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アンナ (ロシア皇帝こうてい)

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アンナ
Анна Иоанновна
ロシア皇帝こうてい
ルイ・カラヴァクによる肖像しょうぞう
在位ざいい 1730ねん2がつ26にち / (ユリウスれき)2がつ15にち - 1740ねん10月28にち/ (ユリウスれき)10月17にち

ぜん アンナ・イヴァノヴナ・ロマノヴァ
出生しゅっしょう 1693ねん2がつ7にち[ユリウスれき1がつ28にち
ロシア・ツァーリこくモスクワ
死去しきょ (1740-10-28) 1740ねん10月28にち(47さいぼつ
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこくサンクトペテルブルク
配偶はいぐうしゃ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー
王朝おうちょう ロマノフあさ
父親ちちおや イヴァン5せい
母親ははおや プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァ
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アンナ・イヴァノヴナもしくはアンナ・ヨアノヴナАнна Иоанновна, (1693ねん2がつ7にちユリウスれき1がつ28にち]) - 1740ねん10月28にち[ユリウスれき10月17にち])は、ロマノフあさだい4だいロシア皇帝こうてい在位ざいい1730ねん - 1740ねん)。ピョートル1せいあに共同きょうどう統治とうちしゃであったイヴァン5せいとそのプラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァよんじょ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

1710ねん11月、アンナはクールラントこうフリードリヒ・ヴィルヘルム結婚けっこんしたが、1711ねん1がつおっと急死きゅうし未亡人みぼうじんとなった。しかしそのままクールラント公国こうこく主権しゅけんしゃとなり、公国こうこく首都しゅとミタウ(現在げんざいイェルガヴァ)でらした。

1730ねんピョートル2せい崩御ほうぎょすると、実権じっけんにぎ最高さいこう枢密院すうみついん保守ほしゅだい貴族きぞくピョートル1せい直系ちょっけい忌避きひした結果けっか、ピョートル1せいめいにあたる彼女かのじょ後継こうけいしゃ選定せんていされた。ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ公爵こうしゃくはじめとする枢密院すうみついんのメンバーは、彼女かのじょ傀儡かいらいとすべく、即位そくいさいして君主くんしゅけん大幅おおはば制約せいやくする「条件じょうけん」をのませようとした。しかしアンナはモスクワ到着とうちゃくすると、一般いっぱん貴族きぞく支持しじけて「条件じょうけん」に同意どういするための誓約せいやくしょ破棄はきし、最高さいこう枢密院すうみついん即座そくざ廃止はいしんで、皇帝こうていによる専制せんせい政治せいじを5ねんぶりに復活ふっかつさせた。政体せいたいイギリスてき立憲りっけん君主くんしゅせい貴族きぞく寡頭せい移行いこうさせようというこころみは、これによりった。

当時とうじのロシア貴族きぞく女性じょせいおおくがそうだったように、アンナは教育きょういくけていなかった。そのためか国政こくせい関心かんしんしめさず、エルンスト・ビロンアンドレイ・オステルマンミュンニヒ元帥げんすい政治せいじまかせた。かれらはいずれもドイツけん出身しゅっしんであるため、アンナの政府せいふはドイツじん牛耳ぎゅうじるものとして反感はんかんをもたれた。しかしクールラント時代じだいからの寵臣ちょうしんビロンをのぞけば、両者りょうしゃともピョートル1せい招聘しょうへいされた「やと外国がいこくじん」から出世しゅっせした人物じんぶつである。3にんはドイツじんによる寡頭支配しはい目論もくろんだわけではないし、たがいに対立たいりつしていた。このためドイツじんによる支配しはいという評価ひょうか実際じっさいにはたらないようである。

外交がいこうではピョートル大帝たいてい以来いらいおやオーストリアはんスウェーデン政策せいさく継承けいしょうし、1733ねんから1735ねんポーランド継承けいしょう戦争せんそうでもオーストリアがアウグスト3せい支援しえんした。また1732ねんペルシア実力じつりょくしゃナーディル・シャーラシュト条約じょうやくむすカスピ海かすぴかい周辺しゅうへん領地りょうち返還へんかん、1735ねんギャンジャ条約じょうやくたいオスマン帝国ていこく同盟どうめい締結ていけつ同年どうねんからオスマン帝国ていこく攻撃こうげきするが(戦争せんそう)、神聖しんせいローマ皇帝こうていカール6せい干渉かんしょうけて、アゾフのぞ占領せんりょう地帯ちたいから撤退てったい。しかしこれはロシアが中央ちゅうおうアジア進出しんしゅつする第一歩だいいっぽとなり、1740ねんにはカザフぞく宗主そうしゅけんみとめさせた。

内政ないせいでは、1732ねんサンクトペテルブルクさい遷都せんとし、首都しゅとモスクワ中心ちゅうしんとして消防しょうぼうたい郵便ゆうびんもう設置せっち開始かいしされた。また貴族きぞくについても、国家こっかへのきびしい義務ぎむ規定きていゆるめたり、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう創設そうせつして貴族きぞく子弟してい教育きょういくける機会きかいあたえたりした。しかし治世ちせいちゅう凶作きょうさく疫病えきびょう相次あいつぎ、税収ぜいしゅう確保かくほのためきびしいてが各地かくちおこなわれた。このため19世紀せいき歴史れきしカラムジンクリュチェフスキーはアンナの治世ちせい酷評こくひょうし、「ロシア暗黒あんこくの10ページ」などとばれるようになった。

アンナは治世ちせいちゅう軍隊ぐんたい支持しじけるピョートル大帝たいていむすめエリザヴェータに、帝位ていいうばわれるのではと脅威きょういいていた。1740ねん8がつめいアンナ・レオポルドヴナ長男ちょうなんイヴァンを出産しゅっさんすると、ただちに後継こうけいしゃえらび、エリザヴェータにもこの新生児しんせいじ忠誠ちゅうせいちかわせた。同年どうねん10がつ、アンナは腎臓じんぞう出来でき潰瘍かいようのため崩御ほうぎょした。後継あとつぎのイヴァン6せい結局けっきょくエリザヴェータにより廃位はいいされ、ちちイヴァン5せい直系ちょっけい帝位ていいつたえるというアンナのゆめは、もろくもくずった。

『アンナの野卑やひ宮廷きゅうてい』 ヴァレリー・ヤコビ、1872ねん[1]

ながドイツ語どいつごけんらしたアンナは西欧せいおう文化ぶんか摂取せっしゅ積極せっきょくてきで、イタリアから劇団げきだん音楽家おんがくかなどを招聘しょうへいしたが、女帝にょていかれ芸術げいじゅつ道化どうけのようにあつかった。アンナはギャンブル狩猟しゅりょう趣味しゅみとし、宮廷きゅうていいま洗練せんれんされたものとはがたかった。建築けんちくラストレッリ庇護ひごし、建築けんちく事業じぎょうには熱心ねっしんだったが、クールラントにきずいたものをのぞいてはほとん現存げんそんしない。また1739ねん厳冬げんとう中央ちゅうおうアジアでの戦勝せんしょう記念きねんとして、こおったネヴァがわうえパラディオ様式ようしき壮麗そうれいこおりせい宮殿きゅうでん建設けんせつした。3まんルーブル巨費きょひとうじたこの宮殿きゅうでんこおり彫像ちょうぞうかざられ、庭園ていえん樹木じゅもく浴室よくしつ家具かぐ調度ちょうどまですべてがこおり出来できていた。この奇妙きみょうこおり宮殿きゅうでんリェジェノイ ドムロシアばん)は女帝にょていのグロテスクな趣味しゅみ満足まんぞくさせるために使つかわれたが、アンナの崩御ほうぎょ翌年よくねんけてしまったという。

系図けいず

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 ミハイル・ロマノフ
1613–1645
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリヤ・ミロスラフスカヤ
 
 
 
アレクセイ
1645–1676
 
 
 
 
 
 
 
 
ナタリヤ・ナルイシキナ
摂政せっしょう 1682)
実質じっしつ摂政せっしょう 1689–1694)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソフィア
摂政せっしょう 1682–1689)
 
フョードル3せい
1676–1682
 
イヴァン5せい
1682–1696 共同きょうどう統治とうち
 
エヴドキヤ・ロプーヒナ
 
 
 
ピョートル1せい ④⑤
1682–1696 共同きょうどう統治とうち
1696–1725 単独たんどく統治とうち
 
エカチェリーナ1せい
1725–1727
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エカチェリーナ
 
アンナ
1730–1740
 
 
アレクセイ
はい太子たいし
 
アンナ
 
エリザヴェータ
1741–1762
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンナ
摂政せっしょう 1740–1741)
 
 
 
 
 
 
ピョートル2せい
1727–1730
 
ピョートル3せい
1762 廃位はいい
 
エカチェリーナ2せい
1762–1796
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イヴァン6せい
1740–1741 廃位はいい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パーヴェル1せい
1796–1801 殺害さつがい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アレクサンドル1せい
1801–1825
ニコライ1せい
1825–1855
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アレクサンドル2せい
1855–1881 暗殺あんさつテロ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アレクサンドル3せい
1881–1894
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニコライ2せい
1894–1917 帝政ていせい廃止はいし


脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 中野なかの京子きょうこ名画めいがく ロマノフ12の物語ものがたり光文社こうぶんしゃ、2014ねん、83ぺーじISBN 978-4-334-03811-3 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
ピョートル2せい
ロシア皇帝こうてい
1730ねん - 1740ねん
次代じだい
イヴァン6せい