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ヴァシーリー2せい

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ヴァシーリー2せい
Василий II
モスクワ大公たいこう
在位ざいい 1425ねん - 1434ねん1434ねん - 1462ねん

出生しゅっしょう (1415-03-10) 1415ねん3がつ10日とおか
死去しきょ (1462-03-27) 1462ねん3月27にち(47さいぼつ
配偶はいぐうしゃ マリヤ・ヤロスラヴナ
子女しじょ イヴァン3せい
ユーリー
アンドレイ
ボリス
アンドレイ
アンナ
家名かめい リューリク
王朝おうちょう リューリクあさ
父親ちちおや ヴァシーリー1せい
母親ははおや ソフィヤ
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ヴァシーリー2せいВасилий II, Vasilii II1415ねん3がつ10日とおか - 1462ねん3月27にち[1])は、モスクワ大公たいこう在位ざいい1425ねん - 1434ねん1434ねん - 1462ねん)。

ヴァシーリー1せい次男じなん母親ははおやリトアニア大公たいこうヴィータウタスむすめソフィヤリトアニアばんボロフスクおおやけヤロスラフ・ウラジミロヴィチロシアばんむすめマリヤ、息子むすこにはイヴァン3せい、ユーリー、アンドレイ、ボリス、アンドレイがいる。1420年代ねんだいから1450年代ねんだいまでの内戦ないせんたたかき、モスクワ大公たいこうこくおおくのぶんりょう廃止はいしして、統一とういつ国家こっか土壌どじょうととのえた。内戦ないせん盲目もうもくにされたため、ヴァシーリー盲目もうもくこうともばれる。

生涯しょうがい

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1434ねん大公たいこううばわれるまで

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内戦ないせん発端ほったんは、祖父そふドミトリイ・ドンスコイ遺言ゆいごんじょうにあった。そのなかでいまがなかったヴァシーリー1せい死去しきょした場合ばあいそなえ、そのおとうとであるユーリー・ドミトリエヴィチあに死後しご相続そうぞくじんとしてげられていた。そのために、ヴァシーリー1せい息子むすこヴァシーリー2せい後継こうけいしゃ指名しめいしたさい、これにユーリーが不満ふまんおぼえ、その息子むすこヴァシーリー・コソイドミトリー・シェミャーカ、ドミトリー・クラスヌィーとともにヴァシーリー2せい対抗たいこうしたのである。ユーリーは、ルーシに伝統でんとうてきであった年長ねんちょうせい相続そうぞくによっても自己じこ大公たいこう相続そうぞく正当せいとうした。ただし、ヴァシーリー2せい母親ははおやがリトアニア大公たいこうヴィタウタスのむすめであったこと、またモスクワ主教しゅきょうフォティイロシアばん英語えいごばんがあからさまにヴァシーリー2せい支持しじしたため、この両者りょうしゃくなる1430年代ねんだい初頭しょとうまでは、ユーリーがわとヴァシーリー2せいとのあいだで戦端せんたんひらかれなかった。

しかし、ヴァシーリー2せい結婚式けっこんしきにおいて、その母親ははおやソフィヤがヴァシーリー・コソイの黄金おうごんのベルトをうばうという侮辱ぶじょく行為こういをしたことが原因げんいんで、りょう陣営じんえい軍事ぐんじ衝突しょうとつにいたる。そうしたなかで、ヴァシーリー2せいやぶつづけ、ユーリーおおやけ最終さいしゅうてきに1434ねんにモスクワにはい大公たいこうになったが、ユーリーの家臣かしん地位ちいうばわれることをおそれたモスクワ士族しぞくたちがヴァシーリー2せい支持しじしたためユーリーの支配しはい長続ながつづきしなかった。

ユーリーおおやけ死後しご:ヴァシーリー・コソイとの大公たいこうをめぐるたたか

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1434ねんにユーリーおおやけんだのちイヴァン1せい一門いちもんのなかで年長ねんちょうになったのはヴァシーリー2せいだったが、ヴァシーリー・コソイはここで長子ちょうし相続そうぞく主張しゅちょうはじめる。かれ2人ふたりおとうとはこれをに、ヴァシーリー2せい支持しじまわることになる。

ドミトリー・シェミャーカとのたたか

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ヴァシーリー2せいはコソイを追放ついほうした。これにコソイのおとうとドミトリー・シェミャーカ抗争こうそうした。だが1445ねんノヴゴロド占領せんりょうしていたカザン・ハンこくウルグ・ムハンマドだいムハンマド)によってヴァシーリー2せいらえられた(スーズダリのたたか)。釈放しゃくほう条件じょうけんとして莫大ばくだい身代金みのしろきん(20まんぎんルーブリ)を要求ようきゅうされ、要求ようきゅうどおり支払しはらう。そのため釈放しゃくほうされたうえにムハンマドから援軍えんぐんあたえられ、シェミャーカとのこうそうにひとまず勝利しょうりした。

ところがタタール援助えんじょたことと過酷かこく身代金みのしろきん要求ようきゅうボヤールだい貴族きぞく)らよりおおくの不満ふまんまねき、ヴァシーリー2せい孤立こりつする。シェミャーカはこれにじょうじて勢力せいりょく回復かいふくしてモスクワうばってヴァシーリー2せいらえてつぶし、ウグリチ幽閉ゆうへいした。

だが貴族きぞくらはシェミャーカの政策せいさく反発はんぱつし、幽閉ゆうへいされていたヴァシーリー2せいたすした。ヴァシーリー2せいトヴェリのがれて再起さいきたし、モスクワを奪還だっかんした。1450ねんにはシェミャーカの本拠ほんきょであったガーリチ陥落かんらくさせ、1453ねんにはシェミャーカを毒殺どくさつしてこうそう勝利しょうりした。

最期さいご

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その国内こくない政策せいさく尽力じんりょくすると同時どうじに、シェミャーカに加担かたんして敵対てきたいしていたノヴゴロドを攻撃こうげきし、1456ねんヤジェルビーツィ条約じょうやくむすんで、ノヴゴロドの独立どくりつせいぐことに成功せいこうした。

1462ねん3がつ衰弱すいじゃくせいやまいおかされたヴァシーリー2せいは、治療ちりょうのためにをつけた木片もくへんはだにあてたが、これにより身体しんたいおおくに火傷かしょうい、その傷口きずぐち化膿かのうして死去しきょした。48さいぼつあとのイヴァン3せいいだ。

脚注きゃくちゅう

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先代せんだい
ヴァシーリー1せい
モスクワ大公たいこう
1425ねん - 1434ねん
次代じだい
ユーリー
先代せんだい
ユーリー
モスクワ大公たいこう
1434ねん - 1462ねん
次代じだい
イヴァン3せい