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沢辺さわべ琢磨たくま

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沢辺さわべ琢磨たくま

沢辺さわべ 琢磨たくま(さわべ たくま、天保てんぽう5ねん1がつ5にち1834ねん2がつ13にち〉- 大正たいしょう2ねん1913ねん6月25にち〉は、日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいはつせい教徒きょうと(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初さいしょ日本人にっぽんじん司祭しさいである。聖名せな洗礼せんれいめい)はパウェルパウロ)。旧姓きゅうせい山本やまもと

生涯しょうがい

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出生しゅっしょうから函館はこだてまで

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天保てんぽう6ねん(1835ねん)、土佐とさこく土佐とさぐん潮江しおえむら現在げんざい高知こうち)に土佐とさはん郷士ごうしである山本やまもと信道のぶみち(1805-1858、だいなな)の長男ちょうなんとしてまれる。幼名ようみょう数馬かずま(かずま)。山本やまもと信道のぶみちちち山本やまもとしんねん(1780-1863、しんよんろう)の実弟じってい山本やまもとつね八郎はちろうおな土佐とさ郷士ごうし坂本さかもと婿養子むこようしとしてはい坂本さかもとただしあし(1797-1855、八平はちへい)に改名かいめいした。坂本さかもとただしあし次男じなん坂本さかもと龍馬りょうまであり、龍馬りょうまとは血縁けつえんおよ実質じっしつじょう親類しんるい同士どうしである。また琢磨たくまはは武市たけいちみずほさんつまである富子とみこ叔母おばであった。

武術ぶじゅつすぐ江戸えどさん大道だいどうじょうひとつといわれたかがみこころ明智めいちりゅう桃井ももい道場どうじょうでそのうで一層いっそうみがき、師範代しはんだいつとめるまでになる。ところがあるばんさけんでのかえみちひろったきむ時計とけいったいきおいで一緒いっしょにいた友人ゆうじん共謀きょうぼう時計とけいってしまいただちにそれが不法ふほうなものであることが発覚はっかくして窮地きゅうちまれる。訴追そついのがれるために龍馬りょうま半平はんぺんふとしたすけを江戸えど脱出だっしゅつ東北とうほく各地かくちながまわったすえ新潟にいがたにたどりいたところで出会であった前島まえじまひそかはこかん現在げんざい函館はこだて)にくことをすすめられはこかんく。

はこかん正教せいきょう洗礼せんれい

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はこかんではまえ剣術けんじゅつうでこうをなし、それがきっかけとなって道場どうじょうひらくとまち名士めいしたちとも親交しんこうつようになる。そんななかったはこかん神明しんめいみや現在げんざい山上さんじょう大神宮だいじんぐう宮司ぐうじ沢辺さわべ悌之すけわれてむすめ婿養子むこようしとなり、以後いご沢辺さわべせい名乗なのる。はこかん時代じだい琢磨たくまについて、新島にいじま七五三しめふとし新島にいじまじょう)が米国べいこく密航みっこうするときの手助てだすけをしたというエピソードがつたわっている。

当時とうじすで開港かいこうしていたはこかんにはロシア帝国ていこく領事館りょうじかんがあり附属ふぞく聖堂せいどう管轄かんかつ司祭しさいとして来日らいにちしていたロシア正教会せいきょうかいニコライ神父しんぷ日本にっぽん宣教せんきょう機会きかいうかがいつつ日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく歴史れきし研究けんきゅうしていた。領事館りょうじかんいんなか子弟してい日本にっぽん武術ぶじゅつまなばせたいというものがいてその指南しなんやくとなり領事館りょうじかん出入でいりするようになった琢磨たくまもニコライをることとなったが、攘夷じょういろんしゃだった琢磨たくまはニコライの日本にっぽん研究けんきゅうたいして日本にっぽん侵略しんりゃくけた情報じょうほう収集しゅうしゅうとの疑念ぎねんいだきニコライをロシアからつかわされた密偵みっていだとおもうようになった。そして殺害さつがいをもさぬ覚悟かくごでもって大刀たちこしびニコライを訪問ほうもん来日らいにち日本にっぽん研究けんきゅう意図いと詰問きつもんした。たいするニコライは琢磨たくまいに理路りろ整然せいぜんこたえるとともに、琢磨たくまたいしてハリストス正教せいきょうおしえをっているかと質問しつもんした。らぬとこたえた琢磨たくまに「ハリストス正教せいきょう如何いかなるものかをってから正邪せいじゃ判断はんだんするのでもおそくはなかろう」とさとした。たしかにそれも一理いちりあるとかんがえた琢磨たくま以後いごニコライのした日参にっさんしておしえをまなんでいくうちに心服しんぷくし、のち友人ゆうじん医師いし酒井さかいあつしれいらをもさそって教理きょうりまなんだ。そして、ついにはまだキリスト教きりすときょう禁制きんせい慶応けいおう4ねん4がつ2にち1868ねん4がつ24にち)、酒井さかい浦野うらの太蔵たぞうとともに秘密ひみつうらにニコライよりせいあらい機密きみつ洗礼せんれい)を日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい初穂はつほ最初さいしょ信者しんじゃ)となった。聖名せな洗礼せんれいめい)は初代しょだい教会きょうかい時代じだいキリスト教きりすときょう迫害はくがいちゅう劇的げきてき回心かいしん経験けいけんして伝道でんどうしゃとなりキリストきょう世界せかい宗教しゅうきょうへのみちひらいたのち致命ちめいしたせい使徒しとパウェル(パウロ)をあたえられた。

受洗じゅせん琢磨たくまはしばらくのあいだ神明しんめいしゃ宮司ぐうじとどまっていた。祭祀さいしときには祝詞のりと漢語かんごやく聖書せいしょひじりえてカムフラージュをしたりもしていたが、やがてハリストス正教せいきょう改宗かいしゅうしたことを公言こうげん神明しんめいしゃる。禁教きんきょうにおいて神道しんとう祭司さいししょく邪教じゃきょう改宗かいしゅうしたということもあって、琢磨たくま一家かずやたいする迫害はくがい非常ひじょうきびしく生活せいかつ困窮こんきゅうきわめた。さらには精神せいしんてきまいってしまったつま自宅じたく放火ほうかをするという事件じけんきた。その琢磨たくま妻子さいしのこしてはこかん一時いちじ脱出だっしゅつ布教ふきょうしながら東北とうほく地方ちほう南下なんかするが途中とちゅう捕縛ほばく投獄とうごくされ、のち釈放しゃくほうされてはこかんもどった。以後いご伝道でんどうちゅう仙台せんだいにてふたた捕縛ほばくされるが明治めいじ政府せいふによって禁教きんきょうかれると自由じゆうとなり以前いぜんにもして伝道でんどうちかられた。

司祭しさいとして

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やがてきょうぜいび、日本人にっぽんじん神品しんぴん聖職せいしょくしゃ)の必要ひつようせいたかまってくる。ニコライは明治めいじ8ねん1875ねん)7がつ東京とうきょうだい1かいおおやけ会議かいぎ招集しょうしゅうし、そのなか司祭しさいせんりつ討議とうぎされた。出席しゅっせき議員ぎいんによる選挙せんきょ琢磨たくま酒井さかい2めいえらばれたが酒井さかいら3めい推薦すいせん固辞こじした。はないの結果けっか琢磨たくま司祭しさい候補こうほに、酒井さかい輔祭候補こうほとすることに決定けっていした。そして、同年どうねんすえ函館はこだて聖堂せいどうにてこののために来日らいにちしたひがしシベリアのパウェル主教しゅきょう按手によって琢磨たくま日本人にっぽんじんはつ司祭しさいじょきよしされた(酒井さかい輔祭じょひじりされた)。わざわざカムチャツカからパウェル主教しゅきょう招請しょうせいしたのは、当時とうじニコライはまだてのひらいん司祭しさいくらいひとつ)であって、主教しゅきょうではなく、神品しんぴん機密きみつ執行しっこう権能けんのうがなかったためである。

はれて司祭しさいとなった琢磨たくま任地にんち各地かくち教会きょうかい聖体せいたい礼儀れいぎつかさいのりし、また洗礼せんれい機密きみつさづけておおくのハリスチャニンをそだてた。のちちょう司祭しさい(ロシア正教会せいきょうかい正式せいしき位階いかいであるちょう司祭しさい(archpriest)とはことなり、主教しゅきょう区内くないにおいて主教しゅきょう権限けんげん授与じゅよされる称号しょうごう今日きょうでは「管長かんちょう」という訳語やくごがあてられている)に昇叙しょうじょされた。

東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう通称つうしょうニコライどう建設けんせつにあたっては、建設けんせつ資金しきん困窮こんきゅうする神品しんぴんつてきょうしゃ生活せいかつまわすべきだとして、のニコライと対立たいりつしたこともあった[1]

ニコライと琢磨たくま関係かんけい一時いちじ緊張きんちょうしたものの、のち和解わかい東京とうきょう復活ふっかつだい聖堂せいどう明治めいじ17ねん1884ねん)3がつ起工きこうした。建設けんせつ中途ちゅうと明治めいじ22ねん1889ねんごろからは尖塔せんとう宮城みやぎ皇居こうきょ)を見下みおろすかたちになり不敬ふけいであるとの言説げんせつ流布るふするという反響はんきょうがあり[2]琢磨たくま建設けんせつ妨害ぼうがいしようとする右翼うよくへの対応たいおうをした[3]正教せいきょうによって温和おんわ精神せいしんにはなっているが、青壮年せいそうねん時代じだい武道ぶどう精神せいしん容貌ようぼうあらわれた琢磨たくま姿すがた建設けんせつ現場げんばあらわれると、右翼うよくはいつのにか姿すがたしていたとつたえられている[3]

一貫いっかんしてかみ奉献ほうけんするみちあゆみ、福音ふくいん宣教せんきょう生涯しょうがいささげた。明治めいじ45ねん1912ねん)にニコライだい主教しゅきょう永眠えいみんすると琢磨たくまのちうようによく大正たいしょう2ねん1913ねん6月25にち東京とうきょうにあった四谷よつや洗礼せんれい教会きょうかいにて長男ちょうなん司祭しさいのアレキセイ・沢辺さわべ悌太ろう神父しんぷ看取みとられながら永眠えいみん。79さいぼつ最後さいご言葉ことばは「聖堂せいどう…」であったと悌太ろうによりつたえられている[ちゅう 1][4]

埋葬まいそうしきはニコライどうにてセルギイ・チホミーロフ主教しゅきょうつかさいのり盛大せいだい挙行きょこう青山あおやま霊園れいえん埋葬まいそうされる。

系譜けいふ

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いぬいただしさとし山本やまもとしんけい福岡ふくおかたかししゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いぬい信武のぶたけ宮地みやじしんさだ[ちゅう 2]山本やまもとしんかた福岡ふくおかたかしきよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いぬい正成まさしげ宮地みやじしげるこのみ山本やまもとしんねん坂本さかもとただしあし[ちゅう 3]福岡ふくおかこうじゅん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣いたがき退助たいすけ宮地みやじ自然しぜん山本やまもと信道のぶみち坂本さかもと龍馬りょうま福岡ふくおか孝弟こうてい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣いたがきぼこ太郎たろういぬいただし宮地みやじぐん
 
 
 
宮地みやじ茂春しげはる沢辺さわべ琢磨たくま[ちゅう 4]福岡ふくおかしげるいのしし板垣いたがき絹子きぬこ[ちゅう 5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣いたがき守正もりまさ板垣いたがきただしぬき宮地みやじしげるあき
 
 
 
 
 
 
宮地みやじ福岡ふくおかたかし
 
 
 
 
 
 

関連かんれん作品さくひん

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テレビアニメ
テレビドラマ
漫画まんが
  • お〜い!竜馬りょうま』(原作げんさく武田たけだ鉄矢てつや作画さくが小山こやまゆう)- 主人公しゅじんこう竜馬りょうまとはおさなころから日根野ひねの道場どうじょうどう門生もんせいという設定せってい
  • サムライせんせい』(黒江くろえSかい)のだい3かん - 武市たけいち半平はんぺんふとしとともに江戸えど剣術けんじゅつ修行しゅぎょうさきにて、岡田おかだ以蔵といたとき町人ちょうにんむなぐらつかんでさけった江戸えどさむらいまえ喧嘩けんかって抜刀ばっとうし、きむ時計とけいったその江戸えどさむらい琢磨たくま使つかぎぬせられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 遺体いたい聖堂せいどうはこべ」という意味いみであったと悌太ろう解釈かいしゃくした。
  2. ^ 宮地みやじともなな養子ようしとなる。
  3. ^ 坂本さかもとはちぞうちょくきよし養子ようしとなる。本名ほんみょう山本やまもとつね八郎はちろう(1797-1855)。
  4. ^ はこかん神明しんめいみや宮司ぐうじ沢辺さわべ悌之すけ養子ようしとなる。本名ほんみょう山本やまもと数馬かずま(1834-1913)。
  5. ^ 福岡ふくおか孝弟こうてい養女ようじょじつ荒木あらきさんななじょ荒木あらきしゅうどういもうと)、板垣いたがき退助たいすけ継室けいしつ

出典しゅってん

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  1. ^ 長縄ながなわ光男みつお『ニコライどうのこ聞』162ぺーじ - 164ぺーじISBN 9784915730573
  2. ^ 佐藤さとう八寿子やすこ (2002-03-31). 明治めいじミッションスクールと不敬ふけい事件じけん (PDF). 京都大学きょうとだいがく大学院だいがくいん教育きょういくがく研究けんきゅう紀要きよう (京都きょうと大学だいがく大学院だいがくいん教育きょういくがく研究けんきゅう) 48: pp. 147 - 159. https://hdl.handle.net/2433/57458 2009ねん8がつ4にち閲覧えつらん. 
  3. ^ a b 沢辺さわべ琢磨たくま生涯しょうがい』228ぺーじ - 231ぺーじ(福永ふくなが久寿ひさとしまもるちょ 沢辺さわべ琢磨たくまでん刊行かんこうかい 昭和しょうわ54ねん1979ねん))
  4. ^ 沢辺さわべ琢磨たくま生涯しょうがい』240ぺーじ(福永ふくなが久寿ひさとしまもるちょ 沢辺さわべ琢磨たくまでん刊行かんこうかい 昭和しょうわ54ねん1979ねん))

参考さんこう文献ぶんけん

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正教会せいきょうかいちょう司祭しさいによる日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい通史つうし
  • 沢辺さわべ琢磨たくま生涯しょうがい』(福永ふくなが久寿ひさとしまもるちょ 沢辺さわべ琢磨たくまでん刊行かんこうかい 昭和しょうわ54ねん1979ねん))
琢磨たくま郷里きょうり高知こうちけん研究けんきゅうによる評伝ひょうでん
  • 『がんがんてらかね』(成田なりた千秋ちあきちょ 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 平成へいせい6ねん1994ねん)) 
琢磨たくま江戸えど上京じょうきょうから司祭しさいじょひじりころまでを題材だいざいにした歴史れきし小説しょうせつ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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