(Translated by https://www.hiragana.jp/)
日本ハリストス正教会 - Wikipedia コンテンツにスキップ

日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
キリスト教きりすときょう > 東方とうほう教会きょうかい > 正教会せいきょうかい > 日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい
日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい
主教しゅきょうのあるニコライどう東京とうきょう千代田ちよだ神田かんだ駿河台するがだい)。正式せいしき名称めいしょう東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう現在げんざい姿すがた関東大震災かんとうだいしんさいによる上部じょうぶドームと鐘楼しゅろう崩壊ほうかい1929ねん再建さいけんされたもの。日本にっぽんにおける代表だいひょうてきビザンティン建築けんちく首都しゅとけんおおくの正教会せいきょうかい信徒しんとつど教会きょうかいである。
創設そうせつしゃ 使徒しとニコライ
自治じち教会きょうかい承認しょうにん 1970ねんモスクワそう主教しゅきょうちょうアメリカ正教会せいきょうかいによる承認しょうにん、ただしコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう承認しょうにんせず[注釈ちゅうしゃく 1]
現在げんざい首座しゅざ主教しゅきょう セラフィムつじえいのぼる[1]
主教しゅきょうちょう所在地しょざいち 東京とうきょう
おも管轄かんかつ 日本にっぽん
たてまつかみあや言語げんご 日本語にほんご文語ぶんごたい
聖歌せいか伝統でんとう ロシア聖歌せいかほか
こよみ ユリウスれき
概算がいさん信徒しんとすう 9,249にん(2021ねん12月31にち現在げんざい)[2]
公式こうしきページ 日本にっぽん正教会せいきょうかいホームページ
テンプレートを表示ひょうじ
函館はこだてハリストス正教会せいきょうかい
復活ふっかつ聖堂せいどう
豊橋とよはしハリストス正教会せいきょうかい
せい使徒しと福音ふくいん記者きしゃせいマトフェイ聖堂せいどう

(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教きりすときょう教会きょうかい自治じち独立どくりつみとめられている正教会せいきょうかい所属しょぞく教会きょうかいのひとつである。ハリストスは「キリスト」の(こうした独自どくじ表記ひょうき翻訳ほんやくについては後述こうじゅつする)。英語えいご表記ひょうきは"Orthodox Church in Japan"である(略号りゃくごうOCJ[注釈ちゅうしゃく 2]

通称つうしょう略称りゃくしょうとして日本にっぽん正教会せいきょうかいともばれる。1970ねん以前いぜん自治じち正教会せいきょうかいとなっていなかったころにも、日本にっぽん正教会せいきょうかい日本人にっぽんじんせい教徒きょうとおよびロシアじんせい教徒きょうとから「日本にっぽん正教会せいきょうかい」とばれていた[3]

正教会せいきょうかいいちカ国かこくひとつの教会きょうかい組織そしきくことが原則げんそくだが(日本にっぽん正教会せいきょうかい以外いがいれいとしてはギリシャ正教会せいきょうかいロシア正教会せいきょうかいルーマニア正教会せいきょうかいなど。もちろん例外れいがいもある)、これら各国かっこくごとの正教会せいきょうかいことなる教義きょうぎ信奉しんぽうしているわけではなく、おな信仰しんこうゆうしている[4]

19世紀せいき後半こうはん明治めいじ時代じだい)に、ロシア正教会せいきょうかい修道しゅうどう司祭しさいひじりニコライ(のち初代しょだい日本にっぽんだい主教しゅきょう)によって正教せいきょうおしえがもたらされ、これがその日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい設立せつりつにつながった。ひじりニコライによって建立こんりゅうされたニコライどう東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう)、函館はこだて復活ふっかつ聖堂せいどう豊橋とよはしせい使徒しと福音ふくいん記者きしゃマトフェイ聖堂せいどう京都きょうと生神うるかみおんな福音ふくいん聖堂せいどうは、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい

ほんこうでは日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいもちいられている用語ようごことわりなくもちいることがある。

現況げんきょう

[編集へんしゅう]

日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい信者しんじゃは1まんにんほどである[5]。ほとんどの信者しんじゃ日本人にっぽんじんであるが、日本にっぽん在住ざいじゅうする外国がいこくじん信徒しんと都市としなどでは見受みうけられる。

ウクライナ紛争ふんそう背景はいけいとする「モスクワとコンスタンティノープルの断交だんこう」がきた2019ねん以降いこう日本にっぽん正教会せいきょうかい新生しんせいウクライナ正教会せいきょうかい承認しょうにんするコンスタンチノープルそう主教しゅきょうちょうアレクサンドリアそう主教しゅきょうちょう、ギリシャおよびキプロスの正教会せいきょうかい[よう出典しゅってん]断交だんこう状態じょうたいにある。これは、はは教会きょうかいたるロシア正教会せいきょうかい決定けっていしたがったものである[6][信頼しんらいせいよう検証けんしょう]アンティオキアそう主教しゅきょうちょうエルサレムそう主教しゅきょうちょうなど新生しんせいウクライナ正教会せいきょうかい承認しょうにん保留ほりゅうしているぜん世界せかい正教会せいきょうかいとは依然いぜんフル・コミュニオンの関係かんけいにある。

組織そしき

[編集へんしゅう]
正教会せいきょうかい教会きょうかい機構きこう図解ずかい

東京とうきょうだいぬし教区きょうくだい主教しゅきょう東京とうきょう)、東日本ひがしにっぽん主教しゅきょう主教しゅきょう仙台せんだい)、西日本にしにほん主教しゅきょう主教しゅきょう京都きょうと)の3主教しゅきょうからなる。東京とうきょうだい主教しゅきょう同時どうじ日本にっぽん主教しゅきょうね、日本にっぽん教会きょうかいのいわば本山ほんざんにあたる。

2023ねん10がつ現在げんざいの「東京とうきょうだい主教しゅきょう全日本ぜんにほん主教しゅきょう」はセラフィムつじえいのぼる[7]

日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい1970ねん以降いこうロシア正教会せいきょうかい庇護ひご自治じち正教会せいきょうかい地位ちいにある。これはおなじくロシア正教会せいきょうかい系列けいれつにあるウクライナ正教会せいきょうかいとほぼ同格どうかくとされる地位ちいであり、首座しゅざ主教しゅきょうたる主教しゅきょう承認しょうにんモスクワそう主教しゅきょうおこなうほかは、国内こくない教会きょうかい指導しどう管轄かんかつにつき、完全かんぜん自律じりつ自治じちおこなっており、財政ざいせいめんでもロシア正教会せいきょうかいから完全かんぜん独立どくりつしている。

たてまつかみあやでの祈祷きとうぶんはごく一部いちぶ例外れいがい主教しゅきょう祝福しゅくふくたいする答礼とうれい言葉ことば「イス・ポラ・エティ・デスポタ[注釈ちゅうしゃく 3]」や、一部いちぶ教会きょうかいスラヴ聖歌せいかなど)をのぞ日本語にほんごである。たてまつかみあやにおいては日本にっぽん正教会せいきょうかいやく聖書せいしょという独自どくじ翻訳ほんやく聖書せいしょもちいる(後述こうじゅつ)。

神品しんぴん正教会せいきょうかい聖職せいしょくしゃ)のほとんどは日本人にっぽんじんであり、日本にっぽん正教会せいきょうかいはロシアから宣教せんきょうされたにもかかわらず、その歴史れきし当初とうしょから現在げんざいいたるまで一貫いっかんして、ロシアじん神品しんぴんかずすくない[8]

教会きょうかい分布ぶんぷると、日本にっぽん正教会せいきょうかい草創そうそう仙台せんだい人士じんし活躍かつやくしたこともあって、東北とうほく太平洋たいへいようきし海運かいうん拠点きょてんみなとである石巻いしのまき流通りゅうつう関連かんれん地域ちいき河川かせん流通りゅうつう:北上川きたかみがわ流域りゅういき海運かいうん:三陸海岸さんりくかいがん)を中心ちゅうしんとしたきゅう仙台せんだいはんりょう宮城みやぎけん北部ほくぶから岩手いわてけん南部なんぶ)におおくの教会きょうかいがある。また、北関東きたかんとう両毛りょうけ地区ちくにもやや密集みっしゅうがある。全体ぜんたいてきには東日本ひがしにっぽん太平洋たいへいようがわおおくの教会きょうかい分布ぶんぷしているが、きた北海道ほっかいどうみなみ鹿児島かごしまいたるまで全国ぜんこくてきにも展開てんかいしている[9]現在げんざい聖堂せいどうないし会堂かいどうたない教会きょうかいふくめて、日本にっぽん全国ぜんこくに60あまりの教会きょうかいがある。

東京とうきょう本駒込ほんこまごめ目黒めぐろとに、モスクワそう主教しゅきょうちょう駐日ちゅうにちポドヴォリエ聖堂せいどうがあるが、これはロシア正教会せいきょうかい直属ちょくぞくするものであり、日本にっぽん正教会せいきょうかい所属しょぞく教会きょうかいではない。ちゅうにちポドヴォリエではロシアけいさんいのりしゃおおいこともありたてまつかみあや教会きょうかいスラヴ中心ちゅうしんおこなわれているが、若干じゃっかん日本人にっぽんじん信徒しんとのために日本語にほんご一部いちぶもちいられる。

日本にっぽん全国ぜんこくおも聖堂せいどう

[編集へんしゅう]
京都きょうとハリストス正教会せいきょうかい
生神うるかみおんな福音ふくいん聖堂せいどう

過去かこ存在そんざいしたおも聖堂せいどう

[編集へんしゅう]
  • 松山まつやまハリストス正教会せいきょうかいひじりニコライ聖堂せいどう) - 1908ねん明治めいじ41ねん松山まつやま一番町いちばんちょうひらけきょう関東大震災かんとうだいしんさい損壊そんかいした東京とうきょうニコライどう再建さいけんのため、建物たてもの1924ねん大正たいしょう13ねん)に解体かいたい移築いちくされ、松山まつやまでの伝道でんどうは1927ねん昭和しょうわ2ねん)に終了しゅうりょうせいさわ大阪おおさか、シャンデリアはきた鹿しかうつされた[12]

聖堂せいどう内部ないぶ特色とくしょく考証こうしょうじょう注意ちゅうい

[編集へんしゅう]
鹿沼かぬまハリストス正教会せいきょうかい聖堂せいどう内部ないぶ正面しょうめんイコノスタシス

ロシアけい正教会せいきょうかい伝統でんとう継承けいしょうしているため、日本にっぽん正教会せいきょうかい聖堂せいどうないには長椅子ながいすがほとんど使用しようされていない。身体しんたい障害しょうがいとう事情じじょうがないかぎり、正教会せいきょうかいたてまつかみあや復活ふっかつ象徴しょうちょうする姿勢しせいとしてっておこなうことが基本きほんであるためである。長椅子ながいすではない椅子いす若干じゃっかんすういてあったり壁際かべぎわ長椅子ながいすがわずかにかれていたりすることもあるが、おおくは高齢こうれいしゃのためのものであり、まいりいのりしゃおお聖堂せいどう混雑こんざつするさいにはほとんどが片付かたづけられるかりたたまれるかされることがおおい。

一方いっぽう、ギリシャけい正教会せいきょうかいやアメリカの正教会せいきょうかいには椅子いす長椅子ながいすかれていることがおおい(れいギリシャテッサロニキせいデメトリオス(ディミトリオス)聖堂せいどう)。しかしこのような事例じれいでも、本格ほんかくてきイコノスタシスがそなえられていることがおおいために、ほとんどの場合ばあい西方せいほう教会きょうかい内観ないかんとはかなりことなった景観けいかんていしていることに注意ちゅうい必要ひつようである。また長椅子ながいすいてある地域ちいき教会きょうかいであっても、西方せいほう教会きょうかいよりは圧倒的あっとうてきまいりいのりしゃ起立きりつ姿勢しせい維持いじする時間じかんながい。

まれにロシアけい正教会せいきょうかい、そのながれを日本にっぽん正教会せいきょうかい内観ないかんに、長椅子ながいすとカトリック教会きょうかいのような祭壇さいだん設定せっていし、西方せいほう教会きょうかいとほとんどことならない情景じょうけい描写びょうしゃおこな各種かくしゅ映像えいぞう画像がぞう媒体ばいたい映画えいが漫画まんがなど)があるが、こうした表現ひょうげんには初歩しょほてき考証こうしょうけているとえる。日本にっぽん正教会せいきょうかいアメリカ正教会せいきょうかいなど、ロシアけい伝統でんとう正教会せいきょうかい聖堂せいどう描写びょうしゃするにさいしては、西方せいほう教会きょうかいおおきくことなる内観ないかんおおくの正教会せいきょうかい聖堂せいどうゆうしていることに留意りゅういして考証こうしょうおこな必要ひつようがある。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだい

[編集へんしゅう]
使徒しとひじりニコライパナギアくびからさげ、クロブークこうむり、リヤサ着用ちゃくようしている。

明治めいじ時代じだい日本にっぽん正教会せいきょうかい[注釈ちゅうしゃく 4]は、日本にっぽん正教せいきょう伝道でんどうしたニコライ・カサートキンおおくをっている。しくもニコライ・カサートキンは明治めいじ最後さいごとしである明治めいじ45ねん1912ねん)に永眠えいみんしており、明治めいじ時代じだい日本にっぽん正教会せいきょうかいつねにニコライ・カサートキンとともにあったことになる。

伝道でんどう基本きほん方針ほうしん日本にっぽん情況じょうきょう

[編集へんしゅう]

当初とうしょからニコライは「日本人にっぽんじんへの伝道でんどう」をこころざして修道しゅうどう司祭しさいとなっており、活動かつどう領事館りょうじかん司祭しさいわくにとどめるかんがえはなかった。ニコライは日本語にほんご熱心ねっしんまなび、日本人にっぽんじん対象たいしょうとする布教ふきょう積極せっきょくてきった。派遣はけんした19世紀せいき後半こうはん、および20世紀せいき初頭しょとう開明かいめいてきロシア正教会せいきょうかい上層じょうそうもまた同様どうようかんがえであり、「在日ざいにちロシアじんのための教会きょうかい」を建設けんせつするのではなく「日本人にっぽんじんによる正教会せいきょうかい」の建設けんせつ目指めざされることとなった。この基本きほん方針ほうしんはそののニコライの様々さまざま行動こうどう一貫いっかんしている[13]

日本語にほんごたてまつかみあやもちいる現在げんざい日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい姿すがたは、現地げんち言語げんご大事だいじにする正教会せいきょうかい伝統でんとうと、ニコライや日本人にっぽんじんでんきょうしゃ伝道でんどうたずさわった人々ひとびと機関きかん方針ほうしん延長線えんちょうせんじょう位置いちづけられるものであり、正教会せいきょうかい古代こだいから近世きんせいいたるまでの伝統でんとうきん現代げんだいにおいてむす過程かていであったといえる。

明治めいじ時代じだい日本にっぽんにおける、西欧せいおう文明ぶんめい近代きんだいへの学習がくしゅうねつ利用りようすることができたキリスト教きりすときょうほか教派きょうは西方せいほう教会きょうかい)にくらべ、文明ぶんめいまな対象たいしょうとはされていなかったロシアからたニコライと、近代きんだい合理ごうり主義しゅぎ影響えいきょううす正教会せいきょうかいにはおおきなハンデがされており(現在げんざいでこそ近代きんだい合理ごうり主義しゅぎ見直みなおしの観点かんてんから正教せいきょう評価ひょうかされる機会きかいもあるが、当時とうじはこうした事情じじょうはハンデであった[14])、本国ほんごくロシアの理解りかいから支援しえんとどこおりがちであったが、伝道でんどうにあたってはニコライが育成いくせいした日本人にっぽんじん信徒しんと主体しゅたいとなって教会きょうかいささつづけた[15]

伝道でんどうのはじめ

[編集へんしゅう]
パウェル沢辺さわべ琢磨たくま

1868ねん明治めいじ元年がんねん)、はこかん(北海道ほっかいどう函館はこだて)でさんにん日本人にっぽんじん信徒しんとになったのがはじめ。はこかん当時とうじ外国がいこくじん公開こうかいされていたみなとのひとつであり、帝政ていせいロシアの領事館りょうじかんかれていた。キリストきょうはまだ禁止きんしされていたが、領事館りょうじかん附属ふぞく礼拝れいはいどうづけ司祭しさいであるニコライを沢辺さわべ琢磨たくま酒井さかいあつしれい浦野うらの太蔵たぞうさんにん秘密ひみつうらおとずれ、1868ねん教理きょうりまな洗礼せんれいけるにいたった(のち沢辺さわべはつ日本人にっぽんじん司祭しさいとなり、酒井さかい司祭しさいになる。浦野うらの医師いしとなり曹洞宗そうとうしゅう改宗かいしゅう[16])。

最初さいしょ日本人にっぽんじん信徒しんとのうち、沢辺さわべ琢磨たくまはニコライのもとをおとずれた当初とうしょ、「『異国いこく邪教じゃきょうひろめるもの』をろう」としていたようである。だがニコライの説諭せつゆき、正教せいきょうおしえをけるにおよんで正教せいきょう信仰しんこうれるにいたった。この経緯けいい使徒しとパウロ(スラヴみ:パウェル)になぞらえて「パウェル」の聖名せなあたえられた。

東京とうきょう拠点きょてんとしたきょうぜい拡大かくだい

[編集へんしゅう]
建立こんりゅう当初とうしょニコライどう

函館はこだてでしばらく宣教せんきょうおこなっていたが東京とうきょうでの宣教せんきょう切望せつぼうしていたニコライは、のちに修道しゅうどう司祭しさいアナトリイが函館はこだて着任ちゃくにんすると函館はこだてをアナトリイにまかせ、上京じょうきょう1872ねん神田駿河台かんだするがだい土地とち2300つぼい、宣教せんきょう拠点きょてんとした。1874ねん5月には布教ふきょう会議かいぎ東京とうきょう開催かいさいする。神田かんだには神学校しんがっこうもうけた。1880ねんにはニコライは主教しゅきょうじょきよしされ、ここからニコライは司祭しさい輔祭をロシア正教会せいきょうかいから派遣はけんされる主教しゅきょうたずにじょひじりすることができるようになり、日本人にっぽんじん神品しんぴん増加ぞうか環境かんきょうととのった。1891ねんにはだい聖堂せいどう東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう通称つうしょうニコライどう)を建設けんせつし、ここを布教ふきょう根拠こんきょとした。布教ふきょう範囲はんい全国ぜんこくおよんだが、東北とうほく地方ちほうでの浸透しんとういちじるしい。ニコライは日本にっぽん寺院じいん檀家だんか制度せいどのような、一村いちむらまるごとを改宗かいしゅうさせるという手法しゅほうで、着実ちゃくじつ布教ふきょうすすめていった。

山下やましたりん(26さいごろ
北鹿ハリストス正教会(秋田県大館市)1892年の竣工時にあわせて山下りんによるイコンが装架された。イコンは作者30代半ばの制作意欲が旺盛な時期の作品である。
きた鹿しかハリストス正教会せいきょうかい秋田あきたけん大館おおだて)1892ねん竣工しゅんこうにあわせて山下やましたりんによるイコンそうされた。イコンは作者さくしゃ30だいなかばの制作せいさく意欲いよく旺盛おうせい時期じき作品さくひんである。
松山まつやまハリストス正教会せいきょうかいひじりニコライ聖堂せいどう)。1924ねん東京とうきょう移築いちくされている。

出版しゅっぱん事業じぎょうおもきをいたニコライにより、各種かくしゅ祈祷きとうしょ聖歌せいか日本語にほんご活発かっぱつ翻訳ほんやくされていった。1882ねん帰国きこくしたイリナ山下やましたりんにより各地かくち聖堂せいどうのイコンがえがかれていった。また日本にっぽん着任ちゃくにんしていた修道しゅうどう司祭しさいアナトリイのおいでもありピアノ・チェロの奏者そうしゃでもあったヤコフ・チハイ同年どうねんごろ来日らいにちし、聖歌せいか教師きょうしとして聖歌せいか普及ふきゅうつとめた。ヤコフ・チハイの弟子でしには小原おはらきのえ三郎さぶろうインノケンティ金須きんす嘉之よしゆきすすむ(きす・よしのしん)、東海林しょうじ重吉しげよしなどがあり、ヤコフ・チハイとともに聖歌せいか指揮しき聖歌せいか翻訳ほんやく作曲さっきょく従事じゅうじした。どう時期じき活躍かつやくした聖歌せいか指揮しきしゃとしてディミトリィ・リオフスキィがいる。正教会せいきょうかい急速きゅうそくきょうぜい拡大かくだいしていった。

明治めいじ時代じだい、ロシアじん伝道でんどう従事じゅうじしゃすくなかったこと(明治めいじ時代じだい一貫いっかんして、ロシアじん神品しんぴん日本にっぽん全国ぜんこくでも4にんえることはなかった)をかんがえれば、驚異きょういてき宣教せんきょう成果せいかであった。最盛さいせいには100にんえていた日本人にっぽんじんつてきょうしゃ神品しんぴんではないが専従せんじゅうしょく伝道でんどう担当たんとうしゃ)をはじめとする日本人にっぽんじんきょう役者やくしゃ伝道でんどうかくになってきたとひじりニコライは1910ねんべている。どう時代じだいのロシアじん司祭しさいからも1880年代ねんだいのペテルブルク主教しゅきょう宣教せんきょう委員いいんかい総会そうかいで、日本にっぽんでの伝道でんどう成果せいか日本人にっぽんじんでんきょうしゃたちによるものであるとする報告ほうこくがなされていた[17]

明治めいじ中期ちゅうき以降いこうたい感情かんじょう悪化あっかなか

[編集へんしゅう]

大津おおつ事件じけんにみられるように日本にっぽんたい感情かんじょう悪化あっかしていくなかロシア正教会せいきょうかいから伝道でんどうされた日本にっぽん正教会せいきょうかいもまた各地かくち迫害はくがいけた。

大津おおつ事件じけんさい、ニコライ主教しゅきょう襲撃しゅうげきされたロシア皇太子こうたいし(のちのニコライ2せい)を輔祭河村かわむら伊蔵いぞうともなって見舞みまい、ロシア皇太子こうたいしたいにち感情かんじょう緩和かんわつとめ、この危機ききにあたって日本にっぽん戦争せんそうしないようにくれぐれもちち皇帝こうていつたえるようねがった。ニコライが日本にっぽん政府せいふないおおくの知己ちきていたこととあわせて、このことはロシアじんであるにもかかわらず個人こじんとしてのニコライは日本にっぽん政府せいふからおおむね信頼しんらい結果けっかとなった[18]

しかしながら日本にっぽん正教会せいきょうかい全体ぜんたい状況じょうきょうきびしさはわらなかった。日本人にっぽんじんせい教徒きょうとたち各地かくちロシア帝国ていこくのスパイであるとの嫌疑けんぎをかけられ、住居じゅうきょからの追放ついほうや、神父しんぷへの襲撃しゅうげき墓石はかいし教会きょうかい建物たてもの破壊はかい行為こうい各地かくちこった[19]

正教せいきょうがわは、正教せいきょうはロシア専有せんゆう宗教しゅうきょうではなく世界せかいせい公使こうし教会きょうかいであると主張しゅちょうしていたが(これは世界せかい正教会せいきょうかい共通きょうつうする見解けんかい[20])、世間せけんからは「きょう」と誤解ごかいするきが根強ねづよかった。1894ねんギリシャ正教会せいきょうかいのディオニシオスだい主教しゅきょう来日らいにちしてニコライ主教しゅきょう日本人にっぽんじん信徒しんとともにたてまつかみあやおこなったことを、「(ギリシャ正教せいきょうだい主教しゅきょうとニコライ主教しゅきょうと)わが日本にっぽん正教会せいきょうかい信徒しんと一堂いちどううちにて同一どういつ信仰しんこうたもち、同一どういつたてまつかみれい執行しっこうし、いちおもなるかみたたえうつくし、わが正教会せいきょうかい信仰しんこうたてまつかみあやとはギリシャ正教会せいきょうかいのそれと同一どういつであって、世界せかいいたるところの正教会せいきょうかいひじりにしておおやけたる使徒しと伝来でんらい基督教きりすときょうかいいちえだであることを如実にょじつ証明しょうめいた」としるし、「正教会せいきょうかいこうむっていた冤罪えんざいそそぐべき好機こうきかい」であったとしるしたちょう司祭しさい三井みつい道郎みちお回想かいそう一節いっせつにも、当時とうじ日本にっぽん正教会せいきょうかいかれた状況じょうきょう垣間見かいまみえる[21]

にち戦争せんそうからニコライの晩年ばんねんまで

[編集へんしゅう]

1904ねんにち戦争せんそう開戦かいせん。このときニコライは日本人にっぽんじん信徒しんとたちから懇請こんせいけ、在日ざいにちロシアじんたちによるとも帰国きこくすることのすすめをって日本にっぽんにとどまり、苦難くなんしたにあった日本人にっぽんじんせい教徒きょうとたち激励げきれいつづけた。ニコライは内面ないめんでは、度重たびかさなるロシアぐん惨敗ざんぱいらせと停滞ていたいする祖国そこくロシア帝国ていこく姿すがたに、みずからの日記にっきにおいて苦悩くのう吐露とろし、ニコライどうたてまつかみあやからも主教しゅきょう祈祷きとうから退しりぞいているが[22]、それでもニコライは信徒しんとたちには「諸君しょくん皇軍こうぐんのためにいのれ」と指導しどうし、あくまで日本人にっぽんじん指導しどうしゃ日本にっぽん正教会せいきょうかい主教しゅきょうという姿すがたつらぬとおすことになる。

他方たほう日本にっぽん正教会せいきょうかいはロシアじん捕虜ほりょのケアをおこない、「日本人にっぽんじんのための日本にっぽん正教会せいきょうかい」が「日本人にっぽんじんのためだけの日本にっぽん正教会せいきょうかい」ではないことを行動こうどうしめした[23]

だがニコライが個人こじんてき信頼しんらい日本にっぽん政府せいふないていようと、そして日本にっぽん正教会せいきょうかい日本にっぽん政府せいふ協力きょうりょくしてロシアじん捕虜ほりょのケアをおこなおうと、はんてき機運きうん日本にっぽん正教会せいきょうかいにもけられていった。日比谷ひびや焼打やきうち事件じけんさいには東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどうとその関連かんれん施設しせつ暴徒ぼうと襲撃しゅうげきされるところであり、あわやをかけられるところであった[24]。このとき戒厳かいげんれいした出動しゅつどうした近衛このえへい護衛ごえいにより教会きょうかいかく施設しせつなんのがれた[25]

こうした逆境ぎゃっきょうにもかかわらず、1911ねん、ニコライがだい主教しゅきょう昇叙しょうじょ[注釈ちゅうしゃく 5]されたとしには、日本にっぽん正教会せいきょうかいきょうぜい教会きょうかいすう265箇所かしょ信徒しんとすう31,984めい神品しんぴんすう41めい聖歌せいかたい指揮しきしゃ15めいつてきょうしゃ121めいたっした。これは当時とうじ日本にっぽんにあってカトリック教会きょうかい規模きぼであった。

明治めいじ最後さいごとし1912ねんだい主教しゅきょうニコライは永眠えいみん、76さいであった。このとき明治天皇めいじてんのうから恩賜おんし花輪はなわあたえられた。外国がいこくじん宣教師せんきょうし葬儀そうぎさいしてとき天皇てんのうから花輪はなわあたえられるのは異例いれいのことであった。

大正たいしょう昭和しょうわ時代じだい

[編集へんしゅう]
斜里しゃりハリストス正教会せいきょうかい現在げんざい会堂かいどうである生神うるかみおんな福音ふくいん会堂かいどう遠景えんけい1912ねん大正たいしょう元年がんねん)にはじまる、日本にっぽん正教会せいきょうかいさいきた教会きょうかい北海道ほっかいどう斜里しゃりぐん斜里しゃりまち)である。げん会堂かいどう1979ねんてられた。

昭和しょうわ時代じだい世界せかい大戦たいせんとの関連かんれん日本にっぽんしょ教会きょうかい苦難くなん経験けいけんしており、日本にっぽん正教会せいきょうかいもその例外れいがいではなかった。しかし、にち戦争せんそう代表だいひょうされるにち関係かんけい悪化あっかと、日本にっぽんにおけるたい感情かんじょう悪化あっか、およびかみろん標榜ひょうぼうするロシア革命かくめい勃発ぼっぱつ、そしてはは教会きょうかいであるロシア正教会せいきょうかいだい規模きぼ弾圧だんあつくわえるソ連それん成立せいりつは、教派きょうはより相対そうたいてきながい20世紀せいき後半こうはんまでの苦難くなんという結果けっか日本にっぽん正教会せいきょうかいにもたらした。

ロシア革命かくめいによる混乱こんらん日本にっぽん正教会せいきょうかいにとどまらず、ロシア正教会せいきょうかい影響えいきょうにあった世界中せかいじゅう正教会せいきょうかいおよび、その残滓ざんしいま世界中せかいじゅう正教会せいきょうかい相互そうご関係かんけいにおける課題かだいのこしている。このような苦難くなん時代じだいつつも、日本にっぽんにおける正教せいきょう信仰しんこう途絶とだえることはなかった。

ロシア革命かくめいという激震げきしんのあおり

[編集へんしゅう]

かみろん標榜ひょうぼうするボリシェヴィキによって1917ねんにロシア革命かくめい勃発ぼっぱつソ連それん成立せいりつすると、1905ねん9月5にち締結ていけつされたポーツマス条約じょうやく以降いこう数次すうじにわたって更新こうしんされてきたにち協約きょうやくにみられるきわめてみじかにち協商きょうしょう時代じだいわりをげた。これ以降いこう1991ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいいたるまで、日本にっぽん正教会せいきょうかいは「はん感情かんじょう」のみならず「反共はんきょう感情かんじょう」にもさらされていくことになる。正教会せいきょうかい実際じっさいには共産きょうさん主義しゅぎ国家こっかからだい弾圧だんあつけている被害ひがいしゃであり、共産きょうさん主義しゅぎしゃはこぞって正教会せいきょうかいの「後進こうしんせい」を批判ひはんしており正教会せいきょうかい一切いっさい好意こういっていなかったにもかかわらず、日本にっぽん正教会せいきょうかいおよびその関係かんけいしゃは「おや容共ようきょう」というあらぬ嫌疑けんぎをかけられてしまうこととなった。この困難こんなん時期じき最初さいしょ直面ちょくめんしたのはだい主教しゅきょうニコライの後継こうけいしゃであったセルギイ・チホミーロフ主教しゅきょう(のち主教しゅきょう[注釈ちゅうしゃく 6]であった。

爆破ばくはされくずれゆく救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう

ロシア正教会せいきょうかいソ連それんではだい規模きぼ弾圧だんあつけており、ソロヴェツキー諸島しょとう修道院しゅうどういんぐんレーニン命令めいれい強制きょうせい収容しゅうようしょ転用てんようされ、救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう1931ねんスターリン命令めいれいでダイナマイト爆破ばくはされた。日本にっぽん正教会せいきょうかい初代しょだい京都きょうと主教しゅきょうつとめたペルミのせいアンドロニクは、めにされたうえ銃殺じゅうさつされるという特異とくい致命ちめいげたことでられている。1921ねんから1923ねんにかけてだけで、主教しゅきょう28にん妻帯さいたい司祭しさい2691にん修道しゅうどう1962にん修道しゅうどうおんな3447にん、その信徒しんと多数たすう処刑しょけいされたが[26]、1918ねんから1930ねんにかけてみれば、およそ4まん2せんにん聖職せいしょくしゃころされ、1930年代ねんだいにも3まんから3まん5せん司祭しさい銃殺じゅうさつもしくは投獄とうごくされた[27]1937ねん1938ねんには52にん主教しゅきょうのうち40にん銃殺じゅうさつされた[28]

これほどの弾圧だんあつがロシア正教会せいきょうかいくわえられつつも日本にっぽんにおける「ロシア=ソ連それん」という通俗つうぞくてき観念かんねんはぬぐいがたいものがあり、共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんによる被害ひがいしゃである正教会せいきょうかい通俗つうぞくてきには共産きょうさん主義しゅぎしゃ仲間なかまなされてしまうという、きわめて理不尽りふじん情況じょうきょうまれた。

またロシア革命かくめい以降いこう、ロシア正教会せいきょうかい共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんとの対峙たいじ交渉こうしょうおよ教会きょうかい維持いじのみで精一杯せいいっぱいとなり、他国たこく正教会せいきょうかい支援しえんする余裕よゆううしない、欧米おうべいをはじめとした各地かくち教会きょうかい組織そしき混乱こんらんこった。他国たこくこったこうした事情じじょう日本にっぽんとても例外れいがいではなく、はは教会きょうかいであるロシア正教会せいきょうかいからの日本にっぽん正教会せいきょうかいへの財政ざいせいてき支援しえん消滅しょうめつした。この時点じてんでの日本にっぽん正教会せいきょうかいはいまだ財政ざいせいてきにすぐに自立じりつできる状態じょうたいにはなく、給与きゅうよ支払しはらうことができなくなったおおくのつてきょうしゃ解雇かいこせざるをなくなり、きょうぜいおとろえた。いちれいとして、アレクセイ河野こうの次郎じろう熱心ねっしん支援しえんし、その息子むすこペトル河野こうの通勢つうせい長野ながの在住ざいじゅう時代じだいかよっていた長野ながのハリストス正教会せいきょうかい復活ふっかつ会堂かいどう1921ねん閉鎖へいさされたことがげられる[29]

なお、ロシア革命かくめいから日本にっぽんのがれてきたおおくのしろけいロシアじん日本にっぽん正教会せいきょうかいでの信仰しんこう生活せいかつくわわり、教会きょうかいによっては2009ねん現在げんざいいたるまで、一定いってい在日ざいにちロシアじんけいコミュニティを教会きょうかいない形成けいせいしている。とく東京とうきょうニコライどうと、神戸こうべハリストス正教会せいきょうかいにその傾向けいこう顕著けんちょである[30]

関東大震災かんとうだいしんさいとニコライどう再建さいけん

[編集へんしゅう]

[31]にち戦争せんそうおよびロシア革命かくめい余震よしんがまだおおきくつづなか日本にっぽん正教会せいきょうかい1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいニコライどう崩落ほうらく首都しゅとないのいくつかの聖堂せいどううしなうというきわめておおきな打撃だげきこうむった。関東大震災かんとうだいしんさい散逸さんいつもしくは焼失しょうしつしたとみられる史料しりょうおおく(大震災だいしんさいまえのニコライどうの、コンドルによる修正しゅうせいまえのミハイル・シチュールポフによるはら設計せっけいなど)、その損失そんしつはかれない。なお、大震災だいしんさい惨状さんじょうについてはペトル河野こうの通勢つうせいによる、ニコライどうふくめたスケッチ・どう版画はんがのこされている[32]

これほどの打撃だげきにもかかわらず、セルギイ・チホミーロフだい主教しゅきょう役職やくしょく当時とうじ)はよく日本にっぽん正教会せいきょうかいささえ、1929ねん、ニコライどう再建さいけんした[注釈ちゅうしゃく 7]再建さいけんにはセルギイだい主教しゅきょう全国ぜんこく行脚あんぎゃ甲斐かいもあってか千島ちしまから台湾たいわんいたるまでの信者しんじゃたちからの多額たがく献金けんきんがあり、これ以降いこう日本にっぽん正教会せいきょうかい財政ざいせいてき自立じりつしていく契機けいきひとつとなった。このとき海外かいがい正教会せいきょうかいからもニコライどう再建さいけんたいして多額たがく献金けんきんがあったこと、国内こくないにおいては信徒しんとたち以外いがいからもニコライどう文化ぶんかてき価値かち共鳴きょうめいした異教徒いきょうとたちからのすくなくない献金けんきんがあったことが、セルギイ・チホミーロフにより言及げんきゅうされている。

現在げんざいいたる、再建さいけんされたニコライどう姿すがた崩落ほうらくしたドームは形状けいじょうえて復興ふっこうされ、大震災だいしんさいたかかった鐘楼しゅろう倒壊とうかいしてドームを破壊はかいしたことをかんがみ、鐘楼しゅろうひくおさえられている。また、大震災だいしんさい火災かさい発生はっせいしたことを反省はんせいし、元々もともとすくなかった木造もくぞう部分ぶぶんもほとんど石造せきぞう変更へんこうされた。

だい聖堂せいどうなりひじりしき[注釈ちゅうしゃく 8]には全国ぜんこくから信者しんじゃ関係かんけいしゃあつまり、3せんにん以上いじょうあつまったとつたえられている。参加さんかしたきょう役者やくしゃかずは、だい主教しゅきょうセルギイとハルビン主教しゅきょうネストルをふく総勢そうぜい39めいであったと記録きろくされている。震災しんさい東京とうきょう復興ふっこう委員いいんかい代表だいひょうとなった中川なかがわのぞむもと大阪おおさか府知事ふちじ)も式典しきてん参加さんかしていたが、かれせい教徒きょうとであった。

またせい公会こうかい主教しゅきょうジョン・マキム博士はかせ祭服さいふく着用ちゃくよううえ参加さんかした[33]

ロシア革命かくめい以降いこう停滞ていたい余儀よぎなくされていた日本にっぽん正教会せいきょうかいたいし、神学しんがく教育きょういくとうめん協力きょうりょくしていたのは日本にっぽんせい公会こうかいであった。20世紀せいき前半ぜんはん日本にっぽん正教会せいきょうかい日本にっぽんせい公会こうかいあいだには比較的ひかくてき友好ゆうこうてき協力きょうりょく関係かんけいがあった。「りょう教会きょうかいとも、ローマ教皇きょうこう教皇きょうこう首位しゅいけん否定ひていてきでありつつ、ある程度ていど伝統でんとうてき教会きょうかいである」「ロマノフあさハノーヴァーあさ縁戚えんせき関係かんけいとう要因よういんにより、世界せかいてき正教会せいきょうかいきよし公会こうかい合同ごうどうへの機運きうんたかまっていたことも背景はいけいにあった。戦後せんごすぐの時期じきまでりょう教会きょうかい友好ゆうこうてき関係かんけいつづいていく。しかしながら20世紀せいき後半こうはんには世界せかいてきりょう教会きょうかい合同ごうどう気運きうん消滅しょうめつし、日本にっぽんにあってもりょう教会きょうかい協力きょうりょく関係かんけいはその継続けいぞくせず、2019ねん現在げんざいではりょう教会きょうかい関係かんけいとくふかいものではない(ただし対抗たいこう敵対てきたいでもない)。

はは教会きょうかいとの関係かんけい戦時せんじ邦人ほうじん主管しゅかんしゃ問題もんだい

[編集へんしゅう]

1931ねんだい主教しゅきょうセルギイは主教しゅきょう昇叙しょうじょされた。だがこのころから、日本にっぽん正教会せいきょうかいにはある動揺どうようひろがりつつあった。共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんした弾圧だんあつされその影響えいきょうにあるロシア正教会せいきょうかい意思いし決定けってい正当せいとうせいおよびその真贋しんがん疑義ぎぎ人々ひとびとすくなくないなか、モスクワそう主教しゅきょうちょうとの連絡れんらくたない主教しゅきょうセルギイにたいする疑問ぎもんこえがりつつあった。[34]

ソ連それん当局とうきょく監視かんしにあるモスクワそう主教しゅきょうちょうとの関係かんけいめぐり、見解けんかい差異さい教会きょうかいないしょうじて動揺どうようこるといった現象げんしょうは、西欧せいおう米国べいこくをはじめとしてぜん世界せかいてき各地かくち正教会せいきょうかいにほぼ例外れいがいなくみられたが、日本にっぽん正教会せいきょうかいもその例外れいがいではなく教会きょうかい亀裂きれつしょうじた。

問題もんだい複雑ふくざつになったのには国内こくない事情じじょうだけではなく、在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいというソ連それんからの亡命ぼうめいロシアじん中心ちゅうしんになって結成けっせいしたちいさくない教会きょうかい組織そしき1922ねん9月13にちセルビアスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) を中心ちゅうしん設立せつりつされ、モスクワとの対決たいけつ姿勢しせい鮮明せんめいにしていたことにも起因きいんしていた[注釈ちゅうしゃく 9]

セルギイ主教しゅきょう祭服さいふくかんそうした姿すがたニコライどううち撮影さつえいされていることから、セルギイが日本にっぽん主教しゅきょうから退しりぞまえ1940ねん9月よりまえ写真しゃしん推定すいていされる。

セルギイ・チホミーロフ主教しゅきょう1929ねん時点じてんでは母国ぼこくロシアでの共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめいふか嫌悪けんおかんかくさず、各種かくしゅ著述ちょじゅつでも痛烈つうれつ言辞げんじぜん否定ひていしているが、同時どうじ在外ざいがいロシア正教会せいきょうかい動向どうこうたいしても分派ぶんぱてきであるとして否定ひていてきであった[35]

またとしるにしたがって、主教しゅきょうセルギイはソ連それんした弾圧だんあつされるロシア正教会せいきょうかい状況じょうきょう認識にんしきあまさをせるようになった。ソ連それん当局とうきょくによる検閲けんえつとどくモスクワそう主教しゅきょうちょうからの手紙てがみ内容ないよう鵜呑うのみにし、実際じっさいにはソ連それんしたはげしく弾圧だんあつされるロシア正教会せいきょうかいが「正常せいじょうみちあゆんでいる」とまでべた、弾圧だんあつ実情じつじょうからかけはなれたものとなった主教しゅきょうセルギイの認識にんしき変化へんかは、1931ねんにはセルギイの説教せっきょうなどにもあらわれて巷間こうかんられるにいたった。こうしたセルギイの認識にんしき亡命ぼうめいロシアじんには到底とうていれられるものではなく、亡命ぼうめいロシアじんのみならずはん共産きょうさん主義しゅぎ気運きうんたかかった日本人にっぽんじん信徒しんとあいだからも広範こうはん反発はんぱつきるにいたった[36]

このような状況じょうきょうで、日本にっぽん政府せいふから日本人にっぽんじん主管しゅかんしゃえらぶよう圧力あつりょくたかまったとき日本にっぽん正教会せいきょうかいこうすべくもなかった。この時代じだいには日本にっぽん正教会せいきょうかいのみならず国内こくないすべての教会きょうかいなんらかの抑圧よくあつけており(日本にっぽんキリスト教きりすときょう#大正たいしょうから昭和しょうわ時代じだい参照さんしょう)、このてんでも日本にっぽん正教会せいきょうかい例外れいがいではありえなかった。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、セルギイ・チホミーロフ主教しゅきょう引退いんたい余儀よぎなくされ、後任こうにん人選じんせんめぐって紆余曲折うよきょくせつたのち、ニコライ小野おの帰一きいち主教しゅきょう日本にっぽん正教会せいきょうかい着座ちゃくざした。それでも当局とうきょくかんゆるむことなく、高齢こうれいのセルギイ・チホミーロフ主教しゅきょう1945ねん特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ逮捕たいほされ拷問ごうもんけ、やく1ヶ月かげつ拘留こうりゅうされた[37]釈放しゃくほうほどなくして、同年どうねん8がつ10日とおか終戦しゅうせん数日すうじつまえ主教しゅきょうセルギイは永眠えいみんした。拷問ごうもんによる衰弱すいじゃくだったといわれる。74さいであった。11にち遺骸いがいニコライどう安置あんちされ、2にち埋葬まいそうしきおこなわれた。牧島まきしま省三しょうぞう憲兵けんぺいたいとの交渉こうしょうにより、軽井沢かるいざわ方面ほうめん居住きょじゅうしていた在日ざいにちロシアじん許可きょか参列さんれつすることができた。その、セルギイ主教しゅきょう遺骸いがいは、谷中たになかのニコライ・カサートキンだい主教しゅきょうはかとなり埋葬まいそうされた。

戦後せんごから1970ねんまで

[編集へんしゅう]
静岡しずおかハリストス正教会せいきょうかい生神うるかみおんな庇護ひご聖堂せいどう夜景やけい1959ねん竣工しゅんこう

戦後せんごすぐ、日本にっぽん正教会せいきょうかい当局とうきょくあつりょくによってゆがめられた教会きょうかい秩序ちつじょ正常せいじょうしようとしたが、容易よういではなかった。GHQから、日本にっぽん正教会せいきょうかいソ連それん影響えいきょうにあるモスクワそう主教しゅきょうちょうではなく、のちにアメリカ正教会せいきょうかい発展はってんすることになる「北米ほくべいメトロポリア」と関係かんけいつよう指令しれいされたからである[37]。 1946ねん4がつ5にちから翌日よくじつにかけて日本にっぽん正教会せいきょうかい臨時りんじ公会こうかい開催かいさい。モスクワそう主教しゅきょう絶縁ぜつえんし、アメリカにある独立どくりつ自治じち教会きょうかいへの加盟かめい決定けっていした[38]

在外ざいがいロシア正教会せいきょうかい北米ほくべいメトロポリアのあいだ関係かんけいだい世界せかい大戦たいせん前後ぜんこう時期じきにこじれており、在外ざいがいロシア正教会せいきょうかいしたにあった主教しゅきょうじょひじりされ主教しゅきょう着任ちゃくにんしたニコライ小野おの主教しゅきょう立場たちば微妙びみょうなものとなった。また、それまであまり関係かんけいってこなかった北米ほくべいメトロポリアの指導しどうはいることについても日本にっぽん正教会せいきょうかい動揺どうようこり、この経緯けいいにおいて、ごく少数しょうすうではあったが、北米ほくべいメトロポリアの指導しどうはいらず、モスクワそう主教しゅきょうちょう直接ちょくせつ管轄かんかつけるグループが形成けいせいされた[37]

ぜん世界せかい正教会せいきょうかいにとってあたまいた存在そんざいであったソ連邦それんぽう存続そんぞくしていた以上いじょうソ連邦それんぽう影響えいきょうにあるロシア正教会せいきょうかいとの関係かんけいめぐしょ問題もんだい世界せかいてきぜん正教会せいきょうかい共通きょうつうしたものであり、上述じょうじゅつとお戦後せんごになっても日本にっぽん正教会せいきょうかい安寧あんねいおとずれることはなかった。

戦後せんごすぐから1970ねんまで、みずからの管轄かんかつとうしょ問題もんだいめぐって日本にっぽん正教会せいきょうかい動揺どうようおおきくつづく。この時代じだい日本にっぽん正教会せいきょうかい混乱こんらんきわめておおきく全国ぜんこく各地かくち正教会せいきょうかいおよんでおり、様相ようそうてんさんてんして複雑ふくざつである。その全貌ぜんぼう公平こうへい立場たちばから俯瞰ふかん記述きじゅつすることは、いまなおきわめて困難こんなんである。このあいだ日本にっぽんには北米ほくべいメトロポリアから主教しゅきょう派遣はけんされていた。

このような状態じょうたいにありながらも日本にっぽん正教会せいきょうかいたてまつかみあや継続けいぞくされ、しん聖堂せいどう建立こんりゅうあらたな聖歌せいか出版しゅっぱんなどもなされるなど一部いちぶでは依然いぜんとして活発かっぱつ教会きょうかい活動かつどう継続けいぞくしていたが、日本にっぽん国内こくない西方せいほう教会きょうかい戦後せんごすぐのころからきょうぜいおおきく拡大かくだいしていくなか、かつてカトリック教会きょうかいきょうぜいほこった正教会せいきょうかいきょうぜい拡大かくだいする機会きかいうしない、停滞ていたい余儀よぎなくされた。

ニコライ列聖れっせい自治じち教会きょうかい成立せいりつ-現在げんざい

[編集へんしゅう]

1970ねんいたり、モスクワそう主教しゅきょうちょう北米ほくべいメトロポリア、そして日本にっぽん正教会せいきょうかいとのあいだ合意ごういわされ、北米ほくべいメトロポリアはアメリカ正教会せいきょうかいとして独立どくりつ教会きょうかいとなり、モスクワと関係かんけい回復かいふくしたうえ日本にっぽん正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいとなった。ニコライ・カサートキンは使徒しととして列聖れっせいされた。この直前ちょくぜん(1969ねん9がつ)、経緯けいい説明せつめいのためにアレクサンドル・シュメーマン神父しんぷ来日らいにちしている[39]

若干じゃっかん混乱こんらんはいまだつづいていたものの、ここに日本にっぽん正教会せいきょうかい一応いちおう安定あんていした。ウラジミル・ナゴスキーが主教しゅきょう東京とうきょうだい主教しゅきょうに、フェオドシイ永島ながしま新二しんじ京都きょうと主教しゅきょうに、セラフィム・シグリストが仙台せんだい主教しゅきょう就任しゅうにんした。一方いっぽう、モスクワの直接ちょくせつ管轄かんかつにあったグループは「モスクワそう主教しゅきょうちょう駐日ちゅうにちポドヴォリエ」にさい編成へんせいされた。

ほどなくしてウラジミル・ナゴスキー主教しゅきょう引退いんたいすると、フェオドシイ永島ながしま新二しんじ主教しゅきょう就任しゅうにんなが日本にっぽん正教会せいきょうかい指導しどうにあたった。ことにフェオドシイ永島ながしま主教しゅきょうした日本にっぽん正教会せいきょうかいながらく懸案けんあんであった財政ざいせい基盤きばん安定あんていてきなものとすることに一定いってい程度ていど成功せいこうし、自治じち教会きょうかい相応ふさわしい内実ないじつととのえられていった。細々こまごまつづいていた出版しゅっぱん活動かつどう拡大かくだいはかられ、「どきけい」「だいときだい一週間奉事式略」とうさい発行はっこう、「おもたてまつことしき」「徹夜てつやいのり聖歌せいか)」「しょせい略伝りゃくでん」の発行はっこうとう日本にっぽん正教会せいきょうかい内部ないぶけにおこなわれ、外部がいぶけにはちょう司祭しさい高橋たかはし保行やすゆき高井たかい寿雄よしお川又かわまた一英いちえいなどにより活発かっぱつ著述ちょじゅつ活動かつどうおこなわれた。日本にっぽん正教会せいきょうかい歴史れきしについてはちょう司祭しさい牛丸うしまる康夫やすお教団きょうだんない研究けんきゅう史料しりょう整理せいりおおきな役割やくわりたした。

フェオドシイ主教しゅきょう永眠えいみんのち、2000ねん5がつ、モスクワそう主教しゅきょうアレクシイ2せい来日らいにちモスクワそう主教しゅきょう訪日ほうにち歴史れきしじょうはじめてのものである(ぎゃくえばロシア正教会せいきょうかい日本にっぽん正教会せいきょうかいはは教会きょうかいであるにもかかわらず、歴史れきしじょういちもモスクワそう主教しゅきょう来日らいにちがそれまでなかったことを意味いみし、使徒しとニコライ時代じだいから日本にっぽん正教会せいきょうかい日本人にっぽんじん主体しゅたい運営うんえいされてきたことがここにもしめされている)。

アレクシイ2せいは、函館はこだて東京とうきょう京都きょうとおとずれている。アレクシイ2せい京都きょうとでは京都きょうと正教会せいきょうかいのほか、二条城にじょうじょうおとずれた。東京とうきょうでは明仁あきひと天皇てんのう会談かいだん東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう(ニコライどうではアレクシイ2せいいのりのもと、ダニイルぬしだい郁夫いくお主教しゅきょうせんりつしきおよ首座しゅざ主教しゅきょう着座ちゃくざしき挙行きょこうされた。着座ちゃくざしきにはアレクシイ2せいそう主教しゅきょうとダニイルぬしだい主教しゅきょうのほかに、ロシア正教会せいきょうかい主教しゅきょう2人ふたりアメリカ正教会せいきょうかい主教しゅきょう2にん日本にっぽん正教会せいきょうかい主教しゅきょう1にん仙台せんだい主教しゅきょうセラフィムつじひさし)も参加さんかした。

東京とうきょうだい主教しゅきょうおよび全日本ぜんにほん主教しゅきょうダニイルぬしだい西日本にしにほん主教しゅきょう兼任けんにんしている。

現在げんざい、ダニイルぬしだい主教しゅきょうした伝道でんどう活動かつどう復興ふっこうはかられている。とくにダニイルぬしだい主教しゅきょう毎週まいしゅう日曜日にちようびみずからの執筆しっぴつによるトラクトを配布はいふし、数々かずかずのブックレットを発行はっこうするなどして、正教会せいきょうかい精神せいしんせいについての啓発けいはつちかられている。代表だいひょうてきなものに『せいかみ入門にゅうもん』(2005ねん日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん発行はっこう)、『せいディオニシオス・せいマキシム・しん神学しんがくしゃシメオン』、『せい師父しふのこころのあゆみ』がある。

モスクワそう主教しゅきょうちょう直接ちょくせつ管轄かんかつにあって日本にっぽん正教会せいきょうかい微妙びみょう関係かんけいにあったモスクワそう主教しゅきょうちょう駐日ちゅうにちポドヴォリエとの関係かんけいソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい、フェオドシイ永島ながしま主教しゅきょうによってポドヴォリエの聖堂せいどうなりきよしされるほどにまで関係かんけい改善かいぜんした。ダニイルぬしだい郁夫いくお主教しゅきょう日本にっぽん正教会せいきょうかい首座しゅざ主教しゅきょうわり、モスクワそう主教しゅきょうちょう駐日ちゅうにちポドヴォリエ管轄かんかつにある修道院しゅうどういんでダニイル主教しゅきょう参加さんかした聖体せいたい礼儀れいぎおこなわれ、2008ねん9月12にちには目黒めぐろしん聖堂せいどうであるひじり義徳よしのり大公たいこうアレクサンドル・ネフスキー聖堂せいどうなりひじりしきには、主教しゅきょうダニイルぬしだい郁夫いくお参加さんかした。

1970ねん以降いこう正教会せいきょうかいとの交流こうりゅう年表ねんぴょう

[編集へんしゅう]

この年表ねんぴょうしめしたもの以外いがいにも、とくはは教会きょうかいであるロシア正教会せいきょうかい中心ちゅうしん交流こうりゅうおこなわれている。

東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう教会きょうかい成立せいりつ

[編集へんしゅう]
おも降誕こうたん聖堂せいどう
荻窪おぎくぼ山手やまてハリストス正教会せいきょうかい

明治めいじ宣教せんきょう拡大かくだいから東京とうきょうにはいくつかの教会きょうかいかれていたが、明治めいじ時代じだいから大正たいしょう時代じだい昭和しょうわ初期しょきにかけて、さまざまな教会きょうかい設立せつりつされたり統廃合とうはいごうおこなわれたりするなどしていた。これらのかく教会きょうかい関東大震災かんとうだいしんさい戦災せんさいによる混乱こんらんともなった紆余曲折うよきょくせつのち都内とない教会きょうかい杉並すぎなみ現存げんそんする山手やまてハリストス正教会せいきょうかいほかは、ニコライどう東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう中心ちゅうしん連合れんごうした。ただし本格ほんかくてき組織そしきてき統合とうごうは1974ねんいたってからであり、このとし都内とない5つの教会きょうかい統合とうごうされて「中央ちゅうおう教会きょうかい」が発足ほっそくした(「ニコライどう」はだい聖堂せいどう通称つうしょうであり、教会きょうかいめいではない)。中央ちゅうおう教会きょうかいは1983ねんには「東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう教会きょうかい」と名称めいしょうえ、現在げんざいいたっている。2004ねんには「東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう教会きょうかい創立そうりつ30周年しゅうねん記念きねん式典しきてん」がおこなわれた。

宣教師せんきょうしニコライのぜん日記にっき刊行かんこう

[編集へんしゅう]

[41]使徒しとだい主教しゅきょうせいニコライとして列聖れっせいされたニコライ・カサートキンについて、その日記にっき存在そんざいしていたことそのものは日本にっぽん正教会せいきょうかい内部ないぶにもられていたものの、おそらく関東大震災かんとうだいしんさい散逸さんいつうしなわれたものとおもわれていた。ところが1979ねん9がつ中村なかむら健之けんしかいにより、レニングラードげんサンクトペテルブルク)の中央ちゅうおう国立こくりつ歴史れきし古文書こもんじょかん保管ほかんされていたひじりニコライの日記にっきすべてが発見はっけんされた。

2007ねん7がつ20日はつか日本語にほんご全訳ぜんやくばんきょうぶんかんより出版しゅっぱんされた。この出版しゅっぱんにあたっては日本にっぽん財団ざいだんから助成じょせいもなされた。

全国ぜんこく行脚あんぎゃしていたひじりニコライによる詳細しょうさい日記にっき記述きじゅつは、日本にっぽん正教会せいきょうかいあらたないちきゅう史料しりょう提供ていきょうするのみならず、全国ぜんこく各地かくちおとずれたひじりニコライによって観察かんさつされた各地かくち習俗しゅうぞくについての貴重きちょう記録きろくとなるものでもあると評価ひょうかされている。

関連かんれん設計せっけい監督かんとくしゃ系譜けいふ

[編集へんしゅう]

[42]1916ねん函館はこだてハリストス正教会せいきょうかい再建さいけんさい設計せっけい監督かんとくにあたったのは、輔祭(のち司祭しさい)として日本にっぽん正教会せいきょうかい奉職ほうしょくしていたモイセイ河村かわむら伊蔵いぞうである。河村かわむら豊橋とよはしハリストス正教会せいきょうかい設計せっけい監督かんとくにもたった。

モイセイ河村かわむら息子むすこであるうちすすむ建築けんちく本業ほんぎょうとし、金成かねなりハリストス正教会せいきょうかい小田原おだわらハリストス正教会せいきょうかいりょう聖堂せいどう、およびニコライどうイコノスタス設計せっけいかかわっている。

うちしん息子むすこであるガウリイルない昭蔵しょうぞう建築けんちくであり正教せいきょうのクリスチャンである。皇居こうきょ吹上御苑ふきあげぎょえんしん御所ごしょ世田谷せたがや美術館びじゅつかん浦添うらぞえ美術館びじゅつかんなどをがけた。著書ちょしょ『ロシアビザンチン 黄金おうごんたまきたずねて』(丸善まるぜん)は建築けんちくとしての視点してんせい教徒きょうととしての視点してん両方りょうほうから黄金おうごんたまきキエフサンクトペテルブルク存在そんざいする、おも正教会せいきょうかい聖堂せいどう中心ちゅうしんとしてロシア建築けんちく概観がいかんしていくというめずらしい書物しょもつである。埋葬まいそうしきニコライどう盛大せいだいおこなわれた。永眠えいみんのほぼ直前ちょくぜん時期じきに、ニコライどうのイコノスタスに新品しんぴんイコン献納けんのうしている。

世俗せぞくてき政治せいじ問題もんだいたいする姿勢しせい

[編集へんしゅう]

近年きんねん日本にっぽんキリスト教きりすときょうしょ教団きょうだんが「靖国やすくに問題もんだい」や「憲法けんぽう問題もんだい」など政治せいじ運動うんどう熱心ねっしんんでいるなか、信徒しんと個人こじんとしては大井おおい憲太郎けんたろうのぼり曙夢しょむなど政治せいじたずさわったものがいたものの、日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいしょ教団きょうだんとは一線いっせんかくして、正教会せいきょうかいという団体だんたいとしては政治せいじ運動うんどう一切いっさいかかわりをっていない。これについては「政治せいじてき中立ちゅうりつせいたもっている」という評価ひょうかから、「体制たいせい従属じゅうぞくてきである」という批判ひはんまでさまざまである[43]

ちなみに「体制たいせい従属じゅうぞくてきである」という批判ひはんこえがる一因いちいんとして、天皇てんのう為政者いせいしゃのためのいのりがあるが、このいのりは新約しんやく聖書せいしょなかテモテへの手紙てがみいちだい2しょうの「ねがいといのりとしと感謝かんしゃをすべての人々ひとびとのためにささげなさい。おうたちやすべての高官こうかんのためにもささげなさい」という記述きじゅつもとづくものとされる[44]

しょ外国がいこく正教会せいきょうかいでは君主くんしゅ為政者いせいしゃへのいのりをささげることはめずらしくない。イギリスの正教会せいきょうかいでは女王じょおうのためにいのりをささげ、またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは大統領だいとうりょうぜんぐんのためにいのりをささげることで、君主くんしゅ為政者いせいしゃ国軍こくぐん暴走ぼうそうをせず国民こくみん平和へいわ安寧あんねい秩序ちつじょのためになるようにとのねがいをつねめているとされる。日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいによる天皇てんのう為政者いせいしゃへのいのりも同様どうよう意義いぎをもつ。また、げん日本国にっぽんこく憲法けんぽうしたにおいて天皇てんのう地位ちい日本にっぽん国民こくみん統合とうごう象徴しょうちょうであることから、天皇てんのうへのいのりはすなわ日本にっぽん国民こくみん全体ぜんたいへのせいなるいのりであるとの意味合いみあいもめられているとされる。マ帝国まていこく時代じだいからオスマン帝国ていこくソビエト連邦れんぽうにおいて迫害はくがいけていた時期じきにも、「てきあいし、迫害はくがいするもののためにいのれ」(マタイによる福音ふくいんしょ5:44)の実践じっせんとして異教徒いきょうとである為政者いせいしゃのためのいのりを正教会せいきょうかいおこなってきたのであり、この観点かんてんから「てきのためのいのり」の実践じっせんであるとの見解けんかいもある[43]

なお、モスクワそう主教しゅきょうちょう管轄かんかつしている、ロシアじんウクライナじんなどの信徒しんとだい多数たすうである、本駒込ほんこまごめのロシア正教会せいきょうかいモスクワそう主教しゅきょうちょう駐日ちゅうにちポドヴォリエでも、れんいのりなどでロシアのくにのためのいのりのみならず、日本にっぽん天皇てんのうのためのいのりがおこなわれている。「そのくに象徴しょうちょう元首げんしゅのためにいのる」のは民族みんぞく主義しゅぎてき色彩しきさいや「体制たいせい迎合げいごう」では説明せつめいできない伝統でんとうであることがしめされている。

このほかに、海外かいがい軍隊ぐんたいおも東欧とうおう、またべいぐんにも)では正教せいきょう従軍じゅうぐん司祭しさい存在そんざいする。

聖書せいしょ祈祷きとうしょとうにみられる独自どくじ翻訳ほんやく用語ようご体系たいけい

[編集へんしゅう]

日本にっぽん正教会せいきょうかい

ひとし反映はんえいし、独特どくとく翻訳ほんやく用語ようご体系たいけいつくげるにいたった。聖書せいしょ翻訳ほんやくのみならず、祈祷きとうしょ翻訳ほんやくについても同様どうよう体系たいけいつくげられている。

信者しんじゃ亡骸なきがらあつか

[編集へんしゅう]

日本にっぽん正教会せいきょうかいにおいては、当然とうぜんながら日本にっぽんほう規制きせいける。そのひとつが、んだ信者しんじゃ亡骸なきがらあつかいである。

本来ほんらいキリスト教きりすときょうにおいては、信者しんじゃ亡骸なきがら将来しょうらい復活ふっかつそな土葬どそうとすることが基本きほんとされ、ロシア正教せいきょうではそのことがより厳密げんみつもとめられている。しかし、日本にっぽん国土こくどせまく、なおかつ気候きこう条件じょうけんから亡骸なきがら腐乱ふらんしやすいため、自治体じちたいによっては、条例じょうれいにより、亡骸なきがらいてほねだけにしなければならないと規定きていしている。このため、日本にっぽん正教会せいきょうかいでは、火葬かそうもやむなしとしており、火葬かそうする場合ばあいであっても葬儀そうぎを「埋葬まいそうしき」としてあつかっている。

近年きんねんでは、2009ねんがん死去しきょした歌手かしゅ川村かわむらカオリが、この事例じれい該当がいとう(モスクワでまれ母親ははおやがロシアじんであったためおさなくして洗礼せんれいけていた)。

ルーマニアおよびウクライナの正教会せいきょうかい日本にっぽん支部しぶ

[編集へんしゅう]
  • 2008ねん11月、ルーマニア正教会せいきょうかいが「日本にっぽん支部しぶ」を設立せつりつ日本にっぽんふたつの教区きょうく設置せっちした。この設置せっち日本にっぽん正教会せいきょうかいといかなる連絡れんらくもとらずにおこなわれたため、紛争ふんそうとなっている[45]

詳細しょうさいについては、日本にっぽん正教会せいきょうかい参照さんしょう

分類ぶんるい

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう日本にっぽん正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいとしての地位ちいみとめていないものの教会きょうかいほうじょう合法ごうほうせいみとめており、コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう日本にっぽん正教会せいきょうかいあいだにはこれまで首脳しゅのう同士どうし相互そうご訪問ほうもんおこなわれている。詳細しょうさいほん記事きじないの「交流こうりゅう年表ねんぴょう」を参照さんしょう
  2. ^ 教会きょうかいホームページとうでの表記ひょうきによる。海外かいがい媒体ばいたいでは"Japanese Orthodox Church"とうとなっているケースもられるが、日本にっぽん正教会せいきょうかいもちいる公式こうしき表記ひょうきではない。
  3. ^ ギリシア: εいぷしろんἰς πぱいοおみくろんλらむだλらむだὰ ἔτたうηいーた, Δέσποτα、「主教しゅきょうなが年月としつき〔のかみ恩寵おんちょう〕がありますように」の
  4. ^ 当時とうじはまだ日本にっぽん正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいではなかったが、「日本にっぽん正教会せいきょうかい」の通称つうしょうはかなりはやくからもちいられており、ほんこうでも「せい自治じち日本にっぽん正教会せいきょうかい成立せいりつ以前いぜん日本にっぽん正教会せいきょうかいも「日本にっぽん正教会せいきょうかい」と呼称こしょうする。日本にっぽん正教会せいきょうかいが「自治じち教会きょうかい」となったのは1970ねんである。
  5. ^ 昇叙しょうじょ(しょうじょ)-それまでの功績こうせきにより、聖職せいしょくしゃとしてのくらいげられることをいう。
  6. ^ 1931ねん、セルギイ・チホミーロフは主教しゅきょうとなる。
  7. ^ このとき岡田おかだ信一郎しんいちろうによって一部いちぶ外観がいかん変更へんこうされた。
  8. ^ なりひじりしき-せいせいしき。建造けんぞうぶつ物品ぶっぴんひじりにすること。
  9. ^ このときモスクワではソ連それんによってティーホンそう主教しゅきょう後任こうにんかれず、200ねんとき復活ふっかつしたモスクワそう主教しゅきょうはまたしても空席くうせきとなっていた。このときのロシア正教会せいきょうかいのトップは主教しゅきょうセルギイ・ストラゴロドスキイである。かれ日本にっぽん赴任ふにんしていたことがあり、セルギイ・チホミーロフとも旧知きゅうちなかであった。邦訳ほうやく著書ちょしょ:セルギー/佐藤さとう靖彦やすひこやく『ロシアじん宣教師せんきょうしの「蝦夷えぞ旅行りょこう」』しん読書どくしょしゃ

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 首座しゅざ主教しゅきょうつじひさし 日本にっぽん正教会せいきょうかい 22にち着座ちゃくざしき、キリルそう主教しゅきょう来日らいにちは? - 中外ちゅうがい日報にっぽう”. 2023ねん10がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ れい年度ねんど宗教しゅうきょう統計とうけい調査ちょうさ
  3. ^ 主教しゅきょうダニエル監修かんしゅう主教しゅきょうセルギイちょ東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう関東大震災かんとうだいしんさい正教せいきょう時報じほうしゃ(ニコライどうほか各地かくち正教会せいきょうかい入手にゅうしゅ可能かのう)27ぺーじ類例るいれい多数たすう
  4. ^ OCA - Q&A - Greek Orthodox and Russian Orthodox - Orthodox Church in Americaのページ。英語えいご
  5. ^ 中学生ちゅうがくせい質問しつもんにおこた (名古屋なごやハリストス正教会せいきょうかい) [リンク]
  6. ^ 日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう断絶だんぜつへ ロシア正教会せいきょうかいなら”. スプートニク 日本にっぽん (2018ねん10がつ19にち). 2022ねん4がつ30にち閲覧えつらん
  7. ^ 首座しゅざ主教しゅきょうつじひさし 日本にっぽん正教会せいきょうかい 22にち着座ちゃくざしき、キリルそう主教しゅきょう来日らいにちは? - 中外ちゅうがい日報にっぽう”. 2023ねん10がつ6にち閲覧えつらん
  8. ^ 2008ねん9がつ函館はこだてハリストス正教会せいきょうかい着任ちゃくにんしたロシアじん司祭しさいが、函館はこだてハリストス正教会せいきょうかいにとってじつに115ねんぶりのロシアじん神品しんぴんであるところにも、日本にっぽん正教会せいきょうかいにおけるロシアじん聖職せいしょくしゃかずきわめてすくないことがあらわれている。115ねんぶりロシアじんしん司祭しさい 函館はこだてハリストス正教会せいきょうかい ドミトリエフさん(北海道新聞ほっかいどうしんぶん[リンク]
  9. ^ 参考さんこう日本にっぽん各地かくち正教会せいきょうかい[リンク]
  10. ^ 歴史れきし History(横浜よこはまハリストス正教会せいきょうかい
  11. ^ わたしたち教会きょうかい教会きょうかい沿革えんかく小田原おだわらハリストス正教会せいきょうかい
  12. ^ ハリストス正教会せいきょうかい”. データベース『えひめの記憶きおく. 2024ねん10がつ28にち閲覧えつらん(『愛媛えひめけん』(1985ねんだいへんだいよんしょうだいせつ
  13. ^ 中村なかむら健之けんしかい宣教師せんきょうしニコライと明治めいじ日本にっぽん』95ぺーじ・96ぺーじ岩波いわなみ新書しんしょISBN 9784004304586
  14. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』13ぺーじ - 15ぺーじISBN 9784915730573
  15. ^ 中村なかむら健之けんしかい宣教師せんきょうしニコライと明治めいじ日本にっぽん』95ぺーじ岩波いわなみ新書しんしょISBN 9784004304586
  16. ^ 浦野うらの大蔵たいぞうだてさん浦野うらの歴史れきし系譜けいふ
  17. ^ 中村なかむら健之けんしかい宣教師せんきょうしニコライと明治めいじ日本にっぽん』91ぺーじ岩波いわなみ新書しんしょISBN 9784004304586
  18. ^ 牛丸うしまる康夫やすお日本にっぽん正教せいきょう』(だいだいさんしょう大津おおつ事件じけん、82ぺーじ~85ぺーじ日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん
  19. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』300ぺーじ - 301ぺーじ成文せいぶんしゃ 2007ねん ISBN 9784915730573
  20. ^ Welcome to the Orthodox Christian Faith("Greek Orthodox and Russian Orthodox are the same faith") - St. John Prodromos Greek Orthodox Churchのページ。英語えいご[リンク]
  21. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』237ぺーじ成文せいぶんしゃ 2007ねん ISBN 9784915730573
  22. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』303ぺーじ - 310ぺーじ成文せいぶんしゃ 2007ねん ISBN 9784915730573
  23. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』311ぺーじ - 313ぺーじ成文せいぶんしゃ 2007ねん ISBN 9784915730573
  24. ^ 出典しゅってん中村なかむら健之けんしかい宣教師せんきょうしニコライと明治めいじ日本にっぽん』191ぺーじ~194ぺーじ岩波いわなみ新書しんしょ(1996ねんだいいちさつISBN 9784004304586
  25. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』317ぺーじ - 319ぺーじ成文せいぶんしゃ 2007ねん ISBN 9784915730573
  26. ^ 出典しゅってん高橋たかはし保行やすゆき迫害はくがいのロシア正教会せいきょうかい かみろん国家こっかにおける正教せいきょうの70ねん』83ぺーじきょうぶんかん、1996ねん ISBN 4764263254
  27. ^ 前掲ぜんけい迫害はくがいのロシア正教会せいきょうかい かみろん国家こっかにおける正教せいきょうの70ねん』125ぺーじ
  28. ^ 前掲ぜんけい迫害はくがいのロシア正教会せいきょうかい かみろん国家こっかにおける正教せいきょうの70ねん』126ぺーじ
  29. ^ 長野ながの会堂かいどう閉鎖へいさされたのちの1935ねんに、山下やましたりんによるイコン3てんが、札幌さっぽろハリストス正教会せいきょうかいうつされた。出典しゅってん:『大正たいしょう鬼才きさい 河野こうの通勢つうせい しん発見はっけん作品さくひん中心ちゅうしんに てん図録ずろく』200ぺーじ美術館びじゅつかん連絡れんらく協議きょうぎかい、2008)
  30. ^ 牛丸うしまる康夫やすお日本にっぽん正教せいきょう』(だいさんだいいちへんだいろくしょう日本にっぽん在住ざいじゅうのロシアじん、136ぺーじ~142ぺーじ日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん
  31. ^ この段落だんらくつぎ段落だんらく主要しゅよう参考さんこう図書としょ主教しゅきょうダニエル監修かんしゅう主教しゅきょうセルギイちょ東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう関東大震災かんとうだいしんさい正教せいきょう時報じほうしゃ(ニコライどうほか各地かくち正教会せいきょうかい入手にゅうしゅ可能かのう
  32. ^ 出典しゅってん:『大正たいしょう鬼才きさい 河野こうの通勢つうせい しん発見はっけん作品さくひん中心ちゅうしんに てん図録ずろく』208ぺーじ美術館びじゅつかん連絡れんらく協議きょうぎかい、2008)
  33. ^ 出典しゅってん前掲ぜんけい東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう関東大震災かんとうだいしんさい』53ぺーじ主教しゅきょうセルギイは主教しゅきょうマッキム博士はかせのことを「だい主教しゅきょうニコライとわたしだい親友しんゆう」としるしている。
  34. ^ この段落だんらく出典しゅってん牛丸うしまる康夫やすおかみのみむねきた激動げきどう時代じだいぼくたち』日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん(1985ねん11月3にち発行はっこう
  35. ^ 主教しゅきょうダニイル監修かんしゅう主教しゅきょうセルギイちょ東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう関東大震災かんとうだいしんさい』58ぺーじから71ぺーじ、2002ねん正教せいきょう時報じほうしゃ
  36. ^ 正教せいきょう時報じほう2009ねん6がつごう(PDF)、正教せいきょう時報じほう2009ねん7がつごう(PDF)[リンク]
  37. ^ a b c ロシア正教会せいきょうかい駐日ちゅうにちポドウォリエの歴史れきしから
  38. ^ 岩波書店いわなみしょてん編集へんしゅう へん近代きんだい日本にっぽん総合そうごう年表ねんぴょう だいよんはん岩波書店いわなみしょてん、2001ねん11月26にち、353ぺーじISBN 4-00-022512-X 
  39. ^ 牛丸うしまる康夫やすお日本にっぽん正教せいきょう』155ぺーじ日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん主教しゅきょうちょう 1978ねん5月
  40. ^ ルーマニア正教会せいきょうかい日本にっぽん支部しぶ 2020ねん11月3にちづけ記事きじ
  41. ^ このこう参考さんこうサイト:宣教師せんきょうしニコライのぜん日記にっき [リンク]
  42. ^ 出典しゅってんうち昭蔵しょうぞう『ロシアビザンチン 黄金おうごんたまきたずねて』丸善まるぜん ISBN 978-4-621-03548-1(6ぺーじ
  43. ^ a b 教会きょうかいなんでも質問しつもんばこ名古屋なごやハリストス正教会せいきょうかい[リンク]
  44. ^ 信仰しんこう生活せいかつ日本にっぽん正教会せいきょうかい公式こうしきサイト)[リンク]
  45. ^ すえさと,2012
  46. ^ CT,2015

主要しゅよう参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 主教しゅきょうダニエル監修かんしゅう主教しゅきょうセルギイちょ東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう関東大震災かんとうだいしんさい正教せいきょう時報じほうしゃ(ニコライどうほか日本にっぽん各地かくち正教会せいきょうかい入手にゅうしゅ可能かのうなブックレット)
  • ニコライちょ/中村なかむら健之けんしかい中村なかむら喜和きわ安井やすい亮平りょうへい長縄ながなわ光男みつおへんやく宣教師せんきょうしニコライの日記にっきしょう』2000ねん 北海道大学ほっかいどうだいがく出版しゅっぱんかい ISBN 9784832932913 (4832932918)
  • 中村なかむら健之けんしかい宣教師せんきょうしニコライと明治めいじ日本にっぽん』1996ねん 岩波いわなみ新書しんしょ ISBN 9784004304586
  • 高橋たかはし保行やすゆき『ギリシャ正教せいきょう講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1980ねん ISBN 9784061585003 (4061585002)
  • 牛丸うしまる康夫やすお日本にっぽん正教せいきょう日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい教団きょうだん 1978ねん
  1. 松里まつざと公孝きみたか, 「エッセイ日本にっぽん正教会せいきょうかい見聞けんぶんろく」,『スラブ研究けんきゅうセンターニュース』季刊きかん 2012 ねんはるごうNo.129。(2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん)
  2. ルーマニア正教会せいきょうかい日本にっぽん支部しぶ, 日本にっぽんでの活動かつどう歴史れきし」,webサイト『ルーマニア正教会せいきょうかい』より。(2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん)
  3. 「キエフそう主教しゅきょうちょう在日ざいにちウクライナ正教会せいきょうかいはつ日本人にっぽんじん聖職せいしょくしゃ誕生たんじょう,CHRISTISN TODAY,2015ねん10がつ29にち1545ふん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]