キリスト教きりすときょう音楽おんがく

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せいゲオルギオスだい聖堂せいどうでのたてまつかみあやどき光景こうけい正教会せいきょうかいコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう)。みぎえいたい(「右側みぎがわ聖歌せいかたい」の正教会せいきょうかいえいたい左右さゆうかれる場合ばあいの、右側みぎがわえいたいかたり)がうたっている。左側ひだりがわいたりひじりしょイコノスタシスうつっている。

キリスト教きりすときょう音楽おんがく(キリストきょうおんがく)では、キリスト教きりすときょう祈祷きとうおおやけ祈祷きとう礼拝れいはい)でもちいられる聖歌せいか音楽おんがく中心ちゅうしんあつかうとともに、礼拝れいはいではほとんどもちいられないが演奏えんそうかいなどではもちいられるキリスト教きりすときょう音楽おんがくについてもあつかう。教会きょうかい音楽おんがく(きょうかいおんがく)というかたりもあるが、こちらは教会きょうかいもちいられる音楽おんがくにほぼ限定げんていしてすことがほとんどであり、演奏えんそうかいけのキリスト教きりすときょう音楽おんがくのことはあまりふくまれない。キリストきょうにおける礼拝れいはい音楽おんがく(れいはいおんがく)、典礼てんれい音楽おんがく(てんれいおんがく)はさらに狭義きょうぎとなり、おおやけ祈祷きとう礼拝れいはいもちいられる音楽おんがくのみをす(ただし、礼拝れいはい音楽おんがく典礼てんれい音楽おんがく宗教しゅうきょう音楽おんがくにも使つかわれる用語ようごである)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

キリスト教きりすときょう音楽おんがくには、祈祷きとうおおやけ祈祷きとう礼拝れいはい)における聖歌せいか賛美さんびカンタータなどの音楽おんがくがある。くわえて、オラトリオなど、礼拝れいはいにおいてはあまりもちいられないがキリスト教きりすときょうのメッセージをつたえようとする音楽おんがくかぞえられる。

キリスト教きりすときょうにテクスト・音楽おんがくせい題材だいざいをとる音楽おんがく場合ばあいによってはキリスト教きりすときょう音楽おんがくふくまれうるが、キリストきょう題材だいざいをとっているきょくだからといってキリストきょう音楽おんがくとみなされるとはかぎらない。たとえ歌詞かしキリスト教きりすときょうてき世界せかいかん深甚しんじん影響えいきょうけていたとしても、ゴシックメタルなどのジャンルの音楽おんがくは、通例つうれい「キリストきょう音楽おんがく」とはあつかわれない。他方たほう、キリストきょうてき世界せかいかんともなった歌詞かし交響こうきょうきょくたとえばマーラー交響こうきょうきょくだい8ばんだい1楽章がくしょうなど)をキリスト教きりすときょう音楽おんがくとみなすかどうかは判断はんだんがわかれるなど、キリストきょう音楽おんがく定義ていぎには究極きゅうきょくてきには曖昧あいまいさがけられない部分ぶぶんがある。

以下いか祈祷きとうにおける音楽おんがくと、そのキリスト教きりすときょう音楽おんがくについてべる。

祈祷きとう礼拝れいはい)におけるキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

イタリア聖歌せいかたい1905ねん
ダマスコのせいイオアン(ヨハネ)イコン
パリノートルダムだい聖堂せいどうカトリック教会きょうかい)の夜景やけい
ベルリンだい聖堂せいどうルーテル教会きょうかい)の夜景やけい

キリスト教きりすときょうではどの教派きょうはにおいても、礼拝れいはいたてまつかみあや典礼てんれい)において聖歌せいか音楽おんがく重要じゅうよう要素ようそともいえる。イエス・キリストがこのにいたときからいのりにあたってうたなどがもちいられたことは聖書せいしょにもかれているが(マタイによる福音ふくいんしょ11しょう17せつどう26しょう30せつマルコによる福音ふくいんしょ14しょう26せつ使徒しとぎょうでん2しょう26せつどう16しょう25せつ、ほか)、キリストきょう初期しょき時代じだいからいのりはうたわれていたという。ただし古代こだいから中世ちゅうせい前半ぜんはんほどまでの時代じだいにおいてどのようなうた実際じっさいうたわれていたかについては、ほう喪失そうしつ録音ろくおん存在そんざいといった事情じじょうにより、復元ふくげん考証こうしょうきわめて困難こんなんである。

古代こだいから現代げんだいいたるまで、どのような音楽おんがく教会きょうかいにおける祈祷きとうおおやけ祈祷きとう礼拝れいはい)に相応ふさわしいのかについてさまざまな見解けんかいしめされ、伝統でんとう形成けいせいされてきた。その歴史れきしにおいて、礼拝れいはい相応ふさわしい音楽おんがく模索もさく規定きていされ、その信仰しんこう反映はんえいする音楽おんがくつくられてきた。あたらしい音楽おんがく形態けいたいきょく正統せいとうせいみとめられることもあれば、そうでない場合ばあいもあった。このような取捨選択しゅしゃせんたくおこなわれたことには、即興そっきょう賛美さんびしんしいをそのままみとめてしまえば異端いたん異教いきょう影響えいきょう懸念けねんされるという背景はいけいがある。

近世きんせいいたるまで、聖歌せいか作曲さっきょくしたもの聖歌せいかしゃせいロマンやダマスコのせいイオアン(ヨハネ)などのわずかな聖人せいじんたちのものしかられておらず、きん現代げんだい以前いぜん聖歌せいか基本きほんてき伝承でんしょうされていくものであった。しかし、きん現代げんだい以降いこう作曲さっきょくあきらかにされたうえ作成さくせいされた音楽おんがく聖歌せいかえていった。

キリスト教きりすときょうにおけるうた音楽おんがくと、そのもちいられかたについては教派きょうはごとに相違そういがある。

とく東方とうほう教会きょうかい西方せいほう教会きょうかい差異さいは、歴史れきしてき経緯けいいにおいても現代げんだいおこなわれている態様たいようにおいてもいちじるしい。一般いっぱん東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつとしとされている1054ねん以前いぜんにおいても、マ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつして以降いこう地中海ちちゅうかい東西とうざい経済けいざいてきむすきがよわまるのにしたがって文化ぶんかてき交流こうりゅう減少げんしょうし、キリストきょう音楽おんがく差異さいはすでにふかまっていた。

ただし、東西とうざい教会きょうかい文化ぶんかてき完全かんぜん断絶だんぜつしたわけではなく、部分ぶぶんてき教会きょうかい文化ぶんか交流こうりゅうおこなわれるなかでその音楽おんがくについても影響えいきょうあたってきためんもある。西方せいほう教会きょうかいにおけるグレゴリオ聖歌せいかをはじめとした聖歌せいか形成けいせいにはひがしマ帝国まていこく地域ちいきからのビザンティン聖歌せいか影響えいきょう指摘してきされる。ぎゃく東欧とうおうにおける正教会せいきょうかいは、現代げんだいウクライナ地域ちいきにおける17世紀せいき以降いこう西欧せいおう音楽おんがく導入どうにゅう嚆矢こうしとして、西方せいほう教会きょうかいからの影響えいきょうおおきくけた。

一方いっぽう西方せいほう教会きょうかいない、すなわちカトリックプロテスタントあいだにも音楽おんがく伝統でんとう差異さいはあるが、東西とうざい教会きょうかい差異さいほどにはその程度ていどふかくない。

現代げんだい西方せいほう教会きょうかいにおいては、オルガン使つかった伝統でんとうてき音楽おんがく保持ほじする一方いっぽうで、現代げんだいてき音楽おんがくふくめたさまざまな音楽おんがく礼拝れいはいれ、多様たよう形態けいたいしめしている。西方せいほう教会きょうかいしてきた音楽おんがくなかには、クラシック音楽おんがくをはじめとした演奏えんそうかいでも頻繁ひんぱんげられる音楽おんがくすくなくない。ただし、教会きょうかいにおける日常にちじょう礼拝れいはい頻繁ひんぱんもちいられる音楽おんがくと、演奏えんそうかいおお演奏えんそうされる音楽おんがくとは、形態けいたい曲目きょくもくにおいてがある。たとえば西方せいほう教会きょうかい礼拝れいはいにおいて、W.A.モーツァルトJ.S.バッハうた礼拝れいはいにおいてもちいられることはほとんどないが[ちゅう 1]かれらの作曲さっきょくによるキリストきょう音楽おんがく世俗せぞく演奏えんそうかい演奏えんそうされる機会きかいおおい。

他方たほう東方とうほう教会きょうかい聖歌せいかにおいてきわめて保守ほしゅてきである。一部いちぶ正教会せいきょうかい東方とうほうしょ教会きょうかいではオルガンなどの楽器がっきれているケースもあるが、正教会せいきょうかいでは基本きほんてき聖歌せいか伴奏ばんそう声楽せいがくであることが現代げんだいにおいてもなお原則げんそくである。また、きょく選定せんてい作曲さっきょくにおいても伝統でんとうてきである。西欧せいおうされて以降いこう正教会せいきょうかい聖歌せいかも、近世きんせい以降いこうあまりがたえずにうたわれている一方いっぽうで、近年きんねん西欧せいおうされる以前いぜん正教会せいきょうかい聖歌せいか見直みなお機運きうんたかまり、古典こてん聖歌せいか復元ふくげん研究けんきゅう東欧とうおうにおいてさかんになっている。また、ビザンティン聖歌せいか西にし欧化おうか影響えいきょうをあまりこうむっていない。

そのキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

礼拝れいはい場面ばめんではあまりもちいられないが、オラトリオなどは通例つうれいキリスト教きりすときょう音楽おんがくかぞえられる。こうした礼拝れいはい場面ばめんであまりもちいられないキリスト教きりすときょう音楽おんがくも、礼拝れいはいとは別個べっこ成立せいりつしたものばかりでなく、礼拝れいはい音楽おんがくとおたがいに影響えいきょうあたえあいながら成立せいりつしている。

東方とうほう教会きょうかい[編集へんしゅう]

東方とうほう教会きょうかい東西とうざい経済けいざいてき交流こうりゅう文化ぶんかてき交流こうりゅう減少げんしょうしたことにより、西欧せいおうしょ教会きょうかいとはおおきくことなる教会きょうかい音楽おんがく伝統でんとう発展はってんさせるにいたった。また、東方とうほう教会きょうかいないでも正教会せいきょうかい東方とうほうしょ教会きょうかいとのあいだには聖歌せいか伝統でんとうにおける差異さい存在そんざいし、さらに正教会せいきょうかいない東方とうほうしょ教会きょうかいないのそれぞれにも地域ちいき時代じだいによる多様たようせい存在そんざいする。

正教会せいきょうかい[編集へんしゅう]

たてまつかみれいにおける聖歌せいか[編集へんしゅう]

しょ神品しんぴんによるたてまつかみあや光景こうけい白地しろじ金色きんいろ刺繍ししゅうほどこされた祭服さいふくている2人ふたり輔祭ひだり手前てまえおおきくうつっている緑色みどりいろ祭服さいふく着用ちゃくようした人物じんぶつと、イコノスタシスこうがわいたりひじりしょおくちいさくうつっている人物じんぶつ司祭しさいいたりひじりしょたから手前てまえ水色みずいろ祭服さいふく着用ちゃくようし、宝冠ほうかんこうむってたてまつことたっているのが主教しゅきょうである。正教会せいきょうかいでは祭日さいじつごとに祭服さいふくいろ統一とういつしてもちいるのが一般いっぱんてきであり、このようにしょ神品しんぴん別々べつべついろ祭服さいふくもちいるケースはそれほどおおくはない。また、祭服さいふくをこのようにかんそうするのは写真しゃしん撮影さつえいなどの特別とくべつ場合ばあいのぞいておおやけ祈祷きとう場面ばめんかぎられている。
生神うるかみおんな庇護ひごさいイコン生神うるかみおんな庇護ひごさい同日どうじつ記憶きおくされる聖歌せいかしゃロマンが、歌詞かし祈祷きとうぶん姿すがた中央ちゅうおう下部かぶえがかれている。(1649ねんベラルーシ

正教会せいきょうかい聖歌せいか伴奏ばんそう声楽せいがく原則げんそくである。たてまつかみあやとの密接みっせつむすきを要求ようきゅうされ、音楽おんがくてき側面そくめんのために歌詞かし祈祷きとうぶん)に変更へんこうくわえることはゆるされない。このため、聖歌せいか言語げんご翻訳ほんやくするさいには音楽おんがくわせて歌詞かし変更へんこうするのではなく、歌詞かしわせて旋律せんりつ和声わせい変更へんこうする作業さぎょう必然ひつぜんてきおこなわれる。

たてまつかみあやまれていない祈祷きとうぶんたてまつかみあやにおいて歌唱かしょうすることは、聖体せいたい礼儀れいぎなか神品しんぴん (正教会せいきょうかい聖職せいしょく)りょうきよしなかうたわれる合唱がっしょう聖歌せいかコンチェルトなどの、ごく一部いちぶ例外れいがいのぞいておこなわれない。したがってさん美歌みかもちいられない。

西方せいほう教会きょうかいもちいられるグレゴリオ聖歌せいかゴスペルミサきょくレクイエムなどは正教会せいきょうかいにあってはまったもちいられておらず、楽典がくてんてき側面そくめんにおける音楽おんがく文化ぶんか影響えいきょうあたいや中世ちゅうせい東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつまえ伝統でんとう交流こうりゅうのぞき、かなり相違そういおおきいべつ系統けいとう聖歌せいか伝統でんとう音楽おんがく伝統でんとう位置付いちづけられる。

音楽おんがくてき特徴とくちょうによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

音楽おんがくてき特徴とくちょうによる分類ぶんるいとしては、ビザンティン聖歌せいかロシアバルカン半島ばるかんはんとう諸国しょこく伝統でんとうてき聖歌せいかどう地域ちいきにおける西方せいほう教会きょうかい影響えいきょうけたこえ聖歌せいかグルジア正教会せいきょうかいにおける古代こだい以来いらい独自どくじ音楽おんがく伝統でんとう立脚りっきゃくしたグルジアこえ聖歌せいかなどが正教会せいきょうかいもちいられる。もちろんこれらの分類ぶんるいすべての聖歌せいか正確せいかくてはまるとはかぎらず、各種かくしゅ様式ようしき折衷せっちゅうしたものや、時代じだいによる変化へんか過渡かとのものとして位置付いちづけられる聖歌せいかおおい。地域ちいき聖歌せいかげてうたうこともしばしばおこなわれている。

近世きんせい以降いこうは、世俗せぞくきょくがける作曲さっきょくによる聖歌せいかが、伝統でんとうてき聖歌せいか併用へいようされつつ正教会せいきょうかいでもうたわれている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

正教会せいきょうかいでのたてまつかみあやもちいられる聖歌せいかは、ひがしマ帝国まていこく版図はんとにおいて発展はってんしたビザンティン聖歌せいかロシア帝国ていこく版図はんとにおいて発展はってんしたロシア聖歌せいかだけにその伝統でんとうはとどまらず、グルジアバルカン半島ばるかんはんとう諸国しょこくなど、各地かくちにおいて多様たよう発展はってんしめしてきた。

古代こだい中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

古代こだい中世ちゅうせいにおいてどのような聖歌せいかうたわれていたのかは、ほう変化へんかによる解読かいどく不可能ふかのうせい録音ろくおん存在そんざいなどの事情じじょうにより、推測すいそくいきない。また古代こだい中世ちゅうせい正教会せいきょうかい世界せかい聖歌せいか文化ぶんかたてまつかみあや文化ぶんかにも、地域ちいきによっておおきながあった。

聖歌せいかしゃロマンダマスコのせいイオアン676ねん - 749ねん)などのように聖歌せいか作曲さっきょくられる古代こだい中世ちゅうせい聖人せいじんもいないわけではないが、基本きほんてきには聖歌せいか作曲さっきょく記名きめいであり、今日きょうまでそのられている古代こだい中世ちゅうせい作曲さっきょくかぞえるほどしか存在そんざいしない。近世きんせい以降いこう記名きめいによる聖歌せいかもちいられている。

ただし記録きろく存在そんざい再現さいげん不可能ふかのうせいはその時代じだい変化へんか発展はってんかったこと意味いみするものではなく、譜面ふめんどう時代じだいじん文章ぶんしょうから、様式ようしき様々さまざま変化へんか発展はってんこっていたことは確実かくじつである。ひがしマ帝国まていこくうちにおいてはギリシャもちいるビザンティン聖歌せいか発達はったつし、ひがしスラヴ地域ちいきでは教会きょうかいスラヴもちいるズナメニ聖歌せいかが、グルジアではグルジアもちいるグルジアこえ聖歌せいか発達はったつした。

近世きんせい以降いこう[編集へんしゅう]
ボルトニャンスキー

ギリシャのビザンティン聖歌せいか、ロシアのズナメニ聖歌せいかなどにおいて匿名とくめいせいたかかった聖歌せいか作曲さっきょくも、近世きんせい以降いこうには作曲さっきょくるようになった。

ロシア正教せいきょうこえ聖歌せいかイタリア盛期せいきバロック音楽おんがく様式ようしきならったボルトニャンスキーしょ作品さくひんとう本格ほんかくてきはじまり、そのプロテスタント教会きょうかいコラール彷彿ほうふつとさせる、シラビックな、ネウマティックなきょくけと、単純たんじゅんだが印象いんしょうてき和声わせいけが特徴とくちょうてき聖歌せいか主流しゅりゅうとなった。とく重要じゅうよう聖歌せいか作曲さっきょくとしてアレクサンドル・アルハンゲルスキーパーヴェル・チェスノコフなどがげられる。また世俗せぞく作品さくひんがけた作曲さっきょくにも聖歌せいか作曲さっきょくおこなったものおおい。ドミトリー・ボルトニャンスキーピョートル・チャイコフスキーリムスキー=コルサコフシュテファン・モクラーニャッツドーブリ・フリストフセルゲイ・ラフマニノフアレクサンドル・グレチャニノフなどが代表だいひょうてきである。

これらの作曲さっきょくは、せい金口きんぐちイオアン聖体せいたい礼儀れいぎパニヒダ永眠えいみんもの記憶きおくする祈祷きとう)など特定とくていたてまつかみあや全曲ぜんきょく作曲さっきょくすることもあれば、一部分いちぶぶんきょくけすることもあった。これらの作品さくひんなかではとくにラフマニノフの「徹夜てつや」が有名ゆうめいである。ただし、これら世俗せぞくきょくがけた作曲さっきょくによる聖歌せいかは、その難易なんいとうのさまざまな要因よういんから、正教会せいきょうかいたてまつかみあやにおいて実際じっさいうたわれることはおおくない。また、これら作曲さっきょくによるものを実際じっさいたてまつかみあやもちいる場合ばあいでも、一人ひとり作曲さっきょくによるもののみでうたることはまずおこなわれず、大抵たいてい伝統でんとうてき旋律せんりつ和声わせいもちいたきょくと、何人なんにんかの作曲さっきょくきょくわせてもちいる。

ロシア正教会せいきょうかい制定せいていされていたオビホードにもとづくこえ聖歌せいか以前いぜんの、かく地方ちほう教会きょうかい伝承でんしょうされていたようなふる起源きげんたんこえ聖歌せいかへの関心かんしん研究けんきゅうも、近代きんだい以降いこうおおきくおこなわれるようになった。代表だいひょうてき研究けんきゅうしゃステパン・スモレンスキイがいる。

これらの伝統でんとうのうちおおくは、ひがしヨーロッパ諸国しょこくおおくが共産きょうさん主義しゅぎくにとなっていったなかで、教会きょうかい宗教しゅうきょう弾圧だんあつ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんからけるとともに断絶だんぜつないし停止ていしされた。パーヴェル・チェスノコフなどはロシア革命かくめい以降いこう聖歌せいか作曲さっきょく断念だんねんし、以後いご世俗せぞく合唱がっしょうきょく作曲さっきょく歌唱かしょう指導しどうのみに活動かつどう限定げんていせざるをなかった(それでもソ連それん末期まっきにはウラジーミル・マルティノフのように正教会せいきょうかい聖歌せいかがける作曲さっきょくあらわれた)。

共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんたおれて信仰しんこう自由じゆうされるとともに、ふたた聖歌せいか作曲さっきょく活発かっぱつおこなわれるようになっている。また、ふる聖歌せいか復元ふくげん研究けんきゅうふたた活発かっぱつしている。

現代げんだい[編集へんしゅう]

近世きんせい西方せいほう文化ぶんか流入りゅうにゅうけるまで、バルカン半島ばるかんはんとうルーシしょ地域ちいきにおける聖歌せいかたん旋律せんりつ基本きほんであったが、現代げんだいのバルカン、ルーシ地域ちいきにおけるこえ聖歌せいかおおくは西欧せいおうこえ音楽おんがく影響えいきょうだいなりしょうなりけつつ、古典こてん聖歌せいか近世きんせい以降いこう聖歌せいか併用へいようしている。

ギリシャけい正教会せいきょうかいいまでもたん旋律せんりつ、もしくはイソンとばれる持続じぞく低音ていおんをつけたビザンティン聖歌せいか教会きょうかいもちいている。他方たほう独自どくじこえ音楽おんがく文化ぶんかふるくから保持ほじしていたグルジアでは独自どくじグルジアこえ聖歌せいか形成けいせいして今日きょういたっている。

現代げんだいのビザンティン聖歌せいかもロシア聖歌せいかもその内実ないじつ多種たしゅ多様たようであって一様いちようではない。ただし西方せいほう教会きょうかいくらべて、その変化へんか度合どあいはゆるやかであり、また多様たようせいについても無制限むせいげんおこなわれてきたわけではなく、正教会せいきょうかい聖歌せいかそうじて伝統でんとうてきであるとえる。一部いちぶ例外れいがいのぞいて正教会せいきょうかい聖歌せいか伴奏ばんそう声楽せいがく原則げんそくであり(それゆえ「正教会せいきょうかい音楽おんがく」よりも「正教会せいきょうかい聖歌せいか」とばれる)、近世きんせい以降いこう作曲さっきょくされたおおくの聖歌せいかもそれはわらない。

はち調ちょう[編集へんしゅう]

正教会せいきょうかいにおける記名きめいによる聖歌せいか代表だいひょうれいともえる、「はち調ちょう」(はっちょう・オクトエーコス)とばれるしゅうわりのシステムにまれたさだめられた8パターンの各種かくしゅ旋律せんりつ作曲さっきょくは、成立せいりつ経緯けいい詳細しょうさいとともに不明ふめいである。

はち調ちょうは、はち種類しゅるいさだめられた旋律せんりつを、祈祷きとうぶん区切くぎってめていくもので、しゅうごとにえられるのを基本きほんとする。ただし祭日さいじつときなどにおいてはそれぞれの祈祷きとうぶんしゅうさだめとはことなるはち調ちょう指定していされる場合ばあいもある。現代げんだい正教会せいきょうかいでは地域ちいきによってことなる旋律せんりつがれているものの、はち調ちょう使用しようほう共通きょうつうしている。作曲さっきょくされたきょくとともに共存きょうぞんして使つかわれており、はち調ちょうめてうたわれることがおお祈祷きとうぶんと、作曲さっきょくされたきょくうたわれることがおお祈祷きとうぶんとがある。また、はち調ちょうでも作曲さっきょくされたきょくでもなく、がれた伝統でんとうてききょくうたわれることもある。

おおやけ祈祷きとう以外いがい場面ばめんにおける正教せいきょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

正教会せいきょうかいにおいてはオラトリオといった、おおやけ祈祷きとう以外いがい場面ばめんにおいてキリストきょうのメッセージを音楽おんがくは、それらを形成けいせいした西方せいほう教会きょうかいとはことなる歴史れきしてき背景はいけい社会しゃかいてき背景はいけいつゆえにそれほど発展はってんしてなかった。しかしながらきん現代げんだいはいるとロシア、セルビアなどでそうしたオラトリオなどを作曲さっきょくする作曲さっきょく登場とうじょうしてきた。

作品さくひんれい

現代げんだいにおいてもロシア正教会せいきょうかい渉外しょうがい局長きょくちょうであるイラリオン・アルフェエフ主教しゅきょうが、管弦楽かんげんがくつきのクリスマス・オラトリオを作曲さっきょくして演奏えんそうおこなわれ、話題わだいとなった。管弦楽かんげんがくつきの音楽おんがくたてまつかみあやもちいることはできず、管弦楽かんげんがくつき作品さくひん必然ひつぜんてき演奏えんそうかいけの作品さくひんである。

また、演奏えんそうかい以外いがい場面ばめんにおけるキリスト教きりすときょう音楽おんがくとしては、ウクライナ・ロシアなどでうたわれるカリャートカがげられる。これはクリスマスにおいておもどもたちによってうたわれてきたイイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ・ロシアみ)の降誕こうたん題材だいざいをとったうたであり、軽快けいかいなメロディをつものがおおい。

日本にっぽん正教会せいきょうかい聖歌せいか[編集へんしゅう]

アルハンゲルスキー

日本にっぽん正教会せいきょうかいはその成立せいりつである19世紀せいきにおいて、使徒しとせいニコライとおしてどう時代じだいのロシア文化ぶんか色濃いろこいだ。その影響えいきょう聖歌せいかにもおよんでおり、使つかわれている聖歌せいかおおくは19世紀せいきひろサンクトペテルブルクうたわれていたものである。はち調ちょう使用しようするとともに、作曲さっきょくされたものではドミトリー・ボルトニャンスキーアレクサンドル・アルハンゲルスキーのものがおお採用さいようされている。明治めいじ時代じだいにの黎明れいめいにはピアノ、チェロの奏者そうしゃでもあったヤコフ・チハイ聖歌せいか翻訳ほんやく作曲さっきょく指導しどうにあたった。日本人にっぽんじん活躍かつやくした聖歌せいか指揮しきしゃ作曲さっきょくとしては金須きんす嘉之よしゆきすすむがいる。

ヤコフ・チハイ

日本にっぽん正教会せいきょうかいでは一部いちぶ例外れいがいのぞき、ほとんどの聖歌せいか日本語にほんごやくされ、たてまつかみあやにおいても教会きょうかいスラヴひとしではなく日本語にほんごもちいられている。明治めいじ時代じだいにニコライとパウェル中井なかいたかしせいによってやくされた漢文かんぶん訓読くんどくたい文語ぶんごであるが、この祈祷きとうぶん翻訳ほんやくにはほとんど変更へんこうくわえられていない。

司祭しさいつかさいのり聖体せいたい礼儀れいぎ説教せっきょう時間じかんふくめずに1あいだ主教しゅきょうつかさいのり聖体せいたい礼儀れいぎ時間じかんじつに3あいだじゃくにもおよぶが、そのあいだもっぱら伴奏ばんそう声楽せいがくア・カペラ)で祈祷きとううたつづけられ、歌唱かしょうともなわない朗読ろうどくのみでおおやけ祈祷きとうおこなわれることは皆無かいむである(これは、ぜん世界せかい正教会せいきょうかい共通きょうつうしている)。西方せいほう教会きょうかい典礼てんれい音楽おんがく礼拝れいはい音楽おんがくくらべて平易へいい旋律せんりつもちいられることが日本にっぽん正教会せいきょうかいではおおく、それほどおおくない練習れんしゅう時間じかんうたわれることがおおいが、教派きょうは同様どうよう聖歌せいかたいする習熟しゅうじゅく練習れんしゅう頻度ひんどにはかく地域ちいき教会きょうかいごとにがある。

東方とうほうしょ教会きょうかい[編集へんしゅう]

ギリシャけい正教会せいきょうかいとはことなり、東方とうほうしょ教会きょうかいでは若干じゃっかん楽器がっき限定げんていてきもちいるものがある。アルメニア使徒しと教会きょうかいではオルガン比較的ひかくてきひろもちいられているほか、エチオピア正教会せいきょうかいではすず伴奏ばんそうもちいられる。ただしビザンティン聖歌せいか・グルジア聖歌せいか保持ほじする正教会せいきょうかい同様どうよう東方とうほうしょ教会きょうかい教会きょうかい音楽おんがくにおける西欧せいおうからの影響えいきょう限定げんていてきであり、そうじて東方とうほうしょ教会きょうかい音楽おんがく伝統でんとうてき保守ほしゅてきである。

西方せいほう教会きょうかい[編集へんしゅう]

マ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつ以降いこう東西とうざい交流こうりゅう減少げんしょうともない、西方せいほう教会きょうかいキリスト教きりすときょう音楽おんがくにおけるあゆみもまた東方とうほう教会きょうかいおおきくことなってきた。ただし、東西とうざい教会きょうかい完全かんぜん文化ぶんかてき断絶だんぜつっていたわけではないことには注意ちゅうい必要ひつようである。

西欧せいおうにおける音楽おんがく歴史れきしにはキリスト教きりすときょう音楽おんがく密接みっせつむすいている。西方せいほう教会きょうかいキリスト教きりすときょう音楽おんがく歴史れきしは、西欧せいおうにおける音楽おんがく発展はってん歴史れきしかさなる部分ぶぶん非常ひじょうおおい。

宗教しゅうきょう改革かいかく以前いぜん[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう改革かいかく以前いぜんは、当然とうぜんのことながらカトリック教会きょうかいせい公会こうかいプロテスタントべつ西方せいほう教会きょうかいないになかった。したがって、宗教しゅうきょう改革かいかく以前いぜんキリスト教きりすときょう音楽おんがく歴史れきし内容ないようはカトリック・プロテスタントでけずに西方せいほう教会きょうかいのものとして一括いっかつしてべる。

中世ちゅうせい前期ぜんき[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい前期ぜんきローマ教皇きょうこう北部ほくぶヨーロッパの新興しんこう君主くんしゅ提携ていけいし、ゲルマン民族みんぞく宗教しゅうきょうアリウス排除はいじょしていく時代じだいであった。このとき多様たよう複数ふくすうあった典礼てんれい形式けいしきもまたローマでの典礼てんれい形式けいしきのっとったものに統一とういつはかられていった。中世ちゅうせい初期しょき西方せいほう教会きょうかいには「ミラノ旋律せんりつアンブロシオ聖歌せいか)」「ガリア旋律せんりつフランス)」「モザラビック・チャントスペイン)」、など、複数ふくすう典礼てんれい音楽おんがく様式ようしきがあったとされるが、このうちアンブロシウスかえせられるミラノ旋律せんりつだけはミラノ司教しきょう現在げんざいでももちいられているものの、ほか2つはほとんどがうしなわれた。

こうしたローマでの典礼てんれいへの統一とういつ強力きょうりょくすすめた世俗せぞく君主くんしゅとして、カール大帝たいていがいる。カール大帝たいていは、ローマしき典礼てんれいへの統一とういつしたがわないもの死罪しざいしょすとの厳命げんめい領内りょうないくだした。統一とういつされた典礼てんれいうたうために制定せいていされたのがグレゴリオ聖歌せいかである。

リベル・ウズアリス』でもちいられる、グレゴリオ聖歌せいか四角よつかどネウマ。ここではキリエ・エレイソン(オルビス・ファクトール)の冒頭ぼうとうしめしている。

6世紀せいきまつローマ教皇きょうこうグレゴリウス1せい在位ざいい590ねん - 604ねん)にかえせられ、伝説でんせつじょうはグレゴリウス1せい旋律せんりつ制作せいさくしゃであるとされてはいるものの、グレゴリオ聖歌せいか成立せいりつ経緯けいいを6世紀せいきないし7世紀せいきにまでさかのぼることは困難こんなんである。また、カール大帝たいてい当時とうじにどのようなうたわれかたがなされていたかの考証こうしょうきわめて困難こんなんである(現代げんだいうたわれているグレゴリオ聖歌せいか19世紀せいき以降いこうベネディクトかい修道院しゅうどういんでの研究けんきゅう蓄積ちくせきによって復元ふくげんされたものであって、どの程度ていど中世ちゅうせい当時とうじ実際じっさいうたわれかたちかいものであるのかは不明ふめいである)。ただし、カール大帝たいてい時期じきいたるまでギリシアじん修道しゅうどう西欧せいおうにも居住きょじゅうしていたことや、各種かくしゅ旋律せんりつ分析ぶんせきから、初期しょきのグレゴリオ聖歌せいかビザンティン聖歌せいかからの影響えいきょう広範こうはんみとめられるとはつと指摘してきされる[1]

グレゴリオ聖歌せいかはこのように、それ以前いぜん存在そんざいしたこれらの典礼てんれい様式ようしき西方せいほう教会きょうかいにおいて画一かくいつした教会きょうかい音楽おんがく体系たいけいであって、だい部分ぶぶん中世ちゅうせい作成さくせいされたものであり、古代こだい教会きょうかい音楽おんがくくらべれば相対そうたいてきあたらしい。また、グレゴリオ聖歌せいか歴史れきしじょうふる時代じだいみじか時期じきつくられたものだけでっているものではない。とくあたらしいものとしては15・16世紀せいきつくられたものすら存在そんざいする。

グレゴリオ聖歌せいかには今日きょう一般いっぱんてきひろもちいられている「長調ちょうちょう」「短調たんちょう」の音階おんかいシステムではなく、教会きょうかい旋法せんぽうもちいられている。教会きょうかい旋法せんぽう長調ちょうちょう短調たんちょうのシステムからはなれた神秘しんぴてきにもひび音階おんかい提供ていきょうするものとも評価ひょうかされ、きん現代げんだい作曲さっきょくなかには教会きょうかい音楽おんがくのみならず世俗せぞく音楽おんがくにおいても、教会きょうかい旋法せんぽうもちいて作曲さっきょくするものもいる。とくドビュッシーらの印象いんしょう主義しゅぎ音楽おんがくによって教会きょうかい旋法せんぽう見直みなおされ、かれらの技法ぎほう吸収きゅうしゅうされたことは、近代きんだい音楽おんがく史上しじょう特筆とくひつすべきことである。

中世ちゅうせい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

グレゴリオ聖歌せいかによる画一かくいつこった西方せいほう教会きょうかいであるが、すでに中世ちゅうせい中期ちゅうきには多様たよう方向ほうこうせいまれていた。西欧せいおう教会きょうかい音楽おんがくモノフォニーからポリフォニー拡大かくだいしていったのもこのころである。ポリフォニーそのものは西方せいほう教会きょうかい音楽おんがくのみの独創どくそうではなく、世界せかい各地かくちにみられるものであり、東方とうほう教会きょうかいでもグルジア正教会せいきょうかい世界せかいでも最初さいしょれているが、ポリフォニー導入どうにゅうにより西方にしかた教会きょうかい音楽おんがく多様たよう表現ひょうげん可能かのうとなり、その発展はってんいしずえとなった。そのはじまりの時期じき正確せいかくには不明ふめいであるが、イギリスのウィンチェスターだい聖堂せいどうもちいられていたトロープスの、10世紀せいきから11世紀せいき異本いほんにはポリフォニーの記載きさいがある。

トロープスとは、みじか歌詞かしなが旋律せんりつ対応たいおうしているうたたいし、その旋律せんりつかく音符おんぷしたり、旋律せんりつばしてつくられたりしたものをう。ロマネスク時代じだい:11世紀せいきに、最古さいこオルガヌムしゅうウィンチェスター・トロープスしゅう成立せいりつしている。またどう時期じきに、セクエンツィア作曲さっきょくされた。現代げんだい音楽おんがくにものこっているよくられているセクエンツィアには「ディエス・イレ」(現在げんざい典礼てんれいではほとんどもちいられない)などがある。しかし、セクエンツィアはその大半たいはんうしなわれ、現代げんだいではすうきょくのこすのみである。セクエンツィアのが、正統せいとう信仰しんこうそこなうおそれがあると看做みなされたからであった。

トロープスから典礼てんれいげき発展はってんした。典礼てんれいげき後世こうせいオラトリオ萌芽ほうがることも可能かのうである。この時代じだいサン・マルシャルらくサン・マルシャル修道院しゅうどういん)とノートルダムらくノートルダムだい聖堂せいどう)のふたつが典礼てんれい音楽おんがく中心ちゅうしんとなった。1250ねんごろにはモテットさかんになる。

中世ちゅうせい後期こうき(1300年代ねんだい[編集へんしゅう]

イタリアフランスアルス・ノーヴァあたらしい技法ぎほう)がおこった。これは、たびかさなる十字軍じゅうじぐん実施じっしとその失敗しっぱいにより世俗せぞく王侯おうこう権力けんりょく伸長しんちょうし、かく地域ちいきにおいて統一とういつてき教会きょうかい音楽おんがくからはなれた技法ぎほう歌唱かしょうほう実現じつげんする社会しゃかいてき政治せいじてき素地そじができたことを背景はいけいとする。

フィリップ・ド・ヴィリ司教しきょうが1320ねんごろ著作ちょさく『アルス・ノーヴァ』によってあらたなリズム表記ひょうきほう組織そしきした。これにちなんで、この時代じだいこえ音楽おんがく様式ようしきをアルス・ノーヴァとぶ。この著作ちょさくでは、それまでながおとが3みじかおとけられるだけであったものにたいし、長音ちょうおんを2つの短音たんおんけることが正当せいとうされ、音符おんぷ種類しゅるいやされた。

伝統でんとうてきなグレゴリオ聖歌せいかくずされ、13世紀せいきモテット教会きょうかい音楽おんがくめられていくことに保守ほしゅてき教会きょうかい音楽家おんがくか神学しんがくしゃ危機ききかんいだき、教皇きょうこうヨハネス22せい1324ねん長文ちょうぶんかいみことのりはっし、典礼てんれいよう旋律せんりつ復古ふっこあたらしいうたかた排除はいじょめいじており、トマス・アクィナス同調どうちょうした。しかし時代じだい趨勢すうせいうごかず、結果けっかてきにはあたらしい技法ぎほう教会きょうかい音楽おんがくにおいて勝利しょうりすることとなった。

ルネサンス時代じだい[編集へんしゅう]

デュファイ(ひだり
デ・プレ
パレストリーナ

ギヨーム・デュファイブルゴーニュらくは、循環じゅんかんミサきょく形式けいしき確立かくりつさせた。フランドルらく代表だいひょうする作曲さっきょくジョスカン・デ・プレは、デュファイの技法ぎほうヨハネス・オケゲム対位法たいいほう集大成しゅうたいせいし、100きょく以上いじょうのモテットを作曲さっきょくした。

ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナはフランドル様式ようしき完成かんせいしゃといわれる。ローマ教会きょうかいトリエントこう会議かいぎはほとんどのセクエンツィアを廃止はいしし、世俗せぞくきょく転用てんよう禁止きんし歌詞かし不明瞭ふめいりょうにする過剰かじょうなポリフォニーの禁止きんし決定けっていしたが、パレストリーナはこの対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかくせん沿って100きょく以上いじょうのミサきょくおおくのモテットを作曲さっきょくした。かれ旋律せんりつ基礎きそにグレゴリオ聖歌せいか使つかった。また和音わおん解決かいけつ順次じゅんじ進行しんこうもちいる特徴とくちょうがある。きょうひびきから「音楽おんがく悪魔あくま」とされていたさん全音ぜんおんは、ぞくなな和音わおん解決かいけつによって、使つかわれるようになった。スペインではトマス・ルイス・デ・ビクトリア活躍かつやくした。

自分じぶんつまへの殺人さつじんしゃ有名ゆうめい作曲さっきょくカルロ・ジェズアルドかい転調てんちょう有名ゆうめいで、宗教しゅうきょうきょくのほかにすうおおくのマドリガル作曲さっきょくした。しかし、その独特どくとく半音はんおんかい多用たようした作風さくふう転調てんちょうほうには、どう時代じだいおよび直後ちょくご時代じだいには後継こうけいしゃあらわれなかった。ジェズアルドは現代げんだいいたってさい評価ひょうかされ、作品さくひん影響えいきょう現代げんだい音楽おんがくおよぶこととなった。

カトリック教会きょうかい[編集へんしゅう]

ミサにおいては、Kirye, Gloria, Sanctus, Agnus Deiの4つの場面ばめんにおいて讃歌さんかうたうことが通例つうれいである。(まてふしよんしゅんぶしにはGloriaをとなえないなど、例外れいがいはある。)そのためミサきょくばれるものは、最低さいていでもこの4きょくがセットとなっている。

いわゆるカトリックなレクイエムであるが、ブラームス以外いがいでも一般いっぱんのカトリックとは関係かんけいのない作曲さっきょくによって「レクイエム」としょうすものがつくられている。戦後せんごベンジャミン・ブリテンが「戦争せんそうレクイエム」、ベルント・アロイス・ツィンマーマンが「わか詩人しじんのためのレクイエム」を、武満たけみつとおるが「弦楽げんがくのためのレクイエム」を創作そうさくしたが、いずれも実際じっさい典礼てんれい使つかうものではなく演奏えんそうかいよう大前提だいぜんていとしている。

カトリックの教会きょうかい音楽家おんがくか[編集へんしゅう]

フランク
ブルックナー

おおきなオルガンかまえるおおくの教会きょうかいでは、メインのだいオルガンは日曜にちよう祝日しゅくじつしゅにちミサ(あるいはそれにじゅんずる土曜どよう夕方ゆうがたなど)においてもちいられる。それにたいして平日へいじつのミサ、あるいはミサ以外いがいにもばんロザリオのいのなどおおくの礼拝れいはい行事ぎょうじにおいても聖歌せいかうたうが、これらにはだいオルガンはもちいず、合唱がっしょうようあし鍵盤けんばんのないしょうオルガン(オルゲル・ポジティーヴ)をもちいたり、ギターや電子でんしキーボード、また伝統でんとうてきなものではツィターおも修道院しゅうどういんなどでもちいられる)など、オルガン以外いがいしょう音量おんりょう楽器がっき伴奏ばんそう代用だいようしたり、あるいは伴奏ばんそう合唱がっしょう聖歌せいかうたう。また、若者わかものたちのための礼拝れいはいでは、ドラムセットエレキギターなどのバンドもちいておどりながらのゴスペル伴奏ばんそうけることも許可きょかされている。

優秀ゆうしゅうなオルガニストがいる伝統でんとうてきだい規模きぼ教会きょうかいでは、ミサの最中さいちゅう司祭しさいうごきにわせてオルガニストが即興そっきょう伴奏ばんそうける。讃歌さんかのちにその旋律せんりついで司祭しさいつぎ所作しょさはいるまでこうそうをつけたり、献金けんきん聖体せいたい拝領はいりょう最中さいちゅう完全かんぜん即興そっきょうをしたり、あるいはまず会衆かいしゅう簡単かんたん聖歌せいかさん美歌みかうたい、そのいで即興そっきょうしたりする。もっと重要じゅうようなのはにゅう退場たいじょうきょくときで、司祭しさいにゅう退場たいじょうわせて音楽おんがくげる高度こうど即興そっきょう技術ぎじゅつもとめられる。このオルガン即興そっきょう技術ぎじゅつは、19世紀せいき後半こうはんから20世紀せいきにかけてフランスでとく発達はったつしたものであり、現在げんざいパリ音楽おんがくいんをはじめとする高等こうとう音楽おんがく教育きょういく機関きかんによって即興そっきょう技術ぎじゅつがれていることはもちろん、優秀ゆうしゅうなオルガニストにとってだたる教会きょうかい専属せんぞく奏者そうしゃになることは大変たいへん名誉めいよとされる。歴史れきしてき作曲さっきょく/オルガニストにセザール・フランクルイ・ヴィエルヌモーリス・デュリュフレオリヴィエ・メシアン現在げんざいではティエリー・エスケシュなどがいる。パリ音楽おんがくいんではないがオーストリア作曲さっきょくアントン・ブルックナーらもカトリックでは優秀ゆうしゅうなオルガン奏者そうしゃだった。

そのロシア出身しゅっしんシュニトケ大作たいさく交響こうきょうきょくだい2ばんせいフローリアン」や「レクイエム」などはかく楽章がくしょうがミサの形式けいしき踏襲とうしゅうしたものであるが、それ以外いがい宗教しゅうきょうてき作品さくひん極度きょくどすくなく、すくなくとも宗教しゅうきょう音楽おんがく作曲さっきょくとはいえない。

日本にっぽんのカトリック教会きょうかい[編集へんしゅう]

ローマ教会きょうかいでは伝統でんとうてきラテン語らてんご聖歌せいかうたわれ、日本にっぽんではラテン語らてんご典礼てんれい聖歌せいかあわせて日本語にほんごカトリック聖歌せいかしゅうもちいられてきたが、だい2バチカンこう会議かいぎ以降いこう高田たかだ三郎さぶろうをはじめとする現代げんだい作曲さっきょくによる日本語にほんご典礼てんれい聖歌せいか使つかわれるようになった。

日本にっぽんのカトリック教会きょうかいでは「さん美歌みか」という言葉ことばもちいず「聖歌せいか」とぶ。さん美歌みかというと、プロテスタント諸派しょはもちいられているさん歌集かしゅうなかきょく特別とくべつあつかうことをすが、普通ふつう礼拝れいはいには「典礼てんれい聖歌せいか」および「カトリック聖歌せいかしゅう」をもちいるのが原則げんそくである。カトリック聖歌せいかしゅうには伝統でんとうてきなグレゴリオ聖歌せいかもいくつかっているが、おおくは一般いっぱんてきたたえ美歌みかばれるきょくであり、プロテスタントのさん歌集かしゅうとの重複じゅうふくきょくおおい。しかし歌詞かしがカトリック独特どくとくのものであることもおおく、たとえばさん歌集かしゅうでの「きよしこのよる」はカトリック聖歌せいかしゅうでは「しずけき」という題名だいめいで、その歌詞かしことなる。また、プロテスタントのさん歌集かしゅうおおくが4ごえしるされているのにたいし、カトリック聖歌せいかしゅうおおくのきょく会衆かいしゅうよう手帳てちょうさま楽譜がくふにはしゅ旋律せんりつのみしかっておらず、オルガン奏者そうしゃ伴奏ばんそうよう楽譜がくふにのみ4こえ和声わせいっている。しかし、せい歌集かしゅう末尾まつび追記ついきされたさん歌集かしゅうかられられた少数しょうすうきょくは、会衆かいしゅうよう楽譜がくふにも4ごえしるされている。

せい公会こうかい[編集へんしゅう]

パーセル

礼拝れいはい形式けいしきには「カトリック」てき色彩しきさい色濃いろこのこされている。礼拝れいはいにおいてはドイツの「ルーテル・ミサ」にちか形式けいしき音楽おんがくおこなわれる。

トマス・ウィールクスオーランド・ギボンズヘンリー・パーセル代表だいひょうてきである。

プロテスタント[編集へんしゅう]

プロテスタントの作曲さっきょく概論がいろん[編集へんしゅう]

ルター
だいバッハ
メンデルスゾーン
Soli Deo gloria

マルティン・ルターはローマ教会きょうかい堕落だらく抗議こうぎして95ヶ条かじょう論題ろんだいちつけ、宗教しゅうきょう改革かいかくこされた。宗教しゅうきょう改革かいかくによって教会きょうかい礼拝れいはいおおきな変化へんかがもたらされ、プロテスタント教会きょうかいではコラールによる会衆かいしゅうさんがなされるようになった。

プロテスタント教会きょうかい音楽おんがく中心ちゅうしんは、聖書せいしょのみことばをつたえることにある。マルティン・ルターは、「あたらしい教会きょうかいでは会衆かいしゅう賛美さんびのない礼拝れいはいかんがえることはできない」とった[2]

音楽家おんがくかでもあった[3]宗教しゅうきょう改革かいかくしゃルターは、みずから「かみはわがやぐら」などのさん美歌みかいて、現在げんざいでもさまざまな編曲へんきょくもちいられている。またカトリックの聖歌せいかのうち聖書せいしょもとづかないものを排除はいじょしたが、たりたまえ、創造そうぞうおもなる聖霊せいれい (Veni Creator Spiritus)、いざませ、異邦いほうじんすくぬし (Veni, Redemptor gentium) とうラテン語らてんご聖歌せいかをドイツ翻訳ほんやくし、礼拝れいはいもちいた。

ルーテル教会きょうかいにおいてラテン語らてんごアヴェ・マリアうたわれないが、マニフィカトもちいられる。ルーテル音楽おんがく作曲さっきょくした作曲さっきょくにはヨハン・クリューガーヨハン・ゴットフリート・ヴァルターミヒャエル・プレトリウスヨハン・ヘルマン・シャインザムエル・シャイトハインリヒ・シュッツヨハン・パッヘルベルディートリヒ・ブクステフーデらがおり、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、26きょくオラトリオのうち「メサイア」と「マカベウスのユダ」がもっと有名ゆうめいである。

プロテスタントの教会きょうかい音楽おんがくヨハン・ゼバスティアン・バッハ頂点ちょうてんたっした。バッハは楽譜がくふ宗教しゅうきょう改革かいかく強調きょうちょうてんのひとつ、Soli Deo gloria(ただかみにのみ栄光えいこうを)とくことつねとしていた。そのフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディヨハネス・ブラームスらにもかなりのキリスト教きりすときょう音楽おんがくがある。敬虔けいけんなルーテルであったメンデルスゾーンは、だいバッハの作品さくひんを「このもっと偉大いだいキリスト教きりすときょう音楽おんがく」となしており、バッハの音楽おんがく復興ふっこう貢献こうけんした[4]。メンデルスゾーンがベルリン公演こうえん実現じつげんしただいバッハのマタイ受難じゅなんきょくは、西洋せいよう音楽おんがく、クラシック音楽おんがく最高峰さいこうほうひょうされる。

ブラームスは「ドイツ・レクイエム」を作曲さっきょくした。いわゆる本来ほんらいのカトリックてきレクイエムではなく礼拝れいはいでは使つかわれないが、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」などとおなじく、キリストきょう音楽おんがくにはぞくする。1995ねんには戦後せんご50ねん記念きねんして日本にっぽん湯浅ゆあさ譲二じょうじふくぜん世界せかいの14にん作曲さっきょくに「和解わかいのレクイエム」の共同きょうどう制作せいさくを、2000ねんにはバッハ歿後ぼつご250ねん記念きねんして、やはりシュトゥットガルトの「バッハアカデミー財団ざいだん世界せかいの4にん作曲さっきょくかく90ふん程度ていど受難じゅなんきょく委嘱いしょくしたが、こういった記念きねん教会きょうかい音楽おんがく作曲さっきょくコンクールなどを利用りようして、今日きょうでもカンタータやオラトリオなどがヨーロッパではさかんにつくられて初演しょえん演奏えんそうされている。

宗教しゅうきょう改革かいかくしゃジャン・カルヴァンは、『キリスト教きりすときょう綱要こうよう』で詩篇しへん重要じゅうようせい強調きょうちょうし、音楽おんがくかんする造詣ぞうけいふかかったが、音楽おんがくのあるめん警戒けいかいしていた。そのため、改革かいかく教会きょうかい礼拝れいはいにおいてはだい規模きぼカンタータ使つかわれず、ジュネーブ詩篇しへんもちいられた。現在げんざいカベナンター改革かいかく長老ちょうろう教会きょうかい)の伝統でんとうまも教会きょうかいにおいては、礼拝れいはいさんにおいて楽器がっき詩篇しへんうたわれる。ルーテルでも敬虔けいけん主義しゅぎでは、カンタータがけられる傾向けいこうにあった。

礼拝れいはい音楽おんがく形式けいしき[編集へんしゅう]

礼拝れいはい音楽おんがく順序じゅんじょとしては、まず前奏ぜんそうつぎ導入どうにゅうリトゥルギー説教せっきょうまえうた説教せっきょうのあとの献金けんきんわりのまえうた、そしてこうそうとなるのが一般いっぱんであるが、カトリックのように厳格げんかくではなく、用途ようとによって自由じゆう変更へんこうできる。楽器がっきおおくの場合ばあいオルガンもちいられるが、祝典しゅくてんなどには教会きょうかい混声こんせい合唱がっしょうポザウネンコアなどがはいる。それ以外いがいギターなどの楽器がっき用途ようとによって自由じゆう挿入そうにゅうされる。オルガンがまったくのソロでくのはもっぱら前奏ぜんそうこうそうのみであるが、聖餐せいさんときなどにもBGMなどとしてちいさいおとそうされることもある。また、これもふくめて間奏かんそうとして欧米おうべいでは即興そっきょう音楽おんがく挿入そうにゅうすることもおおい。

バッハの一連いちれんカンタータ作品さくひん当時とうじ実際じっさいもちいられた形式けいしきで、現在げんざいでもドイツシュトゥットガルトなどのおおきな教会きょうかいではそれにのっとっておこなわれている。実際じっさいにはそのあいだ牧師ぼくし祝福しゅくふく説教せっきょうおもいの一般いっぱん賛美さんび、オルガンによる賛美さんびのっとった自由じゆう即興そっきょうてき間奏かんそうなどが挿入そうにゅうされ、カトリックの典礼てんれいぶんほど形式けいしききびしくはないが、きたドイツの一部いちぶにはひがしドイツふうのルーテル・ミサの形式けいしきキリエからクレードまでの形式けいしきむのもある。

プロテスタントの教会きょうかい音楽家おんがくか[編集へんしゅう]

その教会きょうかい音楽おんがくをオルガナイズして、実際じっさいにオルガンを演奏えんそうしたり合唱がっしょうなどを指揮しきしたりするひとを「教会きょうかい音楽家おんがくか」という。ドイツの音大おんだいなどでは「オルガン」とはべつに「教会きょうかい音楽おんがく」が併設へいせつされていて、専攻せんこうおもカトリック宗教しゅうきょう音楽おんがくプロテスタント宗教しゅうきょう音楽おんがくわかれ、オルガンをふくむそれにかんするすべてのことをまなぶ。さら一般いっぱん州立しゅうりつ音楽おんがく大学だいがく以外いがいでも特別とくべつに「教会きょうかい音楽おんがく大学だいがく」がもうけられていてそこでもまなぶことができる。その場合ばあいにはカトリックとプロテスタントはわかれて設立せつりつされるのが普通ふつうである。また学外がくがいでも資格しかくれ、簡単かんたんじゅんにD/C/B/Aのグレードがあり、それぞれオルガニストの資格しかく合唱がっしょう指揮しきしゃ資格しかく、ポザウネンコア指揮しきしゃ資格しかくなどとかれているのが普通ふつうである。たとえばCクラスではオルガンについては普通ふつう譜面ふめん楽譜がくふどおりくだけであるが、Aクラスの教会きょうかい音楽家おんがくかになるとオルガンで賛美さんび旋律せんりつ譜面ふめんだけ伴奏ばんそう自由じゆうにすべての前奏ぜんそうやシュトローフェにおいて即興そっきょうされるし、前奏ぜんそうこうそうにはバッハさましきで「パッサカリア」や「アリアヴァリエーション」、「インヴェンション」、アレグロで4こえの「トッカータもしくは幻想曲げんそうきょく前奏ぜんそうきょく(プレリュード)とフーガ」などを、メリスマふくめて厳格げんかく完璧かんぺき即興そっきょうできる実力じつりょくわせている。最近さいきんはどこの教会きょうかい財政難ざいせいなんで、カトリック・プロテスタント双方そうほうともオルガニストと合唱がっしょう指揮しきしゃとポザウネンコア指揮しきしゃ(カトリックはショラふくむ)のすべての音楽おんがくができる能力のうりょく音楽家おんがくか採用さいようする場合ばあいおおい。とくにプロテスタントのエキュメニカルでは信者しんじゃ減少げんしょう無数むすう教派きょうはかずのために、キリストきょう教派きょうはなどはとく考慮こうりょしないで能力のうりょくさえあれば使つかう、エコメーニッシュの傾向けいこうつよい。一方いっぽう教会きょうかい音楽家おんがくか音楽おんがくてき能力のうりょくだけでなく、一定いってい信仰しんこう必要ひつようであるが、最近さいきん人材じんざい不足ふそくのためにあまこまかい宗派しゅうはわない傾向けいこうがある。したがって「プロテスタント教会きょうかい」は「カトリック教会きょうかい」よりもエキュメニズムはるかに浸透しんとうしているので、カトリック教徒きょうとでも「プロテスタント様式ようしき」の礼拝れいはい協力きょうりょくできるものであれば、プロテスタントの教会きょうかい音楽家おんがくかになることができるが、そのぎゃくはまだみとめられていない。

日本にっぽんのプロテスタント[編集へんしゅう]

日本にっぽんのプロテスタントでは1903ねん共通きょうつうさん美歌みか成立せいりつし、1931ねん改定かいていされた。だい世界せかい大戦たいせんなか国家こっか統制とうせい日本にっぽん基督教きりすときょうだんにおいて、時勢じせいわせた創作そうさくきょくきみふくんださん歌集かしゅう編纂へんさんされた。戦後せんごさん美歌みか日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく1954ねん)が出版しゅっぱんされ、プロテスタントきょうかい内外ないがいひろもちいられている。1997ねんには、歌詞かし口語こうご差別さべつ用語ようごなどの除去じょきょエキュメニカルなどを意識いしきした『さん21』が出版しゅっぱんされている。また中田なかた羽後うご中心ちゅうしんとして編纂へんさんされた聖歌せいか (日本にっぽん福音ふくいん連盟れんめい)1958ねん)が福音ふくいんでよくもちいられていたが、2001ねんに『さん美歌みか』と『聖歌せいか』のおもなさん美歌みか混成こんせいばんである『しん聖歌せいか』(きょうぶんかん)が、2002ねんに『聖歌せいか』の後継こうけいばんである『聖歌せいか (総合そうごうばん)』(聖歌せいかともしゃ)がされた。西方せいほう教会きょうかいでは、伝統でんとうてきさん美歌みかほかワーシップばれるさんもちいられるようになっており、『ミクタム』、『リビングプレイズ』などがある。には日本にっぽんバプテスト連盟れんめいが『新生しんせいさん美歌みか』、救世きゅうせいぐんが『救世きゅうせいぐん歌集かしゅう』をもちいている。救世きゅうせいぐんさん美歌みか小隊しょうたい教会きょうかい)によってはブラスバンド演奏えんそうされることもある。救世きゅうせいぐんペンテコステでは、賛美さんびタンバリン使つかわれることもある。

近代きんだい現代げんだい音楽おんがくなかキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

ドビュッシー
ストラヴィンスキー

概説がいせつ[編集へんしゅう]

20世紀せいき以降いこうキリスト教きりすときょう音楽おんがくはそのおおくが典礼てんれい音楽おんがくよりもたんなる宗教しゅうきょうてき題材だいざいもとづく典礼てんれいてき音楽おんがく関心かんしんしめしている。言葉ことばえてえば礼拝れいはいたてまつかみあや典礼てんれい)のための「実用じつよう音楽おんがく」よりも、宗教しゅうきょうをテーマとした「芸術げいじゅつ音楽おんがく」にその作曲さっきょく行為こうい比重ひじゅううつっている。

一方いっぽうで、20世紀せいきなかばには、それまで実用じつようてき聖歌せいか作曲さっきょくをしていたのにたいして晩年ばんねんたてまつかみあやにおいて実用じつようてき作曲さっきょくせい金口きんぐちイオアン聖体せいたい礼儀れいぎだい4ばん」を作曲さっきょくしたアレクサンドル・グレチャニノフのような作曲さっきょくもいる。正教会せいきょうかいにおけるイラリオン・アルフェエフや、日本にっぽんカトリック教会きょうかいにおける高田たかだ三郎さぶろうのように、実際じっさい礼拝れいはいにおいてもちいられる聖歌せいかキリスト教きりすときょう音楽おんがくおお作成さくせいする作曲さっきょくは20世紀せいき後半こうはんから現在げんざいにかけても存在そんざいしている。

きん現代げんだいはじまったことではないが、作曲さっきょくのみならず演奏えんそうにも多様たようはさらにすすみ、かつては修道しゅうどう聖歌せいかたいえいたい)・教会きょうかいオルガニストといった教会きょうかいでの音楽おんがく活動かつどう中心ちゅうしんおこな人々ひとびとになわれていた礼拝れいはい音楽おんがくは、世俗せぞく歌手かしゅ合唱がっしょうだん管弦楽かんげんがくだんによっても演奏えんそうされることがさらにおおくなり、おおくの教会きょうかい一般いっぱん信徒しんと教会きょうかい音楽おんがくおおくの比重ひじゅうめている。

一方いっぽうで、東方とうほう教会きょうかい西方せいほう教会きょうかいべつわず、修道院しゅうどういんにおいては聖歌せいか音楽おんがく中心ちゅうしんいま修道しゅうどうにある。正教会せいきょうかいにおいては、特定とくてい修道院しゅうどういん独特どくとくのものとして存在そんざいする旋律せんりつ和声わせいほう音楽おんがく伝統でんとうが、修道しゅうどうによって現代げんだい継承けいしょうされている。

近代きんだいキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

クロード・ドビュッシーはその晩年ばんねんの「せいセバスティアンの殉教じゅんきょう」により印象いんしょう主義しゅぎ音楽おんがくによるキリストきょう音楽おんがく代表だいひょうつくった。

イーゴリ・ストラヴィンスキー初期しょき作品さくひん異教いきょうてき世俗せぞくてき作品さくひんおおかったが1920ねんだい回心かいしん経験けいけんし、キリストきょう音楽おんがく作曲さっきょくするようになった[4]かれ中期ちゅうきにも「詩篇しへん交響曲こうきょうきょく」などをのこしているが、おも晩年ばんねんになってからのじゅうおと技法ぎほうによるミサ宗教しゅうきょうカンタータによって、キリストきょう音楽おんがく作曲さっきょくとしても地位ちい確立かくりつした。ストラヴィンスキーは、教会きょうかい音楽おんがく作曲さっきょくするもの信仰しんこうしゃでなければならないとしんじていた[4]。ストラヴィンスキーは正教会せいきょうかいたてまつかみあやもちいることのできる伴奏ばんそう声楽せいがく聖歌せいか作曲さっきょくしている(ニケア・コンスタンチノープルしんけいなど)。

パウル・ヒンデミットしんそくぶつ主義しゅぎ音楽おんがくは「マリアの生涯しょうがい」などをつくらせた。また、フランスろく人組にんぐみ一人ひとりでスイスじんアルテュール・オネゲルオラトリオダヴィデおう」はかれ代表だいひょうさくのひとつで名高なだかい。おなじくろく人組にんぐみフランシス・プーランクは、従来じゅうらい甘美かんび感傷かんしょうてきあるいは楽天的らくてんてき作風さくふうたいし、こと宗教しゅうきょうてき素材そざいとなると一転いってんしてきびしく崇高すうこう作風さくふうもちいた。「グローリア」「スターバト・マーテル」「黒衣くろご聖母せいぼれんいのり」はフランスきん現代げんだい合唱がっしょう宗教しゅうきょう音楽おんがく傑作けっさくかぞえられ、オペラ「カルメル修道しゅうどうおんな対話たいわ」もその宗教しゅうきょうてき題材だいざいによる作曲さっきょく敬虔けいけんさがうかがえる。テキストをもちいない「オルガン、ティンパニと弦楽器げんがっきのための協奏曲きょうそうきょく」においてもそれは顕著けんちょである。そのきょく初演しょえんオルガニストでもあった後進こうしん世代せだい作曲さっきょくモーリス・デュリュフレは、作曲さっきょくとしては寡作かさくではあったが、その代表だいひょうさくレクイエム」をはじめオルガンきょく合唱がっしょうきょくなど宗教しゅうきょうてき題材だいざい音楽おんがく作曲さっきょくし、それらのほとんどはいまなお実際じっさいのミサや典礼てんれいにももちいられている。

アルノルト・シェーンベルクオペラモーゼとアロン」をいており、これは旧約きゅうやく聖書せいしょもとづく作品さくひんではあるが、本人ほんにん晩年ばんねんユダヤきょう改宗かいしゅうしており、「キリストきょう音楽おんがく」の枠組わくぐみにはとらえられないこともある。

戦中せんちゅう戦後せんごキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

メシアンみぎはし)とデュリュフレみぎから2人ふたり)。中央ちゅうおう白髭しらひげ男性だんせいデュカス

20世紀せいき中盤ちゅうばん以降いこう宗教しゅうきょう音楽おんがくオリヴィエ・メシアン存在そんざいをなくしてはかたれない。初期しょきの「わすれられたささげもの」からはじまり、中期ちゅうき大作たいさくわれらのしゅイエス・キリストの変容へんよう」をとおしてさい晩年ばんねんだい管弦楽かんげんがくきょく彼方かなた閃光せんこう」までそのほとんどが現代げんだい音楽おんがく史上しじょう重要じゅうよう作品さくひんである。またワーグナーの「パルシファル」やドビュッシーの「せいセバスティアンの殉教じゅんきょう」などをモデルにした巨大きょだい宗教しゅうきょうオペラ「アッシジのせいフランチェスコ」の存在そんざい意義いぎ大変たいへん重要じゅうようである。メシアンはキリスト教きりすときょうてき・カトリックてき思想しそうとき独自どくじのテキストで拡大かくだいしており、とく自身じしんおお研究けんきゅうしたとりとの関連かんれんたせている。

20世紀せいきふたつのおおきな戦争せんそう経験けいけんしており、とくだい世界せかい大戦たいせん以後いごには、宗教しゅうきょうてき題材だいざいにとどまらずときには宗教しゅうきょうてき思想しそうえて、戦争せんそう犠牲ぎせいしゃへの追悼ついとうてき作品さくひんおおつくられた。イギリスベンジャミン・ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」や「戦争せんそうレクイエム」、ポーランドクシシュトフ・ペンデレツキはその初期しょき作品さくひん「ディエス・イレ(アウシュヴィッツ強制きょうせい収容しゅうようしょ犠牲ぎせいしゃささげる)」や「広島ひろしま犠牲ぎせいしゃささげる哀歌あいか」、中期ちゅうき以降いこうの「ポーランド・レクイエム」など、またヘンリク・グレツキ交響こうきょうきょくだい3ばん悲歌ひかのシンフォニー」などがげられる。これらはかならずしもキリスト教きりすときょうもとづくテキストをもちいてはおらず、ときにはそれ以外いがいのテキストと折衷せっちゅうしたもの、まったキリスト教きりすときょう以外いがいのもの、題名だいめいだけキリスト教きりすときょうもとづく単語たんご借用しゃくようしたものなどがある。

セリエルけいキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

トータル・セリエリズム音楽おんがくでは、カールハインツ・シュトックハウゼン電子でんし音楽おんがくもちいて旧約きゅうやく聖書せいしょからの材料ざいりょうで「少年しょうねんうた」などの傑作けっさくつくった。かれ晩年ばんねんになるにしたがって、宗教しゅうきょうてきというよりも神秘しんぴ主義しゅぎてき題材だいざいはし傾向けいこうがあり、常時じょうじ宗教しゅうきょうてき題材だいざいげていたわけではない。しかし、たとえば晩年ばんねんの「クラング(時間じかん)」のだい2あいだに「たりたまえ、創造そうぞうおもなる聖霊せいれい」のテキストをもちいるなど、キリストきょうへの関心かんしん継続けいぞくしてられた。ピエール・ブーレーズは「レポン」や「アンテーム」など従来じゅうらいキリスト教きりすときょう音楽おんがく題名だいめいもちいてはいるが、視点してんはその題名だいめいしめ構造こうぞう示唆しさすることにあり、キリストきょうへのリスペクトをあらわしているわけではない。ルイジ・ノーノ共産きょうさん主義しゅぎものだったため、死後しご世界せかいの「ディオティマ」を題材だいざいとした弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく以外いがい宗教しゅうきょう音楽おんがくをほとんどのこしていない。

セリエルけいキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

その作曲さっきょくではリゲティの「レクイエム」および「永遠えいえんひかり」(ルクス・エテルナ)が現代げんだい音楽おんがくにおける傑作けっさく地位ちい確立かくりつしている。またキリスト教きりすときょうてき題材だいざいあらわしたきょくではないが、かれきょくでオルガンのための「ヴォルミナ」は、オルガンという楽器がっきトーン・クラスターんだことで、以後いごのオルガン音楽おんがくおおきなインパクトをあたえた。ルチアーノ・ベリオ中期ちゅうき管弦楽かんげんがくきょくで「エピファニー」などの傑作けっさくいている。

前述ぜんじゅつのペンデレツキは上記じょうき以外いがいにも、中期ちゅうきには代表だいひょうさく「ルカ受難じゅなんきょく」を作曲さっきょくした。それまでトーン・クラスターばれる強烈きょうれつ音響おんきょう駆使くしする作風さくふうもちいてたペンデレツキは、この「ルカ受難じゅなんきょく」において全曲ぜんきょく大半たいはんをやはりクラスターで作曲さっきょくしておき、最後さいごでイエス・キリストの復活ふっかつあらわすのに、クラスターから一転いってんして長調ちょうちょうしゅ和音わおん(ミ・ソ#・シ)をぜん管弦楽かんげんがく合唱がっしょうのトゥッティでらした。このことは、調しらべせい音楽おんがく否定ひていしてきた戦後せんご現代げんだい音楽おんがくかいおおきな波紋はもんひろげた。そのたったひとつの協和きょうわおんで「折衷せっちゅう主義しゅぎ」と批評ひひょう批判ひはん)されたペンデレツキは、これ以降いこう保守ほしゅてき作風さくふう転向てんこうすることになる。それ以降いこう作風さくふう変化へんかしたものの、「グローリア」、交響こうきょうきょくだい7ばん「エルサレムの7つのもん」などのカトリックてき題材だいざいもとづくキリスト教きりすときょう音楽おんがくつくつづけている(前述ぜんじゅつのメシアンの「アッシジのせいフランチェスコ」においても、かみ奇跡きせききた瞬間しゅんかん不協和音ふきょうわおんから一転いってんして長調ちょうちょうしゅ和音わおんるという演出えんしゅつがあり、あきらかな影響えいきょうられる)。

21世紀せいきにまたがる作曲さっきょくキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

メシアン以降いこう世代せだいキリスト教きりすときょうてき思想しそう音楽おんがくおおき、かつ現代げんだい音楽おんがくかい影響えいきょうりょく作曲さっきょくとしてはまずスイス出身しゅっしんクラウス・フーバー空間くうかん音楽おんがく駆使くししたノーノもどきの演奏えんそうかいよう宗教しゅうきょう音楽おんがくげられる。一方いっぽうおやがプロテスタントの教会きょうかい音楽家おんがくかだったドイツのヘルムート・ラッヘンマンはその合唱がっしょうきょくの「なぐさめ」 (Consolations) IからIIIにおいて宗教しゅうきょうてき題材だいざい作品さくひんがあるが、本人ほんにん声楽せいがくきょくける傾向けいこうにあるために、それ以降いこうには宗教しゅうきょう作品さくひんつくられていない。フーバーの弟子でしでありラッヘンマンの後輩こうはいのイギリス出身しゅっしんブライアン・ファーニホウは、「ミサ・ブレヴィス」などの宗教しゅうきょうテキストを時々ときどきげている。これら3にんシュトゥットガルトあるいはフライブルク拠点きょてん活動かつどうしており(ファーニホウはそのカリフォルニアにうつる)、また1970年代ねんだい以降いこうダルムシュタット夏季かき現代げんだい音楽おんがく講習こうしゅうかいおお教鞭きょうべんをとり、セリエル音楽おんがくのトンネルをけた経験けいけんつという共通きょうつうてんがある。

東欧とうおうけん作曲さっきょくキリスト教きりすときょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

きゅうソビエト連邦れんぽう作曲さっきょくには、たとえばセルゲイ・プロコフィエフドミートリイ・ショスタコーヴィチなどにられるように、ほとんど宗教しゅうきょうてき題材だいざいもとづく音楽おんがくがない。これは共産きょうさん主義しゅぎかみろん唯物ゆいぶつろん前提ぜんていとしているのですべての宗教しゅうきょう否定ひていし、言論げんろん自由じゆう抑制よくせいされていたソ連それんでは宗教しゅうきょう音楽おんがくというものを大々的だいだいてきには作曲さっきょくできなかったという事情じじょうがある。ソ連それん衛星えいせいこくとなっていた東欧とうおう諸国しょこくでも事情じじょう似通にかよっており、東欧とうおうにおける正教会せいきょうかい聖歌せいか伝統でんとうは、宗教しゅうきょう弾圧だんあつ細々こまごま継承けいしょうされつつも停滞ていたいした。

しかしペレストロイカ以降いこうてつのカーテンこうから西側にしがわ紹介しょうかいされはじめた音楽家おんがくかなかで、とくエストニアアルヴォ・ペルトタタールソフィア・グバイドゥーリナ2人ふたりは、キリストきょうてき題材だいざい音楽おんがくおお作曲さっきょくしている。たとえばペルトの「ルカ受難じゅなんきょく」、グバイドゥーリナの「イン・クローチェ(十字架じゅうじかうえで)」「十字架じゅうじかじょうのキリストの最後さいごの7つの言葉ことば」、ヴァイオリンと管弦楽かんげんがくのための「オッフェルトリウム」などがげられる。アルヴォ・ペルトはせい教徒きょうとであり、たてまつかみあやにおいてもちいられる伴奏ばんそう声楽せいがく正教会せいきょうかい聖歌せいか作曲さっきょくしている。

また、ロシア正教会せいきょうかい渉外しょうがい局長きょくちょうであり神学しんがくしゃ歴史れきし学者がくしゃでもあるイラリオン・アルフェエフだい主教しゅきょうは、管弦楽かんげんがくつきのオラトリオ受難じゅなんきょくとともに、たてまつかみあやもちいられる伴奏ばんそう声楽せいがく聖歌せいか作曲さっきょくしているなど、ソ連それん崩壊ほうかい東欧とうおうにおいて正教会せいきょうかいをはじめとしたキリスト教きりすときょう音楽おんがく伝統でんとう急速きゅうそく復興ふっこう拡大かくだいげている。

ユダヤけいのシュニットケらにも同様どうよう作品さくひんがあるが、かれらが急速きゅうそくキリスト教きりすときょう音楽おんがく作品さくひんやしている理由りゆうは、とも故国ここくててドイツ定住ていじゅうし、需要じゅようおうじてつねにそのるい委嘱いしょく大量たいりょうつづけているためであり、器楽きがく伴奏ばんそうたてまつかみあやにおいて使用しようしない正教会せいきょうかい伝統でんとうにはつよくこだわってはいない。

現在げんざいキリスト教きりすときょう音楽おんがく委嘱いしょく初演しょえん活動かつどう[編集へんしゅう]

J.S.バッハぼつ250周年しゅうねんには、上記じょうきのグバイドゥーリナをふくめ、オスバルド・ゴリホフヴォルフガング・リームタン・ドゥンの4にんたいし、マタイマルコルカヨハネの4つの福音ふくいんしょもとづく受難じゅなんきょく作曲さっきょく委嘱いしょくされた。このうちタン・ドゥンはキリスト教徒きりすときょうとではない。またこの企画きかくでは、それぞれの作曲さっきょく福音ふくいんしょ以外いがいにもテキストをもちいることができるという委嘱いしょく条件じょうけんされていたが、作曲さっきょく聖書せいしょべつ部分ぶぶんあるいは宗教しゅうきょうてきテキストをもちいたのにたいし、タン・ドゥンは「しんマタイ受難じゅなんきょく」の副題ふくだいを「永遠えいえんみず」とし、従来じゅうらいキリスト教きりすときょうかんとははなれた作曲さっきょく自身じしんによるみずもとづくテキストをもちいた。このように現代げんだいにおいてはキリスト教徒きりすときょうと以外いがい作曲さっきょくによるキリストきょう音楽おんがく、また従来じゅうらいキリスト教きりすときょうてきテキストにとどまらず独自どくじ解釈かいしゃくもちいることも聴衆ちょうしゅう許容きょようされつつある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただし、現在げんざいでもコラール礼拝れいはい比較的ひかくてきよくもちいられる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ ジャン・ド・ヴァロワちょ水嶋みずしま良雄よしおやく『グレゴリオ聖歌せいか』9ぺーじ〜10ぺーじ白水しろみずしゃ文庫ぶんこクセジュ ISBN 4-560-05811-3
  2. ^ びぶりか』「賛美さんびのこころ」たけふじごうまれ
  3. ^ おくしのぶ 「Martin Lutherの音楽おんがくかん(2014ねん11月9にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c P・カヴァノー『だい作曲さっきょく信仰しんこう音楽おんがくきょうぶんかん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • コンスタンチン・P. コワリョフ(ちょ)、ウサミ ナオキ(翻訳ほんやく)『ロシア音楽おんがく原点げんてん―ボルトニャンスキーの生涯しょうがいしん読書どくしょしゃ ISBN 978-4788061057
  • つじ荘一しょういち『キリストきょう音楽おんがく歴史れきし日本にっぽん基督教きりすときょうだん出版しゅっぱんきょく ISBN 4-8184-2027-1
  • ドナルド・H・ヴァン・エス『西洋せいよう音楽おんがくしん時代じだいしゃ
  • 藤田ふじたひろしちょ宗教しゅうきょう音楽おんがくだい辞典じてん
  • 武田たけだあきらりん「20世紀せいき音楽おんがく」『音楽おんがくだい辞典じてんだい4かん平凡社へいぼんしゃ 1982)1714-17
  • E・ソーズマン『20世紀せいき音楽おんがく松前まさき紀男のりお秋岡あきおかようやく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 1993)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]