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大村おおむら純忠すみただ

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大村おおむら 純忠すみただ
300
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん2ねん1533ねん[1]
死没しぼつ 天正てんしょう15ねん5月18にち1587ねん6月23にち
改名かいめい かちわらわまる[1]幼名ようみょう)→ 純忠じゅんちゅう
別名べつめい みん大輔だいすけ丹後たんごもり受領じゅりょうめい
れいめい ドン・バルトロメオ[2]
主君しゅくん 龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 有馬ありま大村おおむら
父母ちちはは ちち有馬ありまはれじゅんはは大村おおむらじゅんむすめ
養父ようふ大村おおむらじゅんまえ
兄弟きょうだい
つま 正室せいしつ西郷さいごうじゅんひさむすめおゑん[3]
まえじゅんせん純直すみただじゅんさかえむすめ江上こうじょうしゅしつ)、まつ東院とういん松浦まつうら久信ひさのぶしつ)、とら(長崎ながさきじゅんけいしつ
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大村おおむら 純忠すみただ(おおむら すみただ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての大名だいみょう三城みきじょうおも大村おおむらだい12だい当主とうしゅ

えいろく6ねん1563ねん)に日本にっぽんはつキリシタン大名だいみょうとなり[4]長崎ながさきこう開港かいこうした人物じんぶつとしてられる。おなじくキリシタン大名だいみょう有馬ありま晴信はるのぶおいにあたる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

養嗣子ようししになり家督かとく相続そうぞく[編集へんしゅう]

天文てんもん2ねん1533ねん)、肥前ひぜんこく戦国せんごく大名だいみょう有馬ありまはれじゅん次男じなん[1]として誕生たんじょう

はは大村おおむらじゅんむすめであったために、天文てんもん7ねん1538ねん)に大村おおむらじゅんまえ養嗣子ようししとなり[1]天文てんもん19ねん1550ねん)に家督かとくいだ。じゅんまえには実子じっし又八郎またはちろうがおり(庶子しょし)、この養子ようし縁組えんぐみのために武雄たけお本拠ほんきょいていた後藤ごとう養子ようしされ後藤ごとう貴明たかあき改名かいめいした。

キリシタン大名だいみょう[編集へんしゅう]

えいろく4ねん1561ねん)、松浦まつうら領土りょうどであった平戸ひらどみやまえで、ポルトガル商人しょうにん日本人にっぽんじん商人しょうにんそうろんからポルトガルひと殺傷さっしょう事件じけん宮ノ前みやのまえ事件じけん)がこると[5]、ポルトガルじんあたらしいみなとさがはじめ、純忠じゅんちゅうえいろく5ねん1562ねん)、りょうにある横瀬よこせうら提供ていきょうもうた。イエズスかい宣教師せんきょうしがポルトガル商人しょうにんたいしておおきな影響えいきょうりょくつことをっていた純忠じゅんちゅうは、あわせてイエズスかい住居じゅうきょ提供ていきょうなど便宜べんぎをはかった[6]結果けっかとして横瀬よこせうらはにぎわい、純忠じゅんちゅうのこの財政ざいせい改善かいぜんさく成功せいこうした。

えいろく6ねん(1563ねん[2]宣教師せんきょうしからキリストきょうについてまなんだのち純忠じゅんちゅう家臣かしんとともにコスメ・デ・トーレス神父しんぷから洗礼せんれいけ、領民りょうみんにもキリスト教きりすときょう信仰しんこう奨励しょうれいした。その結果けっか大村おおむらりょうないでは最盛さいせいのキリストしゃすうは6まんにんえ、日本にっぽん全国ぜんこく信者しんじゃやく半数はんすう大村おおむらりょうないにいた時期じきもあったとされる。純忠じゅんちゅう入信にゅうしんについてはポルトガルせんのもたらす利益りえき目当めあてという見方みかた根強ねづよいが、記録きろくによれば純忠じゅんちゅう自身じしん熱心ねっしん信徒しんとで、受洗じゅせんつま以外いがい女性じょせい関係かんけいたず、にいたるまで忠実ちゅうじつキリスト教徒きりすときょうとであろうと努力どりょくしていたことも事実じじつである[独自どくじ研究けんきゅう?]。また、横瀬よこせうら開港かいこうしたさいも、仏教徒ぶっきょうと居住きょじゅう禁止きんしや、貿易ぼうえき目的もくてき商人しょうにんに10年間ねんかん税金ぜいきん免除めんじょするなどの優遇ゆうぐうおこなっている[7]。しかし、純忠じゅんちゅう信仰しんこう過激かげきなもので、領内りょうない寺社じしゃ破壊はかいし、先祖せんぞ墓所はかしょこわした。また、領民りょうみんにもキリスト教きりすときょう信仰しんこういて僧侶そうりょ神官しんかん殺害さつがい改宗かいしゅうしない領民りょうみん殺害さつがいされたり土地とちわれるなどの事件じけん相次あいつぎ、家臣かしん領民りょうみん反発はんぱつまねくことになる[よう出典しゅってん]

内訌ないこう[編集へんしゅう]

後藤ごとう養子ようしされた貴明たかあき純忠じゅんちゅううらみ、主君しゅくん不満ふまん大村おおむら家臣かしんだん呼応こおう反乱はんらんこして横瀬よこせうらはらったが、もとかめ元年がんねん1570ねん)に純忠じゅんちゅう女婿じょせい長崎ながさき甚左衛門えもんじゅんけい)にめいじて長崎ながさきをポルトガルじん宣教師せんきょうしだん提供ていきょうした。寒村かんそんにすぎなかった当地とうちは、以降いこう良港りょうこうとしておおきく発展はってんしていく。

貴明たかあき松浦まつうららの援軍えんぐんると、もとかめ3ねん1572ねん)にちち居城きょじょうである三城みきじょう急襲きゅうしゅう後藤ごとうぜい1500をむかえた純忠じゅんちゅう配下はいかわずか80めいほどは援軍えんぐんるまでこたえ、攻撃こうげきぜい撤退てったいんでいる(三城みきななこも)。天正てんしょう6ねん1578ねん)に長崎ながさきこう龍造寺りゅうぞうじぐんらによって攻撃こうげきされると、純忠じゅんちゅうはポルトガルじん支援しえんけこれを撃退げきたいした。

純忠じゅんちゅう天正てんしょう8ねん1580ねん)に、長崎ながさきのみならず茂木もきをイエズスかい教会きょうかいりょうとして寄進きしんした[8][注釈ちゅうしゃく 1]

天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ晩年ばんねん[編集へんしゅう]

日本にっぽん訪問ほうもん巡察じゅんさつちゅうのイエズスかいアレッサンドロ・ヴァリニャーノ対面たいめんし、天正てんしょう10ねん1582ねん)に天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ派遣はけんめている。純忠じゅんちゅう名代なだいおいにあたる千々石ちぢわミゲルであった[9]

純忠じゅんちゅうにはそれぞれ洗礼せんれいめいつ4にん息子むすこまえ(サンチョ)、じゅんせん(リノ)、純直すみただ(セバスチャン)、じゅんさかえ(ルイス)がいた。が、天正てんしょう4ねん1576ねん) - 天正てんしょう5ねん1577ねんごろには龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ圧迫あっぱくけ、まえのぞく3にん人質ひとじちられるなど、ほぼ従属じゅうぞく状態じょうたいにあり、天正てんしょう12ねん1584ねん)の沖田おきたなわてたたかにも#龍造寺りゅうぞうじかたとして従軍じゅうぐんしている。しかし、親族しんぞくである有馬ありまぜいとのたたかいには消極しょうきょくてきむなし鉄砲てっぽうっていたといわれる[10]このため隆信たかのぶ戦死せんし[疑問ぎもんてん]だい村勢そんせい交戦こうせん相手あいてであるはずの島津しまつぐん追撃ついげきけず開放かいほうされたという[10]

天正てんしょう14ねん1586ねん)のなついたり、あに死後しご長与ながよ領地りょうちうばった長与ながよ純一じゅんいち純忠じゅんちゅう反旗はんきひるがえした。純忠じゅんちゅうぐんおくり、長与ながよ純一じゅんいちはまじょうとしすみやかに鎮圧ちんあつした[注釈ちゅうしゃく 2]

最期さいご[編集へんしゅう]

天正てんしょう15ねん(1587ねん)3がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう平定へいていにおいては秀吉ひでよししたがって本領ほんりょう安堵あんどされた。ただし55さい純忠じゅんちゅうすで咽頭いんとうがんならびに肺結核はいけっかくおかされて重病じゅうびょうゆかにあり、19さい嫡子ちゃくしまえ代理だいりとして出陣しゅつじんしている。

やまいおとろえた純忠じゅんちゅうはたびたび神父しんぷんで来世らいせことはなしてしいとねがい、それをきながらおおいに満足まんぞくしてなみだながした。純忠じゅんちゅうさとり、領内りょうない拘束こうそくしていた捕虜ほりょ200めい釈放しゃくほう[11]死去しきょ前日ぜんじつには可愛かわいがっていた1ひき小鳥ことりかごからしてそらはなたせた。このとき純忠じゅんちゅうにはすでやまいのために小鳥ことりはな体力たいりょくさえなく、侍女じじょにそれをたのんだのだが、侍女じじょ小鳥ことりをぞんざいにあつかったため純忠じゅんちゅういかりをあらわにした。しかしおこことかみ意思いしはんするとして純忠じゅんちゅう侍女じじょ立派りっぱおびあたえて、「小鳥ことりデウスようつくられたものであるから、はそれを可愛かわいがっている。それゆえ今後こんごとも愛情あいじょうをもってあつかってほしい」とべたとつたわる(『フロイス日本にっぽん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]』)。

1587ねん6月23にち天正てんしょう15ねん5月18にち)、坂口さかぐち居館きょかんにおいて死去しきょバテレン追放ついほうれい前年ぜんねんであった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

#フロイス日本にっぽん』につたわる小鳥ことりはなしにもあるように、敬虔けいけんなキリシタンであった。洗礼せんれいけたのち純忠じゅんちゅう正室せいしつのおゑん(おえん)とあらためてキリスト教きりすときょうもとづく婚姻こんいんおこない、このとき側室そくしつ退しりぞけた[3]

一方いっぽうでキリシタンになった理由りゆうは、弱小じゃくしょうである自国じこく安定あんていさせるため、ポルトガルとの貿易ぼうえきによりとみ武器ぶきれるという打算ださんてき目的もくてきがあったともされている。大村おおむら領民りょうみん6まんにんをキリシタンに改宗かいしゅうさせるなどしているが、その手段しゅだんはかなり強引ごういんであったとされており、先祖せんぞはか社寺しゃじ破壊はかいし、改宗かいしゅう拒否きょひをしたふつそう追放ついほうするなど、仏道ぶつどう神道しんとうたいする深刻しんこく差別さべつ迫害はくがいおこなったとされている[7]。また、西洋せいよう武器ぶきれる取引とりひき材料ざいりょうとして、改宗かいしゅう拒否きょひをしたものたち奴隷どれいとして海外かいがいわたしていたという記録きろくもあり、これらのおこないがバテレン追放ついほうれい原因げんいんになったとのせつもある[独自どくじ研究けんきゅう?]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ のち豊臣とよとみ秀吉ひでよしイエズスかいからげ、秀吉ひでよし直轄ちょっかつりょうとなった。
  2. ^ この長与ながよ純一じゅんいちとのたたかいのさい相手方あいてがたしろ一番乗いちばんのりをたしたのは16さい大村おおむらじゅんかち。のちに大村おおむらはん重鎮じゅうちんとなるが、おさむじょう戦中せんちゅうに「梅干うめぼ」とさけんだことにより、はまじょうは「つばいんじょう」とばれるようになった、とのはなしのこっている[よう出典しゅってん]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 松田まつだ, p. 16.
  2. ^ a b 松田まつだ, p. 17.
  3. ^ a b 松田まつだ, p. 211.
  4. ^ 松田まつだ, p. 204.
  5. ^ 松田まつだ, p. 29-30.
  6. ^ 松田まつだ, p. 35.
  7. ^ a b 松田まつだ, p. 203.
  8. ^ 松田まつだ, p. 146.
  9. ^ 松田まつだ, p. 160.
  10. ^ a b 松田まつだ, p. 182.
  11. ^ 松田まつだ, p. 193.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう書誌しょし情報じょうほうおも執筆しっぴつしゃじゅん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
大村おおむらじゅんまえ
大村おおむらだい12だい当主とうしゅ
1550ねん - 1587ねん
次代じだい
大村おおむらまえ