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バロック音楽おんがく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

バロック音楽おんがく(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀せいき初頭しょとうから18世紀せいきなかばまでの音楽おんがく総称そうしょうである。この時代じだいルネサンス音楽おんがく古典こてん音楽おんがくあいだ位置いちする。絶対ぜったい王政おうせい時代じだいとほぼかさなる[1]

語源ごげん

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バロックふつえい: baroque)というかたりはポルトガル barocco (いびつな真珠しんじゅ)が由来ゆらいであるとされ、過剰かじょう装飾そうしょく建築けんちく批判ひはんするための用語ようごとして18世紀せいき登場とうじょうした。てんじて、17世紀せいきから18世紀せいきまでの芸術げいじゅつ一般いっぱんにおける、あるしゅ様式ようしきかたりとして定着ていちゃくした。

音楽おんがくてき観点かんてんから「バロック音楽おんがく」に組織そしきてき言及げんきゅうしたのは、ドイツの音楽おんがくがくものクルト・ザックス1888ねん - 1959ねん)である。かれ1919ねん論文ろんぶん "Barockmusik" によれば、バロック音楽おんがくは「彫刻ちょうこく絵画かいがとうおなじように速度そくど強弱きょうじゃく音色ねいろなどに対比たいひがあり、劇的げきてき感情かんじょう表出ひょうしゅつ特徴とくちょうとした音楽おんがく」と定義ていぎされる。

しかし、17世紀せいきから18世紀せいきにかけての音楽おんがくには、地方ちほう時期じきによって様々さまざまなスタイルのものがあるため、バロック音楽おんがく特徴とくちょう簡略かんりゃく総括そうかつすることむずかしい。たとえば、フランスでは、フランス音楽おんがくにバロック音楽おんがく存在そんざいしない、と主張しゅちょうし、この時期じき音楽おんがくを「古典こてんフランス音楽おんがく」(la musique française classique)とものもいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は1961ねん論文ろんぶん "Terminologia organistica" のなかで、17世紀せいき前半ぜんはんのフランス芸術げいじゅつ古典こてん主義しゅぎ席捲せっけんされているため、ドイツ音楽おんがく史学しがくひろもちいられる「バロック」のかたりは、フランスの音楽おんがく文化ぶんかてはめることができない、とべている。

いまでは「バロック音楽おんがく」の用語ようごは、音楽おんがく様式ようしき時代じだい様式ようしきだけでなく、むしろ、音楽おんがく史上しじょう年代ねんだいすものとしてもひろれられている。

年代ねんだいべつ概観がいかん

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以下いかでは年代ねんだいってバロック音楽おんがく変遷へんせん記述きじゅつする。それぞれの年代ねんだい地域ちいき特徴とくちょうてき潮流ちょうりゅう説明せつめいするにあたって、その時代じだい地域ちいき代表だいひょうてき音楽家おんがくか活動かつどうとおして説明せつめいこころみている。これらの音楽家おんがくかはあるしゅ典型てんけいれいひとつにぎず、実際じっさいおおくの音楽家おんがくかやパトロンとうによって形作かたちづくられていた音楽おんがく環境かんきょうがそれぞれの地域ちいき時代じだい音楽おんがく潮流ちょうりゅう重層じゅうそうてきかつ多様たようせいのあるものとしてつくしていたこと注意ちゅういしなければならない。よりくわしくはバロック音楽おんがく作曲さっきょく一覧いちらんなどから個々ここ作曲さっきょく記事きじなどを参照さんしょうされたい。

初期しょきバロック

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1600ねん以前いぜんルネサンス音楽おんがくでは、おおくの音楽おんがく作品さくひん対位法たいいほうにのっとって作曲さっきょくされており、こえ模倣もほう不協和音ふきょうわおん利用りようほうおおくの制限せいげんがあった。これにたいして、きたイタリアのマドリガーレ作曲さっきょくたちは、内容ないようあらわれる個々ここかたり感情かんじょう affetto音楽おんがくてき表現ひょうげんする手段しゅだん探求たんきゅうしていた。また、フィレンツェカメラータでは、古代こだいギリシア音楽おんがく悲劇ひげき復興ふっこう観点かんてんから、感情かんじょうむすびついた音楽おんがく表現ひょうげん探求たんきゅうした。これらはそれぞれちが動機どうきってはいたものの、音楽おんがくにおける感情かんじょう劇的げきてき表現ひょうげんという観点かんてん共有きょうゆうしており、それぞれルネサンス音楽おんがく作曲さっきょくほうわくやぶろうとしていた。

このような運動うんどうすすめたマドリガーレ作曲さっきょくとしてはクラウディオ・モンテヴェルディ1567ねん - 1643ねん)が有名ゆうめいである。かれはしばしば作中さくちゅうで「予備よびのない不協和音ふきょうわおん」をもちいたが、このことたいするジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ批判ひはんこたえて、モンテヴェルディはルネサンスの規範きはんによる旧来きゅうらい作曲さっきょくほうを「だいいち作法さほう」(prima pratica)、それにたいし、かれ自身じしんふくあらたな技法ぎほうによって劇的げきてき音楽おんがく表出ひょうしゅつ目指めざ作曲さっきょくほうを「だい作法さほう」(seconda pratica) とんで、後者こうしゃ擁護ようごした。

ルネサンス音楽おんがくにおいて声楽せいがくは3こえ以上いじょうつものが主流しゅりゅうであったが、カメラータではげきちゅう音楽おんがくとして、げき登場とうじょう人物じんぶつ1人ひとり歌唱かしょうする作品さくひん形式けいしき発案はつあんした。これをモノディー形式けいしきぶ。カメラータの音楽おんがくげき最初さいしょのまとまったこころみは1598ねんヤーコポ・ペーリ1561ねん - 1633ねん)を中心ちゅうしんとしておこなわれた音楽おんがくげき「ダフネ」の上演じょうえんであり、これをもっオペラ誕生たんじょうとする意見いけんもある。モノディー形式けいしきれいとして今日きょうもっと有名ゆうめいなのは、ジュリオ・カッチーニ1545ねんごろ - 1618ねん)の Le nuove musiche(「しん音楽おんがく」、1601ねん)である。「しん音楽おんがく」の作品さくひんは、歌手かしゅうたうメロディーと伴奏ばんそうよう低音ていおんパートの2こえくわえて、低音ていおんパートに数字すうじえてされている。数字すうじ低音ていおんうえそうすべき和音わおんしめしており、これはいわゆるつうそう低音ていおん原型げんけいともうべきものである。モノディー歌曲かきょくは、ストロペおな旋律せんりつ歌詞かしえてのかえし)をたないつうさく形式けいしきであり、レチタティーボ先駆せんくでもある。

これらの潮流ちょうりゅう孤立こりつして存在そんざいしていたのではなく、たがいに影響えいきょうおよぼしあい、また宗教しゅうきょう音楽おんがくオルガンチェンバロよう鍵盤けんばん音楽おんがく、またリュート音楽おんがくなどのジャンルにもおおきな影響えいきょうおよぼした。バロック時代じだいとおしてられる半音はんおんかい使用しよう比較的ひかくてき自由じゆう不協和音ふきょうわおん使用しようもこの時期じき一般いっぱんてきとなった。

ヴェネツィアでは都市とし繁栄はんえい裏付うらづけられた富裕ふゆうそうがいたが、これらの市民しみんのためのオペラ劇場げきじょうが17世紀せいきちゅうごろまでに相次あいついでてられ、オペラがだい流行りゅうこうすることになる。この時期じきのヴェネツィアふうのオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子でしフランチェスコ・カヴァッリ1602ねん - 1676ねん)によるものが有名ゆうめいである。これらの作品さくひんでは、カメラータの音楽おんがくげきとはちがって、レチタティーヴォアリア、および器楽きがくリトルネロによってオペラを構成こうせいする形式けいしきへと変化へんかしつつあった。また、これらのオペラや各種かくしゅ祝祭しゅくさいにおける器楽きがく需要じゅようによってヴェネツィアでは器楽きがく発達はったつした。ヴェネツィアではルネサンス末期まっきジョヴァンニ・ガブリエリ1554ねんごろ - 1612ねん)らによって、コンチェルタート形式けいしき器楽きがく発達はったつしていた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来いらい器楽きがく技法ぎほういでいたが、それとはべつに、ダリオ・カステッロ(? - 1630ねんころ)ら器楽きがくのヴィルトゥオーゾたちによって、旋律せんりつ楽器がっき独奏どくそうあるいは二重奏にじゅうそうつうそう低音ていおんによる(単一たんいつ楽章がくしょう形式けいしきの)ソナタつくられた。

おなごろローマでも教皇きょうこうちょうやそこにあつまってくる貴族きぞく外国がいこくじん邸宅ていたくなどを中心ちゅうしんとして音楽おんがく活動かつどうさかんにおこなわれていた。これら貴族きぞく邸宅ていたくでの音楽おんがく実践じっせんなかで、レチタティーボアリア形式けいしきれた室内しつないカンタータ発生はっせいしていった。また、教皇きょうこうちょう教会きょうかいでは通常つうじょう典礼てんれいのためのミサきょくなどがつくられつづけた一方いっぽう祈祷きとうしょでの宗教しゅうきょうてき修養しゅうようさかんにおこなわれており、その一環いっかんとして宗教しゅうきょうてき題材だいざいカンタータ形式けいしき音楽おんがくけたオラトリオ演奏えんそうされるようになった。初期しょきのカンタータやオラトリオの作曲さっきょくとしてはジャコモ・カリッシミ1605ねん - 1674ねん)が重要じゅうようである。ローマでも器楽きがくさかんであり、オルガニストのジローラモ・フレスコバルディ1583ねん - 1643ねん)などが人気にんきはくしていた。

フランスではリュート作曲さっきょく研究けんきゅう隆盛りゅうせいきわめた。ゴーティエ一族いちぞくエヌモン・ゴーティエ1575ねん? - 1651ねん)、ドニ・ゴーティエ1603ねん - 1672ねん))を筆頭ひっとうとするリュート奏者そうしゃたちは、様々さまざま調しらべつるほうこころみたすえ、ニ短調たんちょう調ちょうつるあたらしいリュート(バロックリュート)を確立かくりつさせた。

オーストリアやみなみドイツの諸侯しょこう都市としは16世紀せいき後半こうはんからイタリアの音楽家おんがくか招聘しょうへいしたり、わか音楽家おんがくかをイタリアに派遣はけん勉強べんきょうさせたりした。この時期じきにイタリアに音楽おんがくまなびにった音楽家おんがくかなか今日きょうとく有名ゆうめいなのはハインリヒ・シュッツ1585ねん - 1672ねん)である。ヴェネツィアに2遊学ゆうがくし、ジョヴァンニ・ガブリエリクラウディオ・モンテヴェルディ師事しじした。音楽おんがく人生じんせいのほとんどをドレスデン宮廷きゅうてい楽長がくちょうとしてごしたかれは、イタリアでつくられたオペラやカンタータ器楽きがくとうもちいられる様式ようしき踏襲とうしゅうしつつ、イタリアの最新さいしん流行りゅうこううというよりは、独自どくじ音楽おんがく表現ひょうげんつくしていったようである。かれのドイツ聖書せいしょ物語ものがたりもとづく作品さくひんルター地域ちいきひろれられ、いわゆるドイツふう音楽おんがくのひとつの基盤きばんつくられたといえる。

一方いっぽうきたドイツではヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク1562ねん - 1621ねん)の弟子でしたちによるきたドイツ・オルガンらくがあり、これもドイツふう音楽おんがくかんがえるときにはかせない要素ようそである。またミヒャエル・プレトリウス (1571ねん - 1621ねん)は、ルター独特どくとくコラール音楽おんがく多彩たさい発展はってんさせた。このように、プロテスタント・ルター文化ぶんか素地そじうえにイタリアの音楽おんがく形式けいしき輸入ゆにゅうされたことで、ルターさかんな北部ほくぶドイツを中心ちゅうしんとして独自どくじのバロック音楽おんがく形式けいしきつくられることとなる。

中期ちゅうきバロック

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17世紀せいき前半ぜんはんにイタリアでおこったあたらしい音楽おんがくながれ、とくオペラ発生はっせいつうそう低音ていおん使用しようは、直接ちょくせつにせよ間接かんせつにせよ、のヨーロッパの国々くにぐに影響えいきょうあたえていくことになる。

フランスでは、17世紀せいき前半ぜんはんまで宮廷きゅうていバレエ(ballet de cour)やエール・ド・クール(リュート伴奏ばんそうによる世俗せぞく歌曲かきょく)など比較的ひかくてき独自どくじ音楽おんがく文化ぶんかっていた。1650ねんごろに、イタリア出身しゅっしんマザランきょうがイタリアのオペラを紹介しょうかいしたことなどで、イタリアふう音楽おんがく流入りゅうにゅうした。

ルイ14せい宮廷きゅうていでは1670ねんごろまで依然いぜんとして宮廷きゅうていバレエがさかんであった。イタリアからまねかれたジャン=バティスト・リュリ1632ねん - 1687ねん)は、ルイ14せい宮廷きゅうていおおくのバレエ音楽おんがく、コメディ=バレをつくった。やがてフランスでイタリアふうオペラが流行りゅうこうするが、リュリはイタリアふうレチタティーヴォアリアフランス語ふらんすご音素おんそあいいれないものであるとして、フランス独自どくじのオペラのジャンル、叙情じょじょう悲劇ひげき(tragédie lyrique)をてた。この叙情じょじょう悲劇ひげきは、歌手かしゅうたうレシ(récit)と舞曲ぶきょくから構成こうせいされていた。レシはレチタティーヴォをフランス語ふらんすご発音はつおんにあうように改変かいへんしたものであり、舞曲ぶきょく宮廷きゅうていバレエからがれたものである。リュリがルイ14せい宮廷きゅうてい圧倒的あっとうてき影響えいきょうりょくほこっていたこともあって、結果けっかてきにリュリの作品さくひんぐんによってそののフランスにおけるバロック音楽おんがく独自どくじ形式けいしき確立かくりつされることとなった。

この時期じきのフランスではリュリのほかにもマルカントワーヌ・シャルパンティエ1643ねん - 1704ねん)がモテ(motet)やげき音楽おんがく室内楽しつないがく分野ぶんや活躍かつやくしたほかマラン・マレ1656ねん - 1728ねん)などのヴィオール奏者そうしゃや、クラヴサン奏者そうしゃたちが、器楽きがく独奏どくそうによる組曲くみきょく形式けいしきおおくのすぐれた作品さくひんのこした。

オーストリアやみなみドイツでは、ぜん時代じだいつづいてより直接的ちょくせつてきにイタリアの音楽おんがく輸入ゆにゅうおこなわれた。ウィーン宮廷きゅうていはヴェネツィアから大勢おおぜい音楽家おんがくかまねいてイタリアけい音楽おんがくさかんであり、イタリアでカリッシミやフレスコバルディにまなんだヨハン・ヤーコプ・フローベルガー1616ねん - 1667ねん)、ヨハン・カスパール・ケルル1627ねん - 1693ねん)といったドイツじん音楽家おんがくか活躍かつやくしはじめた。ヨハン・パッヘルベル1653ねん - 1706ねん)はウィーンでまなんだのちドイツ中部ちゅうぶ南部なんぶのルターけん活躍かつやくした。かれらによってもたらされたオラトリオや教会きょうかいカンタータといったイタリア教会きょうかい音楽おんがくしん様式ようしきが、ルターのドイツテクストにも適用てきようされてドイツ独自どくじ発展はってんげた。

きたドイツ・オルガンらくながれを中期ちゅうきバロックの音楽家おんがくかとしてはディートリヒ・ブクステフーデ1637ねんごろ - 1707ねん)がいた。この時期じききたドイツのオルガンらくはその高度こうどなテクニック、とくたくみにペダル鍵盤けんばんあやつることでられる。ブクステフーデのオルガンようコラール前奏ぜんそうきょくや、ドイツカンタータはこの時期じきのドイツのバロック音楽おんがくひとつの典型てんけいてき作品さくひんであるといえる。パッセージのつくかたきたドイツ・オルガンらく方法ほうほういでいる一方いっぽうで、チャコーナパッサカリアといった形式けいしきをしばしば使用しようしており、ブクステフーデ自身じしんはイタリアでまなんだことはなかったが、楽曲がっきょく形式けいしきなどではイタリアふう音楽おんがく影響えいきょうられる。

イギリスでは、16世紀せいきまつごろから17世紀せいき前半ぜんはんまではリュート伴奏ばんそうによる独唱どくしょうきょく(リュートエア lute ayre)や、ヴィオールぞくのためのヴァイオル・コンソート音楽おんがくなどがジョン・ダウランド1563ねん - 1626ねん)やウィリアム・ローズ1602ねん - 1645ねん)らによってつくられた。はじめはルネサンス時代じだいのイギリス音楽おんがく特徴とくちょうのこした独特どくとく音楽おんがくっていたが、リュートエアにかんしては、イタリアのモノディー様式ようしきやレチタティチーヴォ、アリアの影響えいきょう次第しだいけるようになる。バロック中期ちゅうきにイギリスで活躍かつやくした作曲さっきょくとしてはヘンリー・パーセル1659ねん - 1695ねん)があげられる。パーセルの時代じだいにはイギリスにはリュリしきのフランスふう音楽おんがく輸入ゆにゅうされはじめていた。パーセルは、歌曲かきょく分野ぶんやではイタリアモノディーの影響えいきょうけた作品さくひんのこした一方いっぽうで、げき音楽おんがく分野ぶんやでは、フランスふう序曲じょきょくやフランスふう舞曲ぶきょく使用しようしており、フランス音楽おんがく影響えいきょうつよられる。しかしながら、パーセルの音楽おんがくは、イタリア音楽おんがくやフランス音楽おんがく模倣もほうというよりはむしろそれらをれた独自どくじ形式けいしきであったと評価ひょうかされている。

このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ1653ねん - 1713ねん)があらたな形式けいしき音楽おんがくつくしていた。かれあらたな作曲さっきょくほうトリオソナタヴァイオリンソナタ典型てんけいてきあらわれている。かれ音楽おんがくはルネサンスてき対位法たいいほうから完全かんぜんはなれて、機能きのう和声わせいてき観点かんてんからかくこえ緻密ちみつむといったものであり、それにしたがって、つうそう低音ていおんパートにまれるバスの数字すうじも、初期しょきバロックの作品さくひんとはことなり、細部さいぶわたって詳細しょうさいしるされている。結果けっかとして、曲想きょくそう初期しょきバロックのそれよりも抑制よくせいされ、均整きんせいのとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681ねんから1700ねん相次あいついで出版しゅっぱんされるやいなぜんヨーロッパで人気にんきはくし、またたにこの「コレッリ様式ようしき」が普及ふきゅうすることとなる。また、合奏がっそう協奏曲きょうそうきょく形式けいしきつくられたのもこの時期じきであり、コレッリも合奏がっそう協奏曲きょうそうきょくのこしている。

フランソワ・クープラン1668ねん - 1733ねん)はフランスにおけるコレッリ様式ようしき擁護ようごしゃのひとりであり、おおくのトリオソナタをのこしている。かれはフランスふう音楽おんがくとイタリアふう(コレッリふう)の音楽おんがく融合ゆうごうさせることをこころみており、「コレッリさん」(L'Apothéose de Corelli)と名付なづけられたトリオソナタをきょくしゅう趣味しゅみ融合ゆうごう」(Les goûts-réünis)(1724ねん)のなか収録しゅうろくしている。また、そのつぎとし出版しゅっぱんされた「リュリさん」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725ねん)は、それぞれのきょくにリュリにまつわる表題ひょうだいけられており、パルナッソスさんのぼったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンをかなでる、といった筋書すじがきが設定せっていされている。

イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ぶんやではアレッサンドロ・スカルラッティ1660ねん - 1725ねん)に言及げんきゅうせねばならない。かれのオペラは生前せいぜんからとても人気にんきがあったが、音楽おんがくてき観点かんてんから重要じゅうようなのはその形式けいしきじょう変化へんかである。スカルラッティのオペラでは様々さまざまてんでより古典こてん以降いこうのオペラにちかづいている。このことはたとえば、さん形式けいしきダ・カーポアリアの使用しようや、器楽きがくにおけるホルン利用りようなどからることができる。

このように、中期ちゅうきバロックの時代じだいには、初期しょきバロックにられた極端きょくたんなものや奇異きいなるものから、より緻密ちみつつくられた均整きんせいのとれたものへと趣味しゅみ変化へんかしていったほか楽器がっきかんしても、弦楽器げんがっきではヴァイオリンぞく管楽器かんがっきではフルートオーボエといった現代げんだいのオーケストラでもちいられる楽器がっき直接ちょくせつ祖先そせん定着ていちゃくはじめていたことから、「バロックてき」なものから古典こてん主義しゅぎてきなもの、あるいは古典こてん音楽おんがくへの遷移せんいはじまりであったとみなすこともできる。

後期こうきバロック

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イタリアの後期こうきバロックにおいて今日きょうもっと有名ゆうめいなのはアントニオ・ヴィヴァルディ1678ねん - 1741ねん)だろう。かれ作曲さっきょく活動かつどうはオペラやオラトリオをふくおおくのジャンルにわたっていたが、とく協奏曲きょうそうきょくかれ独自どくじせいあらわれている。ヴィヴァルディの協奏曲きょうそうきょくでは、トゥッティ(ぜんそう、tutti)部分ぶぶんとソロ部分ぶぶん対比たいひ合奏がっそう協奏曲きょうそうきょくよりも明確めいかくとなり、独奏どくそう楽器がっき技術ぎじゅつ誇示こじするような傾向けいこうがよりつよまっている。ヴィヴァルディによってきゅう-なる-きゅうの3楽章がくしょう形式けいしき協奏曲きょうそうきょく形式けいしき確立かくりつされ、この形式けいしき以降いこう古典こてんロマンにまでがれていくことになる。

この時期じきのイタリアの作曲さっきょくたち、たとえばドメニコ・スカルラッティ1685ねん - 1757ねん)、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ1698ねん - 1775ねん)、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ1710ねん - 1736ねん)、ドメニコ・アルベルティ1710ねんごろ - 1740ねん)などは、年代ねんだいてきには「後期こうきバロック」に位置いちしながら、作曲さっきょく技法ぎほうにおいてはすで古典こてん音楽おんがく特色とくしょくおおゆうしており、この時期じきのイタリア半島はんとう音楽おんがくはすでに古典こてん移行いこうしつつあったといえる。

フランスではジャン=フィリップ・ラモー1683ねん - 1764ねん)がフランスふうのオペラの伝統でんとう継承けいしょうし、いくつかのオペラ=バレ opéra-ballet や音楽おんがく悲劇ひげき tragédie en musique をのこした。ラモーはクラヴサン音楽おんがく分野ぶんやでも重要じゅうよう足跡あしあとのこしている。オペラにおけるレシの様式ようしきはほぼ完全かんぜんにリュリ以来いらい形式けいしきそくしており、クラヴサン音楽おんがくにおいても形式けいしきじょうはフランスふう音楽おんがく伝統でんとううえっているが、オペラにおける序曲じょきょくとう器楽きがくやクラヴサン音楽おんがくにはギャラント様式ようしき古典こてん先駆せんくられるような特色とくしょく数多かずおおあらわれる。理論りろんとしても有名ゆうめいで、機能きのう和声わせいについての最初さいしょ体系たいけいてき理論りろんしょのこしたことられる。

ドイツでは、中期ちゅうきバロックつくられたドイツふう音楽おんがくくわえて、イタリアやフランスのあたらしい音楽おんがく潮流ちょうりゅうがどんよくれられ、「趣味しゅみ融合ゆうごう」が本格ほんかくてきおこなわれていくことになる。そのような潮流ちょうりゅう代表だいひょうしているのがゲオルク・フィリップ・テレマン1681ねん - 1767ねん)である。かれはこの時期じきのドイツにおいてもっと評価ひょうかたかかった作曲さっきょくであり、多作たさくことでもられる。テレマンは、イタリア、フランスの最新さいしん様式ようしきれ、音楽おんがく監督かんとくつとめたハンブルクで上演じょうえんされるオペラを作曲さっきょくしたほか、器楽きがく分野ぶんやではトリオソナタ、協奏曲きょうそうきょく、フランスふう管弦楽かんげんがく組曲くみきょくなど幅広はばひろ種類しゅるい音楽おんがく作曲さっきょくし、教会きょうかいカンタータやオラトリオも多数たすうのこしている。ヨハン・アドルフ・ハッセ1699ねん1783ねん)は、18世紀せいき中頃なかごろにおいてもっと人気にんきがあり成功せいこうしたオペラ作家さっか一人ひとりで、ヨーロッパ各地かくちで120きょく以上いじょうのオペラを作曲さっきょくし、詩人しじんピエトロ・メタスタージオ1698ねん1782ねん)とともオペラ・セリア確立かくりつ寄与きよした[2][3]。ドイツじんのオペラ作曲さっきょくとしては、フリードリヒ大王だいおう宮廷きゅうてい楽長がくちょうつとめていたカール・ハインリヒ・グラウン(1704ねん - 1759ねん)も重要じゅうよう存在そんざいである[4]。バロックつうじてヨーロッパで人気にんきったリュートは、この時期じき他国たこくでは急速きゅうそく需要じゅようおとろえたが、ドイツではシルヴィウス・レオポルト・ヴァイス1687ねん - 1750ねん)が、楽器がっき開発かいはつ作曲さっきょく技法ぎほう両面りょうめんでバロックリュートを完成かんせいさせ、有終ゆうしゅうかざった。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ1685ねん - 1750ねん)は、当時とうじ傑出けっしゅつしたオルガニストとしてられ、オルガンやチェンバロのための作品さくひんほか多数たすう教会きょうかいカンタータ、室内楽しつないがくとうのこしたもののオペラはまった作曲さっきょくしなかった。かれもまたテレマンと同様どうよう当時とうじのヨーロッパで流行りゅうこうしていた様式ようしきのっとった音楽おんがくつくったが、その対位法たいいほうへの傾倒けいとうどう時代じだいじんからははん時代じだいてきなものとして評価ひょうかされていた。19世紀せいきにおけるバッハのさい評価ひょうか以来いらい、バッハはバロック時代じだい代表だいひょうする音楽家おんがくかかんがえられてきたが[5]、それまでのバロック音楽おんがくをバッハ中心ちゅうしん視点してんとらえることはかならずしも適切てきせつとはいえない[6]

イギリスでは植民しょくみん経営けいえいによって経済けいざいてきうるおうとおおくの富裕ふゆう市民しみんがあらわれ、18世紀せいきには市民しみんあいだでオペラの人気にんき非常ひじょうたかまった。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル1685ねん - 1759ねん)はイギリスで活躍かつやくしたドイツまれの作曲さっきょくである。ヘンデルが活躍かつやくしたのはおもにオペラやオラトリオの分野ぶんやであり、これらはつねに当時とうじ流行りゅうこうのスタイルでかれていた。オペラ作品さくひんがいしてイタリアオペラの書法しょほうのっとってはいたが、序曲じょきょく舞曲ぶきょくかんしてはフランスふう音楽おんがく影響えいきょうられる。うつくしく、わかりやすいメロディーでロンドン市民しみんおおいにしたしまれたが、パーセルにられたようなイギリス独特どくとく要素ようそはほとんどられなかった。

また、これらの諸国しょこく以外いがいにも、チェコボフスラフ・チェルノホルスキー1684ねん - 1742ねん)やオランダウィレム・デ・フェッシュ1687ねん - 1761ねん)、スウェーデンユーハン・ヘルミク・ルーマン1694ねん - 1758ねん)のように、ヨーロッパ周辺しゅうへん諸国しょこくにも個性こせいてき活動かつどうひろげた後期こうきバロックの音楽家おんがくかたちがいる。

忘却ぼうきゃく再生さいせい

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バロック音楽おんがくから古典こてん音楽おんがくへの推移すいいを、対位法たいいほうてきなものからホモフォニックなものへの転換てんかんるならば、バロック音楽おんがくそれ自体じたい同様どうよう推移すいいをたどっており、バロック音楽おんがくといわゆる古典こてん音楽おんがく境界きょうかい明確めいかく線引せんひきすることむずかしい。連続れんぞくてき趣味しゅみ変化へんかともない、過去かこ遺物いぶつとしてみなされるようになったバロック時代じだい音楽おんがくは18世紀せいき後半こうはん時点じてんではすでにほぼ完全かんぜん忘却ぼうきゃくされたとられている。

しかし、やがてロマンはいると、メンデルスゾーンによるバッハのマタイ受難じゅなんきょくの「さい発見はっけん」に象徴しょうちょうされるように、ふたたびバロック時代じだい音楽おんがくへと関心かんしんけられるようになり、作品さくひんにバロックふう味付あじつけをほどこ作曲さっきょくあらわれた(たとえばブラームスフランクなど)。

19世紀せいきまつから20世紀せいき音楽家おんがくかたちも、バロック音楽おんがく興味きょうみいだき、その形式けいしき一部いちぶ模倣もほうするような作曲さっきょくおこなった(たとえばグリーグの「ホルベアの時代じだいから」、ドビュッシーの「ラモーさん Hommage à Rameau」、ラヴェルの「クープランのはか Le tombeau de Couperin」、レーガー一連いちれん作品さくひんマーラー交響こうきょうきょくだい7ばんなど)。

20世紀せいき前半ぜんはんとおしてバロック音楽おんがくへの関心かんしん持続じぞくされた。しん古典こてん主義しゅぎ音楽おんがく時期じきにはストラヴィンスキープーランクらがバロックをした楽曲がっきょく発表はっぴょうした。やがて、バロック時代じだいには現代げんだいとはことなる楽器がっき使用しようされていたことが、とく鍵盤けんばん楽器がっきかんして注目ちゅうもくき、チェンバロ復興ふっこうおこなわれたが、当初とうしょは、チェンバロへの様々さまざま誤解ごかいがあるうえに、ピアノ製造せいぞう技術ぎじゅつ流用りゅうようしてつくられたことなどからこれらは今日きょうでは(逆説ぎゃくせつてきにも)モダン・チェンバロなどとばれている(チェンバロの歴史れきし参照さんしょう)。

1970年代ねんだいから、バロック(以前いぜん)の音楽おんがく演奏えんそうさいしては、博物館はくぶつかん個人こじん収集しゅうしゅうのこされているどう時代じだい楽器がっき(オリジナル楽器がっき)や、それらの楽器がっき忠実ちゅうじつなレプリカ(ヒストリカル楽器がっき)を使用しようし、どう時代じだい文献ぶんけんなどによって奏法そうほう研究けんきゅうおこなうことで徹底的てっていてきにバロック音楽おんがく再現さいげんしようとするうごきが活発かっぱつになった。このような潮流ちょうりゅう古楽こがく運動うんどうとよび、このような観点かんてんもちいられるオリジナル楽器がっきやヒストリカル楽器がっき古楽こがくぶ。管弦楽かんげんがくきょくかんしても、だい編成へんせいオーケストラではなく小規模しょうきぼアンサンブルもちいることがおおい。

一方いっぽうグレン・グールドのピアノによるJ.S.バッハ録音ろくおん代表だいひょうされるように、きん現代げんだい楽器がっきでバロックが演奏えんそうされる機会きかいおおい。

シンセサイザーなどの電子でんし楽器がっき使つかったりポピュラー音楽おんがく転用てんようされるれいもある。パッヘルベルの「カノン」におけるコード進行しんこう(D-A-Bm-F#m-G-D-G(Em/G)-A、いわゆる大逆だいぎゃく循環じゅんかん)はぞくに「カノン進行しんこう」、「カノンコード」ともばれ、もっとられた進行しんこうひとつである。アフロディテス・チャイルドの「あめなみだ (Rain and Tears)」を皮切かわきりに、ポピュラー音楽おんがくとくJ-POPでの引用いんようれい枚挙まいきょひまがない(山下やました達郎たつおクリスマス・イヴ」やZARDけないで」など多数たすう)。

また、ディープ・パープルレインボーギタリストとしてられるリッチー・ブラックモアはクラシック音楽おんがく素養そようがあり、ブルース一辺倒いっぺんとうだったロックにクラシック要素ようそ積極せっきょくてきんだ。代表だいひょうきょくハイウェイ・スター」「むらさきほのお」ではJ・S・バッハの楽曲がっきょく引用いんようしている。かれ触発しょくはつされたランディ・ローズイングヴェイ・マルムスティーンらもクラシックの教育きょういくけており、やはりバッハからの影響えいきょうけている。これらバロック音楽おんがくとロックの融合ゆうごうは、ヘヴィメタル様式ようしき美的びてき特徴とくちょう決定けっていづける多大ただい影響えいきょうのこした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 岡田おかだ暁生あきお西洋せいよう音楽おんがく : 「クラシック」の黄昏たそがれ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2005ねんISBN 978-4121018168 
  2. ^ オックスフォード オペラだい事典じてん. Warrack, John Hamilton, 1928-, West, Ewan., 大崎おおさき, しげるせい, 1948-, 西原にしはら, みのり, 1952-. 平凡社へいぼんしゃ. (1996). p. 478. ISBN 4-582-12521-2. https://www.worldcat.org/oclc/674991537 
  3. ^ Grout, Donald Jay,. しん 西洋せいよう音楽おんがくなか. グラウト/パリスカ 戶口とぐちみゆきさく, 1927-, うえ英輔えいすけ, 1955-. 音楽之友社おんがくのともしゃ. p. 245, 246. ISBN 4-276-11212-5. https://www.worldcat.org/oclc/41371082 
  4. ^ オックスフォード オペラだい事典じてん. Warrack, John Hamilton, 1928-, West, Ewan., 大崎おおさき, しげるせい, 1948-, 西原にしはら, みのり, 1952-. 平凡社へいぼんしゃ. (1996). p. 203. ISBN 4-582-12521-2. https://www.worldcat.org/oclc/674991537 
  5. ^ バッハ (Johann Sebastian Bach) 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ
  6. ^ Silbiger, Alexander, ed (2004-08-02). Keyboard Music Before 1700 (2nd ed.). Routledge.. doi:10.4324/9780203642122. https://doi.org/10.4324/9780203642122. 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • H.M.ブラウンちょ/藤江ふじえこう村井むらい範子のりこやく 「ルネサンスの音楽おんがく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい (1994) ISBN 4-486-01324-7
  • C. V. パリスカちょ/藤江ふじえこう村井むらい範子のりこやく 「バロックの音楽おんがく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい (1975) ISBN 4-486-00102-8
  • カーティス・プライス へん/美山みやま良夫よしお 監訳かんやく 「オペラの誕生たんじょう教会きょうかい音楽おんがく初期しょきバロック」 音楽之友社おんがくのともしゃ (1996) ISBN 4276112338
  • 皆川みなかわ達夫たつお 『バロック音楽おんがく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ ISBN 4061597523
  • Palisca, C.V., Baroque, Grove Music Online, ed. L. Macy (Accessed 2006.10.04). (2011ねん現在げんざいOxford Music Online参照さんしょう可能かのう会員かいいんせい作曲さっきょく形式けいしきとう項目こうもく参照さんしょうした。

関連かんれん項目こうもく

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