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ヤジロウ

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ヤジロウ弥次やじろう1511ねんえいただし8ねんごろ? - 1550ねん天文てんもん19ねんごろ?)は、史料しりょうじょうたしかな最初さいしょ日本人にっぽんじんキリスト教徒きりすときょうとされる人物じんぶつ[1]

人物じんぶつ

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ヤジロウは、ヤジロー、または当時とうじ音韻おんいんからアンジロウ(アンジローとも)、洋風ようふうにアンジェロ(天使てんし)ともいわれる。かれフランシスコ・ザビエル通訳つうやくしゃかみデウス概念がいねんひじりなどの翻訳ほんやくしゃとして活躍かつやくし、日本にっぽん西日本にしにほん地域ちいき布教ふきょう宣教せんきょう活動かつどう従事じゅうじした。かれ出自しゅつじ本名ほんみょうなどについては研究けんきゅうしゃによって区々くくである。一説いっせつでは豪族ごうぞく禰寝庶流池端いけはた可能かのうせい指摘してきされている。ザビエル離日りにちのヤジロウについては、ルイス・フロイスなどの証言しょうげんがあるものの、かれがいかなる人生じんせいおくり、どこでくなったかは不確ふたしかである。

生涯しょうがい

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ヤジロウは薩摩さつまこくあるいは大隅おおすみこく両国りょうこくとも鹿児島かごしま)の出身しゅっしんである[2]かれ自身じしんやザビエルの書簡しょかんによれば、わかころ殺人さつじんおかし、薩摩さつま大隅おおすみ来航らいこうしていたポルトガルふねってマラッカのがれた。そのつみ告白こくはくするために、ザビエルをたずねたという[3]二人ふたりわせたのは、天文てんもん15ねん(1546ねん)に薩摩半島さつまはんとうさい南部なんぶ山川やまかわにやってたポルトガルせん船長せんちょう商人しょうにんのジョルジュ・アルヴァレスである[4]。ジョルジュは仕事しごとかたわべい焼酎しょうちゅうなど日本にっぽん文化ぶんかについての記録きろくのこしている[4]仕事しごとえたジョルジュはマラッカへかえさい、ヤジロウを乗船じょうせんさせ、ザビエルを紹介しょうかいした[5]

ヤジロウが以前いぜんなにをしていたのかは明確めいかくであるが、フロイスの『日本にっぽん』では八幡はちまん海賊かいぞく)であったとかれており[6]海賊かいぞく貿易ぼうえきなどうみかかわる仕事しごとだったとかんがえられている。

ザビエルのみちびきでゴアおくられたヤジロウは、1548ねん聖霊せいれい降臨こうりんさいボン・ジェス教会きょうかいで、日本人にっぽんじんとしてはじめて洗礼せんれいけた。洗礼せんれいによりかれは「パウロ・デ・サンタ・フェ(ひじりしんのパウロ)」のれいめいさずかった。そのかれ同地どうちひじりパウロ学院がくいんでキリスト神学しんがくまなんだ[7]

ヤジロウはザビエルから、日本にっぽんキリスト教きりすときょう布教ふきょうをした場合ばあいわれ、スムーズにすすむだろうとこたえた。ヤジロウの人柄ひとがらかれはな日本にっぽん様子ようすき、ザビエルは日本にっぽんでの活動かつどう決意けついした。

1549ねん4がつ19にち、ヤジロウはザビエルにしたがいゴアをはなれ、同年どうねん8がつ15にち鹿児島かごしま上陸じょうりく。ここに日本にっぽんにおけるキリスト教きりすときょう布教ふきょう第一歩だいいっぽしるした。

そののヤジロウの生涯しょうがいについてはしょうである。上記じょうき記述きじゅつによればザビエルの離日りにち、ヤジロウは布教ふきょう活動かつどうからはなれて海賊かいぞく生業せいぎょうもどり、最後さいご中国ちゅうごく近辺きんぺん殺害さつがいされたという。また、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋とうよう遍歴へんれき』、ジョアン・ロドリゲスの『日本にっぽん教会きょうかい』によればふつそうらの迫害はくがいけて出国しゅっこく余儀よぎなくされ、中国ちゅうごく付近ふきん海賊かいぞく殺害さつがいされたという[8]

銅像どうぞう記念きねんとう

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鹿児島かごしま日本にっぽんにおけるキリスト教きりすときょう発祥はっしょうであることを記念きねんし、ザビエル来航らいこう450周年しゅうねんにあたる1999ねん鹿児島かごしまザビエル公園こうえん鹿児島かごしま東千石ひがしせんごく、カトリック鹿児島かごしまカテドラル・ザビエル教会きょうかいかい)に設置せっち(ザビエル、ベルナルドとの群像ぐんぞう画像がぞう参照さんしょう)。

ヤジロウ伝説でんせつ

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鹿児島かごしまけんには、ヤジロウがひそめて宣教せんきょうつづけていたとする伝承でんしょうがいくつかある。そのひとつに日置ひおき伊集院いじゅういんまち土橋どばし県道けんどう206ごう沿いにはヤジロウのものであるとされるはかがあり、看板かんばんにも「ヤジロウのはかつて)」としるされている。下甑しもこしきとう下甑しもこしきまち片野浦かたのうらにある同地どうち天上てんじょうはヤジロウのはかであるとされ、クロきょう(クロむね)はヤジロウのつたえたかくれキリシタン信仰しんこうであるという伝説でんせつがある[9]

参考さんこう文献ぶんけん

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いち史料しりょう
入門にゅうもんしょ研究けんきゅう文献ぶんけん
  • ヨハネス・ラウレス『きりしたん入門にゅうもん』ルーベルト・エンデルレ書店しょてん1947ねん
  • 村上むらかみ光信みつのぶちょ)/門田かどたあきらかん)『ザビエル巡礼じゅんれいガイド/鹿児島かごしまへん/日本にっぽんキリスト教きりすときょうのルーツをたずねて』ドン・ボスコしゃ1999ねんISBN 4-88626-256-2
  • 山田やまだ尚二しょうじ『キリストきょう伝来でんらい鹿児島かごしま斯文しぶんどう株式会社かぶしきがいしゃ出版しゅっぱん、1999ねんISBN 4-88272-100-7
  • 岸野きしのひさ西洋せいようじん日本にっぽん発見はっけん ザビエル来日らいにちぜん日本にっぽん情報じょうほう研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん1989ねん
  • 岸野きしのひさ『ザビエルと日本にっぽん キリシタンひらききょう研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん1998ねん
  • 岸野きしのひさ『サビエルの同伴どうはんしゃアンジロー―戦国せんごく時代じだい国際こくさいじん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001ねん
  • 阿部あべちゅう麻呂まろ「キリストしゃからた「陰陽いんようどう」の可能かのうせい 4」オリエンス宗教しゅうきょう研究所けんきゅうじょ福音ふくいん宣教せんきょう』58かん8ごう2004ねん。 ISSN 0910-7118(2004)
  • 津山つやま千恵ちえ『フランシスコ・ザビエル しんをめぐる文化ぶんか衝突しょうとつさんいち書房しょぼう1993ねんISBN 4380932214
  • 根占ねじめけんじいち東西とうざいルネサンスの邂逅かいこう南蛮なんばんと禰寝歴史れきしてき世界せかいもとめて』あずましんどう、1998ねん3がつISBN 4-88713-284-0

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 69ぺーじ
  2. ^ 大辞林だいじりん だいさんはん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ 『イエズスかい日本にっぽん報告ほうこくしゅうだいIIIだい1かん、11-15ぺーじ
  4. ^ a b 岸野きしのひさ西欧せいおうじん日本にっぽん発見はっけん -ザビエル来日らいにちぜん日本にっぽん情報じょうほう研究けんきゅう-』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん、65-74ぺーじISBN 4-642-02630-4 
  5. ^ ジョルジュ・アルバレスの『日本にっぽん報告ほうこく田村たむら省三しょうぞう尚古しょうこ集成しゅうせいかん館長かんちょう)、建設けんせつコンサルタンツ協会きょうかい『Consultant 』VOL.256 July 2012
  6. ^ フロイス『日本にっぽん』6かん、70-71ぺーじ
  7. ^ 梅北うめきた道夫みちお『ザビエルをれてきたおとこ』、12ぺーじ
  8. ^ 岸野きしのひさ『ザビエルの同伴どうはんしゃアンジロー』、191-197ぺーじ
  9. ^ 梅北うめきた道夫みちお『ザビエルをれてきたおとこ』、30ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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