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ポピュラー音楽おんがく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポピュラー音楽おんがくポピュラーおんがくえい: popular music、ポピュラー・ミュージック)は、ひろ人々ひとびとこのみにうったえかける音楽おんがくのことである[1]

概説がいせつ[編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがくとは、なんらかの「ひろ訴求そきゅうりょくのある」音楽おんがくジャンルぞく[2][3]人々ひとびとこのみに訴求そきゅうした、あらゆる時代じだい音楽おんがく包括ほうかつてき用語ようご[4]ひとし定義ていぎづけられ、具体ぐたいてきにはロックポップソウルレゲエラップダンス・ミュージックなどがれいとしてあげられる[5]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのポピュラー音楽おんがく今日きょういたるまであたえた影響えいきょうおおきい。初期しょきおおくのポピュラー音楽おんがく特徴とくちょうはその当時とうじクラシック音楽おんがく共有きょうゆうする要素ようそおおかったが、それらは簡潔かんけつでシンプルであったのでまりごとすくなかった[6]

音楽おんがく産業さんぎょう英語えいごばんとおして多数たすう聴衆ちょうしゅう配給はいきゅうされるものが典型てんけいてきであり、芸術げいじゅつ音楽おんがくとは区別くべつされる。伝統でんとう音楽おんがく英語えいごばんのように典型てんけいてきには学術がくじゅつてき形態けいたいによってつたえられたり口承こうしょうによって小規模しょうきぼ局地きょくちてき限定げんていされた聴衆ちょうしゅうひろめられる音楽おんがくとも対照たいしょうてき存在そんざいである[7][8][9]

この用語ようごはもともと、1880年代ねんだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくティン・パン・アレー音楽おんがくしたものであった[2]

また、日本にっぽんではポピュラー音楽おんがくして和製わせい英語えいごで「ポップス」とも呼称こしょうする[10]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは「pops」というかたりボストン・ポップス・オーケストラのようにオーケストラがポピュラー音楽おんがく映画えいが音楽おんがくなどを演奏えんそうすることをしめ[10]。また俗語ぞくごで「おやじさん」の意味いみつため、ジャズやポピュラー音楽おんがくかいではとく勢力せいりょくのあるリーダーや大人おとなぶつたいする愛称あいしょうとしても使つかわれる[10]

歴史れきし[編集へんしゅう]

「ポピュラー音楽おんがく」という言葉ことばには、ひろ意味いみせま意味いみ・その諸々もろもろことなった意味合いみあいがあり、文脈ぶんみゃくによってこのひろがりがわったりずれたりということがき、定義ていぎむずかしくしている[11]

ここではポピュラー音楽おんがくを「アメリカを中心ちゅうしん世界せかいてきひろがりをせている近代きんだいてき商業しょうぎょう音楽おんがく」とややせま定義ていぎ[12]し、その歴史れきし記載きさいする。広義こうぎのポピュラー音楽おんがくふくまれるがこのこうではあつかわれない音楽おんがくかんしては、民俗みんぞく音楽おんがく民族みんぞく音楽おんがくおよび各国かっこく音楽おんがくこうなどを参照さんしょうされたい。

ポピュラー音楽おんがく源泉げんせん[編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがくのルーツとして、19世紀せいき後半こうはんのヨーロッパの大衆たいしゅう音楽おんがくカリブ海かりぶかいおよ南米なんべい混血こんけつ音楽おんがく、アメリカで誕生たんじょうした音楽おんがくの3つが指摘してきできる[13]

19世紀せいき後半こうはんのヨーロッパの大衆たいしゅう音楽おんがく[編集へんしゅう]

19世紀せいき後半こうはん、ヨーロッパでは資本しほん主義しゅぎ興隆こうりゅうによってゆたかな中産ちゅうさん階級かいきゅう拡大かくだい都市としへの労働ろうどう人口じんこう流入りゅうにゅうられた。中産ちゅうさん階級かいきゅうはワンランクじょう生活せいかつあこがれオペラ劇場げきじょう定席じょうせきたり子女しじょにピアノをならわせたりすることがステータスとなり、労働ろうどうしゃたちは生活せいかつ安定あんてい余暇よか充実じゅうじつともなって娯楽ごらくとして音楽おんがくたのしむ習慣しゅうかんひろまり、クラシック・大衆たいしゅう音楽おんがくとも大幅おおはば聴衆ちょうしゅうやし、現代げんだいちかかたちおおくのひと生活せいかつ音楽おんがくがとりいれられるようになった[14]。こうしたなかで、おも都市としさかんになった大衆たいしゅう音楽おんがくが、のちのポピュラー音楽おんがくおおきな影響えいきょうあたえている。

社交しゃこうダンス[編集へんしゅう]

ヨーロッパではもともとダンスさかんで、民俗みんぞく音楽おんがくなかにもおおくのおどりがられる[15]が、そこから変化へんかしたワルツ、ワンステップなどの社交しゃこうダンス音楽おんがくが、ギターやアコーディオンをふくむバンドで演奏えんそうされるようになった[14]。ワルツは、オーストリアの山岳さんがく地方ちほう舞曲ぶきょくレントラー洗練せんれん発展はってんしたものだが、ヨーロッパちゅう熱狂ねっきょうてきひろまり、19世紀せいき代表だいひょうする舞曲ぶきょくとなった。

オペレッタ[16][編集へんしゅう]

18世紀せいきにはすでにバラッド・オペラ(イギリス)、ジングシュピール(ドイツ)、オペラ・コミック(フランス)のような、民謡みんよう(または民謡みんようふう単純たんじゅんうた)を材料ざいりょうにしたしたしみやすいオペラが人気にんきだったが、19世紀せいきには喜劇きげきてき内容ないようしたしみやすいオペラがオペレッタけい歌劇かげき)という人気にんきあつめるようになった。オッフェンバックの「地獄じごくのオルフェ」やスッペの「けい騎兵きへい」やJ・シュトラウス2せいの「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドウ」などがげられる。

パーラー・ミュージック[13]えい: parlour music[編集へんしゅう]

「パーラー」は「応接間おうせつま」のこと。中産ちゅうさん階級かいきゅう女性じょせいあいださかんだったもので、家庭かていのパーラー(談話だんわしつ)で家族かぞく同士どうしで、ピアノやギターなど家庭かていにあるような楽器がっき伴奏ばんそうされうたわれた。1きょく1まいのシートミュージックと楽譜がくふかたち販売はんばいされた。

ミュージック・ホール[編集へんしゅう]

ミュージック・ホールとは、きゃく飲食いんしょくりながら音楽おんがくたのしむことを目的もくてきとした施設しせつで、パブでうたきゃくをもてなしたのが起源きげん[14]。1852ねん、イギリス最初さいしょ専用せんようのホールとしてロンドンにひらかれたカンタベリー・ホールは、きゃく飲食いんしょくをとるために椅子いすとテーブルをならべた部分ぶぶん舞台ぶたいとをもっており、以後いご同種どうしゅのホールが全国ぜんこくにつくられた。当初とうしょだい工業こうぎょう都市とし労働ろうどうしゃのビア・ホールとしてまれたものだったが、19世紀せいき後半こうはんには飲酒いんしゅよりも娯楽ごらくほう重要じゅうようになり、ユーモラスで風刺ふうしてきまたは感傷かんしょうてきうたからなる演芸えんげい提供ていきょうした[17]音楽おんがくだけでなくおどりやコントや手品てじな動物どうぶつげい、アクロバットなどもえんじられ、人気にんきはくしていた[18]。1868ねんにはイギリスには500をえるミュージック・ホールがあった[14]。パリのムーラン・ルージュもミュージック・ホールである[18]

シャンソン[編集へんしゅう]

現代げんだい大衆たいしゅう歌謡かようとしてのシャンソンは19世紀せいき後半こうはんから20世紀せいき初頭しょとうにかけて確立かくりつされ、演劇えんげきてき表現ひょうげんスタイル、はん権威けんいてき現実げんじつ主義しゅぎミュゼットどう時代じだい誕生たんじょうしたダンス音楽おんがく)のアコーディオンと3拍子ひょうし伝統でんとうとする[19]。パリやベルリンのキャバレー・カフェ・レビュー小屋こやなどでさかんにうたわれた[14]

こうした当時とうじ大衆たいしゅう歌謡かようは、クラシック歌曲かきょく通俗つうぞくばんとしての性格せいかくをもち、うたうつくしいこえではっきりとうたうのが普通ふつうだった[14]

現在げんざい「スコットランド民謡みんよう」「アイルランド民謡みんよう」などとしてられているきょくおおくは、この時代じだいにパーラー・ミュージックや酒場さかばやミュージック・ホールのうたとして人気にんきたものがおおく、「ぼたるひかり」「にわ千草ちぐさ」「ダニー・ボーイ」「ホーム・スイート・ホーム」「アニーローリー」などが該当がいとうするし、フランスのシャンソンもふるいもの(「さくらんぼのみのころ」など)は該当がいとうする。ロシア民謡みんようとして日本にっぽんられているうたも、この時代じだいわば歌謡かようきょくおおく、「いち週間しゅうかん」「カリンカ」「トロイカ」「コロブチカ」などはこの時代じだいのものである。これらのなかにはることを目的もくてき作曲さっきょくされたものと、本当ほんとう民謡みんよう手直てなおししたものが混在こんざいしている。民俗みんぞく音楽おんがくとポピュラー音楽おんがく境界きょうかいせんはまだ曖昧あいまいであった[13]

植民しょくみん混血こんけつ音楽おんがく[編集へんしゅう]

当時とうじたくさんあった植民しょくみんでは、都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅうはヨーロッパの芸術げいじゅつ音楽おんがく大衆たいしゅう音楽おんがくをそのまま[14]農村のうそんではヨーロッパの民俗みんぞく音楽おんがくがそのまままれていた。が、植民しょくみんでの都市とし発展はってんなか形成けいせいされた周辺しゅうへんのスラム地区ちくで、黒人こくじん先住民せんじゅうみん音楽おんがくとヨーロッパけい音楽おんがく融合ゆうごうしてあらたな音楽おんがくまれる現象げんしょう様々さまざま植民しょくみんられている。にな船乗ふなのりや日雇ひやとい労働ろうどうしゃ賭博とばく売春ばいしゅんなどのいわゆるルンペンプロレタリアートそうであった。リズムの肉体にくたいせい・わざとにごらせた音色ねいろ声色こわいろ楽譜がくふどおりではないなんらかの即興そっきょうせいなどの要素ようそ特徴とくちょうとする。こうした音楽おんがくはその地域ちいきのエリートそうからは下級かきゅう音楽おんがくとして蔑視べっしされたが、のちにヨーロッパの民衆みんしゅうによって価値かちいだされて世界せかいてき流行りゅうこう音楽おんがくとなっていったれいおおい。このたね音楽おんがく最初さいしょのものはスリランカとインドネシアでられるが、のポピュラー音楽おんがくおおきな影響えいきょうあたえたのはカリブ海かりぶかいおよび南米なんべい地域ちいきのものである。

黒人こくじん音楽おんがく要素ようそ[編集へんしゅう]

アメリカ大陸あめりかたいりくれてきたられた黒人こくじんおおくは西にしアフリカ地域ちいきひとたちだったが、アフリカの音楽おんがくにはひろポリリズム要素ようそられ[20]とく西にしアフリカの音楽おんがくはホットでテンポもはやく、またすうにん奏者そうしゃによる打楽器だがっきアンサンブルがよくられる[21]なかには太鼓たいこだけではなく、金属きんぞくせい打楽器だがっきはいってリズムを明確めいかくにすることもられる。もちろんアフリカをはなれてからなん世代せだいており、西にしアフリカの民族みんぞく音楽おんがくそのままではありえないものの、根底こんていにある「身体しんたいおくからゆさぶってくれるようなビート」はあきらかに「肉体にくたい解放かいほうによるよろこびとたか精神せいしんてきよろこびを合一ごういつさせた」アフリカのダンス音楽おんがくのものであり、この要素ようそはそののポピュラー音楽おんがくまで確実かくじつ影響えいきょうしている[13]

カリブ海かりぶかい地域ちいき[編集へんしゅう]

西にしインド諸島しょとうでは先住民せんじゅうみんがほとんど全滅ぜんめつしており、白人はくじん奴隷どれい黒人こくじんらしていた[22]黒人こくじん音楽おんがくとヨーロッパ音楽おんがく融合ゆうごうしてされた音楽おんがくなかで、最初さいしょ世界せかいてき流行りゅうこうしたのはジャズではなく、キューバのハバネラなかでもスペインじんイラディエール作曲さっきょくした「ラ・パロマ」だった。イラディエールはわかいころにすう年間ねんかんキューバにんだことがあり、そこでせっしたハバネラのリズムを自作じさくれて発表はっぴょうし、世界せかいてき大人気だいにんきとなるのみならず、様々さまざまくに音楽おんがく影響えいきょうあたえた。ハバネラのリズムの影響えいきょうはアメリカのジャズ、イタリアの「オー・ソレ・ミオ」、トルコからギリシャにかけてつたわるシルトースというおどりのリズム、アルゼンチンのタンゴなどにられる。またジャズ発祥はっしょうのニューオーリンズに移植いしょくされた黒人こくじん奴隷どれいだい部分ぶぶんは、スペインりょうキューバ、フランスりょうハイチなどから購入こうにゅうされたものであった[13]

南米なんべい地域ちいき[編集へんしゅう]

南米なんべい全般ぜんぱん先住民せんじゅうみん白人はくじん黒人こくじんさんしゃ混交こんこうし、メスティーソ先住民せんじゅうみん白人はくじん)・ムラート白人はくじん黒人こくじん)・サンボ(先住民せんじゅうみん黒人こくじん)などの集団しゅうだん存在そんざいする[23]音楽おんがくもメスティソけいとムラートけいけられるが、それぞれの存在そんざい比率ひりつにより、メスティソけい白人はくじん要素ようそつよい、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティーソけい先住民せんじゅうみん要素ようそつよい、ペルー・ボリビア)・ムラートけい(ブラジル海岸かいがんカリブ海かりぶかい地域ちいき)などとけられる。

ブラジルでは18世紀せいきにルンドゥーというおどりの音楽おんがく成立せいりつし、最初さいしょ野卑やひなものとしてうえ中流ちゅうりゅう階層かいそう非難ひなんびたが、やがて洗練せんれんされて都会とかいてき歌謡かよう形式けいしきへと変化へんかした。このルンドゥーは19世紀せいきなかばにおなじブラジルでまれたショーロ混交こんこうし、19世紀せいきわりごろにサンバへと発展はってんする。またアルゼンチンではハバネラのリズムの影響えいきょうのもと、19世紀せいきまつにタンゴがまれている。タンゴもまた世界せかいてきひろまったのでたとえば日本にっぽん演歌えんかなどにも影響えいきょうあたえており、民衆みんしゅう音楽おんがくのグローバリゼーションの最初さいしょれいわれている。もっとも有名ゆうめいなタンゴ「ラ・クンパルシータ」は、24あいだ365にちつね世界せかいのどこかでかなら演奏えんそうされているとの伝説でんせつもあるほどである。

ルンドゥーもハバネラもづけてん8ふん音符おんぷと16ふん音符おんぷわせたかるねるリズムかんをもち、ポルトガルもしくはスペインの音楽おんがくにアフリカてきリズムかん加味かみしたものとかんがえられるが、これがそののラテン・アメリカの音楽おんがく基調きちょうとなった。ショーロやタンゴやサンバ、のちあらわれるキューバのルンバなどもこのリズムの延長えんちょうじょうにあるとえる。

このようなカリブ海かりぶかい地域ちいき南米なんべい地域ちいき音楽おんがくラテン音楽おんがくなどとばれるが、これがポピュラー音楽おんがく歴史れきしじょうよう所要しょようしょおおきな影響えいきょうあたつづけることになる。のちにはキューバからマンボチャチャチャ、トリニダード・トバゴからカリプソ、マルティニークとうとセント・ルシアからビギン、ブラジルからボサノヴァ、ジャマイカからレゲエなどがまれ、世界せかいてきにも流行りゅうこうしている[24]。なお、さき分類ぶんるいでいえばムラートけい影響えいきょうっていることには留意りゅういすべきであろう。

19世紀せいき後半こうはんまでのアメリカの音楽おんがく状況じょうきょう[編集へんしゅう]

アメリカはイギリス・アイルランドを中心ちゅうしんとする白人はくじん移民いみんくにだが、南部なんぶ中心ちゅうしんカリブ海かりぶかい地域ちいきから輸入ゆにゅうされた黒人こくじん奴隷どれいおおかかえており、それぞれの音楽おんがくんでいる。このためアメリカは、ヨーロッパがた芸術げいじゅつ音楽おんがく大衆たいしゅう音楽おんがく植民しょくみんがた混血こんけつ音楽おんがく双方そうほう国内こくないかかえることとなり、独自どくじ発展はってんげていく[25]

植民しょくみん当初とうしょから19世紀せいき初期しょきまでの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

植民しょくみん時代じだい白人はくじん入植にゅうしょくしゃ社会しゃかい音楽おんがく大半たいはんはイギリスから輸入ゆにゅうされた世俗せぞく音楽おんがく礼拝れいはいよう音楽おんがくだった[26]。18世紀せいきなかばには東海岸ひがしかいがんニューイングランドでオリジナルのさん美歌みかをつくるうごきがてきてアメリカ独自どくじ音楽おんがく表現ひょうげんまれたが、芸術げいじゅつ音楽おんがくはヨーロッパ出身しゅっしんしゃ依然いぜんとして主導しゅどうけんにぎっており、18世紀せいきまつにアメリカで一番いちばん人気にんきがあったきょくはイギリスのイギリスの職業しょくぎょう作曲さっきょくがロンドンのゆう園地えんち行楽こうらくきゃくかせるためにいたうたや、英語えいごのバラッド・オペラやコミック・オペラのなかでうたわれたうたであったようである。19世紀せいきはじめにはイタリア・オペラも人気にんきはくし、ロッシーニベッリーニドニゼッティらイタリアのオペラ作曲さっきょくのアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売はつばいされている。こうした状況じょうきょう象徴しょうちょうするのがアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国歌こっかである「星条旗せいじょうき」(1814ねん)、独立どくりつ革命かくめいちゅう流行りゅうこうヤンキードゥードル」(1780ねんころ)、じゅんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国歌こっかアメリカ」(1831ねん)がすべてイギリス起源きげんきょくだということである。ただ、アメリカ独自どくじ表現ひょうげんもとめる努力どりょくつづいており、ニューイングランドですたれたさん美歌みかづくりはアメリカ南部なんぶつたえられ、「アメイジング・グレイス」などの今日きょうでもうたわれるさん美歌みかしており、またローウェル・メーソンは1838ねんにボストンの公立こうりつ学校がっこう音楽おんがく教育きょういく導入どうにゅうしたほか、さん美歌みかを1200きょく以上いじょう作曲さっきょくしている。

アメリカ民謡みんよう誕生たんじょう[編集へんしゅう]

農村のうそんでは、アメリカ南東なんとうのアパラチア山脈さんみゃく周辺しゅうへんでスコットランド民謡みんようやアイルランド民謡みんようなどのケルト音楽おんがくがアメリカ民謡みんよう下地したじとなっていく[27]。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターやダルシマー伴奏ばんそうされていたが、やがて黒人こくじん音楽おんがくとの接触せっしょくからブルースの感覚かんかくバンジョーというアフリカ起源きげん楽器がっきれたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカ要素ようそれたりし、ブルーグラスヒルビリーカントリーなどとばれるジャンルのもとになっていく。

ミンストレル・ショー[編集へんしゅう]

ミンストレル・ショー[28]とフォスター[29]とヴォードヴィル[30]

都市としでは、イギリスと同様どうようにパーラー・ミュージックやダンスホールの音楽おんがくやオペレッタが流行りゅうこうしており、イギリスものが主流しゅりゅう専門せんもんもロンドンで修業しゅぎょうしてくるながれがつづいていたが[17]、1820ねんころにミンストレル・ショーという、白人はくじんかおくろって黒人こくじん真似まねをする差別さべつてき喜劇きげき成立せいりつする。各自かくじバンジョー・ヴァイオリン・タンバリン・ボーンズ(うまほねなどでつくった一種いっしゅ打楽器だがっき)で演奏えんそうしながら、コミカルなうたやセリフのやりりをした。このころしん移民いみんとして東欧とうおう(ロシア・ポーランド)や南欧なんおう(イタリア・ギリシャ)からの移民いみん急増きゅうぞうしており、かれらはきゅう移民いみんのように土地とち農場のうじょうつこともできずおおくは都市とし下層かそう労働ろうどうしゃとなり、旧来きゅうらいWASP対立たいりつしていた。このようなしん移民いみんたちのあいだで、黒人こくじんかる見下みくだしてらしできるミンストレル・ショーはれられていた。アメリカポピュラーソング史上しじょう最初さいしょ国際こくさいてきなヒットはミンストレル・ショーからたトマス・ダートマス・ライトの「ジャンプ・ジム・クロウ」(ミンストレル・ショーの代表だいひょうてき黒人こくじんキャラクターの)である。その音楽おんがくおおくは楽譜がくふ出版しゅっぱんされて商業しょうぎょうてき成功せいこうし、アメリカの初期しょきのポピュラー音楽おんがくをけんいんし、19世紀せいきなかばに最盛さいせいむかえたが、南北戦争なんぼくせんそう奴隷どれい解放かいほうてミンストレル・ショーの人気にんきかげり、商業しょうぎょうてきには1910ねんころに終焉しゅうえんむかえた。

こうしたミンストレル・ショーのなかから、フォスターあらわれる。かれはミンストレル・ソングをくところから経歴けいれきをスタートさせており、「おおスザンナ」「草競馬くさけいば」「故郷こきょう人々ひとびと(スワニーかわ)」「主人しゅじんつめたいした」「ケンタッキーの」などはすべてミンストレル・ショーのための作品さくひんである。やがてミンストレル・ソングに作曲さっきょくすることをじ、中流ちゅうりゅう階級かいきゅうけのパーラー・ソングに脱皮だっぴすべく方向ほうこう転換てんかんし、「金髪きんぱつのジェニー」「夢路ゆめじより」などをのこした。当時とうじ作曲さっきょく地位ちいひくく、てい収入しゅうにゅうにあえいでいたフォスターは37さい非業ひごうげたが、作品さくひんおおさと現在げんざいでもうたわれているしたしみやすさ・そのあたえた影響えいきょうから、「アメリカ音楽おんがくちち」「ポピュラー音楽おんがく先駆せんくしゃ」とばれている。かれうたつくかたを、次代じだいのポピュラー音楽おんがく作曲さっきょくたちはこぞって「フック」(ききてをとらえる印象いんしょうてきなメロディ。いわゆる「サビ」)の手本てほんにした[31]

おなじころ、いくつかの独立どくりつしたものからなる舞台ぶたい芸能げいのうや、けいわざ音楽家おんがくか、コメディアン、手品てじな魔術まじゅつなどからなる芸人げいにんのショーがヴォードヴィルばれるようになった。イギリスのミュージック・ホールにたるものであり、寄席よせ演芸えんげい劇場げきじょうやくされる。こうした家族かぞくたのしめる娯楽ごらくじょうをアメリカにひろめた最初さいしょ人物じんぶつは、俳優はいゆう劇場げきじょう支配人しはいにんであったトニー・パスターで、1881ねん、ニューヨーク14丁目ちょうめ劇場げきじょうでバラエティショーをおこなった。ヴォードヴィルは20世紀せいき初頭しょとうにはアメリカで一番いちばん人気にんきのある芸能げいのうとなった。

黒人こくじん霊歌れいか[編集へんしゅう]

黒人こくじんたちには18世紀せいき後半こうはんあたりからキリストきょう普及ふきゅうし、白人はくじんたちもこれを黙認もくにんあるいは推奨すいしょうするようになった[32]とゴスペルとブルース[33]黒人こくじんたちもたたえ礼拝れいはいおこなうようになったが、かれ固有こゆう音楽おんがくてきつてつづけからか、活気かっきあるリズム・交互こうごさけぶような唱法など、相当そうとう荒々あらあらしいかたち礼拝れいはいおこなっていたようである。奴隷どれいだった黒人こくじんたちにとっては、教会きょうかいでの礼拝れいはい唯一ゆいいつ白人はくじん監視かんしがなくごせる場所ばしょであり、社交しゃこうとエンターテインメントの場所ばしょでもあった。日曜日にちようび黒人こくじん礼拝れいはいのようすを描写びょうしゃした当時とうじ記録きろくによれば、になっておどりながらすりあし時計とけい反対はんたい方向ほうこうまわり、リーダーと会衆かいしゅうとが掛合かけあいでうたい(交互こうご唱)、興奮こうふんたかまって憑依ひょうい状態じょうたいたっすることもあった(リング・シャウトという)。うたといっしょにゆびをパチパチらしたり、手拍子てびょうしをうったり、ゆかみならしたりということもられ、そのなかにはポリリズムがふくまれる。こうした黒人こくじんたちのさん美歌みかは、白人はくじんさん美歌みか歌詞かし旋律せんりつ黒人こくじんのリズム・交互こうご唱・シャウトにはめんだものとえる。

1863ねん奴隷どれい解放かいほう以後いごには、そこから黒人こくじん霊歌れいかばれるジャンルがまれる、これは白人はくじんがリーダーになってヨーロッパのさん美歌みかふう和音わおんをつけ、楽譜がくふとしてしたものであり、おおくのきょくられているが純粋じゅんすい黒人こくじんのものとはえず、黒人こくじん礼拝れいはいから再度さいど白人はくじん要素ようそ重点的じゅうてんてき抽出ちゅうしゅつしたものとえる。それにたいして黒人こくじんたち本来ほんらいのものにちかさん美歌みかゴスペルばれ、南部なんぶおよび北部ほくぶ東部とうぶ都市とし黒人こくじん居住きょじゅう数多かずおおまれた黒人こくじん教会きょうかい拠点きょてんとして独自どくじ宗教しゅうきょう音楽おんがく発展はってんつづけた。

おなじく奴隷どれい解放かいほうには、南部なんぶ農業のうぎょう地帯ちたい黒人こくじんたちが抑圧よくあつなかあじわった個人こじんてき感情かんじょうつぶやくようにうたとしてブルース発生はっせいし、ギターの伴奏ばんそうともななかでヨーロッパの和声わせい構造こうぞうにつけていく。標準ひょうじゅんてきなブルースの定型ていけいは、A A B の3ぎょうからを12小節しょうせつおさめ、各行かくこうごとに後半こうはんでギターがうたあいだ即興そっきょうてきかたちになっている。おとづかいとしてはブルー・ノート・スケールばれる黒人こくじん音楽おんがく特質とくしつしめ音階おんかい(ミとシ(さらにソも)がときにひくめのおとになる)に特徴とくちょうがある。

吹奏楽すいそうがく流行りゅうこう[編集へんしゅう]

アメリカではイギリスやヨーロッパの影響えいきょうで、18世紀せいきまつころから鼓笛隊こてきたいなどがまれ、南北戦争なんぼくせんそうころにブラスバンドがさかんになり、19世紀せいき後半こうはんには博覧はくらん会場かいじょう公園こうえんなどで演奏えんそうする商業しょうぎょうバンドが発達はったつした[34]とくにアメリカ海兵かいへいたいバンドの楽長がくちょうだったジョン・フィリップ・スーザ退役たいえきしてつくったスーザ吹奏楽すいそうがくだんが1892ねん活動かつどう開始かいしすると、その演奏えんそう水準すいじゅんたかさから大人気おとなげとなった。19世紀せいきまつにアメリカで一番いちばん有名ゆうめいだった音楽家おんがくかは、「行進曲こうしんきょくおう」の世界せかいられたスーザだった。おなごろ、バス・ドラムのうえにシンバルをセットしたり、バス・ドラムをペダルで演奏えんそうするドラムセット基本きほんアイデアがまれ、リズムセクションの人数にんずうらすのに貢献こうけんした[35]

ヨーロッパからの移入いにゅう文化ぶんか[編集へんしゅう]

19世紀せいき後半こうはん東部とうぶ都市としでは、J・シュトラウス2せいレハールオッフェンバック、それにロンドンのギルバートとサリバンによるオペレッタが移入いにゅうされ、人気にんきはくした[36]

おな時期じき物語ものがたりせいがなく、うた、ダンス、コメディの寸劇すんげきなどがえんじられるショーとして、レビュー劇場げきじょう上流じょうりゅう階級かいきゅうようのサロンなどでもてはやされていた。レビューは語源ごげんてきには〈さい〉を意味いみするフランス語ふらんすごがジャンルのとなったもので、1820年代ねんだいのパリで年末ねんまつにそのとしのできごとを風刺ふうしてき回顧かいこするためにえんじられたもの起源きげんとする。その上演じょうえん時期じき関係かんけいなく、おおむね風刺ふうしてき内容ないようみじか場面ばめんをつないだ芸能げいのうすようになった[37]

ワルツおうJ. シュトラウスは、〈ウィンナ・ワルツ〉の名曲めいきょく数多かずおおつくったが、熱狂ねっきょうてきにヨーロッパにひろがったこのワルツはアメリカにわたり、ゆるやかなボストン・ワルツがまれた[38]

18世紀せいきまつから19世紀せいきまつにかけて、アメリカの領土りょうどやく3ばいに、人口じんこう移民いみんしん領土りょうど獲得かくとくともなぞうやく14ばいになっている[39]。こうしたなか文化ぶんかてき統一とういつなどのぞむべくもないが[40]、このように様々さまざま民俗みんぞく音楽おんがく伝承でんしょう相互そうご接触せっしょくして文化ぶんか変容へんようするところから、多様たようなジャンルがまれてくることになる。

ポピュラー音楽おんがく誕生たんじょう-19世紀せいきまつから1920年代ねんだい[編集へんしゅう]

最初さいしょ定義ていぎしたポピュラー音楽おんがくの「近代きんだいてき商業しょうぎょう音楽おんがく」という要素ようそ明確めいかくになるのが、1880~90年代ねんだいの「音楽おんがく商品しょうひんシステム確立かくりつ」である。この商品しょうひんシステムは、自然しぜん発生はっせいてきでローカルなジャンルをみつつ発展はってんしていく[14]。アメリカはだい1世界せかい大戦たいせん影響えいきょうをほぼけておらず、史上しじょう最高さいこう繁栄はんえいせた時期じきだったこともこれを後押あとおしし[41]だい1世界せかい大戦たいせんからだい恐慌きょうこうまでの戦後せんご繁栄はんえい享楽きょうらくは「ジャズ・エイジ」ともばれる[42]

ティン・パン・アレー[14][編集へんしゅう]

フォスターの時期じき、つまり19世紀せいきなかばにすでに幅広はばひろ活動かつどうおこなっていた楽譜がくふ出版しゅっぱん業界ぎょうかいは、1880~90年代ねんだいにはニューヨーク、とくにマンハッタンの下町したまちの〈ティン・パン・アレー〉とばれるとおりに集中しゅうちゅうし、音楽おんがく商品しょうひんするシステムを確立かくりつした。業者ぎょうしゃ作詞さくし具体ぐたいてき内容ないようにまで注文ちゅうもんをつけて作詞さくしさせ、作曲さっきょくにもこまかい指示しじのもとに作曲さっきょくさせて、そのきょく楽譜がくふ印刷いんさつして販売はんばいし、きょく話題わだいになるように宣伝せんでんマンに店先みせさきなどでうたわせ、そのきょく人々ひとびとひろうたわれれば楽譜がくふれて商業しょうぎょうてき成功せいこうする、という仕組しくみだった。

この商品しょうひんのシステムでは、最初さいしょから流行りゅうこうしそうなきょく作詞さくし作曲さっきょくかせるための〈プロデュース〉と、それをおおくのひとおぼえてもらい流行りゅうこうさせるための〈プロモーション〉というふたつの作業さぎょう重要じゅうようなポイントとなる。プロモーションがうまくくよう、そのきょく人気にんき芸人げいにんうたってもらい、それにたいして謝礼しゃれい支払しはらうのを〈ペイオーラ〉とんだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳ちょくやくすれば「すず鍋小路なべこうじ」となり、それぞれの会社かいしゃ試演しえんおこなっていたため大変たいへんにぎやかだったことからついた名前なまえであるが、のちにポピュラー音楽おんがく業界ぎょうかいすようにもなった。

きょくは8小節しょうせつ×4ぎょうの32小節しょうせつ標準ひょうじゅんで、ティン・パン・アレーの出版しゅっぱんしゃ楽譜がくふり、レコード会社かいしゃはオーケストラ伴奏ばんそう録音ろくおんし、片面かためん1きょくずつのシングルばんとしてすのが当時とうじ典型てんけいてき発表はっぴょう方法ほうほうだった。このようなかたち音楽おんがくポピュラー・ソングばれ、このティン・パン・アレーによって生産せいさんされる音楽おんがくが「メインストリーム」(主流しゅりゅう音楽おんがくとしてはばかせ、かれらの確立かくりつした生産せいさん販売はんばいシステムは、そのレコード業界ぎょうかいにも踏襲とうしゅうされ、1950年代ねんだいなかばまでアメリカ音楽おんがく業界ぎょうかいささえた。この「ポピュラー・ソング」は、さい狭義きょうぎのポピュラー音楽おんがく定義ていぎでもある。

こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリスさくの「舞踏ぶとうかいのあとで」(1892)の楽譜がくふ史上しじょうはじめてミリオン・セラーを記録きろくし、楽譜がくふ出版しゅっぱん産業さんぎょうきゅう成長せいちょうをうながした。どう時期じき大衆たいしゅう芸能げいのう主流しゅりゅうとなったヴォードヴィルでは、人気にんき歌手かしゅたちが全米ぜんべい巡業じゅんぎょうして、ティン・パン・アレーさんうた大衆たいしゅう普及ふきゅうさせた。

ティン・パン・アレーりゅう商業しょうぎょう主義しゅぎ路線ろせんはアメリカのポピュラー音楽おんがく特徴とくちょうで、ヨーロッパのような「国民こくみんだい多数たすう共通きょうつう文化ぶんか基盤きばん」が存在そんざいしないアメリカでは、自然しぜん発生はっせいてきなにかの音楽おんがくだい流行りゅうこううことは大変たいへんこりにくく、楽譜がくふ会社かいしゃ・のちにはレコード会社かいしゃ企画きかくして流行はやらせる音楽おんがくがメインという状況じょうきょうつづいていく。もちろん意図いとしないところから意図いとしないきょくだい流行りゅうこうすることはあり、またティン・パン・アレーがわ企画きかくだいはずれする場合ばあいおおく、つねにうまくっているわけではなかったが、ニューヨークの音楽おんがく会社かいしゃ商業しょうぎょうてき流通りゅうつうさせるのがアメリカのポピュラー音楽おんがくだ、とながれはこのころ確立かくりつした。

ミュージカル[43][編集へんしゅう]

ミュージカルは「ミュージカル・コメディ」のりゃく。19世紀せいきなかばにあらわれ、20世紀せいき前半ぜんはんにニューヨークのブロードウェイ中心ちゅうしんにしてアメリカで発展はってんした。オペレッタ、パントマイム、ミンストレル・ショー、ヴォードヴィルなど、19世紀せいきのさまざまな演劇えんげきから影響えいきょうをうけて成立せいりつした。元来がんらいはコメディのとおり、他愛たあいのない喜劇きげきてき物語ものがたりをもっぱらあつかっていたが、内容ないよう深刻しんこくさをしたり、本格ほんかくてき演劇えんげきせい獲得かくとくしたりするにつれ、たんにミュージカルとばれるようになった。かりやすい物語ものがたりしたしみやすい音楽おんがくときにはスペクタクルあふれる装置そうちやコーラス・ガールの肉体にくたいてき魅力みりょくなどの視覚しかくてき要素ようそ観客かんきゃくにアピールする、ショー・ビジネスがさかんなアメリカにふさわしい、費用ひようかる贅沢ぜいたく舞台ぶたい芸術げいじゅつである。

当初とうしょはそのとおり、かたちばかりの物語ものがたりうたおどりをつないだたわいのない恋愛れんあいげき笑劇しょうげきと、ヨーロッパ出身しゅっしん作曲さっきょくによるオペレッタふう作品さくひんおおかった。しかし1927ねんの「ショウボート」で、現実げんじつかんのある舞台ぶたい人種じんしゅ差別さべつなどの社会しゃかい問題もんだいんだ物語ものがたりでミュージカルに文学ぶんがくせいまれ、以後いご都会とかいてき機知きち文学ぶんがくせいんだミュージカルがおおつくられた。

ジャズの誕生たんじょう[編集へんしゅう]

黒人こくじんたちの音楽おんがくでは、1890年代ねんだいラグタイム誕生たんじょうした[44]。これは、ピアノの右手みぎてにアフリカ音楽おんがく起因きいんするシンコペーション多用たようしたメロディ、左手ひだりてにはマーチに起因きいんする規則きそくてき伴奏ばんそうわせたもので、ミンストレル・ショーのうた母体ぼたい発展はってんしてきた。1900ねん前後ぜんこう活躍かつやくしていたスコット・ジョプリンという黒人こくじんピアニストが、1899ねんに「メイプル・リーフ・ラグ」を発表はっぴょうし、1902ねんには「ジ・エンターテイナー」を発表はっぴょうしている。20世紀せいきはじめの10ねんほどのあいだは、このラグタイムとブルースが商業しょうぎょうてきにヒットしていた。

おなじく1900年代ねんだいには、ニューオーリンズのもと奴隷どれい黒人こくじんたちがはじめたブラスバンドが不思議ふしぎとスウィングするリズムがあるとして評判ひょうばんになり、白人はくじんのバンドに真似まねされたり、そのままのスタイルでダンスホールにやとわれたりするようになる。これがジャズ誕生たんじょうである。ニューオーリンズの初期しょきのジャズ(ディキシーランド・ジャズう)でいち番目ばんめつのはブラスバンドの行進曲こうしんきょく要素ようそだが、これまでにてきたブルース(とくにブルー・ノートとわれる音階おんかい)、ラグタイム、黒人こくじん霊歌れいか要素ようそふくんでいる。また、どのバンドにもクラシック音楽おんがく素養そようにつけたクレオール白人はくじん黒人こくじん混血こんけつひと)がいて、楽譜がくふめないもと奴隷どれいたちにできるだけの指導しどうおこなっていた。ディキシー・ランド・ジャズはトランペット・クラリネット・トロンボーン・ピアノ・ベース(もとはチューバ)・ドラム・ギター(もとはバンジョー)が標準ひょうじゅんてき編成へんせいで、まったコード進行しんこうかえされるなか管楽器かんがっきたちが即興そっきょう演奏えんそうおこない、そのときにはシンコペーションやスイングでリズムをゆたかにするような工夫くふうおこなわれる。ジャズも様々さまざまなスタイルがあるが、この即興そっきょうとスイングの要素ようそはどのジャズにもられる。

ラグタイムやジャズは、黒人こくじん音楽おんがくではあるがヨーロッパ音楽おんがく要素ようそおおふくんでおり、メイン・ストリームがわとすぐに接触せっしょくしょうじ、ティン・パン・アレーからラグタイムやジャズのきょくされて人気にんきたり、ぎゃくにティン・パン・アレーのきょくをジャズ・ミュージシャンが演奏えんそうしたりということがさかんにられるようになった。ジャズは本質ほんしつてきには「演奏えんそうテクニック」であり、どんなきょくでも演奏えんそうできるわりにかならなにか「もとネタ」を必要ひつようとする。ティン・パン・アレーのきょくは「もとネタ」としてよく使つかわれた。こののち1940年代ねんだいまで、ジャズは時代じだい主役しゅやくとなっていく。

ラグタイムやジャズは当時とうじのアメリカじんたちのあいだでは芸術げいじゅつてき価値かちみとめられておらず、「黒人こくじんたちのやっているわけのわからない音楽おんがく」とおもわれていたようである。しかし、その価値かちはむしろヨーロッパのクラシックけい作曲さっきょくみとめられた。ドビュッシーミヨーあきらかにラグタイムやジャズの影響えいきょうけた作品さくひんのこしている。

1910ねん~20ねんにかけて産業さんぎょう構造こうぞう農業のうぎょうから工業こうぎょう転換てんかんするにつれてアメリカでは南部なんぶから北部ほくぶへの人口じんこうだい移動いどうこり、それにわせるようにおおくのジャズメンがニューオーリンズからシカゴに移動いどうする。シカゴでは天才てんさいトランペット奏者そうしゃルイ・アームストロングすべてのジャズ奏者そうしゃ編曲へんきょくしゃ甚大じんだい影響えいきょうあたえ、ジャズの時代じだいきずく。1920ねんごろにはドラムセットにハイハットくわわり、現在げんざいとほぼ同様どうようのリズムパターンがせるようになった。

ティン・パン・アレーの全盛期ぜんせいき-1920~30年代ねんだい[編集へんしゅう]

しん技術ぎじゅつとポピュラー音楽おんがく[編集へんしゅう]

レコード[45][編集へんしゅう]

1887ねん発明はつめいされた円盤えんばんがたレコード徐々じょじょ浸透しんとうし、1925ねん電気でんき録音ろくおん方式ほうしき導入どうにゅうによる音質おんしつ向上こうじょうにも後押あとおしされ、1920年代ねんだいなかばにはアメリカ全土ぜんどでレコードは年間ねんかん1おくまい以上いじょうげるようになった。

PA[46][編集へんしゅう]

電気でんき録音ろくおん導入どうにゅう以前いぜん歌手かしゅこえおおきくなければならなかったが、マイクロフォン導入どうにゅうにより、声量せいりょうがなくてもマイクを効果こうかてきにつかって表情ひょうじょうせるようになり、ビング・クロスビーなどによってソフトにささやくようにうたうクルーニング唱法(クルーンには感傷かんしょうてきにうたうという意味いみもある)がひろまった。オペラのように、肉声にくせいとおくまでひびわたらせようとすると不可能ふかのうなささやくようなうたかたは、現在げんざいのポピュラーきょくでも多用たようされているが、音響おんきょう録音ろくおん技術ぎじゅつ進歩しんぽ不可分ふかぶんだった。やがてポピュラー音楽おんがく実演じつえんのステージでさえも、拡声かくせい装置そうちPublic Address)がはなせなくなっていく。

ラジオ[47][編集へんしゅう]

おなじく1920年代ねんだいにはラジオ映画えいが浸透しんとうはじめ、これがポピュラー音楽おんがく大衆たいしゅうつたえるのにおおきな役割やくわりたすことになる。ラジオは当初とうしょレコードと競合きょうごうするとおもわれていた。しかしレコードはラジオの番組ばんぐみ制作せいさく簡略かんりゃく貢献こうけんしただけでなく、音楽おんがく放送ほうそうされることによって、おおくのあらたなききて獲得かくとくした。

映画えいが[48][編集へんしゅう]

映画えいが産業さんぎょうは20世紀せいきはじめの小規模しょうきぼ映画えいがかん林立りんりつはじまった。1915-20ねんにはおおくの映画えいが会社かいしゃがカリフォルニアしゅうハリウッドうつり、映画えいが聖地せいちとなった。映画えいがははじめはサイレント(音声おんせいなし)だったが、1926ねんトーキー映画えいが発明はつめいされ、映画えいがおとをつけることが出来できるようになると、まずミュージカル映画えいがだい流行りゅうこうする。また歌手かしゅ演奏えんそうしゃ出演しゅつえんがレコードのきを左右さゆうすることから、主題歌しゅだいか挿入歌そうにゅうかのタイアップがすすんだ。

ハリウッドの映画えいが各社かくしゃがシステムされるにつれ、各社かくしゃとも音楽おんがく担当たんとう部署ぶしょ整備せいびし、50にんちかいオーケストラをかかえるようになり、映画えいがのための音楽おんがく担当たんとうするようになった。オーケストラによる後期こうきロマンスタイルの映画えいが音楽おんがくというかたちはこのころ確立かくりつし、シンフォニック・スコアとばれている。映画えいが音楽おんがくというジャンルは、このようななかからまれてきた。

しん技術ぎじゅつ影響えいきょう[47][編集へんしゅう]

レコードの普及ふきゅうは、音楽おんがくのありかたおおきなえた。世界せかい各地かくち音楽おんがく時間じかん場所ばしょをこえてよりおおくの聴衆ちょうしゅうかれるようになり、ここまでにてきた様々さまざまなジャンルの音楽おんがくまちにあふれ、家庭かていはいってくるようになった。都市とし商業しょうぎょうてき制作せいさくされる音楽おんがく(メイン・ストリームの音楽おんがく)と地域ちいき密着みっちゃくした民謡みんようなどとの分離ぶんりがすすんだ。

また、レコードやラジオや映画えいがつうじて特定とくてい演奏えんそうしゃ歌手かしゅとむすびついたきょくがくりかえしながれることで、音楽家おんがくかがスターしていく。あたらしいスターをつくりだそうとする音楽おんがく産業さんぎょうとききてこのみのうつわりを反映はんえいして、流行りゅうこうのサイクルやスターの寿命じゅみょうがちぢまった。

さらに、音楽おんがく大量たいりょう生産せいさんけに均質きんしつする傾向けいこうや、ききて受動じゅどうてき消費しょうひしゃになる傾向けいこうてきた。ミリオン・セラーの現象げんしょうは、流行りゅうこうきょく次々つぎつぎすことをレコード資本しほん目標もくひょうにさせ、音楽おんがく産業さんぎょう主導しゅどうけん楽譜がくふ出版しゅっぱんからレコードにうつった。

ティン・パン・アレーの全盛期ぜんせいき[編集へんしゅう]

ティン・パン・アレー[編集へんしゅう]

こうしたなか、ティン・パン・アレーは1920-30年代ねんだい全盛期ぜんせいきむかえた。当時とうじのヒットきょくはほとんどすべてニューヨークを本拠地ほんきょちとするいちにぎりの作曲さっきょく作詞さくしがつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィンアイラ・ガーシュウインロジャースハマースタインおなじくロジャースとロレンツ・ハートなど、作曲さっきょく作詞さくしおおくの場合ばあいコンビをんで活動かつどうした[31]

ヴォードヴィルは1928ねん人気にんき絶頂ぜっちょうむかえ、1000あまりあったアメリカのヴォードヴィル劇場げきじょうに、およそ200まんにん観客かんきゃく毎日まいにちおしよせた[30]。またチャールズ・チャップリンバスター・キートンマルクス兄弟きょうだいといった、1910年代ねんだいから20年代ねんだいスラップスティック・コメディ有名ゆうめいなスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演しゅつえんしたのちに映画えいが産業さんぎょうはいり、ヴォードヴィルの伝統でんとうつづけた[49]

ヴォードヴィルは30年代ねんだいはいると映画えいがされてになるが、かわって大衆たいしゅう芸能げいのう王座おうざについたブロードウェイ・ミュージカルのほか、ダンス・オーケストラの専属せんぞく歌手かしゅも、ティン・パン・アレーのうた普及ふきゅう貢献こうけんした[31]さきげたロジャースやガーシュウィンもおおくのミュージカルをのこしている。

スイング・ミュージック[編集へんしゅう]

シカゴでは「ジャズ」ではなく「スイング・ミュージック」と言葉ことば使つかったベニー・グッドマンが1935ねんにブレイクし、スイングの時代じだいをもたらし、これは1940年代ねんだいはじめまでつづく。このころ人気にんきバンドはすべ白人はくじんだった。黒人こくじん演奏えんそうするのは下品げひん喧騒けんそうなジャズ、白人はくじんがやるのはスマートで健康けんこうてきなスイング・ミュージックというのが、はじめてのあたる場所ばしょたジャズにたいする世人せじんかただった[50]

ジャズはビッグバンドというトランペット・トロンボーンの金管楽器きんかんがっき6-8めい・サックス中心ちゅうしん木管もっかん楽器がっき4-6めい・ピアノ・ギター・ベース・ドラムなどのリズムセクション3、4めい標準ひょうじゅんてき編成へんせいとなり[51]、4ビート・スイング・リフの使用しようかくメンバーの長大ちょうだいなソロなどを特徴とくちょうとする[52]。ポピュラーかいのミュージシャンも、ジャズメンほど自由じゆう即興そっきょうはおこなわなかったが、あきらかにジャズに特徴とくちょうてきなリズムとメロディをとりいれ[52]、1930年代ねんだいはじめには、ジャズの感覚かんかく吸収きゅうしゅうしたさきのビング・クロスビーがメイン・ストリームでは最高さいこう人気にんき[53]、ポピュラー・シンガーがジャズふう楽団がくだん伴奏ばんそううたうのはごくありふれたこととなった[14]社交しゃこうダンスの音楽おんがくにもジャズの要素ようそ大幅おおはばれられた[50]

メイン・ストリームとローカル[編集へんしゅう]

この時代じだいは、1930年代ねんだい初頭しょとうだい不況ふきょうによる落込おちこみはあったにせよ、アメリカの音楽おんがく業界ぎょうかいもっと順調じゅんちょう進展しんてんした、メイン・ストリーム音楽おんがく黄金おうごん時代じだいだった。ここにげたしん技術ぎじゅつすべてポピュラー音楽おんがく大衆たいしゅう定着ていちゃくさせるのに貢献こうけんした。しかし大衆たいしゅう興味きょうみをつねにきつけることには、ティン・パン・アレーのプロダクションとプロモーションの手腕しゅわんをもってしても限界げんかいがあり、たとえば1930ねんにキューバの「南京豆なんきんまめ」がヒットしてルンバ・ブームが突如とつじょこるなど、植民しょくみんがたのポピュラー音楽おんがく国外こくがいからはいってきて人気にんきうばい、音楽おんがく産業さんぎょうがそれをいかけるといった現象げんしょうもしばしばあった[14]

このことは、メイン・ストリーム(ティン・パン・アレーのポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル、先進せんしんこくがたのポピュラー音楽おんがく)と、ローカルな民族みんぞくてき基盤きばんもとづいた音楽おんがく(ブルース・ラグタイム・ジャズなど、植民しょくみんがたのポピュラー音楽おんがく)のその関係かんけいしめしている。ジャズがそうであったように、もともとはサブカルチャーだったものがメイン・ストリームにりこまれ、音楽おんがく業界ぎょうかい生産せいさん様式ようしきまれてメイン・カルチャーするというながれである[14]

サブカルチャーは黒人こくじんのものとはかぎらない。1920年代ねんだい、レコード会社かいしゃが「ヒルビリー」とうレーベルで、南部なんぶ白人はくじん大衆たいしゅうけにアメリカ民謡みんよう起源きげんのある音楽おんがくりだした。アメリカ民謡みんよう起源きげんつメロディと、孤独こどく貧困ひんこん望郷ぼうきょうなどどう時代じだいのメイン・ストリームがげないテーマをふくんだ歌詞かし共感きょうかんんだ。27ねんにミシシッピまれのロジャーズカーター・ファミリー評判ひょうばんとなり、以後いご急速きゅうそく商業しょうぎょう音楽おんがくとして成長せいちょうした。映画えいが誕生たんじょう西部せいぶげきでカウボーイ姿すがたうたって人気にんきものおおて、西部せいぶ開拓かいたく時代じだいへの懐古かいこ田舎いなか生活せいかつへの郷愁きょうしゅうがこのジャンルの特徴とくちょうとなった[54]。これはのちにカントリー&ウエスタンばれるジャンルとなるが、白人はくじんになでありながら、ローカルな下層かそう大衆たいしゅう音楽おんがくであり、サブカルチャーとしてはじまり、のちにメイン・ストリームにりこまれることになる[14]

だい世界せかい大戦たいせん前後ぜんこう-1940年代ねんだい~1950年代ねんだいなか[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんのアメリカは、本土ほんど直接ちょくせつ攻撃こうげきされることがほとんどなく[55]生活せいかつ必需ひつじゅひん生産せいさん供給きょうきゅうとどこおることもなかったため、戦争せんそう国民こくみん生活せいかつへの影響えいきょう比較的ひかくてき軽微けいびであった[56]軍事ぐんじ増産ぞうさんはむしろ景気けいき回復かいふくさせている[57]。しかし国民こくみんの1わりたる1200まんにん兵士へいしとなり、おおくの軍需ぐんじゅ工場こうじょうでは女性じょせい工員こういんとしてはたらくことになった[58]西海岸にしかいがんでは防空壕ぼうくうごう設置せっち灯火ともしび規制きせいおこなわれた。食料しょくりょうひんにち用品ようひん配給はいきゅうせい他国たこく同様どうようおこなわれた[59]。バーやダンスクラブの営業えいぎょう制限せいげんおこなわれ、後述こうじゅつのようにジャズのかたおおきく影響えいきょうしている[50]軍需ぐんじゅ産業さんぎょう発達はったつ南部なんぶから北部ほくぶなどへの人口じんこう移動いどうみ、ヒルビリーやブルースやゴスペルなど南部なんぶ起源きげんのある音楽おんがく人気にんきたかめた[60]。1945ねんには大戦たいせん終結しゅうけつし、経済けいざい状況じょうきょう回復かいふくしたものの、冷戦れいせん固定こていし、朝鮮ちょうせん戦争せんそう東西とうざい軍拡ぐんかく競争きょうそうおこなわれ、政治せいじてき文化ぶんかてきにはやや保守ほしゅした[61]

音楽おんがく関連かんれんでいえば、ニューヨーク・フィル[62]やNBC交響こうきょう楽団がくだん演奏えんそうわらずおこなわれており、ブロードウェー・ミュージカルは新作しんさく提供ていきょうつづけており[63]、ビング・クロスビー[64]フランク・シナトラ[65]人気にんきあつめており、ジャズ以外いがいには明白めいはくまけ影響えいきょうはあまりなかったようである。1930年代ねんだいから黄金おうごんむかえていたハリウッド映画えいが戦争せんそうプロパガンダ映画えいが制作せいさくし、隆盛りゅうせいつづいていた[66]

しかし、戦争せんそう大衆たいしゅう音楽おんがくへの嗜好しこう影響えいきょうあたえた可能かのうせい容易ようい指摘してきできる。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」(1942ねん)は現在げんざいいたるも世界せかい歴代れきだいシングル売上うりあげ1くずしていない[67]が、これは憂鬱ゆううつさと家庭かていいやしのイメージの混在こんざい戦時せんじちゅうのリスナーのしんをとらえたためであり、べいぐん放送ほうそうにはこのうたのリクエストが殺到さっとうしたという[68]

愛国心あいこくしん高揚こうようはヒルビリーの国民こくみんてき人気にんき後押あとおしし、テネシーしゅうメンフィスがそのメッカとなった。代表だいひょうハンク・ウィリアムズがいる[54]

厭戦えんせん気分きぶんたかまりは「なが旅路たびじて、かえる」という歌詞かしドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」(1944ねん)を23しゅう連続れんぞくチャート1げた[69]

ジャズとブルース[編集へんしゅう]

ジャズ[編集へんしゅう]

ジャズは基本きほんてきにはダンス・ミュージックとして演奏えんそうされていたが、1941ねん日米にちべい開戦かいせんとともに戦時せんじ統制とうせいによりダンスホールは高率こうりつ課税かぜい対象たいしょうとなり、また成人せいじん男子だんしおおくは徴兵ちょうへいされ、ビッグバンド編成へんせいでのだい人数にんずう演奏えんそうがほとんど不可能ふかのうになってしまった。ジャズの編成へんせいは3~8にんしょう人数にんずうし、即興そっきょううできそうジャム・セッションを連日れんじつかえかたちになり、そこからアドリブ・ソロとビートかん強調きょうちょうするビバップというジャンルがまれた。チャーリー・パーカーはビバップの代表だいひょう人物じんぶつである[44]

ビバップはまとまりにけるきらいがあり、その要素ようそぎつつもそれ以前いぜんのスウィングの要素ようそもとりいれ、冷静れいせい編曲へんきょくもとづいたなめらかでソフトな演奏えんそうのスタイルのクール・ジャズがニューヨークでまれた[44]。1949ねんマイルス・デイヴィスきゅう重奏じゅうそうだんのアルバム「クールの誕生たんじょう」がそのはじまりだが、やがて朝鮮ちょうせん戦争せんそうこうきょうでわくロサンゼルスに拠点きょてんうつウェスト・コースト・ジャズばれるようになった[70]。ロサンゼルスにはヨーロッパ音楽おんがく巨匠きょしょうミヨーシェーンベルクがナチス迫害はくがいけて移住いじゅうしてきており、しばしば近代きんだい音楽おんがくとジャズの融合ゆうごう真面目まじめこころみられた。ただし、これもどちらかえば白人はくじん中心ちゅうしんのジャズだった[44]

リズム・アンド・ブルース[編集へんしゅう]

1940年代ねんだいにはエレクトリック・ギター急速きゅうそく普及ふきゅうし、黒人こくじん音楽おんがく細々こまごまつづいていたブルースが人口じんこう移動いどうともなって北部ほくぶ都市とし流入りゅうにゅう[60]、エレクトリック・ギターをれてビートを強調きょうちょうしつつジャズとゴスペルの要素ようそれ、リズム・アンド・ブルースというジャンルを[14]。もともとこの言葉ことばは、当時とうじレイス・ミュージック(人種じんしゅ音楽おんがく)とばれていた黒人こくじん音楽おんがく[71]あたらしいとしてかんがえられたものだった[72]。ジャズは当初とうしょ黒人こくじん音楽おんがくだったが、白人はくじんのジャズ・プレイヤーが大量たいりょう登場とうじょうしたり、メイン・ストリームの音楽おんがくとなって商業しょうぎょう主義しゅぎ路線ろせんっかったり、ダンス・ミュージックとして洗練せんれんされたり、クラシックとの接点せってん発生はっせいしたり[44]と、もとの黒人こくじん音楽おんがく活気かっきとはかけはなれたものになっていた。このリズム・アンド・ブルースはそういったなか登場とうじょうし、とう黒人こくじんだけでなく白人はくじん若者わかもの熱狂ねっきょうしてきあるいはおどるという現象げんしょうきた[14]ビッグ・ジョー・ターナーはリズム・アンド・ブルースの初期しょき代表だいひょうてき人物じんぶつである。

戦後せんご動向どうこう[編集へんしゅう]

戦後せんごのヨーロッパでは、フランスのシャンソンのエディット・ピアフ、イタリアのカンツォーネ歌手かしゅドメニコ・モドゥーニョ人気にんきあつめた。スペインではフラメンコ歌手かしゅ人気にんきあつめ、アフリカ・西にしアジア・インド・東南とうなんアジアなどでもポピュラー音楽おんがくかい大物おおもの登場とうじょうしている。日本にっぽんでは美空みそらひばり登場とうじょうし、それまでのややぎこちない日本にっぽん歌謡かよう新風しんぷうんだ。またキューバのバンドリーダーのペレス・プラードがアメリカにんだマンボ若者わかもの熱狂ねっきょうさせた。この時代じだい中村なかむらとうようは「世界せかいポピュラー音楽おんがく黄金おうごん」といている[13]

こうしたなかマントヴァーニ(イギリス)、パーシー・フェイス(カナダ)、フランク・プゥルセル(フランス)らクラシックの教育きょういくけたミュージシャンが、自身じしんのオーケストラをひきいてムード音楽おんがく(のちにイージーリスニングばれる[73])をひらく。器楽きがくきょくでありながら、全米ぜんべいヒットチャート上位じょういにたびたびんだ[74][75][76]

ハリウッドは戦後せんご独占どくせん禁止きんしほう適用てきようによるグループ解体かいたい赤狩あかがりの標的ひょうてきになったことによる優秀ゆうしゅうなスタッフの追放ついほう郊外こうがい人口じんこう増加ぞうかとテレビの浸透しんとうによる人々ひとびと生活せいかつ様式ようしき変化へんかかさなり危機ききむかえるが、作品さくひんそのものは名作めいさくがつくられつづけ、西部せいぶげきやミュージカル映画えいが傑作けっさく(「あめうたえば」など)と数々かずかずのスター(フレッド・アステアジュディ・ガーランドジーン・ケリーなど)がまれつづけた[77]だい世界せかい大戦たいせん前後ぜんこうからロック・アンド・ロールが台頭たいとうするあたりにかけて時期じきつくられた作品さくひんぐんは、今日きょうにおいてスタンダードとみなされているものがおおい。詳細しょうさいについてはスタンダード項目こうもく参照さんしょうのこと。

しん技術ぎじゅつとポピュラー音楽おんがく[編集へんしゅう]

レコードの進化しんか・テープレコーダーの登場とうじょう[78][編集へんしゅう]

レコードの技術ぎじゅつとしては、1945ねんたか周波数しゅうはすうほどおおきく録音ろくおん再生さいせい電気でんきてき調整ちょうせいして音質おんしつたかめる技術ぎじゅつのプリエンファシスが開発かいはつされ、48ねんごろからはそれまでのSPレコードにわってLPレコードがもちいられるようになり、50年代ねんだい以降いこうはステレオ録音ろくおん登場とうじょうし、「原音げんおん忠実ちゅうじつ」と意味いみ略語りゃくごのHi-Fiがマーケティングに使つかわれるようになった。おなじく50年代ねんだい以降いこう磁気じきテープによる録音ろくおん普及ふきゅうし、なま演奏えんそうだけによらない音楽おんがくづくりにみちひらいた。

テレビ[編集へんしゅう]

アメリカでは41ねんテレビ放送ほうそう規格きかくめられ、45ねんと50ねんにはしん技術ぎじゅつ開発かいはつされて画質がしつ向上こうじょうし、普及ふきゅう拍車はくしゃがかかった。その結果けっか、55ねんにはテレビ普及ふきゅうりつはアメリカの家庭かていの67%にたっした[79]。48ねんからはエド・サリヴァン・ショーはじまり、おおくのミュージシャンが登場とうじょうした[80]

ロックの誕生たんじょう沈滞ちんたい-1950年代ねんだいなか[81][編集へんしゅう]

リズム・アンド・ブルースは白人はくじん若者わかものをも熱狂ねっきょうさせたが、これを白人はくじん一部いちぶがリズム・アンド・ブルースの感覚かんかくれるうごきがられはじめる。白人はくじんビル・ヘーリーは54ねんに「シェーク・ラトル・アンド・ロール」と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音ろくおんしたが、前者ぜんしゃさきビッグ・ジョー・ターナー後者こうしゃソニー・デーのレコードの模倣もほうで、どちらもオリジナルは黒人こくじんであった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はよく55ねん映画えいが暴力ぼうりょく教室きょうしつ」にもちいられ、だいヒットとなった。

おなじ54ねんにはメンフィスの電機でんき会社かいしゃ運転うんてんしゅだったエルヴィス・プレスリー地元じもとちいさなレコード会社かいしゃから「ザッツ・オール・ライト」をしたが、これも黒人こくじんアーサー・クルーダップ作品さくひんであった。

こうしてまれてきたあたらしい音楽おんがくは、ラジオのディスクジョッキーをしていたアラン・フリードによって「ロック・アンド・ロール」とばれた。ロック誕生たんじょうである。

ロックは、リズム・アンド・ブルースの要素ようそ一番いちばんつよく、そこにヒルビリーやポピュラー・ソングの要素ようそ融合ゆうごうしてまれた。さきのヘーリーやプレスリーはヒルビリーの要素ようそつよく、またプレスリーはきな歌手かしゅとしてフランク・シナトラをげており、ポピュラー・ソングの伝統でんとういでいる。このため、ヒルビリーの要素ようそつよいと「ロカビリー」(ロック+ヒルビリー、プレスリーなど)、ポピュラー・ソングの要素ようそつよいと「ロッカバラード」(ロック+バラード、ポール・アンカなど)などの派生はせいまれたため、60年代ねんだいになると、それらの全体ぜんたい言葉ことばがロック、1950年代ねんだい中葉ちゅうよう初期しょきのロックを言葉ことばがロックンロール、と使つかけるのが一般いっぱんてきとなった。

ロックは、命名めいめいしゃであるアラン・フリードやプロモーターの尽力じんりょくによって、独立どくりつけいしょうレーベルでレコードされたが、経済けいざいてきめぐまれるようになっていた10代の若者わかもの想像そうぞうをはるかにえる支持しじけた[82]

大手おおてレコード会社かいしゃもさっそくこのジャンルにをつけ、プレスリーははやくも大手おおてRCAレコードかれ、56ねんには「ハートブレイク・ホテル」のだいヒットをんだ。プレスリーは「史上しじょうもっと成功せいこうしたソロ・アーティスト」(ギネス・ワールド・レコーズ)とされ、全米ぜんべいNo1ヒットきょくすう歴代れきだい2週間しゅうかんすう歴代れきだい1など、記録きろくには事欠ことかかない。そのって誕生たんじょうしたのがさきの「ロカバラード」で、これは旧来きゅうらいのメイン・ストリームの「プロの作詞さくし作曲さっきょくがヒットをねらっていたきょくでレコードをつくり、ラジオやテレビなどのメディアでうまく宣伝せんでんしてひろめていくという商業しょうぎょう主義しゅぎ」そのものでつくられた。

ロックの誕生たんじょうは「白人はくじん若者わかもの欲求よっきゅう不満ふまん白人はくじん文化ぶんかでは吸収きゅうしゅうしきれなくて黒人こくじん文化ぶんかたよらざるをえず、黒人こくじん底辺ていへん文化ぶんか価値かちかん白人はくじん若年じゃくねんそう大幅おおはばれたという、前例ぜんれいをみないラディカルな社会しゃかい現象げんしょうだった」と世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんの「ロック」のこう中村なかむらとうようがひょうしているが、せっかく誕生たんじょうしたロックはこうしてすぐに商業しょうぎょう主義しゅぎまれてしまった。ロックの立役者たてやくしゃだったフリードも、音楽おんがく業界ぎょうかいから放送ほうそう関係かんけいしゃおくられていたペイオーラが賄賂わいろとされ、59ねんと60ねん連邦れんぽう議会ぎかい下院かいん)でひらかれた聴聞ちょうもんかい疑惑ぎわく張本人ちょうほんにんとしてりざたされ、だいスキャンダルとなった。こうした事情じじょうから、ロックンロールの全盛期ぜんせいきは54ねんから59ねんまでの5年間ねんかんしかつづかなかった[83]

初期しょきロックの影響えいきょうどう時代じだい現象げんしょう[編集へんしゅう]

ちょうどこのころ奴隷どれい解放かいほう解消かいしょうされない差別さべつ人種じんしゅ隔離かくり制度せいど制度せいどてき差別さべつ体系たいけい)にくるしんでいた黒人こくじんたちが公民こうみんけん運動うんどう開始かいしした時期じきである[84]

ニューヨークの黒人こくじんジャズが復活ふっかつし、ハード・バップまたはモダン・ジャズばれた。公民こうみんけん運動うんどうにあわせ、黒人こくじんがわからのラディカルな抗議こうぎ表明ひょうめいするきょくかれ、また原点げんてん回帰かいきとばかりにブルースやゴスペルの要素ようそれ、その演奏えんそうには黒人こくじん体臭たいしゅう意味いみする〈ファンキー funky〉という形容詞けいようしがつけられた[44]マイルス・デイヴィス初期しょき代表だいひょうしゃだが、クール・ジャズの創始そうししゃでもある[85]

初期しょきのロックンロールはリズム・アンド・ブルースとほとんどわらなかったが、白人はくじんのロックンロール歌手かしゅえてくるにつれ、リズム・アンド・ブルースは、よりゴスペルなどのアフリカン・アメリカンの要素ようそみ、ソウル(ソウルミュージック)とばれるようになった。レイ・チャールズはソウルの発展はってんおおきく貢献こうけんした[86]社会しゃかい背景はいけいてきにはさきげた公民こうみんけん運動うんどうがあった[87]

ロックンロールの登場とうじょう刺激しげきされてヒルビリーも電気でんき楽器がっきをとりいれ、より洗練せんれんされたアレンジをもちいるようになる。それにともない、レコード会社かいしゃ従来じゅうらいの「ヒルビリー」にかえて「カントリー・アンド・ウェスタン」のレーベルめい導入どうにゅうした[88]

メイン・ストリームでは、ポピュラー・ソングが最後さいご最盛さいせいむかえており、フランク・シナトラやペリー・コモがテレビにも進出しんしゅつしつつ活躍かつやくした[89]。このころミュージカル映画えいがはテレビにされはじめ、制作せいさく高騰こうとう本数ほんすう黄金おうごん時代じだいわりをげる。「ウエスト・サイド物語ものがたり」(1961ねん)「マイ・フェア・レディ」(1964ねん)「サウンド・オブ・ミュージック」(1965ねん)などは最後さいごのミュージカル映画えいがのヒットさくである[90]

ポピュラー音楽おんがく史上しじょう最大さいだい多様たよう-1960年代ねんだい~1970年代ねんだい前半ぜんはん[編集へんしゅう]

戦後せんごベビーブームまれた世代せだいがティーンから成人せいじんむかえるこのころ依然いぜんとして冷戦れいせんベトナム戦争せんそうつづき、一向いっこう戦争せんそう反省はんせいしていないようにえる社会しゃかい国家こっかたいし、世界せかいてき若者わかものたちによる異議いぎもうての行動こうどう活発かっぱつで、世界せかい各国かっこく大学だいがく紛争ふんそうさかんだった[91]若者わかものはこのような共通きょうつう体験たいけんからひとつの「世代せだい」として認知にんちされ、かれらの主張しゅちょうかんがかたは「若者わかもの文化ぶんか」とばれた[92]若者わかもの重視じゅうし音楽おんがく世界せかいさきんじており、戦前せんぜんのポピュラー音楽おんがく基本きほんてき大人おとな対象たいしょうにしたメインカルチャーだったのにたいし、50年代ねんだい後半こうはんのロックンロールではあきらかにはじめから若者わかものをターゲットにしたきょくおおつくられ、歌詞かし恋愛れんあい私生活しせいかつ自己じこ実現じつげんなやみなど10代の若者わかもの主要しゅよう関心事かんしんじをテーマにしていた[82]

フォーク・ソング[93][編集へんしゅう]

ピート・シーガーウディ・ガスリーらとんで、1940年代ねんだいから民謡みんようふうのメロディーにせてプロテスト・ソング社会しゃかいなか不公平ふこうへい不正ふせい告発こくはつ抗議こうぎするうた)をうたっていたが、1950ねんの「おやすみアイリーン」がだいヒットし、この影響えいきょうけたザ・キングストン・トリオによるふる民謡みんようのリメーク「トム・ドゥーリー」(1958ねん)がだいヒットして、フォークソング完全かんぜんにポピュラー音楽おんがくいち部門ぶもんめるにいたった。いでボブ・ディランが「ふうかれて」を62ねん発表はっぴょうし、公民こうみんけん運動うんどうなかひろうたわれた。フォークソングはロックとは対照たいしょうてきに、中流ちゅうりゅう階級かいきゅう大学生だいがくせい支持しじされ、清潔せいけつ知的ちてきなイメージでもてはやされた。

ロックの復活ふっかつ[81][編集へんしゅう]

60年代ねんだいはじめには、音楽おんがく産業さんぎょうがロックンロールとめいじうってりだす音楽おんがく大半たいはんが、ロックンロールのものまねにすぎなくなっていた。プロの作曲さっきょくがつくったきょくをアイドルがたクルーナーがうたい、スタジオ・ミュージシャン伴奏ばんそう録音ろくおんした。これはティン・パン・アレーの旧来きゅうらいのやりかたそのものであった。

沈滞ちんたいしていたロックは、イギリスからのうごきでいきかえした。62ねんビートルズローリング・ストーンズアニマルズなどおおくのグループがロックの原点げんてんもどし、アメリカの若者わかものにも熱狂ねっきょうてきむかえられた。これはブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスのグループの襲来しゅうらい)とわれる。それに呼応こおうして、64ねんビーチ・ボーイズがカリフォルニアからた。カリフォルニアはフォーク・ソングもさかんであり、またサンフランシスコとその周辺しゅうへんヒッピーあたらしい若者わかもの文化ぶんかをつくりしていたが、そうした土壌どじょうからあたらしいロックががった。あたらしいロックにかんして、『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』のロックのこう中村なかむらとうようは「教養きょうよう若者わかもの衝動しょうどうはっしたロックは、10ねん知的ちてき性格せいかくび、運動うんどう側面そくめんそなえたものとして、より広範こうはん社会しゃかいてき影響えいきょうりょく発揮はっきするかたち再生さいせいした。歌詞かしは10代の感傷かんしょううた単純たんじゅんなものから,社会しゃかい批評ひひょうせいをもったり、哲学てつがくてき思索しさくしたりするものに成長せいちょうした」とひょうしている[94]

ロックの多様たよう[編集へんしゅう]

60年代ねんだい後半こうはんは、ロックがメイン・ストリームにみ、多様たようしていく時期じきとなる[95]。ブリティッシュ・インベージョン以前いぜん弾圧だんあつ対象たいしょうだったロックは[94]だい規模きぼしたレコード産業さんぎょう後押あとおしをけ、多種たしゅ多様たようなスタイルとなった[83]

サイケデリック・ロック[81][編集へんしゅう]

ヒッピーにつきものだった麻薬まやくやLSDからは、サイケデリック・ロックまれた。代表だいひょうグレイトフル・デッド[96]幻覚げんかく体験たいけん音楽おんがく表現ひょうげんしようとするもので、おおくのミュージシャンがサイケデリック・ロックに傾倒けいとうしたが、LSDの所持しょじ禁止きんし・それにともなうヒッピー文化ぶんか衰退すいたい麻薬まやくによるアーティストのなどにより衰退すいたいし、アーティストたちは実験じっけんてき音楽おんがく特徴とくちょうとするプログレッシブ・ロック移行いこうし、クラシックけい現代げんだい音楽おんがく影響えいきょうしあうような作品さくひんまでかれている。ピンク・フロイドなどが有名ゆうめいである。

フォーク・ロック[81][編集へんしゅう]

フォークソングやカントリー・ミュージックのアーティストたちも、ロックへの接近せっきんられた。フォークシンガーだったボブ・ディランがエレクトリック・ギターをもちいてフォーク・ロックというジャンルをひらき、賛否さんぴ両論りょうろんこす。同様どうようにカントリー音楽おんがく要素ようそれたロックもバーズなどによってひらかれ、ジャンルの垣根かきねはらった。

ブルース・ロック[81][編集へんしゅう]

イギリスでは黒人こくじんギタリストによるブルースを白人はくじん模倣もほうし、ブルース・ロックまれる。もとがギターブルースであるため、エレクトリック・ギターの長大ちょうだい即興そっきょう特徴とくちょうとしている。エリック・クラプトン中心ちゅうしんとするクリームなどが代表だいひょう。このジャンルはやがて「もっともロックらしいロック」[97]や「ロックの主流しゅりゅう[98]ばれるハード・ロックディープ・パープルレッド・ツェッペリンブラック・サバスなど)、さらにはヘヴィメタルなどへとつづいていく。

グラム・ロック[99][編集へんしゅう]

多少たしょうおくれて70年代ねんだい初頭しょとうのイギリスでは、デヴィッド・ボウイT・レックスマーク・ボランらが、妖艶ようえん化粧けしょう衣装いしょう中性ちゅうせいてきなイメージをふりまき、退廃たいはいとクールさがはいざったロックのしん感覚かんかくしめして流行りゅうこうとなった。これは魅惑みわくてき(glamorous)からグラム・ロックとばれる(ただし、えいべいでは通常つうじょうグリッター・ロック=けばけばしいロックとわれる)。初期しょきエルトン・ジョンもステージで奇抜きばつ衣装いしょうやメガネをつけるなどして、グラム・ロックを象徴しょうちょうした[100]派手はで化粧けしょうをしたバンドはそのもたびたびあらわれており、のロックにあたえた影響えいきょうすくなくない。

多様たようしたロックの影響えいきょう[編集へんしゅう]

ロックの影響えいきょう世界せかいおよんでおり、たとえば日本にっぽんでは65ねんのベンチャーズ、66ねんのビートルズ来日らいにち以後いごグループ・サウンズやカレッジ・フォークがブームとなりアマチュア音楽おんがく裾野すそのひろげ、72ねん以降いこうのフォークけいシンガーソングライター吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすいなど)および75ねんごろからの女性じょせいシンガーソングライター(荒井あらい由実ゆみ矢野やの顕子あきこ中島なかじまみゆきなど)の活躍かつやくにつながった[101]

フランスではロックの影響えいきょうのもと、ジョニー・アリディシルヴィ・ヴァルタンなどの音楽おんがくがイェイェとばれて人気にんきあつめた。セルジュ・ゲンスブールのプロデュースしたフランス・ギャルの「夢見ゆめみるシャンソン人形にんぎょう」はユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝ゆうしょうきょくである。活躍かつやくした女性じょせい歌手かしゅたちはフレンチ・ロリータばれた[102]

ヨーロッパでは、ロックやリズム・アンド・ブルースがひろかれるようになったのみならず、大量たいりょう販売はんばいをめざす大手おおてレコード会社かいしゃは、ビートルズ・ブーム以降いこう、ロックてき音楽おんがく国際こくさいてき主力しゅりょく商品しょうひんにすえた[102]。このようなロックの影響えいきょうけたあたらしい若者わかもの音楽おんがくのスタイルを説明せつめいするための言葉ことばとして、イギリスでポップ(ポップ・ミュージック)と言葉ことば使つかわれはじめた[103]。ヨーロッパ各地かくちでも、それにならった英語えいご音楽おんがくがつくられはじめた。このためヨーロッパでヒットする音楽おんがくの5~6わりえいべい音楽おんがくで、ユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝ゆうしょうしゃ過半数かはんすう英語えいごうたっている(1974ねん優勝ゆうしょうのスウェーデンのABBAなど)。このようにえいべいのポピュラー音楽おんがく影響えいきょうにあるヨーロッパさんのポピュラー音楽おんがくユーロ・ポップ場合ばあいがある[102]

東側ひがしがわ諸国しょこくおおくはロックを資本しほん主義しゅぎ退廃たいはい象徴しょうちょうする音楽おんがくとして弾圧だんあつしたため、ロックの影響えいきょう地下ちかした[104]

1960ねんはアフリカのとしばれおおくのくに独立どくりつしたが、アフリカ独立どくりつとロックの世界せかいてき流行りゅうこうは、アフリカにエレキ・ギターの急速きゅうそく普及ふきゅうをもたらし、ナイジェリアではフェラ・クティあらわれる。クティはジャズとファンクを参照さんしょうしつつ強烈きょうれつ政治せいじてき発言はつげんんだ音楽おんがくつくげ、みずかアフロ・ビートんだ。まえ不正ふせい強烈きょうれつ告発こくはつする歌詞かし当局とうきょく弾圧だんあつんだが、クティはさらに強烈きょうれつ表現ひょうげん今度こんどはその弾圧だんあつうたにした。後続こうぞくあらわれなかったが、アフリカ起源きげんのアフロ・ビートとうジャンルはぜん世界せかいひろがった[13]

メイン・ストリームそのもののようなミュージカルでも、ロックをれた作品さくひんがいくつもつくられたが、この時期じきのミュージカルはすじらしいすじがなく、文学ぶんがくせい喪失そうしつするなど迷走めいそうられる[43]

映画えいが音楽おんがくとイージー・リスニング[編集へんしゅう]

シンフォニック・スコア全盛ぜんせいだった映画えいが音楽おんがくかいは、テレビの台頭たいとうによって衝撃しょうげきけた。ヘンリー・マンシーニジョン・ウィリアムズはテレビでうでみがき、映画えいが音楽おんがく活躍かつやくしたひとたちだが、かれらはそれまでの映画えいが音楽おんがく伝統でんとうにとらわれることなく、時代じだい反映はんえいした革新かくしんてき音楽おんがく映画えいがれた。1960年代ねんだいはヨーロッパぜい活躍かつやくしており、「007」のジョン・バリー、「シェルブールの雨傘あまがさ」のミシェル・ルグラン、「おとこおんな」のフランシス・レイ、「荒野あらの用心棒ようじんぼう」のエンニオ・モリコーネ、「ゴッド・ファーザー」のニーノ・ロータらがいる。また誕生たんじょうしてあいだもないロックを映画えいが音楽おんがくれるこころみもおこなわれ、「卒業そつぎょう」や「イージー・ライダー」は当時とうじ有名ゆうめいなロックをテーマきょくとしていた[105]

ムード音楽おんがくは1970年代ねんだい以降いこう、アメリカの音楽おんがく業界ぎょうかい表記ひょうきならってイージー・リスニングとばれるようになる。えきやデパートなどでのBGM使用しよう一般いっぱんし、単純たんじゅん労働ろうどう作業場さぎょうばでのBGMの活用かつよう研究けんきゅうされるなど、この時代じだい音楽おんがく人間にんげん工学こうがくてき利用りようしようと社会しゃかいてきうごきが存在そんざいした[73]。このころポール・モーリア登場とうじょうし、68ねんに「こいはみずいろ」でビルボード・ホット100で5しゅう連続れんぞく1獲得かくとく[106]年間ねんかんチャートでも3はいっている[107]が、先述せんじゅつのヘンリー・マンシーニやミシェル・ルグランやフランシス・レイやニーノ・ロータの映画えいが音楽おんがくもイージー・リスニングとしてもかれている。

R&Bとジャズの動向どうこう[編集へんしゅう]

黒人こくじんたちの音楽おんがくでは、リズム・アンド・ブルースから発展はってんしたソウル・ミュージックなかに、ゴスペルを基盤きばんとする熱唱ねっしょうけいうたや、ハードバップに起源きげんがある強烈きょうれつな16ビートを特徴とくちょうとするファンクなどがあらわれる。熱唱ねっしょうけい代表だいひょうアレサ・フランクリン、ファンクの代表だいひょうジェームス・ブラウンアース・ウインド&ファイアーがいる[108]

一方いっぽう、ジャズはロック人気にんきされ、商業しょうぎょうてき危機ききむかえたため、ジャズ・ミュージシャンのなかにはソウルミュージシャンの音楽おんがく手本てほんにするうごきがてきて、フュージョンまれる。これは当初とうしょファンク・ジャズやソウル・ジャズばれていた。代表だいひょうしゃマイルス・デイヴィスである。エレクトリック・ギターなどの電子でんし楽器がっき導入どうにゅうしての斬新ざんしんなサウンドは、ふるくからのジャズファンはまゆをひそめたが、ジャズとうジャンルの延命えんめいをもたらした[109]

その、ジャズの分野ぶんやではコード進行しんこう無視むししたような過激かげき即興そっきょう特徴とくちょうとするフリー・ジャズモード・ジャズおこなわれているが、クラシック音楽おんがく現代げんだい音楽おんがく同様どうよう技法ぎほうてきにはあたらしいもののあまりおおくのひとれられたとはえず、ジャズは以後いご伝統でんとう回帰かいき多様たよう時代じだいとなっていく。フリージャズの開拓かいたくしゃオーネット・コールマンがおり、モード・ジャズはまたもやマイルス・デービスがひらいた[44]

アメリカのすぐちかく、カリブ海かりぶかいかぶジャマイカは1962ねんにようやく独立どくりつたすが、伝統でんとうてきカリブ海かりぶかい音楽おんがくがアメリカのソウル・ミュージックなどの影響えいきょうけ、レゲエまれる。レゲエはやがて60年代ねんだい後半こうはんにアメリカにまれ、ソウル・ミュージックがうしなってしまった精神せいしんてきなメッセージの純粋じゅんすいさにより世界せかい若者わかものをとりこにするまでになる。ボブ・マーリー代表だいひょう同様どうように、プエルトリコでまれたサルサは70年代ねんだいはじめにアメリカを席巻せっけんする[110]

しん技術ぎじゅつとポピュラー音楽おんがく[編集へんしゅう]

FMラジオ[編集へんしゅう]

61ねんにはアメリカ連邦れんぽう通信つうしん委員いいんかい(FCC)がFMのステレオ技術ぎじゅつ規格きかくしてすうひゃくのFMきょく開局かいきょくしていたが[111]、66ねんにはFMの放送ほうそう内容ないようをAMと分離ぶんりすることを決定けっていし、FM放送ほうそう視聴しちょうしゃえるきっかけとなった[112]。FM放送ほうそうはAM放送ほうそうくら音質おんしつたかく、よりたか音質おんしつ音楽おんがくたのしみたいという欲求よっきゅう喚起かんきし、オーディオ機器きき普及ふきゅうをもたらした[113]

カセットテープ[114][編集へんしゅう]

テープレコーダーはオープンリールしきのものがおも業務ぎょうむよう使つかわれていたが、63ねんにオランダのフィリップスがカセットテープ規格きかく開発かいはつ公開こうかいし、世界せかい各国かっこく普及ふきゅうし、テープそのものやカセットの機械きかいてき構造こうぞう改良かいりょうされて、オーディオようとしてもつかわれるようになった。

エフェクター[115][編集へんしゅう]

エレクトリック・ギターは当初とうしょはクリーンなサウンドで、アンプをとおすことでたん音量おんりょうげてかれていたが、ロックのギタリストたちはアンプの容量ようりょう最大さいだい音量おんりょうげると発生はっせいするおとゆがみ(ひずみ)を発見はっけんし、音楽おんがく素材そざいとして活用かつようはじめた。60年代ねんだい後半こうはんのエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスジェフ・ベックはアンプの音量おんりょう最大さいだいにしていがませることでロックなサウンドをしていた。やがて人工じんこうてきゆがみをつくりだす装置そうちエフェクター登場とうじょうし、62ねんにはファズが発売はつばいされ、70年代ねんだいにジミ・ヘンドリックスが使用しようしている。オーバードライブやディスト―ションはもうすこおそく、1977ねんと78ねんである。

シンセサイザー[116][編集へんしゅう]

モーグしゃシンセサイザーが1964ねん発売はつばいされ、使つかわれはじめた。電子でんしおん合成ごうせいちいさなシステムで可能かのうにしたモーグしゃのシンセサイザーは電子でんし音楽おんがく境界きょうかいせんひろげた。68ねんにウォルター・カーロスがこれをもちいてバッハの音楽おんがく合成ごうせいした LP レコードが注目ちゅうもくされた。つづいて日本にっぽん冨田とみたいさおがドビュッシーのきょくによる合成ごうせい音楽おんがくつくり、シンセサイザーのおと急速きゅうそくひろまった。

カリスマの時代じだいからワールド・ミュージックへ-1970年代ねんだい後半こうはん~1980年代ねんだい[編集へんしゅう]

1960年代ねんだい後半こうはんがったものは、70年代ねんだいはいると一斉いっせい失速しっそくした。75ねんベトナム戦争せんそう終結しゅうけつ学生がくせい運動うんどう世界せかいてき連帯れんたい理由りゆうをなくし、また学生がくせい運動うんどう暴力ぼうりょく初期しょき学生がくせい運動うんどうになたちの就職しゅうしょくともな転向てんこう後継こうけい学生がくせいたちの離反りはんまねき、学生がくせい運動うんどう実質じっしつてき終焉しゅうえんむかえる[91]。73-74ねんと79-81ねんの2にわたるオイルショック世界せかいてきつづいていた戦後せんご経済けいざい成長せいちょうめてしまった[117]東西とうざい陣営じんえい緊張きんちょう緩和かんわ時代じだいとなり、世界せかい騒然そうぜんとした状態じょうたいからそれなりにしずかな状態じょうたいうつった。ソ連それんのアフガニスタン侵攻しんこうはデタントを崩壊ほうかいさせたが[118]、そのソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ経済けいざい不調ふちょうから内部ないぶがボロボロになっており[119]なおしをはかった87ねんからのペレストロイカ東欧とうおう諸国しょこくへのけをゆるめる結果けっかとなり、89ねん東欧とうおう民主みんしゅ革命かくめいベルリンのかべ崩壊ほうかい、91ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいへとつながっていく[120]

商業しょうぎょう主義しゅぎへの回帰かいき-ディスコ[121][編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがく世界せかいも、60年代ねんだい後半こうはん途方とほうもないがりはられなくなる。ひとつはオイルショックにはじまるきょうがレコード会社かいしゃ慎重しんちょうにさせ確実かくじつれるアーティストだけをるようになったてん、もうひとつはアメリカの音楽おんがく産業さんぎょう集中しゅうちゅうしたてんである。60年代ねんだいまつまでのローカルラジオの個性こせいてき番組ばんぐみ全米ぜんべい共通きょうつう画一かくいつてき番組ばんぐみ変化へんかし、特定とくていのファンそう対象たいしょう製造せいぞうされた商品しょうひんとしての音楽おんがくがテープで全米ぜんべい配給はいきゅうされ、一斉いっせいながされた。結果けっかてきにポピュラー音楽おんがくかいは、以前いぜん商業しょうぎょう主義しゅぎ路線ろせん回帰かいきしたかたちになった[122]

商業しょうぎょう主義しゅぎ路線ろせん代表だいひょうは、ディスコ(ディスコ・ミュージック)である。バス・ドラムによる一定いってい不変ふへんのビートをアメリカ黒人こくじんのダンス音楽おんがくにくわえてリズムを単純たんじゅんしたもので、はじめはニューヨークのゲイ・カルチャーの音楽おんがくだったが[123]名前なまえとおディスコ(DJがLPで音楽おんがくながし、酒類しゅるい提供ていきょうされ、きゃくにダンスをさせる店舗てんぽのこと)でのダンス・ミュージックだった。もともとダンスホールはなまバンドの演奏えんそう当然とうぜんだったが、経費けいひとスペースの節約せつやくのため若者わかものけの安直あんちょくみせでレコードでの音楽おんがく提供ていきょうはじめられたのが最初さいしょのディスコの姿すがただった。ディスコはもともとレコードと意味いみのスペインやイタリアである。しかしDJがきゃくびかけながらレコードをかけるしたしみやすい雰囲気ふんいき若者わかもの人気にんきあつめ、レコード会社かいしゃがDJが使つかいやすいように30cmのシングルでリズムを強調きょうちょうしたおどりやすい音楽おんがく提供ていきょうし、それにわせたあたらしいおどりが次々つぎつぎ出現しゅつげんし、77ねんには映画えいがサタデー・ナイト・フィーバー」というディスコダンスの名手めいしゅ主人公しゅじんこうにした映画えいがだいヒットするなどし、ディスコはだいブームとなった。70年代ねんだい後半こうはんのメイン・ストリームはディスコだった。サタデー・ナイト・フィーバーに出演しゅつえんしていたビージーズや、日本にっぽんでもカバーきょくられるヴィレッジ・ピープル代表だいひょうてきである。

しかし、ディスコは(おどるための音楽おんがくなのでやむをないが)リズムは一定いっていで、エレキ・ギターが前面ぜんめんることはなく、歌詞かしもメッセージせい過激かげき要素ようそはなく、うたとくにメロディをうたげたりはしておらず、ロックの刺激しげきせいれたひとやフォークのメッセージせいかんったひとにはあきらかに物足ものたりない。こうしたディスコにたいし、音楽おんがくファンや音楽おんがく評論ひょうろんは「商業しょうぎょう主義しゅぎだ」という批判ひはん容赦ようしゃなくびせた。またディスコ文化ぶんかたいしても、はげしい反発はんぱつせられた。その結果けっか、80年代ねんだいはいころにはアメリカではディスコの人気にんきいちじるしくんでいた。ただし、おどらせるための音楽おんがくは80年代ねんだいつうじて存在そんざいつづけ、80年代ねんだい後半こうはんくらいから後述こうじゅつエレクトロ・ポップ要素ようそんでハウスばれるジャンルがニューヨークやシカゴでまれ、イギリスをつうじてぜんヨーロッパにひろまった[124]。またディスコはクラブばれるようになる。

パンクの誕生たんじょうとロックの危機きき[122][編集へんしゅう]

75ねんのロックかいではハード・ロックとプログレッシブ・ロックが主流しゅりゅうだったが、ハード・ロックのスターたちはすでに大物おおものとなり高度こうど演奏えんそう技術ぎじゅつ駆使くしするようになっており、プログレッシブ・ロックでは高価こうかなシンセサイザーを駆使くししたり現代げんだい音楽おんがくとコラボレーションしたりして芸術げいじゅつ志向しこうになっていた。ソフト・ロックという、うつくしいメロディーとコーラスを特徴とくちょうとするジャンルも人気にんきがあったが、本来ほんらいのロックではないと批判ひはんされてもいた。こうした状況じょうきょうたいし、初期しょきロックの率直そっちょくなエネルギーの復活ふっかつ目指めざして、パンク・ロックこる。

パンクはもともと「粗悪そあくひん不良ふりょう、ちんぴら」を意味いみする俗語ぞくごで、70年代ねんだいロンドンではじまった原色げんしょくめて逆立さかだてたかみなどを特色とくしょくとする奇抜きばつ若者わかものファッションをすようになった。パンク・ロックはロックにのこっていたブルースしょくおとし、粗野そや荒削あらけずりできゅうテンポの演奏えんそう特徴とくちょうとしている。コードはスリーコードにパワーコードをくわえた程度ていどのきわめて簡単かんたんなものだった。ニューヨークでアンダーグラウンドてき人気にんきていたいくつかのグループにロンドンのブティック経営けいえいしゃ刺激しげきけて、素人しろうと少年しょうねんを4にんあつめて75ねんセックス・ピストルズをデビューさせる。かれらは破壊はかいてき言動げんどう世間せけんさわがせつつ、慢性まんせいてききょう不満ふまんかかえる若者わかものたちに爆発ばくはつてき人気にんき[125]

ロックかいあらたな中心ちゅうしんになるかにえたパンクだったが、もともと保守ほしゅそうからの反発はんぱつつよ演奏えんそう会場かいじょうでは中止ちゅうし運動うんどうがたびたびきていたうえ、セックス・ピストルズの解散かいさんもとメンバーの殺人さつじん事件じけん麻薬まやく中毒ちゅうどくでブームは終焉しゅうえんむかえ、パンクのムーブメントは78ねんにわずか3ねんほどでまくじる[126]

パンクののちには、ハード・ロックの延長線えんちょうせんじょうにあるヘヴィメタルアイアン・メイデン初期しょき代表だいひょう)や、パンクの様々さまざま部分ぶぶんいだニュー・ウェイヴあらわれる。もっともニュー・ウェーブは多様たよう傾向けいこうをひとまとめにした言葉ことばで、シンセサイザーを駆使くしして商業しょうぎょう主義しゅぎてき若者わかものけの大衆たいしゅう音楽おんがくつくしたエレクトロ・ポップからパンクのひらいたみちをさらに先鋭せんえいさせようとしたオルタナティブ・ロックまでふくんでおり、あまり適切てきせつなジャンルめいではない。ロックはふたた多様たようしたようにえたが、60年代ねんだいのような大物おおもの登場とうじょうられず、個性こせいうすれていた。レコード会社かいしゃ意図いとどおりにれるきょくをつくるロックの路線ろせんは「産業さんぎょうロック」と揶揄やゆされた。78ねんから82ねんまでに、レコードのげとコンサートの収益しゅうえきがそれぞれ10おくドルも減少げんしょうし、アメリカのロック音楽おんがく産業さんぎょう深刻しんこく危機ききおちいる。

カリスマとヘヴィ・メタル人気にんき[122][編集へんしゅう]

音楽おんがく産業さんぎょう不振ふしんは、カリスマてきスターの出現しゅつげん技術ぎじゅつ進歩しんぽによってすくわれた。マイケル・ジャクソンブルース・スプリングスティーンプリンスマドンナはこの時期じきにメガビットをばしたカリスマたちであると、Microsoft『Encarta2005』のポピュラー音楽おんがくこうひょうしている。かれらは伝統でんとうてきなアメリカの社会しゃかい階層かいそうえて幅広はばひろ聴衆ちょうしゅう獲得かくとくした。ミュージック・ビデオ出現しゅつげんと、これを24あいだ放映ほうえいするミュージック・テレビジョン(MTV)の開局かいきょく(81ねん)は、ミュージック・ビデオの販売はんばい促進そくしん効果こうか実証じっしょうした。CD登場とうじょう(83ねん)はポピュラー音楽おんがく需要じゅよう開拓かいたくした。これらによって、音楽おんがく産業さんぎょういきかえしたが、ごく少数しょうすうのカリスマが巨大きょだい利益りえきげる傾向けいこう定着ていちゃくした。

ハード・ロックの後継こうけいであるヘヴイ・メタルはMTVのバックアップをけ、白人はくじんろう備者階級かいきゅうのみならず中産ちゅうさん階級かいきゅうにも聴衆ちょうしゅうひろがり、女性じょせいんでいった。ヴァン・ヘイレンAC/DCメタリカなどヘヴィ・メタル・バンドがぜんレコードのげにめる割合わりあいは、80年代ねんだいまつのアメリカで40%もの高率こうりつたっした。

ヒップホップとラップ[127][編集へんしゅう]

ラップは、ニューヨークではブロック・パーティ黒人こくじんカリブ海かりぶかいからの移民いみん・ヒスパニックのまちおこなわれていた地域ちいき野外やがいパーティ。音楽おんがくおどり、バーベキューや野外やがいゲームなどもおこなわれた。DJの使用しようするサウンドシステムの電源でんげん街灯がいとうから非合法ひごうほうかれた)から74ねん発生はっせいしたヒップホップ文化ぶんか一部いちぶで、MCとよばれるボーカリストがテキストをうたわずにリズミカルにかたる(ライムという)スタイルをとり、ふつう、シンセサイザーの演奏えんそう既存きそんのレコードから借用しゃくようした音楽おんがく断片だんぺん(サンプル)を伴奏ばんそう使つかう。クール・ハークアフリカ・バンバータといったラップのDJは、複数ふくすうのレコードを同時どうじにまわしてそれぞれの音楽おんがく断片だんぺんをくみあわせたり、レコードをでまわして特定とくていのフレーズを反復はんぷく再生さいせいしたり(バック・スピン)、はり盤面ばんめんいてノイズによるリズミカルな効果こうかをつくりだしたりする(スクラッチ)など、ターンテーブルの独創どくそうてき活用かつようほう開発かいはつした。

ラップがポピュラー音楽おんがくのメイン・ストリームに仲間入なかまいりしたのは86ねんのことだった。このとしRun-D.M.Cがハード・ロック・バンド、エアロスミスのヒット「ウォーク・ディス・ウェイ」(1977)をラップ・スタイルでカヴァーしてリバイバル・ヒットさせ、都市とし郊外こうがい高級こうきゅう住宅じゅうたくにすむ白人はくじん中産ちゅうさん階級かいきゅうのロック・ファンをラップの聴衆ちょうしゅうにとりこんだ。1980年代ねんだいまつにはMTVがラップ専用せんよう番組ばんぐみをもうけ、M.C.ハマーげんハマー)、ビースティ・ボーイズといった人気にんきラッパーは人種じんしゅべつわず幅広はばひろいファンそうをもちすうひゃくまんまい単位たんいのレコード・セールスをあげるようになった。

ワールド・ミュージック[128][編集へんしゅう]

70年代ねんだい後半こうはんレゲエ・ブームを先駆さきがけとして、80年代ねんだいはじめにはワールド・ミュージック(ワールドビートともう)が人気にんきはくした。きっかけは、ナイジェリアのキング・サニー・アデのアルバム「ジュジュ・ミュージック」(1982)のヒットだった。アフリカの伝統でんとうてき打楽器だがっき音楽おんがくにとシンセサイザーくわえたどうアルバムは、西洋せいよう世界せかいのポピュラー音楽おんがくたいする関心かんしんたかめた。

このようななかからセネガルマリ・コンゴなど西にしアフリカ諸国しょこくパキスタンイスラエルなど西にしアジアみなみアジアみなみアフリカジプシー音楽おんがく[broken anchor]など、様々さまざまくにからアーティストがあらわれ、人気にんきた。これらだいさん世界せかいのアーティストの紹介しょうかいにはピーター・ガブリエルデヴィッド・バーンポール・サイモンといったロック・ミュージシャンも尽力じんりょくし、ロックの世界せかいてき影響えいきょうりょくをあらためて立証りっしょうした。

ピーター・ガブリエルが1982ねんから開催かいさいしているウォーマッドは、ヨーロッパ世界せかいにワールドミュージックをひろめる牽引けんいんしゃとして、ヌスラット・ファテー・アリ・ハーンなどおおくの世界中せかいじゅうのミュージシャンの人気にんきたかめた。サイモンの1985ねんのアルバム「グレイスランド」には、アフリカラテンアメリカのミュージシャンが共演きょうえんしている。かれらはこのような西洋せいよう音楽おんがくスタイルをれて自作じさく発表はっぴょうしたりもしている。

アフリカへの関心かんしん意味いみでは、マイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーをはじめとする45にんのアーティストがチャリティとしてUSAフォー・アフリカ名義めいぎで「ウィ・アー・ザ・ワールド」を制作せいさくし、実際じっさい印税いんぜいすべてアフリカの飢餓きが貧困ひんこんすくうために寄付きふしたのが85ねんだった[ちゅう 1]。これはポピュラー音楽おんがくかいにチャリティー・ブームをこした。

80年代ねんだいなか以降いこう東欧とうおう諸国しょこく民主みんしゅ運動うんどうはじまり、なか東欧とうおう音楽おんがく西側にしがわ世界せかいにもかれはじめた。ブルガリア女性じょせいコーラス・グループはワールド・ミュージック・ブームのアイドルとなった[129]きゅうソ連それんからはキノーて、ソビエト連邦れんぽう代表だいひょうするロック・バンドとして西側にしがわ世界せかいられた[130]

映画えいが音楽おんがくとミュージカルとイージー・リスニング[編集へんしゅう]

映画えいが音楽おんがくかいでは、「スター・ウォーズ」でジョン・ウィリアムズ古典こてんてきなシンフォニック・スコアを復活ふっかつさせたのが注目ちゅうもくされる[105]

ミュージカルではコーラスラインアニーキャッツオペラ怪人かいじんレ・ミゼラブルなどのヒットさくまれた[36]

イージー・リスニングでは、リチャード・クレイダーマンが76ねんにデビューし、ディスコ全盛ぜんせい時代じだいにあって、えてシンプルでうつくしいメロディーの普遍ふへんせいうったえるスタイルで人気にんきとなった[131]

メイン・ストリームとローカル[編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがくは、異質いしつ音楽おんがく混交こんこうしたり、ローカルで自発じはつてき音楽おんがく荒削あらけずりな状態じょうたい流行はやったのちメイン・ストリームにまれるとうようなかたち発展はってんしてきたが、アメリカ国内こくない黒人こくじん音楽おんがくはジャズ・ロック・ソウル・フュージョン・ディスコなど、大半たいはん商業しょうぎょう主義しゅぎまれてしまった[132]。マイケル・ジャクソンやプリンスも、黒人こくじんによる新種しんしゅ商業しょうぎょう主義しゅぎ音楽おんがくかんがえることができる[133]。こうしたなか、ヒップホップやラップはあらたなローカルとえる[134] が、アメリカのそと活力かつりょくもとめたのがワールド・ミュージックだった[135]、ということもできる。

しん技術ぎじゅつとポピュラー音楽おんがく[編集へんしゅう]

ヘッドホンステレオ[114][編集へんしゅう]

1979ねんウォークマンがソニーから発売はつばいされた。カセットテープをメディアとして使用しようする、ヘッドホンしき携帯けいたいステレオの登場とうじょうによって、いつでもどこでも音楽おんがくたのしめるようになり、若者わかものたちの圧倒的あっとうてき支持しじをうけてだいヒット商品しょうひんとなった。

CD[136][編集へんしゅう]

82ねんCD登場とうじょうした。レーザーによる走査そうさによって情報じょうほうみとるため、ターンテーブルの回転かいてんムラによるおとのひずみやはりおんなどの雑音ざつおんがさけられない従来じゅうらいのLPと比較ひかく音質おんしつ飛躍ひやくてき向上こうじょうできたうえ摩耗まもうによる音質おんしつ劣化れっか再生さいせい不能ふのうとは無縁むえんとなった。また、ランダムアクセス機能きのうによってきょく任意にんい順序じゅんじょ再生さいせいできた。こうした利点りてんからCDは徐々じょじょ販売はんばい枚数まいすうやし、86ねんには販売はんばいすうがLPをき、90年代ねんだいはいころにはLP自体じたいがほとんどつくられなくなった。

デジタル・オーディオ・ワークステーション[編集へんしゅう]

コンピュータを音楽おんがく活用かつようしようとするこころみは以前いぜんからあったが、80年代ねんだい初頭しょとうから音楽おんがく製作せいさくにおいてデジタル技術ぎじゅつコンピュータ技術ぎじゅつ導入どうにゅうさかんにおこなわれるようになった。たんなる個別こべつ機材きざいのデジタルえ、シンセサイザーシーケンサーサンプラーミキサー・コンピュータなどを統合とうごうし、音楽おんがく制作せいさくワークフローを1だい完結かんけつするデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)の先駆さきがけとなるシステムあらわれ、シンクラヴィアフェアライトCMIなどの初期しょきあらそうように導入どうにゅうされたが、当初とうしょ大変たいへん高価こうかなものだった。

デジタルシンセサイザー[編集へんしゅう]

シンセサイザーではそれまでのアナログしきのものにわりデジタルシンセサイザーあらわれ、とくにFM音源おんげん搭載とうさいした83ねん発売はつばいYAMAHADX-7画期的かっきてき高性能こうせいのうてい価格かかく実現じつげんし、デジタルシンセサイザーを一般いっぱんさせた[137]

現代げんだい-1990年代ねんだい以降いこう[編集へんしゅう]

91ねんソ連それん崩壊ほうかい冷戦れいせん終了しゅうりょう世界せかいひとつにし[138]、95ねんWindows 95発売はつばいをきっかけとするインターネット普及ふきゅう[139]社会しゃかいのありかたおおきく[140]携帯けいたい電話でんわ、のちにはスマートホンの普及ふきゅう若者わかものたちの消費しょうひ行動こうどう音楽おんがく聴取ちょうしゅのありかたおおきくえた[141]

CD全盛期ぜんせいき[編集へんしゅう]

90年代ねんだいはいってCDのげはびをせ、99ねんには世界せかいてきにCDのげが過去かこ最高さいこう[142]日本にっぽんは98ねん過去かこ最高さいこう[143])となった。

メガヒットが連発れんぱつしたため、歴代れきだいシングル売上うりあげベスト50のランキングは、うち19きょくが90年代ねんだい~2000年代ねんだい前半ぜんはんのものがめている[144](これ以降いこうは、ダウンロード販売はんばい主流しゅりゅうとなるため、統計とうけい別枠べつわくとなる)[145]

アーティスト単位たんいても「世界せかいもっとれたアーティスト・ランキング!」にある31めいのうち、4めいはこの19きょくなか名前なまえがあり[146]累計るいけいで1おくまい以上いじょうげたとされるもの指摘してきできる。

ここでは歴代れきだいシングル売上うりあげベスト50のうち90年代ねんだい以降いこうの19きょくと、該当がいとうするアーティストおよび関連かんれん情報じょうほうひょうしめす。

曲名きょくめい リリース シングル

売上うりあげ順位じゅんい[144]

当該とうがいきょく

売上うりあげ枚数まいすう[144]

アーティスト 当該とうがいアーティストの

累計るいけい売上うりあげ枚数まいすう[146]

出身しゅっしんまたは

ルーツ

ジャンル その
キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997 1997 2 3300まん エルトン・ジョン 2.5おく以上いじょう イギリス (ロック) ダイアナ追悼ついとうきょく
マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン 1997 8 1500まん セリーヌ・ディオン 2おく以上いじょう カナダ (ポップス) 映画えいがタイタニック
オールウェイズ・ラヴ・ユー 1992 9 1500まん ホイットニー・ヒューストン 2おく以上いじょう アメリカ (R&B) 映画えいがボディ・ガード
ウィンド・オブ・チェンジ 1991 11 1400まん スコーピオンズ 1おく以上いじょう[147] ドイツ ヘヴィ・メタル グラスノスチを記念きねんするきょく
きみ旅立たびだとう 1996 13 1200まん アンドレア・ボチェッリ

サラ・ブライトマン

イタリア・

イギリス

クラシカル・

クロスオーバー

恋人こいびとたちのクリスマス 1994 15 1200まん マライア・キャリー 2おく以上いじょう アメリカ (R&B) 日本にっぽん国内こくない洋楽ようがくシングル売上うりあげ歴代れきだい2[148]
ビリーヴ 1998 19 1100まん シェール 1おく以上いじょう[149] アメリカ ダンス・ポップ オートチューンによるシェール・エフェクト
こいのマカレナ 1995 23 1100まん ロス・デル・リオ スペイン ラテン
アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー 1991 25 1000まん ブライアン・アダムス 1おく以上いじょう[150] カナダ (ロック) 映画えいがロビン・フッド
あつむねがして 2001 28 1000まん カイリー・ミノーグ オーストラリア ダンス・ポップ
ムンディアン・ト・バッチュ・ケ 1998 31 1000まん パンジャービーMC イギリス

(パンジャーブ話者わしゃ

バングラ[151]

+ヒップホップ

ベイビー・ワン・モア・タイム 1998 34 1000まん ブリトニー・スピアーズ 1おく以上いじょう[152] アメリカ (ポップス)
ホウェネヴァー・ホウェアエヴァー 2001 36 850まん シャキーラ コロンビア ラテン
あいしのバービー・ガール 1997 39 800まん アクア デンマーク ユーロダンス
クレージー・イン・ラブ 2003 41 800まん ビヨンセ 1おく以上いじょう[153] アメリカ (R&B) ジェイ・Z共演きょうえん
スメルズ・ライク・ティーン・スピリット 1991 46 800まん ニルヴァーナ アメリカ オルタナティブ・ロック

/グランジ[154]

リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ 1999 47 800まん リッキー・マーティン プエルトリコ ラテン ごうひろみがカバー
フーリッシュ 2002 49 700まん アシャンティ アメリカ ゴスペル
I'll Be Missing You 1997 50 700まん パフ・ダディ アメリカ ヒップホップ

CDきょう音楽おんがく業界ぎょうかい低迷ていめい[編集へんしゅう]

1999ねんに242おくUSドルだった世界せかい音楽おんがくげは減少げんしょうつづけ、2013ねんには150おくUSドルまでみ、最盛さいせいの2/3をっている[155]。ダウンロード販売はんばい割合わりあい年々ねんねんえており、2014ねんにはCDとダウンロード販売はんばいのシェアが逆転ぎゃくてんした[156]。2018ねんには、世界せかい最大さいだい家電かでん量販りょうはんてんであるアメリカの「ベスト・バイ」が店舗てんぽでの音楽おんがくCDの販売はんばい終了しゅうりょうする方針ほうしんであることがあきらかになった[156]。「アルバムをつくってって活動かつどうする」というスタイルは終焉しゅうえんむかえつつあり、音楽おんがく業界ぎょうかいは「ネット販売はんばいやネット配信はいしん、YouTubeの露出ろしゅつ知名度ちめいどげて、ライブにてもらうきゃくかずやす」という形式けいしきおおきく変化へんかしてきている[156]業界ぎょうかい全体ぜんたい売上うりあげ低迷ていめいは、ほぼそのまま音楽おんがくアーティストの活動かつどう影響えいきょうするため、今後こんご状況じょうきょう変化へんか無視むしすることができない[156]

ストリーミングによる音楽おんがく市場いちば回復かいふく課題かだい[編集へんしゅう]

IFPIによると、世界せかい音楽おんがくげは2014ねんそこ回復かいふく基調きちょうにある。成長せいちょう牽引けんいんしているのはSpotifyApple MusicAmazon Musicなどのサブスクリプションかた音楽おんがくストリーミングで、CD売上うりあげ減少げんしょうをカバーするかたちきゅう成長せいちょうせている。2019ねんにはストリーミングの売上うりあげシェアが音楽おんがく売上うりあげ全体ぜんたいの56.1%となり、CDやダウンロード販売はんばいのシェアをおおきく上回うわまわった[157]

新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう世界せかいてき流行りゅうこうにより、音楽おんがく業界ぎょうかいあらたな収入しゅうにゅうげんやファンとのつながりを模索もさくはじめた。TikTokなどのソーシャルメディアからまれるバイラル・ヒットがトレンドとなり、一部いちぶのアーティストはライブストリーミングによるバーチャル・コンサートを開催かいさいしている[158]

ストリーミングサービスやメジャーレーベルがおおきな利益りえきなかで、中堅ちゅうけん以下いかのアーティストには恩恵おんけい十分じゅうぶんわたっておらず公平こうへいでないという批判ひはんおおく、業界ぎょうかい団体だんたいはストリーミング報酬ほうしゅうげをもとめるキャンペーンをおこなっている[156]

まとめ[159][編集へんしゅう]

メイン・ストリームと独立どくりつけいしょうレーベルの対立たいりつ、メインストリームによる主流しゅりゅうみ、しかしそうしたなかでもがれているもの(1920年代ねんだいのティン・パン・アレーの歌曲かきょく形式けいしきなめらかでロマンティックなボーカル・スタイル、アフリカけいアメリカ音楽おんがく強力きょうりょくなノリやバックビート(あとりのビート)、いの形式けいしき濃密のうみつ情感じょうかん、あるいはイギリスけいアメリカ音楽おんがく詩的してきなテーマやバラード形式けいしきなど)は現在げんざいでも健在けんざいであり、アメリカ・ポピュラー音楽おんがく表面ひょうめんじょうのスタイルがわったりヒットソングがわったりしても、全体ぜんたいとして強固きょうこ連続れんぞくせいたもっている。

ポピュラー音楽おんがくおおまかなジャンル[編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがくふくまれるジャンルを、カテゴリーべつしめす。

この場合ばあいの「ポピュラー音楽おんがく」は、歴史れきしこう同様どうよう、「アメリカを中心ちゅうしん世界せかいてきひろがりをせている商業しょうぎょう音楽おんがく」およびその前身ぜんしんである。

カテゴリーもそれぞれのジャンルもおおむ登場とうじょうじゅんならんでいる。

個別こべつてきなジャンルめいすべ列挙れっきょするのが目的もくてきではないので、ここではおもなもののみしめしている。

ヨーロッパ大衆たいしゅう音楽おんがく[編集へんしゅう]

ダンス[編集へんしゅう]

大衆たいしゅうけオペラなど[編集へんしゅう]

うた[編集へんしゅう]

ラテン音楽おんがく[編集へんしゅう]

初期しょきのポピュラー音楽おんがく[編集へんしゅう]

20世紀せいき初頭しょとうまでの黒人こくじん音楽おんがく[編集へんしゅう]

ジャズ[編集へんしゅう]

カントリーけい[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん黒人こくじん音楽おんがく[編集へんしゅう]

ロックけい[編集へんしゅう]

ディスコけい[編集へんしゅう]

ワールドミュージック[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ チャリティーコンサートの「ライブ・エイド」が開催かいさいされたのも85ねんだった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  40. ^ 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』の「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく」のこうに、「移民いみんはアメリカ社会しゃかい同化どうかすることを目的もくてきとした。しかし同化どうか速度そくど集団しゅうだんによってまちまちであった。〈しん移民いみん〉は〈きゅう移民いみん〉ほどはや同化どうかできなかったし,有色ゆうしょく人種じんしゅ白人はくじんのように簡単かんたんには同化どうかできなかった。」とある。
  41. ^ 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』より「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく」のこうの「経済けいざい産業さんぎょう」の部分ぶぶんに「南北戦争なんぼくせんそう30ねんた94ねんには,その工業こうぎょう生産せいさんがく一躍いちやく,イギリス,ドイツ,フランスの生産せいさんがく合計ごうけい上回うわまわ世界せかい最大さいだい工業こうぎょうこくとなり,さらに20ねんには世界せかいにおける工業こうぎょう生産せいさん能力のうりょくやく3ぶんの1をめるまでになった。」「だい1世界せかい大戦たいせん以後いご1920年代ねんだいにかけて,アメリカ経済けいざい未曾有みぞう繁栄はんえいむかえた。」とある。
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]