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オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女) - Wikipedia コンテンツにスキップ

オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2せい皇女おうじょ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
Ольга Николаевна Романова
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ
1914ねんごろ
続柄つづきがら ニコライ2せいだい1皇女おうじょ

ぜん オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
Ольга Николаевна Романова
ロシア大公たいこうおんな
敬称けいしょう 殿下でんか
出生しゅっしょう 1895ねん11月15にち
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこくサンクトペテルブルクツァールスコエ・セロー
死去しきょ (1918-07-17) 1918ねん7がつ17にち(22さいぼつ
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこくエカテリンブルクイパチェフかん
埋葬まいそう 1998ねん7がつ17にち
ロシアの旗 ロシアサンクトペテルブルクペトロパヴロフスキーだい聖堂せいどう
父親ちちおや ニコライ2せい
母親ははおや アレクサンドラ・フョードロヴナ
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょうロシア正教会せいきょうかい
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オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
致命ちめいしゃ
崇敬すうけいする教派きょうは ロシア正教会せいきょうかい
列聖れっせい 2000ねん8がつ
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オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア: Ольга Николаевна Романова英語えいご: Olga Nikolaevna Romanova, Grand Duchess Of Russia, 1895ねん11月15にち [ロシアれき 11月3にち]- 1918ねん7がつ17にち)は、ロシア皇帝こうていニコライ2せいアレクサンドラ皇后こうごうだい1で、だいいち皇女おうじょロシア大公たいこうおんな1917ねんがつ革命かくめい成立せいりつした臨時りんじ政府せいふによって家族かぞくとも監禁かんきんされた。じゅうがつ革命かくめい権力けんりょく掌握しょうあくしたウラジーミル・レーニンひきいるボリシェヴィキいのちけたチェーカー秘密ひみつ警察けいさつ)によってよく1918ねん7がつ17にちちょう法規ほうきてき殺害さつがい裁判さいばん手続てつづきをまない殺人さつじん)が実行じっこうされ、エカテリンブルクイパチェフかんにおいて家族かぞく従者じゅうしゃとも銃殺じゅうさつされた。正教会せいきょうかい聖人せいじんしん致命ちめいしゃ)。

1906ねん
1909ねんごろ皇室こうしつヨット『スタンダルトごうにて。オリガとニコライ2せい、アレクサンドラ皇后こうごう
フランス語ふらんすご家庭かてい教師きょうしピエール・ジリヤール授業じゅぎょうけるオリガ(1909ねん
1910ねんひだりよりタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ
1910ねんごろ結婚けっこんうわさされていたドミトリー大公たいこう
1910ねん
1910ねんごろ

幼少ようしょう

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ロシア皇帝こうていニコライ2せいアレクサンドラ皇后こうごう長女ちょうじょ、ロシア大公たいこうおんなオリガ・ニコラエヴナは1895ねん11月15にち(ユリウスれきで11月3にち午前ごぜん9ツァールスコエ・セロー誕生たんじょうした。難産なんざんではあったが、体重たいじゅうは10ポンド(4.53kg)、体長たいちょうは55センチでまれ、頭部とうぶにはかみえていたため、新生児しんせいじにはえなかったとう。11月26にち(ユリウスれきで11月14にち)に教会きょうかい洗礼せんれいしきおこなわれた。[1]

オリガの誕生たんじょうさいして、叔母おばクセニアはオリガの誕生たんじょうについて日記にっきつぎのようにべている。[2]

ニッキーとアリックスにおんなまれた!とてもうれしいけど、おとこじゃないのは本当ほんとう残念ざんねんあかちゃんはおおきくて、10ポンドもあるので、鉗子でさなければならなかった!

伯母おばエリザヴェータヴィクトリア女王じょおうとの手紙てがみなかつぎのようにいた。[2]

アリックスは元気げんきそうで、あかちゃんに授乳じゅにゅうしていることは彼女かのじょにとって最高さいこうしあわせです。あかちゃんをさずかったよろこびのあまり、オリガがおんなだったことを後悔こうかいしたことはいちもありません。
1896ねん、デンマーク王妃おうひルイーゼマルグレーテ王女おうじょ、オリガ大公たいこうおんな

1899ねんあきダルムシュタットおとずれたとき、オリガと従姉じゅうしエリーザベトタチアナは、マーガレット・イーガー英語えいごばんれられて地元じもとのおもちゃった。3にん自分じぶんようおくものようにおもちゃをえらんでよいと説明せつめいされたが、オリガは一番いちばんちいさなおもちゃをえらび、のおもちゃをうことを拒否きょひした。ミス・イーガーがこのことについてたずねると、オリガは「でも、そのうつくしいおもちゃはきっとおんなのものです。いえかえって、わたしたちがかけているあいだにおもちゃをっていったのをったら、どんなにかなしむかかんがえてみてください。」とこたえた。[2]

宮殿きゅうでん意見いけんやレトリックをみみにすることにかんして、オリガは感受性かんじゅせいつよかった。翌年よくねんにち戦争せんそうはじまると、オリガは「ロシアへい日本人にっぽんじん全員ぜんいんころしてくれることをねがう。一人ひとりたりともかさないで。」とい、マーガレット・イーガー英語えいごばんおどろかせた。ミス・イーガーがいさめると、オリガは「日本にっぽんには天皇てんのうがいるの?」などと質問しつもんした。その、オリガはかんがんだのち、ゆっくりとこうこたえた。「日本人にっぽんじんわたしたちとおな人間にんげんだとはりませんでした。さるのような人間にんげんだとおもっていました。」そして、ミス・イーガーはこうくわえた。「彼女かのじょは、日本人にっぽんじんいてよろこんだとはわなかった。」[2]

金髪きんぱつ波状はじょうあかるいあおひとみ、いかにもかしこそうなひろがくをしていた。いもうとタチアナマリアほどうつくしくはないと一般いっぱんてきなされていたが[3]母親ははおや友人ゆうじんであったリリ・デーン英語えいごばんは「平均へいきんよりややたかく、健康けんこうてき顔色かおいろ青色あおいろあかるい栗色くりいろかみ可愛かわいらしいあしぬしだった」と表現ひょうげんし、15さいころのオリガはあきらかにうつくしかったといた[4]

ひだりから:アナスタシア、オリガ、マリア、タチアナ(1906ねん

あらゆるめん才能さいのう発揮はっきする教養きょうようふか皇女おうじょだったとわれる。アナスタシアふくめ、4姉妹しまいOTMAというサインを結束けっそく象徴しょうちょうとして使用しようしていた。姉妹しまい非常ひじょうなかく、オリガとタチアナはひとつの寝室しんしつ共有きょうゆうし、マリアとアナスタシアはとなり寝室しんしつ共有きょうゆうした。姉妹しまいはロシアじんであったが、母親ははおやとは英語えいご父親ちちおやアレクセイとはロシア姉妹しまいあいだでは英語えいごとロシア両方りょうほうはなした。[5]

アレクサンドラ子供こどもたちのふくをすべてえらんでいたため、オリガはるものをえらぶことはほとんどできず、ファッションには関心かんしんだった。16さいときに、自分じぶんワードローブつくることをゆるされ、タチアナとコーディネートした。また、オリガはヴァスカというねこっていた。[5]

ミハイル・ディテリヒスは回想かいそうろくなかつぎのようにべている。[6]

オリガ・ニコラエヴナは、典型てんけいてきなロシアの善良ぜんりょうおんなでした。彼女かのじょはそのやさしさとだれたいしても魅力みりょくてきやさしい態度たいど周囲しゅうい人々ひとびと感銘かんめいあたえました。彼女かのじょだれたいしても平等びょうどうに、おだやかに、そしておどろくほどシンプルかつ自然しぜん行動こうどうしました。彼女かのじょ家事かじきではありませんでしたが、孤独こどくほん大好だいすきでした。彼女かのじょ発達はったつしていて、とてもよくみました。彼女かのじょには芸術げいじゅつ才能さいのうがあり、ピアノをき、うたい、ペトログラードでうたまなび、上手じょうずでした。彼女かのじょはとてもひかえめで、贅沢ぜいたくこのみませんでした。

また、はは侍女じじょアンナ・ヴィルボヴァ英語えいごばんによれば、オリガは絶対ぜったい音感おんかんっており、みみいたどんなメロディーも演奏えんそうでき、複雑ふくざつ楽曲がっきょくをアレンジすることもできたという。[6]

父親ちちおやわれ、また彼女かのじょちちふかしたっていた。頑固がんこ意志いしつよなさぶか性格せいかくであったが、一方いっぽう粗野そや率直そっちょくぎるめんもあった。[5]そのためか、ははアレクサンドラ皇后こうごうとはりがわなかったとわれる。文学ぶんがく少女しょうじょであり姉妹しまいなかではもっとかしこく、複雑ふくざつロシア文法ぶんぽう説明せつめい出来できた。乗馬じょうばたしなみ、騎馬きば隊長たいちょうつとめたこともあった。

成人せいじん

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アレクサンドラは、オリガが家族かぞく模範もはんとなることを期待きたいし、どのようなときでもオリガに手紙てがみおくつづけた。手紙てがみ内容ないよう謝罪しゃざいおおかったが、以下いかのように、オリガにいをこころがけるようねんしした手紙てがみおくることもあった。[2]

すべてのひと親切しんせつにし、やさしく愛情あいじょうふかくありなさい。そうすれば、みんながあなたをあいするでしょう。
行儀ぎょうぎよくして、ひじをテーブルからはなし、まっすぐすわってにくをきれいにべることをわすれないように。

10代になるとアレクサンドラはオリガに教訓きょうくんてき手紙てがみつづけ、1909ねんはじめ、13さいのオリガにつぎのようにすすめた。[2]

従順じゅうじゅんおんながどうあるべきか、模範もはんとなるようつとめなさい。あなたは長女ちょうじょであり、かたしめさなければなりません。他人たにんしあわせにすることをまなび、自分じぶんのことは最後さいごかんがえなさい。やさしく親切しんせつにし、けっして乱暴らんぼう失礼しつれいなことはしないでください。はなかただけでなく態度たいど本物ほんもの淑女しゅくじょでいてください。忍耐にんたいつよ礼儀れいぎただしく、あらゆる方法ほうほういもうとたちをたすけてください。だれかがかなしんでいるのをたら、そのひと元気げんきづけて、あかるい笑顔えがおせてください。

1909ねん7がつ11にち 、オリガはロシア帝国ていこく陸軍りくぐんオリガ・ニコラエヴナ大公たいこうおんな殿下でんかだい3エリザヴェトグラードけい騎兵きへい連隊れんたいロシアばん名誉めいよ連隊れんたいちょう任命にんめいされた。

1910ねん名誉めいよ連隊れんたいちょう制服せいふく着用ちゃくようしたオリガとタチアナ。

1911ねん、オリガの16さい誕生たんじょういわうパーティーがリヴァディアもよおされた。アグネス・デ・ストークル男爵だんしゃく夫人ふじんは16さいになったオリガについてつぎのようにいた。[2][7]

まず、わたしたちはおおきなダイニング ルームにあつまりました。部屋へやはしのドアがひらき、すぐにあつまった人々ひとびとしずまりかえりました。皇帝こうていがオリガ大公たいこうおんなひきいてあらわれました。彼女かのじょはじめてのながいガウンをて、はじめてかみをアップにしていて、とてもきれいでした。

オリガは成長せいちょうするにつれ、父親ちちおや政府せいふたいする脅威きょうい意識いしきするようになった。また、自分じぶん家族かぞくかれている危険きけん立場たちば理解りかいしていたという。

ロマンスと恋愛れんあい

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1913ねん、オリガとタチアナ

1913ねん、ロマノフあさ300しゅうとしになると、結婚けっこん適齢てきれいであるオリガはますます注目ちゅうもくされるようになる。のち宮廷きゅうてい秘書ひしょ局長きょくちょうのモソロフはつぎのようにいている。[2]

オリガは17さいで、すでにかなりわか女性じょせいだったが、まだ少女しょうじょのようないをしていた。うつくしいあかるいかみをしており、かお幅広はばひろ楕円だえんがたで、純粋じゅんすいにロシアふうで、とくととのっているわけではないが、おどろくほど繊細せんさい色合いろあいと、おどろくほど均一きんいつしろせたあいらしい笑顔えがおが、彼女かのじょおおきな新鮮しんせんさをあたえていた。オリガの性格せいかくおだやかで善良ぜんりょうで、ほとんど天使てんしのようなやさしさをっていた。

オリガは1913ねんにはすでにこいをしていた。しかし、その相手あいては、大叔父おおおじウラジミール大公たいこう未亡人みぼうじんマリア大公たいこうつうじてプロポーズされたボリス大公たいこうでも、ドミトリー大公たいこうでもなかった。[2]

オリガはスタンダルトごう勤務きんむする将校しょうこうポール・アレクセーエヴィチ・ヴォロノフに夢中むちゅうになっており、両親りょうしん心配しんぱいすることなく、面白おもしろがっていた。しかし、ヴォロノフがオリガ・クラインミシェルと婚約こんやくしていることをると、オリガは「おもよ、かれに、わたし最愛さいあいひと幸福こうふくをおあたえください」といた。[2]

また従兄じゅうけいのルーマニアおう太子たいしカロル(カロル2せいおよびイギリスおう太子たいしエドワード(エドワード8せい、ウィンザーこう)との縁談えんだんもあったが、オリガ自身じしんは「わたしはロシアじんだからロシアにのこりたい」と、外国がいこく王族おうぞくとは結婚けっこんするく、結果けっか家族かぞく悲劇ひげきまれてしまった[8]。また、オリガはカロルがきではなく、1914ねんはるルーマニアおとずれたときはカロルと世間せけんばなしをするのに苦労くろうした[9]。カロルの母親ははおやマリア王妃おうひちち皇帝こうていはは皇后こうごう共通きょうつう従妹じゅうまい)もオリガの性格せいかく無愛想ぶあいそうぎるとして、彼女かのじょ頬骨ほおぼねたかかおも「可愛かわいくない」とい、あまり印象いんしょうっていなかった[10]。また、一説いっせつではニコライは自身じしん従弟じゅうていにあたるドミトリー大公たいこう彼女かのじょ結婚けっこんさせるつもりであったともわれる。

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつしたとき、オリガは看護かんごとしてツァールスコエ・セロー病院びょういんはたらはじめた。[6]この時期じき、オリガの日記にっきには「ミーチャ」という人物じんぶつについてのぶんおおられる。1915ねん8がつ12にち日記にっきには、「もっと重要じゅうようなことは 1 つ、ミーチャとふたたはなしをした」とある。また、「ミーチャとながすわった」や「ミーチャと一緒いっしょにいるととてもたのしかった」とき、ときには「ミーチャがいないと悲惨ひさんだ」といた。そして1915ねんから1916ねんにかけて、オリガはミーチャとごす時間じかんったが、時折ときおり電話でんわはなしたり、ひととのやりりをいたりした。この「ミーチャ」という人物じんぶつ一体いったいだれなのかということにかんして、わか騎兵きへい将校しょうこうのドミトリー・マラマと主張しゅちょうするひともいるが、実際じっさい名前なまえしるされておらず、不明ふめいである。[2]

だいいち世界せかい大戦たいせん

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ははいもうとタチアナととも兵士へいしたちの看護かんごをしていたとき看護かんごふく姿すがたのオリガ1915ねん

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、オリガはははアレクサンドラとタチアナとともに看護かんごとして病院びょういんはたらいた。[6]アレクサンドラとタチアナが看護かんごとして才能さいのう発揮はっきしたのにたいし、オリガは手術しゅじゅつしつ悲惨ひさん恐怖きょうふえることができず、神経しんけい衰弱すいじゃくになった。あいだもなく、オリガは手術しゅじゅつしつ仕事しごとから事務じむてき仕事しごとまかされるようになった。ツァールスコエ・セローの病院びょういんにいないあいだ、オリガとタチアナの2人ふたり戦争せんそう活動かつどう委員いいんかいでもやすむことなくはたらつづけ、ときには、時間じかんあましているひと軽蔑けいべつすることもあった。1915ねん3月、オリガは父親ちちおやつぎのようにいた。[2]

今日きょうわたしたちはペトログラードにいます。わたしおおきな委員いいんかいで 2 あいだ議長ぎちょうつとめるというよろこびにめぐまれました。その、イリナのところにきました。フェリックスは「まったくの民間みんかんじん」で、茶色ちゃいろふくて、部屋へやなかをあちこちったりたりし、本棚ほんだな雑誌ざっしさがしたりして、ほとんどなにもしていませんでした。このような時期じき仕事しごとをしないというまった不愉快ふゆかい印象いんしょうあたえるひとです。

アレクサンドラは、とくにオリガとのいがますますむずかしくなっていった。1916ねん3がつ13にちのニコライへの手紙てがみで、アレクサンドラはニコライに「子供こどもたちは愛情あいじょうたっぷりですが、それでもわたしかんがかたとはまったくちがかんがえをっていて、わたしもの見方みかたをほとんど理解りかいしてくれません。オリガはどんな提案ていあんたいしてもつね非常ひじょう冷淡れいたんで、結局けっきょくわたしのぞどおりにしてくれることもあります。そしてわたしがひどいときは、わたし不機嫌ふきげんにします。」といている。[2]

1916ねんなつ皇后こうごう大公たいこうおんなたちはモギリョフすうかいき、いちぎょう全員ぜんいんえきちかくの松林まつばやし停車ていしゃした帝国ていこく列車れっしゃ宿泊しゅくはくした。このあいだ、オリガをふく大公たいこうおんなたちは近隣きんりんしょういえたずね、農民のうみん子供こどもたちとあそび、お菓子かしやプレゼントをおくった。[11]

1916ねんはるマヒリョウ近郊きんこうにていもうとのタチアナとアナスタシア、農民のうみん子供こどもたち
1916ねん

1916ねん12月、ラスプーチンがドミトリー大公たいこうとフェリックス・ユスポフ公爵こうしゃくらに殺害さつがいされた。[12]また彼女かのじょは、グリゴリー・ラスプーチン葬儀そうぎ家族かぞくない唯一ゆいいつ出席しゅっせきしなかったとわれる。ドミトリーとフェリックス・ユスポフがラスプーチンを殺害さつがいしたとき一家いっかから殺人さつじんしゃことじていた。[2]オリガはこれよりまえから兵役へいえき退避たいひしたユスポフを軽蔑けいべつしていた。

革命かくめい監禁かんきん

[編集へんしゅう]

1917ねん2がつ23にち(グレゴリオれき3月8にち)に首都しゅとペトログラードでがつ革命かくめい勃発ぼっぱつした。混乱こんらん最中さいちゅう最初さいしょにオリガとアレクセイが麻疹ましん感染かんせんし、のちにタチアナとマリアも感染かんせんした。麻疹ましん感染かんせんしたさい姉妹しまいかみり、坊主ぼうずにした。

1917ねん、ツァールスコエ・セロー。ひだりからアナスタシア、タチアナ、オリガ、マリア

オリガは回復かいふくかうなか母親ははおやから父親ちちおや王位おうい退位たいいし、全員ぜんいん自宅じたく軟禁なんきん状態じょうたいにあることをらされた。1917ねん3月21にち一家いっかツァールスコエ・セロー宮殿きゅうでん逮捕たいほされ、自宅じたく軟禁なんきんかれた。[2]

1917ねん4がつ23にち、オリガはははアレクサンドラにつぎのようなささげた。[2]

あなたは他人たにんくるしみにしんいためています。そして、だれかなしみもあなたを見過みすごしたことはありません。あなたは自分じぶんにだけ容赦ようしゃなく、いつまでもつめたく無慈悲むじひです。しかし、もしあなたが自分じぶんかなしみをとおくから、愛情あいじょうふかしんいちだけることができたなら、あなたはどれほど自分じぶんあわれむことでしょう。どれほどかなしくくことでしょう。

トボリスクでの生活せいかつ

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1917ねん8がつ1にち夜中よなか列車れっしゃ乗車じょうしゃするための準備じゅんび開始かいししたが、なかなか出発しゅっぱつせず、出発しゅっぱつしたのは520ふんだった。[13]それからアレクサンドロフスカヤえき列車れっしゃえ、8がつ4にちの11チェメニ到着とうちゃくした。8月6にちの18トボリスク到着とうちゃくし、8がつ26にちからトボリスクのきゅう知事ちじ公舎こうしゃ生活せいかつはじめた。[13]皇帝こうてい一家いっかは、日曜日にちようびやに時々ときどき教会きょうかい以外いがいは、トボリスクの邸宅ていたくることはゆるされず、その場合ばあい武装ぶそうした警護けいごへいった。時間じかんつにつれて、一家いっかへの対応たいおうきびしいものとなった。[13]

1917ねん、トボリスクのきゅう知事ちじ公舎こうしゃのバルコニーでタチアナとアレクサンドラ、オリガ。

両親りょうしんとマリアがさきエカテリンブルク移送いそうされ、オリガはタチアナやアナスタシア、アレクセイとともにトボリスクにのこった。家庭かてい教師きょうしのクラウディア・ビトナーは、このときのオリガについて「彼女かのじょ家族かぞくだれよりもかれらの状況じょうきょう、その危険きけんせい理解りかいしていたようだ。」といた。[14][2]

オリガはちちニコライから小型こがたじゅうわたされ、トボリスクまでこのじゅうっていた。しかし、トボリスクの司令しれいかんコビリンクスキー大佐たいさがその存在そんざいり、エカテリンベルグにかうまえに、オリガにじゅう手放てばなすよう説得せっとくした。[5]

トボリスク滞在たいざいのオリガの様子ようす記憶きおくしているクラウディア・ビットナーは回顧かいころくなかつぎのようにべている[15]

彼女かのじょ父親ちちおやおおくの性質せいしついでいます。・・・家事かじてきなことをきらいました。孤独こどくほんあいしました。よくほんみました。基本きほんてき冷静れいせいでした。彼女かのじょは、彼女かのじょ家族かぞくよりもはるかに自分じぶんかれた立場たちばをわかっていたし、その危険きけんせいっていたようにわたしにはおもえました。彼女かのじょ両親りょうしんがトボリスクをったとき彼女かのじょはひどくいていました。おそらく、なにかをっていました。彼女かのじょ不幸ふこう経験けいけんしているひとだという印象いんしょうわたしあたえました。・・・彼女かのじょ父親ちちおや同様どうように、彼女かのじょはまったく素朴そぼくで、やさしく、親切しんせつであり、友好ゆうこうてきでした。だれよりもひとあいし、マリア・ニコラエヴナにていました。
1918ねん5がつトボリスクからエカテリンブルクかうふねにて。アレクセイととも既知きち最後さいご写真しゃしん

イパチェフかんでの生活せいかつ

[編集へんしゅう]

エカテリンブルクへは、マリアが皇帝こうてい夫妻ふさい同行どうこうすることが決定けっていし、そのあいだ、オリガが家事かじをし、タチアナがアレクセイの世話せわをすることがまった。アナスタシアはまだおさなすぎたため両親りょうしん同行どうこうすることはかなわなかった。[16]

1918ねん5月23にち両親りょうしんやマリアと合流ごうりゅうし、一家いっか再会さいかいよろこびをかちあった。[13]

昼食ちゅうしょく、7 にん家族かぞくあたえられたのは食事しょくじ人数にんずうぶんなく、おなじテーブルにすわっていた看守かんしゅたちは、タバコをい、図々ずうずうしくも一家いっかかおけむりきかけ、無作法ぶさほうかれらのものうばうことさえあった。にわ散歩さんぽは1にち1かい最初さいしょは15〜20ふんだったが、次第しだいに5ふんのみゆるされた。警備けいびいん行動こうどう下品げひんであり、トイレのちかくでも警備けいびをし、ドアの施錠せじょう許可きょかしなかった。看守かんしゅたちはかべにわいせつな言葉ことばやわいせつなえがいた。[17]

姉妹しまいなか一番いちばん母親ははおや一緒いっしょにいた。[18]

6月19〜20日はつかにととどいた「ロシアぐんいち将校しょうこう」の最初さいしょ手紙てがみ回答かいとうフランス語ふらんすごじゅくたっしていた彼女かのじょが21〜23にちあいだいた可能かのうせいたかいとかんがえられている。

建物たてものかくからバルコニーまでのあいだまど街路がいろがわ広場ひろばまど全部ぜんぶ接着せっちゃく幽閉ゆうへいされしろってある。ちいさいはまだ病臥びょうがちゅういちあるけず、ちょっとうごかすだけでもやめがる。いち週間しゅうかんまえアナーキストのせいで夜中よなかにわれわれはモスクワにされようとした。成功せいこう絶対ぜったいてき確信かくしんなしには、いかなる危険きけんおかされるべきではない。われわれはほとんど常時じょうじ厳重げんじゅう監視かんしにある

[19]

外部がいぶ紅衛兵こうえいへいアンドレイ・ストレコティンの1934ねん回想かいそうろくでは彼女かのじょについてこうかえった。

紅衛兵こうえいへいアレクサンドル・スタルコフはこうべた。"皇女おうじょらには特別とくべつなものはない。しかしわたし彼女かのじょらを特別とくべつだとおもった。なに特別とくべつなものはない。もし彼女かのじょらのドレスとう衣装いしょう我々われわれまずしいむすめたちせたなら、たしかにおおくのむすめたち魅力みりょくてきになるだろう"
つぎ二人ふたり女性じょせいはおたがていません。そのうちの一人ひとりはタチアナ。ふっくらとした健康けんこうてきうつくしい黒髪くろかみ女性じょせいでした。二人ふたり、つまり長女ちょうじょのオリガは平均へいきんよりたかく、せていて、顔色かおいろわる病弱びょうじゃくかんじでした。彼女かのじょにわすこしずつ散歩さんぽし、姉妹しまいのどちらともなかわるく、よくドレスに着替きがえてかね宝石ほうせき自分じぶんかざていました。

[20]

またかれ回想かいそうろくなか警備けいびへい交友こうゆう関係かんけいったマリアにひどはらてたとかえったと「The Fate of the Romanovs」でかれている[21]著者ちょしゃ参考さんこうにしていたかれ回想かいそうろくにはそのような記述きじゅつかれていないだけでなく、そもそもマリアの名前なまえいちかれていない。[22]

7がつ4にち司令しれいかん任命にんめいされたヤコフ・ユロフスキーの1922ねん回想かいそうろくでは彼女かのじょについてこうかえった。

タチアナとオリガ、あるいはマリア、ほとんどはタチアナが、"そろそろ散歩さんぽていいか"といにた。
散歩さんぽちゅうのオリガが、紅衛兵こうえいへい1人ひとりこえをかけ、「どこの所属しょぞくにいたのか?」とたずねた。かれは「擲弾へい連隊れんたい所属しょぞくしていて、観兵かんぺいしき皇帝こうていむすめたちをた」とこたえた。オリガはニコライのほういてった。「パパ、このひとはあなたの擲弾へい一人ひとりです」とった。ニコライはちかづき、「こんにちは」とった。「健康けんこういのります」(ぐん慣例かんれい)という言葉ことば期待きたいしていたようだが、ただ挨拶あいさつされただけだった。それからだいぶってから、紅衛兵こうえいへい同志どうしが、「わたし(ユロフスキー)が会話かいわわったので、はな機会きかいがなかった」と報告ほうこくしてきた。 
もっと聡明そうめいだったのはタチアナで、番目ばんめ表情ひょうじょうふくめてタチアナにとてもよくていたオリガでした。マリアについては、彼女かのじょ最初さいしょ二人ふたり姉妹しまいとはていないし、外見がいけんていない。彼女かのじょはどこか内向ないこうてきで、所謂いわゆる義理ぎりむすめとして家族かぞくなかにいた。すえのアナスタシアは、可愛かわいちいさなあかがおしていた。

[23][24]

外部がいぶ警備けいびへいだったアナトリー・ヤキモフが彼女かのじょについてこうかえっている。

タチアナは女王じょおうのような存在そんざいでした。母親ははおやおなじようにきびしそうで、重厚じゅうこうそうなかおをしていた。むすめたち、オリガ、マリア、アナスタシアはどうでもいい存在そんざいだった。素朴そぼくやさしいひとたちでした。

[25]

処刑しょけい執行しっこうしゃのピョートル・エマルコフはリチャード・ハリバートンのインタビューにて

オリガは長女ちょうじょで、特別とくべつ存在そんざいではありませんでした。22 さいくらいか、おそらく 23 さいくらいでした。マリアが刑務所けいむしょで 19 さい誕生たんじょうパーティーをひらいたことをおぼえています。看守かんしゅの 1 にん彼女かのじょにケーキをいくつかってきました。彼女かのじょはツァーリのおりのようでした。 二人ふたりはいつもにわ一緒いっしょあるいていた。アナスタシアはまだかみうしろにろしていた。彼女かのじょは17さい以下いかだった。おそらくもっとわかい。タチアナはオリガとマリアのあいだにいた。わたし彼女かのじょが4にんなか一番いちばん綺麗きれいだとおもった。彼女かのじょ尊厳そんげんもあり、つねひと世話せわをしていました。わたしたちはみな彼女かのじょ一番いちばんきでした。

[26]

7がつ14にち日曜日にちようびのミサを仕切しきったストロジェフ司教しきょう一家いっか様子ようすについてこうかえった。

アーチのこうの前方ぜんぽうには、すでにアレクサンドラ皇后こうごう二人ふたりむすめ、そして車椅子くるまいすすわったアレクセイ・ニコラエヴィチが、ふくのようなえりきのジャケットをているのがえていた。顔色かおいろわるかったが、最初さいしょ礼拝れいはいのときほどではないが、意識いしきははっきりしているようにえた。アレクサンドラ皇后こうごうも5がつ20日はつかおなじドレスをて、よりあかるい表情ひょうじょうせていた。ニコライ・アレクサンドロヴィチはというと、初回しょかいおな衣装いしょうていた。ただ、今回こんかいむねにセント・ジョージの十字架じゅうじかけていたのかどうか、なぜかはっきりと想像そうぞうできないのだ。タチアナ・ニコラエヴナ、オリガ・ニコラエヴナ、アナスタシア・ニコラエヴナ、マリア・ニコラエヴナは、くろいスカートとしろいブラウスをけていた。頭髪とうはつびて、うしろはかたたかさまである。
ニコライ・アレクサンドロヴィチも、そのむすめたちも、んでいるとはわないまでも、なんとなくつかれているような印象いんしょうけた。今回こんかいも5がつ20日はつかおなじように、ロマノフ人々ひとびと神式しんしき典礼てんれい着席ちゃくせきしていた。アレクサンドラ皇后こうごう肘掛ひじか椅子いすは、アレクセイ・ニコラエヴィチのとなりに、アーチからはなれた、かれすこうしろにかれていた。かれうしろには、タチアナ・ニコラエヴナ(彼女かのじょあとで、礼拝れいはいかれらが十字架じゅうじかよこになっていたとき、かれ肘掛ひじか椅子いすった)、オリガ・ニコラエヴナ、そしてかくか(だれだったかはおぼえていない)、マリア・ニコラエヴナもいたようである。アナスタシア・ニコラエヴナは、アーチの右側みぎがわ壁際かべぎわにいつものように陣取じんどっているニコライ・アレクサンドロヴィチのそばにっていた。
ミサの順序じゅんじょしたがって、特定とくてい場所ばしょで「聖人せいじんたちと一緒いっしょに、やすらかにねむってください」といういのりを必要ひつようがあります。どういうわけか、今度こんど執事しつじ朗読ろうどくわりにこのいのりをうたい、わたしはそのような規則きそくからの逸脱いつだつすこずかしそうにうたはじめましたが、うたうとすぐにロマノフのメンバーがっているときましたわたしうしろでひざまずきました...。
かえぎわだい皇女おうじょのすぐちかくをあるいていると、かすかに「ありがとう」という言葉ことばこえたが、それは印象いんしょうだけではなかったとおもう...。

[27]

7がつ15にちかん派遣はけんされた4にん掃除そうじによると、4にんわか女性じょせい全員ぜんいんとも前日ぜんじつ服装ふくそうおなながくろのスカートとしろのシルクのブラウスであり、そのみじかかみは「ボサボサで乱雑らんざつ」であった。オリガは元気げんきく、具合ぐあいわるそうにえたという[28]

7がつ16にち、ロマノフ一家いっか夕食ゆうしょくべているとき新任しんにん警護けいご隊長たいちょうヤコフ・ユロフスキーはいってきてアレクセイのあそ相手あいてで14さい皿洗さらあらいの少年しょうねんレオニード・セドネフかんからの離脱りだつ発表はっぴょうした。じつはロマノフのメンバーと一緒いっしょかれころしたくなかったために警護けいごへい少年しょうねんをイパチェフかんからとおりのかいの宿舎しゅくしゃさせていた。しかし、殺人さつじん計画けいかくらないロマノフ一家いっかはセドネフの不在ふざいおこっていた。タチアナと一家いっかかかえの医師いしエフゲニー・ボトキン夕方ゆうがたにユロフスキーのオフィスまで出向でむき、アレクセイをたのしませてきたセドネフを復帰ふっきさせるように要求ようきゅうした。ユロフスキーはセドネフはぐにもどってくるとつたえることでタチアナをなだめたが、家族かぞく納得なっとくしなかった[29]

殺害さつがい

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1994ねんふくがおじゅつによって生前せいぜん姿すがた顔面がんめん再建さいけんされた

イパチェフかん監禁かんきんされていたもと皇帝こうてい一家いっからは1918ねん7がつ16にちよるねむりにくが、おそ時間じかんこされ、市内しない情勢じょうせい不穏ふおんなので、いえ地下ちかりるようにわれた。アレクサンドラやアレクセイをらくにさせるために家族かぞくまくらやバッグなどをはこんで自分じぶん部屋へやからた。アナスタシアは家族かぞくの3ひきいぬのうちの1ひき、ジミーという名前なまえちんれてた。写真しゃしん撮影さつえいするとわれ、自分じぶんとアレクセイのための椅子いすもとめていたアレクサンドラは彼女かのじょ息子むすこひだりすわっていた。ニコライ2せいはアレクセイのうしろにっていた。ボトキン医師いしがニコライ2せいみぎち、オリガは彼女かのじょ姉妹しまい使用人しようにんたち一緒いっしょにアレクサンドラのうしろにっていた。もと皇帝こうてい一家いっからはやく30ふん支度したく時間じかんけることをゆるされた。銃殺じゅうさつたい入室にゅうしつし、かれらを指揮しきするユロフスキーが殺害さつがい実行じっこうすることを発表はっぴょうした。オリガと彼女かのじょ家族かぞくはしばらく言葉ことばにならないさけごえげていた。7月17にち早朝そうちょう時間じかんたいだった[30]

最初さいしょじゅう一斉いっせい射撃しゃげきによってちちのニコライ2せいははのアレクサンドラ、料理人りょうりにんイヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップ殺害さつがいされ、ボトキン、マリア、メイドアンナ・デミドヴァ負傷ふしょうした。そのすうふん銃殺じゅうさつたい銃撃じゅうげき再開さいかいしてボトキンが殺害さつがいされた。殺害さつがい実行じっこうしゃ一人ひとりピーター・エルマコフ英語えいごばんおとうとのアレクセイを銃剣じゅうけんかえ刺殺しさつしようとこころみるが、衣服いふくけてあった宝石ほうせきかれ保護ほごしていたために失敗しっぱいした。最終さいしゅうてきにアレクセイはユロフスキーが頭部とうぶけて発射はっしゃした2はつ弾丸だんがんによって殺害さつがいされた。ユロフスキーとエルマコフはおたがって母親ははおや遺体いたいがあるほういてさけごえげながら、背面はいめんかべにうずくまるオリガとタチアナに近付ちかづいた。エルマコフはオリガとタチアナの両者りょうしゃながさ8インチの銃剣じゅうけんしたが、これも2人ふたり衣服いふくけてあった宝石ほうせきによって失敗しっぱいした。2人ふたりがってげようとしたところに、ユロフスキーがタチアナの背後はいごから彼女かのじょ後頭部こうとうぶけて発射はっしゃした一発いっぱつ弾丸だんがんによってタチアナは即死そくしした。その直後ちょくごにオリガもエルマコフが彼女かのじょ頭部とうぶけて発射はっしゃした弾丸だんがんによって死亡しぼうした[31][32]

聖人せいじん

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オリガの遺体いたい最終さいしゅうてきにはニコライ2せい、アレクサンドラ、タチアナ、アナスタシアや4にん従者じゅうしゃとともに殺害さつがいから80ねん1998ねん7がつ17にちサンクトペテルブルクペトル・パウェルだい聖堂せいどう安置あんちされた[33]

オリガはの6にん家族かぞくとともに2000ねんにロシア正教会せいきょうかいによって列聖れっせいされた。これより20ねんちかまえ1981ねん在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいによってせいなる殉教者じゅんきょうしゃとして列聖れっせいされていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Дневник Николая II 1895 Начат в Питере”. Азбука веры. 2024ねん5がつ27にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Grand Duchess Olga Nicholaievna - Blog & Alexander Palace Time Machine”. Alexander palace. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ ロバート・K.マッシー (英語えいご). Nicholas and Alexandra. Atheneum. p. 132-133 
  4. ^ The Real Tsaritsa” (英語えいご). AlexanderPalace.org. 2014ねん4がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d The Grand Duchesses - OTMA - Blog & Alexander Palace Time Machine”. Alexander palace. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d Великая княжна Ольга Николаевна Романова”. Православие.ру. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ Grand Duchess Olga - 16th Birthday at Livadia”. Alexander palace. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ 植田うえだいつき. 最後さいごのロシア皇帝こうてい. ちくま新書しんしょ. p. 91-92. ISBN 978-4480057679 
  9. ^ マイケル・ジョン・サリヴァン (英語えいご). A Fatal Passion: The Story of the Uncrowned Last Empress of RussiaHardcover. Random House. p. 281. ISBN 978-0679424000 
  10. ^ マイケル・ジョン・サリヴァン (英語えいご). A Fatal Passion: The Story of the Uncrowned Last Empress of Russia. Random House. p. 280 
  11. ^ The Life and Tragedy of Alexandra Feodorovna:: ChapterⅩⅩⅡ Visits to Headquarters and Elsewhere”. Alexander palace. 2024ねん5がつ31にち閲覧えつらん
  12. ^ The Life and Tragedy of Alexandra Feodorovna:: Chapter XXV Rasputin's Murder - Last Days of Sovereignty, December 1916 to March 1917”. Alexander palace. 2024ねん5がつ31にち閲覧えつらん
  13. ^ a b c d 広野ひろの, 好彦よしひこアレクサンドラ・フョードロヴナの日記にっき 1917-1918ねん」『大阪学院大学おおさかがくいんだいがく国際こくさいがく論集ろんしゅうだい26かん1・2、2015ねん12月30にち、101–150ぺーじdoi:10.24730/00000269ISSN 2189-9762 
  14. ^ Великая княжна Ольга Николаевна | Журнал”. Православный вестник. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  15. ^ OTMA's Camera - Tumblr” (英語えいご). Otmacamera.tumblr.com. 2014ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  16. ^ The Life and Tragedy of Alexandra Feodorovna:: Chapter XXX Tobolsk, August 1917 to April 1918”. Alexander palace. 2024ねん5がつ31にち閲覧えつらん
  17. ^ Ольга Николаевна Романова, великая княжна: житие, иконы, день памяти”. Азбука веры. 2024ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  18. ^ https://www.sakharov-center.ru/asfcd/auth/?t=page&num=12457
  19. ^ マーク・D. スタインバーグ, ヴラジーミル・M. フルスタリョーフロマーノフ王朝おうちょう滅亡めつぼう?革命かくめい政治せいじゆめ個人こじん苦闘くとう大月書店おおつきしょてん
  20. ^ https://statearchive.ru/assets/images/docs/n02/
  21. ^ The Fate of the Romanovs. Wiley. (2008-04-21). pp. 242–247 
  22. ^ Воспоминания красногвардейца караульной команды дома Ипатьева А.А. Стрекотина о расстреле царской семьи. Копия.”. statearchive.ru. GARF. 2023ねん2がつ19にち閲覧えつらん
  23. ^ Yurovsky Note 1922 English - Blog & Alexander Palace Time Machine”. www.alexanderpalace.org. ALEXANDER PALACE TIME MACHINE. 2022ねん11月11にち閲覧えつらん
  24. ^ Воспоминания коменданта дома Ипатьева Я.М. Юровского «Последний царь нашел свое место». Подлинник.”. statearchive.ru. Государственный архив Российской Федерации. 2022ねん11月11にち閲覧えつらん
  25. ^ ソコロフ Убийство царской семьи”. rus-sky.com. http://rus-sky.com/.+2022ねん11月11にち閲覧えつらん
  26. ^ Seven League Boots. Long Riders Guild Pr 
  27. ^ http://rus-sky.com/history/library/sokolov.htm#_Toc459375247 ソコロフ УБИЙСТВО ЦАРСКОЙ СЕМЬИ
  28. ^ ヘレン・ラパポート (英語えいご). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. ISBN 978-0312603472 
  29. ^ ヘレン・ラパポート (英語えいご). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 180 
  30. ^ ヘレン・ラパポート (英語えいご). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 184-189 
  31. ^ グレッグ・キング (英語えいご). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 303 
  32. ^ ヘレン・ラパポート (英語えいご). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 190 
  33. ^ 17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II” (英語えいご). Romanovfundforrussia.org. 2006ねん12月29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん3がつ24にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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