この項目 こうもく では、自治 じち 正教会 せいきょうかい としての日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい について説明 せつめい しています。日本 にっぽん における正教会 せいきょうかい 諸 しょ 組織 そしき については「日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい 」をご覧 らん ください。
函館 はこだて ハリストス正教会 せいきょうかい 復活 ふっかつ 聖堂 せいどう
豊橋 とよはし ハリストス正教会 せいきょうかい 聖 せい 使徒 しと 福音 ふくいん 記者 きしゃ 聖 せい マトフェイ聖堂 せいどう
日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい (にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教 きりすときょう の教会 きょうかい 。自治 じち 独立 どくりつ が認 みと められている正教会 せいきょうかい 所属 しょぞく 教会 きょうかい のひとつである。ハリストス は「キリスト 」の意 い (こうした独自 どくじ の表記 ひょうき ・翻訳 ほんやく については後述 こうじゅつ する)。英語 えいご 表記 ひょうき は"Orthodox Church in Japan "である(略号 りゃくごう はOCJ )[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
通称 つうしょう ・略称 りゃくしょう として日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい とも呼 よ ばれる。1970年 ねん 以前 いぜん 、自治 じち 正教会 せいきょうかい となっていなかったころにも、日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい は日本人 にっぽんじん 正 せい 教徒 きょうと およびロシア人 じん 正 せい 教徒 きょうと から「日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」と呼 よ ばれていた[ 3] 。
正教会 せいきょうかい は一 いち カ国 かこく に一 ひと つの教会 きょうかい 組織 そしき を置 お くことが原則 げんそく だが(日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 以外 いがい の例 れい としてはギリシャ正教会 せいきょうかい 、ロシア正教会 せいきょうかい 、ルーマニア正教会 せいきょうかい など。もちろん例外 れいがい もある)、これら各国 かっこく ごとの正教会 せいきょうかい が異 こと なる教義 きょうぎ を信奉 しんぽう しているわけではなく、同 おな じ信仰 しんこう を有 ゆう している[ 4] 。
正教会 せいきょうかい の
教義 きょうぎ や、
全 ぜん 正教会 せいきょうかい に
共通 きょうつう する
特徴 とくちょう については「
正教会 せいきょうかい 」を
参照 さんしょう
19世紀 せいき 後半 こうはん (明治 めいじ 時代 じだい )に、ロシア正教会 せいきょうかい の修道 しゅうどう 司祭 しさい 聖 ひじり ニコライ (のち初代 しょだい 日本 にっぽん 大 だい 主教 しゅきょう )によって正教 せいきょう の教 おし えがもたらされ、これがその後 ご の日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい の設立 せつりつ につながった。聖 ひじり ニコライによって建立 こんりゅう されたニコライ堂 どう (東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう )、函館 はこだて の復活 ふっかつ 聖堂 せいどう 、豊橋 とよはし の聖 せい 使徒 しと 福音 ふくいん 記者 きしゃ マトフェイ聖堂 せいどう 、京都 きょうと の生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 聖堂 せいどう は、国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい 。
本 ほん 項 こう では日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい で用 もち いられている用語 ようご を断 ことわ りなく用 もち いることがある。
日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい の信者 しんじゃ は1万 まん 人 にん ほどである[ 5] 。ほとんどの信者 しんじゃ は日本人 にっぽんじん であるが、日本 にっぽん に在住 ざいじゅう する外国 がいこく 人 じん 信徒 しんと も都市 とし 部 ぶ などでは見受 みう けられる。
ウクライナ紛争 ふんそう を背景 はいけい とする「モスクワとコンスタンティノープルの断交 だんこう 」が起 お きた2019年 ねん 以降 いこう 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は新生 しんせい ウクライナ正教会 せいきょうかい を承認 しょうにん するコンスタンチノープル総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 、アレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 、ギリシャ及 およ びキプロスの正教会 せいきょうかい [要 よう 出典 しゅってん ] と断交 だんこう 状態 じょうたい にある。これは、母 はは 教会 きょうかい たるロシア正教会 せいきょうかい の決定 けってい に従 したが ったものである[ 6] [信頼 しんらい 性 せい 要 よう 検証 けんしょう ] 。アンティオキア総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 、エルサレム総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう など新生 しんせい ウクライナ正教会 せいきょうかい の承認 しょうにん を保留 ほりゅう している全 ぜん 世界 せかい の正教会 せいきょうかい とは依然 いぜん フル・コミュニオンの関係 かんけい にある。
正教会 せいきょうかい の教会 きょうかい 機構 きこう 図解 ずかい
東京 とうきょう 大 だい 主 ぬし 教区 きょうく (大 だい 主教 しゅきょう 座 ざ :東京 とうきょう )、東日本 ひがしにっぽん 主教 しゅきょう 区 く (主教 しゅきょう 座 ざ :仙台 せんだい 市 し )、西日本 にしにほん 主教 しゅきょう 区 く (主教 しゅきょう 座 ざ :京都 きょうと 市 し )の3主教 しゅきょう 区 く からなる。東京 とうきょう 大 だい 主教 しゅきょう 座 ざ が同時 どうじ に日本 にっぽん 府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ を兼 か ね、日本 にっぽん 教会 きょうかい のいわば本山 ほんざん にあたる。
2023年 ねん 10月 がつ 現在 げんざい の「東京 とうきょう の大 だい 主教 しゅきょう ・全日本 ぜんにほん の府 ふ 主教 しゅきょう 」はセラフィム辻 つじ 永 えい 昇 のぼる [ 7] 。
日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい は1970年 ねん 以降 いこう 、ロシア正教会 せいきょうかい の庇護 ひご 下 か に自治 じち 正教会 せいきょうかい の地位 ちい にある。これは同 おな じくロシア正教会 せいきょうかい の系列 けいれつ にあるウクライナ正教会 せいきょうかい とほぼ同格 どうかく とされる地位 ちい であり、首座 しゅざ 主教 しゅきょう たる府 ふ 主教 しゅきょう の承認 しょうにん をモスクワ総 そう 主教 しゅきょう が行 おこな うほかは、国内 こくない 教会 きょうかい の指導 しどう ・管轄 かんかつ につき、完全 かんぜん な自律 じりつ ・自治 じち を行 おこな っており、財政 ざいせい 面 めん でもロシア正教会 せいきょうかい から完全 かんぜん に独立 どくりつ している。
奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや での祈祷 きとう 文 ぶん はごく一部 いちぶ の例外 れいがい (主教 しゅきょう の祝福 しゅくふく に対 たい する答礼 とうれい の言葉 ことば 「イス・ポラ・エティ・デスポタ[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 」や、一部 いちぶ の教会 きょうかい スラヴ語 ご の聖歌 せいか など)を除 のぞ き日本語 にほんご である。奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや においては日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 訳 やく 聖書 せいしょ という独自 どくじ の翻訳 ほんやく 聖書 せいしょ を用 もち いる(後述 こうじゅつ )。
神品 しんぴん (正教会 せいきょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ )のほとんどは日本人 にっぽんじん であり、日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい はロシアから宣教 せんきょう されたにもかかわらず、その歴史 れきし の当初 とうしょ から現在 げんざい に至 いた るまで一貫 いっかん して、ロシア人 じん 神品 しんぴん の数 かず は少 すく ない[ 8] 。
教会 きょうかい の分布 ぶんぷ を見 み ると、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の草創 そうそう 期 き に仙台 せんだい の人士 じんし が活躍 かつやく したこともあって、東北 とうほく 太平洋 たいへいよう 岸 きし 海運 かいうん の拠点 きょてん 港 みなと である石巻 いしのまき の流通 りゅうつう 関連 かんれん 地域 ちいき (河川 かせん 流通 りゅうつう :北上川 きたかみがわ 流域 りゅういき 、海運 かいうん :三陸海岸 さんりくかいがん )を中心 ちゅうしん とした旧 きゅう 仙台 せんだい 藩 はん 領 りょう (宮城 みやぎ 県 けん 北部 ほくぶ から岩手 いわて 県 けん 南部 なんぶ )に多 おお くの教会 きょうかい がある。また、北関東 きたかんとう の両毛 りょうけ 地区 ちく にもやや密集 みっしゅう 地 ち がある。全体 ぜんたい 的 てき には東日本 ひがしにっぽん の太平洋 たいへいよう 側 がわ に多 おお くの教会 きょうかい が分布 ぶんぷ しているが、北 きた は北海道 ほっかいどう 、南 みなみ は鹿児島 かごしま に至 いた るまで全国 ぜんこく 的 てき にも展開 てんかい している[ 9] 。現在 げんざい 、聖堂 せいどう ないし会堂 かいどう を持 も たない教会 きょうかい も含 ふく めて、日本 にっぽん 全国 ぜんこく に60あまりの教会 きょうかい がある。
東京 とうきょう 都 と の本駒込 ほんこまごめ と目黒 めぐろ とに、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエ の聖堂 せいどう があるが、これはロシア正教会 せいきょうかい に直属 ちょくぞく するものであり、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 所属 しょぞく の教会 きょうかい ではない。駐 ちゅう 日 にち ポドヴォリエではロシア系 けい 参 さん 祷 いのり 者 しゃ が多 おお いこともあり奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや は教会 きょうかい スラヴ語 ご を中心 ちゅうしん に行 おこ なわれているが、若干 じゃっかん の日本人 にっぽんじん 信徒 しんと のために日本語 にほんご も一部 いちぶ で用 もち いられる。
京都 きょうと ハリストス正教会 せいきょうかい 生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 聖堂 せいどう
松山 まつやま ハリストス正教会 せいきょうかい (聖 ひじり ニコライ聖堂 せいどう ) - 1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )松山 まつやま 市 し 一番町 いちばんちょう に開 ひらけ 教 きょう 。関東大震災 かんとうだいしんさい で損壊 そんかい した東京 とうきょう ニコライ堂 どう の再建 さいけん のため、建物 たてもの は1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )に解体 かいたい ・移築 いちく され、松山 まつやま での伝道 でんどう は1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )に終了 しゅうりょう 。聖 せい 障 さわ は大阪 おおさか 、シャンデリアは北 きた 鹿 しか に移 うつ された[ 12] 。
聖堂 せいどう 内部 ないぶ の特色 とくしょく (考証 こうしょう 上 じょう の注意 ちゅうい )[ 編集 へんしゅう ]
鹿沼 かぬま ハリストス正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう 内部 ないぶ 。正面 しょうめん にイコノスタシス 。
ロシア系 けい 正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう を継承 けいしょう しているため、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう 内 ない には長椅子 ながいす がほとんど使用 しよう されていない。身体 しんたい 障害 しょうがい 等 とう の事情 じじょう がない限 かぎ り、正教会 せいきょうかい の奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや は復活 ふっかつ を象徴 しょうちょう する姿勢 しせい として立 た って行 おこな うことが基本 きほん であるためである。長椅子 ながいす ではない椅子 いす が若干 じゃっかん 数 すう 置 お いてあったり壁際 かべぎわ に長椅子 ながいす がわずかに置 お かれていたりすることもあるが、多 おお くは高齢 こうれい 者 しゃ のためのものであり、参 まいり 祷 いのり 者 しゃ が多 おお く聖堂 せいどう が混雑 こんざつ する際 さい にはほとんどが片付 かたづ けられるか折 お りたたまれるかされることが多 おお い。
一方 いっぽう 、ギリシャ系 けい 正教会 せいきょうかい やアメリカの正教会 せいきょうかい には椅子 いす や長椅子 ながいす が置 お かれていることが多 おお い(例 れい :ギリシャ ・テッサロニキ の聖 せい デメトリオス(ディミトリオス)聖堂 せいどう )。しかしこのような事例 じれい でも、本格 ほんかく 的 てき なイコノスタシス がそなえられていることが多 おお いために、ほとんどの場合 ばあい で西方 せいほう 教会 きょうかい の内観 ないかん とはかなり異 こと なった景観 けいかん を呈 てい していることに注意 ちゅうい が必要 ひつよう である。また長椅子 ながいす が置 お いてある地域 ちいき の教会 きょうかい であっても、西方 せいほう 教会 きょうかい よりは圧倒的 あっとうてき に参 まいり 祷 いのり 者 しゃ が起立 きりつ 姿勢 しせい を維持 いじ する時間 じかん は長 なが い。
稀 まれ にロシア系 けい 正教会 せいきょうかい 、その流 なが れを汲 く む日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の内観 ないかん に、長椅子 ながいす とカトリック教会 きょうかい のような祭壇 さいだん を設定 せってい し、西方 せいほう 教会 きょうかい とほとんど異 こと ならない情景 じょうけい 描写 びょうしゃ を行 おこな う各種 かくしゅ 映像 えいぞう ・画像 がぞう 媒体 ばいたい (映画 えいが ・漫画 まんが など)があるが、こうした表現 ひょうげん には初歩 しょほ 的 てき な考証 こうしょう が欠 か けていると言 い える。日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい やアメリカ正教会 せいきょうかい など、ロシア系 けい の伝統 でんとう を引 ひ く正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう を描写 びょうしゃ するに際 さい しては、西方 せいほう 教会 きょうかい と大 おお きく異 こと なる内観 ないかん を多 おお くの正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう が有 ゆう していることに留意 りゅうい して考証 こうしょう を行 おこな う必要 ひつよう がある。
亜 あ 使徒 しと 聖 ひじり ニコライ 。パナギア を首 くび からさげ、クロブーク を被 こうむ り、リヤサ を着用 ちゃくよう している。
明治 めいじ 時代 じだい の日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい [ 注釈 ちゅうしゃく 4] は、日本 にっぽん に正教 せいきょう を伝道 でんどう したニコライ・カサートキン に多 おお くを負 お っている。奇 く しくもニコライ・カサートキンは明治 めいじ 最後 さいご の年 とし である明治 めいじ 45年 ねん (1912年 ねん )に永眠 えいみん しており、明治 めいじ 時代 じだい の日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は常 つね にニコライ・カサートキンと共 とも にあったことになる。
伝道 でんどう の基本 きほん 方針 ほうしん と日本 にっぽん の情況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
当初 とうしょ からニコライは「日本人 にっぽんじん への伝道 でんどう 」を志 こころざ して修道 しゅうどう 司祭 しさい となっており、活動 かつどう を領事館 りょうじかん 付 つ き司祭 しさい の枠 わく にとどめる考 かんが えはなかった。ニコライは日本語 にほんご を熱心 ねっしん に学 まな び、日本人 にっぽんじん を対象 たいしょう とする布教 ふきょう を積極 せっきょく 的 てき に行 い った。派遣 はけん した19世紀 せいき 後半 こうはん 、および20世紀 せいき 初頭 しょとう の開明 かいめい 的 てき なロシア正教会 せいきょうかい 上層 じょうそう 部 ぶ もまた同様 どうよう の考 かんが えであり、「在日 ざいにち ロシア人 じん のための教会 きょうかい 」を建設 けんせつ するのではなく「日本人 にっぽんじん による正教会 せいきょうかい 」の建設 けんせつ が目指 めざ されることとなった。この基本 きほん 方針 ほうしん はその後 ご のニコライの様々 さまざま な行動 こうどう に一貫 いっかん している[ 13] 。
日本語 にほんご を奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや に用 もち いる現在 げんざい の日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい の姿 すがた は、現地 げんち の言語 げんご を大事 だいじ にする正教会 せいきょうかい の伝統 でんとう と、ニコライや日本人 にっぽんじん 伝 でん 教 きょう 者 しゃ ら伝道 でんどう に携 たずさ わった人々 ひとびと ・機関 きかん の方針 ほうしん の延長線 えんちょうせん 上 じょう に位置 いち づけられるものであり、正教会 せいきょうかい の古代 こだい から近世 きんせい に至 いた るまでの伝統 でんとう が近 きん 現代 げんだい において実 み を結 むす ぶ過程 かてい であったといえる。
明治 めいじ 時代 じだい の日本 にっぽん における、西欧 せいおう 文明 ぶんめい ・近代 きんだい 化 か への学習 がくしゅう 熱 ねつ を利用 りよう することができたキリスト教 きりすときょう 他 ほか 教派 きょうは (西方 せいほう 教会 きょうかい )に比 くら べ、文明 ぶんめい を学 まな ぶ対象 たいしょう とはされていなかったロシア から来 き たニコライと、近代 きんだい 合理 ごうり 主義 しゅぎ の影響 えいきょう の薄 うす い正教会 せいきょうかい には大 おお きなハンデが課 か されており(現在 げんざい でこそ近代 きんだい 合理 ごうり 主義 しゅぎ の見直 みなお しの観点 かんてん から正教 せいきょう が評価 ひょうか される機会 きかい もあるが、当時 とうじ はこうした事情 じじょう はハンデであった[ 14] )、本国 ほんごく ロシアの無 む 理解 りかい から支援 しえん も滞 とどこお りがちであったが、伝道 でんどう にあたってはニコライが育成 いくせい した日本人 にっぽんじん 信徒 しんと が主体 しゅたい となって教会 きょうかい を支 ささ え続 つづ けた[ 15] 。
パウェル沢辺 さわべ 琢磨 たくま
1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )、箱 はこ 館 かん (北海道 ほっかいどう 函館 はこだて 市 し )で三 さん 人 にん の日本人 にっぽんじん が信徒 しんと になったのがはじめ。箱 はこ 館 かん は当時 とうじ 外国 がいこく 人 じん に公開 こうかい されていた港 みなと のひとつであり、帝政 ていせい ロシアの領事館 りょうじかん が置 お かれていた。キリスト教 きょう はまだ禁止 きんし されていたが、領事館 りょうじかん の附属 ふぞく 礼拝 れいはい 堂 どう 付 づけ の司祭 しさい であるニコライを沢辺 さわべ 琢磨 たくま ・酒井 さかい 篤 あつし 礼 れい ・浦野 うらの 太蔵 たぞう の三 さん 人 にん が秘密 ひみつ 裡 うら に訪 おとず れ、1868年 ねん 、教理 きょうり を学 まな び洗礼 せんれい を受 う けるに至 いた った(後 のち に沢辺 さわべ は初 はつ の日本人 にっぽんじん 司祭 しさい となり、酒井 さかい も司祭 しさい になる。浦野 うらの は医師 いし となり曹洞宗 そうとうしゅう に改宗 かいしゅう [ 16] )。
最初 さいしょ の日本人 にっぽんじん 信徒 しんと のうち、沢辺 さわべ 琢磨 たくま はニコライのもとを訪 おとず れた当初 とうしょ 、「『異国 いこく の邪教 じゃきょう を広 ひろ める者 もの 』を斬 き ろう」としていたようである。だがニコライの説諭 せつゆ を聞 き き、正教 せいきょう の教 おし えを受 う けるに及 およ んで正教 せいきょう 信仰 しんこう を受 う け入 い れるに至 いた った。この経緯 けいい を使徒 しと パウロ(スラヴ語 ご 読 よ み:パウェル) になぞらえて「パウェル」の聖名 せな を与 あた えられた。
東京 とうきょう を拠点 きょてん とした教 きょう 勢 ぜい 拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
建立 こんりゅう 当初 とうしょ のニコライ堂 どう
函館 はこだて でしばらく宣教 せんきょう を行 おこな っていたが東京 とうきょう での宣教 せんきょう を切望 せつぼう していたニコライは、のちに修道 しゅうどう 司祭 しさい アナトリイが函館 はこだて に着任 ちゃくにん すると函館 はこだて をアナトリイに任 まか せ、上京 じょうきょう 。1872年 ねん に神田駿河台 かんだするがだい の土地 とち 2300坪 つぼ を買 か い、宣教 せんきょう の拠点 きょてん とした。1874年 ねん 5月には布教 ふきょう 会議 かいぎ を東京 とうきょう で開催 かいさい する。神田 かんだ には神学校 しんがっこう を設 もう けた。1880年 ねん にはニコライは主教 しゅきょう に叙 じょ 聖 きよし され、ここからニコライは司祭 しさい ・輔祭 をロシア正教会 せいきょうかい から派遣 はけん される主教 しゅきょう を待 ま たずに叙 じょ 聖 ひじり することができるようになり、日本人 にっぽんじん 神品 しんぴん 増加 ぞうか の環境 かんきょう が整 ととの った。1891年 ねん には大 だい 聖堂 せいどう (東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう ・通称 つうしょう :ニコライ堂 どう )を建設 けんせつ し、ここを布教 ふきょう の根拠 こんきょ とした。布教 ふきょう 範囲 はんい は全国 ぜんこく に及 およ んだが、東北 とうほく 地方 ちほう での浸透 しんとう が著 いちじる しい。ニコライは日本 にっぽん の寺院 じいん の檀家 だんか 制度 せいど のような、一村 いちむら まるごとを改宗 かいしゅう させるという手法 しゅほう で、着実 ちゃくじつ に布教 ふきょう を進 すす めていった。
山下 やました りん(26歳 さい 頃 ごろ )
北 きた 鹿 しか ハリストス正教会 せいきょうかい (秋田 あきた 県 けん 大館 おおだて 市 し )1892年 ねん の竣工 しゅんこう 時 じ にあわせて山下 やました りんによるイコン が装 そう 架 か された。イコンは作者 さくしゃ 30代 だい 半 なか ばの制作 せいさく 意欲 いよく が旺盛 おうせい な時期 じき の作品 さくひん である。
松山 まつやま ハリストス
正教会 せいきょうかい (
聖 ひじり ニコライ
聖堂 せいどう )。1924
年 ねん 東京 とうきょう に
移築 いちく されている。
出版 しゅっぱん 事業 じぎょう に重 おも きを置 お いたニコライにより、各種 かくしゅ 祈祷 きとう 書 しょ ・聖歌 せいか 譜 ふ が日本語 にほんご に活発 かっぱつ に翻訳 ほんやく されていった。1882年 ねん に帰国 きこく したイリナ山下 やました りん により各地 かくち の聖堂 せいどう のイコンが描 えが かれていった。また日本 にっぽん に着任 ちゃくにん していた修道 しゅうどう 司祭 しさい アナトリイの甥 おい でもありピアノ・チェロの奏者 そうしゃ でもあったヤコフ・チハイ が同年 どうねん 頃 ごろ に来日 らいにち し、聖歌 せいか 教師 きょうし として聖歌 せいか の普及 ふきゅう に努 つと めた。ヤコフ・チハイの弟子 でし には小原 おはら 甲 きのえ 三郎 さぶろう 、インノケンティ金須 きんす 嘉之 よしゆき 進 すすむ (きす・よしのしん)、東海林 しょうじ 重吉 しげよし などがあり、ヤコフ・チハイとともに聖歌 せいか 指揮 しき ・聖歌 せいか 譜 ふ の翻訳 ほんやく ・作曲 さっきょく に従事 じゅうじ した。同 どう 時期 じき に活躍 かつやく した聖歌 せいか 指揮 しき 者 しゃ としてディミトリィ・リオフスキィがいる。正教会 せいきょうかい は急速 きゅうそく に教 きょう 勢 ぜい を拡大 かくだい していった。
明治 めいじ 時代 じだい 、ロシア人 じん の伝道 でんどう 従事 じゅうじ 者 しゃ が少 すく なかったこと(明治 めいじ 時代 じだい 一貫 いっかん して、ロシア人 じん 神品 しんぴん は日本 にっぽん 全国 ぜんこく でも4人 にん を超 こ えることはなかった)を考 かんが えれば、驚異 きょうい 的 てき な宣教 せんきょう の成果 せいか であった。最盛 さいせい 期 き には100人 にん を超 こ えていた日本人 にっぽんじん 伝 つて 教 きょう 者 しゃ (神品 しんぴん ではないが専従 せんじゅう 職 しょく の伝道 でんどう 担当 たんとう 者 しゃ )を始 はじ めとする日本人 にっぽんじん 教 きょう 役者 やくしゃ が伝道 でんどう の核 かく を担 にな ってきたと聖 ひじり ニコライは1910年 ねん に述 の べている。同 どう 時代 じだい のロシア人 じん 司祭 しさい からも1880年代 ねんだい のペテルブルク主教 しゅきょう 区 く 宣教 せんきょう 委員 いいん 会 かい 総会 そうかい で、日本 にっぽん での伝道 でんどう 成果 せいか は日本人 にっぽんじん 伝 でん 教 きょう 者 しゃ 達 たち によるものであるとする報告 ほうこく がなされていた[ 17] 。
明治 めいじ 中期 ちゅうき 以降 いこう :対 たい 露 ろ 感情 かんじょう 悪化 あっか の中 なか で[ 編集 へんしゅう ]
大津 おおつ 事件 じけん にみられるように日本 にっぽん の対 たい 露 ろ 感情 かんじょう は悪化 あっか していく中 なか 、ロシア正教会 せいきょうかい から伝道 でんどう された日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい もまた各地 かくち で迫害 はくがい を受 う けた。
大津 おおつ 事件 じけん の際 さい 、ニコライ主教 しゅきょう は襲撃 しゅうげき されたロシア皇太子 こうたいし (のちのニコライ2世 せい )を輔祭 河村 かわむら 伊蔵 いぞう を伴 ともな って見舞 みま い、ロシア皇太子 こうたいし の対 たい 日 にち 感情 かんじょう の緩和 かんわ に努 つと め、この危機 きき にあたって日本 にっぽん と戦争 せんそう しないようにくれぐれも父 ちち 皇帝 こうてい に伝 つた えるよう願 ねが った。ニコライが日本 にっぽん 政府 せいふ 内 ない に多 おお くの知己 ちき を得 え ていたことと併 あわ せて、このことはロシア人 じん であるにもかかわらず個人 こじん としてのニコライは日本 にっぽん 政府 せいふ からおおむね信頼 しんらい を得 え る結果 けっか となった[ 18] 。
しかしながら日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 全体 ぜんたい の状況 じょうきょう の厳 きび しさは変 か わらなかった。日本人 にっぽんじん 正 せい 教徒 きょうと 達 たち は各地 かくち でロシア帝国 ていこく のスパイであるとの嫌疑 けんぎ をかけられ、住居 じゅうきょ からの追放 ついほう や、神父 しんぷ への襲撃 しゅうげき 、墓石 はかいし や教会 きょうかい 建物 たてもの の破壊 はかい 行為 こうい が各地 かくち で起 お こった[ 19]
正教 せいきょう 側 がわ は、正教 せいきょう はロシア専有 せんゆう の宗教 しゅうきょう ではなく世界 せかい の聖 せい 公使 こうし 徒 と 教会 きょうかい であると主張 しゅちょう していたが(これは世界 せかい の正教会 せいきょうかい と共通 きょうつう する見解 けんかい [ 20] )、世間 せけん からは「露 ろ 教 きょう 」と誤解 ごかい する向 む きが根強 ねづよ かった。1894年 ねん にギリシャ正教会 せいきょうかい のディオニシオス大 だい 主教 しゅきょう が来日 らいにち してニコライ主教 しゅきょう と日本人 にっぽんじん 信徒 しんと ともに奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや を行 おこな ったことを、「(ギリシャ正教 せいきょう の大 だい 主教 しゅきょう とニコライ主教 しゅきょう と)わが日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 信徒 しんと が一堂 いちどう の内 うち にて同一 どういつ の信仰 しんこう を保 たも ち、同一 どういつ の奉 たてまつ 神 かみ 礼 れい を執行 しっこう し、一 いち の主 おも なる神 かみ を讃 たたえ 美 うつく し、わが正教会 せいきょうかい の信仰 しんこう と奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや とはギリシャ正教会 せいきょうかい のそれと同一 どういつ であって、世界 せかい 到 いた るところの正教会 せいきょうかい 、聖 ひじり にして公 おおやけ たる使徒 しと 伝来 でんらい の基督教 きりすときょう 会 かい の一 いち 枝 えだ であることを如実 にょじつ に証明 しょうめい し得 え た」と記 しる し、「正教会 せいきょうかい が蒙 こうむ っていた冤罪 えんざい を雪 そそ ぐべき好機 こうき 会 かい 」であったと記 しる した長 ちょう 司祭 しさい 三井 みつい 道郎 みちお の回想 かいそう 記 き の一節 いっせつ にも、当時 とうじ の日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい が置 お かれた状況 じょうきょう が垣間見 かいまみ える[ 21] 。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう からニコライの晩年 ばんねん まで[ 編集 へんしゅう ]
1904年 ねん に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 開戦 かいせん 。この時 とき ニコライは日本人 にっぽんじん 信徒 しんと 達 たち から懇請 こんせい を受 う け、在日 ざいにち ロシア人 じん 達 たち による共 とも に帰国 きこく することの勧 すす めを断 た って日本 にっぽん にとどまり、苦難 くなん の下 した にあった日本人 にっぽんじん 正 せい 教徒 きょうと 達 たち を激励 げきれい し続 つづ けた。ニコライは内面 ないめん では、度重 たびかさ なるロシア軍 ぐん の惨敗 ざんぱい の知 し らせと停滞 ていたい する祖国 そこく :ロシア帝国 ていこく の姿 すがた に、自 みずか らの日記 にっき において苦悩 くのう を吐露 とろ し、ニコライ堂 どう の奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや からも主教 しゅきょう 祈祷 きとう から退 しりぞ いているが[ 22] 、それでもニコライは信徒 しんと 達 たち には「諸君 しょくん は皇軍 こうぐん のために祈 いの れ」と指導 しどう し、あくまで日本人 にっぽんじん の指導 しどう 者 しゃ ・日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい の主教 しゅきょう という姿 すがた を貫 つらぬ き通 とお すことになる。
他方 たほう 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい はロシア人 じん 捕虜 ほりょ のケアを行 おこな い、「日本人 にっぽんじん のための日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」が「日本人 にっぽんじん のためだけの日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」ではないことを行動 こうどう で示 しめ した[ 23] 。
だがニコライが個人 こじん 的 てき な信頼 しんらい を日本 にっぽん 政府 せいふ 内 ない で得 え ていようと、そして日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい が日本 にっぽん 政府 せいふ と協力 きょうりょく してロシア人 じん 捕虜 ほりょ のケアを行 おこな おうと、反 はん 露 ろ 的 てき な機運 きうん は日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい にも向 む けられていった。日比谷 ひびや 焼打 やきうち 事件 じけん の際 さい には東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう とその関連 かんれん 施設 しせつ も暴徒 ぼうと に襲撃 しゅうげき されるところであり、あわや火 ひ をかけられるところであった[ 24] 。この時 とき は戒厳 かいげん 令 れい の下 した に出動 しゅつどう した近衛 このえ 兵 へい の護衛 ごえい により教会 きょうかい の各 かく 施設 しせつ も難 なん を逃 のが れた[ 25] 。
こうした逆境 ぎゃっきょう にもかかわらず、1911年 ねん 、ニコライが大 だい 主教 しゅきょう に昇叙 しょうじょ [ 注釈 ちゅうしゃく 5] された年 とし には、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の教 きょう 勢 ぜい は教会 きょうかい 数 すう 265箇所 かしょ 、信徒 しんと 数 すう 31,984名 めい 、神品 しんぴん 数 すう 41名 めい 、聖歌 せいか 隊 たい 指揮 しき 者 しゃ 15名 めい 、伝 つて 教 きょう 者 しゃ 121名 めい に達 たっ した。これは当時 とうじ の日本 にっぽん にあってカトリック教会 きょうかい に次 つ ぐ規模 きぼ であった。
明治 めいじ 最後 さいご の年 とし 、1912年 ねん に大 だい 主教 しゅきょう ニコライは永眠 えいみん 、76歳 さい であった。この時 とき 、明治天皇 めいじてんのう から恩賜 おんし の花輪 はなわ が与 あた えられた。外国 がいこく 人 じん 宣教師 せんきょうし の葬儀 そうぎ に際 さい して時 とき の天皇 てんのう から花輪 はなわ が与 あた えられるのは異例 いれい のことであった。
斜里 しゃり ハリストス正教会 せいきょうかい の現在 げんざい の会堂 かいどう である生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 会堂 かいどう の遠景 えんけい 。1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )に始 はじ まる、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 最 さい 北 きた の教会 きょうかい (北海道 ほっかいどう 斜里 しゃり 郡 ぐん 斜里 しゃり 町 まち )である。現 げん 会堂 かいどう は1979年 ねん に建 た てられた。
昭和 しょうわ 時代 じだい は世界 せかい 大戦 たいせん との関連 かんれん で日本 にっぽん の諸 しょ 教会 きょうかい が苦難 くなん を経験 けいけん しており、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい もその例外 れいがい ではなかった。しかし、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう に代表 だいひょう される日 にち 露 ろ 関係 かんけい の悪化 あっか と、日本 にっぽん における対 たい 露 ろ 感情 かんじょう の悪化 あっか 、および無 む 神 かみ 論 ろん を標榜 ひょうぼう するロシア革命 かくめい の勃発 ぼっぱつ 、そして母 はは 教会 きょうかい であるロシア正教会 せいきょうかい に大 だい 規模 きぼ な弾圧 だんあつ を加 くわ えるソ連 それん の成立 せいりつ は、他 た 教派 きょうは より相対 そうたい 的 てき に長 なが い20世紀 せいき 後半 こうはん までの苦難 くなん という結果 けっか を日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい にもたらした。
ロシア革命 かくめい による混乱 こんらん は日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい にとどまらず、ロシア正教会 せいきょうかい の影響 えいきょう 下 か にあった世界中 せかいじゅう の正教会 せいきょうかい に及 およ び、その残滓 ざんし は今 いま も世界中 せかいじゅう の正教会 せいきょうかい の相互 そうご 関係 かんけい における課題 かだい を残 のこ している。このような苦難 くなん の時代 じだい を経 へ つつも、日本 にっぽん における正教 せいきょう 信仰 しんこう は途絶 とだ えることはなかった。
無 む 神 かみ 論 ろん を標榜 ひょうぼう するボリシェヴィキ によって1917年 ねん にロシア革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ しソ連 それん が成立 せいりつ すると、1905年 ねん 9月5日 にち に締結 ていけつ されたポーツマス条約 じょうやく 以降 いこう 、数次 すうじ にわたって更新 こうしん されてきた日 にち 露 ろ 協約 きょうやく にみられる極 きわ めて短 みじか い日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう の時代 じだい は終 お わりを告 つ げた。これ以降 いこう 、1991年 ねん のソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい に至 いた るまで、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は「反 はん 露 ろ 感情 かんじょう 」のみならず「反共 はんきょう 感情 かんじょう 」にもさらされていくことになる。正教会 せいきょうかい は実際 じっさい には共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか から大 だい 弾圧 だんあつ を受 う けている被害 ひがい 者 しゃ であり、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ はこぞって正教会 せいきょうかい の「後進 こうしん 性 せい 」を批判 ひはん しており正教会 せいきょうかい に一切 いっさい の好意 こうい を持 も っていなかったにもかかわらず、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 及 およ びその関係 かんけい 者 しゃ は「親 おや 露 ろ =容共 ようきょう 」というあらぬ嫌疑 けんぎ をかけられてしまうこととなった。この困難 こんなん な時期 じき に最初 さいしょ に直面 ちょくめん したのは大 だい 主教 しゅきょう ニコライの後継 こうけい 者 しゃ であったセルギイ・チホミーロフ 主教 しゅきょう (のち府 ふ 主教 しゅきょう )[ 注釈 ちゅうしゃく 6] であった。
爆破 ばくは され崩 くず れゆく救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう
ロシア正教会 せいきょうかい はソ連 それん では大 だい 規模 きぼ な弾圧 だんあつ を受 う けており、ソロヴェツキー諸島 しょとう の修道院 しゅうどういん 群 ぐん はレーニン の命令 めいれい で強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に転用 てんよう され、救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう は1931年 ねん にスターリン の命令 めいれい でダイナマイト爆破 ばくは された。日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の初代 しょだい 京都 きょうと 主教 しゅきょう を務 つと めたペルミの聖 せい アンドロニク は、生 い き埋 う めにされた上 うえ で銃殺 じゅうさつ されるという特異 とくい な致命 ちめい を遂 と げたことで知 し られている。1921年 ねん から1923年 ねん にかけてだけで、主教 しゅきょう 28人 にん 、妻帯 さいたい 司祭 しさい 2691人 にん 、修道 しゅうどう 士 し 1962人 にん 、修道 しゅうどう 女 おんな 3447人 にん 、その他 た 信徒 しんと 多数 たすう が処刑 しょけい されたが[ 26] 、1918年 ねん から1930年 ねん にかけてみれば、およそ4万 まん 2千 せん 人 にん の聖職 せいしょく 者 しゃ が殺 ころ され、1930年代 ねんだい にも3万 まん から3万 まん 5千 せん の司祭 しさい が銃殺 じゅうさつ もしくは投獄 とうごく された[ 27] 。1937年 ねん と1938年 ねん には52人 にん の主教 しゅきょう のうち40人 にん が銃殺 じゅうさつ された[ 28] 。
これほどの弾圧 だんあつ がロシア正教会 せいきょうかい に加 くわ えられつつも日本 にっぽん における「ロシア=ソ連 それん 」という通俗 つうぞく 的 てき 観念 かんねん はぬぐいがたいものがあり、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん による被害 ひがい 者 しゃ である正教会 せいきょうかい が通俗 つうぞく 的 てき には共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の仲間 なかま と見 み なされてしまうという、極 きわ めて理不尽 りふじん な情況 じょうきょう が生 う まれた。
またロシア革命 かくめい 以降 いこう 、ロシア正教会 せいきょうかい は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん との対峙 たいじ ・交渉 こうしょう 、及 およ び自 じ 教会 きょうかい の維持 いじ のみで精一杯 せいいっぱい となり、他国 たこく の正教会 せいきょうかい を支援 しえん する余裕 よゆう を失 うしな い、欧米 おうべい をはじめとした各地 かくち の教会 きょうかい 組織 そしき に混乱 こんらん が起 お こった。他国 たこく に起 お こったこうした事情 じじょう は日本 にっぽん とても例外 れいがい ではなく、母 はは 教会 きょうかい であるロシア正教会 せいきょうかい からの日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい への財政 ざいせい 的 てき 支援 しえん も消滅 しょうめつ した。この時点 じてん での日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい はいまだ財政 ざいせい 的 てき にすぐに自立 じりつ できる状態 じょうたい にはなく、給与 きゅうよ を支払 しはら うことができなくなった多 おお くの伝 つて 教 きょう 者 しゃ を解雇 かいこ せざるを得 え なくなり、教 きょう 勢 ぜい は衰 おとろ えた。一 いち 例 れい として、アレクセイ河野 こうの 次郎 じろう が熱心 ねっしん に支援 しえん し、その息子 むすこ ペトル河野 こうの 通勢 つうせい が長野 ながの 在住 ざいじゅう 時代 じだい に通 かよ っていた長野 ながの ハリストス正教会 せいきょうかい 復活 ふっかつ 会堂 かいどう が1921年 ねん に閉鎖 へいさ されたことが挙 あ げられる[ 29] 。
なお、ロシア革命 かくめい から日本 にっぽん に逃 のが れてきた多 おお くの白 しろ 系 けい ロシア人 じん が日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい での信仰 しんこう 生活 せいかつ に加 くわ わり、教会 きょうかい によっては2009年 ねん 現在 げんざい に至 いた るまで、一定 いってい の在日 ざいにち ロシア人 じん 系 けい コミュニティを教会 きょうかい 内 ない に形成 けいせい している。特 とく に東京 とうきょう のニコライ堂 どう と、神戸 こうべ ハリストス正教会 せいきょうかい にその傾向 けいこう が顕著 けんちょ である[ 30] 。
関東大震災 かんとうだいしんさい とニコライ堂 どう の再建 さいけん [ 編集 へんしゅう ]
[ 31] 日 にち 露 ろ 戦争 せんそう およびロシア革命 かくめい の余震 よしん がまだ大 おお きく続 つづ く中 なか 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は1923年 ねん 、関東大震災 かんとうだいしんさい でニコライ堂 どう が崩落 ほうらく し首都 しゅと 内 ない のいくつかの聖堂 せいどう も失 うしな うという極 きわ めて大 おお きな打撃 だげき を被 こうむ った。関東大震災 かんとうだいしんさい で散逸 さんいつ もしくは焼失 しょうしつ したとみられる史料 しりょう も多 おお く(大震災 だいしんさい 前 まえ のニコライ堂 どう の、コンドル による修正 しゅうせい 前 まえ のミハイル・シチュールポフによる原 はら 設計 せっけい 図 ず など)、その損失 そんしつ は計 はか り知 し れない。なお、大震災 だいしんさい の惨状 さんじょう についてはペトル河野 こうの 通勢 つうせい による、ニコライ堂 どう も含 ふく めたスケッチ・銅 どう 版画 はんが が残 のこ されている[ 32] 。
これほどの打撃 だげき にもかかわらず、セルギイ・チホミーロフ 大 だい 主教 しゅきょう (役職 やくしょく 当時 とうじ )はよく日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい を支 ささ え、1929年 ねん 、ニコライ堂 どう を再建 さいけん した[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。再建 さいけん にはセルギイ大 だい 主教 しゅきょう の全国 ぜんこく 行脚 あんぎゃ の甲斐 かい もあってか千島 ちしま から台湾 たいわん に至 いた るまでの信者 しんじゃ 達 たち からの多額 たがく の献金 けんきん があり、これ以降 いこう 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい が財政 ざいせい 的 てき に自立 じりつ していく契機 けいき の一 ひと つとなった。この時 とき 、海外 かいがい の正教会 せいきょうかい からもニコライ堂 どう の再建 さいけん に対 たい して多額 たがく の献金 けんきん があったこと、国内 こくない においては信徒 しんと 達 たち 以外 いがい からもニコライ堂 どう の文化 ぶんか 的 てき 価値 かち に共鳴 きょうめい した異教徒 いきょうと たちからの少 すく なくない献金 けんきん があったことが、セルギイ・チホミーロフにより言及 げんきゅう されている。
現在 げんざい に至 いた る、再建 さいけん されたニコライ堂 どう の姿 すがた 。崩落 ほうらく したドームは形状 けいじょう を変 か えて復興 ふっこう され、大震災 だいしんさい 時 じ に高 たか かった鐘楼 しゅろう が倒壊 とうかい してドームを破壊 はかい したことを鑑 かんが み、鐘楼 しゅろう は低 ひく く抑 おさ えられている。また、大震災 だいしんさい 時 じ に火災 かさい が発生 はっせい したことを反省 はんせい し、元々 もともと 少 すく なかった木造 もくぞう 部分 ぶぶん もほとんど石造 せきぞう に変更 へんこう された。
大 だい 聖堂 せいどう の成 なり 聖 ひじり 式 しき [ 注釈 ちゅうしゃく 8] には全国 ぜんこく から信者 しんじゃ や関係 かんけい 者 しゃ が集 あつ まり、3千 せん 人 にん 以上 いじょう が集 あつ まったと伝 つた えられている。参加 さんか した教 きょう 役者 やくしゃ の数 かず は、大 だい 主教 しゅきょう セルギイとハルビン の主教 しゅきょう ネストルを含 ふく み総勢 そうぜい 39名 めい であったと記録 きろく されている。震災 しんさい 後 ご の東京 とうきょう 復興 ふっこう 委員 いいん 会 かい 代表 だいひょう となった中川 なかがわ 望 のぞむ (元 もと 大阪 おおさか 府知事 ふちじ )も式典 しきてん に参加 さんか していたが、彼 かれ は正 せい 教徒 きょうと であった。
また聖 せい 公会 こうかい の主教 しゅきょう ジョン・マキム 博士 はかせ も祭服 さいふく 着用 ちゃくよう の上 うえ で参加 さんか した[ 33] 。
ロシア革命 かくめい 以降 いこう 停滞 ていたい を余儀 よぎ なくされていた日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい に対 たい し、神学 しんがく 教育 きょういく 等 とう の面 めん で協力 きょうりょく していたのは日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい であった。20世紀 せいき 前半 ぜんはん 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい と日本 にっぽん 聖 せい 公会 こうかい の間 あいだ には比較的 ひかくてき 友好 ゆうこう 的 てき な協力 きょうりょく 関係 かんけい があった。「両 りょう 教会 きょうかい とも、ローマ教皇 きょうこう の教皇 きょうこう 首位 しゅい 権 けん に否定 ひてい 的 てき でありつつ、ある程度 ていど 伝統 でんとう 的 てき な教会 きょうかい である」「ロマノフ朝 あさ とハノーヴァー朝 あさ の縁戚 えんせき 関係 かんけい 」等 とう の要因 よういん により、世界 せかい 的 てき に正教会 せいきょうかい と聖 きよし 公会 こうかい の合同 ごうどう への機運 きうん が高 たか まっていたことも背景 はいけい にあった。戦後 せんご すぐの時期 じき まで両 りょう 教会 きょうかい の友好 ゆうこう 的 てき 関係 かんけい は続 つづ いていく。しかしながら20世紀 せいき 後半 こうはん には世界 せかい 的 てき な両 りょう 教会 きょうかい の合同 ごうどう の気運 きうん も消滅 しょうめつ し、日本 にっぽん にあっても両 りょう 教会 きょうかい の協力 きょうりょく 関係 かんけい はその後 ご 継続 けいぞく せず、2019年 ねん 現在 げんざい では両 りょう 教会 きょうかい の関係 かんけい は特 とく に深 ふか いものではない(ただし対抗 たいこう ・敵対 てきたい でもない)。
母 はは 教会 きょうかい との関係 かんけい と戦時 せんじ 下 か の邦人 ほうじん 主管 しゅかん 者 しゃ 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
1931年 ねん 、大 だい 主教 しゅきょう セルギイは府 ふ 主教 しゅきょう に昇叙 しょうじょ された。だがこのころから、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい にはある動揺 どうよう が広 ひろ がりつつあった。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん の下 した で弾圧 だんあつ されその影響 えいきょう 下 か にあるロシア正教会 せいきょうかい の意思 いし ・決定 けってい の正当 せいとう 性 せい およびその真贋 しんがん に疑義 ぎぎ を持 も つ人々 ひとびと は少 すく なくない中 なか 、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう との連絡 れんらく を断 た たない府 ふ 主教 しゅきょう セルギイに対 たい する疑問 ぎもん の声 こえ が上 あ がりつつあった。[ 34]
ソ連 それん 当局 とうきょく の監視 かんし 下 か にあるモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう との関係 かんけい を巡 めぐ り、見解 けんかい の差異 さい が教会 きょうかい 内 ない に生 しょう じて動揺 どうよう が起 お こるといった現象 げんしょう は、西欧 せいおう ・米国 べいこく をはじめとして全 ぜん 世界 せかい 的 てき に各地 かくち 正教会 せいきょうかい にほぼ例外 れいがい なくみられたが、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい もその例外 れいがい ではなく教会 きょうかい に亀裂 きれつ が生 しょう じた。
問題 もんだい が複雑 ふくざつ になったのには国内 こくない の事情 じじょう だけではなく、在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい というソ連 それん からの亡命 ぼうめい ロシア人 じん が中心 ちゅうしん になって結成 けっせい した小 ちい さくない教会 きょうかい 組織 そしき が1922年 ねん 9月13日 にち にセルビア のスレムスキ・カルロヴツィ (Sremski Karlovci: Сремски Карловци ) を中心 ちゅうしん に設立 せつりつ され、モスクワとの対決 たいけつ 姿勢 しせい を鮮明 せんめい にしていたことにも起因 きいん していた[ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。
セルギイ府 ふ 主教 しゅきょう 。祭服 さいふく を完 かん 装 そう した姿 すがた でニコライ堂 どう 内 うち で撮影 さつえい されていることから、セルギイが日本 にっぽん の主教 しゅきょう 位 い から退 しりぞ く前 まえ 、1940年 ねん 9月より前 まえ の写真 しゃしん と推定 すいてい される。
セルギイ・チホミーロフ府 ふ 主教 しゅきょう は1929年 ねん の時点 じてん では母国 ぼこく ロシアでの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 革命 かくめい に深 ふか い嫌悪 けんお 感 かん を隠 かく さず、各種 かくしゅ 著述 ちょじゅつ でも痛烈 つうれつ な言辞 げんじ で全 ぜん 否定 ひてい しているが、同時 どうじ に在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい の動向 どうこう に対 たい しても分派 ぶんぱ 的 てき であるとして否定 ひてい 的 てき であった[ 35] 。
また年 とし を経 へ るに従 したが って、府 ふ 主教 しゅきょう セルギイはソ連 それん の下 した で弾圧 だんあつ されるロシア正教会 せいきょうかい の状況 じょうきょう 認識 にんしき に甘 あま さを見 み せるようになった。ソ連 それん 当局 とうきょく による検閲 けんえつ を経 へ て届 とど くモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう からの手紙 てがみ の内容 ないよう を鵜呑 うの みにし、実際 じっさい にはソ連 それん の下 した で激 はげ しく弾圧 だんあつ されるロシア正教会 せいきょうかい が「正常 せいじょう な道 みち を歩 あゆ んでいる」とまで述 の べた、弾圧 だんあつ の実情 じつじょう からかけ離 はな れたものとなった府 ふ 主教 しゅきょう セルギイの認識 にんしき の変化 へんか は、1931年 ねん にはセルギイの説教 せっきょう などにも表 あらわ れて巷間 こうかん に知 し られるに至 いた った。こうしたセルギイの認識 にんしき は亡命 ぼうめい ロシア人 じん には到底 とうてい 受 う け入 い れられるものではなく、亡命 ぼうめい ロシア人 じん のみならず反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ の気運 きうん の高 たか かった日本人 にっぽんじん 信徒 しんと の間 あいだ からも広範 こうはん な反発 はんぱつ が起 お きるに至 いた った[ 36] 。
このような状況 じょうきょう 下 か で、日本 にっぽん 政府 せいふ から日本人 にっぽんじん 主管 しゅかん 者 しゃ を選 えら ぶよう圧力 あつりょく が高 たか まった時 とき 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は抗 こう すべくもなかった。この時代 じだい には日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい のみならず国内 こくない 全 すべ ての教会 きょうかい が何 なん らかの抑圧 よくあつ を受 う けており(日本 にっぽん のキリスト教 きりすときょう 史 し #大正 たいしょう から昭和 しょうわ 時代 じだい を参照 さんしょう )、この点 てん でも日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は例外 れいがい ではありえなかった。
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )、セルギイ・チホミーロフ府 ふ 主教 しゅきょう は引退 いんたい を余儀 よぎ なくされ、後任 こうにん の人選 じんせん を巡 めぐ って紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ たのち、ニコライ小野 おの 帰一 きいち 主教 しゅきょう が日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい に着座 ちゃくざ した。それでも当局 とうきょく の監 かん 視 し は緩 ゆる むことなく、高齢 こうれい のセルギイ・チホミーロフ府 ふ 主教 しゅきょう は1945年 ねん に特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ に逮捕 たいほ され拷問 ごうもん を受 う け、約 やく 1ヶ月 かげつ 拘留 こうりゅう された[ 37] 。釈放 しゃくほう 後 ご ほどなくして、同年 どうねん 8月 がつ 10日 とおか 、終戦 しゅうせん の数日 すうじつ 前 まえ に府 ふ 主教 しゅきょう セルギイは永眠 えいみん した。拷問 ごうもん による衰弱 すいじゃく 死 し だったといわれる。74歳 さい であった。11日 にち に遺骸 いがい はニコライ堂 どう に安置 あんち され、2日 にち 後 ご に埋葬 まいそう 式 しき が行 おこな われた。牧島 まきしま 省三 しょうぞう の憲兵 けんぺい 隊 たい との交渉 こうしょう により、軽井沢 かるいざわ 方面 ほうめん に居住 きょじゅう していた在日 ざいにち ロシア人 じん は許可 きょか を得 え て参列 さんれつ することができた。その後 ご 、セルギイ府 ふ 主教 しゅきょう の遺骸 いがい は、谷中 たになか のニコライ・カサートキン大 だい 主教 しゅきょう の墓 はか の隣 となり に埋葬 まいそう された。
静岡 しずおか ハリストス正教会 せいきょうかい の生神 うるかみ 女 おんな 庇護 ひご 聖堂 せいどう の夜景 やけい 。1959年 ねん 竣工 しゅんこう 。
戦後 せんご すぐ、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は当局 とうきょく の圧 あつ 力 りょく によって歪 ゆが められた教会 きょうかい 秩序 ちつじょ を正常 せいじょう 化 か しようとしたが、容易 ようい ではなかった。GHQ から、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい はソ連 それん の影響 えいきょう 下 か にあるモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう ではなく、のちにアメリカ正教会 せいきょうかい に発展 はってん することになる「北米 ほくべい メトロポリア」と関係 かんけい を持 も つよう指令 しれい されたからである[ 37] 。
1946年 ねん 4月 がつ 5日 にち から翌日 よくじつ にかけて日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 臨時 りんじ 公会 こうかい が開催 かいさい 。モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 府 ふ と絶縁 ぜつえん し、アメリカにある独立 どくりつ 自治 じち 教会 きょうかい への加盟 かめい を決定 けってい した[ 38] 。
在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい と北米 ほくべい メトロポリアの間 あいだ の関係 かんけい も第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんこう の時期 じき にこじれており、在外 ざいがい ロシア正教会 せいきょうかい の下 した にあった主教 しゅきょう に叙 じょ 聖 ひじり され主教 しゅきょう に着任 ちゃくにん したニコライ小野 おの 主教 しゅきょう の立場 たちば が微妙 びみょう なものとなった。また、それまであまり関係 かんけい を持 も ってこなかった北米 ほくべい メトロポリアの指導 しどう 下 か に入 はい ることについても日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい に動揺 どうよう が起 お こり、この経緯 けいい において、ごく少数 しょうすう ではあったが、北米 ほくべい メトロポリアの指導 しどう 下 か に入 はい らず、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の直接 ちょくせつ の管轄 かんかつ を受 う けるグループが形成 けいせい された[ 37] 。
全 ぜん 世界 せかい の正教会 せいきょうかい にとって頭 あたま の痛 いた い存在 そんざい であったソ連邦 それんぽう が存続 そんぞく していた以上 いじょう 、ソ連邦 それんぽう の影響 えいきょう 下 か にあるロシア正教会 せいきょうかい との関係 かんけい を巡 めぐ る諸 しょ 問題 もんだい は世界 せかい 的 てき に全 ぜん 正教会 せいきょうかい に共通 きょうつう したものであり、上述 じょうじゅつ の通 とお り戦後 せんご になっても日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい に安寧 あんねい が訪 おとず れることはなかった。
戦後 せんご すぐから1970年 ねん まで、自 みずか らの管轄 かんかつ 等 とう の諸 しょ 問題 もんだい を巡 めぐ って日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の動揺 どうよう は大 おお きく続 つづ く。この時代 じだい の日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の混乱 こんらん は極 きわ めて大 おお きく全国 ぜんこく 各地 かくち の正教会 せいきょうかい に及 およ んでおり、様相 ようそう は二 に 転 てん 三 さん 転 てん して複雑 ふくざつ である。その全貌 ぜんぼう を公平 こうへい な立場 たちば から俯瞰 ふかん し記述 きじゅつ することは、今 いま なお極 きわ めて困難 こんなん である。この間 あいだ 、日本 にっぽん には北米 ほくべい メトロポリアから主教 しゅきょう が派遣 はけん されていた。
このような状態 じょうたい にありながらも日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや は継続 けいぞく され、新 しん 聖堂 せいどう の建立 こんりゅう ・新 あら たな聖歌 せいか 譜 ふ の出版 しゅっぱん などもなされるなど一部 いちぶ では依然 いぜん として活発 かっぱつ な教会 きょうかい 活動 かつどう も継続 けいぞく していたが、日本 にっぽん 国内 こくない の西方 せいほう 教会 きょうかい が戦後 せんご すぐのころから教 きょう 勢 ぜい を大 おお きく拡大 かくだい していく中 なか 、かつてカトリック教会 きょうかい に次 つ ぐ教 きょう 勢 ぜい を誇 ほこ った正教会 せいきょうかい は教 きょう 勢 ぜい を拡大 かくだい する機会 きかい を失 うしな い、停滞 ていたい を余儀 よぎ なくされた。
ニコライ列聖 れっせい ・自治 じち 教会 きょうかい 成立 せいりつ -現在 げんざい [ 編集 へんしゅう ]
1970年 ねん に至 いた り、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう と北米 ほくべい メトロポリア、そして日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい との間 あいだ で合意 ごうい が取 と り交 か わされ、北米 ほくべい メトロポリアはアメリカ正教会 せいきょうかい として独立 どくりつ 教会 きょうかい となり、モスクワと関係 かんけい を回復 かいふく した上 うえ で日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は自治 じち 教会 きょうかい となった。ニコライ・カサートキンは亜 あ 使徒 しと として列聖 れっせい された。この直前 ちょくぜん (1969年 ねん 9月 がつ )、経緯 けいい 説明 せつめい のためにアレクサンドル・シュメーマン 神父 しんぷ が来日 らいにち している[ 39] 。
若干 じゃっかん の混乱 こんらん はいまだ続 つづ いていたものの、ここに日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は一応 いちおう 安定 あんてい した。ウラジミル・ナゴスキーが府 ふ 主教 しゅきょう ・東京 とうきょう の大 だい 主教 しゅきょう に、フェオドシイ永島 ながしま 新二 しんじ が京都 きょうと の主教 しゅきょう に、セラフィム・シグリストが仙台 せんだい の主教 しゅきょう に就任 しゅうにん した。一方 いっぽう 、モスクワの直接 ちょくせつ 管轄 かんかつ 下 か にあったグループは「モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエ 」に再 さい 編成 へんせい された。
ほどなくしてウラジミル・ナゴスキー府 ふ 主教 しゅきょう が引退 いんたい すると、フェオドシイ永島 ながしま 新二 しんじ が府 ふ 主教 しゅきょう に就任 しゅうにん 。長 なが く日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の指導 しどう にあたった。ことにフェオドシイ永島 ながしま 府 ふ 主教 しゅきょう の下 した で日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は長 なが らく懸案 けんあん であった財政 ざいせい 基盤 きばん を安定 あんてい 的 てき なものとすることに一定 いってい 程度 ていど 成功 せいこう し、自治 じち 教会 きょうかい に相応 ふさわ しい内実 ないじつ が整 ととの えられていった。細々 こまごま と続 つづ いていた出版 しゅっぱん 活動 かつどう も拡大 かくだい が図 はか られ、「時 どき 課 か 経 けい 」「大 だい 斎 とき 第 だい 一週間奉事式略」等 とう の再 さい 発行 はっこう 、「主 おも 日 び 奉 たてまつ 事 こと 式 しき 」「徹夜 てつや 祷 いのり (聖歌 せいか 譜 ふ )」「諸 しょ 聖 せい 略伝 りゃくでん 」の発行 はっこう 等 とう が日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 内部 ないぶ 向 む けに行 おこな われ、外部 がいぶ 向 む けには長 ちょう 司祭 しさい 高橋 たかはし 保行 やすゆき 、高井 たかい 寿雄 よしお 、川又 かわまた 一英 いちえい などにより活発 かっぱつ な著述 ちょじゅつ 活動 かつどう が行 おこな われた。日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の歴史 れきし については長 ちょう 司祭 しさい 牛丸 うしまる 康夫 やすお が教団 きょうだん 内 ない の研究 けんきゅう ・史料 しりょう 整理 せいり に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
フェオドシイ府 ふ 主教 しゅきょう の永眠 えいみん の後 のち 、2000年 ねん 5月 がつ 、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう アレクシイ2世 せい が来日 らいにち 。モスクワ総 そう 主教 しゅきょう の訪日 ほうにち は歴史 れきし 上 じょう 初 はじ めてのものである(逆 ぎゃく に言 い えばロシア正教会 せいきょうかい は日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の母 はは 教会 きょうかい であるにもかかわらず、歴史 れきし 上 じょう 一 いち 度 ど もモスクワ総 そう 主教 しゅきょう の来日 らいにち がそれまでなかったことを意味 いみ し、亜 あ 使徒 しと ニコライ時代 じだい から日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい が日本人 にっぽんじん 主体 しゅたい で運営 うんえい されてきたことがここにも示 しめ されている)。
アレクシイ2世 せい は、函館 はこだて ・東京 とうきょう ・京都 きょうと を訪 おとず れている。アレクシイ2世 せい は京都 きょうと では京都 きょうと 正教会 せいきょうかい のほか、二条城 にじょうじょう も訪 おとず れた。東京 とうきょう では明仁 あきひと 天皇 てんのう と会談 かいだん 。東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう (ニコライ堂 どう ) ではアレクシイ2世 せい 司 し 祷 いのり のもと、ダニイル主 ぬし 代 だい 郁夫 いくお の府 ふ 主教 しゅきょう 選 せん 立 りつ 式 しき 及 およ び首座 しゅざ 主教 しゅきょう 着座 ちゃくざ 式 しき が挙行 きょこう された。着座 ちゃくざ 式 しき にはアレクシイ2世 せい 総 そう 主教 しゅきょう とダニイル主 ぬし 代 だい 府 ふ 主教 しゅきょう のほかに、ロシア正教会 せいきょうかい の主教 しゅきょう 2人 ふたり 、アメリカ正教会 せいきょうかい の主教 しゅきょう 2人 にん 、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の主教 しゅきょう 1人 にん (仙台 せんだい の主教 しゅきょう セラフィム辻 つじ 永 ひさし )も参加 さんか した。
東京 とうきょう の大 だい 主教 しゅきょう および全日本 ぜんにほん の府 ふ 主教 しゅきょう ダニイル主 ぬし 代 だい は西日本 にしにほん の主教 しゅきょう を兼任 けんにん している。
現在 げんざい 、ダニイル主 ぬし 代 だい 府 ふ 主教 しゅきょう の下 した で伝道 でんどう 活動 かつどう の復興 ふっこう が図 はか られている。特 とく にダニイル主 ぬし 代 だい 府 ふ 主教 しゅきょう は毎週 まいしゅう 日曜日 にちようび に自 みずか らの執筆 しっぴつ によるトラクトを配布 はいふ し、数々 かずかず のブックレットを発行 はっこう するなどして、正教会 せいきょうかい の精神 せいしん 性 せい についての啓発 けいはつ に力 ちから を入 い れている。代表 だいひょう 的 てき なものに『聖 せい 神 かみ 入門 にゅうもん 』(2005年 ねん 、日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい 教団 きょうだん 発行 はっこう )、『聖 せい ディオニシオス・聖 せい マキシム・新 しん 神学 しんがく 者 しゃ シメオン 』、『聖 せい 師父 しふ のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の直接 ちょくせつ の管轄 かんかつ 下 か にあって日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい と微妙 びみょう な関係 かんけい にあったモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエとの関係 かんけい はソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい 後 ご 、フェオドシイ永島 ながしま 府 ふ 主教 しゅきょう によってポドヴォリエの聖堂 せいどう が成 なり 聖 きよし されるほどにまで関係 かんけい が改善 かいぜん した。ダニイル主 ぬし 代 だい 郁夫 いくお 府 ふ 主教 しゅきょう に日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の首座 しゅざ 主教 しゅきょう が代 か わり、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエ管轄 かんかつ 下 か にある修道院 しゅうどういん でダニイル府 ふ 主教 しゅきょう も参加 さんか した聖体 せいたい 礼儀 れいぎ が行 おこな われ、2008年 ねん 9月12日 にち には目黒 めぐろ の新 しん 聖堂 せいどう である聖 ひじり 義徳 よしのり 大公 たいこう アレクサンドル・ネフスキー聖堂 せいどう の成 なり 聖 ひじり 式 しき には、府 ふ 主教 しゅきょう ダニイル主 ぬし 代 だい 郁夫 いくお も参加 さんか した。
1970年 ねん 以降 いこう の他 た 正教会 せいきょうかい との交流 こうりゅう 年表 ねんぴょう [ 編集 へんしゅう ]
この年表 ねんぴょう に示 しめ したもの以外 いがい にも、特 とく に母 はは 教会 きょうかい であるロシア正教会 せいきょうかい を中心 ちゅうしん に交流 こうりゅう が行 おこな われている。
東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう 教会 きょうかい の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
主 おも の降誕 こうたん 聖堂 せいどう (荻窪 おぎくぼ の山手 やまて ハリストス正教会 せいきょうかい )
明治 めいじ の宣教 せんきょう 拡大 かくだい 期 き から東京 とうきょう にはいくつかの教会 きょうかい が置 お かれていたが、明治 めいじ 時代 じだい から大正 たいしょう 時代 じだい 、昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて、さまざまな教会 きょうかい が設立 せつりつ されたり統廃合 とうはいごう が行 おこな われたりするなどしていた。これらの各 かく 教会 きょうかい は関東大震災 かんとうだいしんさい や戦災 せんさい による混乱 こんらん も伴 ともな った紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ た後 のち 、都内 とない の教会 きょうかい は杉並 すぎなみ に現存 げんそん する山手 やまて ハリストス正教会 せいきょうかい の他 ほか は、ニコライ堂 どう :東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう を中心 ちゅうしん に連合 れんごう した。ただし本格 ほんかく 的 てき な組織 そしき 的 てき 統合 とうごう は1974年 ねん に至 いた ってからであり、この年 とし 、都内 とない 5つの教会 きょうかい が統合 とうごう されて「中央 ちゅうおう 教会 きょうかい 」が発足 ほっそく した(「ニコライ堂 どう 」は大 だい 聖堂 せいどう の通称 つうしょう であり、教会 きょうかい 名 めい ではない)。中央 ちゅうおう 教会 きょうかい は1983年 ねん には「東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう 教会 きょうかい 」と名称 めいしょう を変 か え、現在 げんざい に至 いた っている。2004年 ねん には「東京 とうきょう 復活 ふっかつ 大 だい 聖堂 せいどう 教会 きょうかい 創立 そうりつ 30周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん 」が執 と り行 おこな われた。
宣教師 せんきょうし ニコライの全 ぜん 日記 にっき 刊行 かんこう [ 編集 へんしゅう ]
[ 41] 亜 あ 使徒 しと 大 だい 主教 しゅきょう 聖 せい ニコライとして列聖 れっせい されたニコライ・カサートキン について、その日記 にっき が存在 そんざい していたことそのものは日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の内部 ないぶ にも知 し られていたものの、おそらく関東大震災 かんとうだいしんさい で散逸 さんいつ し失 うしな われたものと思 おも われていた。ところが1979年 ねん 9月 がつ 、中村 なかむら 健之 けんし 介 かい により、レニングラード (現 げん サンクトペテルブルク )の中央 ちゅうおう 国立 こくりつ 歴史 れきし 古文書 こもんじょ 館 かん に保管 ほかん されていた聖 ひじり ニコライの日記 にっき の全 すべ てが発見 はっけん された。
2007年 ねん 7月 がつ 20日 はつか 、日本語 にほんご の全訳 ぜんやく 版 ばん が教 きょう 文 ぶん 館 かん より出版 しゅっぱん された。この出版 しゅっぱん にあたっては日本 にっぽん 財団 ざいだん から助成 じょせい もなされた。
全国 ぜんこく を行脚 あんぎゃ していた聖 ひじり ニコライによる詳細 しょうさい な日記 にっき の記述 きじゅつ は、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 史 し に新 あら たな一 いち 級 きゅう 史料 しりょう を提供 ていきょう するのみならず、全国 ぜんこく 各地 かくち を訪 おとず れた聖 ひじり ニコライによって観察 かんさつ された各地 かくち の習俗 しゅうぞく についての貴重 きちょう な記録 きろく となるものでもあると評価 ひょうか されている。
関連 かんれん :設計 せっけい 監督 かんとく 者 しゃ の系譜 けいふ [ 編集 へんしゅう ]
[ 42] 1916年 ねん の函館 はこだて ハリストス正教会 せいきょうかい の再建 さいけん の際 さい に設計 せっけい 監督 かんとく にあたったのは、輔祭 (のち司祭 しさい )として日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい に奉職 ほうしょく していたモイセイ河村 かわむら 伊蔵 いぞう である。河村 かわむら は豊橋 とよはし ハリストス正教会 せいきょうかい の設計 せっけい 監督 かんとく にも当 あ たった。
モイセイ河村 かわむら の息子 むすこ である内 うち 井 い 進 すすむ は建築 けんちく を本業 ほんぎょう とし、金成 かねなり ハリストス正教会 せいきょうかい と小田原 おだわら ハリストス正教会 せいきょうかい の両 りょう 聖堂 せいどう 、およびニコライ堂 どう のイコノスタス の設計 せっけい に関 かか わっている。
内 うち 井 い 進 しん の息子 むすこ であるガウリイル内 ない 井 い 昭蔵 しょうぞう も建築 けんちく 家 か であり正教 せいきょう のクリスチャンである。皇居 こうきょ :吹上御苑 ふきあげぎょえん の新 しん 御所 ごしょ 、世田谷 せたがや 美術館 びじゅつかん 、浦添 うらぞえ 市 し 美術館 びじゅつかん などを手 て がけた。著書 ちょしょ 『ロシアビザンチン 黄金 おうごん の環 たまき を訪 たず ねて』(丸善 まるぜん )は建築 けんちく 家 か としての視点 してん と正 せい 教徒 きょうと としての視点 してん の両方 りょうほう から黄金 おうごん の環 たまき ・キエフ ・サンクトペテルブルク に存在 そんざい する、主 おも に正教会 せいきょうかい の聖堂 せいどう を中心 ちゅうしん としてロシア建築 けんちく を概観 がいかん していくという珍 めずら しい書物 しょもつ である。埋葬 まいそう 式 しき はニコライ堂 どう で盛大 せいだい に行 おこな われた。永眠 えいみん のほぼ直前 ちょくぜん の時期 じき に、ニコライ堂 どう のイコノスタスに新品 しんぴん のイコン を献納 けんのう している。
世俗 せぞく 的 てき 政治 せいじ 問題 もんだい に対 たい する姿勢 しせい [ 編集 へんしゅう ]
近年 きんねん 、日本 にっぽん のキリスト教 きりすときょう 諸 しょ 教団 きょうだん が「靖国 やすくに 問題 もんだい 」や「憲法 けんぽう 問題 もんだい 」など政治 せいじ 運動 うんどう に熱心 ねっしん に取 と り組 く んでいるなか、信徒 しんと 個人 こじん としては大井 おおい 憲太郎 けんたろう 、昇 のぼり 曙夢 しょむ など政治 せいじ に携 たずさ わった者 もの がいたものの、日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい は他 た の諸 しょ 教団 きょうだん とは一線 いっせん を画 かく して、正教会 せいきょうかい という団体 だんたい としては政治 せいじ 運動 うんどう と一切 いっさい 関 かか わりを持 も っていない。これについては「政治 せいじ 的 てき 中立 ちゅうりつ 性 せい を保 たも っている」という評価 ひょうか から、「体制 たいせい 従属 じゅうぞく 的 てき である」という批判 ひはん までさまざまである[ 43] 。
因 ちな みに「体制 たいせい 従属 じゅうぞく 的 てき である」という批判 ひはん の声 こえ が挙 あ がる一因 いちいん として、天皇 てんのう と為政者 いせいしゃ のための祈 いの りがあるが、この祈 いの りは新約 しんやく 聖書 せいしょ の中 なか のテモテへの手紙 てがみ 一 いち 第 だい 2章 しょう の「願 ねが いと祈 いの りと執 と り成 な しと感謝 かんしゃ をすべての人々 ひとびと のためにささげなさい。王 おう たちやすべての高官 こうかん のためにもささげなさい」という記述 きじゅつ に基 もと づくものとされる[ 44] 。
諸 しょ 外国 がいこく の正教会 せいきょうかい では君主 くんしゅ や為政者 いせいしゃ への祈 いの りを捧 ささ げることは珍 めずら しくない。イギリスの正教会 せいきょうかい では女王 じょおう のために祈 いの りを捧 ささ げ、またアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では大統領 だいとうりょう と全 ぜん 軍 ぐん のために祈 いの りを捧 ささ げることで、君主 くんしゅ や為政者 いせいしゃ 、国軍 こくぐん が暴走 ぼうそう をせず国民 こくみん の平和 へいわ と安寧 あんねい 秩序 ちつじょ のためになるようにとの願 ねが いを常 つね に込 こ めているとされる。日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい による天皇 てんのう と為政者 いせいしゃ への祈 いの りも同様 どうよう の意義 いぎ をもつ。また、現 げん 日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 下 した において天皇 てんのう の地位 ちい が日本 にっぽん 国民 こくみん の統合 とうごう の象徴 しょうちょう であることから、天皇 てんのう への祈 いの りは即 すなわ ち日本 にっぽん 国民 こくみん 全体 ぜんたい への聖 せい なる祈 いの りであるとの意味合 いみあ いも込 こ められているとされる。ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい からオスマン帝国 ていこく 、ソビエト連邦 れんぽう において迫害 はくがい を受 う けていた時期 じき にも、「敵 てき を愛 あい し、迫害 はくがい する者 もの のために祈 いの れ」(マタイによる福音 ふくいん 書 しょ 5:44)の実践 じっせん として異教徒 いきょうと である為政者 いせいしゃ のための祈 いの りを正教会 せいきょうかい は行 おこな ってきたのであり、この観点 かんてん から「敵 てき のための祈 いの り」の実践 じっせん であるとの見解 けんかい もある[ 43] 。
なお、モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう が管轄 かんかつ している、ロシア人 じん ・ウクライナ人 じん などの信徒 しんと が大 だい 多数 たすう である、本駒込 ほんこまごめ のロシア正教会 せいきょうかい モスクワ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう 駐日 ちゅうにち ポドヴォリエ でも、連 れん 祷 いのり などでロシアの国 くに のための祈 いの りのみならず、日本 にっぽん の天皇 てんのう のための祈 いの りが行 おこな われている。「その国 くに の象徴 しょうちょう ・元首 げんしゅ のために祈 いの る」のは民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき な色彩 しきさい や「体制 たいせい 迎合 げいごう 」では説明 せつめい できない伝統 でんとう であることが示 しめ されている。
この他 ほか に、海外 かいがい の軍隊 ぐんたい (主 おも に東欧 とうおう 、また米 べい 軍 ぐん にも)では正教 せいきょう の従軍 じゅうぐん 司祭 しさい も存在 そんざい する。
聖書 せいしょ ・祈祷 きとう 書 しょ 等 とう にみられる独自 どくじ の翻訳 ほんやく ・用語 ようご 体系 たいけい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい は
等 ひとし を反映 はんえい し、独特 どくとく の翻訳 ほんやく ・用語 ようご 体系 たいけい を作 つく り上 あ げるに至 いた った。聖書 せいしょ 翻訳 ほんやく のみならず、祈祷 きとう 書 しょ 翻訳 ほんやく についても同様 どうよう の体系 たいけい が作 つく り上 あ げられている。
日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい においては、当然 とうぜん ながら日本 にっぽん の法 ほう 規制 きせい を受 う ける。そのひとつが、死 し んだ信者 しんじゃ の亡骸 なきがら の扱 あつか いである。
本来 ほんらい キリスト教 きりすときょう においては、信者 しんじゃ の亡骸 なきがら は将来 しょうらい の復活 ふっかつ に備 そな え土葬 どそう とすることが基本 きほん とされ、ロシア正教 せいきょう ではそのことがより厳密 げんみつ に求 もと められている。しかし、日本 にっぽん は国土 こくど が狭 せま く、なおかつ気候 きこう 条件 じょうけん から亡骸 なきがら が腐乱 ふらん しやすいため、自治体 じちたい によっては、条例 じょうれい により、亡骸 なきがら は焼 や いて骨 ほね だけにしなければならないと規定 きてい している。このため、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい では、火葬 かそう もやむなしとしており、火葬 かそう する場合 ばあい であっても葬儀 そうぎ を「埋葬 まいそう 式 しき 」として扱 あつか っている。
近年 きんねん では、2009年 ねん に癌 がん で死去 しきょ した歌手 かしゅ の川村 かわむら カオリ が、この事例 じれい に該当 がいとう (モスクワで生 う まれ母親 ははおや がロシア人 じん であったため幼 おさな くして洗礼 せんれい を受 う けていた)。
ルーマニアおよびウクライナの正教会 せいきょうかい の日本 にっぽん 支部 しぶ [ 編集 へんしゅう ]
2008年 ねん 11月、ルーマニア正教会 せいきょうかい が「日本 にっぽん 支部 しぶ 」を設立 せつりつ 、日本 にっぽん に二 ふた つの教区 きょうく を設置 せっち した。この設置 せっち は日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい といかなる連絡 れんらく もとらずに行 おこな われたため、紛争 ふんそう となっている[ 45] 。
詳細 しょうさい については、日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい を参照 さんしょう 。
正教会 せいきょうかい (ギリシャ正教 せいきょう 、東方 とうほう 正教会 せいきょうかい ) — 正教会 せいきょうかい の洗礼 せんれい ・聖体 せいたい 機密 きみつ (聖体 せいたい 礼儀 れいぎ )を含 ふく む機密 きみつ (秘蹟 ひせき )は全 すべ ての正教会 せいきょうかい で有効 ゆうこう 。「ルーマニア正教会 せいきょうかい 」「ロシア正教会 せいきょうかい 」は組織 そしき 名 めい であり、一 いち 組織 そしき を信仰 しんこう するかのような「ロシア正教 せいきょう を信仰 しんこう する」「グルジア正教 せいきょう を信仰 しんこう する」といった表現 ひょうげん は誤 あやま りである。
^ コンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう は日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の自治 じち 教会 きょうかい としての地位 ちい は認 みと めていないものの教会 きょうかい 法 ほう 上 じょう の合法 ごうほう 性 せい は認 みと めており、コンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう と日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の間 あいだ にはこれまで首脳 しゅのう 同士 どうし の相互 そうご 訪問 ほうもん も行 おこな われている。詳細 しょうさい は本 ほん 記事 きじ 内 ない の「交流 こうりゅう 年表 ねんぴょう 」を参照 さんしょう 。
^ 教会 きょうかい ホームページ等 とう での表記 ひょうき による。海外 かいがい の媒体 ばいたい では"Japanese Orthodox Church"等 とう となっているケースも見 み られるが、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい の用 もち いる公式 こうしき な表記 ひょうき ではない。
^ ギリシア語 ご : ε いぷしろん ἰς π ぱい ο おみくろん λ らむだ λ らむだ ὰ ἔτ たう η いーた , Δέσποτα 、「主教 しゅきょう に永 なが き年月 としつき 〔の神 かみ の恩寵 おんちょう 〕がありますように」の意 い 。
^ 当時 とうじ はまだ日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい は自治 じち 教会 きょうかい ではなかったが、「日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」の通称 つうしょう はかなり早 はや くから用 もち いられており、本 ほん 項 こう でも「聖 せい 自治 じち 日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」成立 せいりつ 以前 いぜん の日本 にっぽん の正教会 せいきょうかい も「日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 」と呼称 こしょう する。日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい が「自治 じち 教会 きょうかい 」となったのは1970年 ねん である。
^ 昇叙 しょうじょ (しょうじょ)-それまでの功績 こうせき により、聖職 せいしょく 者 しゃ としての位 くらい が上 あ げられることをいう。
^ 1931年 ねん 、セルギイ・チホミーロフは府 ふ 主教 しゅきょう となる。
^ この時 とき 、岡田 おかだ 信一郎 しんいちろう によって一部 いちぶ 外観 がいかん が変更 へんこう された。
^ 成 なり 聖 ひじり 式 しき -せいせいしき。建造 けんぞう 物 ぶつ ・物品 ぶっぴん を聖 ひじり にすること。
^ この時 とき モスクワではソ連 それん によってティーホン総 そう 主教 しゅきょう の後任 こうにん が置 お かれず、200年 ねん の時 とき を経 へ て復活 ふっかつ したモスクワ総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ はまたしても空席 くうせき となっていた。この時 とき のロシア正教会 せいきょうかい のトップは府 ふ 主教 しゅきょう セルギイ・ストラゴロドスキイである。彼 かれ は日本 にっぽん に赴任 ふにん していたことがあり、セルギイ・チホミーロフ とも旧知 きゅうち の仲 なか であった。邦訳 ほうやく 著書 ちょしょ :セルギー/佐藤 さとう 靖彦 やすひこ ・訳 やく 『ロシア人 じん 宣教師 せんきょうし の「蝦夷 えぞ 旅行 りょこう 記 き 」』新 しん 読書 どくしょ 社 しゃ
松里 まつざと 公孝 きみたか , 「エッセイ日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい 見聞 けんぶん 録 ろく 」,『スラブ研究 けんきゅう センターニュース』季刊 きかん 2012 年 ねん 春 はる 号 ごう No.129 。(2022年 ねん 6月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん )
ルーマニア正教会 せいきょうかい 日本 にっぽん 支部 しぶ , 「日本 にっぽん での活動 かつどう の歴史 れきし 」,webサイト『ルーマニア正教会 せいきょうかい 』より 。(2022年 ねん 6月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん )
「キエフ総 そう 主教 しゅきょう 庁 ちょう の在日 ざいにち ウクライナ正教会 せいきょうかい で初 はつ の日本人 にっぽんじん 聖職 せいしょく 者 しゃ 誕生 たんじょう 」 ,CHRISTISN TODAY,2015年 ねん 10月 がつ 29日 にち 15時 じ 45分 ふん 。
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