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イヴァン6世(露: Иоанн VI Антонович,1740年8月23日 / ユリウス暦8月12日 - 1764年7月16日 / ユリウス暦7月5日)は、ロマノフ朝の第5代ロシア皇帝(在位:1740年 - 1741年)。
イヴァン5世の曾孫、女帝アンナの姉エカチェリーナの孫に当たる。父はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナント・アルブレヒト2世の次男アントン・ウルリヒ、母はエカチェリーナとメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトの娘アンナ・レオポルドヴナ。
1740年の誕生直後にアンナ女帝から後継者指名を受け、わずか生後2か月で帝位を継いだ。摂政となったクールラント公エルンスト・ビロンはクーデターにより失脚したため、母アンナ・レオポルドヴナが摂政を引き継ぎ、ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ元帥、アンドレイ・オステルマン伯爵が政務を担当した。しかし翌1741年11月、ピョートル1世の娘エリザヴェータが自分を支持する近衛軍に命じて宮廷クーデター(ロシア語版)を起こさせ、幼帝イヴァン6世はあっけなく廃位された。これにより、女帝アンナが望んだイヴァン5世の系統による帝位継承は失敗に終わった。
エリザヴェータはイヴァンの存在を歴史から消し去る事に徹底する。すなわち彼の名前を口にすることを禁じ、名前の記された書物は焼かれ、記念碑は破壊された。彼の肖像が刻まれた通貨の流通は禁止されて回収され、知らずにこの通貨を使った者さえ投獄するという徹底ぶりだった。家族と引き離されたイヴァンは、首都の遥か北方に位置するアルハンゲリスク州ホルモゴルイの寒村で幽閉されて15年を過ごした後、1756年にはサンクトペテルブルグから目の届くシュリッセリブルク城塞内の監獄に移送された。この城塞はラドガ湖がネヴァ川に流れ込む湖尻に浮かぶ小島に構築された堅牢な施設で、脱出の機会はもとより、外部からの接触の企てをも完全に遮断することができるものだった。イヴァンはそこで看守たちにも身分が伏せられたまま独房に投獄され、彼を脱出させる企てなどが起きた場合には直ちに彼を殺すよう厳命が下された。そして8年後、廃位から23年の歳月を経た1764年になってウクライナ人士官ヴァシーリー・ミローヴィチがイヴァンの救出を試みると、命令通り彼はその場で看守によって刺殺された。
2008年にホルモゴルイの聖堂付近で行われた発掘調査の結果、特別な方法で埋葬された若者の遺骨が発見された。死亡時の推定年齢、埋葬時期、殺害に使われたというサーベルによる創傷痕などがイヴァン6世の記録と一致しており、法医学鑑定を行ったところこれが実際にイヴァン6世のものである可能性が極めて高いという報告が出された[1] 。しかし後になってロシア科学アカデミーはこの鑑定結果を全面的に否定している[2]。そもそもイヴァン6世は殺害されたシュリッセリブルク要塞監獄内のどこかに埋められたのであり、そこには他にも無数の受刑者の遺体が墓石もなく無造作に埋められているため、将来的にも発掘調査でイヴァン6世の遺体を特定することは非常に困難だという[3]。
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