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ナタリヤ・ナルイシキナ

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ナタリヤ・ナルイシキナ
Ната́лья Нары́шкина
ツァーリツァ
在位ざいい 1671ねん - 1676ねん

出生しゅっしょう 1651ねん9月1にち
死去しきょ (1694-02-04) 1694ねん2がつ4にち(42さいぼつ
配偶はいぐうしゃ アレクセイ・ミハイロヴィチ
子女しじょ ピョートル1せい
父親ちちおや キリル・ポレクトヴィチ・ナルイシキン
母親ははおや アンナ・ルヴォヴナ・レオンティエヴァ
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ナターリア・キリロヴナ・ナルイシキナНата́лья Кири́лловна Нары́шкина / Natalia Kirillovna Naryshkina, 1651ねん9月1にち - 1694ねん2がつ4にち)は、だい2だいモスクワ大公たいこうけんツァーリアレクセイ・ミハイロヴィチの2番目ばんめすめらぎ(ツァリーツァ)。キリル・ポレクトヴィチ・ナルイシキンのむすめはははアンナ・ルヴォヴナ・レオンティエヴァ。ピョートル1せい母后ぼこう摂政せっしょう在任ざいにん1682ねん)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ツァーリ・アレクセイの重臣じゅうしん西欧せいおう事情じじょうつうじるだい貴族きぞくアルタモン・マトヴェーエフ養女ようじょとしてそだった。マトヴェーエフのひらいた晩餐ばんさんかいまねかれたアレクセイが、そこで給仕きゅうじするむすめ清楚せいそ理知的りちてきであることにしんひかれたため、事情じじょうくと、マトヴェーエフが親代おやがわりにってそだてたむすめであるという。ツァーリは「ではわたしがあのむすめによい婿むこつけてあげよう」と約束やくそくし、数日すうじつ、マトヴェーエフを宮廷きゅうていんだ。その婿むことは、ツァーリ自身じしんであった[1]。こうして、1671ねんアレクセイの再婚さいこん相手あいてえらばれた。

当時とうじアレクセイには最初さいしょつまマリヤ・ミロスラフスカヤとのあいだ2人ふたり皇子おうじのこっていたが、いずれも病弱びょうじゃくなため世継よつ候補こうほをさらにもうける必要ひつようがあった。ナタリヤは期待きたいこたえ、よく1672ねん健康けんこう皇子おうじピョートルを出産しゅっさんした。1676ねんアレクセイの崩御ほうぎょ先妻せんさいフョードル3せい即位そくいしたが、しんツァーリをようするミロスラフスキーと、ピョートルをようするナルイシキンとの確執かくしつふかまっていった。

1682ねん4がつフョードルがぬと、障害しょうがいのある同母どうぼおとうとイヴァン忌避きひされ、異母弟いぼていである10さいピョートル1せいいだ。ははナターリアが摂政せっしょうとなり、養父やぶマトヴェーエフの流罪るざいいて顧問こもんとした。しかし同年どうねん5がつじゅう兵隊へいたい反乱はんらん発生はっせいし、ナターリアの摂政せっしょう政府せいふ崩壊ほうかいした。彼女かのじょ2人ふたり兄弟きょうだいとマトヴェーエフはころされ、実父じっぷキリルは修道院しゅうどういんはいった。このじょうじて政権せいけん奪回だっかいしたミロラフスキーは13さいイヴァン5せいをツァーリとし、ピョートルはその共同きょうどう統治とうちしゃ格下かくさげされた。イヴァンのあねソフィヤあらたに摂政せっしょう政府せいふ組織そしきした。

実権じっけんうしなったナターリアは2人ふたり子供こどもれて、モスクワ近郊きんこうのプレオブラジェンスコエにあるなつ離宮りきゅうきょかまえた。生活せいかつ経済けいざいてきくるしく、支持しじしゃであったモスクワそう主教しゅきょうヨアキムなど正教会せいきょうかい有力ゆうりょくしゃからの援助えんじょけていたという。1689ねんソフィヤが失脚しっきゃくし、ピョートルがあらたな統治とうちしゃとしてクレムリンむかえられた。ナターリアはこれによって実権じっけん回復かいふくし、外務がいむ長官ちょうかん事実じじつじょう宰相さいしょう)ににんじた兄弟きょうだいレフ・ナルイシキンととも国政こくせい運営うんえいした。またそう主教しゅきょうヨアキムもしん政府せいふ協力きょうりょくしたが、ヨアキムは1690ねん死去しきょした。ピョートルは後任こうにんに、海外かいがい渡航とこう経験けいけんをもちすうヶ国かこくあやつプスコフ主教しゅきょうマルケルスをしたが、ナタリヤは宮廷きゅうていない守旧しゅきゅうむすんで頑迷がんめいカザン主教しゅきょうアドリアンをそう主教しゅきょうとした。ナターリアは1694ねん2がつに2日間にちかんゆかした直後ちょくご急死きゅうしし、ピョートルが親政しんせい開始かいしした。

子女しじょ[編集へんしゅう]

じゅう兵隊へいたい反乱はんらん
  • ピョートル1せい(1672ねん - 1725ねん) - 1721ねん皇帝こうてい(インペラトル)の地位ちいについた。
  • ナターリア・アレクセーエヴナ(1673ねん - 1716ねん) - ロシアはつ国家こっか劇場げきじょう設立せつりつし、みずかすうおおくの戯曲ぎきょく執筆しっぴつした。あにピョートルは彼女かのじょ結婚けっこんさせず、生涯しょうがい独身どくしんだった。
  • フョードラ・アレクセーエヴナ(1674ねん - 1677ねん夭折ようせつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 相田あいだ「ハンマーをふるう帝王ていおう」(1975)p.284

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]