フォークソング

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フォークソング
様式ようしきてき起源きげん 民俗みんぞく音楽おんがく
民族みんぞく音楽おんがく
文化ぶんかてき起源きげん くにによりことなる
世界せかい各国かっこく
使用しよう楽器がっき アコースティック・ギター
ウッドベース
バンジョー
フィドル
ベース
ドラム
ピアノ
民俗みんぞく楽器がっきなど
融合ゆうごうジャンル
フォークロック
フォーク・メタル
ネオフォーク
サイケデリック・フォーク
アメリカーナ
関連かんれん項目こうもく
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フォークソングえい: Folk Song , Contemporary Folk music)は、民謡みんよう民族みんぞく音楽おんがくざした音楽おんがくや、さらにそれから派生はせいしたポピュラー音楽おんがく用語ようごで、音楽おんがくジャンルひとつ。

元来がんらいは、民衆みんしゅう共同きょうどうつくうた伝承でんしょうされてきた、作者さくしゃ不明ふめいうた[1]民衆みんしゅう価値かちかん生活せいかつ実感じっかんからまれてきたうた、つまり民謡みんよう民俗みんぞく音楽おんがく[出典しゅってん 1][出典しゅってん 2]だが、その民謡みんようから派生はせいしたポピュラー音楽おんがくをもふくめる[3]

後者こうしゃのポピュラー音楽おんがくのフォークソングのほうは、伝承でんしょう民謡みんよう形式けいしき感覚かんかくりてつくられたうたのことで、伝承でんしょう民謡みんよう作者さくしゃ不明ふめいなのにたいし、後者こうしゃ職業しょくぎょうてき作者さくしゃ作詞さくし作曲さっきょく職業しょくぎょうてき歌手かしゅうたって商品しょうひんおこなわれていることがおおいところがことなっており、実質じっしつてきには民俗みんぞく音楽おんがくではなくてポピュラー音楽おんがく分類ぶんるいされる[1]後者こうしゃ内容ないようは(伝承でんしょう民謡みんよう同様どうように)民衆みんしゅう素朴そぼく情感じょうかんうたうた多数たすうあるが、現代げんだい社会しゃかい問題もんだい反戦はんせん思想しそうなどをうたうものがむしろおお[1]、つまり反戦はんせんなどのプロテストソング範疇はんちゅうふくまれる[2]本来ほんらいのフォークソングの演奏えんそうは、アコースティックギターバンジョーなどを使用しようしたがた主体しゅたいとし[2]電気でんき楽器がっき使つかわないのが伝統でんとうてき音楽おんがく表現ひょうげんであった[2](そこがフォークロックロックとはことなっている)。
もっと一般いっぱんてき名称めいしょうは「フォークミュージック」であるが、英語えいごけんでは「民謡みんよう」の意味いみのFolk Musicと区別くべつするために「コンテンポラリー・フォークミュージック」または「フォーク・リバイバル(ミュージック)」などとばれた[出典しゅってん 3]

歴史れきし[編集へんしゅう]

「フォーク・ミュージック」は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく以下いか、アメリカ)で19世紀せいき研究けんきゅうしゃ愛好あいこうによって蒐集しゅうしゅうされた[6]レコード会社かいしゃはアメリカでは19世紀せいきすえにはすでに存在そんざいしていたが[出典しゅってん 4]アメリカ南部なんぶ民族みんぞく音楽おんがく開拓かいたくするところまではいかなかった[7]南部なんぶ音楽おんがく宝庫ほうこであることにづくのはずっとのちになってからだった[7]商品しょうひんとしてのレコードつくられたのは1890ねんだが、1ほんのシリンダーに1かいみしか出来できず、注文ちゅうもんすうおうじてみをなんもやってくれる歌手かしゅさがすのも大変たいへんだった[7]。シリンダーから円盤えんばんレコードになるのは、20世紀せいきはいってからで、1920年代ねんだい円盤えんばんレコードと蓄音機ちくおんきがレコード会社かいしゃ商品しょうひんとして、市場いちば流通りゅうつうはじめた[出典しゅってん 5]

1929ねん世界せかいだい恐慌きょうこうのち誕生たんじょうしたフランクリン・ルーズベルト政権せいけんは、きょう克服こくふくのためにニューディール政策せいさく施行しこうしたが、それは政治せいじ経済けいざい分野ぶんやだけでなく、文化ぶんかてきにもおおきな影響えいきょうおよぼした[6]。「フェデラル・ワン」とばれる芸術げいじゅつ支援しえん政策せいさくにはおおくの作家さっか音楽家おんがくか地方ちほうコミュニティ派遣はけんされ、地元じもとブルースワークソングエスニック文化ぶんか採集さいしゅうめいじられた[6]。すでにアメリカ議会ぎかい図書館としょかんにはアメリカのフォークソングを管理かんり/保存ほぞんする「アーカイブ・オブ・アメリカン・フォークソング」が民間みんかん基金ききんによって1928ねん設置せっちされていたが、ジョン・ローマックス(のち息子むすこアラン・ローマックスくわわる)がディレクター就任しゅうにんする1931ねん以降いこう蒐集しゅうしゅう活動かつどうはさらに活発かっぱつになった[出典しゅってん 6]。こうして「フォークソング」は1930年代ねんだいはいると公式こうしきにアメリカで「国民こくみん文化ぶんか」として承認しょうにんされ「アメリカの音楽おんがく」として、文字通もじどお国家こっかのお墨付すみつきを[6]だいいち世界せかい大戦たいせん疲弊ひへいしたヨーロッパ尻目しりめにそれまで「ヨーロッパの辺境へんきょうてき位置付いちづけにあまんじていたアメリカは、世界せかい大戦たいせん以降いこう突如とつじょとして国際こくさい政治せいじ中心ちゅうしんおど[6]政治せいじてき地位ちい上昇じょうしょうした国家こっかかなら文化ぶんかてきアイデンティティ必要ひつようとするため、アメリカはヨーロッパとはことなる独自どくじ文化ぶんか模索もさくした[6]。このながれのなかアメリカ文学ぶんがくさい評価ひょうかすすみ、音楽おんがくでは「フォークソング/ルーツ・ミュージック英語えいごばん」もさい評価ひょうかされ「国民こくみん文化ぶんか」として正統せいとうされた[6]。ローマックス親子おやこは、アメリカ議会ぎかい図書館としょかん委嘱いしょくけ、録音ろくおん器材きざいかつぎ、全米ぜんべい各地かくちのフォークソングの収集しゅうしゅうをした[7]。そこで発見はっけんしたのが「現代げんだいフォークソングの」といわれるウディ・ガスリー[7]、ガスリーはきょう放浪ほうろうする「ホーボー」とばれるひとたちととも全米ぜんべいをまわり、土着どちゃくのメロディにあたらしい歌詞かしをつけて、貧困ひんこん政治せいじ旅情りょじょう自然しぜんうたった[出典しゅってん 7]。ホーボーは貨物かもつ列車れっしゃ無賃むちんでもぐりこんで、土地とちから土地とち放浪ほうろうし、収穫しゅうかく手伝てつだいなどのぶし労働ろうどうをしてそのらしをするひとたちだった[7]。ガスリーはかれらのことをうたったホーボーソング(わた労働ろうどうしゃうた)をたくさんつくった[7]。1000きょく以上いじょうのこしたガスリーはおおくのミュージションに敬愛けいあいされ、ピート・シーガーボブ・ディランブルース・スプリングスティーンシャロン・ジョーンズらが、ガスリーのうたうた[出典しゅってん 8]ウィーヴァーズやピート・シーガーらもこのころから活動かつどう開始かいしした。ピート・シーガーはハーバード大学だいがく中退ちゅうたいした中産ちゅうさん階級かいきゅう出身しゅっしんエリートだったが、1960年代ねんだい以降いこうにジャーナリスティックなメッセージせい非常ひじょうつよした[7]

だい世界せかい大戦たいせんのちソ連それんとの冷戦れいせんはじまるとアメリカ国内こくない共産きょうさん主義しゅぎしゃたいする赤狩あかがれ、ジョセフ・マッカーシー上院じょういん上院じょういん議員ぎいんは「フォーク」という用語ようご共産きょうさん主義しゅぎむすびつけて攻撃こうげきした[出典しゅってん 9]マスメディア一斉いっせいに「フォーク」という用語ようご使用しようひかえ、「カントリー」という言葉ことば流通りゅうつうするようになった。カントリー・ミュージックというジャンルめい1940年代ねんだいはいってもちいられたものだったが[6]、これをきっかけとして「カントリー・ミュージック」というジャンルめい定着ていちゃくした[6]本来ほんらいおなじカテゴリーの音楽おんがく目指めざしていたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」はこれを政治せいじてき離反りはんした[6]。「フォーク・ミュージック」は赤狩あかが以降いこう共産党きょうさんとう民衆みんしゅう音楽おんがくとして評価ひょうかし、一方いっぽうで「カントリー・ミュージック」は保守ほしゅてき価値かちかん内包ないほうする白人はくじんの「農村のうそん/田舎いなか」の音楽おんがくとして機能きのうはじめた[6]。カントリー・ミュージックは「素朴そぼく」「郷愁きょうしゅう」「楽天らくてんせい」をただよわせたが、だい世界せかい大戦たいせんのフォーク・ミュージックには「反抗はんこう」「左翼さよく」「悲観ひかんせい」といったニュアンスを際立きわだたせた[7]殺人さつじんおかして服役ふくえきした黒人こくじんシンガー・レッドベリーは、ブルースうたったが、仕事しごと刑務所けいむしょ差別さべつについてうたい、フォーク・シンガーとしてアメリカ共産党きょうさんとうから英雄えいゆうされた[7]。カントリーは人々ひとびとがかかえる不安ふあん慰安いあんし、フォークは抵抗ていこうへとてていく[7]。1950年代ねんだい以降いこうのフォークをげたのは、おも都会とかいのインテリ白人はくじん大学生だいがくせいだった[7]当時とうじ音楽おんがくシーンは、黒人こくじんはブルース、白人はくじんはカントリー、そして中産ちゅうさん階級かいきゅうのインテリそうが60年代ねんだいのモダン・フォークをささえた[4]

1950年代ねんだいのフォーク・ミュージック・リバイバル[編集へんしゅう]

ウディ・ガスリー

1930年代ねんだいから活動かつどうつづけたウディ・ガスリーとピート・シーガーの存在そんざい1950年代ねんだいから1960年代ねんだいの「フォーク・ミュージック・リバイバル」(以下いか「フォークソング・リバイバル)」というおおきなながれをすきっかけになった[出典しゅってん 10]。これらは民衆みんしゅううたであるフォークをもう一度いちど自分じぶんたちのもどそうとする運動うんどうであると同時どうじに、これらのルーツであるブルースブルーグラスオールドタイミー英語えいごばんなどをさい発見はっけんするうごきであった[出典しゅってん 11]かれらは伝承でんしょうさい構成こうせいしてうたうことがおおかったが[8]、そこには主義しゅぎ主張しゅちょうまれていた[8]。ウディ・ガスリーは伝統でんとうてきうたうたい、かれ自身じしん作曲さっきょくをする。ウディの音楽おんがくはアメリカ議会ぎかい図書館としょかんにも保管ほかんされている[10]。ウディのギター・ケースには「この楽器がっきファシストころす(This Machine kills fascists)」とかれていた[出典しゅってん 12]。「フォークソング・リバイバル」勃興ぼっこう演奏えんそう形態けいたいとしては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器がっき編成へんせいおおかった。しかし、次第しだいにバンジョーは使つかわれなくなり、アコースティックギターが中心ちゅうしんてき楽器がっきとなっていった。

「フォークソング・リバイバル」は、一般いっぱんてきキングストン・トリオ英語えいごばんの「トム・ドゥーリー Tom Dooley[11]だいヒットした1958ねんからボブ・ディランエレキ・ギターえた1965ねんまでを[12]、この音楽おんがくてきうごきは1950ねん末期まっきから[8]、1960年代ねんだい頂点ちょうてんたっした[8]

ザ・キングストン・トリオ(1958ねん

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioアメリカ西海岸にしかいがん出身しゅっしんで、過度かど政治せいじてきなメッセージやプロテストソングはけ、いわゆる「お行儀ぎょうぎい」大学生だいがくせいてきうたうたっていた。Cracked Potというの、大学だいがくないのクラブでうたっていたところをフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werber見出みいだされ、かれがマネージャーとなり、キャピトルレコード契約けいやくむすぶにいたった。最初さいしょのヒットきょくは『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリー追悼ついとうコンサートでもうたわれ、レコードが300まんまい以上いじょうれるヒットとなり、グラミーしょうのBest Country & Western Recordingしょう受賞じゅしょうした。1958ねんから1961ねんにかけてのキングストン・トリオのおおきな商業しょうぎょうてき成功せいこうによりキャピトルレコードに2,500まんドル(2021ねん貨幣かへい価値かち換算かんさんしてやく2おく2000まんドル)以上いじょう巨額きょがく収益しゅうえきがもたらされたことで、キャピトルレコードはキングストン・トリオにたアーティストグループ、たとえばブラザース・フォア en:the Brothers Fourピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・ライムライターズ en:The Limeliters、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲がっきょくのリリースにもちかられてゆくことになった。

1960年代ねんだいのフォーク・リバイバルの絶頂ぜっちょう転機てんき[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんのアメリカは世界せかいをリードする大国たいこくとして君臨くんりん[3]、「自由じゆうゆたかな理想りそうくに・アメリカ」のイメージは定着ていちゃく[3]世界せかい人々ひとびとはアメリカにあこがれのけた[3]。しかしアメリカのゆめは『アメリカン・グラフィティ』の舞台ぶたいになった1962ねんわったとわれる[3]ベトナム戦争せんそう泥沼どろぬまあしられつつあったアメリカでは、1963ねん8がつ人種じんしゅ差別さべつ撤退てったいうったえるワシントンだい行進こうしんおこなわれ、同年どうねん11がつにはケネディ大統領だいとうりょう暗殺あんさつ事件じけんき、それまで繁栄はんえいかげかくれていた矛盾むじゅん社会しゃかい問題もんだいしつつあった[3]。このような人種じんしゅ差別さべつ反対はんたい運動うんどう東西とうざい対立たいりつなどのあらたな戦争せんそうたいする不安ふあんから、わか世代せだいコミュニケーションやメッセージの手段しゅだんとしてフォークソングに注目ちゅうもくし、「フォークソング・リバイバル」はかならずしもむかしなつかしむムーブメントではなくなり[3]わかいフォークシンガーたちが自分じぶんたちのおもいをたくしたあたらしいうた発表はっぴょうしはじめた[出典しゅってん 13]。1960年代ねんだい前半ぜんはんにはフォーク・シーンはオリジナルきょく中心ちゅうしんになっていった。当時とうじ徴兵ちょうへいせいのあったアメリカでは、実際じっさい戦場せんじょうかねばならないかもれない現実げんじつさらされていたアメリカの若者わかものたちには切実せつじつ状況じょうきょうがあった[3]。こうして激動げきどうするアメリカの政治せいじ運動うんどうむすびつき、フォークはますます政治せいじ社会しゃかい批判ひはんするツールになっていく[7]

1958ねんまつのキングストン・トリオ「トム・ドゥーリ―」のだいヒットでがついた「フォークソング・リバイバル」は全米ぜんべい各地かくちに、フォークソングを中心ちゅうしんとした野外やがいフェスティバルんだ[15]。1959ねん7がつ11~12にちロードアイランドしゅうニューポートのフリーボディ・パークで、だいいちかいニューポート・フォーク・フェスティバル英語えいごばん開催かいさいされた[15]出演しゅつえんはピート・シーガーやキングストン・トリオ、ボブ・ギブソン英語えいごばん&ジョーン・バエズなど、フォーク・ブームの幕開まくあけをげるような内容ないようだった[15]

アメリカでの転機てんき

だがこのフォーク・リバイバルの絶頂ぜっちょうに、あるしゅ転機てんきおとずれた。1965ねんのニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ボブ・ディランエレキ・ギターかかえ、バック・バンドをしたがえて登場とうじょうし、だいブーイングをびた[出典しゅってん 14]Electric Dylan controversy)。このエポックメイキングな事件じけんさかいに「フォークソング・リバイバル」ブームは急速きゅうそく衰退すいたいした[15]。これはかつてフォークとロックみずあぶらのような関係かんけいであったことを象徴しょうちょうする事件じけんといえる[14]はん近代きんだい主義しゅぎはん商業しょうぎょう主義しゅぎかかげる「フォーク・ミュージック」で重要じゅうようされるのはうたのメッセージであり、言葉ことば伝達でんたつ容易よういにする親密しんみつさである[12]。フォークに傾倒けいとうする人々ひとびとにとってはエレキ・ギターはテクノロジー象徴しょうちょうであり、だい音量おんりょう歌詞かしがききとりにくく、ビートルズ代表だいひょうされる商業しょうぎょう主義しゅぎのシンボルとしてみとめるわけにはいかなかった[12]。ボブ・ディランの演奏えんそうちゅうにバックステージでは、ピート・シーガ―がいかりにふるえながらおのまわしてシールドケーブルろうとしたなどの逸話いつわのこ[12]結果けっかてきにロックはここでフォークがっていたはん体制たいせいてきはん商業しょうぎょう主義しゅぎてきイデオロギーぎ、それを商業しょうぎょう主義しゅぎわくない実践じっせんしようとするジャンルとして発展はってんしていく[12]。ボブ・ディランの事件じけん以降いこう1967ねんまでのあいだ音楽おんがく用語ようごとして「ロック」が定着ていちゃく[12]、「ロックンロール」という用語ようご区別くべつされて使つかわれるようになった[12]

フォーク・シーンで活躍かつやくしていたボブ・ディラン、ニール・ヤングジョニ・ミッチェルバーズなどのミュージシャンは、1964ねんのビートルズのアメリカ上陸じょうりく影響えいきょうけ、エレクトリックギターエレクトリックベースドラムスというロックの楽器がっき編成へんせいただし、アコースティックギターを併用へいようする場合ばあいおおい)で演奏えんそうするようになった[14]。これをフォークロックぶ。アメリカではフォークロックの開祖かいそはバーズとろんじられることがおおいという[7]。『読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん1965ねん9がつ25にちづけに「最近さいきんアメリカじんこのみとしては、小・中学生しょうちゅうがくせいはゴーゴー、ヒッチ・ハイク英語えいごばん、ワッシなどのダンス伴奏ばんそうとしてのエレキ・ギター中心ちゅうしんとするロックン・ロール・ミュージック、そして高校生こうこうせい大学生だいがくせいはフォーク・ミュージック、じゅうだいミュージカルなかのヒット・メロディーというように大別たいべつされる」とかれている[16]

イギリスやカナダのフォーク・リバイバル

また英国えいこくでもリチャード・トンプソンひきいるフェアポート・コンヴェンションやディック・ゴーハン、ユワン・マッコール、ペンタングル、スティールアイ・スパンなど、フォークソングを演奏えんそうするミュージシャンが活躍かつやくした。1960年代ねんだいなかば、アイルランドのホースリップス、イギリスのフェアポート・コンヴェンションスティーライ・スパンが 、ロックの伝統でんとうてき楽器がっき要素ようそエレキギターベースドラム使用しようした。 1960年代ねんだい後半こうはんには、民俗みんぞく復興ふっこうにより、ドノヴァンなどのシンガーソングライター世代せだい台頭たいとうしてきた。イギリスでのフォーク音楽おんがく復興ふっこう運動うんどうはブリティッシュ・フォーク・リバイバルとばれている。

またニール・ヤング、バフィ・セント・メリー、ゴードン・ライトフット 、 レナード・コーエンジョニ・ミッチェルらのカナダ出身しゅっしんのアーティストも登場とうじょうした。

1960年代ねんだい日本にっぽんへの上陸じょうりく

フォークソングのなかでも「モダン・フォーク」は、1960年代ねんだい「フォーク・ミュージック・リバイバル」のおりだい流行りゅうこうしたうつくしいアメリカハーモニー・コーラスをともなったグループによるフォークを[17]。1960年代ねんだいはいると、フォークは商業しょうぎょうてき色合いろあいをにまとい[出典しゅってん 15]、「海外かいがいのヒットソング」として日本にっぽん上陸じょうりくしてきた[出典しゅってん 16]。キングストン・トリオ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ英語えいごばんブラザーズ・フォアピーター・ポール&マリー(PPM)らで[19]、これが日本にっぽんでカレッジ・フォークブームの火付ひつやくとなっていく[出典しゅってん 17]。キングストン・トリオは1961ねん1がつはつ来日らいにち[20]。1962ねん4がつにはブラザーズ・フォアが[20]、1963ねん10がつにはピート・シーガーがはつ来日らいにちしている[20]以降いこうハイウェイメン英語えいごばん、ピーター・ポール&マリー[21]、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ、ブラザーズ・フォア、CSN&Yフィル・オクス英語えいごばんなどおおくのアーティストが登場とうじょうした。

ジャンルへの影響えいきょう

1960年代ねんだいなかばから発展はってんしたフォークロックも、この現象げんしょうなか進化しんかしていった。最初さいしょのフォークリバイバルは大衆たいしゅう音楽おんがくおおきな影響えいきょうあたえた。また20世紀せいき後半こうはんの「セカンドフォークリバイバル」は、コンサート、レコーディング、放送ほうそうつうじてアーティストにあたらしいジャンルのポピュラーミュージックをもたらした。

1970年代ねんだいのグループはこのロックてきアプローチを採用さいようした。イギリスのルネッサンスのようなグループは、プログレッシブ・ロックのグループながら、フォーク・ソングてききょく発表はっぴょうしている。

1970年代ねんだい以降いこう[編集へんしゅう]

1970年代ねんだい以降いこう、アメリカのフォークミュージックはスティーヴ・グッドマン、ジョン・プライン、エミルー・ハリス、ハリー・チェイピンなどのあたらしいシンガーソングライターによってささえられた。イギリスのルネッサンスはプログレとフォークを融合ゆうごうしたロックを演奏えんそうした。1980年代ねんだい初頭しょとうザ・ポーグスと1990年代ねんだいのアイルランドのザ・コアーズにより、 アルバムチャートに伝統でんとうてききょくれられた。1980年代ねんだい、ワシントンスクエアでフォークミュージック演奏えんそうおこなわれた。スザンヌ・ベガはフォークとプロテスト・フォーク指向しこう音楽おんがく披露ひろう[22]。また黒人こくじん歌手かしゅのトレイシー・チャップマンもフォークのヒットをリリースした。エミルー・ハリスやスティーブ・アール、ウィルコ、サン・ヴォルトらのアーティストは、オルタナ・カントリーとフォークの精神せいしんれた。1990年代ねんだい後半こうはん、フォーク・ミュージックはイライザ・カーシー、ケイト・ラズビー、ビル・ジョーンズ(女性じょせい)などのアーティストをつうじて、音楽おんがく評論ひょうろん音楽おんがくファンから注目ちゅうもくされた。カナダにおいて1990年代ねんだいから2000年代ねんだいにかけてもっとれたフォークグループは、ニューファンドランド出身しゅっしんのケルトじんでロックテイストなグレートビッグシーで、カナダで4まいのアルバムをプラチナヒットさせている。コアーズは1990ねんから2000年代ねんだい前半ぜんはんまで活動かつどうし、ケルト音楽おんがくとポップスを演奏えんそうし、2つのジャンルをブレンドしたきょく発表はっぴょうした。2000ねん以降いこうは、ブランディ・カーライルらが活躍かつやくした。

なお、ネオフォーク (Neofolk) というジャンルめいは、欧米おうべいのスワンズやコイルらのバンドの音楽おんがくしている。2007ねん結成けっせいされたマムフォード・アンド・サンズなどのフォーク・ロックおよびインディー・フォーク・バンドは、2010ねんにブレイクし、シェナンドーランは2011ねんに1960年代ねんだい現代げんだいアメリカのフォークミュージックを現代げんだいのリスナーにとどけるために結成けっせいされたバンドである[23]

フィルク音楽おんがくもスタイルと文化ぶんかめんでフォーク音楽おんがくなすことができる。SFのコミュニティはサイエンスフィクションのファンダムであるが、これはめずらしく完全かんぜん現代げんだいてきなもので[24]1980年代ねんだいはじまったネオフォークはヨーロッパの伝統でんとうてき民俗みんぞく音楽おんがく歴史れきし哲学てつがくてき歌詞かし伝統でんとうてきうた融合ゆうごうした。おもにヨーロッパであるが、地域ちいきにも影響えいきょうあたえた。民俗みんぞく音楽おんがくはドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国しょこくスラブ諸国しょこくでがメジャーで、デヴィッド・スミス(アカ・ダム・ザ・バード)やダンハイム、アルコナなどのバンドがあり、こうしたほとんどのバンドは、音楽おんがくジャンルとフォークジャンルをむすけている[25]。1980年代ねんだいにフォークパンクは、フォークミュージックとパンクロックを融合ゆうごうし、ロンドンを拠点きょてんとするアイルランドのバンドであるザ・ポーグスによって開拓かいたくされた。民俗みんぞく音楽おんがくやプロテスト音楽おんがくはトピックにかんする話題わだい対象たいしょうとした。そののサブジャンルにはサイケデリック・フォークアメリカーナなどのジャンルがある。

フランスではライオネル・ロシュマン(Lionel Rocheman)が組織そしきしたアメリカンセンターでの最初さいしょ音楽おんがくさい、フーテナニーによって1964ねんごろからパリでフォーク運動うんどうはじまった。フランスの著名ちょめいなフォーク歌手かしゅにはフランシス・キャバレルらがいた[26]。1960年代ねんだいまつにはフォーク運動うんどうは、パリがつ革命かくめい同様どうよう政治せいじてき社会しゃかいてき運動うんどうとなる。参加さんか表現ひょうげん民主みんしゅ文化ぶんかてきイベントの自己じこ管理かんりなかからこのうごきが発生はっせいした。

1960年代ねんだい、70年代ねんだいのフランスのフォーク音楽家おんがくかとしては、グレアム・オールライト[27]やトライ・ヤン・Tri Yannやアラン・スティベルらがあげられる。かれらの登場とうじょう民俗みんぞく復活ふっかつばれ、のヨーロッパ諸国しょこくでも同様どうよう伝統でんとうてきうたのリバイバルや、伝統でんとうてき楽器がっきバイオリンバグパイプハーディガーディなど)を使用しようする伝統でんとうてきなスタイルの音楽おんがく再興さいこう象徴しょうちょうとなった。また2000年代ねんだいにはコクーンが登場とうじょうし、15まんまいのヒットを記録きろくした[28]

ギリアン・ウェルチらのネオ・トラディショナル・フォークも、アメリカで人気にんきとなった[29]。これとはべつにネオフォークというジャンルも登場とうじょうした。1980年代ねんだい初期しょきから、 インダストリアルシーン少数しょうすうのアーティストがあたらしいヨーロッパのフォークミュージックを作成さくせいしようとした。ネオフォークばれるこのながれは、アングロサクソン民族みんぞく運動うんどう影響えいきょうつよけているが、異教いきょうロマン主義しゅぎオカルトなどのテーマは、ヨーロッパ文化ぶんか歴史れきしへの興味きょうみしめしている。1990年代ねんだいメタルバンドは楽器がっき、メロディ、伝統でんとうてきなテキストを使用しようして音楽おんがくをミックスしはじめる。このながれはフォークメタルまたはメタルフォークばれる。


おもなフォークソング[編集へんしゅう]

とく著名ちょめいなアーティスト[編集へんしゅう]

日本にっぽんのフォーク[編集へんしゅう]

「フォークソング」「フォーク」[編集へんしゅう]

今日きょう日本にっぽんで「フォークソング」「フォーク」とばれるものは、1950年代ねんだい後半こうはんにアメリカで音楽おんがくジャンルとともおこったリバイバル現象げんしょう英語えいごばんおり流行りゅうこうした「フォーク・リバイバル」ブームで、商業しょうぎょうてきにもだい成功せいこうしたポップスりの「モダンフォーク」に影響えいきょうけた音楽おんがく[出典しゅってん 18]

英語えいごで"フォークソング"はもともと民謡みんよう」と説明せつめいされることがおお[出典しゅってん 19]ドイツの「volkslied」、また英語えいごの「folk song」の訳語やくごとして明治めいじからもちいられるようになった言葉ことばという[32]町田まちだ嘉章よしあき浅野あさの建二けんじちょ日本にっぽん民謡みんようしゅう』(1960ねん初版しょはん岩波書店いわなみしょてん)のなか浅野あさのは「フォークソング=民謡みんようというわけまれた明治めいじ時代じだいには、ありとあらゆる大衆たいしゅう音楽おんがく民謡みんよう分類ぶんるいしていたことがある」と解説かいせつしている[34]。つまり日本にっぽんにもアメリカにも当時とうじはまだ音楽おんがくジャンルがたくさんく、フォークソングをあらわ適切てきせつ言葉ことばく、フォークソング=民謡みんようやくし、これが今日きょうまでのこっているものとかんがえられる[35]今日きょう日本にっぽんう「フォークソング」「フォーク」と「日本にっぽん民謡みんよう」はまったちがうため[出典しゅってん 20]日本にっぽんのフォークソングは日本にっぽん民謡みんようとはべつのものとかんがえたほうがよい[出典しゅってん 21]全国ぜんこく新聞しんぶん記事きじで、音楽おんがくジャンルめいとしての「フォーク」という言葉ことば使用しようは『朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん1962ねん4がつ6にちづけの「音楽おんがくひょう」「清潔せいけつ魅力みりょく ブラザース・フォアの民謡みんよう」という記事きじ初出しょしゅつられている[32]。「フォーク」という言葉ことば浸透しんとうについては、1950年代ねんだいにおいて「フォークダンス」の導入どうにゅう普及ふきゅう影響えいきょうがあるのではないかという見方みかたもある[32]日本にっぽんの「フォークソング」「フォーク」は、1960年代ねんだい前半ぜんはんにブームとなったなまギター中心ちゅうしんとしたアコースティックな音楽おんがく[36]入口いりくちではあったが[33]実際じっさいにはリズム・アンド・ブルースカントリーミュージックロックなど、アメリカンポップスじって日本にっぽんながんできた大衆たいしゅう音楽おんがく影響えいきょうけている[出典しゅってん 22]。デビューに"フォーク歌手かしゅ"とばれ、自作じさくうたでその音楽おんがくかいおおきな影響えいきょうあたえた吉田よしだ拓郎たくろう[出典しゅってん 23]、1960年代ねんだい広島ひろしまでのアマチュア時代じだいにはロックバンドR&Bバンド)をんでおり[出典しゅってん 24]、フォークソングのみならず、多様たよう音楽おんがくジャンルからの影響えいきょうられており[出典しゅってん 25][注釈ちゅうしゃく 1]、また井上いのうえ陽水ようすいビートルズマニアとしてられ[出典しゅってん 27]、ボブ・ディランを本格ほんかくてきいたのはプロデビュー以降いこう小室こむろひとしすすめられたからで[出典しゅってん 28]泉谷いずみやしげるいたっては「もともとローリング・ストーンズあこがれて音楽おんがくはじめて、機材きざいらないし、もうかりそうだとフォークをはじめた」とはなしている[56]加川かがわりょうも「リバプールサウンドきで、学生がくせい時代じだいはずっとロックバンドのボーカルをやっていた」と[57]なぎらけんいちは「フォークをえらんだのは、ただたんにエレキギターがえなかったこと。それにアンプたかかったから」とべている[57]。また忌野いまわの清志郎きよしろうはじめてんだバンド「Clover」で「本当ほんとうはエレキのバンドをやりたかったんだけど、フォークソングも流行はやってたし、楽器がっき関係かんけいもあって、手軽てがるなフォークをやった」とべている[58]一般いっぱんてきにフォークシンガーのカテゴリーにれられることのおおひとなかには、音楽おんがくてきバックボーンにロックやR&Bをひとおお[57]1970年代ねんだい以降いこうの「フォーク」は音楽おんがくジャンルを融合ゆうごうした音楽おんがくといえる[59]

日本にっぽん流行りゅうこう辿たどっていくと、いつの時代じだいにも洋楽ようがくあらたなかたちむことで、あたらしい表現ひょうげんまれてきたというめんがあり[出典しゅってん 29]、フォークソングも同様どうようである[出典しゅってん 30]。1960年代ねんだい前半ぜんはんにはひとるあるしゅサブカルチャーてき存在そんざいだったフォークソングが[35]、1970年代ねんだいにはレコードの売上うりあげをはじめとして日本にっぽんポピュラー音楽おんがく史上しじょうけてとおることの出来できないほど、メインカルチャーにまでのぼりつめたことは特筆とくひつすべきトピックといえる[出典しゅってん 31]

源流げんりゅう[編集へんしゅう]

日本にっぽんのフォークソングの起点きてんをどこにさだめるかはむずかしい[出典しゅってん 32]日本にっぽんのフォークソングの源流げんりゅうは、1950年代ねんだいこった日本にっぽんうたごえ運動うんどうに、1959ねん以降いこう商業しょうぎょうてき色合いろあいと様式ようしきにまとい[出典しゅってん 33]海外かいがいのヒットソングとして日本にっぽん上陸じょうりくしてきたキングストン・トリオ[64]ブラザーズ・フォアピーター・ポール&マリー(PPM)らを合体がったいしたものが「日本にっぽんばんフォークソングの誕生たんじょう」という見方みかたおお[出典しゅってん 34]小室こむろひとしは「1950年代ねんだいわり中学ちゅうがくのとき、キングストン・トリオの『トム・ドゥリー』をいた。それはフォークソングとしてみみにしたのではなく、デル・シャノンコニー・フランシスらのアメリカのポップスのチャートにがってきたヒットきょくの1つとしていた」と証言しょうげんしている[68]田家たや秀樹ひできは「1959ねんビルボードNo.1ヒットを記録きろくした『トム・ドゥリー』が日本にっぽん紹介しょうかいされ、それまでの日本にっぽん歌謡かようきょくとはまったちがあたらしい音楽おんがくとして影響えいきょうあたえるところから日本にっぽんのフォークソングははじまっている」とろんじている[69]。1959ねん以降いこう当時とうじラジオから日本にっぽんはいってきたカントリー&ウエスタン学生がくせいたちがコピーしていたら、「アコースティックギターのおとてるんだけどなにちがう、これはいったいなんだ?」と気付きづいたものがいて[63]当時とうじ先端せんたんをいっていた学生がくせいたちが、アメリカの音楽おんがく雑誌ざっしせて「どうやらこれは"フォークソング"というらしい」と気付きづいたというのが、日本にっぽんで「フォークソング」という言葉ことばはいってきたはじまりというせつもある[63]。これらのはなしから日本にっぽんでは明治めいじ時代じだいに「folk music」を「民謡みんよう」とやくして以降いこう、「フォークソング」という言葉ことばまった認知にんちされずにこの時代じだいまでたと想像そうぞうされる[70]。それでフォークソングはかっこいいとなり、日本にっぽんおおくのフォークソンググループが出来できたといわれる[63]おぼえやすくうたいやすいフォークソング、コピーが流行はやり、フォークギターもよくれた[9]

流行りゅうこう開始かいし[編集へんしゅう]

1963ねん9がつ27にちづけの『読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかんに「最近さいきんのアメリカ軽音けいおん楽界がっかい 完全かんぜん民謡みんようブーム 大学生だいがくせいたちが熱烈ねつれつ推進すいしん」という見出みだしで「民謡みんよう」と「フォークソング」を等号とうごうむすび、ジョーン・バエズ著名ちょめい歌手かしゅ紹介しょうかいしている[出典しゅってん 35]。この記事きじでは日本にっぽん民謡みんよう歌手かしゅ代表だいひょうとして三橋みつはしよし智也ともやにコメントをもとめるなど、フォークソングの概念がいねん伝統でんとうてきなフォークソング(民謡みんよう)と混同こんどうしており[35]すくなくとも日本にっぽんでこの時点じてんではアメリカの「フォーク・リバイバル」所謂いわゆる「モダンフォーク」についてはひろまっていなかったとかんがえられる[35]。またおなじ1963ねんの『ミュージック・ライフ』は、PPMを「女性じょせいいちにん男性だんせいにん民謡みんようコーラスチームです。モダン・ジャズでもやりそうなスタイルです」などと紹介しょうかいしているという[9]よく1964ねんになると民謡みんようではなく、フォークソングという表記ひょうき一般いっぱん[32]おおむね 1965~1966ねんごろ音楽おんがくジャンルめいとしての「フォーク」が定着ていちゃくしたとられる[出典しゅってん 36]。ボブ・ディランのレコードデビューは1962ねん3がつ[20]、ボブ・ディランのシングルばん日本にっぽん発売はつばいされたのは、1965ねんの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」(邦題ほうだい「ホームシック・ブルース」)が最初さいしょ[70]発売はつばいもと日本にほんコロムビアはボブ・ディランに「ウエスタン調ちょうロックにつづる哀愁あいしゅう」とキャッチコピーけた[70]。ウエスタンという言葉ことば使つかわれているのは、このまえ日本にっぽんカントリー&ウエスタン(C&W)のブームがあったからだった[出典しゅってん 37]

朝日新聞あさひしんぶん』1966ねん4がつ24にちづけに「フォークソングだいはやり 若者わかもの生活せいかつ密着みっちゃく」という見出みだ記事きじ[71]、「最近さいきん、フォークソングが、若者わかもの中心ちゅうしんとするうたきの人々ひとびとあいだですごくはやっている。ひところのエレキブームのようなハデなさわがしさはないが、わかひとたちによってその魅力みりょくはなかなかおおきいようだ。フォークソングが日本にっぽんはいってたのは3、4ねんまえ。アメリカでジャズとはべつに、歌手かしゅ聴衆ちょうしゅう一緒いっしょになってうたう"しん民謡みんよう"がまれ、これがフォークソングとばれた。最近さいきん反戦はんせんなど社会しゃかいせいったものが人気にんきんでいる」とかれている[71]。また『毎日新聞まいにちしんぶん』1966ねん9がつ8にちづけの「寒流かんりゅう」というコラムに「ギター、フォークソングの孤独こどくなブーム」という見出みだしの記事きじ[72]、「クラシックギターれている。業界ぎょうかいはなしによると、全国ぜんこくで50のメーカーが月産げっさん10まんだいつくっているそうだ(中略ちゅうりゃく)こんなにれ、演奏えんそうしゃおおいのなら、エレキ騒動そうどうピアノ教室きょうしつのように社会しゃかいてき話題わだいになってもよさそうだが、いっこうにそれらしいことをかない。ブームが潜行せんこうしてる。おなじようなブームにフォークソングがある。モダン・フォークとばれるもので、素朴そぼくなメロディーにせて反戦はんせん社会しゃかい批判ひはんうたったものだ。アメリカの大学生だいがくせいあいだから流行りゅうこうして、日本にっぽんでも大学生だいがくせい中心ちゅうしんひゃくくみほどのグループがある。一説いっせつによるとフォーク人口じんこうひゃくまんにん。それなのにこのブームは表面ひょうめんしない」などとかれており[72]、1966ねん9がつ時点じてんではフォークソングムーブメントはそこまでおおきくなっていないことがかる。

日本にっぽんのフォークソングにはアメリカの伝統でんとうてき音楽おんがく継承けいしょう目的もくてきとするフォークリバイバル英語えいごばんてき意味いみはあまりふくまれない[出典しゅってん 38]。あまりというのは日本にっぽんのフォークソングを先導せんどうした労音ろうおんは、アメリカのフォークソングの思想しそうれたものだったが[出典しゅってん 39]日本にっぽん若者わかものにとってはファッションだったからである[出典しゅってん 40]。アメリカでは当時とうじはまだ徴兵ちょうへいせいのこ[3]実際じっさい戦場せんじょうかねばならないかもれない現実げんじつさらされていたアメリカの若者わかものたちとはちが[3]日本にっぽん若者わかものたちにとっては戦争せんそう切実せつじつ問題もんだいではなかった[3]

大学生だいがくせいとフォークソング[編集へんしゅう]

1960年代ねんだい初頭しょとうにアメリカの学生がくせいあいだがっていたフォークソングブームにびついたのが、日本にっぽん富裕ふゆうそう若者わかものとく東京とうきょう成城学園せいじょうがくえん青山学院あおやまがくいん明治めいじ学院がくいんなど、アメリカてき自由じゆう主義しゅぎ伝統でんとう私立しりつ大学だいがくかよ大学生だいがくせいだった[出典しゅってん 41]ブルーカラーてきにおいのあったロックンロールとはちがって知的ちてきにおいもあり[出典しゅってん 42]、アコースティックギターの新鮮しんせんさ、うつくしくさわやかなハーモニーおおくの大学生だいがくせいおどろき、われさきにとグループを結成けっせいしてそのコピーをはじめた[出典しゅってん 43]。それはおなじくアメリカからの輸入ゆにゅうひんであるアイビールック連鎖れんさしていた[出典しゅってん 44]。アメリカのフォークソングのうごきをいちはや日本にっぽん紹介しょうかいしたのが、当時とうじ男性だんせいファッション雑誌ざっしMEN'S CLUB』や深夜しんやラジオだった[4]芝生しばふえられたキャンパスで、アイビーファッションつつみ、ギターを片手かたてにアメリカのモダンフォーク[注釈ちゅうしゃく 2]コピーうた[出典しゅってん 45]。ギター1ほんあればみんなと一緒いっしょうたうことが出来できるのもフォークソングの魅力みりょくだった[61]。それまでに日本にっぽんはいって洋楽ようがくは、えんじるがわがわ境界きょうかいせんがあったが[79]、フォークソングはその境界きょうかいせんはらった音楽おんがくだった[47]。それまでの既成きせい音楽おんがくいちじるしくちがっていたのは、うたみずか作詞さくし作曲さっきょくになれたことで[47]なぎら健壱けんいちは「シンガーソングライター」も実質じっしつてきにここをはじまりとしている」とろんじている[47]自作じさくきょくつくるのはもうすこはなし[9]初期しょきカレッジ・フォークは、エリート意識いしきとアメリカ文化ぶんかへのあこがれから、演奏えんそうかんしては英語えいご歌詞かしうたうことにてっする原語げんご主義しゅぎつらぬかれていたという[出典しゅってん 46]。これが60年代ねんだい最新さいしんトレンドであり、これらはキャンパス・フォーク、カレッジ・フォークなどとばれるようになった[出典しゅってん 47]日本にっぽんフィリップス・レコードもとプロデューサーディレクター本城ほんじょう和治かずはるは「担当たんとうしていた森山もりやま良子りょうこアルバムに『カレッジフォーク』という言葉ことばめたんですね。『カレッジフォーク』という言葉ことば使つかっているのはフィリップスだけ。ぼくは『キャンパスフォーク』というのは抵抗ていこうがあった。会社かいしゃによって『キャンパスフォーク』とか独自どくじのいいかたをしていましたね」などとべているが[81]森山もりやまのレコードデビューは1967ねん1がつ25にちリリースのシングルこのひろ野原のはらいっぱい」が最初さいしょで、「カレッジ・フォーク」という言葉ことばは『読売新聞よみうりしんぶん』1965ねん5がつ19にちづけ夕刊ゆうかんしんフォーク・ソングのいずみをもとめて えい六輔ろくすけ、いずみ・たく全国ぜんこく取材しゅざいたび ろくがつには新作しんさく発表はっぴょうかい」という記事きじすでられる[32]。なぎらは「フォーク・シーンをささえる絶対ぜったいすうおおさから、フォークがファッション精神せいしんてきなものもふくめて若者わかもの文化ぶんかをリードした」とろんじている[47]かえればかるさはあるにせよ、それまでの若者わかもの自己じこ表現ひょうげんのツールが文学ぶんがく学生がくせい運動うんどうなどだったが[57]、フォークソングはそれにわる明確めいかく意思いし若者わかものあたらしい自己じこ表現ひょうげんのツールであったことはたしかである[57]昭和しょうわ40年代ねんだい日本にっぽんちゅう若者わかものという若者わかものが、おもわずフォークギターをにしてしまった[57]

とくさかんだったのが東京とうきょう[出典しゅってん 48]日本にっぽん最初さいしょのフォークソンググループともわれる立教大学りっきょうだいがく大沢おおさわたもつつくった「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[出典しゅってん 49]、1963ねん12月24にち[62]日本にっぽんはじめてのフーテナニー[注釈ちゅうしゃく 3]「フーテナニー'63」を2くみ銀座ぎんざガスホールで開催かいさいした[出典しゅってん 51]。このもよおしがひとつのきっかけとなって、それまでバラバラだったフォークソング運動うんどうよこ連帯れんたいまれた[出典しゅってん 52]。1964ねんれと1965ねん6がつに「ジュニア・ジャンボリー」が成功せいこうし、カレッジフォークのパターンがまった[62]ただし、1965ねんごろまではプログラムの半分はんぶん以上いじょうカントリー&ウエスタンだったともいわれる[9]。ここから各所かくしょで「〇〇フーテナニー」「〇〇ジャンボリー」「〇〇フェスティバル」などばれるコンサートがひらかれた[出典しゅってん 53]。1965ねん10がつにはキングストン・トリオらアメリカカレッジのキャンパスシンガーたちが、にちげきひらかれた「だい1かいフォークソング・フェスティバル」に総出そうで出演しゅつえんした[67]マイク真木まき在籍ざいせきした「モダン・フォーク・カルテット」や石川いしかわたか在籍ざいせきしていた「フォーク・ウィンズ」、「ハミング・バーズ」など、かく大学だいがくにカレッジ・フォークのグループがあり[出典しゅってん 54]森山もりやま良子りょうこ細野ほその晴臣はるおみもカレッジ・フォーク出身しゅっしんしゃ[出典しゅってん 55]細野ほそのも「オックス・ドライヴァーズ」というグループをひきいてキングストン・トリオなどをうたっていた[70]国産こくさんはつ本格ほんかくてきフォーク・ギター発売はつばいされたのは1966ねん(ヤマハFG180、18,000えん[86]同年どうねんにはカレッジ・フォーク出身しゅっしんのマイク眞木まきバラがいた」や[出典しゅってん 56]ザ・ブロードサイド・フォーの「若者わかものたち」が同名どうめいドラマ主題歌しゅだいかとしてだいヒットし[87]日本にっぽんでフォークブームがきた[出典しゅってん 57]。これらは職業しょくぎょう作家さっか作品さくひん自作じさく自演じえんではなく[出典しゅってん 58]既成きせい歌謡かようきょくのフィールドでつくされた「フォークソングふう歌謡かようきょく」で[85]、マイク眞木まきを"日本にっぽんのボブ・ディラン"としてそうとした時代じだい感覚かんかくはかなりズレていた[85]当時とうじはレコード会社かいしゃちから圧倒的あっとうてき[77]作家さっか作詞さくし作曲さっきょく)はレコード会社かいしゃ専属せんぞくせいっており[77]、レコード会社かいしゃ専属せんぞくでないものが、自身じしん作詞さくし作曲さっきょくしたレコードをすのはむずかしかった[77]当時とうじのレコード会社かいしゃがリリースする流行りゅうこう内容ないようは、青春せいしゅん恋愛れんあいなどをうたった他愛たあいもないもので[77]、フォークっぽいきょくねらってしても実質じっしつ歌謡かようきょくだった[77]。「バラがいた」も、浜口はまぐち庫之助くらのすけジョニー・ティロットソンいたものを[出典しゅってん 59]デモテープたのんだマイク眞木まきのバージョンの出来できがとてもかったことから、わりにうたってシングルリリースされだいヒットしたものだった[出典しゅってん 60]。2023ねん7がつ22にちBSフジ放送ほうそうされた『HIT SONG MAKERS フォークソングスペシャル ~日本にっぽんのフォークソングは如何いかまれたのか~』では、マイク眞木まきは、レコーディングさいにレコード会社かいしゃから「フォークソングふううたってくれ、と要請ようせいけた」と証言しょうげんしている。「バラがいた」はフォークソングふう歌謡かようきょくである[57]

このようなセンスはどう時期じき流行はやった海外かいがいのロック・ムーブメントの歌謡かようきょく展開てんかいだったグループ・サウンズ (GS) にちかいものがあった[85]ただしこれらは歌謡かようきょくくらべれば、時代じだい空気くうきかんじさせるものとして、わか世代せだい支持しじされた[85]。また1968ねんごろからカレッジ・フォークのなか日本語にほんごオリジナルのフォークをやるものてきた[出典しゅってん 61]。フォー・セインツやザ・リガニーズ、モダン・フォーク・フェローズ、キャッスル&ゲイツなどだが、ただだいヒットシングルをすまでにはいたらなかった[70]。こうした関東かんとうのカレッジフォークはアメリカの社会しゃかいという輸入ゆにゅうぶつきにしたもので[67]民衆みんしゅう鼓舞こぶ前進ぜんしんさせるものではなかった[67]

フォークソングとGS[編集へんしゅう]

どう時期じきの1960年代ねんだい後半こうはんロックバンドふうのサウンドやスタイルがグループ・サウンズ (GS) として発展はってんし、フォークソングブームは一時いちじGSブームのうしろにかくれた[出典しゅってん 62]。GSブームはフォークソングブームとはべつながれで[出典しゅってん 63][注釈ちゅうしゃく 4]、1957ねんから1959ねんごろロカビリーブーム~1960ねん以降いこうベンチャーズビートルズ来日らいにち刺激しげきされたエレキ・ブームながれにあるものである[出典しゅってん 64]

ただしこの時期じき音楽おんがくこころざ若者わかものが、最初さいしょかりとして、フォークギターか、エレキギターのどちらかをったというてんでは、日本にっぽんのポップス歴史れきしなかでは重要じゅうようぶしであったといえる[出典しゅってん 65]。また当時とうじのフォークファンにおおきな影響えいきょうあたえたボブ・ディランが、1965ねんにフォークギターからエレキギターにえ、フォークファンから非難ひなんされた事件じけんもショックな出来事できごと[出典しゅってん 66]、フォークがロックするのは世界せかいてき傾向けいこうでもあった[出典しゅってん 67]本来ほんらいてきかんがえれば、フォークソングとロックンロールかならずしも対立たいりつするものではなく[85]、どちらもアイルランドスコットランドなどの移民いみん伝承でんしょう音楽おんがく、そして黒人こくじん音楽おんがくをルーツとしてまれたもので[85]カントリー・ミュージックふくめていわば親類しんるい関係かんけいにある音楽おんがくだった[85]。ところがかぎられた情報じょうほうしかなかった日本にっぽんからかぎり、フォークソングがアコースティックギター、ロックンロールがエレキギターという楽器がっき区別くべつかりやすくえた[85]。しかしフォークソング=良識りょうしき、ロックンロール=不良ふりょうというとらかたは、あまりに単純たんじゅんぎたし、どちらも元々もともと、"体制たいせい"にたいする反抗はんこう精神せいしん根本こんぽんっていたことを見落みおとし、それらが現象げんしょうめんだけから、まったべつの"欧米おうべいあたらしい流行りゅうこう"としてれられたことが、その日本にっぽんのフォークとロックの関係かんけいをギクシャクしたものにしていった原因げんいんひとつになった[出典しゅってん 68]。またフォークとロックを融合ゆうごうした「フォークロック」については[出典しゅってん 69]日本にっぽんではあまりかたられないが、アメリカでは60年代ねんだい末期まっきにロック文化ぶんかづかせるかげちからになったと評価ひょうかされているという[出典しゅってん 70]先述せんじゅつ日本にっぽんフィリップス・レコードもとプロデューサー・本城ほんじょう和治かずはるは「日本にっぽんはつのフォークロックのグループはマイク眞木まきとザ・マイクスおもう」とべている[99]

関西かんさいからのなみ[編集へんしゅう]

1969ねんになると下降かこうせんをたどるGSブームとわるようになかがフォーク一色いっしょくになった[出典しゅってん 71]東京とうきょう同様どうようにフォークソングがさかんだったのは関西かんさいだった[出典しゅってん 72]前述ぜんじゅつのように日本にっぽんのフォークの源流げんりゅうにうたごえ運動うんどうがあり[8]高石たかいし事務所じむしょ音楽おんがくしゃURC[8]関西かんさいフォークを主導しゅどうしたはた政明まさあきも、かつては積極せっきょくてきにうたごえ運動うんどうかかわったひと[8]全日本ぜんにほんフォークジャンボリー企画きかく運営うんえいしたのもうたごえ運動うんどう関係かんけいする労音ろうおんスタッフによるもので[出典しゅってん 73]初期しょき日本にっぽんのフォークが、政治せいじとも微妙びみょう関係かんけいっていたのには、このような背景はいけいがあった[8]

東京とうきょうそだちのおぼうちゃまがうたうカレッジ・フォークへの反撥はんぱつしんから関西かんさいフォークはまれた[出典しゅってん 74]直接ちょくせつけとしては1967ねん1がつにジョーン・バエズが来日らいにち[107]大阪おおさかがくれん大阪おおさか学生がくせい自治じちかい連合れんごう)の平和へいわ集会しゅうかいベトナム反戦はんせんへのあつおもいをうったえたことともいわれる[67]。また東京とうきょうの"業界ぎょうかい"から距離きょりたからこそ、よりアマチュアてき純粋じゅんすいさをたもちながら成長せいちょうしていくことが出来できたともえる[91]。コピーのおおかった関東かんとうくらべて関西かんさいでは1967ねんからフォークソングの特徴とくちょうでもある集会しゅうかいスタイルのコンサート「フォークキャンプ」をいちはや開催かいさいした[70]

これに参加さんかした京都きょうと学生がくせいのグループ・ザ・フォーク・クルセダーズが「かえってたヨッパライ」を自主じしゅせいさく[出典しゅってん 75]、これがラジオ関西かんさい深夜しんや放送ほうそうげられるとおおきな反響はんきょう[出典しゅってん 76]、これにけたパシフィック音楽おんがく出版しゅっぱん原盤げんばんけん獲得かくとく[109]ニッポン放送にっぽんほうそう[109]東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょうから1967ねんれにシングルリリースされ[出典しゅってん 77]楽曲がっきょくのユニークさから社会しゃかい現象げんしょうとなり、280まんまいげるメガヒットになった[出典しゅってん 78]。これはフォークソングの自作じさく自演じえんきょくとしてははじめてのだいヒットきょくといえるものだが[出典しゅってん 79]加工かこうほどこされた内容ないようからカテゴリーむずかしく[出典しゅってん 80]はやまわ録音ろくおんがウケたコミックソングれられることもおおいが[出典しゅってん 81]実験じっけんてき手法しゅほう後期こうきビートルズ影響えいきょう指摘してきされることもあり[出典しゅってん 82]、このきょく日本語にほんごロックの先駆せんく評価ひょうかされることもある[70]。また70年代ねんだい吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすいかぐやひめらがはなけたのもフォークルの活躍かつやくがあったからこそという評価ひょうかもある[109]。「かえってたヨッパライ」のだいヒットにより注目ちゅうもくされたのが関西かんさいフォークだった[出典しゅってん 83]関西かんさいフォークは東京とうきょうのカレッジフォークがしたもので[出典しゅってん 84]当初とうしょ関西かんさいにもカレッジフォークのグループはいた[出典しゅってん 85]。しかし今日きょうでは東京とうきょうのカレッジフォークとはおおきくことなり、オリジナルの反戦はんせんフォーク、プロテスト・フォーク、アングラ・フォークを主体しゅたいとしたものとしてかたられる[出典しゅってん 86]。きれいごとのカレッジフォークを打破だはするがごとく、そのカウンターカルチャーとして出現しゅつげんした[出典しゅってん 87]

プロテストソングとしてのフォークソング[編集へんしゅう]

プロテストソングという言葉ことばは、日本語にほんごでは抗議こうぎうたやくされることがあるが[117]思想しそうてき政治せいじてき信条しんじょううたたくしてうったえるもので[117]勿論もちろんこれもアメリカからの輸入ゆにゅうで、60年代ねんだいアメリカでの公民こうみんけん運動うんどうさいに「勝利しょうりとう」がそのアンセムとなり、ジョーン・バエズやピート・シーガー、ボブ・ディランらによってひろうたわれた[117]。なぜ関西かんさいフォークがプロテスト・フォークだったかとえば、そういう時代じだいだったからである[出典しゅってん 88]当時とうじ中学生ちゅうがくせい政治せいじ運動うんどうをやる時代じだい[121]東大とうだい安田やすだ講堂こうどう事件じけんや、パリ五月ごがつ危機きき、アメリカはベトナム戦争せんそう渦中かちゅうで、日本にっぽんふくめたぜん世界せかい戦争せんそう反対はんたいデモ集会しゅうかいおこなわれた[出典しゅってん 89]。みんなでちからわせればくにうごくんじゃないかとみんながかんがえた[出典しゅってん 90]日本にっぽんでこれらは60年代ねんだい後半こうはん安保あんぽ闘争とうそうフォークゲリラヒッピー文化ぶんかなどとむすびついて[出典しゅってん 91]アジテーション手段しゅだんとして重要じゅうよう役割やくわりたした[出典しゅってん 92]。「アジ」のわりにギターをってがなる、これが当時とうじのフォークソングだった[出典しゅってん 93]

読売新聞よみうりしんぶん』は1969ねん11月4にちづけのコラム「あんぐる」で「昨今さっこん日本にっぽん日本にっぽんのフォーク・ブームは音楽おんがくてきみのりは何一なにひとつない。高石たかいし友也ともやらのフォーク・ゲリラの自称じしょうフォークは、なるほど、体制たいせい反抗はんこうしようとする若者わかものらしいいかりがその歌詞かしにはられても、メロディーは流行りゅうこう大同小異だいどうしょうい森山もりやま良子りょうこらのいわゆるフォークにいたっては、歌謡かようきょくなんらかわるところがない。若者わかものたちの既存きそん体制たいせいたいする不満ふまん爆発ばくはつがザ・ビートルズを頂点ちょうてんとするグループ・サウンズをんだ。しかしいったんそれが日本にっぽん輸入ゆにゅうされると『つき沙漠さばくてき発想はっそうにうずもれて『ブルー・シャトウ』になってしまったように爆発ばくはつてきエネルギーは去勢きょせいされてしまった。フォークも同様どうよう音楽おんがくてきにも歌詞かし内容ないよう中学ちゅうがくさんねん程度ていどのものしかかんじられない」などと批判ひはんした[90]

プロテストソングを最初さいしょ日本にっぽんでやったのは東京とうきょう出身しゅっしん高田たかだわたるであったが[117]、1967ねん高石たかいし友也ともやはた政明まさあき設立せつりつした『高石たかいし音楽おんがく事務所じむしょ』に高田たかだ岡林おかばやし信康のぶやすいつつのあか風船ふうせん中川なかがわ五郎ごろう遠藤えんどう賢司けんじジャックス所属しょぞくし、おおきなムーブメントになった[出典しゅってん 94]高石たかいし友也ともや高田たかだわたる遠藤えんどう賢司けんじらは関西かんさいじんではないが[出典しゅってん 95]今日きょうでは一括いっかつして関西かんさいフォークとくくられることがおお[出典しゅってん 96]。1969ねん設立せつりつされた会員かいいんせい通信つうしん販売はんばいのレコード会社かいしゃ音楽おんがくしゃアングラ・レコード・クラブ(URC)は関西かんさいフォークの普及ふきゅうおおきく貢献こうけんした[出典しゅってん 97]楽曲がっきょくでは岡林おかばやし信康のぶやすの「ともよ」「山谷やまたにブルース」「チューリップのアップリケ」などが有名ゆうめいである[出典しゅってん 98]三上みかみひろしは「3000ねんあいだ沈黙ちんもくいられていた連中れんちゅうが、自分じぶん言葉ことばしゃべりはじめた時代じだいだった。反戦はんせん失恋しつれん四畳半よじょうはんぼく自身じしん言葉ことばうたわれたという、いい時代じだいでした。『マイナーこそがメジャーなのだ』と、あのころむねってえました」などとべている[57]

また1960年代ねんだい後半こうはんから1970年代ねんだい初頭しょとうにかけてはもとまろあかとり、ピンク・ピクルス、ウィッシュ、いつつのあか風船ふうせんらも話題わだいきょく発表はっぴょうした。1966ねん7がつ17にち、『きエレキ合戦かっせん』のフォークばんフジテレビフォークソング合戦かっせん』スタート[85]。8月1にちニッポン放送にっぽんほうそうバイタリス・フォーク・ビレッジ[出典しゅってん 99]、10月31にちTBSテレビヤング720』、11月、ラジオ関西かんさい『ミッドナイト・フォーク』などが放送ほうそう開始かいし[85]放送ほうそうきょくレコード会社かいしゃがフォーク・イベントにはじめた[85]当時とうじのラジオリスナーはフォークソングを支持しじする若者わかものおおかった[9]

だつ政治せいじ、ニューミュージックへ[編集へんしゅう]

1970年代ねんだい初頭しょとう吉田よしだ拓郎たくろう登場とうじょうにより[出典しゅってん 100]、それまではん体制たいせいしょくかったフォーク・ソングはポップス[出典しゅってん 101]、「シンガーソングライター」という音楽おんがくてき形態けいたいとして[出典しゅってん 102]おもて舞台ぶたいげられた[出典しゅってん 103]広島ひろしまフォークむら出身しゅっしん吉田よしだ拓郎たくろう[出典しゅってん 104]関西かんさいフォークとは距離きょり[出典しゅってん 105]政治せいじむすびついていた連帯れんたいうた排除はいじょ[出典しゅってん 106]徹底的てっていてき個人こじん主義しゅぎをフォークソングにんだ[出典しゅってん 107]

諸説しょせつあるにせよ1971ねんだい3かい全日本ぜんにほんフォークジャンボリーける伝説でんせつのステージは[出典しゅってん 108]吉田よしだ拓郎たくろうをそれまでの「関西かんさいフォーク」中心ちゅうしんながれに対峙たいじする存在そんざいとして認知にんちさせたのは歴史れきしてき事実じじつである[出典しゅってん 109]吉田よしだ拓郎たくろう成功せいこうて、かくレコード会社かいしゃは、フォークにちかられた[出典しゅってん 110]。60年代ねんだいとうってかわって70年代ねんだいだつ政治せいじ個人こじん時代じだいとなり[出典しゅってん 111]吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすい松任谷まつとうや由実ゆみ中島なかじまみゆきらは政治せいじせいうすいフォークソングを発売はつばい[出典しゅってん 112]、これがニュー・ミュージックというしんジャンルへと変質へんしつした[出典しゅってん 113]

北山きたやまおさむ(きたやま おさむ)は「音楽おんがくかいは〝変化へんか"のときをむかえつつありました。フォークルの『かえってたヨッパライ』のような〝手作てづくり〟のさをったものから、計画けいかくてき物事ものごとすすめないといけないショー・ビジネスへの転換てんかん。フォークソング→ニューミュージック、複数ふくすう個性こせい集団しゅうだんなか切磋琢磨せっさたくまう〝グループ"→シンガー・ソングライターの〝個人こじん"の時代じだいへの変化へんかなどです。拓郎たくろう陽水ようすいらの登場とうじょうによって、『時代じだい』はあきらかにわってゆくのです。拓郎たくろうのアルバム『元気げんきです。』をいたとき、『あぁ時代じだいわったんだな』とかんじましたね」などとべている[41]富澤とみざわ一誠いっせいは「拓郎たくろう陽水ようすいかぐやひめらの生活せいかつ四畳半よじょうはんフォーク関西かんさいフォークのちがいは、新聞しんぶんでいうと関西かんさいフォークは社会しゃかいめん生活せいかつフォークは芸能げいのうめんたるかな。70ねん安保あんぽ自動じどう延長えんちょうになり『そとかってなにってもダメ』という空気くうきまれ、自分じぶん問題もんだいとして、矛先ほこさき内側うちがわけた。これが生活せいかつフォークです。うたうスタイルも『わたしたち』『ぼくたち』から『ぼくの』『わたしの』にかわっていきました。『ぼくかみかたまでびて…』はやはり象徴しょうちょうてきうたです。1972ねん拓郎たくろうて(ブレイクして)、ガロあがたもりぎょ、1973ねんにかぐやひめ井上いのうえ陽水ようすい、1974ねんグレープ山本やまもとコウタローとウィークエンドつづきました。1975ねんにユーミンが出現しゅつげんしたころから、フォークという言葉ことばえ、ニューミュージックにがれていきました」などとろんじている[57]。フォークは1980年代ねんだいなかばにはやくもなつメロあつかいされた[57]小川おがわ真一しんいちは「時代じだいうごきに機敏きびん反応はんのうするのもフォークソングであるが、たぶん最初さいしょはそれほどおおきなものではなかった。時代じだい代弁だいべんしゃではあっても、おおきくひとうごかすものではなかったようにおもう。それがわりはじめたのが、1971ねんだい3かい全日本ぜんにほんフォークジャンボリーであり、1975ねん吉田よしだ拓郎たくろう・かぐやひめ コンサート インつまこいになるだろう。いまではだい規模きぼ野外やがいコンサートや、ドーム球場きゅうじょうでの連続れんぞくライブなどもまるでめずらしくないが、まった基盤きばんのないところからハンドメイドつくげていった、それが70年代ねんだいであったようにおもう。またレコードげという意味いみいては、吉田よしだ拓郎たくろうやかぐやひめのシングルが異例いれいだいヒットを記録きろくし、井上いのうえ陽水ようすいアルバムこおり世界せかい』が、日本にっぽんレコード史上しじょうはじめてアルバム100まんまいえるセールスをて、フォークがれる時代じだいはじまった。ヤマハ主催しゅさいしたポプコンや、全国ぜんこく各地かくち開催かいさいされたフォークのコンテストによって、フォークソングの裾野すそのはさらにひろがり、それはあたらしい若者わかもの音楽おんがく=ニューミュージックへと進化しんかげた。ニューミュージック、J-POP、フォーキー・ミュージックと、しめ言葉ことば色々いろいろ変化へんかつづけているが、フォークソングのスピリットはいまつづける」などとろんじている[出典しゅってん 114]

日本にっぽんおもなアーティスト[編集へんしゅう]

日本にっぽんがらみのフォーク年表ねんぴょう[編集へんしゅう]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 拓郎たくろう自身じしんで「ぼくはフォークじゃない」[出典しゅってん 26]、「日本にっぽんにフォークソングなんてない。アマチュアが生業せいぎょうとしてうたっていないものを、米国べいこくではトラディショナルフォークソングとんでいる。そうなると、ぼくなんかはフォークじゃないし『神田かんだがわ』は演歌えんか。ただ、その言葉ことば使つかうことによって、れたことは事実じじつです」などとべている[42]
  2. ^ なぎら健壱けんいちは「モダンフォークという言葉ことば当時とうじ大学生だいがくせいつくった和製わせい英語えいご」とべている[78]。1965ねんごろ読売新聞よみうりしんぶんには「モダンフォーク」という言葉ことば使用しよう多数たすうられる[32]
  3. ^ さけぶという意味いみスラングからまれたかたりで、フォークソングの集会しゅうかいで、うたものくものとが一緒いっしょになってたのしむことを意味いみする。60年代ねんだいのアメリカではさかんにおこなわれた[出典しゅってん 50]。フーテナニーという言葉ことばちゃあいだ最初さいしょんだのは、1963ねんあきにアメリカから帰国きこくした雪村ゆきむらいずみわれる[3]
  4. ^ 「グループ・サウンズ」という言葉ことば普及ふきゅうする以前いぜんの『読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん1967ねん1がつ17にちづけザ・タイガースのデビューを紹介しょうかいした記事きじり、「ザ・スパイダースザ・ワイルドワンズブルー・コメッツザ・サベージ…など和製わせいフォーク・ソング・グループのはなざかりのなかに,もうひとつザ・タイガースが誕生たんじょうする」とかれているという[32]

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