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ポピュラー音楽 おんがく ( ポピュラーおんがく 、( 英 えい : popular music 、ポピュラー・ミュージック)は、広 ひろ く人々 ひとびと の好 この みに訴 うった えかける音楽 おんがく のことである[1] 。
ポピュラー音楽 おんがく とは、何 なん らかの「広 ひろ く訴求 そきゅう 力 りょく のある」音楽 おんがく ジャンル に属 ぞく す[2] [3] 、人々 ひとびと の好 この みに訴求 そきゅう した、あらゆる時代 じだい の音楽 おんがく を包括 ほうかつ 的 てき に指 さ す用語 ようご [4] 、等 ひとし と定義 ていぎ づけられ、具体 ぐたい 的 てき にはロック 、ポップ 、ソウル 、レゲエ 、ラップ 、ダンス・ミュージック などが例 れい としてあげられる[5] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のポピュラー音楽 おんがく が今日 きょう に至 いた るまで与 あた えた影響 えいきょう は大 おお きい。初期 しょき の多 おお くのポピュラー音楽 おんがく の特徴 とくちょう はその当時 とうじ のクラシック音楽 おんがく と共有 きょうゆう する要素 ようそ が多 おお かったが、それらは簡潔 かんけつ でシンプルであったので決 き まり事 ごと が少 すく なかった[6] 。
音楽 おんがく 産業 さんぎょう (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお して多数 たすう の聴衆 ちょうしゅう に配給 はいきゅう されるものが典型 てんけい 的 てき であり、芸術 げいじゅつ 音楽 おんがく とは区別 くべつ される。伝統 でんとう 音楽 おんがく (英語 えいご 版 ばん ) のように典型 てんけい 的 てき には学術 がくじゅつ 的 てき な形態 けいたい によって伝 つた えられたり口承 こうしょう によって小規模 しょうきぼ の局地 きょくち 的 てき に限定 げんてい された聴衆 ちょうしゅう に広 ひろ められる音楽 おんがく とも対照 たいしょう 的 てき な存在 そんざい である[7] [8] [9] 。
この用語 ようご はもともと、1880年代 ねんだい のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく でティン・パン・アレー の音楽 おんがく を指 さ したものであった[2] 。
また、日本 にっぽん ではポピュラー音楽 おんがく を指 さ して和製 わせい 英語 えいご で「ポップス」とも呼称 こしょう する[10] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では「pops」という語 かたり はボストン・ポップス・オーケストラ のようにオーケストラ がポピュラー音楽 おんがく や映画 えいが 音楽 おんがく などを演奏 えんそう することを示 しめ す[10] 。また俗語 ぞくご で「おやじさん」の意味 いみ を持 も つため、ジャズやポピュラー音楽 おんがく 界 かい では特 とく に勢力 せいりょく のあるリーダーや大人 おとな 物 ぶつ に対 たい する愛称 あいしょう としても使 つか われる[10] 。
「ポピュラー音楽 おんがく 」という言葉 ことば には、広 ひろ い意味 いみ ・狭 せま い意味 いみ ・その他 た 諸々 もろもろ 異 こと なった意味合 いみあ いがあり、文脈 ぶんみゃく によってこの広 ひろ がりが変 か わったりずれたりということが起 お き、定義 ていぎ を難 むずか しくしている[11] 。
ここではポピュラー音楽 おんがく を「アメリカを中心 ちゅうしん に世界 せかい 的 てき な広 ひろ がりを見 み せている近代 きんだい 的 てき な商業 しょうぎょう 音楽 おんがく 」とやや狭 せま く定義 ていぎ [12] し、その歴史 れきし を記載 きさい する。広義 こうぎ のポピュラー音楽 おんがく に含 ふく まれるがこの項 こう では扱 あつか われない音楽 おんがく に関 かん しては、民俗 みんぞく 音楽 おんがく ・民族 みんぞく 音楽 おんがく および各国 かっこく の音楽 おんがく の項 こう などを参照 さんしょう されたい。
ポピュラー音楽 おんがく の源泉 げんせん [ 編集 へんしゅう ]
ポピュラー音楽 おんがく のルーツとして、19世紀 せいき 後半 こうはん のヨーロッパの大衆 たいしゅう 音楽 おんがく 、カリブ海 かりぶかい 及 およ び南米 なんべい の混血 こんけつ 音楽 おんがく 、アメリカで誕生 たんじょう した音楽 おんがく の3つが指摘 してき できる[13] 。
19世紀 せいき 後半 こうはん のヨーロッパの大衆 たいしゅう 音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき 後半 こうはん 、ヨーロッパでは資本 しほん 主義 しゅぎ の興隆 こうりゅう によって豊 ゆた かな中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の拡大 かくだい と都市 とし 部 ぶ への労働 ろうどう 人口 じんこう の流入 りゅうにゅう が見 み られた。中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう はワンランク上 じょう の生活 せいかつ に憧 あこが れオペラ劇場 げきじょう に定席 じょうせき を得 え たり子女 しじょ にピアノを習 なら わせたりすることがステータスとなり、労働 ろうどう 者 しゃ たちは生活 せいかつ の安定 あんてい と余暇 よか の充実 じゅうじつ に伴 ともな って娯楽 ごらく として音楽 おんがく を楽 たの しむ習慣 しゅうかん が広 ひろ まり、クラシック・大衆 たいしゅう 音楽 おんがく とも大幅 おおはば に聴衆 ちょうしゅう を増 ふ やし、現代 げんだい に近 ちか い形 かたち で多 おお くの人 ひと の生活 せいかつ に音楽 おんがく がとりいれられるようになった[14] 。こうした中 なか で、主 おも に都市 とし 部 ぶ で盛 さか んになった大衆 たいしゅう 音楽 おんがく が、のちのポピュラー音楽 おんがく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。
ヨーロッパではもともとダンス が盛 さか んで、民俗 みんぞく 音楽 おんがく の中 なか にも多 おお くの踊 おど りが見 み られる[15] が、そこから変化 へんか したワルツ 、ワンステップなどの社交 しゃこう ダンス の音楽 おんがく が、ギターやアコーディオンを含 ふく むバンドで演奏 えんそう されるようになった[14] 。ワルツは、オーストリアの山岳 さんがく 地方 ちほう の舞曲 ぶきょく レントラー が洗練 せんれん ・発展 はってん したものだが、ヨーロッパ中 ちゅう に熱狂 ねっきょう 的 てき に広 ひろ まり、19世紀 せいき を代表 だいひょう する舞曲 ぶきょく となった。
18世紀 せいき にはすでにバラッド・オペラ (イギリス)、ジングシュピール (ドイツ)、オペラ・コミック (フランス)のような、民謡 みんよう (または民謡 みんよう 風 ふう の単純 たんじゅん な歌 うた )を材料 ざいりょう にした親 した しみやすいオペラが人気 にんき だったが、19世紀 せいき には喜劇 きげき 的 てき な内容 ないよう の親 した しみやすいオペラがオペレッタ (軽 けい 歌劇 かげき )という名 な で人気 にんき を集 あつ めるようになった。オッフェンバック の「地獄 じごく のオルフェ 」やスッペ の「軽 けい 騎兵 きへい 」やJ・シュトラウス2世 せい の「こうもり 」やレハール の「メリー・ウィドウ 」などが挙 あ げられる。
「パーラー」は「応接間 おうせつま 」のこと。中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 女性 じょせい の間 あいだ で盛 さか んだったもので、家庭 かてい のパーラー(談話 だんわ 室 しつ )で家族 かぞく や知 し り合 あ い同士 どうし で、ピアノやギターなど家庭 かてい にあるような楽器 がっき で伴奏 ばんそう され歌 うた われた。1曲 きょく 1枚 まい のシートミュージックと言 い う楽譜 がくふ の形 かたち で販売 はんばい された。
ミュージック・ホール とは、客 きゃく が飲食 いんしょく を摂 と りながら音楽 おんがく を楽 たの しむことを目的 もくてき とした施設 しせつ で、パブで歌 うた で客 きゃく をもてなしたのが起源 きげん [14] 。1852年 ねん 、イギリス最初 さいしょ の専用 せんよう のホールとしてロンドンに開 ひら かれたカンタベリー・ホールは、客 きゃく が飲食 いんしょく をとるために椅子 いす とテーブルを並 なら べた部分 ぶぶん と舞台 ぶたい とをもっており、以後 いご 、同種 どうしゅ のホールが全国 ぜんこく につくられた。当初 とうしょ は大 だい 工業 こうぎょう 都市 とし の労働 ろうどう 者 しゃ のビア・ホールとして生 う まれたものだったが、19世紀 せいき 後半 こうはん には飲酒 いんしゅ よりも娯楽 ごらく の方 ほう が重要 じゅうよう になり、ユーモラスで風刺 ふうし 的 てき または感傷 かんしょう 的 てき な歌 うた からなる演芸 えんげい を提供 ていきょう した[17] 。音楽 おんがく だけでなく踊 おど りやコントや手品 てじな 、動物 どうぶつ の芸 げい 、アクロバットなども演 えん じられ、人気 にんき を博 はく していた[18] 。1868年 ねん にはイギリスには500を超 こ えるミュージック・ホールがあった[14] 。パリのムーラン・ルージュ もミュージック・ホールである[18] 。
現代 げんだい 大衆 たいしゅう 歌謡 かよう としてのシャンソン は19世紀 せいき 後半 こうはん から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて確立 かくりつ され、演劇 えんげき 的 てき 表現 ひょうげん スタイル、反 はん 権威 けんい 的 てき 現実 げんじつ 主義 しゅぎ 、ミュゼット (同 どう 時代 じだい に誕生 たんじょう したダンス音楽 おんがく )のアコーディオンと3拍子 ひょうし を伝統 でんとう とする[19] 。パリやベルリンのキャバレー・カフェ・レビュー 小屋 こや などで盛 さか んに歌 うた われた[14] 。
こうした当時 とうじ の大衆 たいしゅう 歌謡 かよう は、クラシック歌曲 かきょく の通俗 つうぞく 版 ばん としての性格 せいかく をもち、歌 うた い手 て も美 うつく しい声 こえ ではっきりと歌 うた うのが普通 ふつう だった[14] 。
現在 げんざい 「スコットランド民謡 みんよう 」「アイルランド民謡 みんよう 」などとして知 し られている曲 きょく の多 おお くは、この時代 じだい にパーラー・ミュージックや酒場 さかば やミュージック・ホールの歌 うた として人気 にんき を得 え たものが多 おお く、「蛍 ぼたる の光 ひかり 」「庭 にわ の千草 ちぐさ 」「ダニー・ボーイ 」「ホーム・スイート・ホーム」「アニーローリー 」などが該当 がいとう するし、フランスのシャンソンも古 ふる いもの(「さくらんぼの実 みの る頃 ころ 」など)は該当 がいとう する。ロシア民謡 みんよう として日本 にっぽん で知 し られている歌 うた も、この時代 じだい の言 い わば歌謡 かよう 曲 きょく が多 おお く、「一 いち 週間 しゅうかん 」「カリンカ 」「トロイカ 」「コロブチカ 」などはこの時代 じだい のものである。これらの中 なか には売 う ることを目的 もくてき に作曲 さっきょく されたものと、本当 ほんとう に民謡 みんよう を手直 てなお ししたものが混在 こんざい している。民俗 みんぞく 音楽 おんがく とポピュラー音楽 おんがく の境界 きょうかい 線 せん はまだ曖昧 あいまい であった[13] 。
植民 しょくみん 地 ち の混血 こんけつ 音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ たくさんあった植民 しょくみん 地 ち では、都市 とし 部 ぶ の中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう はヨーロッパの芸術 げいじゅつ 音楽 おんがく や大衆 たいしゅう 音楽 おんがく をそのまま持 も ち込 こ み[14] 、農村 のうそん 部 ぶ ではヨーロッパの民俗 みんぞく 音楽 おんがく がそのまま持 も ち込 こ まれていた。が、植民 しょくみん 地 ち での都市 とし の発展 はってん の中 なか で形成 けいせい された周辺 しゅうへん 部 ぶ のスラム地区 ちく で、黒人 こくじん や先住民 せんじゅうみん の音楽 おんがく とヨーロッパ系 けい の音楽 おんがく が融合 ゆうごう して新 あら たな音楽 おんがく が生 う まれる現象 げんしょう が様々 さまざま な植民 しょくみん 地 ち で見 み られている。担 にな い手 て は船乗 ふなの りや日雇 ひやとい 労働 ろうどう 者 しゃ 、賭博 とばく 師 し 、売春 ばいしゅん 婦 ふ などのいわゆるルンペンプロレタリアート 層 そう であった。リズムの肉体 にくたい 性 せい ・わざと濁 にご らせた音色 ねいろ や声色 こわいろ ・楽譜 がくふ 通 どお りではない何 なん らかの即興 そっきょう 性 せい などの要素 ようそ を特徴 とくちょう とする。こうした音楽 おんがく はその地域 ちいき のエリート層 そう からは下級 かきゅう な音楽 おんがく として蔑視 べっし されたが、後 のち にヨーロッパの民衆 みんしゅう によって価値 かち が見 み いだされて世界 せかい 的 てき な流行 りゅうこう 音楽 おんがく となっていった例 れい が多 おお い。この種 たね の音楽 おんがく の最初 さいしょ 期 き のものはスリランカとインドネシアで見 み られるが、後 ご のポピュラー音楽 おんがく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたのはカリブ海 かりぶかい および南米 なんべい 地域 ちいき のものである。
黒人 こくじん 音楽 おんがく の要素 ようそ [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ大陸 あめりかたいりく に連 つ れて来 きた られた黒人 こくじん の多 おお くは西 にし アフリカ地域 ちいき の人 ひと たちだったが、アフリカの音楽 おんがく には広 ひろ くポリリズム の要素 ようそ が見 み られ[20] 、特 とく に西 にし アフリカの音楽 おんがく はホットでテンポも速 はや く、また数 すう 人 にん の奏者 そうしゃ による打楽器 だがっき アンサンブルがよく見 み られる[21] 。中 なか には太鼓 たいこ だけではなく、金属 きんぞく 製 せい の打楽器 だがっき も入 はい ってリズムを明確 めいかく にすることも見 み られる。もちろんアフリカを離 はな れてから何 なん 世代 せだい も経 へ ており、西 にし アフリカの民族 みんぞく 音楽 おんがく そのままではありえないものの、根底 こんてい にある「身体 しんたい の奥 おく からゆさぶってくれるようなビート」は明 あき らかに「肉体 にくたい の解放 かいほう による喜 よろこ びと高 たか い精神 せいしん 的 てき な喜 よろこ びを合一 ごういつ させた」アフリカのダンス音楽 おんがく のものであり、この要素 ようそ はその後 ご のポピュラー音楽 おんがく まで確実 かくじつ に影響 えいきょう している[13] 。
カリブ海 かりぶかい 地域 ちいき [ 編集 へんしゅう ]
西 にし インド諸島 しょとう では先住民 せんじゅうみん がほとんど全滅 ぜんめつ しており、白人 はくじん と奴隷 どれい の黒人 こくじん が暮 く らしていた[22] 。黒人 こくじん 音楽 おんがく とヨーロッパ音楽 おんがく が融合 ゆうごう して生 う み出 だ された音楽 おんがく の中 なか で、最初 さいしょ に世界 せかい 的 てき に流行 りゅうこう したのはジャズ ではなく、キューバのハバネラ 、中 なか でもスペイン人 じん のイラディエール が作曲 さっきょく した「ラ・パロマ 」だった。イラディエールは若 わか いころに数 すう 年間 ねんかん キューバに住 す んだことがあり、そこで接 せっ したハバネラのリズムを自作 じさく に取 と り入 い れて発表 はっぴょう し、世界 せかい 的 てき に大人気 だいにんき となるのみならず、様々 さまざま な国 くに の音楽 おんがく に影響 えいきょう を与 あた えた。ハバネラのリズムの影響 えいきょう はアメリカのジャズ、イタリアの「オー・ソレ・ミオ 」、トルコからギリシャにかけて伝 つた わるシルトースという踊 おど りのリズム、アルゼンチンのタンゴ などに見 み られる。またジャズ発祥 はっしょう の地 ち のニューオーリンズに移植 いしょく された黒人 こくじん 奴隷 どれい の大 だい 部分 ぶぶん は、スペイン領 りょう キューバ、フランス領 りょう ハイチなどから購入 こうにゅう されたものであった[13] 。
南米 なんべい は全般 ぜんぱん に先住民 せんじゅうみん ・白人 はくじん ・黒人 こくじん の三 さん 者 しゃ が混交 こんこう し、メスティーソ (先住民 せんじゅうみん +白人 はくじん )・ムラート (白人 はくじん +黒人 こくじん )・サンボ(先住民 せんじゅうみん +黒人 こくじん )などの集団 しゅうだん が存在 そんざい する[23] 。音楽 おんがく もメスティソ系 けい とムラート系 けい に分 わ けられるが、それぞれの存在 そんざい の比率 ひりつ により、メスティソ系 けい (白人 はくじん の要素 ようそ が強 つよ い、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティーソ系 けい (先住民 せんじゅうみん の要素 ようそ が強 つよ い、ペルー・ボリビア)・ムラート系 けい (ブラジル海岸 かいがん 部 ぶ ・カリブ海 かりぶかい 地域 ちいき )などと分 わ けられる。
ブラジルでは18世紀 せいき にルンドゥーという踊 おど りの音楽 おんがく が成立 せいりつ し、最初 さいしょ は野卑 やひ なものとして上 うえ ・中流 ちゅうりゅう 階層 かいそう の非難 ひなん を浴 あ びたが、やがて洗練 せんれん されて都会 とかい 的 てき な歌謡 かよう 形式 けいしき へと変化 へんか した。このルンドゥーは19世紀 せいき 半 なか ばに同 おな じブラジルで生 う まれたショーロ と混交 こんこう し、19世紀 せいき 終 お わりごろにサンバ へと発展 はってん する。またアルゼンチンではハバネラのリズムの影響 えいきょう のもと、19世紀 せいき 末 まつ にタンゴが生 う まれている。タンゴもまた世界 せかい 的 てき に広 ひろ まったので例 たと えば日本 にっぽん の演歌 えんか などにも影響 えいきょう を与 あた えており、民衆 みんしゅう の音楽 おんがく のグローバリゼーションの最初 さいしょ の例 れい と言 い われている。もっとも有名 ゆうめい なタンゴ「ラ・クンパルシータ 」は、24時 じ 間 あいだ 365日 にち 常 つね に世界 せかい のどこかで必 かなら ず演奏 えんそう されているとの伝説 でんせつ もあるほどである。
ルンドゥーもハバネラも付 づけ 点 てん 8分 ふん 音符 おんぷ と16分 ふん 音符 おんぷ を組 く み合 あ わせた軽 かる く跳 は ねるリズム感 かん をもち、ポルトガルもしくはスペインの音楽 おんがく にアフリカ的 てき リズム感 かん を加味 かみ したものと考 かんが えられるが、これがその後 ご のラテン・アメリカの音楽 おんがく の基調 きちょう となった。ショーロやタンゴやサンバ、後 のち に現 あらわ れるキューバのルンバ などもこのリズムの延長 えんちょう 上 じょう にあると言 い える。
このようなカリブ海 かりぶかい 地域 ちいき ・南米 なんべい 地域 ちいき の音楽 おんがく はラテン音楽 おんがく などと呼 よ ばれるが、これがポピュラー音楽 おんがく の歴史 れきし 上 じょう の要 よう 所要 しょよう 所 しょ で大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え続 つづ けることになる。後 のち にはキューバからマンボ やチャチャチャ 、トリニダード・トバゴからカリプソ 、マルティニーク島 とう とセント・ルシアからビギン 、ブラジルからボサノヴァ 、ジャマイカからレゲエ などが生 う まれ、世界 せかい 的 てき にも流行 りゅうこう している[24] 。なお、先 さき の分類 ぶんるい でいえばムラート系 けい の影響 えいきょう が勝 か っていることには留意 りゅうい すべきであろう。
19世紀 せいき 後半 こうはん までのアメリカの音楽 おんがく の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカはイギリス・アイルランドを中心 ちゅうしん とする白人 はくじん 移民 いみん の国 くに だが、南部 なんぶ を中心 ちゅうしん にカリブ海 かりぶかい 地域 ちいき から輸入 ゆにゅう された黒人 こくじん 奴隷 どれい を多 おお く抱 かか えており、それぞれの音楽 おんがく を持 も ち込 こ んでいる。このためアメリカは、ヨーロッパ型 がた の芸術 げいじゅつ 音楽 おんがく と大衆 たいしゅう 音楽 おんがく 、植民 しょくみん 地 ち 型 がた の混血 こんけつ 音楽 おんがく の双方 そうほう を国内 こくない に抱 かか えることとなり、独自 どくじ の発展 はってん を遂 と げていく[25] 。
植民 しょくみん 当初 とうしょ から19世紀 せいき 初期 しょき までの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい 、白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ 社会 しゃかい の音楽 おんがく の大半 たいはん はイギリスから輸入 ゆにゅう された世俗 せぞく 音楽 おんがく や礼拝 れいはい 用 よう 音楽 おんがく だった[26] 。18世紀 せいき 半 なか ばには東海岸 ひがしかいがん ニューイングランドでオリジナルの讃 さん 美歌 みか をつくる動 うご きが出 で てきてアメリカ独自 どくじ の音楽 おんがく 表現 ひょうげん が生 う まれたが、芸術 げいじゅつ 音楽 おんがく はヨーロッパ出身 しゅっしん 者 しゃ が依然 いぜん として主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ っており、18世紀 せいき 末 まつ にアメリカで一番 いちばん 人気 にんき があった曲 きょく はイギリスのイギリスの職業 しょくぎょう 作曲 さっきょく 家 か がロンドンの遊 ゆう 園地 えんち で行楽 こうらく 客 きゃく に聴 き かせるために書 か いた歌 うた や、英語 えいご のバラッド・オペラやコミック・オペラの中 なか でうたわれた歌 うた であったようである。19世紀 せいき 初 はじ めにはイタリア・オペラも人気 にんき を博 はく し、ロッシーニ 、ベッリーニ 、ドニゼッティ らイタリアのオペラ作曲 さっきょく 家 か のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売 はつばい されている。こうした状況 じょうきょう を象徴 しょうちょう するのがアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国歌 こっか である「星条旗 せいじょうき 」(1814年 ねん )、独立 どくりつ 革命 かくめい 中 ちゅう の流行 りゅうこう 歌 か 「ヤンキードゥードル 」(1780年 ねん ころ)、準 じゅん アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国歌 こっか 「アメリカ 」(1831年 ねん )が全 すべ てイギリス起源 きげん の曲 きょく だということである。ただ、アメリカ独自 どくじ の表現 ひょうげん を求 もと める努力 どりょく は続 つづ いており、ニューイングランドですたれた讃 さん 美歌 みか づくりはアメリカ南部 なんぶ に伝 つた えられ、「アメイジング・グレイス 」などの今日 きょう でも歌 うた われる讃 さん 美歌 みか を生 う み出 だ しており、またローウェル・メーソンは1838年 ねん にボストンの公立 こうりつ 学校 がっこう に音楽 おんがく 教育 きょういく を導入 どうにゅう したほか、讃 さん 美歌 みか を1200曲 きょく 以上 いじょう 作曲 さっきょく している。
アメリカ民謡 みんよう の誕生 たんじょう [ 編集 へんしゅう ]
農村 のうそん 部 ぶ では、アメリカ南東 なんとう 部 ぶ のアパラチア山脈 さんみゃく 周辺 しゅうへん でスコットランド民謡 みんよう やアイルランド民謡 みんよう などのケルト音楽 おんがく がアメリカ民謡 みんよう の下地 したじ となっていく[27] 。これらはフィドル (ヴァイオリン)やギターやダルシマー で伴奏 ばんそう されていたが、やがて黒人 こくじん 音楽 おんがく との接触 せっしょく からブルースの感覚 かんかく やバンジョー というアフリカ起源 きげん の楽器 がっき を取 と り入 い れたり、スイスのヨーデル やチェコのポルカ の要素 ようそ を取 と り入 い れたりし、ブルーグラス やヒルビリー やカントリー などと呼 よ ばれるジャンルのもとになっていく。
ミンストレル・ショー[28] とフォスター[29] とヴォードヴィル[30] 。
都市 とし 部 ぶ では、イギリスと同様 どうよう にパーラー・ミュージックやダンスホールの音楽 おんがく やオペレッタが流行 りゅうこう しており、イギリスものが主流 しゅりゅう で専門 せんもん 家 か もロンドンで修業 しゅぎょう してくる流 なが れが続 つづ いていたが[17] 、1820年 ねん ころにミンストレル・ショー という、白人 はくじん が顔 かお を黒 くろ く塗 ぬ って黒人 こくじん の真似 まね をする差別 さべつ 的 てき な喜劇 きげき が成立 せいりつ する。各自 かくじ バンジョー・ヴァイオリン・タンバリン・ボーンズ(馬 うま の骨 ほね などで作 つく った一種 いっしゅ の打楽器 だがっき )で演奏 えんそう しながら、コミカルな歌 うた やセリフのやり取 と りをした。この頃 ころ は新 しん 移民 いみん として東欧 とうおう (ロシア・ポーランド)や南欧 なんおう (イタリア・ギリシャ)からの移民 いみん が急増 きゅうぞう しており、彼 かれ らは旧 きゅう 移民 いみん のように土地 とち や農場 のうじょう を持 も つこともできず多 おお くは都市 とし の下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ となり、旧来 きゅうらい のWASP と対立 たいりつ していた。このような新 しん 移民 いみん たちの間 あいだ で、黒人 こくじん を軽 かる く見下 みくだ して憂 う さ晴 ば らしできるミンストレル・ショーは受 う け入 い れられていた。アメリカポピュラーソング史上 しじょう 最初 さいしょ の国際 こくさい 的 てき なヒットはミンストレル・ショーから出 で たトマス・ダートマス・ライトの「ジャンプ・ジム・クロウ 」(ミンストレル・ショーの代表 だいひょう 的 てき な黒人 こくじん キャラクターの名 な )である。その音楽 おんがく の多 おお くは楽譜 がくふ が出版 しゅっぱん されて商業 しょうぎょう 的 てき に成功 せいこう し、アメリカの初期 しょき のポピュラー音楽 おんがく をけん引 いん し、19世紀 せいき 半 なか ばに最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、南北戦争 なんぼくせんそう や奴隷 どれい 解放 かいほう を経 へ てミンストレル・ショーの人気 にんき は陰 かげ り、商業 しょうぎょう 的 てき には1910年 ねん ころに終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
こうしたミンストレル・ショーの中 なか から、フォスター が現 あらわ れる。彼 かれ はミンストレル・ソングを書 か くところから経歴 けいれき をスタートさせており、「おおスザンナ 」「草競馬 くさけいば 」「故郷 こきょう の人々 ひとびと (スワニー河 かわ )」「主人 しゅじん は冷 つめ たい土 ど の下 した に 」「ケンタッキーの我 わ が家 や 」などは全 すべ てミンストレル・ショーのための作品 さくひん である。やがてミンストレル・ソングに作曲 さっきょく することを恥 は じ、中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう 向 む けのパーラー・ソングに脱皮 だっぴ すべく方向 ほうこう 転換 てんかん し、「金髪 きんぱつ のジェニー 」「夢路 ゆめじ より 」などを残 のこ した。当時 とうじ 作曲 さっきょく 家 か の地位 ちい は低 ひく く、低 てい 収入 しゅうにゅう にあえいでいたフォスターは37歳 さい で非業 ひごう の死 し を遂 と げたが、作品 さくひん の多 おお さと現在 げんざい でも歌 うた われている親 した しみやすさ・その後 ご に与 あた えた影響 えいきょう から、「アメリカ音楽 おんがく の父 ちち 」「ポピュラー音楽 おんがく の先駆 せんく 者 しゃ 」と呼 よ ばれている。彼 かれ の歌 うた の作 つく り方 かた を、次代 じだい のポピュラー音楽 おんがく の作曲 さっきょく 家 か たちはこぞって「フック」(き手 きて をとらえる印象 いんしょう 的 てき なメロディ。いわゆる「サビ」)の手本 てほん にした[31] 。
同 おな じころ、いくつかの独立 どくりつ した出 だ し物 もの からなる舞台 ぶたい 芸能 げいのう や、軽 けい わざ師 し 、音楽家 おんがくか 、コメディアン、手品 てじな 師 し 、魔術 まじゅつ 師 し などからなる芸人 げいにん のショーがヴォードヴィル と呼 よ ばれるようになった。イギリスのミュージック・ホールに当 あ たるものであり、寄席 よせ 演芸 えんげい 劇場 げきじょう と訳 やく される。こうした家族 かぞく で楽 たの しめる娯楽 ごらく 場 じょう をアメリカに広 ひろ めた最初 さいしょ の人物 じんぶつ は、俳優 はいゆう で劇場 げきじょう 支配人 しはいにん であったトニー・パスターで、1881年 ねん 、ニューヨーク市 し の14丁目 ちょうめ 劇場 げきじょう でバラエティショーをおこなった。ヴォードヴィルは20世紀 せいき 初頭 しょとう にはアメリカで一番 いちばん 人気 にんき のある芸能 げいのう となった。
黒人 こくじん たちには18世紀 せいき 後半 こうはん あたりからキリスト教 きょう が普及 ふきゅう し、白人 はくじん たちもこれを黙認 もくにん あるいは推奨 すいしょう するようになった[32] とゴスペルとブルース[33] 。黒人 こくじん たちも讃 たたえ 美 び 歌 か で礼拝 れいはい を行 おこな うようになったが、彼 かれ ら固有 こゆう の音楽 おんがく 的 てき な伝 つて 続 つづけ からか、活気 かっき あるリズム・交互 こうご 唱 ・叫 さけ ぶような唱法など、相当 そうとう 荒々 あらあら しい形 かたち で礼拝 れいはい を行 おこな っていたようである。奴隷 どれい だった黒人 こくじん たちにとっては、教会 きょうかい での礼拝 れいはい は唯一 ゆいいつ 白人 はくじん の監視 かんし がなく過 す ごせる場所 ばしょ であり、社交 しゃこう とエンターテインメントの場所 ばしょ でもあった。日曜日 にちようび の黒人 こくじん の礼拝 れいはい のようすを描写 びょうしゃ した当時 とうじ の記録 きろく によれば、輪 わ になって踊 おど りながらすり足 あし で時計 とけい と反対 はんたい 方向 ほうこう に回 まわ り、リーダーと会衆 かいしゅう とが掛合 かけあ いで歌 うた い(交互 こうご 唱)、興奮 こうふん が高 たか まって憑依 ひょうい 状態 じょうたい に達 たっ することもあった(リング・シャウトという)。歌 うた といっしょに指 ゆび をパチパチ鳴 な らしたり、手拍子 てびょうし をうったり、床 ゆか を踏 ふ みならしたりということも見 み られ、その中 なか にはポリリズムが含 ふく まれる。こうした黒人 こくじん たちの讃 さん 美歌 みか は、白人 はくじん の讃 さん 美歌 みか の歌詞 かし や旋律 せんりつ を黒人 こくじん のリズム・交互 こうご 唱・シャウトにはめ込 こ んだものと言 い える。
1863年 ねん の奴隷 どれい 解放 かいほう 以後 いご には、そこから黒人 こくじん 霊歌 れいか と呼 よ ばれるジャンルが生 う まれる、これは白人 はくじん がリーダーになってヨーロッパの讃 さん 美歌 みか 風 ふう の和音 わおん をつけ、楽譜 がくふ として売 う り出 だ したものであり、多 おお くの曲 きょく が知 し られているが純粋 じゅんすい に黒人 こくじん のものとは言 い えず、黒人 こくじん の礼拝 れいはい から再度 さいど 白人 はくじん の要素 ようそ を重点的 じゅうてんてき に抽出 ちゅうしゅつ したものと言 い える。それに対 たい して黒人 こくじん たち本来 ほんらい のものに近 ちか い讃 さん 美歌 みか はゴスペル と呼 よ ばれ、南部 なんぶ および北部 ほくぶ ・東部 とうぶ 都市 とし の黒人 こくじん 居住 きょじゅう 区 く に数多 かずおお く生 う まれた黒人 こくじん 教会 きょうかい を拠点 きょてん として独自 どくじ の宗教 しゅうきょう 音楽 おんがく が発展 はってん を続 つづ けた。
同 おな じく奴隷 どれい 解放 かいほう 後 ご には、南部 なんぶ 農業 のうぎょう 地帯 ちたい の黒人 こくじん たちが抑圧 よくあつ の中 なか で味 あじ わった個人 こじん 的 てき 感情 かんじょう を呟 つぶや くように吐 は き出 だ す歌 うた としてブルース が発生 はっせい し、ギターの伴奏 ばんそう を伴 ともな う中 なか でヨーロッパの和声 わせい 構造 こうぞう を身 み につけていく。標準 ひょうじゅん 的 てき なブルースの定型 ていけい は、A A B の3行 ぎょう から成 な る詩 し を12小節 しょうせつ に収 おさ め、各行 かくこう ごとに後半 こうはん でギターが歌 うた の間 あいだ に即興 そっきょう 的 てき に割 わ り込 こ む形 かたち になっている。音 おと づかいとしてはブルー・ノート・スケール と呼 よ ばれる黒人 こくじん 音楽 おんがく の特質 とくしつ を示 しめ す音階 おんかい (ミとシ(さらにソも)がときに低 ひく めの音 おと になる)に特徴 とくちょう がある。
吹奏楽 すいそうがく の流行 りゅうこう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカではイギリスやヨーロッパの影響 えいきょう で、18世紀 せいき 末 まつ ころから鼓笛隊 こてきたい などが生 う まれ、南北戦争 なんぼくせんそう の頃 ころ にブラスバンドが盛 さか んになり、19世紀 せいき 後半 こうはん には博覧 はくらん 会場 かいじょう や公園 こうえん などで演奏 えんそう する商業 しょうぎょう バンドが発達 はったつ した[34] 。特 とく にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい バンドの楽長 がくちょう だったジョン・フィリップ・スーザ が退役 たいえき してつくったスーザ吹奏楽 すいそうがく 団 だん が1892年 ねん に活動 かつどう を開始 かいし すると、その演奏 えんそう 水準 すいじゅん の高 たか さから大人気 おとなげ となった。19世紀 せいき 末 まつ にアメリカで一番 いちばん 有名 ゆうめい だった音楽家 おんがくか は、「行進曲 こうしんきょく 王 おう 」の名 な で世界 せかい に知 し られたスーザだった。同 おな じ頃 ごろ 、バス・ドラムの上 うえ にシンバルをセットしたり、バス・ドラムをペダルで演奏 えんそう するドラムセット の基本 きほん アイデアが生 う まれ、リズムセクションの人数 にんずう を減 へ らすのに貢献 こうけん した[35] 。
ヨーロッパからの移入 いにゅう 文化 ぶんか [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき 後半 こうはん 、東部 とうぶ の都市 とし では、J・シュトラウス2世 せい やレハール やオッフェンバック 、それにロンドンのギルバートとサリバン によるオペレッタが移入 いにゅう され、人気 にんき を博 はく した[36] 。
同 おな じ時期 じき 、物語 ものがたり 性 せい がなく、歌 うた 、ダンス、コメディの寸劇 すんげき などが演 えん じられるショーとして、レビュー が劇場 げきじょう や上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 用 よう のサロンなどでもてはやされていた。レビューは語源 ごげん 的 てき には〈再 さい 見 み 〉を意味 いみ するフランス語 ふらんすご がジャンルの名 な となったもので、1820年代 ねんだい のパリで年末 ねんまつ にその年 とし のできごとを風刺 ふうし 的 てき に回顧 かいこ するために演 えん じられた出 だ し物 もの を起源 きげん とする。その後 ご 、上演 じょうえん 時期 じき に関係 かんけい なく、おおむね風刺 ふうし 的 てき な内容 ないよう の短 みじか い場面 ばめん をつないだ芸能 げいのう を指 さ すようになった[37] 。
ワルツ王 おう J. シュトラウスは、〈ウィンナ・ワルツ 〉の名曲 めいきょく を数多 かずおお く作 つく ったが、熱狂 ねっきょう 的 てき にヨーロッパに広 ひろ がったこのワルツはアメリカに渡 わた り、ゆるやかなボストン・ワルツが生 う まれた[38] 。
18世紀 せいき 末 まつ から19世紀 せいき 末 まつ にかけて、アメリカの領土 りょうど は約 やく 3倍 ばい に、人口 じんこう は移民 いみん や新 しん 領土 りょうど 獲得 かくとく に伴 ともな う増 ぞう で約 やく 14倍 ばい になっている[39] 。こうした中 なか で文化 ぶんか 的 てき な統一 とういつ など望 のぞ むべくもないが[40] 、このように様々 さまざま な民俗 みんぞく 音楽 おんがく の伝承 でんしょう が相互 そうご 接触 せっしょく して文化 ぶんか 変容 へんよう するところから、多様 たよう なジャンルが生 う まれてくることになる。
ポピュラー音楽 おんがく の誕生 たんじょう -19世紀 せいき 末 まつ から1920年代 ねんだい [ 編集 へんしゅう ]
最初 さいしょ に定義 ていぎ したポピュラー音楽 おんがく の「近代 きんだい 的 てき な商業 しょうぎょう 音楽 おんがく 」という要素 ようそ が明確 めいかく になるのが、1880~90年代 ねんだい の「音楽 おんがく の商品 しょうひん 化 か システム確立 かくりつ 」である。この商品 しょうひん 化 か システムは、自然 しぜん 発生 はっせい 的 てき でローカルな他 た ジャンルを取 と り込 こ みつつ発展 はってん していく[14] 。アメリカは第 だい 1次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の影響 えいきょう をほぼ受 う けておらず、史上 しじょう 最高 さいこう の繁栄 はんえい を見 み せた時期 じき だったこともこれを後押 あとお しし[41] 、第 だい 1次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご から大 だい 恐慌 きょうこう までの戦後 せんご の繁栄 はんえい と享楽 きょうらく は「ジャズ・エイジ 」とも呼 よ ばれる[42] 。
フォスターの時期 じき 、つまり19世紀 せいき 半 なか ばにすでに幅広 はばひろ い活動 かつどう を行 おこな っていた楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん 業界 ぎょうかい は、1880~90年代 ねんだい にはニューヨーク、特 とく にマンハッタンの下町 したまち の〈ティン・パン・アレー 〉と呼 よ ばれる通 とお りに集中 しゅうちゅう し、音楽 おんがく を商品 しょうひん 化 か するシステムを確立 かくりつ した。業者 ぎょうしゃ が作詞 さくし 家 か に具体 ぐたい 的 てき な詞 し の内容 ないよう にまで注文 ちゅうもん をつけて作詞 さくし させ、作曲 さっきょく 家 か にも細 こま かい指示 しじ のもとに作曲 さっきょく させて、その曲 きょく を楽譜 がくふ に印刷 いんさつ して販売 はんばい し、曲 きょく が話題 わだい になるように宣伝 せんでん マンに店先 みせさき などで歌 うた わせ、その曲 きょく が人々 ひとびと に広 ひろ く歌 うた われれば楽譜 がくふ が売 う れて商業 しょうぎょう 的 てき に成功 せいこう する、という仕組 しく みだった。
この商品 しょうひん 化 か のシステムでは、最初 さいしょ から流行 りゅうこう しそうな曲 きょく を作詞 さくし 家 か 作曲 さっきょく 家 か に書 か かせるための〈プロデュース〉と、それを多 おお くの人 ひと に覚 おぼ えてもらい流行 りゅうこう させるための〈プロモーション〉という二 ふた つの作業 さぎょう が重要 じゅうよう なポイントとなる。プロモーションがうまく行 い くよう、その曲 きょく を人気 にんき 芸人 げいにん に歌 うた ってもらい、それに対 たい して謝礼 しゃれい を支払 しはら うのを〈ペイオーラ〉と呼 よ んだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳 ちょくやく すれば「錫 すず 鍋小路 なべこうじ 」となり、それぞれの会社 かいしゃ で試演 しえん を行 おこな っていたため大変 たいへん にぎやかだったことからついた名前 なまえ であるが、のちにポピュラー音楽 おんがく 業界 ぎょうかい を指 さ すようにもなった。
曲 きょく は8小節 しょうせつ ×4行 ぎょう の32小節 しょうせつ が標準 ひょうじゅん で、ティン・パン・アレーの出版 しゅっぱん 社 しゃ が楽譜 がくふ を売 う り、レコード会社 かいしゃ はオーケストラ伴奏 ばんそう で録音 ろくおん し、片面 かためん 1曲 きょく ずつのシングル盤 ばん として売 う り出 だ すのが当時 とうじ の典型 てんけい 的 てき な発表 はっぴょう 方法 ほうほう だった。このような形 かたち の音楽 おんがく がポピュラー・ソング と呼 よ ばれ、このティン・パン・アレーによって生産 せいさん される音楽 おんがく が「メインストリーム 」(主流 しゅりゅう )音楽 おんがく として幅 はば を利 き かせ、彼 かれ らの確立 かくりつ した生産 せいさん ・販売 はんばい システムは、その後 ご レコード業界 ぎょうかい にも踏襲 とうしゅう され、1950年代 ねんだい 半 なか ばまでアメリカ音楽 おんがく 業界 ぎょうかい を支 ささ えた。この「ポピュラー・ソング」は、最 さい 狭義 きょうぎ のポピュラー音楽 おんがく の定義 ていぎ でもある。
こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリス作 さく の「舞踏 ぶとう 会 かい のあとで 」(1892)の楽譜 がくふ は史上 しじょう はじめてミリオン・セラーを記録 きろく し、楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん 産業 さんぎょう の急 きゅう 成長 せいちょう をうながした。同 どう 時期 じき に大衆 たいしゅう 芸能 げいのう の主流 しゅりゅう となったヴォードヴィルでは、人気 にんき 歌手 かしゅ たちが全米 ぜんべい を巡業 じゅんぎょう して、ティン・パン・アレー産 さん の歌 うた を大衆 たいしゅう に普及 ふきゅう させた。
ティン・パン・アレー流 りゅう の商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 路線 ろせん はアメリカのポピュラー音楽 おんがく の特徴 とくちょう で、ヨーロッパのような「国民 こくみん の大 だい 多数 たすう に共通 きょうつう の文化 ぶんか 基盤 きばん 」が存在 そんざい しないアメリカでは、自然 しぜん 発生 はっせい 的 てき に何 なに かの音楽 おんがく が大 だい 流行 りゅうこう と言 い うことは大変 たいへん 起 お こりにくく、楽譜 がくふ 会社 かいしゃ ・のちにはレコード会社 かいしゃ が企画 きかく して流行 はや らせる音楽 おんがく がメインという状況 じょうきょう が続 つづ いていく。もちろん意図 いと しないところから意図 いと しない曲 きょく が大 だい 流行 りゅうこう することはあり、またティン・パン・アレー側 がわ の企画 きかく も大 だい 外 はず れする場合 ばあい も多 おお く、常 つね にうまく行 い っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽 おんがく 会社 かいしゃ が商業 しょうぎょう 的 てき に流通 りゅうつう させるのがアメリカのポピュラー音楽 おんがく だ、と言 い う流 なが れはこの頃 ころ に確立 かくりつ した。
ミュージカル は「ミュージカル・コメディ」の略 りゃく 。19世紀 せいき 半 なか ばに現 あらわ れ、20世紀 せいき 前半 ぜんはん にニューヨークのブロードウェイ を中心 ちゅうしん にしてアメリカで発展 はってん した。オペレッタ、パントマイム、ミンストレル・ショー、ヴォードヴィルなど、19世紀 せいき のさまざまな演劇 えんげき から影響 えいきょう をうけて成立 せいりつ した。元来 がんらい はコメディの名 な の通 とお り、他愛 たあい のない喜劇 きげき 的 てき な物語 ものがたり をもっぱら扱 あつか っていたが、内容 ないよう が深刻 しんこく さを増 ま したり、本格 ほんかく 的 てき な演劇 えんげき 性 せい を獲得 かくとく したりするにつれ、単 たん にミュージカルと呼 よ ばれるようになった。分 わ かりやすい物語 ものがたり と親 した しみやすい音楽 おんがく 、時 とき にはスペクタクル溢 あふ れる装置 そうち やコーラス・ガールの肉体 にくたい 的 てき 魅力 みりょく などの視覚 しかく 的 てき 要素 ようそ で観客 かんきゃく にアピールする、ショー・ビジネスが盛 さか んなアメリカにふさわしい、費用 ひよう の掛 か かる贅沢 ぜいたく な舞台 ぶたい 芸術 げいじゅつ である。
当初 とうしょ はその名 な の通 とお り、形 かたち ばかりの物語 ものがたり で歌 うた や踊 おど りをつないだたわいのない恋愛 れんあい 劇 げき や笑劇 しょうげき と、ヨーロッパ出身 しゅっしん の作曲 さっきょく 家 か によるオペレッタ風 ふう の作品 さくひん が多 おお かった。しかし1927年 ねん の「ショウボート 」で、現実 げんじつ 感 かん のある舞台 ぶたい に人種 じんしゅ 差別 さべつ などの社会 しゃかい 問題 もんだい を盛 も り込 こ んだ物語 ものがたり でミュージカルに文学 ぶんがく 性 せい が持 も ち込 こ まれ、以後 いご は都会 とかい 的 てき 機知 きち と文学 ぶんがく 性 せい に富 と んだミュージカルが多 おお く作 つく られた。
黒人 こくじん たちの音楽 おんがく では、1890年代 ねんだい にラグタイム が誕生 たんじょう した[44] 。これは、ピアノの右手 みぎて にアフリカ音楽 おんがく に起因 きいん するシンコペーション を多用 たよう したメロディ、左手 ひだりて にはマーチに起因 きいん する規則 きそく 的 てき な伴奏 ばんそう を組 く み合 あ わせたもので、ミンストレル・ショーの歌 うた を母体 ぼたい に発展 はってん してきた。1900年 ねん 前後 ぜんこう に活躍 かつやく していたスコット・ジョプリン という黒人 こくじん ピアニストが、1899年 ねん に「メイプル・リーフ・ラグ 」を発表 はっぴょう し、1902年 ねん には「ジ・エンターテイナー 」を発表 はっぴょう している。20世紀 せいき 初 はじ めの10年 ねん ほどの間 あいだ は、このラグタイムとブルースが商業 しょうぎょう 的 てき にヒットしていた。
同 おな じく1900年代 ねんだい には、ニューオーリンズの元 もと 奴隷 どれい の黒人 こくじん たちが始 はじ めたブラスバンドが不思議 ふしぎ とスウィングするリズムがあるとして評判 ひょうばん になり、白人 はくじん のバンドに真似 まね されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇 やと われたりするようになる。これがジャズ の誕生 たんじょう である。ニューオーリンズの初期 しょき のジャズ(ディキシーランド・ジャズ と言 い う)で一 いち 番目 ばんめ 立 た つのはブラスバンドの行進曲 こうしんきょく の要素 ようそ だが、これまでに出 で てきたブルース(特 とく にブルー・ノートと言 い われる音階 おんかい )、ラグタイム、黒人 こくじん 霊歌 れいか の要素 ようそ を含 ふく んでいる。また、どのバンドにもクラシック音楽 おんがく の素養 そよう を身 み につけたクレオール (白人 はくじん と黒人 こくじん の混血 こんけつ の人 ひと )がいて、楽譜 がくふ も読 よ めない元 もと 奴隷 どれい たちにできるだけの指導 しどう を行 おこな っていた。ディキシー・ランド・ジャズはトランペット・クラリネット・トロンボーン・ピアノ・ベース(もとはチューバ)・ドラム・ギター(もとはバンジョー)が標準 ひょうじゅん 的 てき な編成 へんせい で、決 き まったコード進行 しんこう が繰 く り返 かえ される中 なか 、管楽器 かんがっき たちが即興 そっきょう 演奏 えんそう を行 おこな い、その時 とき にはシンコペーションやスイングでリズムを豊 ゆた かにするような工夫 くふう が行 おこな われる。ジャズも様々 さまざま なスタイルがあるが、この即興 そっきょう とスイングの要素 ようそ はどのジャズにも見 み られる。
ラグタイムやジャズは、黒人 こくじん の音楽 おんがく ではあるがヨーロッパ音楽 おんがく の要素 ようそ も多 おお く含 ふく んでおり、メイン・ストリーム側 がわ とすぐに接触 せっしょく が生 しょう じ、ティン・パン・アレーからラグタイムやジャズの曲 きょく が売 う り出 だ されて人気 にんき を得 え たり、逆 ぎゃく にティン・パン・アレーの曲 きょく をジャズ・ミュージシャンが演奏 えんそう したりということが盛 さか んに見 み られるようになった。ジャズは本質 ほんしつ 的 てき には「演奏 えんそう テクニック」であり、どんな曲 きょく でも演奏 えんそう できる代 か わりに必 かなら ず何 なに か「元 もと ネタ」を必要 ひつよう とする。ティン・パン・アレーの曲 きょく は「元 もと ネタ」としてよく使 つか われた。この後 のち 1940年代 ねんだい まで、ジャズは時代 じだい の主役 しゅやく となっていく。
ラグタイムやジャズは当時 とうじ のアメリカ人 じん たちの間 あいだ では芸術 げいじゅつ 的 てき な価値 かち は認 みと められておらず、「黒人 こくじん たちのやっているわけのわからない音楽 おんがく 」と思 おも われていたようである。しかし、その価値 かち はむしろヨーロッパのクラシック系 けい の作曲 さっきょく 家 か に認 みと められた。ドビュッシー やミヨー は明 あき らかにラグタイムやジャズの影響 えいきょう を受 う けた作品 さくひん を残 のこ している。
1910年 ねん ~20年 ねん にかけて産業 さんぎょう 構造 こうぞう が農業 のうぎょう から工業 こうぎょう に転換 てんかん するにつれてアメリカでは南部 なんぶ から北部 ほくぶ への人口 じんこう の大 だい 移動 いどう が起 お こり、それに合 あ わせるように多 おお くのジャズメンがニューオーリンズからシカゴに移動 いどう する。シカゴでは天才 てんさい トランペット奏者 そうしゃ のルイ・アームストロング が全 すべ てのジャズ奏者 そうしゃ と編曲 へんきょく 者 しゃ に甚大 じんだい な影響 えいきょう を与 あた え、ジャズの時代 じだい を築 きず く。1920年 ねん 頃 ごろ にはドラムセットにハイハット が加 くわ わり、現在 げんざい とほぼ同様 どうよう のリズムパターンが出 だ せるようになった。
ティン・パン・アレーの全盛期 ぜんせいき -1920~30年代 ねんだい [ 編集 へんしゅう ]
新 しん 技術 ぎじゅつ とポピュラー音楽 おんがく ①[ 編集 へんしゅう ]
1887年 ねん に発明 はつめい された円盤 えんばん 型 がた レコード は徐々 じょじょ に浸透 しんとう し、1925年 ねん の電気 でんき 録音 ろくおん 方式 ほうしき の導入 どうにゅう による音質 おんしつ 向上 こうじょう にも後押 あとお しされ、1920年代 ねんだい 半 なか ばにはアメリカ全土 ぜんど でレコードは年間 ねんかん 1億 おく 枚 まい 以上 いじょう を売 う り上 あ げるようになった。
電気 でんき 録音 ろくおん 導入 どうにゅう 以前 いぜん は歌手 かしゅ は声 こえ が大 おお きくなければならなかったが、マイクロフォン の導入 どうにゅう により、声量 せいりょう がなくてもマイクを効果 こうか 的 てき につかって表情 ひょうじょう が出 だ せるようになり、ビング・クロスビー などによってソフトにささやくようにうたうクルーニング唱法(クルーンには感傷 かんしょう 的 てき にうたうという意味 いみ もある)が広 ひろ まった。オペラのように、肉声 にくせい で遠 とお くまで響 ひび き渡 わた らせようとすると不可能 ふかのう なささやくような歌 うた い方 かた は、現在 げんざい のポピュラー曲 きょく でも多用 たよう されているが、音響 おんきょう ・録音 ろくおん 技術 ぎじゅつ の進歩 しんぽ と不可分 ふかぶん だった。やがてポピュラー音楽 おんがく は実演 じつえん のステージでさえも、拡声 かくせい 装置 そうち (Public Address )が切 き り離 はな せなくなっていく。
同 おな じく1920年代 ねんだい にはラジオ や映画 えいが が浸透 しんとう し始 はじ め、これがポピュラー音楽 おんがく を大衆 たいしゅう に伝 つた えるのに大 おお きな役割 やくわり を果 は たすことになる。ラジオは当初 とうしょ レコードと競合 きょうごう すると思 おも われていた。しかしレコードはラジオの番組 ばんぐみ 制作 せいさく 簡略 かんりゃく 化 か に貢献 こうけん しただけでなく、音楽 おんがく が放送 ほうそう されることによって、多 おお くの新 あら たなき手 きて を獲得 かくとく した。
映画 えいが 産業 さんぎょう は20世紀 せいき 初 はじ めの小規模 しょうきぼ の映画 えいが 館 かん の林立 りんりつ に始 はじ まった。1915-20年 ねん には多 おお くの映画 えいが 会社 かいしゃ がカリフォルニア州 しゅう ハリウッド に移 うつ り、映画 えいが の聖地 せいち となった。映画 えいが ははじめはサイレント(音声 おんせい なし)だったが、1926年 ねん にトーキー 映画 えいが が発明 はつめい され、映画 えいが に音 おと をつけることが出来 でき るようになると、まずミュージカル映画 えいが が大 だい 流行 りゅうこう する。また歌手 かしゅ や演奏 えんそう 者 しゃ の出演 しゅつえん がレコードの売 う れ行 ゆ きを左右 さゆう することから、主題歌 しゅだいか や挿入歌 そうにゅうか のタイアップがすすんだ。
ハリウッドの映画 えいが 各社 かくしゃ がシステム化 か されるにつれ、各社 かくしゃ とも音楽 おんがく 担当 たんとう の部署 ぶしょ を整備 せいび し、50人 にん 近 ちか いオーケストラを抱 かか えるようになり、映画 えいが のための音楽 おんがく を担当 たんとう するようになった。オーケストラによる後期 こうき ロマン派 は スタイルの映画 えいが 音楽 おんがく という形 かたち はこの頃 ころ に確立 かくりつ し、シンフォニック・スコアと呼 よ ばれている。映画 えいが 音楽 おんがく というジャンルは、このような中 なか から生 う まれてきた。
レコードの普及 ふきゅう は、音楽 おんがく のあり方 かた を大 おお きな変 か えた。世界 せかい 各地 かくち の音楽 おんがく は時間 じかん や場所 ばしょ をこえてより多 おお くの聴衆 ちょうしゅう に聞 き かれるようになり、ここまでに出 で てきた様々 さまざま なジャンルの音楽 おんがく が街 まち にあふれ、家庭 かてい に入 はい ってくるようになった。都市 とし 部 ぶ で商業 しょうぎょう 的 てき に制作 せいさく される音楽 おんがく (メイン・ストリームの音楽 おんがく )と地域 ちいき に密着 みっちゃく した民謡 みんよう などとの分離 ぶんり がすすんだ。
また、レコードやラジオや映画 えいが を通 つう じて特定 とくてい の演奏 えんそう 者 しゃ や歌手 かしゅ とむすびついた曲 きょく がくりかえしながれることで、音楽家 おんがくか がスター化 か していく。新 あたら しいスターをつくりだそうとする音楽 おんがく 産業 さんぎょう とき手 きて の好 この みの移 うつ り変 か わりを反映 はんえい して、流行 りゅうこう のサイクルやスターの寿命 じゅみょう がちぢまった。
さらに、音楽 おんがく が大量 たいりょう 生産 せいさん 向 む けに均質 きんしつ 化 か する傾向 けいこう や、き手 きて が受動 じゅどう 的 てき な消費 しょうひ 者 しゃ になる傾向 けいこう も出 で てきた。ミリオン・セラーの現象 げんしょう は、流行 りゅうこう 曲 きょく を次々 つぎつぎ と出 だ すことをレコード資本 しほん の目標 もくひょう にさせ、音楽 おんがく 産業 さんぎょう の主導 しゅどう 権 けん は楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん からレコードに移 うつ った。
ティン・パン・アレーの全盛期 ぜんせいき [ 編集 へんしゅう ]
こうした中 なか 、ティン・パン・アレーは1920-30年代 ねんだい に全盛期 ぜんせいき を迎 むか えた。当時 とうじ のヒット曲 きょく はほとんどすべてニューヨークを本拠地 ほんきょち とする一 いち 握 にぎ りの作曲 さっきょく 家 か と作詞 さくし 家 か がつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィン とアイラ・ガーシュウイン 、ロジャース とハマースタイン 、同 おな じくロジャースとロレンツ・ハート など、作曲 さっきょく 家 か と作詞 さくし 家 か は多 おお くの場合 ばあい コンビを組 く んで活動 かつどう した[31] 。
ヴォードヴィルは1928年 ねん に人気 にんき の絶頂 ぜっちょう を迎 むか え、1000あまりあったアメリカのヴォードヴィル劇場 げきじょう に、およそ200万 まん 人 にん の観客 かんきゃく が毎日 まいにち おしよせた[30] 。またチャールズ・チャップリン 、バスター・キートン 、マルクス兄弟 きょうだい といった、1910年代 ねんだい から20年代 ねんだい のスラップスティック・コメディ の有名 ゆうめい なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演 しゅつえん したのちに映画 えいが 産業 さんぎょう に入 はい り、ヴォードヴィルの伝統 でんとう を続 つづ けた[49] 。
ヴォードヴィルは30年代 ねんだい に入 はい ると映画 えいが に押 お されて落 お ち目 め になるが、かわって大衆 たいしゅう 芸能 げいのう の王座 おうざ についたブロードウェイ・ミュージカル のほか、ダンス・オーケストラの専属 せんぞく 歌手 かしゅ も、ティン・パン・アレーの歌 うた の普及 ふきゅう に貢献 こうけん した[31] 。先 さき に挙 あ げたロジャースやガーシュウィンも多 おお くのミュージカルをのこしている。
シカゴでは「ジャズ」ではなく「スイング・ミュージック 」と言 い う言葉 ことば を使 つか ったベニー・グッドマン が1935年 ねん にブレイクし、スイングの時代 じだい をもたらし、これは1940年代 ねんだい 初 はじ めまで続 つづ く。この頃 ころ の人気 にんき バンドは全 すべ て白人 はくじん だった。黒人 こくじん が演奏 えんそう するのは下品 げひん で喧騒 けんそう なジャズ、白人 はくじん がやるのはスマートで健康 けんこう 的 てき なスイング・ミュージックというのが、初 はじ めて陽 ひ のあたる場所 ばしょ へ出 で たジャズに対 たい する世人 せじん の受 う け止 と め方 かた だった[50] 。
ジャズはビッグバンド というトランペット・トロンボーンの金管楽器 きんかんがっき 6-8名 めい ・サックス中心 ちゅうしん の木管 もっかん 楽器 がっき 4-6名 めい ・ピアノ・ギター・ベース・ドラムなどのリズムセクション3、4名 めい が標準 ひょうじゅん 的 てき な編成 へんせい となり[51] 、4ビート・スイング・リフの使用 しよう ・各 かく メンバーの長大 ちょうだい なソロなどを特徴 とくちょう とする[52] 。ポピュラー界 かい のミュージシャンも、ジャズメンほど自由 じゆう な即興 そっきょう はおこなわなかったが、明 あき らかにジャズに特徴 とくちょう 的 てき なリズムとメロディをとりいれ[52] 、1930年代 ねんだい 初 はじ めには、ジャズの感覚 かんかく を吸収 きゅうしゅう した先 さき のビング・クロスビーがメイン・ストリームでは最高 さいこう の人気 にんき を占 し め[53] 、ポピュラー・シンガーがジャズ風 ふう の楽団 がくだん を伴奏 ばんそう に歌 うた うのはごくありふれたこととなった[14] 。社交 しゃこう ダンスの音楽 おんがく にもジャズの要素 ようそ が大幅 おおはば に取 と り入 い れられた[50] 。
メイン・ストリームとローカル [ 編集 へんしゅう ]
この時代 じだい は、1930年代 ねんだい 初頭 しょとう の大 だい 不況 ふきょう による落込 おちこ みはあったにせよ、アメリカの音楽 おんがく 業界 ぎょうかい が最 もっと も順調 じゅんちょう に進展 しんてん した、メイン・ストリーム音楽 おんがく の黄金 おうごん 時代 じだい だった。ここに挙 あ げた新 しん 技術 ぎじゅつ は全 すべ てポピュラー音楽 おんがく を大衆 たいしゅう に定着 ていちゃく させるのに貢献 こうけん した。しかし大衆 たいしゅう の興味 きょうみ をつねに引 ひ きつけることには、ティン・パン・アレーのプロダクションとプロモーションの手腕 しゅわん をもってしても限界 げんかい があり、例 たと えば1930年 ねん にキューバの「南京豆 なんきんまめ 売 う り 」がヒットしてルンバ ・ブームが突如 とつじょ 巻 ま き起 お こるなど、植民 しょくみん 地 ち 型 がた のポピュラー音楽 おんがく が国外 こくがい から入 はい ってきて人気 にんき を奪 うば い、音楽 おんがく 産業 さんぎょう がそれを追 お いかけるといった現象 げんしょう もしばしばあった[14] 。
このことは、メイン・ストリーム(ティン・パン・アレーのポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル、先進 せんしん 国 こく 型 がた のポピュラー音楽 おんがく )と、ローカルな民族 みんぞく 的 てき 基盤 きばん に基 もと づいた音楽 おんがく (ブルース・ラグタイム・ジャズなど、植民 しょくみん 地 ち 型 がた のポピュラー音楽 おんがく )のその後 ご の関係 かんけい を示 しめ している。ジャズがそうであったように、もともとはサブカルチャーだったものがメイン・ストリームに取 と りこまれ、音楽 おんがく 業界 ぎょうかい の生産 せいさん 様式 ようしき に組 く み込 こ まれてメイン・カルチャー化 か するという流 なが れである[14] 。
サブカルチャーは黒人 こくじん のものとは限 かぎ らない。1920年代 ねんだい 、レコード会社 かいしゃ が「ヒルビリー 」と言 い うレーベルで、南部 なんぶ の白人 はくじん 大衆 たいしゅう 向 む けにアメリカ民謡 みんよう に起源 きげん のある音楽 おんがく を売 う りだした。アメリカ民謡 みんよう に起源 きげん を持 も つメロディと、孤独 こどく 、貧困 ひんこん 、望郷 ぼうきょう など同 どう 時代 じだい のメイン・ストリームが取 と り上 あ げないテーマを含 ふく んだ歌詞 かし が共感 きょうかん を呼 よ んだ。27年 ねん にミシシッピ生 う まれのロジャーズ やカーター・ファミリー が評判 ひょうばん となり、以後 いご は急速 きゅうそく に商業 しょうぎょう 音楽 おんがく として成長 せいちょう した。映画 えいが の誕生 たんじょう 後 ご は西部 せいぶ 劇 げき でカウボーイ姿 すがた で歌 うた って人気 にんき を得 え る者 もの が多 おお く出 で て、西部 せいぶ 開拓 かいたく 時代 じだい への懐古 かいこ と田舎 いなか の生活 せいかつ への郷愁 きょうしゅう がこのジャンルの特徴 とくちょう となった[54] 。これはのちにカントリー&ウエスタン と呼 よ ばれるジャンルとなるが、白人 はくじん が担 にな い手 て でありながら、ローカルな下層 かそう 大衆 たいしゅう の音楽 おんがく であり、サブカルチャーとして始 はじ まり、後 のち にメイン・ストリームに取 と りこまれることになる[14] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんこう -1940年代 ねんだい ~1950年代 ねんだい 半 なか ば[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ のアメリカは、本土 ほんど が直接 ちょくせつ 攻撃 こうげき されることがほとんどなく[55] 、生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん の生産 せいさん や供給 きょうきゅう が滞 とどこお ることもなかったため、戦争 せんそう の国民 こくみん 生活 せいかつ への影響 えいきょう は比較的 ひかくてき 軽微 けいび であった[56] 。軍事 ぐんじ 増産 ぞうさん はむしろ景気 けいき を回復 かいふく させている[57] 。しかし国民 こくみん の1割 わり に当 あ たる1200万 まん 人 にん が兵士 へいし となり、多 おお くの軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう では女性 じょせい が工員 こういん として働 はたら くことになった[58] 。西海岸 にしかいがん では防空壕 ぼうくうごう 設置 せっち や灯火 ともしび 規制 きせい が行 おこな われた。食料 しょくりょう 品 ひん や日 にち 用品 ようひん の配給 はいきゅう 制 せい は他国 たこく 同様 どうよう 行 おこな われた[59] 。バーやダンスクラブの営業 えいぎょう 制限 せいげん が行 おこな われ、後述 こうじゅつ のようにジャズの在 あ り方 かた に大 おお きく影響 えいきょう している[50] 。軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう の発達 はったつ は南部 なんぶ から北部 ほくぶ などへの人口 じんこう 移動 いどう を生 う み、ヒルビリーやブルースやゴスペルなど南部 なんぶ に起源 きげん のある音楽 おんがく の人気 にんき を高 たか めた[60] 。1945年 ねん には大戦 たいせん が終結 しゅうけつ し、経済 けいざい 状況 じょうきょう も回復 かいふく したものの、冷戦 れいせん が固定 こてい 化 か し、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう や東西 とうざい の軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう も行 おこな われ、政治 せいじ 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき にはやや保守 ほしゅ 化 か した[61] 。
音楽 おんがく の関連 かんれん でいえば、ニューヨーク・フィル[62] やNBC交響 こうきょう 楽団 がくだん の演奏 えんそう は変 か わらず行 おこな われており、ブロードウェー・ミュージカルは新作 しんさく を提供 ていきょう し続 つづ けており[63] 、ビング・クロスビー[64] やフランク・シナトラ [65] は人気 にんき を集 あつ めており、ジャズ以外 いがい には明白 めいはく な負 まけ の影響 えいきょう はあまりなかったようである。1930年代 ねんだい から黄金 おうごん 期 き を迎 むか えていたハリウッド映画 えいが は戦争 せんそう プロパガンダ映画 えいが も制作 せいさく し、隆盛 りゅうせい は続 つづ いていた[66] 。
しかし、戦争 せんそう が大衆 たいしゅう の音楽 おんがく への嗜好 しこう に影響 えいきょう を与 あた えた可能 かのう 性 せい は容易 ようい に指摘 してき できる。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」(1942年 ねん )は現在 げんざい に至 いた るも世界 せかい 歴代 れきだい シングル売上 うりあげ 1位 い を崩 くず していない[67] が、これは憂鬱 ゆううつ さと家庭 かてい の癒 いや しのイメージの混在 こんざい が戦時 せんじ 中 ちゅう のリスナーの心 しん をとらえたためであり、米 べい 軍 ぐん 放送 ほうそう にはこの歌 うた のリクエストが殺到 さっとう したという[68] 。
愛国心 あいこくしん の高揚 こうよう はヒルビリーの国民 こくみん 的 てき 人気 にんき を後押 あとお しし、テネシー州 しゅう メンフィスがそのメッカとなった。代表 だいひょう にハンク・ウィリアムズ がいる[54] 。
厭戦 えんせん 気分 きぶん の高 たか まりは「長 なが い旅路 たびじ の果 は て、我 わ が家 や に帰 かえ る」という歌詞 かし を持 も つドリス・デイ の「センチメンタル・ジャーニー 」(1944年 ねん )を23週 しゅう 連続 れんぞく チャート1位 い に押 お し上 あ げた[69] 。
ジャズは基本 きほん 的 てき にはダンス・ミュージックとして演奏 えんそう されていたが、1941年 ねん の日米 にちべい 開戦 かいせん とともに戦時 せんじ 統制 とうせい によりダンスホールは高率 こうりつ 課税 かぜい の対象 たいしょう となり、また成人 せいじん 男子 だんし の多 おお くは徴兵 ちょうへい され、ビッグバンド編成 へんせい での大 だい 人数 にんずう の演奏 えんそう がほとんど不可能 ふかのう になってしまった。ジャズの編成 へんせい は3~8人 にん と少 しょう 人数 にんずう 化 か し、即興 そっきょう の腕 うで を競 きそ い合 あ うジャム・セッションを連日 れんじつ 繰 く り返 かえ す形 かたち になり、そこからアドリブ・ソロとビート感 かん を強調 きょうちょう するビバップ というジャンルが生 う まれた。チャーリー・パーカー はビバップの代表 だいひょう 人物 じんぶつ である[44] 。
ビバップはまとまりに欠 か けるきらいがあり、その要素 ようそ を受 う け継 つ ぎつつもそれ以前 いぜん のスウィングの要素 ようそ もとりいれ、冷静 れいせい な編曲 へんきょく に基 もと づいたなめらかでソフトな演奏 えんそう のスタイルのクール・ジャズ がニューヨークで生 う まれた[44] 。1949年 ねん のマイルス・デイヴィス 九 きゅう 重奏 じゅうそう 団 だん のアルバム「クールの誕生 たんじょう 」がその始 はじ まりだが、やがて朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の好 こう 況 きょう でわくロサンゼルスに拠点 きょてん を移 うつ しウェスト・コースト・ジャズ と呼 よ ばれるようになった[70] 。ロサンゼルスにはヨーロッパ音楽 おんがく の巨匠 きょしょう ミヨー やシェーンベルク がナチス迫害 はくがい を避 さ けて移住 いじゅう してきており、しばしば近代 きんだい 音楽 おんがく とジャズの融合 ゆうごう が真面目 まじめ に試 こころ みられた。ただし、これもどちらか言 い えば白人 はくじん 中心 ちゅうしん のジャズだった[44] 。
1940年代 ねんだい にはエレクトリック・ギター が急速 きゅうそく に普及 ふきゅう し、黒人 こくじん の音楽 おんがく で細々 こまごま と続 つづ いていたブルースが人口 じんこう 移動 いどう に伴 ともな って北部 ほくぶ の都市 とし に流入 りゅうにゅう し[60] 、エレクトリック・ギターを取 と り入 い れてビートを強調 きょうちょう しつつジャズとゴスペルの要素 ようそ を取 と り入 い れ、リズム・アンド・ブルース というジャンルを生 う み出 だ す[14] 。もともとこの言葉 ことば は、当時 とうじ レイス・ミュージック(人種 じんしゅ 音楽 おんがく )と呼 よ ばれていた黒人 こくじん 音楽 おんがく [71] の新 あたら しい呼 よ び名 な として考 かんが えられたものだった[72] 。ジャズは当初 とうしょ は黒人 こくじん の音楽 おんがく だったが、白人 はくじん のジャズ・プレイヤーが大量 たいりょう に登場 とうじょう したり、メイン・ストリームの音楽 おんがく となって商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 路線 ろせん に乗 の っかったり、ダンス・ミュージックとして洗練 せんれん されたり、クラシックとの接点 せってん が発生 はっせい したり[44] と、もとの黒人 こくじん 音楽 おんがく の活気 かっき とはかけ離 はな れたものになっていた。このリズム・アンド・ブルースはそういった中 なか で登場 とうじょう し、当 とう の黒人 こくじん だけでなく白人 はくじん の若者 わかもの も熱狂 ねっきょう して聴 き きあるいは踊 おど るという現象 げんしょう が起 お きた[14] 。ビッグ・ジョー・ターナー はリズム・アンド・ブルースの初期 しょき の代表 だいひょう 的 てき 人物 じんぶつ である。
戦後 せんご のヨーロッパでは、フランスのシャンソンのエディット・ピアフ 、イタリアのカンツォーネ歌手 かしゅ のドメニコ・モドゥーニョ が人気 にんき を集 あつ めた。スペインではフラメンコ 歌手 かしゅ が人気 にんき を集 あつ め、アフリカ・西 にし アジア・インド・東南 とうなん アジアなどでもポピュラー音楽 おんがく 界 かい に大物 おおもの が登場 とうじょう している。日本 にっぽん では美空 みそら ひばり が登場 とうじょう し、それまでのややぎこちない日本 にっぽん 歌謡 かよう に新風 しんぷう を吹 ふ き込 こ んだ。またキューバのバンドリーダーのペレス・プラード がアメリカに持 も ち込 こ んだマンボ は若者 わかもの を熱狂 ねっきょう させた。この時代 じだい を中村 なかむら とうよう は「世界 せかい ポピュラー音楽 おんがく の黄金 おうごん 期 き 」と書 か いている[13] 。
こうした中 なか 、マントヴァーニ (イギリス)、パーシー・フェイス (カナダ)、フランク・プゥルセル (フランス)らクラシックの教育 きょういく を受 う けたミュージシャンが、自身 じしん のオーケストラを率 ひき いてムード音楽 おんがく (のちにイージーリスニング と呼 よ ばれる[73] )を拓 ひら く。器楽 きがく 曲 きょく でありながら、全米 ぜんべい ヒットチャート上位 じょうい にたびたび食 く い込 こ んだ[74] [75] [76] 。
ハリウッドは戦後 せんご 、独占 どくせん 禁止 きんし 法 ほう の適用 てきよう によるグループ解体 かいたい と赤狩 あかが りの標的 ひょうてき になったことによる優秀 ゆうしゅう なスタッフの追放 ついほう 、郊外 こうがい 人口 じんこう の増加 ぞうか とテレビの浸透 しんとう による人々 ひとびと の生活 せいかつ 様式 ようしき の変化 へんか が重 かさ なり危機 きき を迎 むか えるが、作品 さくひん そのものは名作 めいさく がつくられ続 つづ け、西部 せいぶ 劇 げき やミュージカル映画 えいが の傑作 けっさく (「雨 あめ に歌 うた えば 」など)と数々 かずかず のスター(フレッド・アステア やジュディ・ガーランド 、ジーン・ケリー など)が生 う まれ続 つづ けた[77] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんこう からロック・アンド・ロールが台頭 たいとう するあたりにかけて時期 じき に作 つく られた作品 さくひん 群 ぐん は、今日 きょう においてスタンダードとみなされているものが多 おお い。詳細 しょうさい についてはスタンダード の項目 こうもく も参照 さんしょう のこと。
新 しん 技術 ぎじゅつ とポピュラー音楽 おんがく ②[ 編集 へんしゅう ]
レコードの進化 しんか ・テープレコーダーの登場 とうじょう [78] [ 編集 へんしゅう ]
レコードの技術 ぎじゅつ としては、1945年 ねん に高 たか い周波数 しゅうはすう ほど大 おお きく録音 ろくおん し再生 さいせい 時 じ に電気 でんき 的 てき に調整 ちょうせい して音質 おんしつ を高 たか める技術 ぎじゅつ のプリエンファシスが開発 かいはつ され、48年 ねん ごろからはそれまでのSPレコードに代 か わってLPレコードが用 もち いられるようになり、50年代 ねんだい 以降 いこう はステレオ録音 ろくおん が登場 とうじょう し、「原音 げんおん に忠実 ちゅうじつ 」と言 い う意味 いみ の略語 りゃくご のHi-Fiがマーケティングに使 つか われるようになった。同 おな じく50年代 ねんだい 以降 いこう は磁気 じき テープによる録音 ろくおん が普及 ふきゅう し、生 なま 演奏 えんそう だけによらない音楽 おんがく づくりに道 みち を開 ひら いた。
アメリカでは41年 ねん にテレビ 放送 ほうそう の規格 きかく が決 き められ、45年 ねん と50年 ねん には新 しん 技術 ぎじゅつ が開発 かいはつ されて画質 がしつ が向上 こうじょう し、普及 ふきゅう に拍車 はくしゃ がかかった。その結果 けっか 、55年 ねん にはテレビ普及 ふきゅう 率 りつ はアメリカの家庭 かてい の67%に達 たっ した[79] 。48年 ねん からはエド・サリヴァン・ショー が始 はじ まり、多 おお くのミュージシャンが登場 とうじょう した[80] 。
ロックの誕生 たんじょう と沈滞 ちんたい -1950年代 ねんだい 半 なか ば[81] [ 編集 へんしゅう ]
リズム・アンド・ブルースは白人 はくじん の若者 わかもの をも熱狂 ねっきょう させたが、これを見 み た白人 はくじん の一部 いちぶ がリズム・アンド・ブルースの感覚 かんかく を取 と り入 い れる動 うご きが見 み られ始 はじ める。白人 はくじん のビル・ヘーリー は54年 ねん に「シェーク・ラトル・アンド・ロール」と「ロック・アラウンド・ザ・クロック 」を録音 ろくおん したが、前者 ぜんしゃ は先 さき のビッグ・ジョー・ターナー 、後者 こうしゃ はソニー・デー のレコードの模倣 もほう で、どちらもオリジナルは黒人 こくじん であった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は翌 よく 55年 ねん に映画 えいが 「暴力 ぼうりょく 教室 きょうしつ 」に用 もち いられ、大 だい ヒットとなった。
同 おな じ54年 ねん にはメンフィスの電機 でんき 会社 かいしゃ の運転 うんてん 手 しゅ だったエルヴィス・プレスリー が地元 じもと の小 ちい さなレコード会社 かいしゃ から「ザッツ・オール・ライト 」を出 だ したが、これも黒人 こくじん のアーサー・クルーダップ の作品 さくひん であった。
こうして生 う まれてきた新 あたら しい音楽 おんがく は、ラジオのディスクジョッキー をしていたアラン・フリード によって「ロック・アンド・ロール 」と呼 よ ばれた。ロック の誕生 たんじょう である。
ロックは、リズム・アンド・ブルースの要素 ようそ が一番 いちばん 強 つよ く、そこにヒルビリーやポピュラー・ソングの要素 ようそ が融合 ゆうごう して生 う まれた。先 さき のヘーリーやプレスリーはヒルビリーの要素 ようそ が強 つよ く、またプレスリーは好 す きな歌手 かしゅ としてフランク・シナトラを挙 あ げており、ポピュラー・ソングの伝統 でんとう も受 う け継 つ いでいる。このため、ヒルビリーの要素 ようそ が強 つよ いと「ロカビリー 」(ロック+ヒルビリー、プレスリーなど)、ポピュラー・ソングの要素 ようそ が強 つよ いと「ロッカバラード 」(ロック+バラード、ポール・アンカ など)などの派生 はせい 語 ご が生 う まれたため、60年代 ねんだい になると、それらの全体 ぜんたい を呼 よ ぶ言葉 ことば がロック、1950年代 ねんだい 中葉 ちゅうよう の初期 しょき のロックを指 さ す言葉 ことば がロックンロール、と使 つか い分 わ けるのが一般 いっぱん 的 てき となった。
ロックは、命名 めいめい 者 しゃ であるアラン・フリードやプロモーターの尽力 じんりょく によって、独立 どくりつ 系 けい 小 しょう レーベルでレコード化 か されたが、経済 けいざい 的 てき に恵 めぐ まれるようになっていた10代の若者 わかもの に想像 そうぞう をはるかに超 こ える支持 しじ を受 う けた[82] 。
大手 おおて レコード会社 かいしゃ もさっそくこのジャンルに目 め をつけ、プレスリーは早 はや くも大手 おおて のRCAレコード に引 ひ き抜 ぬ かれ、56年 ねん には「ハートブレイク・ホテル 」の大 だい ヒットを生 う んだ。プレスリーは「史上 しじょう 最 もっと も成功 せいこう したソロ・アーティスト」(ギネス・ワールド・レコーズ)とされ、全米 ぜんべい No1ヒット曲 きょく 数 すう 歴代 れきだい 2位 い 、週間 しゅうかん 数 すう 歴代 れきだい 1位 い など、記録 きろく には事欠 ことか かない。その後 ご を追 お って誕生 たんじょう したのが先 さき の「ロカバラード」で、これは旧来 きゅうらい のメイン・ストリームの「プロの作詞 さくし 家 か ・作曲 さっきょく 家 か がヒットをねらって書 か いた曲 きょく でレコードを作 つく り、ラジオやテレビなどのメディアでうまく宣伝 せんでん して広 ひろ めていくという商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 」そのもので作 つく られた。
ロックの誕生 たんじょう は「白人 はくじん の若者 わかもの の欲求 よっきゅう 不満 ふまん を白人 はくじん 文化 ぶんか では吸収 きゅうしゅう しきれなくて黒人 こくじん 文化 ぶんか に頼 たよ らざるをえず、黒人 こくじん 底辺 ていへん 文化 ぶんか の価値 かち 観 かん を白人 はくじん 若年 じゃくねん 層 そう が大幅 おおはば に取 と り入 い れたという、前例 ぜんれい をみないラディカルな社会 しゃかい 現象 げんしょう だった」と世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん の「ロック」の項 こう で中村 なかむら とうようが評 ひょう しているが、せっかく誕生 たんじょう したロックはこうしてすぐに商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ に取 と り込 こ まれてしまった。ロックの立役者 たてやくしゃ だったフリードも、音楽 おんがく 業界 ぎょうかい から放送 ほうそう 関係 かんけい 者 しゃ に贈 おく られていたペイオーラが賄賂 わいろ とされ、59年 ねん と60年 ねん に連邦 れんぽう 議会 ぎかい (下院 かいん )で開 ひら かれた聴聞 ちょうもん 会 かい で疑惑 ぎわく の張本人 ちょうほんにん として取 と りざたされ、大 だい スキャンダルとなった。こうした事情 じじょう から、ロックンロールの全盛期 ぜんせいき は54年 ねん から59年 ねん までの5年間 ねんかん しか続 つづ かなかった[83] 。
初期 しょき ロックの影響 えいきょう と同 どう 時代 じだい 現象 げんしょう [ 編集 へんしゅう ]
ちょうどこの頃 ころ は奴隷 どれい 解放 かいほう 後 ご も解消 かいしょう されない差別 さべつ (人種 じんしゅ 隔離 かくり 制度 せいど と制度 せいど 的 てき 差別 さべつ 体系 たいけい )に苦 くる しんでいた黒人 こくじん たちが公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう を開始 かいし した時期 じき である[84] 。
ニューヨークの黒人 こくじん ジャズが復活 ふっかつ し、ハード・バップ またはモダン・ジャズ と呼 よ ばれた。公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう にあわせ、黒人 こくじん 側 がわ からのラディカルな抗議 こうぎ を表明 ひょうめい する曲 きょく が書 か かれ、また原点 げんてん 回帰 かいき とばかりにブルースやゴスペルの要素 ようそ を取 と り入 い れ、その演奏 えんそう には黒人 こくじん の体臭 たいしゅう を意味 いみ する〈ファンキー funky〉という形容詞 けいようし がつけられた[44] 。マイルス・デイヴィス は初期 しょき の代表 だいひょう 者 しゃ だが、クール・ジャズの創始 そうし 者 しゃ でもある[85] 。
初期 しょき のロックンロールはリズム・アンド・ブルースとほとんど変 か わらなかったが、白人 はくじん のロックンロール歌手 かしゅ が増 ふ えてくるにつれ、リズム・アンド・ブルースは、よりゴスペルなどのアフリカン・アメリカンの要素 ようそ を取 と り込 こ み、ソウル(ソウルミュージック )と呼 よ ばれるようになった。レイ・チャールズ はソウルの発展 はってん に大 おお きく貢献 こうけん した[86] 。社会 しゃかい 背景 はいけい 的 てき には先 さき に挙 あ げた公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう があった[87] 。
ロックンロールの登場 とうじょう に刺激 しげき されてヒルビリーも電気 でんき 楽器 がっき をとりいれ、より洗練 せんれん されたアレンジを用 もち いるようになる。それにともない、レコード会社 かいしゃ は従来 じゅうらい の「ヒルビリー」にかえて「カントリー・アンド・ウェスタン 」のレーベル名 めい を導入 どうにゅう した[88] 。
メイン・ストリームでは、ポピュラー・ソングが最後 さいご の最盛 さいせい 期 き を迎 むか えており、フランク・シナトラやペリー・コモ がテレビにも進出 しんしゅつ しつつ活躍 かつやく した[89] 。このころミュージカル映画 えいが はテレビに押 お され始 はじ め、制作 せいさく 費 ひ の高騰 こうとう で本数 ほんすう も減 へ り黄金 おうごん 時代 じだい は終 お わりを告 つ げる。「ウエスト・サイド物語 ものがたり 」(1961年 ねん )「マイ・フェア・レディ 」(1964年 ねん )「サウンド・オブ・ミュージック 」(1965年 ねん )などは最後 さいご のミュージカル映画 えいが のヒット作 さく である[90] 。
ポピュラー音楽 おんがく 史上 しじょう 最大 さいだい の多様 たよう 化 か -1960年代 ねんだい ~1970年代 ねんだい 前半 ぜんはん [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご のベビーブーム で生 う まれた世代 せだい がティーンから成人 せいじん を迎 むか えるこの頃 ころ 、依然 いぜん として冷戦 れいせん やベトナム戦争 せんそう が続 つづ き、一向 いっこう に戦争 せんそう を反省 はんせい していないように見 み える社会 しゃかい や国家 こっか に対 たい し、世界 せかい 的 てき に若者 わかもの たちによる異議 いぎ 申 もう し立 た ての行動 こうどう が活発 かっぱつ で、世界 せかい 各国 かっこく で大学 だいがく 紛争 ふんそう が盛 さか んだった[91] 。若者 わかもの はこのような共通 きょうつう 体験 たいけん から一 ひと つの「世代 せだい 」として認知 にんち され、彼 かれ らの主張 しゅちょう や考 かんが え方 かた は「若者 わかもの 文化 ぶんか 」と呼 よ ばれた[92] 。若者 わかもの の重視 じゅうし は音楽 おんがく の世界 せかい が先 さき んじており、戦前 せんぜん のポピュラー音楽 おんがく が基本 きほん 的 てき に大人 おとな を対象 たいしょう にしたメインカルチャーだったのに対 たい し、50年代 ねんだい 後半 こうはん のロックンロールでは明 あき らかに始 はじ めから若者 わかもの をターゲットにした曲 きょく が多 おお く作 つく られ、歌詞 かし も恋愛 れんあい や私生活 しせいかつ 、自己 じこ 実現 じつげん の悩 なや みなど10代の若者 わかもの の主要 しゅよう な関心事 かんしんじ をテーマにしていた[82] 。
ピート・シーガー はウディ・ガスリー らと組 く んで、1940年代 ねんだい から民謡 みんよう 風 ふう のメロディーに乗 の せてプロテスト・ソング (社会 しゃかい の中 なか の不公平 ふこうへい や不正 ふせい を告発 こくはつ し抗議 こうぎ する歌 うた )を歌 うた っていたが、1950年 ねん の「おやすみアイリーン 」が大 だい ヒットし、この影響 えいきょう を受 う けたザ・キングストン・トリオによる古 ふる い民謡 みんよう のリメーク「トム・ドゥーリー 」(1958年 ねん )が大 だい ヒットして、フォークソング は完全 かんぜん にポピュラー音楽 おんがく の一 いち 部門 ぶもん を占 し めるにいたった。次 つ いでボブ・ディラン が「風 ふう に吹 ふ かれて 」を62年 ねん に発表 はっぴょう し、公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう の中 なか で広 ひろ く歌 うた われた。フォークソングはロックとは対照 たいしょう 的 てき に、中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう の大学生 だいがくせい に支持 しじ され、清潔 せいけつ で知的 ちてき なイメージでもてはやされた。
60年代 ねんだい 初 はじ めには、音楽 おんがく 産業 さんぎょう がロックンロールと銘 めいじ うって売 う りだす音楽 おんがく の大半 たいはん が、ロックンロールの物 もの まねにすぎなくなっていた。プロの作曲 さっきょく 家 か がつくった曲 きょく をアイドル型 がた クルーナーが歌 うた い、スタジオ・ミュージシャン の伴奏 ばんそう で録音 ろくおん した。これはティン・パン・アレーの旧来 きゅうらい のやり方 かた そのものであった。
沈滞 ちんたい していたロックは、イギリスからの動 うご きで息 いき を吹 ふ き返 かえ した。62年 ねん 、ビートルズ 、ローリング・ストーンズ 、アニマルズ など多 おお くのグループがロックの原点 げんてん を取 と り戻 もど し、アメリカの若者 わかもの にも熱狂 ねっきょう 的 てき に迎 むか えられた。これはブリティッシュ・インヴェイジョン (イギリスのグループの襲来 しゅうらい )と言 い われる。それに呼応 こおう して、64年 ねん にビーチ・ボーイズ がカリフォルニアから出 で た。カリフォルニアはフォーク・ソングも盛 さか んであり、またサンフランシスコとその周辺 しゅうへん のヒッピー が新 あたら しい若者 わかもの 文化 ぶんか をつくり出 だ していたが、そうした土壌 どじょう から新 あたら しいロックが盛 も り上 あ がった。新 あたら しいロックに関 かん して、『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 』のロックの項 こう で中村 なかむら とうよう は「無 む 教養 きょうよう な若者 わかもの の衝動 しょうどう に発 はっ したロックは、10年 ねん 後 ご に知的 ちてき な性格 せいかく を帯 お び、運動 うんどう の側面 そくめん を備 そな えたものとして、より広範 こうはん な社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき する形 かたち で再生 さいせい した。歌詞 かし は10代の感傷 かんしょう を歌 うた う単純 たんじゅん なものから,社会 しゃかい 批評 ひひょう 性 せい をもったり、哲学 てつがく 的 てき に思索 しさく したりするものに成長 せいちょう した」と評 ひょう している[94] 。
60年代 ねんだい 後半 こうはん は、ロックがメイン・ストリームに食 く い込 こ み、多様 たよう 化 か していく時期 じき となる[95] 。ブリティッシュ・インベージョン以前 いぜん は弾圧 だんあつ の対象 たいしょう だったロックは[94] 、大 だい 規模 きぼ 化 か したレコード産業 さんぎょう の後押 あとお しを受 う け、多種 たしゅ 多様 たよう なスタイルとなった[83] 。
ヒッピーにつきものだった麻薬 まやく やLSDからは、サイケデリック・ロック が生 う まれた。代表 だいひょう はグレイトフル・デッド [96] 。幻覚 げんかく 体験 たいけん を音楽 おんがく で表現 ひょうげん しようとするもので、多 おお くのミュージシャンがサイケデリック・ロックに傾倒 けいとう したが、LSDの所持 しょじ の禁止 きんし ・それに伴 ともな うヒッピー文化 ぶんか の衰退 すいたい ・麻薬 まやく によるアーティストの死 し などにより衰退 すいたい し、アーティストたちは実験 じっけん 的 てき な音楽 おんがく を特徴 とくちょう とするプログレッシブ・ロック に移行 いこう し、クラシック系 けい の現代 げんだい 音楽 おんがく と影響 えいきょう しあうような作品 さくひん まで書 か かれている。ピンク・フロイド などが有名 ゆうめい である。
フォークソングやカントリー・ミュージックのアーティストたちも、ロックへの接近 せっきん が見 み られた。フォークシンガーだったボブ・ディランがエレクトリック・ギターを用 もち いてフォーク・ロック というジャンルを開 ひら き、賛否 さんぴ 両論 りょうろん を巻 ま き起 お こす。同様 どうよう にカントリー音楽 おんがく の要素 ようそ を入 い れたロックもバーズ などによって開 ひら かれ、ジャンルの垣根 かきね を取 と り払 はら った。
イギリスでは黒人 こくじん ギタリストによるブルースを白人 はくじん が模倣 もほう し、ブルース・ロック が生 う まれる。元 もと がギターブルースであるため、エレクトリック・ギターの長大 ちょうだい な即興 そっきょう を特徴 とくちょう としている。エリック・クラプトン を中心 ちゅうしん とするクリーム などが代表 だいひょう 。このジャンルはやがて「最 もっと もロックらしいロック」[97] や「ロックの主流 しゅりゅう 」[98] と呼 よ ばれるハード・ロック (ディープ・パープル 、レッド・ツェッペリン 、ブラック・サバス など)、さらにはヘヴィメタル などへと続 つづ いていく。
多少 たしょう 遅 おく れて70年代 ねんだい 初頭 しょとう のイギリスでは、デヴィッド・ボウイ やT・レックス のマーク・ボラン らが、妖艶 ようえん な化粧 けしょう と衣装 いしょう で中性 ちゅうせい 的 てき なイメージをふりまき、退廃 たいはい とクールさが入 はい り混 ま ざったロックの新 しん 感覚 かんかく を示 しめ して流行 りゅうこう となった。これは魅惑 みわく 的 てき (glamorous)からグラム・ロックと呼 よ ばれる(ただし、英 えい 米 べい では通常 つうじょう グリッター・ロック=けばけばしいロックと言 い われる)。初期 しょき のエルトン・ジョン もステージで奇抜 きばつ な衣装 いしょう やメガネをつけるなどして、グラム・ロックを象徴 しょうちょう した[100] 。派手 はで な化粧 けしょう をしたバンドはその後 ご もたびたび現 あらわ れており、後 ご のロックに与 あた えた影響 えいきょう は少 すく なくない。
多様 たよう 化 か したロックの影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
ロックの影響 えいきょう は世界 せかい に及 およ んでおり、例 たと えば日本 にっぽん では65年 ねん のベンチャーズ、66年 ねん のビートルズ来日 らいにち 以後 いご にグループ・サウンズ やカレッジ・フォークがブームとなりアマチュア音楽 おんがく の裾野 すその を広 ひろ げ、72年 ねん 以降 いこう のフォーク系 けい シンガーソングライター (吉田 よしだ 拓郎 たくろう ・井上 いのうえ 陽水 ようすい など)および75年 ねん ごろからの女性 じょせい シンガーソングライター(荒井 あらい 由実 ゆみ ・矢野 やの 顕子 あきこ ・中島 なかじま みゆき など)の活躍 かつやく につながった[101] 。
フランスではロックの影響 えいきょう のもと、ジョニー・アリディ やシルヴィ・ヴァルタン などの音楽 おんがく がイェイェと呼 よ ばれて人気 にんき を集 あつ めた。セルジュ・ゲンスブール のプロデュースしたフランス・ギャル の「夢見 ゆめみ るシャンソン人形 にんぎょう 」はユーロビジョン・ソング・コンテスト の優勝 ゆうしょう 曲 きょく である。活躍 かつやく した女性 じょせい 歌手 かしゅ たちはフレンチ・ロリータ と呼 よ ばれた[102] 。
ヨーロッパでは、ロックやリズム・アンド・ブルースが広 ひろ く聴 き かれるようになったのみならず、大量 たいりょう 販売 はんばい をめざす大手 おおて レコード会社 かいしゃ は、ビートルズ・ブーム以降 いこう 、ロック的 てき な音楽 おんがく を国際 こくさい 的 てき な主力 しゅりょく 商品 しょうひん にすえた[102] 。このようなロックの影響 えいきょう を受 う けた新 あたら しい若者 わかもの 向 む け音楽 おんがく のスタイルを説明 せつめい するための言葉 ことば として、イギリスでポップ(ポップ・ミュージック )と言 い う言葉 ことば が使 つか われ始 はじ めた[103] 。ヨーロッパ各地 かくち でも、それにならった英語 えいご の音楽 おんがく がつくられはじめた。このためヨーロッパでヒットする音楽 おんがく の5~6割 わり が英 えい 米 べい の音楽 おんがく で、ユーロビジョン・ソング・コンテスト の優勝 ゆうしょう 者 しゃ も過半数 かはんすう が英語 えいご で歌 うた っている(1974年 ねん 優勝 ゆうしょう のスウェーデンのABBA など)。このように英 えい 米 べい のポピュラー音楽 おんがく の影響 えいきょう 下 か にあるヨーロッパ産 さん のポピュラー音楽 おんがく をユーロ・ポップ と呼 よ ぶ場合 ばあい がある[102] 。
東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の多 おお くはロックを資本 しほん 主義 しゅぎ の退廃 たいはい を象徴 しょうちょう する音楽 おんがく として弾圧 だんあつ したため、ロックの影響 えいきょう は地下 ちか 化 か した[104] 。
1960年 ねん はアフリカの年 とし と呼 よ ばれ多 おお くの国 くに が独立 どくりつ したが、アフリカ独立 どくりつ とロックの世界 せかい 的 てき な流行 りゅうこう は、アフリカにエレキ・ギターの急速 きゅうそく な普及 ふきゅう をもたらし、ナイジェリアではフェラ・クティ が現 あらわ れる。クティはジャズとファンクを参照 さんしょう しつつ強烈 きょうれつ な政治 せいじ 的 てき 発言 はつげん を盛 も り込 こ んだ音楽 おんがく を作 つく り上 あ げ、自 みずか らアフロ・ビート と呼 よ んだ。目 め の前 まえ の不正 ふせい を強烈 きょうれつ に告発 こくはつ する歌詞 かし は当局 とうきょく の弾圧 だんあつ を生 う んだが、クティはさらに強烈 きょうれつ な表現 ひょうげん で今度 こんど はその弾圧 だんあつ を歌 うた にした。後続 こうぞく は現 あらわ れなかったが、アフリカ起源 きげん のアフロ・ビートと言 い うジャンルは全 ぜん 世界 せかい に広 ひろ がった[13] 。
メイン・ストリームそのもののようなミュージカルでも、ロックを取 と り入 い れた作品 さくひん がいくつもつくられたが、この時期 じき のミュージカルは筋 すじ らしい筋 すじ がなく、文学 ぶんがく 性 せい を喪失 そうしつ するなど迷走 めいそう が見 み られる[43] 。
映画 えいが 音楽 おんがく とイージー・リスニング[ 編集 へんしゅう ]
シンフォニック・スコア全盛 ぜんせい だった映画 えいが 音楽 おんがく 界 かい は、テレビの台頭 たいとう によって衝撃 しょうげき を受 う けた。ヘンリー・マンシーニ やジョン・ウィリアムズ はテレビで腕 うで を磨 みが き、映画 えいが 音楽 おんがく で活躍 かつやく した人 ひと たちだが、彼 かれ らはそれまでの映画 えいが 音楽 おんがく の伝統 でんとう にとらわれることなく、時代 じだい を反映 はんえい した革新 かくしん 的 てき な音楽 おんがく を映画 えいが に取 と り入 い れた。1960年代 ねんだい はヨーロッパ勢 ぜい が活躍 かつやく しており、「007 」のジョン・バリー 、「シェルブールの雨傘 あまがさ 」のミシェル・ルグラン 、「男 おとこ と女 おんな 」のフランシス・レイ 、「荒野 あらの の用心棒 ようじんぼう 」のエンニオ・モリコーネ 、「ゴッド・ファーザー 」のニーノ・ロータ らがいる。また誕生 たんじょう して間 あいだ もないロックを映画 えいが 音楽 おんがく に取 と り入 い れる試 こころ みも行 おこな われ、「卒業 そつぎょう 」や「イージー・ライダー 」は当時 とうじ の有名 ゆうめい なロックをテーマ曲 きょく としていた[105] 。
ムード音楽 おんがく は1970年代 ねんだい 以降 いこう 、アメリカの音楽 おんがく 業界 ぎょうかい 紙 し の表記 ひょうき に習 なら ってイージー・リスニングと呼 よ ばれるようになる。駅 えき やデパートなどでのBGM使用 しよう は一般 いっぱん 化 か し、単純 たんじゅん 労働 ろうどう の作業場 さぎょうば でのBGMの活用 かつよう が研究 けんきゅう されるなど、この時代 じだい は音楽 おんがく を人間 にんげん 工学 こうがく 的 てき に利用 りよう しようと言 い う社会 しゃかい 的 てき な動 うご きが存在 そんざい した[73] 。この頃 ころ ポール・モーリア が登場 とうじょう し、68年 ねん に「恋 こい はみずいろ 」でビルボード・ホット100で5週 しゅう 連続 れんぞく 1位 い を獲得 かくとく し[106] 、年間 ねんかん チャートでも3位 い に入 はい っている[107] が、先述 せんじゅつ のヘンリー・マンシーニやミシェル・ルグランやフランシス・レイやニーノ・ロータの映画 えいが 音楽 おんがく もイージー・リスニングとしても聴 き かれている。
R&Bとジャズの動向 どうこう [ 編集 へんしゅう ]
黒人 こくじん たちの音楽 おんがく では、リズム・アンド・ブルースから発展 はってん したソウル・ミュージック の中 なか に、ゴスペルを基盤 きばん とする熱唱 ねっしょう 系 けい の歌 うた や、ハードバップに起源 きげん がある強烈 きょうれつ な16ビートを特徴 とくちょう とするファンク などが現 あらわ れる。熱唱 ねっしょう 系 けい の代表 だいひょう はアレサ・フランクリン 、ファンクの代表 だいひょう にジェームス・ブラウン やアース・ウインド&ファイアー がいる[108] 。
一方 いっぽう 、ジャズはロック人気 にんき に押 お され、商業 しょうぎょう 的 てき な危機 きき を迎 むか えたため、ジャズ・ミュージシャンの中 なか にはソウルミュージシャンの音楽 おんがく を手本 てほん にする動 うご きが出 で てきて、フュージョン が生 う まれる。これは当初 とうしょ はファンク・ジャズやソウル・ジャズ と呼 よ ばれていた。代表 だいひょう 者 しゃ はマイルス・デイヴィス である。エレクトリック・ギターなどの電子 でんし 楽器 がっき を導入 どうにゅう しての斬新 ざんしん なサウンドは、古 ふる くからのジャズファンは眉 まゆ をひそめたが、ジャズと言 い うジャンルの延命 えんめい をもたらした[109] 。
その他 た 、ジャズの分野 ぶんや ではコード進行 しんこう を無視 むし したような過激 かげき な即興 そっきょう を特徴 とくちょう とするフリー・ジャズ やモード・ジャズ が行 おこな われているが、クラシック音楽 おんがく の現代 げんだい 音楽 おんがく 同様 どうよう 、技法 ぎほう 的 てき には新 あたら しいもののあまり多 おお くの人 ひと に受 う け入 い れられたとは言 い えず、ジャズは以後 いご 伝統 でんとう 回帰 かいき と多様 たよう 化 か の時代 じだい となっていく。フリージャズの開拓 かいたく 者 しゃ にオーネット・コールマン がおり、モード・ジャズはまたもやマイルス・デービスが切 き り開 ひら いた[44] 。
アメリカのすぐ近 ちか く、カリブ海 かりぶかい に浮 う かぶジャマイカ は1962年 ねん にようやく独立 どくりつ を果 は たすが、伝統 でんとう 的 てき なカリブ海 かりぶかい の音楽 おんがく がアメリカのソウル・ミュージックなどの影響 えいきょう を受 う け、レゲエ が生 う まれる。レゲエはやがて60年代 ねんだい 後半 こうはん にアメリカに持 も ち込 こ まれ、ソウル・ミュージックが失 うしな ってしまった精神 せいしん 的 てき なメッセージの純粋 じゅんすい さにより世界 せかい の若者 わかもの をとりこにするまでになる。ボブ・マーリー が代表 だいひょう 。同様 どうよう に、プエルトリコで生 う まれたサルサ は70年代 ねんだい 初 はじ めにアメリカを席巻 せっけん する[110] 。
新 しん 技術 ぎじゅつ とポピュラー音楽 おんがく ③[ 編集 へんしゅう ]
61年 ねん にはアメリカ連邦 れんぽう 通信 つうしん 委員 いいん 会 かい (FCC)がFMのステレオ技術 ぎじゅつ を規格 きかく 化 か して数 すう 百 ひゃく のFM局 きょく が開局 かいきょく していたが[111] 、66年 ねん にはFMの放送 ほうそう 内容 ないよう をAMと分離 ぶんり することを決定 けってい し、FM放送 ほうそう の視聴 しちょう 者 しゃ が増 ふ えるきっかけとなった[112] 。FM放送 ほうそう はAM放送 ほうそう に比 くら べ音質 おんしつ が高 たか く、より高 たか い音質 おんしつ で音楽 おんがく を楽 たの しみたいという欲求 よっきゅう を喚起 かんき し、オーディオ機器 きき の普及 ふきゅう をもたらした[113] 。
テープレコーダー はオープンリール式 しき のものが主 おも に業務 ぎょうむ 用 よう で使 つか われていたが、63年 ねん にオランダのフィリップスがカセットテープ の規格 きかく を開発 かいはつ ・公開 こうかい し、世界 せかい 各国 かっこく で普及 ふきゅう し、テープそのものやカセットの機械 きかい 的 てき 構造 こうぞう が改良 かいりょう されて、オーディオ用 よう としてもつかわれるようになった。
エレクトリック・ギターは当初 とうしょ はクリーンなサウンドで、アンプを通 とお すことで単 たん に音量 おんりょう を上 あ げて弾 ひ かれていたが、ロックのギタリストたちはアンプの容量 ようりょう 最大 さいだい に音量 おんりょう を上 あ げると発生 はっせい する音 おと の歪 ゆが み(ひずみ)を発見 はっけん し、音楽 おんがく の素材 そざい として活用 かつよう を始 はじ めた。60年代 ねんだい 後半 こうはん のエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックス やジェフ・ベック はアンプの音量 おんりょう を最大 さいだい にして歪 いが ませることでロックなサウンドを生 う み出 だ していた。やがて人工 じんこう 的 てき に歪 ゆが みをつくりだす装置 そうち のエフェクター が登場 とうじょう し、62年 ねん にはファズが発売 はつばい され、70年代 ねんだい にジミ・ヘンドリックスが使用 しよう している。オーバードライブやディスト―ションはもう少 すこ し遅 おそ く、1977年 ねん と78年 ねん である。
モーグ 社 しゃ のシンセサイザー が1964年 ねん に発売 はつばい され、使 つか われ始 はじ めた。電子 でんし 音 おん の合成 ごうせい を小 ちい さなシステムで可能 かのう にしたモーグ社 しゃ のシンセサイザーは電子 でんし 音楽 おんがく の境界 きょうかい 線 せん を広 ひろ げた。68年 ねん にウォルター・カーロスがこれを用 もち いてバッハの音楽 おんがく を合成 ごうせい した LP レコードが注目 ちゅうもく された。続 つづ いて日本 にっぽん の冨田 とみた 勲 いさお がドビュッシーの曲 きょく による合成 ごうせい 音楽 おんがく を作 つく り、シンセサイザーの音 おと は急速 きゅうそく に広 ひろ まった。
カリスマの時代 じだい からワールド・ミュージックへ-1970年代 ねんだい 後半 こうはん ~1980年代 ねんだい [ 編集 へんしゅう ]
1960年代 ねんだい 後半 こうはん に盛 も り上 あ がったものは、70年代 ねんだい に入 はい ると一斉 いっせい に失速 しっそく した。75年 ねん のベトナム戦争 せんそう 終結 しゅうけつ は学生 がくせい 運動 うんどう の世界 せかい 的 てき な連帯 れんたい の理由 りゆう をなくし、また学生 がくせい 運動 うんどう の暴力 ぼうりょく 化 か や初期 しょき 学生 がくせい 運動 うんどう の担 にな い手 て たちの就職 しゅうしょく に伴 ともな う転向 てんこう は後継 こうけい の学生 がくせい たちの離反 りはん を招 まね き、学生 がくせい 運動 うんどう は実質 じっしつ 的 てき な終焉 しゅうえん を迎 むか える[91] 。73-74年 ねん と79-81年 ねん の2度 ど にわたるオイルショック は世界 せかい 的 てき に続 つづ いていた戦後 せんご の経済 けいざい 成長 せいちょう を止 と めてしまった[117] 。東西 とうざい 陣営 じんえい は緊張 きんちょう 緩和 かんわ の時代 じだい となり、世界 せかい は騒然 そうぜん とした状態 じょうたい からそれなりに静 しず かな状態 じょうたい に移 うつ った。ソ連 それん のアフガニスタン侵攻 しんこう はデタントを崩壊 ほうかい させたが[118] 、そのソ連 それん は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 経済 けいざい の不調 ふちょう から内部 ないぶ がボロボロになっており[119] 、立 た て直 なお しを図 はか った87年 ねん からのペレストロイカ は東欧 とうおう 諸国 しょこく への締 し め付 づ けを緩 ゆる める結果 けっか となり、89年 ねん の東欧 とうおう 民主 みんしゅ 化 か 革命 かくめい とベルリンの壁 かべ 崩壊 ほうかい 、91年 ねん のソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい へとつながっていく[120] 。
商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ への回帰 かいき -ディスコ[121] [ 編集 へんしゅう ]
ポピュラー音楽 おんがく の世界 せかい も、60年代 ねんだい 後半 こうはん の途方 とほう もない盛 も り上 あ がりは見 み られなくなる。一 ひと つはオイルショックに始 はじ まる不 ふ 況 きょう がレコード会社 かいしゃ を慎重 しんちょう にさせ確実 かくじつ に売 う れるアーティストだけを売 う るようになった点 てん 、もう一 ひと つはアメリカの音楽 おんがく 産業 さんぎょう が集中 しゅうちゅう 化 か した点 てん である。60年代 ねんだい 末 まつ までのローカルラジオの個性 こせい 的 てき な番組 ばんぐみ は全米 ぜんべい 共通 きょうつう の画一 かくいつ 的 てき な番組 ばんぐみ に変化 へんか し、特定 とくてい のファン層 そう を対象 たいしょう に製造 せいぞう された商品 しょうひん としての音楽 おんがく がテープで全米 ぜんべい に配給 はいきゅう され、一斉 いっせい に流 なが された。結果 けっか 的 てき にポピュラー音楽 おんがく 界 かい は、以前 いぜん の商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 路線 ろせん に回帰 かいき した形 かたち になった[122] 。
商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 路線 ろせん の代表 だいひょう は、ディスコ (ディスコ・ミュージック)である。バス・ドラムによる一定 いってい 不変 ふへん のビートをアメリカ黒人 こくじん のダンス音楽 おんがく にくわえてリズムを単純 たんじゅん 化 か したもので、初 はじ めはニューヨークのゲイ・カルチャーの音楽 おんがく だったが[123] 、名前 なまえ の通 とお りディスコ (DJがLPで音楽 おんがく を流 なが し、酒類 しゅるい が提供 ていきょう され、客 きゃく にダンスをさせる店舗 てんぽ のこと)でのダンス・ミュージックだった。もともとダンスホールは生 なま バンドの演奏 えんそう が当然 とうぜん だったが、経費 けいひ とスペースの節約 せつやく のため若者 わかもの 向 む けの安直 あんちょく な店 みせ でレコードでの音楽 おんがく 提供 ていきょう が始 はじ められたのが最初 さいしょ のディスコの姿 すがた だった。ディスコはもともとレコードと言 い う意味 いみ のスペイン語 ご やイタリア語 ご である。しかしDJが客 きゃく に呼 よ びかけながらレコードをかける親 した しみやすい雰囲気 ふんいき が若者 わかもの の人気 にんき を集 あつ め、レコード会社 かいしゃ がDJが使 つか いやすいように30cmのシングルでリズムを強調 きょうちょう した踊 おど りやすい音楽 おんがく を提供 ていきょう し、それに合 あ わせた新 あたら しい踊 おど りが次々 つぎつぎ に出現 しゅつげん し、77年 ねん には映画 えいが 「サタデー・ナイト・フィーバー 」というディスコダンスの名手 めいしゅ を主人公 しゅじんこう にした映画 えいが が大 だい ヒットするなどし、ディスコは大 だい ブームとなった。70年代 ねんだい 後半 こうはん のメイン・ストリームはディスコだった。サタデー・ナイト・フィーバーに出演 しゅつえん していたビージーズ や、日本 にっぽん でもカバー曲 きょく が良 よ く知 し られるヴィレッジ・ピープル が代表 だいひょう 的 てき である。
しかし、ディスコは(踊 おど るための音楽 おんがく なのでやむを得 え ないが)リズムは一定 いってい で、エレキ・ギターが前面 ぜんめん に出 で ることはなく、歌詞 かし もメッセージ性 せい や過激 かげき な要素 ようそ はなく、歌 うた も特 とく にメロディを歌 うた い上 あ げたりはしておらず、ロックの刺激 しげき 性 せい に慣 な れた人 ひと やフォークのメッセージ性 せい に感 かん じ入 い った人 ひと には明 あき らかに物足 ものた りない。こうしたディスコに対 たい し、音楽 おんがく ファンや音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か は「商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ だ」という批判 ひはん を容赦 ようしゃ なく浴 あ びせた。またディスコ文化 ぶんか に対 たい しても、激 はげ しい反発 はんぱつ が寄 よ せられた。その結果 けっか 、80年代 ねんだい に入 はい る頃 ころ にはアメリカではディスコの人気 にんき は著 いちじる しく落 お ち込 こ んでいた。ただし、踊 おど らせるための音楽 おんがく は80年代 ねんだい を通 つう じて存在 そんざい し続 つづ け、80年代 ねんだい 後半 こうはん くらいから後述 こうじゅつ のエレクトロ・ポップ の要素 ようそ を取 と り込 こ んでハウス と呼 よ ばれるジャンルがニューヨークやシカゴで生 う まれ、イギリスを通 つう じて全 ぜん ヨーロッパに広 ひろ まった[124] 。またディスコはクラブ と呼 よ ばれるようになる。
75年 ねん のロック界 かい ではハード・ロックとプログレッシブ・ロックが主流 しゅりゅう だったが、ハード・ロックのスターたちはすでに大物 おおもの となり高度 こうど な演奏 えんそう 技術 ぎじゅつ を駆使 くし するようになっており、プログレッシブ・ロック では高価 こうか なシンセサイザーを駆使 くし したり現代 げんだい 音楽 おんがく とコラボレーションしたりして芸術 げいじゅつ 志向 しこう になっていた。ソフト・ロック という、美 うつく しいメロディーとコーラスを特徴 とくちょう とするジャンルも人気 にんき があったが、本来 ほんらい のロックではないと批判 ひはん されてもいた。こうした状況 じょうきょう に対 たい し、初期 しょき ロックの率直 そっちょく なエネルギーの復活 ふっかつ を目指 めざ して、パンク・ロック が起 お こる。
パンクはもともと「粗悪 そあく 品 ひん 、不良 ふりょう 、ちんぴら」を意味 いみ する俗語 ぞくご で、70年代 ねんだい ロンドンで始 はじ まった原色 げんしょく に染 そ めて逆立 さかだ てた髪 かみ などを特色 とくしょく とする奇抜 きばつ な若者 わかもの ファッションを指 さ すようになった。パンク・ロックはロックに残 のこ っていたブルース色 しょく を削 そ ぎ落 おと し、粗野 そや で荒削 あらけず りで急 きゅう テンポの演奏 えんそう を特徴 とくちょう としている。コードはスリーコードにパワーコードを加 くわ えた程度 ていど のきわめて簡単 かんたん なものだった。ニューヨークでアンダーグラウンド的 てき な人気 にんき を得 え ていたいくつかのグループにロンドンのブティック経営 けいえい 者 しゃ が刺激 しげき を受 う けて、素人 しろうと の少年 しょうねん を4人 にん 集 あつ めて75年 ねん にセックス・ピストルズ をデビューさせる。彼 かれ らは破壊 はかい 的 てき な言動 げんどう で世間 せけん を騒 さわ がせつつ、慢性 まんせい 的 てき な不 ふ 況 きょう で不満 ふまん を抱 かか える若者 わかもの たちに爆発 ばくはつ 的 てき な人気 にんき を得 え た[125] 。
ロック界 かい の新 あら たな中心 ちゅうしん になるかに見 み えたパンクだったが、もともと保守 ほしゅ 層 そう からの反発 はんぱつ が強 つよ く演奏 えんそう 会場 かいじょう では中止 ちゅうし 運動 うんどう がたびたび起 お きていた上 うえ 、セックス・ピストルズの解散 かいさん や元 もと メンバーの殺人 さつじん 事件 じけん や麻薬 まやく 中毒 ちゅうどく 死 し でブームは終焉 しゅうえん を迎 むか え、パンクのムーブメントは78年 ねん にわずか3年 ねん ほどで幕 まく を閉 と じる[126] 。
パンクの後 のち には、ハード・ロックの延長線 えんちょうせん 上 じょう にあるヘヴィメタル (アイアン・メイデン が初期 しょき の代表 だいひょう )や、パンクの様々 さまざま な部分 ぶぶん を引 ひ き継 つ いだニュー・ウェイヴ が現 あらわ れる。もっともニュー・ウェーブは多様 たよう な傾向 けいこう をひとまとめにした言葉 ことば で、シンセサイザーを駆使 くし して商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 的 てき な若者 わかもの 向 む けの大衆 たいしゅう 音楽 おんがく を作 つく り出 だ したエレクトロ・ポップ からパンクの切 き り拓 ひら いた道 みち をさらに先鋭 せんえい 化 か させようとしたオルタナティブ・ロック まで含 ふく んでおり、あまり適切 てきせつ なジャンル名 めい ではない。ロックは再 ふたた び多様 たよう 化 か したように見 み えたが、60年代 ねんだい のような大物 おおもの の登場 とうじょう は見 み られず、個性 こせい が薄 うす れていた。レコード会社 かいしゃ の意図 いと 通 どお りに売 う れる曲 きょく をつくるロックの路線 ろせん は「産業 さんぎょう ロック 」と揶揄 やゆ された。78年 ねん から82年 ねん までに、レコードの売 う り上 あ げとコンサートの収益 しゅうえき がそれぞれ10億 おく ドルも減少 げんしょう し、アメリカのロック音楽 おんがく 産業 さんぎょう は深刻 しんこく な危機 きき に陥 おちい る。
音楽 おんがく 産業 さんぎょう の不振 ふしん は、カリスマ的 てき スターの出現 しゅつげん と技術 ぎじゅつ の進歩 しんぽ によって救 すく われた。マイケル・ジャクソン 、ブルース・スプリングスティーン 、プリンス 、マドンナ はこの時期 じき にメガビットを飛 と ばしたカリスマたちであると、Microsoft『Encarta2005』のポピュラー音楽 おんがく の項 こう は評 ひょう している。彼 かれ らは伝統 でんとう 的 てき なアメリカの社会 しゃかい 階層 かいそう を超 こ えて幅広 はばひろ い聴衆 ちょうしゅう を獲得 かくとく した。ミュージック・ビデオ の出現 しゅつげん と、これを24時 じ 間 あいだ 放映 ほうえい するミュージック・テレビジョン(MTV )の開局 かいきょく (81年 ねん )は、ミュージック・ビデオの販売 はんばい 促進 そくしん 効果 こうか を実証 じっしょう した。CD の登場 とうじょう (83年 ねん )はポピュラー音楽 おんがく の需要 じゅよう を開拓 かいたく した。これらによって、音楽 おんがく 産業 さんぎょう は息 いき を吹 ふ き返 かえ したが、ごく少数 しょうすう のカリスマが巨大 きょだい な利益 りえき を上 あ げる傾向 けいこう が定着 ていちゃく した。
ハード・ロックの後継 こうけい であるヘヴイ・メタルはMTVのバックアップを受 う け、白人 はくじん の労 ろう 備者階級 かいきゅう のみならず中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう にも聴衆 ちょうしゅう が広 ひろ がり、女性 じょせい も取 と り込 こ んでいった。ヴァン・ヘイレン 、AC/DC 、メタリカ などヘヴィ・メタル・バンドが全 ぜん レコードの売 う り上 あ げに占 し める割合 わりあい は、80年代 ねんだい 末 まつ のアメリカで40%もの高率 こうりつ に達 たっ した。
ラップ は、ニューヨークではブロック・パーティ (黒人 こくじん ・カリブ海 かりぶかい からの移民 いみん ・ヒスパニックの街 まち 区 く で行 おこな われていた地域 ちいき の野外 やがい パーティ。音楽 おんがく と踊 おど り、バーベキューや野外 やがい ゲームなども行 おこな われた。DJの使用 しよう するサウンドシステムの電源 でんげん は街灯 がいとう から非合法 ひごうほう に引 ひ かれた)から74年 ねん に発生 はっせい したヒップホップ と言 い う文化 ぶんか の一部 いちぶ で、MCとよばれるボーカリストがテキストをうたわずにリズミカルにかたる(ライムという)スタイルをとり、ふつう、シンセサイザーの演奏 えんそう か既存 きそん のレコードから借用 しゃくよう した音楽 おんがく の断片 だんぺん (サンプル)を伴奏 ばんそう に使 つか う。クール・ハーク 、アフリカ・バンバータ といったラップのDJは、複数 ふくすう のレコードを同時 どうじ にまわしてそれぞれの音楽 おんがく の断片 だんぺん をくみあわせたり、レコードを手 て でまわして特定 とくてい のフレーズを反復 はんぷく 再生 さいせい したり(バック・スピン)、針 はり で盤面 ばんめん を引 ひ っ掻 か いてノイズによるリズミカルな効果 こうか をつくりだしたりする(スクラッチ)など、ターンテーブルの独創 どくそう 的 てき な活用 かつよう 法 ほう を開発 かいはつ した。
ラップがポピュラー音楽 おんがく のメイン・ストリームに仲間入 なかまい りしたのは86年 ねん のことだった。この年 とし 、Run-D.M.C がハード・ロック・バンド、エアロスミス のヒット「ウォーク・ディス・ウェイ 」(1977)をラップ・スタイルでカヴァーしてリバイバル・ヒットさせ、都市 とし の郊外 こうがい 高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地 ち にすむ白人 はくじん 中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう のロック・ファンをラップの聴衆 ちょうしゅう にとりこんだ。1980年代 ねんだい 末 まつ にはMTVがラップ専用 せんよう の番組 ばんぐみ をもうけ、M.C.ハマー (現 げん ハマー)、ビースティ・ボーイズ といった人気 にんき ラッパーは人種 じんしゅ の別 べつ を問 と わず幅広 はばひろ いファン層 そう をもち数 すう 百 ひゃく 万 まん 枚 まい 単位 たんい のレコード・セールスをあげるようになった。
70年代 ねんだい 後半 こうはん のレゲエ ・ブームを先駆 さきが けとして、80年代 ねんだい 初 はじ めにはワールド・ミュージック (ワールドビートとも言 い う)が人気 にんき を博 はく した。きっかけは、ナイジェリアのキング・サニー・アデ のアルバム「ジュジュ・ミュージック」(1982)のヒットだった。アフリカの伝統 でんとう 的 てき な打楽器 だがっき の音楽 おんがく にとシンセサイザー を加 くわ えた同 どう アルバムは、非 ひ 西洋 せいよう 世界 せかい のポピュラー音楽 おんがく に対 たい する関心 かんしん を高 たか めた。
このような中 なか からセネガル ・マリ ・コンゴなど西 にし アフリカ諸国 しょこく 、パキスタン ・イスラエル など西 にし アジア ~南 みなみ アジア 、南 みなみ アフリカ やジプシー音楽 おんがく [broken anchor ] など、様々 さまざま な国 くに からアーティストが現 あらわ れ、人気 にんき を得 え た。これら第 だい 三 さん 世界 せかい のアーティストの紹介 しょうかい にはピーター・ガブリエル 、デヴィッド・バーン 、ポール・サイモン といったロック・ミュージシャンも尽力 じんりょく し、ロックの世界 せかい 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく をあらためて立証 りっしょう した。
ピーター・ガブリエルが1982年 ねん から開催 かいさい しているウォーマッド は、ヨーロッパ世界 せかい にワールドミュージックを広 ひろ める牽引 けんいん 車 しゃ として、ヌスラット・ファテー・アリ・ハーン など多 おお くの世界中 せかいじゅう のミュージシャンの人気 にんき を高 たか めた。サイモンの1985年 ねん のアルバム「グレイスランド 」には、アフリカ やラテンアメリカ のミュージシャンが共演 きょうえん している。彼 かれ らはこのような非 ひ 西洋 せいよう の音楽 おんがく スタイルを取 と り入 い れて自作 じさく を発表 はっぴょう したりもしている。
アフリカへの関心 かんしん と言 い う意味 いみ では、マイケル・ジャクソン 、スティーヴィー・ワンダー をはじめとする45人 にん のアーティストがチャリティとしてUSAフォー・アフリカ 名義 めいぎ で「ウィ・アー・ザ・ワールド 」を制作 せいさく し、実際 じっさい に印税 いんぜい を全 すべ てアフリカの飢餓 きが と貧困 ひんこん を救 すく うために寄付 きふ したのが85年 ねん だった[注 ちゅう 1] 。これはポピュラー音楽 おんがく 界 かい にチャリティー・ブームを巻 ま き起 お こした。
80年代 ねんだい 半 なか ば以降 いこう は東欧 とうおう 諸国 しょこく で民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう が始 はじ まり、中 なか ・東欧 とうおう の音楽 おんがく が西側 にしがわ 世界 せかい にも聴 き かれ始 はじ めた。ブルガリア の女性 じょせい コーラス・グループはワールド・ミュージック・ブームのアイドルとなった[129] 。旧 きゅう ソ連 それん からはキノー が出 で て、ソビエト連邦 れんぽう を代表 だいひょう するロック・バンドとして西側 にしがわ 世界 せかい に知 し られた[130] 。
映画 えいが 音楽 おんがく とミュージカルとイージー・リスニング[ 編集 へんしゅう ]
映画 えいが 音楽 おんがく 界 かい では、「スター・ウォーズ 」でジョン・ウィリアムズ が古典 こてん 的 てき なシンフォニック・スコアを復活 ふっかつ させたのが注目 ちゅうもく される[105] 。
ミュージカルではコーラスライン 、アニー 、キャッツ 、オペラ座 ざ の怪人 かいじん 、レ・ミゼラブル などのヒット作 さく が生 う まれた[36] 。
イージー・リスニングでは、リチャード・クレイダーマン が76年 ねん にデビューし、ディスコ全盛 ぜんせい の時代 じだい にあって、敢 あ えてシンプルで美 うつく しいメロディーの普遍 ふへん 性 せい を訴 うった えるスタイルで人気 にんき となった[131] 。
メイン・ストリームとローカル [ 編集 へんしゅう ]
ポピュラー音楽 おんがく は、異質 いしつ な音楽 おんがく が混交 こんこう したり、ローカルで自発 じはつ 的 てき な音楽 おんがく が荒削 あらけず りな状態 じょうたい で流行 はや ったのちメイン・ストリームに組 く み込 こ まれると言 い うような形 かたち で発展 はってん してきたが、アメリカ国内 こくない の黒人 こくじん 音楽 おんがく はジャズ・ロック・ソウル・フュージョン・ディスコなど、大半 たいはん が商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ に組 く み込 こ まれてしまった[132] 。マイケル・ジャクソンやプリンスも、黒人 こくじん による新種 しんしゅ の商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 音楽 おんがく と考 かんが えることができる[133] 。こうした中 なか 、ヒップホップやラップは新 あら たなローカルと言 い える[134] が、アメリカの外 そと に活力 かつりょく を求 もと めたのがワールド・ミュージックだった[135] 、ということもできる。
新 しん 技術 ぎじゅつ とポピュラー音楽 おんがく ④[ 編集 へんしゅう ]
1979年 ねん にウォークマン がソニーから発売 はつばい された。カセットテープ をメディアとして使用 しよう する、ヘッドホン式 しき の携帯 けいたい ステレオの登場 とうじょう によって、いつでもどこでも音楽 おんがく が楽 たの しめるようになり、若者 わかもの たちの圧倒的 あっとうてき な支持 しじ をうけて大 だい ヒット商品 しょうひん となった。
82年 ねん にCD が登場 とうじょう した。レーザー による走査 そうさ によって情報 じょうほう を読 よ みとるため、ターンテーブルの回転 かいてん ムラによる音 おと のひずみや針 はり 音 おん などの雑音 ざつおん がさけられない従来 じゅうらい のLPと比較 ひかく し音質 おんしつ を飛躍 ひやく 的 てき に向上 こうじょう できた上 うえ 、摩耗 まもう による音質 おんしつ 劣化 れっか や再生 さいせい 不能 ふのう とは無縁 むえん となった。また、ランダムアクセス機能 きのう によって曲 きょく を任意 にんい の順序 じゅんじょ で再生 さいせい できた。こうした利点 りてん からCDは徐々 じょじょ に販売 はんばい 枚数 まいすう を増 ふ やし、86年 ねん には販売 はんばい 数 すう がLPを抜 ぬ き、90年代 ねんだい に入 はい る頃 ころ にはLP自体 じたい がほとんどつくられなくなった。
デジタル・オーディオ・ワークステーション [ 編集 へんしゅう ]
コンピュータを音楽 おんがく で活用 かつよう しようとする試 こころ みは以前 いぜん からあったが、80年代 ねんだい 初頭 しょとう から音楽 おんがく 製作 せいさく の場 ば においてデジタル 技術 ぎじゅつ やコンピュータ 技術 ぎじゅつ の導入 どうにゅう が盛 さか んに行 おこな われるようになった。単 たん なる個別 こべつ の機材 きざい のデジタル化 か を超 こ え、シンセサイザー ・シーケンサー ・サンプラー ・ミキサー ・コンピュータなどを統合 とうごう し、音楽 おんがく 制作 せいさく のワークフロー を1台 だい で完結 かんけつ するデジタル・オーディオ・ワークステーション (DAW)の先駆 さきが けとなるシステム が現 あらわ れ、シンクラヴィア やフェアライトCMI などの初期 しょき の名 な 機 き が争 あらそ うように導入 どうにゅう されたが、当初 とうしょ は大変 たいへん 高価 こうか なものだった。
シンセサイザーではそれまでのアナログ式 しき のものに代 か わりデジタルシンセサイザー が現 あらわ れ、特 とく にFM音源 おんげん を搭載 とうさい した83年 ねん 発売 はつばい のYAMAHA のDX-7 は画期的 かっきてき な高性能 こうせいのう と低 てい 価格 かかく を実現 じつげん し、デジタルシンセサイザーを一般 いっぱん 化 か させた[137] 。
現代 げんだい -1990年代 ねんだい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
91年 ねん のソ連 それん 崩壊 ほうかい と冷戦 れいせん の終了 しゅうりょう は世界 せかい を一 ひと つにし[138] 、95年 ねん のWindows 95 発売 はつばい をきっかけとするインターネット の普及 ふきゅう [139] は社会 しゃかい のあり方 かた を大 おお きく変 か え[140] 、携帯 けいたい 電話 でんわ 、のちにはスマートホンの普及 ふきゅう は若者 わかもの たちの消費 しょうひ 行動 こうどう や音楽 おんがく 聴取 ちょうしゅ のあり方 かた を大 おお きく変 か えた[141] 。
90年代 ねんだい に入 はい ってCDの売 う り上 あ げは伸 の びを見 み せ、99年 ねん には世界 せかい 的 てき にCDの売 う り上 あ げが過去 かこ 最高 さいこう [142] (日本 にっぽん は98年 ねん が過去 かこ 最高 さいこう [143] )となった。
メガヒットが連発 れんぱつ したため、歴代 れきだい シングル売上 うりあげ ベスト50のランキングは、うち19曲 きょく が90年代 ねんだい ~2000年代 ねんだい 前半 ぜんはん のものが占 し めている[144] (これ以降 いこう は、ダウンロード販売 はんばい が主流 しゅりゅう となるため、統計 とうけい が別枠 べつわく となる)[145] 。
アーティスト単位 たんい で見 み ても「世界 せかい で最 もっと も売 う れたアーティスト・ランキング!」にある31名 めい のうち、4名 めい はこの19曲 きょく の中 なか に名前 なまえ があり[146] 、累計 るいけい で1億 おく 枚 まい 以上 いじょう 売 う り上 あ げたとされる者 もの も指摘 してき できる。
ここでは歴代 れきだい シングル売上 うりあげ ベスト50のうち90年代 ねんだい 以降 いこう の19曲 きょく と、該当 がいとう するアーティストおよび関連 かんれん 情報 じょうほう を表 ひょう で示 しめ す。
CD不 ふ 況 きょう と音楽 おんがく 業界 ぎょうかい の低迷 ていめい [ 編集 へんしゅう ]
1999年 ねん に242億 おく USドルだった世界 せかい の音楽 おんがく 売 う り上 あ げは減少 げんしょう を続 つづ け、2013年 ねん には150億 おく USドルまで落 お ち込 こ み、最盛 さいせい 期 き の2/3を切 き っている[155] 。ダウンロード販売 はんばい の割合 わりあい は年々 ねんねん 増 ふ えており、2014年 ねん にはCDとダウンロード販売 はんばい のシェアが逆転 ぎゃくてん した[156] 。2018年 ねん には、世界 せかい 最大 さいだい の家電 かでん 量販 りょうはん 店 てん であるアメリカの「ベスト・バイ 」が店舗 てんぽ での音楽 おんがく CDの販売 はんばい を終了 しゅうりょう する方針 ほうしん であることが明 あき らかになった[156] 。「アルバムを作 つく って売 う って活動 かつどう する」というスタイルは終焉 しゅうえん を迎 むか えつつあり、音楽 おんがく 業界 ぎょうかい は「ネット販売 はんばい やネット配信 はいしん 、YouTubeの露出 ろしゅつ で知名度 ちめいど を上 あ げて、ライブに来 き てもらう客 きゃく の数 かず を増 ふ やす」という形式 けいしき に大 おお きく変化 へんか してきている[156] 。業界 ぎょうかい 全体 ぜんたい の売上 うりあげ の低迷 ていめい は、ほぼそのまま音楽 おんがく アーティストの活動 かつどう に影響 えいきょう するため、今後 こんご の状況 じょうきょう の変化 へんか は無視 むし することができない[156] 。
ストリーミングによる音楽 おんがく 市場 いちば の回復 かいふく と課題 かだい [ 編集 へんしゅう ]
IFPI によると、世界 せかい の音楽 おんがく 売 う り上 あ げは2014年 ねん を底 そこ に回復 かいふく 基調 きちょう にある。成長 せいちょう を牽引 けんいん しているのはSpotify やApple Music 、Amazon Music などのサブスクリプション 型 かた 音楽 おんがく ストリーミング で、CD売上 うりあげ の減少 げんしょう をカバーする形 かたち で急 きゅう 成長 せいちょう を見 み せている。2019年 ねん にはストリーミングの売上 うりあげ シェアが音楽 おんがく 売上 うりあげ 全体 ぜんたい の56.1%となり、CDやダウンロード販売 はんばい のシェアを大 おお きく上回 うわまわ った[157] 。
新型 しんがた コロナウイルス感染 かんせん 症 しょう の世界 せかい 的 てき 流行 りゅうこう により、音楽 おんがく 業界 ぎょうかい は新 あら たな収入 しゅうにゅう 源 げん やファンとの繋 つな がりを模索 もさく し始 はじ めた。TikTok などのソーシャルメディア から生 う まれるバイラル・ヒットがトレンドとなり、一部 いちぶ のアーティストはライブストリーミングによるバーチャル・コンサートを開催 かいさい している[158] 。
ストリーミングサービスやメジャーレーベルが大 おお きな利益 りえき を得 え る中 なか で、中堅 ちゅうけん 以下 いか のアーティストには恩恵 おんけい が十分 じゅうぶん に行 い き渡 わた っておらず公平 こうへい でないという批判 ひはん は多 おお く、業界 ぎょうかい 団体 だんたい はストリーミング報酬 ほうしゅう の引 ひ き上 あ げを求 もと めるキャンペーンを行 おこな っている[156] 。
メイン・ストリームと独立 どくりつ 系 けい 小 しょう レーベルの対立 たいりつ 、メインストリームによる非 ひ 主流 しゅりゅう 派 は の取 と り込 こ み、しかしそうした中 なか でも受 う け継 つ がれているもの(1920年代 ねんだい のティン・パン・アレーの歌曲 かきょく 形式 けいしき と滑 なめ らかでロマンティックなボーカル・スタイル、アフリカ系 けい アメリカ音楽 おんがく の強力 きょうりょく なノリやバックビート(あと乗 の りのビート)、掛 か け合 あ いの形式 けいしき 、濃密 のうみつ な情感 じょうかん 、あるいはイギリス系 けい アメリカ音楽 おんがく の詩的 してき なテーマやバラード形式 けいしき など)は現在 げんざい でも健在 けんざい であり、アメリカ・ポピュラー音楽 おんがく は表面 ひょうめん 上 じょう のスタイルが変 か わったりヒットソングが入 い れ替 か わったりしても、全体 ぜんたい として強固 きょうこ な連続 れんぞく 性 せい を保 たも っている。
ポピュラー音楽 おんがく の大 おお まかなジャンル [ 編集 へんしゅう ]
ポピュラー音楽 おんがく に含 ふく まれるジャンルを、カテゴリー別 べつ に示 しめ す。
この場合 ばあい の「ポピュラー音楽 おんがく 」は、歴史 れきし の項 こう と同様 どうよう 、「アメリカを中心 ちゅうしん に世界 せかい 的 てき な広 ひろ がりを見 み せている商業 しょうぎょう 音楽 おんがく 」およびその前身 ぜんしん である。
カテゴリーもそれぞれのジャンルも概 おおむ ね登場 とうじょう 順 じゅん に並 なら んでいる。
個別 こべつ 的 てき なジャンル名 めい を全 すべ て列挙 れっきょ するのが目的 もくてき ではないので、ここでは主 おも なもののみ示 しめ している。
ヨーロッパ大衆 たいしゅう 音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
大衆 たいしゅう 向 む けオペラなど[ 編集 へんしゅう ]
初期 しょき のポピュラー音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
20世紀 せいき 初頭 しょとう までの黒人 こくじん の音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の黒人 こくじん の音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
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^ Microsoft『Encarta2005』の「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の西部 せいぶ への領土 りょうど 拡大 かくだい 」の図版 ずはん で、1790年 ねん のアメリカ建国 けんこく 時 じ の人口 じんこう が392万 まん 9214人 にん 、1880年 ねん の人口 じんこう が5015万 まん 5783人 にん と示 しめ されている。またNHK高校 こうこう 講座 こうざ 世界 せかい 史 し 第 だい 28回 かい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の発展 はってん では「アメリカは独立 どくりつ から約 やく 100年 ねん で、領土 りょうど は3.4倍 ばい に、人口 じんこう は約 やく 14.3倍 ばい に増 ふ えたんです。」としている。https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume028.html
^ 平凡社 へいぼんしゃ 『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 』の「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 」の項 こう に、「移民 いみん はアメリカ社会 しゃかい に同化 どうか することを目的 もくてき とした。しかし同化 どうか の速度 そくど は集団 しゅうだん によってまちまちであった。〈新 しん 移民 いみん 〉は〈旧 きゅう 移民 いみん 〉ほど速 はや く同化 どうか できなかったし,有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ は白人 はくじん のように簡単 かんたん には同化 どうか できなかった。」とある。
^ 平凡社 へいぼんしゃ 『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 』より「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 」の項 こう の「経済 けいざい ・産業 さんぎょう 」の部分 ぶぶん に「南北戦争 なんぼくせんそう 後 ご 30年 ねん を経 へ た94年 ねん には,その工業 こうぎょう 生産 せいさん 額 がく が一躍 いちやく ,イギリス,ドイツ,フランスの生産 せいさん 額 がく 合計 ごうけい を上回 うわまわ る世界 せかい 最大 さいだい の工業 こうぎょう 国 こく となり,さらに20年 ねん 後 ご には世界 せかい における工業 こうぎょう 生産 せいさん 能力 のうりょく の約 やく 3分 ぶん の1を占 し めるまでになった。」「第 だい 1次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以後 いご 1920年代 ねんだい にかけて,アメリカ経済 けいざい は未曾有 みぞう の繁栄 はんえい 期 き を迎 むか えた。」とある。
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『ポピュラー音楽 おんがく 200年 ねん フォスターからボブ・ディランまで』(青木 あおき 啓 あきら 誠 まこと 文 ぶん 堂 どう 新光 しんこう 社 しゃ 1976)