅうへん現代げんだいウクライナとなっている南西なんせいルーシ地域ちいきは14世紀せいき前後ぜんこう隣国りんごくリトアニア大公たいこうこくポーランド王国おうこくによって征服せいふくされて以来いらい、18世紀せいきエカチェリーナ2せいによる併合へいごういたるまでウラジーミルモスクワはじめとした北東ほくとうルーシからははなされてもいた。「ルーシ」の正教会せいきょうかい歴史れきしと、北東ほくとうルーシのモスクワを中心ちゅうしんとする現在げんざいのロシア正教会せいきょうかい歴史れきしとはけてかんがえるべきだとする見方みかた説得せっとくりょくはある。

だが当初とうしょからキエフ主教しゅきょう北東ほくとうルーシをも管轄かんかつしていた。キエフ・ルーシ時代じだい正教会せいきょうかいとロシア正教会せいきょうかい歴史れきしとのあいだにどこまで連続れんぞくせいみとめるかはむずかしい議論ぎろんとなり決着けっちゃくはつかない。これはとくにウクライナにおいて、政治せいじてき立場たちば相俟あいまってあつ論争ろんそうとなる歴史れきし認識にんしき問題もんだいである。国境こっきょう民族みんぞく居住きょじゅう区域くいき地域ちいき中心ちゅうしん一定いっていすることのない、大陸たいりくのどこでもみられる論争ろんそうである。

ほんこうでは、連続れんぞくせいゆうしかつ時代じだいてき境界きょうかいせん設定せっていがた教会きょうかい性質せいしつもあり、キエフ・ルーシ時代じだい正教会せいきょうかいとロシア正教会せいきょうかい連続れんぞくせい一定いってい程度ていどみとめ、10世紀せいき後半こうはんごろのルーシから詳細しょうさい記述きじゅつすすめる。ロシア正教会せいきょうかい出発しゅっぱつてんをより後代こうだい看做みな立場たちばからも、この時代じだい正教会せいきょうかい歴史れきしはロシア正教会せいきょうかい歴史れきしじょうでは必須ひっすの「ロシア正教会せいきょうかい前史ぜんし」であるとは最低限さいていげんえるからである。なお参考さんこうまでに、10世紀せいき後半こうはん以前いぜんクリミア半島くりみあはんとうふくめた状況じょうきょうおよび伝承でんしょうについても最初さいしょ若干じゃっかんれる。

クリミア半島くりみあはんとうとキエフの伝承でんしょう[編集へんしゅう]

[1]ルーシの正教会せいきょうかい伝道でんどう歴史れきし12使徒しとのひとりであるアンドレイ(アンデレ)にさかのぼるとする伝承でんしょうのこされている。黒海こっかい北東ほくとう地方ちほう伝道でんどうおこなったアンドレイは、のちにキエフ建設けんせつされるドニエプルがわ河畔かはん丘陵きゅうりょう地帯ちたい祝福しゅくふくいのりをおこない、十字架じゅうじかてたとされる[2]

ひがしマ帝国まていこく版図はんととなっていたクリミア半島くりみあはんとうには、1世紀せいきすえローマのせいクリメントケルソネソスちかくに流刑りゅうけいにされ、その致命ちめいしたという伝承でんしょう[3][4]8世紀せいき後半こうはんクリミヤのかつあやかしゃせい神父しんぷイオアン伝承でんしょう[5]にみられるように、すでキリスト教きりすときょうひろまっていたが、こうした黒海こっかい沿岸えんがんのギリシア植民しょくみんにおけるキリスト教きりすときょうはルーシ内陸ないりくにまでは定着ていちゃくしなかった。

キエフからモスクワへの軌跡きせき[編集へんしゅう]

ウラジーミル1せい受洗じゅせんとキエフ主教しゅきょう設立せつりつ[編集へんしゅう]

キエフ・ルーシ時代じだいせいソフィアだい聖堂せいどう模型もけい

正教会せいきょうかい伝承でんしょうによれば、ルーシの正教せいきょう伝道でんどう歴史れきし12使徒しとのひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが[2]本格ほんかくてき正教せいきょう伝道でんどうこころみが歴史れきしてき確認かくにんできるのはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)そう主教しゅきょうフォティオス在位ざいい:858-861‚ 878-886)によるものである。また954ねんにはキエフ大公たいこうウラジーミル1せい祖母そぼであるオリガキリスト教きりすときょう正教会せいきょうかい[ちゅう 1]洗礼せんれいけ、ルーシにおける正教せいきょうのさきがけとなった[6]

まとまったかたちともなったルーシの正教会せいきょうかい歴史れきしは、988ねんキエフ大公たいこうウラジーミル1せいが、ひがしマ帝国まていこく皇帝こうていバシレイオス2せいいもうとアンナをとし、公式こうしきひがしマ帝国まていこく国教こっきょうである正教会せいきょうかい洗礼せんれいけたときからはじまるとされ、このとしがロシア正教会せいきょうかい歴史れきし基点きてんとされることがおお[7][ちゅう 2]主教しゅきょう当時とうじルーシ[ちゅう 3]中心ちゅうしん都市としであり、キエフ大公たいこうこく首都しゅとであったキエフにおかれた[ちゅう 4]

発足ほっそく当初とうしょから長期ちょうきにわたってキエフ主教しゅきょうコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう監督かんとくにあり、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうがキエフ主教しゅきょう任命にんめいした。当初とうしょ主教しゅきょうひがしマ帝国まていこくから派遣はけんされたギリシャじんだった[8]。なお初期しょき主教しゅきょう称号しょうごうたんに「キエフ主教しゅきょう」であり、「キエフおよぜんルーシの主教しゅきょう」の称号しょうごう後代こうだいになって使つかわれるようになった(13世紀せいきから使つかわれはじ[9]恒常こうじょうてき使つかわれるようになったのは14世紀せいき[10])。

キエフにはのちキエフ・ペチェールシクだい修道院しゅうどういん成長せいちょうする洞窟どうくつ修道院しゅうどういんが、アトスさん修道院しゅうどういんから出身しゅっしんルーシにもどったアントニイによって1051ねん創始そうしされた[11]

東西とうざい両面りょうめんからの軍事ぐんじてき脅威きょうい諸公しょこうこうそう[編集へんしゅう]

生神うるかみおんな庇護ひご聖堂せいどう(ボゴリュボヴォ、ネルリがわのほとり)
アレクサンドル・ネフスキーイコン

キエフ大公たいこうこくは10世紀せいきまつから11世紀せいき前半ぜんはんにかけてウラジーミルせいおおやけとヤロスラフけんこうとき最盛さいせいむかえたが、そのは10以上いじょうしょ公国こうこくによる割拠かっきょたいしめしたばかりか、テュルクけい遊牧民ゆうぼくみんポロヴェツじんによる介入かいにゅうをもまねき、ルーシは混沌こんとんとした有様ありさまとなった[12]

13世紀せいきにはルーシの動揺どうよう決定的けっていてきとなる[12]度重たびかさなる内紛ないふんによりルーシの統合とうごう破壊はかいされた[12]ひがしからはポロヴェツじんやぶったモンゴルが襲来しゅうらいし、西にしからはローマ教皇きょうこうけた「北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん[ちゅう 5]侵略しんりゃくけた[13]バトゥひきいられたひがしからのモンゴルぐんは、1237ねんにはウラジーミルを陥落かんらくさせ、1240ねんにはポーランド・ハンガリーへの遠征えんせい途中とちゅうでキエフを陥落かんらくさせた[13]西にしからのルーシにたいする「北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん」としては、スウェーデンぐんがノヴゴロドの奪取だっしゅこころみ(1240ねん)、ドイツ騎士きし修道しゅうどうかいはプスコフを占領せんりょうした[14][15]

これらがいゆうのうち、西方せいほうからのスウェーデンぐん・ドイツ騎士きし修道しゅうどうかいは、いずれもウラジーミル大公たいこうアレクサンドル・ネフスキーによって撃退げきたいされた(たいドイツ騎士きし修道しゅうどうかい戦闘せんとうとしては1242ねんの「氷上ひかみたたかい」)[16][14]。だがモンゴルにたいしては、アレクサンドル・ネフスキーは基本きほんてき恭順きょうじゅん姿勢しせいしめしていくことになる[17]以降いこう15世紀せいき中葉ちゅうよういたるまで、ルーシはモンゴルの影響えいきょうかれることとなる。

モンゴルの支配しはい苛烈かれつなものではあったが、ローマ・カトリックへの改宗かいしゅう強制きょうせいする「十字軍じゅうじぐん」とはちが信仰しんこうめんにおいては比較的ひかくてき寛容かんようだった[18]ため、当時とうじのキエフ主教しゅきょうであったキリル3せいロシアばん英語えいごばんアレクサンドル・ネフスキーの「西方せいほう諸国しょこく断固だんことした姿勢しせいのぞみ、ひがしのモンゴルには恭順きょうじゅんする」という外交がいこう政策せいさく支持しじしていた(しかしアレクサンドルのこうした外交がいこう姿勢しせいは「臆病おくびょう」「優柔不断ゆうじゅうふだん」との非難ひなんどう時代じだいけている[19])。当時とうじのルーシ諸公しょこうにはきわめて強力きょうりょくなモンゴルの軍事ぐんじりょくたいして徹底てってい抗戦こうせんするだけの実力じつりょく統一とういつせいもなかった。ルーシ諸公しょこう内紛ないふんとモンゴルの介入かいにゅう断続だんぞくてきつづき、ルーシの国土こくど荒廃こうはいした[20]

キエフをはじめとするルーシ中央ちゅうおう、および南部なんぶ平原へいげんはモンゴルによって壊滅かいめつした。ルーシのほか地域ちいきもモンゴルからおおきな被害ひがいけたが、これ以後いごルーシは、北西ほくせいノヴゴロドおよびプスコフ北東ほくとうウラジーミル、スーズダリロストフヤロスラヴリ南西なんせいハールィチ、ヴォルィーニなど、(あくまで相対そうたいてき比較ひかくてきにだが)被害ひがいすくなかったおおよそみっつのしょ地域ちいきから構成こうせいされるようになった[21]

このようなそとゆう内患ないかんけた結果けっかが、キエフ主教しゅきょう移転いてんである。

キエフおよぜんルーシの主教しゅきょう北東ほくとうルーシへの移転いてん[編集へんしゅう]

ウラジーミル生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどうセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによって1912ねん撮影さつえいされたカラー写真しゃしん

ルーシ全域ぜんいき混乱こんらんしていた1249ねん南西なんせいルーシのハールィチ・ヴォルィーニおおやけダニールはローマ教皇きょうこうインノケンティウス4せいからおうごうけ、ぬり戴冠たいかんけた。こうしたダニールのうごきに、コンスタンティノープルそう主教しゅきょう脅威きょういかんじる。キエフ主教しゅきょう先述せんじゅつとおりコンスタンティノープルそう主教しゅきょう影響えいきょうにあり、コンスタンティノープルそう主教しゅきょう利害りがいしたうごいていた。ダニールの推挙すいきょけたキエフ主教しゅきょうキリルでさえもその例外れいがいではなかった。荒廃こうはいしたキエフからの遷座せんざ[ちゅう 6]さきめるさい、おやローマの旗幟きし鮮明せんめいにするハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうダニールとは距離きょりいたキリル主教しゅきょう着目ちゃくもくしたのは、ローマとの対決たいけつ姿勢しせい鮮明せんめいにする北東ほくとうルーシのウラジーミルであった。

キリルはウラジーミルへの遷座せんざ準備じゅんび精力せいりょくてきすすめたが、実現じつげんまえ永眠えいみんする(1282ねん)。その北東ほくとうルーシ諸公しょこうこうそうのために遷座せんざしばら延期えんきされたが、戦乱せんらん収束しゅうそくした1299ねん、キリルの後継こうけいであるキエフ主教しゅきょうマクシモスはウラジーミルへの遷座せんざ実行じっこうした。

ウラジーミルへの遷座せんざも「キエフおよぜんルーシの主教しゅきょう」の称号しょうごう維持いじされ、キエフおよびルーシの主教しゅきょうマクシモスが「ウラジーミル主教しゅきょう」を兼任けんにん。それまでのウラジーミル主教しゅきょうロストフ主教しゅきょう転出てんしゅつした。これはルーシの安定あんてい志向しこうした主教しゅきょうが、みずからの称号しょうごうに「ぜんルーシ」をくわえることによって、ルーシが一体いったいとなった安定あんていした姿すがた理想りそうとして提示ていじしようとした意思いし表示ひょうじでもあったとされる。「キエフ」ののこしたのは、キエフ以外いがい都市としめいかんしただい主教しゅきょう設置せっちが、ルーシの教会きょうかい組織そしき統一とういつせい阻害そがい要因よういんになると判断はんだんされたためであった。

遷座せんざにより、モンゴルやローマカトリック諸国しょこくからの直接的ちょくせつてき脅威きょういからまぬかれるという目的もくてき達成たっせいされた。だがこれ以降いこう理想りそうてき状況じょうきょうとは程遠ほどとお北東ほくとうルーシ諸公しょこうこうそうとくトヴェーリモスクワあいだたたかわれていくなか、キエフ主教しゅきょう否応いやおうしに政争せいそうまれ、あるいは政争せいそう介入かいにゅうせざるをない局面きょくめんまれてくることになる。

キエフおよぜんルーシの主教しゅきょうは、1325ねんころ以降いこうモスクワへその根拠地こんきょち移転いてんしていくことになるが、これが定着ていちゃくするまでにはなお紆余曲折うよきょくせつがあった(後述こうじゅつ)。

荒野あらの修道院しゅうどういん成立せいりつ[編集へんしゅう]

モスクワたいトヴェーリのこうそう終息しゅうそくかい、1328ねんはじまり40年間ねんかんつづく「おおいなる平和へいわ静寂しじま)」[22][23][24][ちゅう 7]むかえたルーシで、中部ちゅうぶ北部ほくぶロシアの原生げんせいりんおおくの荒野あらの修道院しゅうどういん建設けんせつされていった[25]

先述せんじゅつしたキエフ洞窟どうくつ修道院しゅうどういんにみられるとおりそれまでのルーシにも修道院しゅうどういん存在そんざいしていたが、中部ちゅうぶ北部ほくぶロシアの原生げんせいりんおおくの荒野あらの修道院しゅうどういん建設けんせつされ、精神せいしんめん物質ぶっしつめんわずあらゆるめんにおいて、ルーシに地殻ちかく変動へんどうをもたらした[25]ひがしマ帝国まていこくきていたヘシュカスム[ちゅう 8]修道しゅうどうのネットワークをつうじてもたらされたことも影響えいきょうしている[26]。ロシアの広大こうだい原生げんせいりんでの修行しゅぎょうは、中東ちゅうとう正教会せいきょうかい修道しゅうどうおこなっていた砂漠さばくでの修行しゅぎょう似通にかよったものとしてとらえられた[27]

いたりひじりさんしゃせいセルギイだい修道院しゅうどういん

1345ねん、のちにいたりひじりさんしゃせいセルギイだい修道院しゅうどういん発展はってんする修道院しゅうどういんラドネジのせいセルギイにより創始そうしされた。当初とうしょちいさな木造もくぞう教会きょうかいゆうするだけの修道院しゅうどういんだったが、こうした荒野あらの修道院しゅうどういん運動うんどう主要しゅようになとしてまたた修道院しゅうどういん規模きぼ拡大かくだいいたりひじりさんしゃせいセルギイだい修道院しゅうどういんからだけでも8つの都市とし修道院しゅうどういん、27の荒野あらの修道院しゅうどういんまれている。いたりひじりさんしゃせいセルギイだい修道院しゅうどういん後々あとあと帝政ていせいロシア・現代げんだいロシアにいたるまで、ロシア正教会せいきょうかい最大さいだいきゅう修道院しゅうどういんとしておおきな影響えいきょうりょくゆうすることとなる。

ソロヴェツキー諸島しょとう修道院しゅうどういんぐんも、1429ねんにサヴァーチイにより、その基礎きそとなるあんてられたことに出発しゅっぱつしている。サヴァーチイの死後しごノヴゴロド出身しゅっしんのゾシマがしろうみ修道院しゅうどういん建設けんせつし、修道院しゅうどういんぐん発展はってん道筋みちすじをつけた。のちのソ連それん時代じだい強制きょうせい収容しゅうようしょ転用てんようされたこともある(後述こうじゅつ)ほどその環境かんきょう過酷かこくなものであるところに、当時とうじ荒野あらの修道院しゅうどういん目指めざした土地とち有様ありさま垣間見かいまみえる。

アンドレイ・ルブリョフによるイコン『いたりひじりさんしゃ

自給自足じきゅうじそく原則げんそくとした農業のうぎょう共同きょうどうたいとしての修道院しゅうどういんは、精神せいしんめんではモンゴルによる恐怖きょうふ政治せいじ相次あいつ戦乱せんらんにあえいでいた人心じんしん安定あんていおおきく寄与きよした[28]物質ぶっしつめんでは無人むじん原生げんせいりん開拓かいたくして国土こくど開発かいはつおこなった。14世紀せいきいたるまで戦乱せんらんのためにおこなわれることのなかった西欧せいおう農業のうぎょう技術ぎじゅつ輪作りんさく)の導入どうにゅうおこな主体しゅたいともなり、ルーシの農業のうぎょう技術ぎじゅつ改良かいりょうにも貢献こうけんしたとかんがえられている[29]

また当時とうじ修道しゅうどうたち足跡あしあとは、後代こうだい、ロシア正教会せいきょうかいのみにまらない正教会せいきょうかい全体ぜんたいおおきな影響えいきょうおよぼすものとなった。当時とうじ活躍かつやくしたイコン画家がかであり修道しゅうどうでもあったアンドレイ・ルブリョフのイコン「いたりひじりさんしゃ」は、正教会せいきょうかいのみならずカトリック教会きょうかいでも使用しようされることがある。

だい主教しゅきょう設置せっち要求ようきゅうによる動揺どうよう[編集へんしゅう]

トヴェーリとモスクワのこうそう、そしてリトアニア大公たいこうこくとモスクワのこうそうつうじ、「キエフおよぜんルーシの主教しゅきょう」をだれ保護ほごくのか、そして「キエフおよぜんルーシの主教しゅきょう」がだれ保護ほごしゃとしてえらぶのかは重大じゅうだい問題もんだいでありつづけた。主教しゅきょう掌握しょうあくは、ぜんルーシ支配しはい正当せいとうせいをもたらすものだったからである。イヴァン・カリターは1328ねん、ウラジーミルからモスクワに主教しゅきょう移動いどうさせることに成功せいこうし、モスクワによるぜんルーシ支配しはい正当せいとうせいいしずえきずいた。

キエフ主教しゅきょう北東ほくとうルーシへの遷座せんざともない、あるしゅてられたかんった南西なんせいルーシ諸公しょこうと、南西なんせいルーシにみずからの影響えいきょうにある主教しゅきょうくことで南西なんせいルーシのせい教徒きょうとへの支配しはいけん確立かくりつ正当せいとう画策かくさくするリトアニア大公たいこうこく[ちゅう 9]は、あらたな主教しゅきょう設置せっちをコンスタンティノープルに要求ようきゅうしていくことになった。こうした要求ようきゅうには本来ほんらいぜんルーシを管轄かんかつするもの名義めいぎどおりキエフに所在しょざいしなければならず、ウラジーミルにとどまらないモスクワへの遷座せんざみとめられないという主張しゅちょうともなっていた。これはもっともな理屈りくつではあったが、ウラジーミルに遷座せんざしたうえにモスクワへの事実じじつじょう遷座せんざおこなったことにはたしかに疑問ぎもんおおきかったとはいえすでにキエフ主教しゅきょうがいる以上いじょう、キエフに重複じゅうふくする主教しゅきょうもうけることが教会きょうかいほう違反いはんであったこともたしかであった。ましてモンゴルけいあせこくやカトリック諸国しょこくからの軍事ぐんじてき脅威きょういけるためというやむをえない事情じじょうによって北東ほくとうルーシへ拠点きょてんうつした主教しゅきょうにとって、このようなろん当然とうぜんみとめられるものではなく、だい主教しゅきょう設置せっちはルーシ分裂ぶんれつ契機けいきとも危険きけんはらむものであった。

結局けっきょくハールィチ主教しゅきょう、リトアニア主教しゅきょうなどが一時いちじてき成立せいりつはするものの、それらの主教しゅきょう終局しゅうきょくてきには閉鎖へいさされていく。このあいだ、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう効率こうりつてき事態じたい打開だかいができなかった。

14世紀せいきのコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう対応たいおう[編集へんしゅう]

ラドネジのせいセルギイイコン。その生涯しょうがいまわりにえがかれている。

13世紀せいきまではルーシ一体いったいせいくずすことをけるために効果こうかてき対策たいさくってきたコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうも、14世紀せいきには政策せいさく一貫いっかんせいき、ルーシにかんする裁定さいてい玉虫色たまむしいろのものとなっていき、場合ばあいによってはリトアニアとの妥協だきょうおこなうことがあった。コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう保護ほごしゃたるパレオロゴスあさひがしマ帝国まていこくがこの時期じきには完全かんぜん衰退すいたいしており、皇帝こうてい教会きょうかい政策せいさくかんする意思いしにもコンスタンティノープル教会きょうかい自身じしん意思いしにも、統一とういつせいけていた。ルーシにかんして正常せいじょう意思いし決定けってい能力のうりょく発揮はっき一貫いっかんせいある政策せいさくおこなうのは当時とうじひがしマ帝国まていこくそう主教しゅきょうちょうにはおもかったとえよう。

こうしたコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう態度たいど事情じじょうが、ルーシにおけるこうそう様相ようそう複雑ふくざつさせていくひとつの要因よういんともなった。これはルーシのせい教徒きょうとたちあいだにコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう紛争ふんそう調停ちょうてい能力のうりょくへの疑義ぎぎたせる結果けっかとなった。具体ぐたいてきには、1350年代ねんだいせいアレクシスのロシア主教しゅきょうじょひじりさいしブルガリアそう主教しゅきょうみずからのいきのかかった人物じんぶつじょせいしようと介入かいにゅう、さらにひがしローマ皇帝こうていめぐってのカンダクジノスとパレオロゴスでの内乱ないらんからフィロセオスそう主教しゅきょう疎開そかいしたことにより空座からくらとなった主教しゅきょうカリストス1せいさい就任しゅうにん、すでにせいアレクシスがじょひじりされていた事実じじつ無視むししてロマンをぜんルーシ主教しゅきょうとしてじょせいしてしまう。これによりルーシにはにん主教しゅきょうなら事態じたいとなり、結果けっか分割ぶんかつされた主教しゅきょうのうちだいロシアをアレクセイが、しょうロシアをロマンがそれぞれ統轄とうかつすることとなった[30]

このような状況じょうきょうで14世紀せいきまつにコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうから派遣はけんされてきた主教しゅきょうキプリヤンはしんリトアニアの姿勢しせい鮮明せんめいにし、ルーシ侵略しんりゃく目論もくろむリトアニア大公たいこうこくのことははんイスラームの同盟どうめいこくとしてあつかったのにたいし、ルーシにたいしては赤子あかごたいする教師きょうしであるかのようにい、政治せいじてき抗争こうそう関与かんよするルーシの正教会せいきょうかい指導しどうしゃあやまちをきびしく叱責しっせきした。

こうした叱責しっせき自体じたい正論せいろんではあったが、教会きょうかいにしかもはや統一とういつてき指導しどうしゃ保護ほごしゃ見出みだせないルーシの苦悩くのうかえりみずに無神経むしんけい叱責しっせき名高なだかラドネジのセルギイにまでくわえ、リトアニア大公たいこうこくとの友好ゆうこうてき態度たいどをとる主教しゅきょうキプリヤンの言動げんどうは、先述せんじゅつしたようにいままでルーシの紛争ふんそう調停ちょうてい無為むい無策むさくであるどころかときにはかえってリトアニアをする決定けっていくだしてきたコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう過去かこ相俟あいまって、「『帝都ていとコンスタンティノープルへの援軍えんぐん見返みかえりとしての東西とうざい教会きょうかい合同ごうどう推進すいしんする』というエゴのためには、コンスタンティノープルはルーシをどうとでもあつかうのではないか」との印象いんしょうすらもルーシのせい教徒きょうとあたえ、ルーシにおけるコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう権威けんい声望せいぼうを(あくまで相対そうたいてきにだが)低下ていかさせることとなった。

ただし文人ぶんじんとしての才能さいのうゆたかであった主教しゅきょうキプリヤンは、教会きょうかい文化ぶんかめんでは多大ただい貢献こうけんをルーシにたいしてった。年代ねんだい教会きょうかい著作ちょさく執筆しっぴつ編纂へんさんおこない、祈祷きとうしょ教父きょうふ著作ちょさくなどのギリシャ文献ぶんけんのスラヴ翻訳ほんやくおこなっていった。ルーシのせい教徒きょうとたちも謙虚けんきょ旺盛おうせい学習がくしゅう意欲いよくによってよくこれにこたえ、おも先述せんじゅつ荒野あらの修道院しゅうどういんがこうしたビザンティン文化ぶんか受容じゅようになとなった。結果けっか、「だいみなみスラヴの影響えいきょう」と総括そうかつされる、ルーシの正教会せいきょうかい文化ぶんか活動かつどう隆盛りゅうせいむかえた。

クリコヴォのたたかいと、モスクワ大公たいこうこく台頭たいとう[編集へんしゅう]

ウラジーミルの生神うるかみおんなイコン)。1131ねんにコンスタンティノープルからキエフにおくられた。1155ねんウラジーミルうつされ、ヴァシーリー1せいにより1395ねんにはモスクワにうつされた。ロシア正教会せいきょうかいもっと有名ゆうめいなイコンのひとつであり、これを複製ふくせいしたイコンは膨大ぼうだいかずのぼる。

1380ねん、モスクワ大公たいこうドミトリイ・ドンスコイひきいるルーシ諸公しょこう連合れんごうぐんは、クリコヴォのたたかジョチ・ウルスのママイ・ハンぐんやぶった。このたたかいのまえラドネジのセルギイ大公たいこうドミトリイ・ドンスコイにたいして祝福しゅくふくあたえている。一般いっぱんにはこの1380ねんもってルーシは「タタールのくびき」から解放かいほうされたとされることがおおい。

依然いぜんとしてジョチ・ウルスないしその後継こうけいハンこくクリム・ハンこくなど)の軍事ぐんじてき脅威きょういはそのも15世紀せいきまでルーシのしょ都市とし幾度いくど略奪りゃくだつっていることからもわかとお持続じぞくしており、17世紀せいきまついたるまで軍事ぐんじてき脅威きょうい残存ざんそんしていた。モスクワの人々ひとびとが「ウラジーミルの生神うるかみおんな」のイコンもちいていのったことでティムールぐんがモスクワから退しりぞいていったとされる伝承でんしょうからも、遊牧ゆうぼく国家こっかがルーシ諸公しょこうにとり依然いぜんとして脅威きょういであったことがわかる。

しかしクリコヴォのたたかいがひとつのきっかけとはなり、モスクワ大公たいこうこく名実めいじつともにルーシの第一人者だいいちにんしゃとなっていくこととなる。ただしこのころのルーシの統合とうごうはまだゆるやかなものであった。

フィレンツェおおやけ会議かいぎたいする対応たいおう[編集へんしゅう]

1439ねんフィリオクェ問題もんだいをはじめとする教義きょうぎちがいが争点そうてんとなったものの、フィレンツェおおやけ会議かいぎカトリック教会きょうかいと、正教会せいきょうかい指導しどうしゃであるコンスタンティノープルそう主教しゅきょうおよびひがしマ帝国まていこく皇帝こうていヨハネス8せいパレオロゴスとのあいだで、教会きょうかい分裂ぶんれつさい統合とうごう合意ごういがなされた。しかし、コンスタンティノープル市民しみんだい貴族きぞく(ルカス・ノタラス大公たいこうがその筆頭ひっとう)もふくめたひがしマ帝国まていこく正教せいきょう信者しんじゃたちから東西とうざい教会きょうかい合同ごうどう決議けつぎたいするもう反発はんぱつこり、結局けっきょく東西とうざい教会きょうかい合同ごうどう実現じつげんできなかった。背景はいけいにはだい4かい十字軍じゅうじぐん決定的けっていてきとなったはん西方せいほう教会きょうかい感情かんじょうがあるとみられる。

このとき、ロシア正教せいきょう信者しんじゃ同様どうようもう反発はんぱつこし、ロシア正教会せいきょうかい代表だいひょうとしておおやけ会議かいぎ出席しゅっせきし、さい統合とうごう賛成さんせいしたギリシャじんのモスクワ主教しゅきょうイシドール(ギリシャめいイシドロス。在任ざいにん1436-1441ねん)は、モスクワに帰任きにんするとモスクワ大公たいこうヴァシーリー2せいによってただちにらえられ、ぬし教職きょうしょくかれて追放ついほうされた。西方せいほう教会きょうかい諸国しょこくから軍事ぐんじてき圧迫あっぱくつづけてきたというてんではひがしマ帝国まていこくもルーシも同様どうようだったのであり、はん西方せいほう教会きょうかい感情かんじょうひろ正教会せいきょうかい諸国しょこく共有きょうゆうされていた事実じじつしめされている。

イシドールはローマのがれ、ローマ・カトリック教会きょうかい枢機卿すうききょう就任しゅうにんした。のちに、実際じっさい管轄かんかつともなっておらずあくまで名誉めいよてき名義めいぎじょうのものであったが、コンスタンティノープルそう大司教だいしきょう・キプロス大司教だいしきょうにもにんじられる。

当時とうじひがしマ帝国まていこくオスマン帝国ていこくによって滅亡めつぼう寸前すんぜんにまでまていたために西欧せいおう救援きゅうえんもとめて東西とうざい教会きょうかい統合とうごうすすめたが、当時とうじモスクワ大公たいこうこくにとってそのような妥協だきょうをする必要ひつようはなかったのであり、民衆みんしゅうのレベルだけでなくモスクワ大公たいこうという世俗せぞく君主くんしゅまでもが実力じつりょく行使こうしるほどにまで、対応たいおうがより先鋭せんえいてきになる事情じじょうがあったとえよう。

独立どくりつロシア正教会せいきょうかい成立せいりつ[編集へんしゅう]

イシドールの追放ついほう、モスクワ大公たいこうヴァシーリー2せいは1448ねん、ロシア主教しゅきょう会議かいぎ招集しょうしゅうし、あたらしい主教しゅきょうイオナ(1448-1461)を着座ちゃくざさせた。その、ロシア正教会せいきょうかいはコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうから自治じち独立どくりつけんゆうするようになった。ただしこのときは、正教会せいきょうかいから自治じち独立どくりつ承認しょうにんされてはおらず、事実じじつじょう自治じち独立どくりつというかたちであった。ヴァシーリー2せい幾度いくどもコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうにロシア正教会せいきょうかい独立どくりつみとめるようひくくして要請ようせいしていたが、この直後ちょくごひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうし(1453ねん)、オスマン帝国ていこく支配しはいかれたコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうにはそのような重要じゅうよう決定けっていくだせるような余裕よゆうはなかった。

モスクワ大公たいこうこく拡大かくだい[編集へんしゅう]

ロシアの「双頭そうとうわし

1467ねん、ヴァシーリー2せい長子ちょうしであるイヴァン3せいひがしマ帝国まていこく最後さいご皇帝こうていコンスタンティノス11せいめいソフィア(ゾエ・パレオロギナ)をつまとしてむかえ、マ帝国まていこく継承けいしょうしゃであることを宣言せんげんした。

その、イヴァン3せいにより、ゆたかな毛皮けがわさんする後背こうはいかかえるノヴゴロド1478ねん)と貿易ぼうえき活発かっぱつであったプスコフ征服せいふくされた(正式せいしき併合へいごう後年こうねん)。どう時期じき、ヤロスラヴリ(1463ねん)、ロストフ(1474ねん)、トヴェーリ(1485ねん)なども次々つぎつぎ併合へいごうされ、これにより独自どくじ豊富ほうふ財源ざいげんれたモスクワ大公たいこうはルーシ諸公しょこう貴族きぞくなか専制せんせい君主くんしゅとして振舞ふるま実力じつりょく獲得かくとくした。こうした国力こくりょく反映はんえいし、生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう(ウスペンスキーだい聖堂せいどう)がモスクワクレムリンうち建設けんせつされた。

生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう
(ウスペンスキーだい聖堂せいどう)

イヴァン3せいはじめて「ツァーリ」(皇帝こうてい)の称号しょうごう名乗なのった君主くんしゅであり、双頭そうとうわし紋章もんしょうがモスクワ大公たいこう紋章もんしょうくわえられた。

モスクワ大公たいこう征服せいふく活動かつどうなかでノヴゴロドだい主教しゅきょう明確めいかくにモスクワ主教しゅきょうした位置付いちづけられることとなり、カトリックこくリトアニアとモスクワの狭間はざまうごいてきたプスコフの正教会せいきょうかい世界せかいへの編入へんにゅうがほぼ確定かくていされ、大半たいはんひがしスラヴの正教会せいきょうかい世界せかいのヒエラルキーが整理せいりされた。

この時代じだい、プスコフ近郊きんこう修道しゅうどうフィロフェイが、書簡しょかんちゅうで「モスクワはだいさんのローマである」と言及げんきゅうしている。モスクワに事実じじつじょう完全かんぜん屈服くっぷくさせられたプスコフじんがこのような文言もんごんべたのはいささ奇異きいうつるが、当時とうじ、「世界せかい創造そうぞう紀元きげん」で7000ねんにあたったのが1492ねんであり、一種いっしゅ世紀せいきまつてき思想しそう流布るふしていたことも「だいさんのローマろん」の背景はいけいにあるとおもわれる。コンスタンティノープルの陥落かんらくとリトアニアの脅威きょういまえ終末しゅうまつ思想しそうともなった当時とうじのロシアに精神せいしんてき緊張きんちょうがあったことは、モスクワによる権力けんりょく統一とういつへの機運きうんたかまったことの背景はいけいとして指摘してきされることがある。「モスクワはだいさんのローマである」という言葉ことばは、ひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼう正教会せいきょうかい世界せかいにあって唯一ゆいいつ独立どくりつこくとなったロシアの、正教せいきょう守護しゅごしゃとしての自負じふしめすものとして流布るふしていく。

コローメンスコエの「おも昇天しょうてん教会きょうかい」。1532ねんヴァシリー3せいイワンかみなりみかど誕生たんじょうしゅくして建設けんせつした教会きょうかい世界せかい遺産いさん

イヴァン3せい後継こうけいしゃであるヴァシーリー3せい征服せいふく事業じぎょう継続けいぞくプスコフ1510ねん)、ヴォロク公国こうこく1513ねん)、リャザン公国こうこく1521ねん)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国こうこく1522ねん)を大公たいこうこく編入へんにゅうした。ノヴゴロドとプスコフという、北方ほっぽうさかえた中世ちゅうせい共和きょうわせい都市としは、ここにおいて名実めいじつども解体かいたいされた。

つぎのツァーリ、イヴァン4せいは、かみ印刷いんさつ導入どうにゅう常備じょうびぐん創設そうせつなどの近代きんだいすすめ、対外たいがい戦争せんそうリヴォニア戦争せんそうなど)を実行じっこうするとともに、教会きょうかいへの国家こっか統制とうせいつよめた[ちゅう 10]。イヴァン4せい統治とうち時代じだいとく治世ちせい後半こうはん)は、かれのあだとなった「かみなりみかど」のかたりにも象徴しょうちょうされるようにロシアに恐怖きょうふ政治せいじれた時代じだいであった。後述こうじゅつする所有しょゆうながれをむモスクワの主教しゅきょうきよしフィリップ皇帝こうていたいやめ[ちゅう 11]せまり、国家こっか皇帝こうてい正常せいじょうしようと努力どりょくしたが、最後さいごには絞殺しめころされた。

ヴァシーリー2せい以降いこう大公たいこう・ツァーリによるロシア正教会せいきょうかいへの介入かいにゅうつよまる傾向けいこうがあったが、15世紀せいき中頃なかごろから16世紀せいき初頭しょとうにかけて、ロシア正教会せいきょうかい性格せいかくかかわる重要じゅうよう論争ろんそう教会きょうかいにおいてこっていた。所有しょゆう所有しょゆう論争ろんそうである。

所有しょゆう所有しょゆう対立たいりつ[編集へんしゅう]

せいイオシフ・ヴォロツキイの直筆じきひつほん

荒野あらの修道院しゅうどういん運動うんどうから出発しゅっぱつした修道院しゅうどういんぐんも、とき開墾かいこんによりゆたかになっていたものがおおかった。こうしたとみ積極せっきょくてきもちいて人々ひとびとたすけるべきだとした人々ひとびと所有しょゆうである。他方たほう隠遁いんとんしゃ多数たすうし、清貧せいひんむねとし財産ざいさん所有しょゆう反対はんたいした人々ひとびと所有しょゆうである。

15世紀せいき中頃なかごろから両派りょうはあいだ論争ろんそう活発かっぱつになったのだが、そもそもこうしたとみめぐった論争ろんそうきること自体じたいが、修道院しゅうどういんぐんの「荒野あらの修道院しゅうどういん」からの一定いってい変質へんしつ物語ものがたるものである。勤勉きんべん修道しゅうどうたちによる過去かこ開墾かいこん成果せいかゆたかなみのりをこの時代じだいにもたらしたのも事実じじつであるが、反面はんめん世俗せぞく権力けんりょく癒着ゆちゃくする聖職せいしょくしゃそう形成けいせいされてきていたのもたしかであった。

  • 所有しょゆうのリーダー…ヴォロコラムスクの修道院しゅうどういんちょうせいイオシフ・ヴォロツキイ(1439-1515)
  • 所有しょゆうのリーダー…せいニル・ソルスキー(1433-1508)、せいマクシム・グレク(1470-1556)

※ここでは両方りょうほうのリーダーが列聖れっせいされていることをとくしめすために、正教会せいきょうかいもちいられている「きよし」の称号しょうごうす。

せいニル・ソルスキーが生活せいかつしていたキリロ・ベロゼルスキイ修道院しゅうどういん

上記じょうきのそれぞれののリーダーに「きよし」という称号しょうごうされていることからわかとおり、後代こうだい正教会せいきょうかいからはいずれも列聖れっせいされており、両派りょうはのいずれかが二者択一にしゃたくいつ結果けっかとして現代げんだいにおいて正統せいとうせい獲得かくとくするといったようなことはきていない。所有しょゆう当時とうじ権力けんりょく基盤きばん整備せいびされ統一とういつすすんでいたロシアにおいてゆたかな財力ざいりょくかし、荘厳そうごんたてまつかみあやととのえ、西欧せいおうすすんだ技術ぎじゅつ導入どうにゅうするになとなり学校がっこう教育きょういく社会しゃかい福祉ふくしちかられていたと評価ひょうかされ、一方いっぽう所有しょゆうは、いのりと修道しゅうどうとおした精神せいしんてき向上こうじょうにより、人々ひとびと精神せいしん生活せいかつをよりゆたかにしようとはたらいていたと評価ひょうかされる。両派りょうはともに当時とうじ尊敬そんけいされる修道しゅうどう聖人せいじんしていた。

しかしながら当時とうじのロシア正教会せいきょうかいは、組織そしきとしては両派りょうはのバランスを志向しこうせず、基本きほんてき所有しょゆう優先ゆうせんするようになっていった。こうした所有しょゆう姿勢しせいへのかたよりが後々あとあと、16世紀せいきおよび17世紀せいきのロシア正教会せいきょうかいのさまざまな問題もんだいかげとすことになる。

なお、両派りょうは対立たいりつ時代じだいなかにあっても、精神せいしんてき遺産いさん正教会せいきょうかいのこされた。イオシフ・ヴォロツキイは当時とうじ隆盛りゅうせいしていた異端いたんたいする論駁ろんばくあらわした。ニル・ソルスキーはアトスさんなど数々かずかず聖地せいちおとずれ、ヘシュカスム神秘しんぴてき奥義おうぎ体得たいとくせい師父しふ著作ちょさくんでロシアに帰郷ききょうし、帰郷ききょう隠遁いんとんしょをつくって修道しゅうどう生活せいかつおくった。膨大ぼうだい著作ちょさくのこしている。

モスクワそう主教しゅきょうちょう成立せいりつ[編集へんしゅう]

イヴァン4せい後継こうけいしゃであった皇帝こうていフョードル1せいリューリクあさモスクワ大公たいこうこく最後さいごツァーリである(在位ざいい1584ねん - 1598ねん)。信仰しんこう熱心ねっしんでありいのりに熱心ねっしんなことでられたフョードル1せい在位ざいいで、独立どくりつロシア正教会せいきょうかいのモスクワ主教しゅきょうそう主教しゅきょう昇格しょうかくする。ただしフョードル1せいはツァーリとしてはまった凡庸ぼんようであり、実権じっけんのほぼすべては貴族きぞくあいだこうそうのこった、フョードル1せい義兄ぎけいであったボリス・ゴドゥノフにぎられていた。モスクワ主教しゅきょうそう主教しゅきょうへの昇格しょうかくもボリス・ゴドゥノフの意向いこう沿ったものとみられている。

コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうはモスクワ主教しゅきょうそう主教しゅきょうへの昇格しょうかくたいしさしたる難色なんしょくしめさなかった。 1589ねん主教しゅきょうイオフが、初代しょだいモスクワおよぜんルーシのそう主教しゅきょう就任しゅうにんした。ロシア正教会せいきょうかいはモスクワの主教しゅきょうそう主教しゅきょうせいをとることおよび独立どくりつ教会きょうかいとしての地位ちいを、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうイェレミアス2せい[ちゅう 12]はじめとした4にんそう主教しゅきょう(コンスタンティノープルそう主教しゅきょうアレクサンドリアそう主教しゅきょうアンティオキアそう主教しゅきょうエルサレムそう主教しゅきょう)から承認しょうにんされた。

ロマノフあさ時代じだい[編集へんしゅう]

[31] 17世紀せいき以降いこう、1917ねんロシア革命かくめいまではロマノフあさ時代じだいである。この時代じだい、ロシア正教会せいきょうかい国家こっか保護ほごはい特権とっけんてき立場たちばると同時どうじに、ツァーリの強力きょうりょく統制とうせいかれた。西欧せいおうてき国家こっか改革かいかく目指めざツァーリ主導しゅどうしたでロシア正教会せいきょうかい西欧せいおうすすめられていったのもこの時代じだいであるとまとめられる。正教会せいきょうかい西にし欧化おうか是非ぜひはロシア・ウクライナ地域ちいきかぎらず、この時代じだいぜん正教会せいきょうかいにとって最大さいだい問題もんだいでありつづけた[ちゅう 13]

ただし、ツァーリの強力きょうりょく統制とうせい西欧せいおうについても、一様いちよう進行しんこうプロセスを辿たどったわけではない。そしてそのされた結果けっかについてのステレオタイプな見解けんかい体制たいせい従属じゅうぞくてきなロシア正教会せいきょうかい」「正教会せいきょうかいくらべて西欧せいおうてきなロシア正教会せいきょうかい」についても、それほど単純たんじゅんなものではない。まずロマノフあさ出発しゅっぱつてんは、非常ひじょう非力ひりきなツァーリからはじまっていたことには留意りゅういすべきであろう。その正教会せいきょうかいとのかかわりの経緯けいい、その終結しゅうけつてんについてはさまざまな見解けんかい存在そんざいし、これもおなじく単純たんじゅんなものではない。ツァーリの統制とうせい完成かんせいするまでのプロセスを、おも以下いかてんじゅんっていくことで概観がいかんするが、あくまで概要がいようでしかないことに注意ちゅういされたい。

  • そう主教しゅきょうフィラレートによる統治とうち世俗せぞく権力けんりょく教会きょうかい勢力せいりょく均衡きんこう
  • そう主教しゅきょうニーコンによる改革かいかく顛末てんまつとその背景はいけい
    • ロマノフあさがウクライナ西岸せいがん勢力せいりょくいたことによる西にし欧化おうか影響えいきょうブレスト合同ごうどうとキエフ神学校しんがっこう
    • 伝統でんとう重視じゅうしする姿勢しせい二分にぶん儀式ぎしき発生はっせい

世俗せぞく権力けんりょく教会きょうかい勢力せいりょく均衡きんこう[編集へんしゅう]

『ポーランドじんへの祝福しゅくふくこばそう主教しゅきょうエルモゲン』パーヴェル・チスチャコフによる。1860ねんえがかれた作品さくひん

一定いってい政治せいじてき手腕しゅわんゆうしていたボリス・ゴドゥノフであったが、その治世ちせいは3年間ねんかんつづ飢饉ききんなどに見舞みまわれ安定あんていしなかった。ボリス・ゴドゥノフの前後ぜんごより、ロシアは後継こうけいしゃめぐってだい動乱どうらん時代じだいむかえる。

カトリックこくのポーランドが介入かいにゅうしてるにおよび(ロシア・ポーランド戦争せんそう)モスクワはポーランドに占領せんりょうされたが、モスクワそう主教しゅきょうエルモゲン(ゲルモゲン)はモスクワを占領せんりょうしたポーランドじん祝福しゅくふくあたえるのをこばんだ。ポーランドにより獄中ごくちゅうつながれたモスクワそう主教しゅきょうエルモゲンは、混乱こんらんしていたロシアに回状かいじょう正教せいきょう信仰しんこう守護しゅご国土こくど解放かいほうびかけた[32]。ロシアではニジニ・ノヴゴロド中心ちゅうしん国民こくみんぐん編成へんせいされ、ポーランドからモスクワは解放かいほうされた。

そのモスクワでツァーリにえらばれたのはミハイル・ロマノフであった。ロマノフあさがここに創始そうしされるが、16さいのミハイル・ロマノフはおとなしい人物じんぶつであり、実権じっけん貴族きぞくたちによる全国ぜんこく会議かいぎにぎられていた。ツァーリ権力けんりょく抑制よくせいするという貴族きぞくたち意図いとはたらいた人選じんせんであった。

このミハイル・ロマノフのちちであったロストフ主教しゅきょうフィラレート俗名ぞくみょう:フョードル・ロマノフ)[ちゅう 14]がエルモゲンそう主教しゅきょう後継こうけいとして1619ねんにモスクワそう主教しゅきょう着座ちゃくざすると(在任ざいにん永眠えいみんする1633ねんまで)、フィラレートは精力せいりょくてき軍制ぐんせい改革かいかくふくむさまざまな世俗せぞくめんでの政治せいじ改革かいかくおこない。ボリス・ゴドゥノフの死後しごうしなわれていたモスクワ大公たいこうこく国土こくど回復かいふくちからそそいだ。ミハイル・ロマノフ自身じしん政務せいむへの意欲いよくすくなさにも一因いちいんのあったこのそう主教しゅきょうによる政治せいじは、ひがしマ帝国まていこく(ビザンチン帝国ていこく)とその正教会せいきょうかい理念りねんであった、世俗せぞく権力けんりょく教会きょうかい調和ちょうわとしてのビザンティン・ハーモニー[33]しとする後代こうだい正教会せいきょうかい関係かんけいしゃから批判ひはんされるものである。

貴族きぞくたちによるツァーリ権力けんりょく抑制よくせい、そしてそう主教しゅきょうフィラレートによる統治とうちにみられるように、17世紀せいき前半ぜんはんにはいまだツァーリの権力けんりょくはそれほど絶対ぜったいてきなものではなかったともえよう。ただしこうしたビザンティン・ハーモニー[33]破壊はかい教会きょうかい世俗せぞく権力けんりょくへの介入かいにゅう政教せいきょう相互そうご不可侵ふかしんせい否定ひていしためんゆうしており、世俗せぞくによる教会きょうかいへの介入かいにゅうというぎゃくもまたしかりとする政治せいじ力学りきがく否定ひていするのをむずかしくする結果けっか招来しょうらいした。

ニーコンそう主教しゅきょうおよびその改革かいかく[編集へんしゅう]

ロシア正教会せいきょうかいなかでも特筆とくひつされるだい事件じけんとしてげられることがおおそう主教しゅきょうニーコンによる改革かいかくは、特筆とくひつされてしかるべきさまざまな決定的けっていてき影響えいきょうをロシア正教会せいきょうかいのこした。この改革かいかくたいする評価ひょうか賛否さんぴ両論りょうろんがあり、現代げんだい正教会せいきょうかい関係かんけいしゃからもかならずその功罪こうざい両面りょうめんげられる。その背景はいけい顛末てんまつを、概要がいようのみしるす。なお、この改革かいかく宗教しゅうきょう改革かいかくとはばれない[ちゅう 15]

ブレスト合同ごうどうとキエフ神学校しんがっこう[編集へんしゅう]

ルブリン合同ごうどう」(1569ねん)。東欧とうおう大国たいこくであるポーランド・リトアニア連合れんごう成立せいりつ画像がぞうは19世紀せいきポーランドのヤン・マテイコによる絵画かいが

17世紀せいき前半ぜんはんまで、キエフをふくむウクライナ西岸せいがんポーランド・リトアニア共和きょうわこく勢力せいりょくにあった。すなわちカトリック教会きょうかい影響えいきょうにあったことになる。おな時期じき、カトリック教会きょうかいにはプロテスタント対抗たいこうする対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかくきており、世俗せぞく権力けんりょくからもローマカトリック教会きょうかいからも、ウクライナにおける教会きょうかいローマ教皇きょうこうした帰属きぞくさせようとする活発かっぱつうごきがしょうじた。1596ねんにはブレスト合同ごうどうによりウクライナ東方とうほうカトリック教会きょうかい成立せいりつ現在げんざい存続そんぞくする、東方とうほう典礼てんれい保持ほじしつつローマ教皇きょうこう教皇きょうこう首位しゅいけんみとめる教会きょうかいである東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいのうち最大さいだいきゅう教会きょうかいがウクライナに誕生たんじょうした。

これによって、ウクライナにかかわるコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう庇護ひごにあった正教会せいきょうかい指導しどうしゃしょうじた潮流ちょうりゅうは、おおきくけてふたつある。ひとつはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)1572ねん-1638ねん[ちゅう 16]にみられる、はんローマカトリック感情かんじょうからプロテスタントの影響えいきょうれる傾向けいこう。いまひとつはキエフ主教しゅきょうペトロー・モヒラにみられる、ローマカトリックに対抗たいこうするためにラテン神学しんがくもちいようとする傾向けいこうである。しかし両派りょうはともに西欧せいおう神学しんがくてき影響えいきょうぜん否定ひていするものではなかった。むしろ「ぜん否定ひていできなかった」というほうただしい。その要因よういんはさまざまなものがあるが、ひとつの理由りゆうとして当時とうじ独自どくじ正教会せいきょうかい学問がくもん機関きかんがほぼ皆無かいむであったことがげられる。オスマン帝国ていこくでは正教会せいきょうかい教育きょういく機関きかん維持いじゆるされず、高位こうい聖職せいしょくしゃとなる人々ひとびとはイタリアにってラテン語らてんご神学しんがく教育きょういくけるしか高度こうど教育きょういくける方法ほうほうがなかった。

この時代じだいせい師父しふのっとった正教会せいきょうかい正統せいとうてき信仰しんこうをまだしもむものとして評価ひょうかされているのは1672ねんエルサレムそう主教しゅきょうドシセオス2せいによる信仰しんこう告白こくはくしょであるが、ドシセオスは独学どくがくせい師父しふがくまなんでいた人物じんぶつであった。より正教会せいきょうかい伝統でんとうてき信仰しんこうあきらかにする著作ちょさくとしては、後代こうだいアトスさんフィロカリアたねばならないとされる。

キエフ主教しゅきょうペトロー・モヒラはカトリックこくポーランド・リトアニア共和きょうわこく支配しはいにあって圧倒的あっとうてきハンディをかかえつつも、1632ねん、キエフ神学校しんがっこう設立せつりつする。正教会せいきょうかい神品しんぴんいたるにラテンてき素養そようそなえさせ、もってカトリックに対抗たいこうしようというねらいがあったこの学校がっこう声望せいぼうはすぐにたかまった。しかしながら当然とうぜんこのようなラテンけい術語じゅつごとう正教せいきょう導入どうにゅうするこころみは、いかに正教せいきょうまもるためという善意ぜんいからたものであっても、正教会せいきょうかいない伝統でんとうおもんじるものたちから反発はんぱつうのは自然しぜんながれであった。

ウクライナが1654ねん大幅おおはば自治じちけん保証ほしょうつきでロシアのツァーリの宗主そうしゅけんみとめポーランド・リトアニア共和きょうわこく支配しはいから脱出だっしゅつしたことで、ロシアと西にしウクライナの物流ぶつりゅうひと交流こうりゅう活発かっぱつしていく。それはモスクワを中心ちゅうしんとするロシア正教会せいきょうかい西にし欧化おうかなみせてることをも意味いみした。

伝統でんとう重視じゅうしする姿勢しせい二分にぶん儀式ぎしき発生はっせい[編集へんしゅう]

こうしたとき登場とうじょうしてきたのがニーコンであり、かれアヴァクームらととも正教会せいきょうかい西欧せいおう危機ききかんいだき、正教会せいきょうかい伝統でんとうまも意識いしきっていた人物じんぶつであった。だが1652ねんにニーコンがツァーリであるアレクセイ支持しじけてそう主教しゅきょう着座ちゃくざ教会きょうかい改革かいかくはじめた段階だんかいで、アヴァクームらの一派いっぱ分裂ぶんれつしょうじた。

先述せんじゅつとおりこの時代じだい、ロシア正教会せいきょうかいでは所有しょゆう指導しどうてき立場たちばにあったが、所有しょゆう非常ひじょう形式けいしきおもんじる人々ひとびとであり、形式けいしき主義しゅぎ非常ひじょうふかくロシア正教会せいきょうかいろしていた[ちゅう 17]

アレクセイ・キフシェンコによる絵画かいが。「たてまつかみあやしょ改訂かいていする、そう主教しゅきょうニーコンとエピファニー・スラヴィニェツキー」

形式けいしき主義しゅぎへの偏重へんちょう中庸ちゅうよう状態じょうたい適正てきせいさせること。およびロシア正教会せいきょうかい形式けいしきを、正教せいきょう世界せかい中心ちゅうしんたるロシアに相応ふさわしくギリシャにならったものとし、ギリシャのたてまつかみあや伝統でんとう祈祷きとうしょれることで正教会せいきょうかい世界せかい標準ひょうじゅんてき地位ちいをロシアに確立かくりつすること。もってカトリック教会きょうかいへの対抗たいこうとする。これらがニーコン改革かいかくによって目指めざされた。

なお誤解ごかいされることもあるので注意ちゅういようするが、ニーコン改革かいかくはロシア正教会せいきょうかい革新かくしんしようとしたのではなく、あくまでも(すくなくとも改革かいかくしゃ主観しゅかんてきには)教会きょうかい共通きょうつうする正教会せいきょうかい伝統でんとう確立かくりつしようとしたのみであって、伝統でんとうをいかに保持ほじすべきかという問題もんだい意識いしきについてはニーコンに賛成さんせいしたがわも、ニーコンに反対はんたいするがわも、ことなるところはなかった。西欧せいおうにおけるカトリックプロテスタントあいだ相違そういほどには両者りょうしゃには見解けんかいじょうみぞはなかったとえる。

だがそれでもニーコンによる改革かいかくは、ルーシから先祖せんぞ代々だいだい祈祷きとう形式けいしきまもってきた自負じふ人々ひとびとからの猛烈もうれつ反発はんぱつみ、反対はんたいしゃから致命ちめいしゃた。ツァーリの縁戚えんせきからも致命ちめいしゃたことにこの反対はんたい運動うんどうひろこっていたことがしめされている。これらの改革かいかく反発はんぱつした人々ひとびと改革かいかくれた人々ひとびとから「分離ぶんりラスコーリニキ)」と蔑称べっしょうされた。正教せいきょう儀式ぎしき中立ちゅうりつてき呼称こしょうである。

後代こうだい帝国ていこく安定あんていみかどけん思惑おもわくから「『分離ぶんり』という名称めいしょう差別さべつてきである」として、彼等かれらたいして若干じゃっかん配慮はいりょしめされるようになり、エカチェリーナ2せい時代じだいから公文書こうぶんしょにおいては「儀式ぎしき」の名称めいしょう使用しようするようになった。現代げんだいにおいても「儀式ぎしき」が、当事とうじしゃ配慮はいりょした名称めいしょうとなっている。

当初とうしょ儀式ぎしきたいする弾圧だんあつ人頭じんとうぜいばいはらわせるなどの間接かんせつてき手段しゅだんまったが、次第しだい実力じつりょく行使こうしめん増大ぞうだい。ニーコンそう主教しゅきょうはツァーリの摂政せっしょうという立場たちばかし、儀式ぎしきへの実力じつりょく行使こうしともなった弾圧だんあつすすめていった。儀式ぎしきによる集団しゅうだん焼身しょうしん自殺じさつといった熱狂ねっきょうてき抵抗ていこう運動うんどうはロシア全国ぜんこく各地かくちでみられた。

反対はんたい運動うんどう背景はいけいには、当時とうじ正教会せいきょうかい世界せかいにあって長時間ちょうじかんったままで祈祷きとうおこなっていたのはロシア正教会せいきょうかいのみであり、ロシアにやってきた外来がいらいせい教徒きょうととくにオスマン帝国ていこく領内りょうないやポーランドといった異教徒いきょうと支配しはいにあるせい教徒きょうと)が長時間ちょうじかん起立きりつ姿勢しせいこたえられない姿すがたなどをあたりにしていたロシアせい教徒きょうとからすれば、「みずからこそが正統せいとういのりをまもっている」という意識いしきまれても仕方しかたなかったという事情じじょうもあった。

アヴァクームらの一派いっぱはその数々かずかず分派ぶんぱみつつ「儀式ぎしき」として存続そんぞくしていくことにる。弾圧だんあつ程度ていど時期じきによる濃淡のうたんはあったものの、ロシア帝国ていこく政府せいふ基本きほんてきにこれをながあいだみとめなかったので、彼等かれらはシベリアなどの辺境へんきょうのがれていくこととなった。

改革かいかくがこうしただい規模きぼ波乱はらんこした結果けっか、ニーコンそう主教しゅきょう改革かいかく方針ほうしんみとめられたものの、全国ぜんこくてきしょうじた混乱こんらんをツァーリ・アレクセイから指弾しだんされたニーコンそう主教しゅきょう1666ねん追放ついほうされた。元々もともと教権きょうけんぞくけん優越ゆうえつすることを主張しゅちょうしてゆずらなかったニーコンそう主教しゅきょうとアレクセイ皇帝こうていは、その基本きほんてき立場たちばからしてすでに差異さいおおきくなってきており、改革かいかく是非ぜひ云々うんぬん追放ついほう口実こうじつぎなかったという側面そくめん指摘してきされる。

正教会せいきょうかい世界せかい同士どうし交流こうりゅうふかまるなかあきらかになってきたたてまつかみれい祈祷きとうしょ差異さい是正ぜせいたしかに必要ひつよう不可欠ふかけつであったのであり、ニーコンそう主教しゅきょうによる改革かいかく不可避ふかひであったともいわれる。この時代じだいに、ロシア正教会せいきょうかい現代げんだいいたるまで保持ほじするたてまつかみあや骨格こっかく出来上できあがっており、ロシア以外いがい正教会せいきょうかいとの差異さいちぢまった。だがニーコンそう主教しゅきょう性急せいきゅうぎ、また暴力ぼうりょくてきぎた。不可避ふかひとはいえ改革かいかく強引ごういんすすめた結果けっかされたもの、それはだい規模きぼ分派ぶんぱである儀式ぎしきであり、くわえてツァーリによるそう主教しゅきょう追放ついほう招来しょうらいしたことによる、ロマノフあさによるロシア正教会せいきょうかいたいする統制とうせい完成かんせいであった。

ただし、儀式ぎしき主導しゅどうしゃであったちょう司祭しさいアヴァクームは、ニーコンそう主教しゅきょう追放ついほうされたのち1682ねん火刑かけいしょされており、この「改革かいかく」がニーコンいちにんによってなされたわけではないことには注意ちゅうい必要ひつようである。

18世紀せいき前半ぜんはん:ピョートル大帝たいていによる教会きょうかい統制とうせいさく[編集へんしゅう]

ピョートル大帝たいてい

ピョートル1せい在位ざいい1682ねん - 1725ねん以降いこう、ロマノフあさ皇帝こうていはロシア正教会せいきょうかい国教こっきょうとして保護ほごする一方いっぽうでさらに厳重げんじゅう統制とうせいくようになる。ピョートル1せい西欧せいおうへの窓口まどぐちおよび首都しゅととして1703ねんサンクトペテルブルク建設けんせつしたことにもみられるようにロシアの西欧せいおう目指めざしていたが、それは教会きょうかい例外れいがいではなかった。

1701ねん、ピョートル1せい修道院しゅうどういんしょう設置せっちして教会きょうかいりょう統括とうかつ不穏ふおん空気くうきながれることをさっしたツァーリは修道しゅうどう執筆しっぴつ禁止きんしした。同年どうねん教区きょうく聖職せいしょくしゃたいしてあらたな義務ぎむした。教区きょうく警護けいご消防しょうぼう刑務所けいむしょ見張みはり、助産婦じょさんぷ監視かんし防止ぼうしのため)とうであった。1708ねんにはやめ告解こっかい)の内容ないようはん国家こっかてき言動げんどうがあった場合ばあい司祭しさい国家こっか報告ほうこくするよう秘密ひみつみことのりれい義務付ぎむづけられた。違反いはんした司祭しさいには罰金ばっきんせられた。また、おおくの修道院しゅうどういんりょう国庫こっこ没収ぼっしゅうされた。

そう主教しゅきょうちょうにも例外れいがいなくツァーリの改革かいかくおよんだ。1700ねんのアドリアンそう主教しゅきょう永眠えいみんには後任こうにんそう主教しゅきょう選出せんしゅつすることをゆるされなかった。1721ねんにはモスクワそう主教しゅきょうちょう正式せいしき廃止はいしされ、英国えいこく国教こっきょうかいとドイツのプロテスタント教会きょうかい制度せいどならい、皇帝こうてい権力けんりょくのコントロールのしたかれたひじりつとむかいいん設置せっちされた。その総裁そうさいには俗人ぞくじん任命にんめいされた。総裁そうさい制度せいどは1726ねんから1741ねんまで一時いちじてき中断ちゅうだんしたものの、エリザヴェータ女帝にょてい復活ふっかつさせ、以降いこう1917ねんそう主教しゅきょうせい復活ふっかつまで、ロシア正教会せいきょうかいそう主教しゅきょう空位くういのままとなり、ときには軍人ぐんじんかみろんしゃ就任しゅうにんする総裁そうさい管轄かんかつかれることとなった。

こうしたいた機密きみつ世俗せぞく国家こっかたいする通報つうほう義務ぎむ、およびひじりつとむかいいん制度せいどは、正教会せいきょうかい教会きょうかいほう違反いはんするものであった。

1721ねんにはウクライナじんでキエフ出身しゅっしんのF.プロコポーヴィチ[ちゅう 18]作成さくせいした草案そうあんもとづいて『宗務しゅうむ規定きてい』がさだめられ、ツァーリの首長しゅちょうけん確認かくにん教会きょうかいたいする国家こっか官吏かんりちか役割やくわり義務付ぎむづけ・修道しゅうどう統制とうせい儀式ぎしきへの抑圧よくあつなどが規定きていされた。

また、ピョートル1せいこのんでウクライナじん登用とうようした。1700ねんから1762ねんまでのあいだの127にん高位こうい聖職せいしょくしゃのうち70にんがウクライナじんベラルーシじんで、ロシアじんは47にんぎず、あとはギリシャじんルーマニアじんセルビアじんなどであった。ウクライナの影響えいきょうつよまることは必然ひつぜんてきに、カトリックの影響えいきょうつよいキエフ・モギラ・アカデミーにみられるような同地どうちからの西欧せいおうてき影響えいきょうつよまることに帰結きけつし、ロシア正教会せいきょうかい西欧せいおうラテン語らてんご偏重へんちょういちじるしくすすんだとされる。

なおこの時代じだい儀式ぎしきからはピョートル1せいは「アンチキリスト」ときらわれ、ツァーリによる弾圧だんあつ終末しゅうまつろんてき認識にんしきひろまりとが相俟あいまって儀式ぎしき集団しゅうだん焼身しょうしん自殺じさつ多発たはつした。一説いっせつには17世紀せいきまつまでの焼身しょうしん自殺じさつしゃすうは9せんにん以後いご歴史れきしふくめれば総数そうすう2まんにんにもおよぶという。

世俗せぞく権力けんりょくによるそう主教しゅきょうせい廃止はいし教会きょうかい統制とうせい、および司祭しさいはん国家こっかてき言動げんどうについての通報つうほう義務付ぎむづけがおこなわれたことは、いちじるしく正教会せいきょうかい教会きょうかいほうはんするものであり、正教会せいきょうかい伝統でんとうげたとされる西欧せいおうわせ、後代こうだい正教会せいきょうかいからこの時代じだいのロマノフあさ施策しさくはげしく論難ろんなんされるものとなっている。ピョートル1せいについての評価ひょうか正教会せいきょうかいからはいちじるしくひく[ちゅう 19]

また、ピョートル1せいにより教会きょうかい行政ぎょうせい整備せいびったが、ピョートルが在任ざいにんちゅうしたみことのりれい宣言せんげん協定きょうてい規約きやく指令しれい認可にんかじょうとうかずじつやく3000にもおよんだ。こうした朝令暮改ちょうれいぼかいは、国民こくみん国家こっか遵法じゅんぽう精神せいしん法治ほうち精神せいしんそだつことをさまたげるものであったともされる[34]。したがってこうした教会きょうかい機構きこう整備せいびとそれにかんする法令ほうれい数々かずかず教会きょうかいほう違反いはんであるにとどまらず、教会きょうかい安定あんていにすらつながらないものであった。

この時代じだい精神せいしんてき救済きゅうさいもとめる人々ひとびとは、各地かくち長老ちょうろういたるおしえをうようになっていった。

18世紀せいき後半こうはんから19世紀せいき初頭しょとう[編集へんしゅう]

エカチェリーナ2せいによる宗教しゅうきょう政策せいさく儀式ぎしき[編集へんしゅう]

エカチェリーナ2せい
(1794ねん肖像しょうぞう)

ピョートル1せい以降いこうの18世紀せいき中頃なかごろは、儀式ぎしきと、拡大かくだいしたロシア帝国ていこくにおけるイスラームたいする施策しさく大変たいへんきびしい時代じだいであったが、プガチョフのらん以降いこうエカチェリーナ2せい在位ざいい1762ねん - 1796ねん)は少数しょうすう民族みんぞくたいする施策しさく緩和かんわし、モスクとイスラームの学校がっこう設立せつりつみとめた。

儀式ぎしきたいする施策しさく緩和かんわされた。すでにピョートル3せいによって方針ほうしん転換てんかんはかられていたが、エカチェリーナ2せいはこれを踏襲とうしゅうグリゴリー・ポチョムキンとく儀式ぎしき好意こういてきであった。1769ねんには儀式ぎしき信徒しんと裁判さいばん証人しょうにんてることをみとめ、1782ねんに2ばい人頭じんとうぜい廃止はいし公文書こうぶんしょにおいて「分離ぶんり」(ラスコーリニク)ではなく「儀式ぎしき」(スタロオヴリャーヂェツ)を使つかうことにめたのもこのときである。1785ねんには諸々もろもろ市民しみんけんあたえられ、やめ自由じゆうみとめた。

一方いっぽうルターピョートル3せいきらったロシア正教会せいきょうかいがエカチェリーナ2せいのクーデターと即位そくい支持しじあたえたものの、女帝にょていはロシア正教会せいきょうかいたいしピョートル1せい以来いらい政策せいさく踏襲とうしゅうし、教会きょうかいたいする統制とうせい西欧せいおうといった基本きほん方針ほうしんには変更へんこうくわえられなかった。このため、ピョートル1せいほどではないにせよ、エカチェリーナ2せいたいする現代げんだい正教会せいきょうかいからの評価ひょうかはあまりたかくない。

儀式ぎしき産業さんぎょうめんにおいてとく活躍かつやくしていくこととなった。1771ねんまつから翌年よくねんにかけてモスクワで流行りゅうこうしたペストわざわいさいしても儀式ぎしき慈善じぜん活動かつどう熱心ねっしんみ、儀式ぎしき共同きょうどうたいはこの時代じだいおおきく発展はってんした。18世紀せいき女帝にょていたち首都しゅとサンクトペテルブルクに工場こうじょうくことをきらい、産業さんぎょうしょうはモスクワにかれモスクワは産業さんぎょう中心ちゅうしんでありつづけたが、19世紀せいきのモスクワでは儀式ぎしき経済けいざい活動かつどう活発かっぱつであった。

聖歌せいか[編集へんしゅう]

この時代じだい正教会せいきょうかい聖歌せいかに、伴奏ばんそう声楽せいがくという原則げんそくるがなかったものの、イタリアてきポリフォニーおもとした西欧せいおうてき要素ようそれられていく。すでにその萌芽ほうがは17世紀せいきのウクライナにあらわれていたが、ウクライナをロシア帝国ていこく勢力せいりょくいていく過程かていでその文化ぶんかてき影響えいきょうをロシア正教会せいきょうかいけることになった。アルテミイ・ヴェーデリロシアばんステパン・デグチャリョフロシアばんといった作曲さっきょくが18世紀せいき後半こうはん代表だいひょうてき聖歌せいか作曲さっきょくである。

ドミトリー・ボルトニャンスキー

18世紀せいきまつから19世紀せいき初頭しょとうにかけ、聖歌せいかのみならず世俗せぞくきょくでも活躍かつやくしたことでもっと有名ゆうめい作曲さっきょくであるドミトリー・ボルトニャンスキー1751ねん - 1825ねん)を、「正教会せいきょうかい聖歌せいかのイタリア完成かんせいさせ、伝統でんとうてき正教会せいきょうかい聖歌せいかそこなった人物じんぶつ」と看做みなすか、「正教会せいきょうかい聖歌せいかのイタリア一定いっていのレベルにめた、ロシア音楽おんがく・ロシア正教会せいきょうかい聖歌せいか原点げんてん」と看做みなすかは、論者ろんしゃによって議論ぎろんかれている。アントニン・プレオブラジェンスキーロシアばんは、1924ねん著書ちょしょ『ロシアの礼拝れいはい音楽おんがく』(ロシア: Культовая музыка в России)において、「ボルトニャンスキーは最後さいごのイタリアじんである」とし、しんのロシア音楽おんがく復活ふっかつこころみたものたちの先駆せんくしゃであるとした。1920年代ねんだいにボルトニャンスキーの評価ひょうかが「イタリアかぶれ」から根本こんぽんてき転換てんかんしている[35]

ボルトニャンスキーの合唱がっしょう聖歌せいかコンチェルトを、1840年代ねんだい訪露ほうろちゅういたエクトル・ベルリオーズは、「まれわざ、ニュアンスの絶妙ぜつみょうわせ、ハーモニーのひびさ、そしてまったおどろくべきことだが奔放ほんぽうこえ配置はいちであり、最後さいごげた特徴とくちょうは、ボルトニャンスキーのどう時代じだいじん、とりわけかれとしたとされるイタリアじんが……遵守じゅんしゅしていたぜん規則きそく見事みごと無視むしである」とたか評価ひょうかしている[36]

また、ボルトニャンスキーは中世ちゅうせい聖歌せいか近代きんだい楽譜がくふ転記てんきすることにもんでいた[37]

ボルトニャンスキーは50きょくにおよぶ合唱がっしょう聖歌せいかコンチェルト作曲さっきょくした[38]複数ふくすうめいかくパートのソロと、合唱がっしょうとがハーモニーをなす形式けいしきである。これらのコンチェルトには日本語にほんごやく存在そんざいしており(正教会せいきょうかい聖歌せいかれいよ しかもださけぶや」 - MP3ファイルのあるページ)、みず混声こんせい合唱がっしょうだん毎年まいとし定期ていき演奏えんそうかいかならげている。

19世紀せいき[編集へんしゅう]

問題もんだい拡大かくだい改革かいかく模索もさく聖人せいじん輩出はいしゅつ[編集へんしゅう]

アレクサンドル1せい在位ざいい1809ねん - 1825ねん)は神秘しんぴ主義しゅぎ傾倒けいとうしていたが、モラヴィア兄弟きょうだいだんドイツ神秘しんぴ主義しゅぎ接触せっしょくクエーカーをロシアに招待しょうたいしたことにもみられるように、かれ神秘しんぴ主義しゅぎ西方せいほう志向しこうしていて正教会せいきょうかいとはほとんど接点せってんがなかったとかんがえられている。皇帝こうてい正教会せいきょうかいたいする関心かんしんは、19世紀せいきにおけるロシア正教会せいきょうかい問題もんだい拡大かくだい解決かいけつ遅延ちえん結果けっかてきにもたらすこととなった。

くまものあたえるサロフのせいセラフィムせいセラフィムがおこなった森林しんりんでの修行しゅぎょうは、18世紀せいきすえから19世紀せいきにかけて、ロシアにおける荒野あらの修道院しゅうどういん伝統でんとうてき精神せいしん復興ふっこうするものの代表だいひょうれいであった。

19世紀せいきはロシア正教会せいきょうかい問題もんだいふくがっていった時代じだいであった。教会きょうかいほうぜん近代きんだいてきなものであったうえ教会きょうかい司法しほう整備せいびのまま、高位こうい聖職せいしょくしゃ風紀ふうき紊乱びんらん最悪さいあくのレベルにたっしており、他方たほう教会きょうかいささえる底辺ていへん位置いちする司祭しさいいたる貧困ひんこん悲惨ひさんきわめて社会しゃかい問題もんだいしていった。19世紀せいきちゅうごろには、もはや教会きょうかい改革かいかく必要ひつようせいだれにもあきらかなものとなっていたが、I.S.ベーリュスチンは著書ちょしょ『19世紀せいきのロシア農民のうみん司祭しさい生活せいかつ』(わけ白石しらいし治朗じろう)においてそうした情況じょうきょう詳細しょうさい告発こくはつした[ちゅう 20]大改革だいかいかくすすめていたアレクサンドル2せい在位ざいい1855ねん - 1881ねん)と、開明かいめいてきであるとされていたひじりつとむかいいん総裁そうさいA.P.トルストイは本書ほんしょ共感きょうかんしめして問題もんだい意識いしき共有きょうゆうしたといわれるが、そのことによる皇帝こうていによるベーリュスチンにたいする保護ほご命令めいれいければ、そのあまりに赤裸々せきらら内容ないよう問題もんだいしたひじりつとむかいいんによって、ベーリュスチン神父しんぷソロヴェツキー修道院しゅうどういん追放ついほうされるところであった。元々もともと極寒ごっかんにおいてゆたかでなかったロシア帝国ていこくはあまりにも深刻しんこく貧困ひんこんというハンディをかかえ、改革かいかく遅々ちちとしてすすまなかった。

このような悲惨ひさん時代じだいにあって、ロシア正教会せいきょうかいには精神せいしんてき救済きゅうさいもとめる人々ひとびとえなかった。サロフのせいセラフィムクロンシュタットのせいイオアンアラスカのせいインノケンティ日本にっぽん使徒しとせいニコライ(ニコライ・カサートキン)といったおおくの聖人せいじん輩出はいしゅつされている。前述ぜんじゅつ開明かいめいてきひじりつとむかいいん総裁そうさいA.P.トルストイは、ニコライ・カサートキンの日本にっぽんでの伝道でんどう活動かつどうたいしてさまざまな援助えんじょおこなっている。

19世紀せいきなかばはさまざまなロシア正教会せいきょうかい矛盾むじゅん顕在けんざいした時代じだいであったが、同時どうじにそれにたいする問題もんだい意識いしきもまたひろ共有きょうゆうされ、精神せいしんてき復興ふっこう教会きょうかい改革かいかく模索もさくされていく時代じだいでもあった。これらの模索もさくこころみはアレクサンドル2せい暗殺あんさつなどによってほとんど中途ちゅうとわったが、ゆたかに聖人せいじん文化ぶんかされる時代じだい精神せいしんあらわすものでもあった。

教会きょうかい文化ぶんか聖歌せいか・イコン・絵画かいが(19世紀せいき~20世紀せいき初頭しょとう[編集へんしゅう]

アレクサンドル・アルハンゲルスキー。はじめて正教会せいきょうかい公式こうしき聖歌せいかたい混声こんせい合唱がっしょう導入どうにゅうし、混声こんせい合唱がっしょうだん指導しどうたり、おおくの聖歌せいか作曲さっきょくおこなった。

19世紀せいき後半こうはんはいると、教会きょうかい文化ぶんかゆたかに花開はなひらいた。

聖歌せいかめんではロシア・正教会せいきょうかい伝統でんとう復興ふっこうしようとした人々ひとびとによってあらたな地平ちへいひらかれた。はじめてロシア聖歌せいか混声こんせい合唱がっしょうれ、古典こてん聖歌せいか研究けんきゅうおこなっていたアレクサンドル・アルハンゲルスキーといった聖歌せいか作曲さっきょくのほか、世俗せぞく作曲さっきょくにもニコライ・リムスキー=コルサコフをはじめとして伝統でんとうてき聖歌せいか復興ふっこう模索もさくする人々ひとびとあらわれた。この時代じだいおおくの作曲さっきょく正教会せいきょうかい聖歌せいか作曲さっきょくしている(Category:正教会せいきょうかい聖歌せいか作曲さっきょく参照さんしょう)。19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうにかけてはパーヴェル・チェスノコフ活躍かつやく。チェスノコフは多作たさく聖歌せいか作曲さっきょくであり、とくじゅう低音ていおんかした聖歌せいか得意とくいとした。

19世紀せいきロシア聖歌せいか伝統でんとう復興ふっこう模索もさくはまだ不十分ふじゅうぶんであり、西欧せいおうてき聖歌せいかからは脱却だっきゃくしていないとする見解けんかい存在そんざいするが、イタリア音楽おんがくのほとんどコピーであった18世紀せいき聖歌せいかちがい、この時代じだい聖歌せいかには現代げんだいでも正教会せいきょうかい伝統でんとうのっとったスタンダードとしてうたわれるものもおおい。

イコンについてもイタリア・ルネッサンスの影響えいきょうだっしてビザンチンの伝統でんとう見直みなおされる運動うんどうはじめられた。他方たほう世俗せぞく絵画かいが領域りょういきでは西欧せいおうてき手法しゅほうもちいつつも題材だいざい正教会せいきょうかいのっとった作品さくひん数々かずかずされていった。宗教しゅうきょうてき象徴しょうちょう主義しゅぎ代表だいひょうてき指導しどうしゃといわれるミハイル・ネステロフワシーリー・スリコフヴィクトル・ヴァスネツォフなどが有名ゆうめいであるが、かれらは世俗せぞく絵画かいがほかだい聖堂せいどうのフレスコがけた。

アレクサンドル・アルハンゲルスキーとヴィクトル・ヴァスネツォフのちち正教会せいきょうかい司祭しさいであり、どう時代じだいのI.S.ベーリュスチン神父しんぷ告発こくはつしたような「教養きょうよう堕落だらくしたロシアの司祭しさい」というようなイメージとはことなる人々ひとびとがそうした階層かいそうからもされていたことがうかがえる。

19世紀せいきのロシア正教会せいきょうかい教会きょうかい文化ぶんかは、その時期じき伝道でんどうされた日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい今日きょういたるまで多大ただい影響えいきょうおよぼしている。ボルトニャンスキー、アルハンゲルスキーの聖歌せいかいまもなお日本にっぽん正教会せいきょうかいひろうたわれている。この転換期てんかんき留学りゅうがくしたイリナ山下やましたりんが「イタリヤ」をこのみ、ビザンチンイコンを「おばけ」としてきらっていたという逸話いつわも、両方りょうほう様式ようしき混在こんざいしていた時代じだい背景はいけいがあればこそであった。

これらの19世紀せいきのロシア正教会せいきょうかい文化ぶんかについては、その西欧せいおう伝統でんとう継承けいしょう度合どあい、およびその是非ぜひめぐり、多様たよう温度おんどともな賛否さんぴ両論りょうろんがある。

以下いか絵画かいがイコンではないが、正教せいきょう題材だいざいをとる世俗せぞく絵画かいがである。

ロマノフあさによる対外たいがいてき宣教せんきょう[編集へんしゅう]

対外たいがいてきには、ロシア正教会せいきょうかいはロシアりょう拡大かくだいとともにその宣教せんきょう範囲はんい拡大かくだいし、シベリアアラスカ、さらにはロシア国外こくがい日本にっぽんなどへ宣教師せんきょうしおくり、教会きょうかいてた。19世紀せいきのロシア正教会せいきょうかい伝道でんどう当事とうじしゃたちは、「在外ざいがいロシアじんのためのロシア正教会せいきょうかい」ではなく、あくまで「現地げんちじん正教会せいきょうかい」をてることを目指めざしていた。このことが、現地げんち派遣はけんされた神品しんぴんによる、現地げんちによる祈祷きとうしょ聖書せいしょ翻訳ほんやく活発かっぱつさせた。アラスカのせいインノケンティによってアレウトへの翻訳ほんやくがなされ、日本にっぽん使徒しとせいニコライによって日本語にほんごへの翻訳ほんやくがなされた。

20世紀せいき初頭しょとう改革かいかくへの志向しこう革命かくめいによる頓挫とんざ[編集へんしゅう]

[39] 19世紀せいきあいだあきらかになった教会きょうかいしょ問題もんだい解決かいけつするための改革かいかくもとめるこえは、聖職せいしょくしゃ神学しんがくせい信徒しんととうあいだから広範こうはんこっていた。改革かいかくもとめていたのは信徒しんと下位かい聖職せいしょくしゃのみではなく高位こうい聖職せいしょくしゃ同様どうようであり、皇帝こうてい謁見えっけん可能かのうではあるがひじりつとむかいいん総裁そうさい許可きょかなしに皇帝こうてい要望ようぼうつたえることをゆるされなかった高位こうい主教しゅきょういたるは、皇帝こうていおくイコン教会きょうかいがわ要望ようぼうつたえる手紙てがみ添付てんぷするなどしていた。

この時代じだいにおいて、ピョートル大帝たいていによって廃止はいしされてひさしかったモスクワそう主教しゅきょう復活ふっかつ(これは国家こっか機関きかんたるひじりつとむかいいんによる教会きょうかいたいする硬直こうちょくてき統制とうせい抜本ばっぽんてき見直みなおしと、教会きょうかいほうじょう正常せいじょう意味いみする)、極貧ごくひんにあえぐ農村のうそん司祭しさいほとんどが妻帯さいたい司祭しさい)の生活せいかつ向上こうじょう上層じょうそう指導しどうしゃたち腐敗ふはい一掃いっそうなどといった組織そしきじょう問題もんだいほか教会きょうかい精神せいしんめん復興ふっこう改革かいかく課題かだいとされ、対処たいしょ方策ほうさくには様々さまざま見解けんかい差異さいがあったものの、問題もんだい意識いしきひろ共有きょうゆうされた。

これらのこえおおやけ会議かいぎ開催かいさい要求ようきゅうむすびついていった。当初とうしょおおやけ会議かいぎ開催かいさい難色なんしょくしめしていたひじりつとむかいいんであったが、ひじりつとむかいいん総裁そうさい改革かいかく否定ひていてきコンスタンチン・ポベドノスツェフわってオブレンスキーこう就任しゅうにんするとともに、10にん主教しゅきょう、21にん神学しんがく大学だいがく教授きょうじゅあつまり、おおやけ会議かいぎ実現じつげんけて準備じゅんびすすめられていた。しかしながらおおやけ会議かいぎ開催かいさい準備じゅんび時期じき前後ぜんごしてだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、ニコライ2せい戦争せんそうにかかりきりになるとともに、おおやけ会議かいぎ開催かいさいおくれた。

せいティーホンモスクワそう主教しゅきょう着座ちゃくざした直後ちょくご時期じきの、ロシア正教会せいきょうかい最高さいこう幹部かんぶたちクーコリ着用ちゃくようしているのがせいティーホン(前列ぜんれつみぎから3にんしろクロブークこうむっているのは主教しゅきょういたる1917ねん撮影さつえい

おおやけ会議かいぎ開催かいさい実現じつげんしたのは帝政ていせい終焉しゅうえんむかえた1917ねんである。おおやけ会議かいぎにより、モスクワそう主教しゅきょう2がつ革命かくめいの1917ねん6がつ復興ふっこうした。ただし改革かいかく志向しこうするおおやけ会議かいぎ開催かいさい帝政ていせい長期間ちょうきかんにわたり準備じゅんびされていたものであり、革命かくめいによって帝政ていせい崩壊ほうかいしたことがおおやけ会議かいぎ開催かいさいむすびついたわけではない。ロシア正教会せいきょうかいにおける前例ぜんれいのない規模きぼでのおおやけ会議かいぎ開催かいさい出席しゅっせきしゃ範囲はんい設定せっていとその確保かくほ議事ぎじ進行しんこうのありかた教会きょうかい伝統でんとう検討けんとうなど、様々さまざまめん膨大ぼうだいかつ綿密めんみつ準備じゅんび必要ひつようとしたものであり、帝政ていせい崩壊ほうかいした直後ちょくご一朝一夕いっちょういっせき実現じつげん可能かのうなものではなかったからである。

おおやけ会議かいぎではそう主教しゅきょうせい復活ふっかつ決議けつぎされたほか、女性じょせい輔祭制度せいど復活ふっかつなども真剣しんけん討議とうぎされた[40]。しかしながら革命かくめい内戦ないせんによる社会しゃかいてき混乱こんらんと、その革命かくめい政府せいふによる教会きょうかいたいする弾圧だんあつにより、おおやけ会議かいぎなどによる改革かいかくへのうごきはモスクワそう主教しゅきょう復活ふっかつのぞほとん頓挫とんざした。

2がつ革命かくめい成立せいりつしたロシア臨時りんじ政府せいふは、ひじりつとむかいいん同様どうよう教会きょうかいたいする統制とうせいぐことを企図きとしたが、その短期間たんきかん臨時りんじ政府せいふ崩壊ほうかいし、かみろんかかげるボリシェヴィキ実権じっけんにぎる。これはロシア正教会せいきょうかいたいするだい弾圧だんあつはじまりとなった。教会きょうかい改革かいかくどころではなくなり、なによりもまずのこりを目指めざすことを余儀よぎなくされた。

ソ連それんかみろん政権せいけんによる弾圧だんあつ時代じだい[編集へんしゅう]

ひだり:ペトル・クルティツキイ主教しゅきょう1937ねん銃殺じゅうさつ)、中央ちゅうおうティーホンそう主教しゅきょう1925ねん病没びょうぼつ)、みぎ:フェオドル・ポズデエフスキイだい主教しゅきょう(1937ねん銃殺じゅうさつ)。1924ねん撮影さつえい。3にんともしん致命ちめいしゃとして列聖れっせいされている。

ロマノフあさにより庇護ひご統制とうせい両方りょうほうけつつ存続そんぞくしてきたロシア正教会せいきょうかいは、20世紀せいき初頭しょとうにも文化ぶんかめんでの繁栄はんえいを19世紀せいきつづいて継続けいぞくする一方いっぽう先述せんじゅつとお改革かいかくへの志向しこうつよめて教会きょうかいしょ問題もんだい対処たいしょしようとしていたが、20世紀せいき前半ぜんはんきたロシア革命かくめいによっておおきな打撃だげきこうむり、改革かいかく頓挫とんざすることとなった。ロシア正教会せいきょうかいがわ対応たいおうは、ロシアにのこってしろぐん協力きょうりょくして共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく抵抗ていこうするものや、ロシアにのこって共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく一定いってい程度ていど妥協だきょうするもの亡命ぼうめいするもの地下ちか活動かつどううつものなどにかれたが、やがて共産きょうさん主義しゅぎ抵抗ていこうするものおおくはしろぐんとともに殲滅せんめつされ、殺害さつがいされるか国外こくがい亡命ぼうめいするかカタコンベけいしょ正教会せいきょうかいとして地下ちか活動かつどうするかのいずれかにいたった。

共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんによる弾圧だんあつ概要がいよう[編集へんしゅう]

レーニン統治とうち時代じだい教会きょうかい財産ざいさん接収せっしゅうIvan Vladimirovロシアばんさく
レーニン統治とうち時代じだいの、革命かくめいによる裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくされる聖職せいしょくしゃ地主じぬしIvan Vladimirovロシアばんさく
レーニン統治とうち時代じだい強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじする聖職せいしょくしゃIvan Vladimirovロシアばんさく

1917ねんロシア革命かくめいによってかみろんほうじるソヴィエト政権せいけん成立せいりつすると、多数たすう聖堂せいどう修道院しゅうどういん閉鎖へいさされ、財産ざいさん没収ぼっしゅうされた。のち世界せかい遺産いさんとなるソロヴェツキー諸島しょとう修道院しゅうどういんぐん強制きょうせい収容しゅうようしょ転用てんようされた。

聖職せいしょくしゃ信者しんじゃ外国がいこくスパイなどの嫌疑けんぎ逮捕たいほされ、また多数たすうもの処刑しょけいされ致命ちめいした。日本にっぽん正教会せいきょうかい京都きょうと主教しゅきょうつとめていたことのあるペルミのせいアンドロニクは、めにされたうえ銃殺じゅうさつされるという特異とくい致命ちめいげたことでられている。

レーニン統治とうち時代じだい1921ねんから1923ねんにかけてだけで、主教しゅきょう28にん妻帯さいたい司祭しさい2691にん修道しゅうどう1962にん修道しゅうどうおんな3447にん、その信徒しんと多数たすう処刑しょけいされたが[41]、1918ねんから1930ねんにかけてみれば、およそ4まん2せんにん聖職せいしょくしゃころされ、1930年代ねんだいにも3まんから3まん5せん司祭しさい銃殺じゅうさつもしくは投獄とうごくされた[42]1937ねん1938ねんには52にん主教しゅきょうのうち40にん銃殺じゅうさつされた[43]

当初とうしょかみろん標榜ひょうぼうするボリシェヴィキにたいして強硬きょうこう反発はんぱつしめしていたモスクワそう主教しゅきょうティーホン(チーホン)は、想像そうぞう以上いじょう苛烈かれつ弾圧だんあつ教会きょうかいたいしておこなわれていく情勢じょうせいたいして現実げんじつてき姿勢しせい転換てんかんし、ソヴィエト政権せいけんをロシアの正当せいとう政府せいふみと一定いってい協力きょうりょくおこなったが、教会きょうかい活動かつどうはなおいちじるしく制限せいげんされた。政府せいふ迫害はくがいおそれ、多数たすう亡命ぼうめいしゃた。1927ねんのセルギー主教しゅきょうによるソ連それん政権せいけんへの「忠誠ちゅうせい宣言せんげん」は反発はんぱつまねき、カタコンベけいしょ正教会せいきょうかい形成けいせいされた。かれらは主流しゅりゅう正教会せいきょうかいからは儀式ぎしきおなじく分離ぶんり蔑称べっしょうされた。カタコンベけいしょ正教会せいきょうかいがわはセルギー主教しゅきょうの「忠誠ちゅうせい宣言せんげん」をれる主流しゅりゅうロシア正教会せいきょうかいを「セルギー」と非難ひなんした。この分裂ぶんれつ現在げんざい継続けいぞくしている[44]

教会きょうかい文化ぶんかめんでも多大ただい弾圧だんあつこうむった。当時とうじもっと活躍かつやくしており多作たさく聖歌せいか作曲さっきょく一人ひとりであったパーヴェル・チェスノコフ革命かくめい以降いこう聖歌せいか作曲さっきょくきんじられ、同様どうようすべての音楽家おんがくか聖歌せいかかかわることを禁止きんしもしくは制限せいげんされた。革命かくめいソ連それん時代じだいつうじてペレストロイカよりまえ聖歌せいか録音ろくおんゆるされたのは、セルゲイ・ラフマニノフ作品さくひん徹夜てつやいのり』を世俗せぞく合唱がっしょうだん録音ろくおんしたいちかいのみである。

爆破ばくはされくずれゆく、救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう

1931ねんにはスターリン命令めいれいによって救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどうがダイナマイト爆破ばくはされた。ほかにもクロンシュタットのイオアン奉職ほうしょくしていたせいアンドレイだい聖堂せいどうや、カザン・クレムリン世界せかい遺産いさん)の生神うるかみおんな福音ふくいん聖堂せいどう(ブラゴヴェシェンスキー聖堂せいどう破壊はかいは1930ねん)も破壊はかいされている。

弾圧だんあつ度合どあいの濃淡のうたん[編集へんしゅう]

ソ連それん時代じだいつうじてロシア正教会せいきょうかい過酷かこく弾圧だんあつしたにあったが、その度合どあいは一様いちようではなかった。先述せんじゅつしたように腐敗ふはいしていたロシア正教会せいきょうかいにつき、当初とうしょボリシェヴィキ・ソれん政府せいふ弾圧だんあつくわえればあっさり瓦解がかい消滅しょうめつするとかんがえていたのだが、多数たすう致命ちめいしゃしてもなお正教会せいきょうかい信仰しんこう消滅しょうめつしないことにみられた強固きょうこ信仰しんこう存在そんざいという現実げんじつあたりにして、一定いってい程度ていど宥和ゆうわさくをとる方向ほうこう方針ほうしん転換てんかんする必要ひつようみとめられたからであった。ただし宥和ゆうわさくといってもあくまで相対そうたいてきなものであって、教会きょうかい抑圧よくあつ対象たいしょうであることにはわりなかった。

1943ねんのナチス・ドイツの侵攻しんこうたいしてソ連それん人民じんみん士気しき鼓舞こぶする必要ひつようられたスターリンは、それまでの物理ぶつりてき破壊はかいともなった正教会せいきょうかいへの迫害はくがい方向ほうこう転換てんかんして教会きょうかい活動かつどう一定いってい復興ふっこうみとめ、1925ねんそう主教しゅきょうティーホンが永眠えいみんして以降いこう空位くういとなっていたそう主教しゅきょう選出せんしゅつみとめた。このとき選出せんしゅつされたのがセルギイ・ストラゴロツキーそう主教しゅきょうである[ちゅう 21]。それまで禁止きんしされていた教会きょうかい関連かんれん出版しゅっぱんぶつきわめて限定げんていされたものではあったもののみとめられ、1918ねんから閉鎖へいさされていたモスクワ神学しんがくアカデミーは再開さいかい許可きょかされた。

だがスターリンの死後しごフルシチョフ再度さいど、ロシア正教会せいきょうかいへの統制とうせい強化きょうかゆるやかかつ細々こまごまとした回復かいふく基調きちょうにあったロシア正教会せいきょうかい再度さいど打撃だげきこうむり、教会きょうかいすう半分はんぶん以下いか減少げんしょう以降いこうソ連それん崩壊ほうかいいたるまでロシア正教会せいきょうかいきょうぜい回復かいふくすることはなかった。

このように、ソ連邦それんぽう時代じだいたしかに統制とうせい程度ていど濃淡のうたんはあったものの、そうじてロシア正教会せいきょうかいにとっては受難じゅなん時代じだい以外いがいなにぶつでもなかった。神父しんぷ聖堂せいどうでのたてまつかみあやなかおこなわれるもの以外いがいには説教せっきょうきんじられた。埋葬まいそうしきさいにロシアに伝統でんとうてきであった、聖歌せいかたい司祭しさい信徒しんとたち先導せんどうして聖堂せいどうから墓地ぼちまで聖歌せいかうたいつつ永眠えいみんしゃかんはこんで行進こうしんするという習慣しゅうかんなどは勿論もちろんみとめられず、墓地ぼちにおける埋葬まいそうさいには司祭しさい祭服さいふく着用ちゃくよう聖堂せいどうがいではゆるされておらず、墓地ぼちにおいて最後さいごいのりをささげることもゆるされなかった。出版しゅっぱんぶつには厳重げんじゅう検閲けんえつおこなわれた。すべての宗教しゅうきょう弾圧だんあつするソ連それんにあって、計画けいかく経済けいざいした聖書せいしょ祈祷きとうしょ聖歌せいか印刷いんさつなどにてられる資材しざいはごくわずかであり、聖職せいしょくしゃかみ学生がくせいたちかぎられた印刷物いんさつぶつ使つかいまわしたり先人せんじんからのおがりをもらけたりするなどして物理ぶつりてき不足ふそくをしのいだ。勿論もちろん当局とうきょくたいする批判ひはんゆるされず、スパイも活用かつようした秘密ひみつ警察けいさつによって一般いっぱん社会しゃかい同様どうよう教会きょうかい監視かんしつづけた。

他方たほうで、弾圧だんあつ緩和かんわして信徒しんとまもるため、ソ連それん当局とうきょくたいして一定いってい協力きょうりょくおこなった、あるいは強制きょうせいされた聖職せいしょくしゃたちがいたのは事実じじつである。これには「やむをえない」めんもありそのためにロシア正教会せいきょうかい存続そんぞくすることができたのはたしかだが、同時どうじに「当局とうきょくとの癒着ゆちゃく」の疑義ぎぎまれてしまうこととなった(事実じじつ癒着ゆちゃくしていた聖職せいしょくしゃもいた)。この疑義ぎぎ現在げんざいいたるまでロシア正教会せいきょうかいへの不信ふしんかんみなもととなっており、ロシア正教会せいきょうかい自身じしんにとっても解決かいけつ容易よういでない頭痛ずつうたねとなっている。

ただし、このような弾圧だんあつ時代じだいにおいても一般いっぱんせい教徒きょうとから抵抗ていこうまったかったわけではなく、ピアニストであるマリヤ・ユーディナのように、なか公然こうぜん体制たいせいたいしてせい教徒きょうととしてのアイデンティティを表明ひょうめい抵抗ていこうしたものもいた。

弾圧だんあつ抑圧よくあつは、ペレストロイカ時代じだいいたってようやく緩和かんわされた。ミハイル・ゴルバチョフ書記しょきちょう信仰しんこう自由じゆうみとめる姿勢しせいし、1988ねん4がつ29にちにロシア正教会せいきょうかいのピメンそう司教しきょうら6にん指導しどうしゃ会談かいだんした[46]ソ連それん政府せいふ最高さいこう指導しどうしゃ教会きょうかい指導しどうしゃ会談かいだんしたのは1943ねん以来いらいのことで、ゴルバチョフは会談かいだんで、ソ連それん過去かこ教会きょうかい信者しんじゃあやまちをおかしたことをみとめた[46]

亡命ぼうめいしゃたち動向どうこう[編集へんしゅう]

ヨーロッパきたアメリカ亡命ぼうめいした信徒しんと聖職せいしょくしゃは、すでに移民いみんしていたロシア移民いみんてた各地かくちのロシアけい正教会せいきょうかいり、信仰しんこうまもった。それによりパリニューヨークでロシア正教会せいきょうかい神学校しんがっこうち、20世紀せいきにおける神学しんがく研究けんきゅうの1つの中心ちゅうしんとなった。亡命ぼうめいだい世界せかい大戦たいせんにユダヤじん救済きゅうさいしていたことでゲシュタポ連行れんこうされラーフェンスブリュック強制きょうせい収容しゅうようしょ致命ちめいしたははマリヤらしていたパリのいえが、亡命ぼうめいしたせい教徒きょうといたる知的ちてき神学しんがくてき議論ぎろん中心ちゅうしんてき存在そんざいひとつともなっていたことも、フランスひとし亡命ぼうめいした人々ひとびとにより信仰しんこう生活せいかつ知的ちてき活動かつどうまもられていたことのいちれいである。

亡命ぼうめいした著名ちょめいなロシアじん神学しんがくしゃ哲学てつがくしゃなかには、ははマリヤのやめ担当たんとう神父しんぷでもあったセルゲイ・ブルガーコフニコライ・ベルジャーエフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフらがいる。

現地げんちにあった既存きそん正教会せいきょうかい教区きょうく亡命ぼうめいしゃがいた一方いっぽうで、あらたな教会きょうかい組織そしき設立せつりつ存続そんぞくさせていくグループも存在そんざいした。これを在外ざいがいロシア正教会せいきょうかい(ROCOR、Russian Orthodox Church Outside Russia)とび、1922ねんセルビアスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) にたかった亡命ぼうめいロシアじん主教しゅきょうたちによって設立せつりつされた。在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいは1927ねんにソヴィエト政府せいふたいする忠誠ちゅうせい誓約せいやく要求ようきゅうしたそう主教しゅきょう代理だいり代行だいこうセルギイ(・ストラゴロツキー)のそう主教しゅきょう継承けいしょうみとめず、セルギイの後継こうけいしゃたちたいしてもながくその正統せいとうせいみとめなかった。他方たほう、さまざまな事情じじょうから亡命ぼうめいさき各地かくち正教会せいきょうかいとも若干じゃっかん摩擦まさつこり、その教会きょうかいほうじょう立場たちば不安定ふあんていせいから、ながほか正教会せいきょうかいとのあいだ正常せいじょう関係かんけい構築こうちくされないままとなった。

現況げんきょう - ソ連それん崩壊ほうかいから現在げんざい[編集へんしゅう]

復興ふっこう課題かだい国家こっかとの関係かんけい[編集へんしゅう]

再建さいけんされた救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう

正教会せいきょうかいをはじめとして宗教しゅうきょうだい弾圧だんあつくわえたソヴィエト政権せいけん崩壊ほうかいしたのち、ロシア正教会せいきょうかいはロシアじん精神せいしんてきなよりどころとしてきょうぜいふたたばしている。破壊はかいされたカザン生神うるかみおんな福音ふくいん聖堂せいどうモスクワ救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう復興ふっこうをはじめとして、各地かくちソ連それん時代じだい破壊はかいされた聖堂せいどう復興ふっこう教会きょうかい組織そしき再建さいけん、および修道院しゅうどういん復興ふっこう新設しんせつすすんでいる。ソ連それん時代じだいきんじられていた放送ほうそう出版しゅっぱん活発かっぱつおこなわれるようになった。

ソ連それん崩壊ほうかいしたが、ソ連それん時代じだい当局とうきょく協力きょうりょくしていた聖職せいしょくしゃがいたこと(むを信徒しんとまもるために協力きょうりょくしたものがほとんどであったとされるが、すすんで協力きょうりょくしていたものもいたとされる)による信徒しんと国民こくみんからの教会きょうかいたいする不信ふしんいており、ロシア正教会せいきょうかいにとって解決かいけつ容易よういでない問題もんだいとなっている[47]

ロシア国内こくない宗教しゅうきょう指導しどうしゃたちプーチンひだりから仏教ぶっきょうチベット仏教ぶっきょう)、イスラーム正教せいきょうアレクシイ2せい)の指導しどうしゃたち。(2001ねん2がつ

ロシア連邦れんぽうにおいて、いち宗教しゅうきょう団体だんたいとしては別格べっかくあつかいを政府せいふからけているロシア正教会せいきょうかいではあるが、国教こっきょうとは位置いちづけられていない(世界せかい現在げんざい国教こっきょうとしてのあつかいをける正教会せいきょうかい組織そしきギリシャ正教会せいきょうかいフィンランド正教会せいきょうかいのみである)。ロシア連邦れんぽう民族みんぞく国家こっかでありムスリム仏教ぶっきょう多数たすう存在そんざいしており、政府せいふ正教せいきょう以外いがい宗教しゅうきょうたいする一定いってい配慮はいりょしめしている。

ロシア正教会せいきょうかいかぎらず、正教会せいきょうかい現在げんざい、「正教せいきょう離散りさん」とばれる問題もんだいかかえている。これは、正教せいきょう現代げんだいはいって土地とちではなくかく民族みんぞく教会きょうかいごとに管轄かんかつ保持ほじする傾向けいこうつよまり、教区きょうくめぐあらそいが複数ふくすう発生はっせいしている問題もんだいす。ロシア正教会せいきょうかい同様どうよう問題もんだい各地かくち存在そんざいするロシアじんコミュニティをめぐってかかえており、おおくは決着けっちゃくをみていない[48]

在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいのラウルス主教しゅきょうむかってひだり)と、ロシア正教会せいきょうかいアレクシイ2せいそう主教しゅきょうむかってみぎ)。2008ねん2がつ28にち撮影さつえい

ただし懸案けんあんのひとつであった在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいとの関係かんけいについては、ロシア正教会せいきょうかい首座しゅざ主教しゅきょうであるアレクシイ2せいそう主教しゅきょう指導しどうのモスクワそう主教しゅきょう在外ざいがいロシア正教会せいきょうかい和解わかい交渉こうしょうすすめられ、2007ねん5がつ17にちモスクワで最終さいしゅう合意ごうい文書ぶんしょ締結ていけついたった[49]在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいじゅん自治じち正教会せいきょうかいとしてのかくゆうすることとなった。

ロシア正教会せいきょうかい西方せいほう教会きょうかい関係かんけい[編集へんしゅう]

合法ごうほうされた東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいや、おもアメリカからはいってくる福音ふくいんなどプロテスタント伝道でんどうとの競争きょうそうさらされ、これらとの緊張きんちょう関係かんけいにおかれてもいる。とく東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかい福音ふくいん資金しきん潤沢じゅんたくであり、ロシア正教会せいきょうかいはこれらの伝道でんどう神経しんけいとがらせている[50]

長年ながねんローマ教皇きょうこうちょうとは比較的ひかくてき緊張きんちょう関係かんけいにあり[ちゅう 22]、モスクワそう主教しゅきょうローマ教皇きょうこう対話たいわもあまり進展しんてんしていない。ローマカトリックとの対立たいりつについては、とくウクライナ東方とうほうカトリック教会きょうかい問題もんだいかかえるウクライナにおける対立たいりつ顕著けんちょであり、かつての西方せいほうからの正教会せいきょうかいたいする十字軍じゅうじぐん歴史れきしてき記憶きおく相俟あいまって、東西とうざいりょう教会きょうかい和解わかい喧伝けんでんしつつ布教ふきょう活動かつどう拡大かくだいしていくローマカトリック教かとりっくきょうかいたいする正教せいきょう信徒しんとからの不信ふしんかんまね根源こんげんてき理由りゆうのひとつとなっている[51]

このように、深刻しんこく緊張きんちょう関係かんけいりょう教会きょうかいあいだには存在そんざいし、相互そうごりょうきよし地域ちいき正教会せいきょうかい同様どうようまったおこなわれてはおらず、モスクワそう主教しゅきょうローマ教皇きょうこう直接ちょくせつのトップ会談かいだんいま実現じつげんしてはいないものの、主教しゅきょう枢機卿すうききょうクラスでの交流こうりゅうおこなわれ、一定いってい交流こうりゅう継続けいぞくされている。ぜん教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい永眠えいみんさいには、ロシア正教会せいきょうかい渉外しょうがい局長きょくちょうでありロシア正教会せいきょうかいのナンバー2とされるキリル主教しゅきょう肩書かたがき当時とうじ)が弔問ちょうもんおとずれてもいる。

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

日本にっぽん正教せいきょう浸透しんとうさせたのはロシア修道しゅうどう司祭しさい(のちだい主教しゅきょうニコライである。1970ねん以来いらい日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいとなっており、そのちょうたる全日本ぜんにほん主教しゅきょう認可にんかはモスクワおよびぜんロシアのそう主教しゅきょうによっておこなわれる一方いっぽう財政ざいせい信仰しんこう生活せいかつ完全かんぜんにロシア正教会せいきょうかいから独立どくりつしていることなどにみられるように、教会きょうかい運営うんえいにおいてほぼ完全かんぜん自治じちおこなっている。

ロシアと直接的ちょくせつてき関係かんけい日本にっぽん教会きょうかいとして、ロシア正教会せいきょうかい駐日ちゅうにちポドヴォリエがある。

コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうとの関係かんけい[編集へんしゅう]

1991ねんウクライナソビエト連邦れんぽうから独立どくりつして以降いこうウクライナ独立どくりつ正教会せいきょうかいおよびウクライナ正教会せいきょうかい・キエフそう主教しゅきょうちょう承認しょうにんめぐって、モスクワそう主教しゅきょうちょうとコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう対立たいりつつづいていた。また、1996ねんにはエストニアにおける正教会せいきょうかい管轄かんかつけんめぐって、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうとロシア正教会せいきょうかい短期間たんきかんながら断交だんこうした。

2018ねん10月11にちコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう上記じょうきウクライナ2教会きょうかい独立どくりつ承認しょうにん発表はっぴょう[52]12月15にちにはりょう教会きょうかい合同ごうどうして新生しんせいウクライナ正教会せいきょうかい結成けっせいされた[53]。これに反発はんぱつしたロシア正教会せいきょうかいせいシノド宗務しゅうむいん)の決定けっていしたがい、同年どうねん10月15にちを以って、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうとのフル・コミュニオン相互そうごりょうきよし関係かんけい断絶だんぜつした[54]

それにともない、モスクワそう主教しゅきょう所属しょぞくする自治じち正教会せいきょうかいである日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいも、同年どうねん10月18にちを以って、ロシア正教会せいきょうかい決定けっていしたがいコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう断交だんこうした[55][56]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ この時期じき(10世紀せいき)は、東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつ象徴しょうちょうてき年代ねんだいとされる1054ねんより以前いぜんのことであり、オリガは「正教会せいきょうかいから洗礼せんれいけた」というよりは「キリストきょう洗礼せんれいけた」というべきだとする見解けんかい有力ゆうりょくである。しかしながら東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつはじまりを800ねんカール大帝たいてい戴冠たいかんもとめる見解けんかいもあるのであり、そもそも東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつは、年代ねんだい確定かくていできるような事象じしょうではなく、りょう教会きょうかい徐々じょじょ分離ぶんりしたものである(詳細しょうさい記事きじ東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつ参照さんしょう参考さんこうとなる文献ぶんけん久松ひさまつ英二えいじ『ギリシア正教せいきょう 東方とうほうさとしだいしょう教会きょうかい分裂ぶんれつはじまり」 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255)。この時代じだい、すでにコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)の教会きょうかいローマ教会きょうかいみぞふかまっており、オリガがコンスタンティノープル教会きょうかいから洗礼せんれいけたことが、のちのルーシが正教会せいきょうかい導入どうにゅうするはじまりとなったことは間違まちがいない。したがってほんこうでは折衷せっちゅうてき記述きじゅつとして、オリガがけた洗礼せんれいを「キリスト教きりすときょう正教会せいきょうかい)」からのものと表現ひょうげんする。
  2. ^ 1988ねん挙行きょこうされた「ロシア正教せいきょうせんねんさい」は、988ねんをロシア正教会せいきょうかい出発しゅっぱつてんとするかんがえにもとづいている。
  3. ^ 「ルーシ」の語義ごぎめぐっては、「キエフ(ウクライナみでは「キイウ」)・ペレヤスラヴリなどが存在そんざいするドニエプル川中かわなか流域りゅういき」という狭義きょうぎ語義ごぎのみが主張しゅちょうされる場合ばあいがあるが、本稿ほんこうでは参考さんこう文献ぶんけん三浦みうら清美きよみ『ロシアの源流げんりゅう』p19 - p20, 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2003ねん ISBN 978-4-06-258274-2)にしたがい、「ルーシ」の語義ごぎ広義こうぎのものとしてあつかい、「ひがしスラブじんキリスト教きりすときょう正教せいきょうてき政治せいじ共同きょうどうたいとその影響えいきょう領域りょういき全体ぜんたい」とする。
  4. ^ ルーシにおける正教せいきょう初期しょき歴史れきしはこのように現在げんざいのウクライナに該当がいとうする地域ちいき展開てんかいしていたために、「ロシア正教会せいきょうかい」の歴史れきしではなく「ウクライナ正教会せいきょうかい歴史れきし」としてとらえるべきであってロシア正教会せいきょうかいのそれと混同こんどうしてはならないという議論ぎろん存在そんざいするが、本稿ほんこうではルーシからロシアへの連関れんかんせい一定いってい程度ていどみとめたうえ記述きじゅつする。
  5. ^ 命令めいれいする。首長しゅちょう、すなわち、ローマ教会きょうかいから分離ぶんりし、ギリシアの典礼てんれいにしたがってきたまさにそのにおいて、ルーシのみんがラテンの典礼てんれい遵守じゅんしゅするよう強制きょうせいされるべきである、と」:ローマ教皇きょうこうホノリウス3せい(1216-1227)による1222ねん宣言せんげん山内やまうちすすむきた十字軍じゅうじぐん講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ・1997ねん・178ぺーじによる)。教皇きょうこうホノリウス3せい正教せいきょうへの信仰しんこうを「傲慢ごうまん」と「分派ぶんぱ行為こうい」であるともけた。なお「北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん」はルーシにとどまるものではない。
  6. ^ 遷座せんざ(せんざ)…正教会せいきょうかいにおける、主教しゅきょう移動いどうのことをいう。
  7. ^ 『ニーコン年代ねんだい』は、イヴァン・カリターウズベク・ハンから勅許ちょっきょじょうてウラジーミルだい公国こうこく帰還きかんした1328ねんから「おおいなる平和へいわ静寂しじま)」(ロシア: Великая Тишина)が40年間ねんかんあったとつたえている。"Тишина"(ティシナー)は、「静寂しじま」「平穏へいおん」「平静へいせい」を含意がんいする。
  8. ^ ヘシュカスム:静寂しじま主義しゅぎについてはグレゴリオス・パラマスこう参照さんしょう
  9. ^ 14世紀せいき後半こうはんまでリトアニア大公たいこうこくはカトリック国家こっかとなっておらず、正教せいきょうとカトリックのあいだみずからの態度たいど留保りゅうほすることによって外交がいこう優位ゆういすすめることを目指めざし、一定いってい成果せいかげていた。しかしながらのちにポーランドと合同ごうどう正式せいしきにカトリックこくとなることで、それまで態度たいど保留ほりゅうしていたことによってまれていた多数たすうせい教徒きょうと住民じゅうみん大公たいこうこく軋轢あつれきし、これはリトアニア衰退すいたい原因げんいんのひとつとなった。
  10. ^ イヴァン4せい非常ひじょう複雑ふくざつ性格せいかくぬしであってその実像じつぞういまなおなぞつつまれている。詳細しょうさいイヴァン4せいこう参照さんしょう
  11. ^ やめ悔」(つうかい)。正教会せいきょうかい訳語やくご。カトリック教会きょうかいの「告解こっかい」に相当そうとうするが、正教会せいきょうかいにあっての「やめ悔」は「告白こくはく」を重視じゅうしするものではなく、行動こうどうあらためていくことを重視じゅうしする傾向けいこうつよい。したがってこの場合ばあい主教しゅきょうフィリップが「やめ悔をするようせまった」というのは、たんに「つみ告白こくはくせよ」とったにまらない意味いみつ。フィリップは皇帝こうてい文字通もじどおり、軌道きどう修正しゅうせいをするよう説得せっとくしたのである。
  12. ^ そう主教しゅきょうイェレミアス2せいは、ルターからの接触せっしょく最初さいしょったコンスタンティノープルそう主教しゅきょうとして有名ゆうめいである。ルター聖職せいしょくしゃたちアウクスブルク信仰しんこう告白こくはくをコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう送付そうふし、以降いこう1576ねんから1581ねんにかけて両者りょうしゃあいだ書簡しょかん往復おうふくした。この書簡しょかんちゅうでイェレミアス2せい正教会せいきょうかいにおける「宗教しゅうきょう改革かいかく」の必要ひつようせい明確めいかく否定ひていした。
  13. ^ 17世紀せいきから19世紀せいきまでの正教会せいきょうかい西欧せいおうを、ロシア・ウクライナとうひがしスラヴ地域ちいきのみに限定げんていするかのような認識にんしきあやまりである。ひがし地中海ちちゅうかいにおいても正教会せいきょうかい欧化おうかなみにさらされていた。本文ほんぶん後述こうじゅつとおり、ひがし地中海ちちゅうかい地域ちいき聖職せいしょくしゃたちはオスマン帝国ていこくした伝統でんとうてき神学しんがく教育きょういくけることがゆるされず、西欧せいおうのローマカトリックけい大学だいがくおもむいてラテン語らてんご教育きょういくけるほか高度こうど神学しんがく知識ちしき獲得かくとくする方法ほうほうがなかったからである。
  14. ^ 正教会せいきょうかいでは夫婦ふうふ同時どうじ別々べつべつ修道院しゅうどういんはいることができるが、この例外れいがいてき規定きてい利用りようし、強力きょうりょくなライヴァルであったロマノフ当主とうしゅであるフョードルにたいし、夫婦ふうふそれぞれ修道しゅうどうになることを強要きょうようしたのがボリス・ゴドゥノフであった。このとき、フョードル・ロマノフは修道しゅうどうとなり、修道しゅうどうめい「フィラレート」をあたえられた。フョードル夫妻ふさいにはすでにがおり、これがミハイルである。このミハイルがツァーリになったことから、そう主教しゅきょうとツァーリが親子おやこであるという歴史れきしじょう非常ひじょうめずらしい事態じたいしょうじた。
  15. ^ 宗教しゅうきょう改革かいかく参照さんしょうほん記事きじ作成さくせいについて使つかっている主要しゅよう参考さんこう文献ぶんけんをはじめ正教会せいきょうかい関係かんけいしゃおよび正教会せいきょうかい・ロシア専門せんもんてき研究けんきゅうしゃあいだでは、ニーコン改革かいかくを「宗教しゅうきょう改革かいかく」とんでいるケースは皆無かいむである。後述こうじゅつとおり、西欧せいおうにおける宗教しゅうきょう改革かいかくとニーコン改革かいかくとでは、あまりにも内実ないじつことなるからであり、そもそもおな使つかうという発想はっそう絶無ぜつむである。
  16. ^ キリロス・ルカリスはわかくしてウクライナにおいてあたりにしたカトリック教会きょうかいのやりかたたいぬまで反感はんかんいだき、正教会せいきょうかい立場たちば確立かくりつしようと努力どりょくした。のち30さいにしてアレクサンドリアそう主教しゅきょう、さらには48さいときにコンスタンティノープルそう主教しゅきょうとなる。かれのこうした思想しそうせい熱血漢ねっけつかんとしての性質せいしつはオスマン帝国ていこくからも危険きけんされ、最後さいごには刺客しかくによって絞殺こうさつされボスフォラス海峡かいきょうれられた。
  17. ^ 当時とうじ流布るふしていた形式けいしき尊重そんちょうは、表面ひょうめんてき誤魔化ごまかしのレベルにとどまるものではなかった。夫婦ふうふ自室じしつおこな毎日まいにち就寝しゅうしんまえいのりにおいても、イスス・ハリストス(イエス・キリスト)に600かいいのり、生神うるかみおんなマリヤに100かいいのり、さらに300かい伏拝ふしおがみ起立きりつ姿勢しせいからいわゆる土下座どげざをし、また起立きりつする方式ほうしき)を、リーダーであるちょう司祭しさいアヴァクームとそのつまおこなっていたこと、そしてそれはけっしてめずらしいものではなかったことにもみられるとおり、その形式けいしき主義しゅぎまさ筋金入すじがねいりのものである。それだけにそうした伝統でんとう大事だいじにするものたち翻意ほんいさせるのは容易よういではなかった。
  18. ^ F.プロコポーヴィチ…ポーランドのクラクフ、ローマ、フィレンツェにまなび、カトリックに改宗かいしゅうしたものの帰国きこくまた正教会せいきょうかいもどった。1716ねんにピョートルから宗務しゅうむ規定きてい作成さくせいのために首都しゅと招聘しょうへいされた。
  19. ^ 正教会せいきょうかいからのピョートル1せいたいする評価ひょうかは、【高橋たかはし保行やすゆき『ギリシャ正教せいきょう講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ】、【オリヴィエ・クレマンわけひや牟田むた修二しゅうじ)『東方とうほう正教会せいきょうかい白水しろみずしゃ 文庫ぶんこクセジュ】によくしめされている。というよりも、ピョートル1せい好意こういてき正教会せいきょうかい関係かんけい文献ぶんけん皆無かいむである。
  20. ^ 精確せいかくえば、ベーリュスチンは著書ちょしょ発行はっこうするつもりはなかったのだが、本書ほんしょった人物じんぶつ勝手かってライプツィヒパリ出版しゅっぱんし、それが検閲けんえつきびしいロシアにぎゃく輸入ゆにゅうされて地下ちか流通りゅうつうしていったものである。
  21. ^ セルギイ・ストラゴロツキーには日本にっぽん正教会せいきょうかいまきかいした経験けいけんがある。北海道ほっかいどう巡回じゅんかいしたさい著作ちょさくには邦訳ほうやくもある[45]。なお日本にっぽん正教会せいきょうかい伝道でんどうしたニコライだい主教しゅきょう後継こうけいしゃであるセルギイ・チホミーロフ主教しゅきょうとは別人べつじん
  22. ^ ちなみにコンスタンティノープルそう主教しゅきょうはローマ教皇きょうこう訪問ほうもんれるなど、比較的ひかくてきカトリックにたいして融和ゆうわてきである。ただし、管轄かんかつにあるアトスさん修道院しゅうどういんなかには、こうしたコンスタンティノープルそう主教しゅきょうの「西側にしがわ」への融和ゆうわてき姿勢しせいはげしく反発はんぱつしているものもあり、コンスタンティノープルそう主教しゅきょう管轄かんかつすべての教会きょうかい修道院しゅうどういんが「おや西方せいほう教会きょうかい」で一枚岩いちまいいわであるわけではない。西方せいほう教会きょうかい比較的ひかくてき融和ゆうわてきなルーマニア正教会せいきょうかいのダニエルそう主教しゅきょうと、ルーマニア正教会せいきょうかいについても、おなじことがえる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ このこう主要しゅよう参考さんこう箇所かしょ黒川くろかわともぶん『ロシア・キリスト教きりすときょう』42ぺーじきょうぶんかん、1999ねん初版しょはん
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  3. ^ しょせい略伝りゃくでん じゅうがつ』71ぺーじ日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい主教しゅきょうちょう (2004ねん1がつ発行はっこう)
  4. ^ The PriestMartyr Clement, Pope of Rome
  5. ^ The Monk John, Bishop of the Goths
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  8. ^ 高橋たかはし保行やすゆき (1980, p. 126)
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  11. ^ Kyiv-Pechersk Lavra
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  20. ^ 三浦みうら清美きよみ (2003, pp. 32–33)
  21. ^ N. ゼルノーフ、宮本みやもと (1991, p. 31)
  22. ^ 三浦みうら清美きよみ (2003, p. 110)
  23. ^ ТВЕРСКАЯ ЛЕТОПИСЬ→ЧАСТЬ 1 (ЛЕТОПИСНЫЙ СБОРНИК, ИМЕНУЕМЫЙ ТВЕРСКОЮ ЛЕТОПИСЬЮ)
  24. ^ Глава III - Житие и подвиги преподобного и богоносного отца нашего Сергия
  25. ^ a b 三浦みうら清美きよみ (2003, p. 145)
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]