ザ・ビーチ・ボーイズ

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ザ・ビーチ・ボーイズ
2012ねん5がつ、デビュー50周年しゅうねん記念きねん公演こうえんひだりからブライアン・ウィルソン、デヴィッド・マークス、マイク・ラヴブルース・ジョンストンアル・ジャーディン
基本きほん情報じょうほう
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅう ホーソーン
ジャンル
活動かつどう期間きかん 1961ねん -
レーベル
公式こうしきサイト ザ・ビーチ・ボーイズ公式こうしきサイト
メンバー
きゅうメンバー
The Beach Boys (1964)

ザ・ビーチ・ボーイズ英語えいご: The Beach Boys)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくロックバンド。1961ねんカリフォルニアしゅうホーソーン結成けっせいされた。1962ねんから65ねんまではサーフィン・ホットロッド中心ちゅうしんとしたレコードを発表はっぴょうしていたが、66ねんの『ペット・サウンズ』から70年代ねんだい初頭しょとうまではブライアン・ウィルソン自己じこ内面ないめんった、アート志向しこうのアルバムを発表はっぴょうした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

米国べいこく西海岸にしかいがん若者わかもの文化ぶんかとくビキニむすめサーフィンホットロッド改造かいぞうしゃ)、うみなつなどを題材だいざいにしたポップな楽曲がっきょくられている。

1963ねんチャック・ベリー作品さくひんをアレンジした「サーフィン・U.S.A.」をヒットさせ、以後いごフィル・スペクターフォー・フレッシュメン英語えいごばんからの影響えいきょうをもとに、エレキ・サウンドとコーラス・ワークを融合ゆうごうした楽曲がっきょく数多かずおお発表はっぴょうした。60年代ねんだい後半こうはんからの一時期いちじきには、音楽おんがくてきリーダーであったブライアン・ウィルソンによる精緻せいち芸術げいじゅつ志向しこうの『ペット・サウンズ』のような作品さくひんつくげた。

日本にっぽんでは山下やました達郎たつお大瀧おおたき詠一えいいち桑田くわた佳祐けいすけ[2]音楽おんがく評論ひょうろん萩原はぎはら健太けんた宮治みやじ淳一じゅんいちらが熱烈ねつれつなファンとしてられている。萩原はぎはらはラジオ番組ばんぐみで「ビーチ・ボーイズは『かみ』である」とまで公言こうげんしている。浜田はまだ省吾しょうごAIDO鈴木すずき雅之まさゆきらもファンである。海外かいがいではザ・ビートルズ、ファースト・クラス、ルベッツ(ルーベッツ)、トッド・ラングレン、ハイ・ラマズやルイ・フィリップ(フランスじん)らがビーチ・ボーイズの影響えいきょうけている。

音楽おんがくてきなルーツは、ジャズ・コーラス、ロックンロールやホワイト・ドゥーワップにある。コーラスはフォー・フレッシュメンを参考さんこうにしている[3]。また、「サーフィン・U.S.A.」において、チャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」の歌詞かし編曲へんきょく改変かいへんなどをめぐり、著作ちょさくけんやロイヤリティの争議そうぎこった[4]。このきょく[5]のメロディーは「スウィート・リトル・シックスティーン」とほぼおなじであり、そのことはビーチ・ボーイズがわみとめている。このけんは、映画えいがドリームガールズ』でも題材だいざいとして象徴しょうちょうてきげられている。

初期しょきウェストコースト・ロックにおけるポップな側面そくめん代表だいひょうするグループであり、アメリカン・ロックかいでは一部いちぶのミュージシャンがそのコーラス・ハーモニーの影響えいきょうけている。

結成けっせい当時とうじのオリジナルメンバー5めいのうち、2めい故人こじんとなっているが、明確めいかく解散かいさん宣言せんげんはしておらず、オリジナル・メンバーをふくすうめいがバンドめいぎ、公演こうえん中心ちゅうしん活動かつどうつづけている。最盛さいせいおおくのヒットきょくおくした中心ちゅうしん人物じんぶつであるブライアンはソロ活動かつどうおこなっている。メンバーのうち、マイク・ラヴとブルース・ジョンストンは熱心ねっしん共和党きょうわとう支持しじしゃであり(人物じんぶつ思想しそう詳述しょうじゅつ)、共和党きょうわとう大会たいかい保守ほしゅてきなカントリー歌手かしゅらとともに出演しゅつえんしたりしている。

ローリング・ストーンえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100くみのアーティスト」においてだい12

音楽おんがく特徴とくちょう[編集へんしゅう]

バンド結成けっせい当時とうじ流行りゅうこうしていたサーフィン&ホットロッドとばれる楽曲がっきょくぐんは、単純たんじゅんなコード展開てんかいギターソロくわえたインストゥルメンタル中心ちゅうしんだった。ここにロックンロールとことなる分野ぶんや音楽おんがくおもわれていた、フォー・フレッシュメンなどを代表だいひょうとするコーラスによるハーモニーファルセットせたところにビーチボーイズの特徴とくちょうがあった。

初期しょき楽曲がっきょくぐんはポップなロックンロールやポップスであり、当時とうじ流行りゅうこう沿ったものだった。しかし、ソングライターでもあるブライアン・ウィルソン自身じしんがアルバムのプロデュースをおこなうようになって以降いこう一見いっけんシンプルにかんじられる楽曲がっきょくでも、実際じっさいには複雑ふくざつコード使つかわれ、アレンジにさまざまな工夫くふうほどこされるようになった。

れいとしてよくげられるものに「カリフォルニア・ガールズ」のイントロ部分ぶぶんや、「かみのみぞ」のベースおん処理しょり、「グッド・ヴァイブレーション」におけるテルミン導入どうにゅう、「キャロライン・ノー」のいぬごえや、列車れっしゃ通過つうかおんなどの効果こうかおん使用しようがある。なお、ビーチ・ボーイズが利用りようしていたテルミンはさん次元じげん楽器がっきではなく、類似るいじおとすElectro terminらしい[6]。これらの特徴とくちょうは、ウィルソンが敬愛けいあいしたフィル・スペクター影響えいきょうられるものの、独自どくじせい存在そんざいした。「ペット・サウンズ」以降いこうのビーチ・ボーイズは、ビートルズの67ねんアルバムとともに、60年代ねんだい実験じっけんてきなロックの発展はってんにも寄与きよした。

メンバー[編集へんしゅう]

現在げんざいのメンバー[編集へんしゅう]

現在げんざいザ・ビーチ・ボーイズとして音楽おんがく活動かつどうおこなっている正規せいきメンバーは以下いかの2めい。ツアー・メンバーをくわえて現在げんざい公演こうえんおこなっている。

不参加ふさんかメンバー[編集へんしゅう]

メンバーとしてクレジットされているものの、現在げんざいビーチ・ボーイズとしての活動かつどうには参加さんかしておらず、べつバンドで活動かつどうしている。

過去かこのメンバー[編集へんしゅう]

ツアー・メンバー[編集へんしゅう]

1998ねんのビーチ・ボーイズ分裂ぶんれつまえまでに参加さんかしたメンバーのみをしるす。1998ねん以後いご参加さんかは、マイク・ラヴとブルース・ジョンストンによるツアー・バンドに参加さんかしていたことをしめす。

  • エド・カーター(ギター、ベース) 1968–1995 ブルースの旧友きゅうゆうもとドラゴンズ
  • ジェフリー・フォスケット(ファルセット、ギター) 1981–1990、2012、2014–2019 げんプランクス、1999ねんから2013ねんまでブライアン・ウィルソン・バンドのリーダーだった。
  • エイドリアン・ベイカー(ファルセット、ギター、ベース) 1981、1990–1992、1998–2004 70年代ねんだいにギデア・パーク名義めいぎ活動かつどう
  • マット・ジャーディン(ファルセット、パーカッション) 1989–1998 アルの長男ちょうなん
  • マイク・コワルスキ(ドラムス、パーカッション) 1968–2007 ブルースの旧友きゅうゆう
  • ボビー・フィゲロア(ドラムス、パーカッション) 1976–1987 げんキング・ハーヴェスト
  • ダリル・ドラゴン(キーボード) 1968–1972 げんドラゴンズ。キャプテン&テニール
  • カーリ・ムニョース(パーカッション、キーボード) 1972–1979
  • マイク・メロス(キーボード) 1979–2001
  • ロン・アルトバック(キーボード) 1976–1978 げんキング・ハーヴェスト
  • ビリー・ヒンシ(キーボード) 1974–1995 げんディノ・デシ&ビリー。あねアニーはカールの最初さいしょつま
  • リッチー・カナタ(サックスフルート、キーボード) 1990-1998 げんビリー・ジョエル・バンド
  • チャールズ・ロイド(サックス、フルートなど) 1976–1978
  • ジョン・ステイモス(ドラムス、パーカッション、ギター) 1988– アメリカの俳優はいゆうとくにマイクと親交しんこうがあり、ステイモスの主演しゅえんドラマ『You Again』(1986ねん)、『フルハウス』にはビーチ・ボーイズがゲスト出演しゅつえん。1988ねん以降いこう、ビーチ・ボーイズ(1998ねん以降いこうはマイク&ブルース)のツアーに時折ときおり参加さんかするようになる。「ココモ」「ホット・ファン・イン・ザ・サマータイム」などのPVにも出演しゅつえん

など

来歴らいれき[編集へんしゅう]

結成けっせい[編集へんしゅう]

ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟きょうだいサーフィンったジョン・マース(のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)よりギターならい、従兄弟いとこのマイク・ラヴ、高校こうこう友人ゆうじんアル・ジャーディンととも1961ねんにグループを結成けっせいする。グループの前途ぜんと不安ふあんかんいち脱退だったいしたジャーディンのわりにデヴィッド・マークスが1962ねんから1963ねんまで在籍ざいせきした。

かれらは最初さいしょペンデルトーンズ(ラヴが当時とうじ流行りゅうこうしていたシャツからった)と名乗なのり、ウィルソン兄弟きょうだい父親ちちおやマレー・ウィルソン(1917 - 1973)によってマネジメントされた。バンドはマレーの友人ゆうじんハイト・モーガンが経営けいえいしていたしょうレーベル、CANDIXと契約けいやくしデビューシングル『サーフィン』を発売はつばいしたが、そのレコードにはかれらのらない「ザ・ビーチ・ボーイズ」という名前なまえがクレジットされていた。デビューシングルは全米ぜんべい75まりだったものの、マレーは大手おおてキャピトル・レコードとの契約けいやく成功せいこうする。

キャピトル時代じだい[編集へんしゅう]

ペット・サウンズ以前いぜん[編集へんしゅう]

キャピトル・レコードに移籍いせきだいいちだんシングル「サーフィン・サファリ」は全米ぜんべい14のヒットとなった。かれらの初期しょききょくのテーマはカリフォルニアしゅう青年せいねん生活せいかつたとえば「オール・サマー・ロング」「ファン・ファン・ファン」)、自動車じどうしゃ(「リトル・デュース・クーペ」)そしてサーフィン(「サーフィン」「サーフィン・サファリ」)からられたものであった。これらはおもにデニスの趣味しゅみであった。リーダーで、ヒットきょくおおくをいたブライアン・ウィルソンには、サーフィンの趣味しゅみはない。

1962ねんすえにデビューアルバムとなる『サーフィン・サファリ』を発表はっぴょうしてから1966ねんの『ペット・サウンズ』のまえまで、かれらは3年間ねんかんで10まいのアルバムを発表はっぴょうしている。うち、ライブアルバムが1まい企画きかくアルバムが2まいで、オリジナルアルバムは7まいとなるが、クリスマスアルバムようにもオリジナルきょく用意よういしている。CDの普及ふきゅうにより、アルバム1まいあたりのきょくすうえた現在げんざい単純たんじゅん比較ひかくはできないし、きょく重複じゅうふくもあるが、1ねんにオリジナルアルバムを2まい以上いじょうしていたことになる。また、2さくまではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースをまかせたものの、1963ねんのオリジナルアルバム3さく『サーファー・ガール』からはブライアン本人ほんにんがプロデュースまでつとめるようになった。このとき、ブライアンはまだ21さいであった。

その、ブライアンは敬愛けいあいするフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドや、効果こうかおんれたアレンジを見事みごと消化しょうか才能さいのう開花かいかさせた。この時期じきに、演奏えんそう技術ぎじゅつすぐれたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期しょきのポップで商業しょうぎょう主義しゅぎてきな『オール・サマー・ロング』『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』『サマー・デイズ』がつづけに発表はっぴょうされる。しかし、順調じゅんちょうえたビーチボーイズの前途ぜんとにそのずっときまとうかげあらわれる。

1964ねんすえのツアーにかう飛行機ひこうきなかで、精神せいしんてき重圧じゅうあつえきれなくなったブライアンは公演こうえん欠席けっせきする。そしてこれ以降いこうブライアンは公演こうえん活動かつどうからはなれ、スタジオでの制作せいさく作業さぎょう専念せんねんすることを宣言せんげんしてしまう。このツアーではブライアンの代役だいやくグレン・キャンベルつとめた。その、この役目やくめになうためにブルース・ジョンストンが参加さんかし、結局けっきょくそのまま6にんのビーチボーイとして以降いこう音楽おんがく生活せいかつおくることになった。

ペット・サウンズ以後いご[編集へんしゅう]

ブライアンはビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃しょうげきけ、対抗心たいこうしんやした。そして、当時とうじポップ・ミュージックとしてはめずらしい完全かんぜんコンセプト・アルバムつくることをかんがえた。これが『ペット・サウンズ』である。しかし、それまでのかれらの印象いんしょうとはかけはなれていた作品さくひんであるため、契約けいやくしていたキャピトル・レコードから敬遠けいえんされ、保守ほしゅてき米国べいこくのファンにもなかなかれられなかった。

全米ぜんべいチャートでは10にランクインし、早々そうそうに50まんまいげたが、それまでの作品さくひんくらべて売上うりあげびない状況じょうきょう不満ふまんかんじたキャピトル・レコードは、ペット・サウンズの発売はつばいすぐに、それまでのヒットきょくあつめたアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』を発表はっぴょうした。ベストばんまたたに100まんまい売上うりあげ、結果けっかてきに『ペット・サウンズ』よりも成功せいこうしてしまった。この事実じじつにブライアンはひどきずつき、以降いこうむしばまれつづけることになる。

しかしイギリスでは米国べいこくはんおうことなり好評こうひょうであった。アルバムはぜんえい2記録きろくし、シングルがヒットチャート上位じょうい到達とうたつする結果けっかとなった。また、ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーピート・タウンゼントエリック・クラプトンきなアルバムとしてげるなど、一部いちぶには理解りかいしゃがいたが、このアルバムがさい評価ひょうかされるにはなが時間じかん必要ひつようだった。

スタジオでの完全かんぜん主義しゅぎゆえにブライアンは『ペット・サウンズ』以上いじょう作品さくひんつくさなければならないという強迫きょうはく観念かんねんられ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音ろくおん期間きかん重複じゅうふくしていた『スマイル』の制作せいさくちゅうついにノイローゼを発症はっしょうした。

いちにちちゅう薬物やくぶつさけんでらすようになったブライアンは、アルバムないきょく「エレメンツ」録音ろくおんにスタジオない消防しょうぼう格好かっこうをしたり、キャピトルの幹部かんぶ夫人ふじん悪魔あくまんでかれのスタジオからすなど奇行きこうせるようになった。また、スタジオでの効果こうかおんはじめたブライアンと、グループのあじであるボーカル・ハーモニー路線ろせん支持しじしたマイクをはじめとするメンバーとの方向ほうこうせいたいする対立たいりつふかまった。モジュラー・レコーディングといういくつかの(実際じっさいには、中間なかまことなるかくきょくすうじゅうテイクにおよぶ)テイクの断片だんぺんわす方式ほうしきは、編集へんしゅう段階だんかいでもさらに精神せいしんてき混乱こんらんこした。

『スマイル』はキャピトル・レコードの再三さいさんのリリース要求ようきゅうにもかかわらず結局けっきょく完成かんせいせず、1967ねん5月にキャピトルはこのアルバム発売はつばい中止ちゅうしした。キャピトルは、アルバムを発売はつばいするために、完成かんせいまえからジャケットを印刷いんさつして催促さいそくこころみていたが、大半たいはん破棄はきされた。

『スマイル』ようきょくのうちのいくつかは『スマイリー・スマイル』に収録しゅうろくされたが、そのバージョンは厳密げんみつには『スマイル』録音ろくおんのテイクではなく、ブライアンが作業さぎょうから脱落だつらくしたのちのメンバーが手早てばや仕上しあげた断片だんぺん残骸ざんがいとでもいうべきものであった。当然とうぜん、40ねんにアウトテイクもふくんだかたち発表はっぴょうされたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録しゅうろくされた同名どうめい楽曲がっきょく完成かんせいとはくらべものにならない代物しろもので、「英雄えいゆう悪漢あっかん」、「グッド・ヴァイブレーション」(1966ねんビルボードシングルチャート全米ぜんべいNo.1)といった傑作けっさくきょく収録しゅうろくされたものの、『スマイリー・スマイル』の評価ひょうか惨憺さんたんたるものであった。ブライアンが『スマイル』を放棄ほうきしたのちに、のこりのメンバーがつくげた『スマイリー・スマイル』が、かれらがきらったサイケデリックいろつよいアルバムとなったのは皮肉ひにく結果けっかであった。

ブライアンの錯乱さくらんした精神せいしん状態じょうたい事実じじつじょう活動かつどう休止きゅうしにもかかわらず、バンドはさらに活発かっぱつ活動かつどうつづけた。『ワイルド・ハニー』『フレンズ』『20/20』までの作品さくひんをキャピトルで発表はっぴょうした。

ただし、ブライアン以外いがいのメンバーも平穏へいおん生活せいかつおくっていたわけではない。この時期じきデニスは、のち女優じょゆうシャロン・テート惨殺ざんさつ事件じけんこすチャールズ・マンソン共同きょうどう生活せいかつおくったうえに、楽曲がっきょくともさくまでっている。これは事件じけんスキャンダルとなった。

ブラザー・リプリーズ時代じだい以後いご[編集へんしゅう]

レーガン大統領だいとうりょう夫妻ふさいと(1983ねん6がつ

1970ねんの『サンフラワー』でキャピトルをはなれ、ワーナーブラザース傘下さんかのリプリーズに移籍いせきする。また、本格ほんかくてき自分じぶんたちのレーベルであるブラザーレコード名義めいぎ作品さくひん発表はっぴょうするようになる。つづいて1971ねんの『サーフズ・アップ』がリリースされた。そのタイトル・トラック「サーフズ・アップ」は才能さいのうあるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとのともさくで、元々もともとは『スマイル』に収録しゅうろくされるきょくであったが、ブライアンのおもったとおりのボーカルが録音ろくおんできず、カールがわってリードボーカルをつとめた。このように『スマイル』が頓挫とんざしてから以後いご発表はっぴょうされたほとんどのアルバムには、分散ぶんさんするかたちで『スマイル』収録しゅうろく予定よていきょくべつバージョンが収録しゅうろくされている。

1970年代ねんだいとおしてブライアンの活動かつどう低調ていちょうで、1973ねんの『オランダ』も複雑ふくざつ評価ひょうかた。ブライアンは1976ねんにツアーに復帰ふっきしたが、かれ精神せいしん疾患しっかん1990年代ねんだいまで不安定ふあんていだった。ただし、ブライアン不在ふざいなかのメンバーは精力せいりょくてきにツアーをつづけ、ライブバンドとしての地位ちい確立かくりつしていく。また、ブライアンのわりにメンバーがつくった楽曲がっきょくなかには佳作かさくもあり、ビーチ・ボーイズがけっしてブライアン一人ひとり才能さいのうによってっていたわけではないことをしめ結果けっかとなった。

しかし、1983ねん12月28にち、ウィルソンさん兄弟きょうだい次男じなんであるデニスが事故死じこしする。泥酔でいすい状態じょうたいでクルーザーから水中すいちゅうみ、溺死できししたのである。当時とうじ、それぞれがソロアルバムをすなど、すでに分裂ぶんれつ危機ききにあったかれらは、デニスのをきっかけとして一時いちじてき以前いぜん結束けっそくもどすかのようにえた。

1985ねん7がつ13にちおこなわれたライヴ・エイド出演しゅつえんする。くなったデニス以外いがいのメンバー5にん(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィアJFKスタジアム集結しゅうけつし、「カリフォルニア・ガールズ」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「素敵すてきじゃないか」「グッド・ヴァイブレーション」「サーフィンU.S.A.」を披露ひろうした。これによりのこされた5にんでの活動かつどうおおきな期待きたいせられたが、同年どうねんリリースされたアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ以後いご、ブライアンはマイクとのともさくをやめ、精神せいしんめんでの主治医しゅじいユージン・ランディの誘導ゆうどうにより、ソロ活動かつどうおもきをくようになっていった。

3分裂ぶんれつ[編集へんしゅう]

1988ねんくなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表はっぴょうみだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表はっぴょうする。このアルバムは精神せいしん分析ぶんせきユージン・ランディのつよ影響えいきょうつくられたものであった。ブライアンの才能さいのう発揮はっきされた佳作かさくで、一部いちぶ熱狂ねっきょうてきむかえられたものの、一般いっぱんおおきな反響はんきょうをもたらすものではなかった。皮肉ひにくなことに、同年どうねんブライアン以外いがいのメンバーがビーチ・ボーイズ名義めいぎ発表はっぴょうした映画えいがカクテル』の主題歌しゅだいかココモ」が22ねんぶりの全米ぜんべいNo.1を獲得かくとくするだいヒットとなる(ブライアンは録音ろくおんさそわれていたが予定よていわずに不参加ふさんか。その、このきょくのスペインバージョンの録音ろくおん参加さんかした)。なおテレビドラマ『フルハウス』のなかでブライアンは久々ひさびさにメンバーと共演きょうえんし「ココモ」を披露ひろうしている(「ビーチ・ボーイズがやってた!」のかい)。また、このとしグループは「ロックの殿堂でんどうりをたす。なお、のちに「ボーカルグループの殿堂でんどう」(1998ねんりもたしている。

そのもメンバー同士どうしで、さまざまな理由りゆうたがいに訴訟そしょう合戦かっせんひろげながら、音楽おんがくじょう交流こうりゅう若干じゃっかんながらつづいていた。しかし、バンドとしてのビーチ・ボーイズにとって最大さいだい悲劇ひげきこる。演奏えんそうめんでの実質じっしつてきなリーダーだったカール・ウィルソンが肺癌はいがん1998ねん2がつ6にち死去しきょしたのだ。これで、ブライアンをのぞくメンバーあいだのこっていた結束けっそくうしなわれてしまった。マイク・ラヴとブルース・ジョンストンは、ブライアンの承認しょうにんて「ザ・ビーチ・ボーイズ」の名前なまえぎ、おもにライヴを中心ちゅうしん精力せいりょくてき活動かつどうするようになった。アル・ジャーディンは、ブライアンのむすめたちや、自分じぶん息子むすこなどとともに「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」というバンドを結成けっせいし、のメンバーとははなれていった。ユージン・ランディの影響えいきょうからだっしたブライアンのソロ活動かつどう徐々じょじょ軌道きどうりはじめた。かれ尊敬そんけいするワンダーミンツやジェフリー・フォスケットなどのミュージシャンによるサポートをけて、ビーチ・ボーイズ時代じだい作品さくひん当時とうじ録音ろくおん失敗しっぱいしたおおくの作品さくひんにふたたびいのちあたえる公演こうえんおこなう。そして2004ねんには37ねんしに『スマイル』を発売はつばいした。

事実じじつじょう3分裂ぶんれつし、別々べつべつ活動かつどうしてきた1998ねん以降いこうも、現存げんそんするビーチ・ボーイズの3にんのオリジナル・メンバーは、いまなおブラザー・レコードの共同きょうどう経営けいえいしゃであることにわりはなく、過去かこ音源おんげん映像えいぞうのリリースにかんする発言はつげんけん決定けっていけんゆうしている。また、かくメンバーのツアー開催かいさい開催かいさい日程にってい重複じゅうふくしないよう、かくメンバーの代理人だいりにんときにはメンバー本人ほんにんあいだ会議かいぎつづけられた。ブライアンやアルにとって、正式せいしき脱退だったいしてしまうと、相対そうたいてきにビーチ・ボーイズの名義めいぎ使用しようしているマイク・ラブの発言はつげんけんもっとおおきくなってしまうからである。

和解わかい[編集へんしゅう]

2005ねん5がつ故郷こきょうホーソーンのウィルソン兄弟きょうだい生家せいかあとが、カリフォルニアしゅう史跡しせき制定せいていされ、その記念きねん除幕じょまくしきに、ブライアン、アル、初期しょきメンバーのデヴィッド・マークスが出席しゅっせきし、まずはブライアンとアルの和解わかいおおやけしめされた。

その、メンバー本人ほんにんあいだすう会議かいぎおこなったことがつたえられるなど、ゆるやかなあゆりのうごきがみられ、その成果せいかの1つとして、2006ねん5がつ、ホールマークしゃより期間きかん限定げんていで、1974ねんと1989ねんのライヴ・テイクにくわえ、ブライアン、アル、マイクがソロきょくを1きょくずつったビーチ・ボーイズ名義めいぎのアルバム『ソングス・フロム・ヒア・アンド・バック』が発売はつばいされた。

また2006ねん6がつ13にち、キャピトル・レコード本社ほんしゃ屋上おくじょう開催かいさいされた、ベストばん『サウンズ・オブ・サマー』(2003ねん発売はつばい)ダブル・プラチナム獲得かくとく記念きねんセレモニーに、ブライアン、マイク、アル、ブルース、デヴィッドが出席しゅっせきし、2001ねん2がつ21にちだい43かいグラミーしょう功労賞こうろうしょう授賞じゅしょうしき以来いらい、5ねんぶりに公衆こうしゅう面前めんぜんでオリジナル・メンバーがそろった。険悪けんあく雰囲気ふんいきであったグラミーしょう当時とうじとはってわって、プラチナ・ディスクをかこんで相互そうごににこやかに談笑だんしょうする姿すがたせた。

2006ねん11月1にちロサンゼルスUCLA・ロイス・ホールにておこなわれた、ブライアンの『ペット・サウンズ発売はつばい40周年しゅうねん記念きねん公演こうえんにアルが客演きゃくえんし、ブライアンがビーチ・ボーイズの公演こうえん完全かんぜん参加さんかしなくなった1996ねん9がつ以来いらい、10ねんりのステージじょうでの共演きょうえんたした。アルのの客演きゃくえんは2007ねん1がつまでつづいたが、そのアルは自身じしんのソロ・アルバム制作せいさく理由りゆう離脱りだつした。以降いこうかくメンバーは個々ここ活動かつどう継続けいぞくしてきた。

ブライアンとアルは、2010ねん1がつ31にちおこなわれただい52かいグラミーしょう授賞じゅしょうしき出席しゅっせき、さらに翌日よくじつの「ウィ・アー・ザ・ワールド」25周年しゅうねんリメイクばん録音ろくおんそろって参加さんかした[8]

マイクは2009ねん9がつ、2011ねん2がつに5にん現存げんそんメンバーによるさい集結しゅうけつ公演こうえんを、カリフォルニアしゅうシミ・ヴァレーにあるロナルド・レーガン・ライブラリーにておこな計画けいかくがあることを表明ひょうめい[9]どう公演こうえんは2011ねん2がつ5にち同地どうちにてほぼ予定よていどおおこなわれたが、ブライアンとデヴィッドは不参加ふさんかで、アルが単身たんしんマイク&ブルースに13ねんぶりにくわわり、20ふんほどの演奏えんそうおこなうというかたちにとどまった[10]

2011ねんはいり、さい集結しゅうけつへのうごきは加速かそくする。4月には東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいへのチャリティ・シングルとして、「フレンズ(アカペラ・ヴァージョン)」と、アルのソロ・アルバム『ア・ポストカード・フロム・カリフォルニア』収録しゅうろくきょくであるビーチ・ボーイズの発表はっぴょうきょく「ドント・ファイト・ザ・シー」をカップリングしたアナログ7インチシングルを自主じしゅ制作せいさくにて発表はっぴょういで11月にはぜんメンバーの合意ごういした、1966~70ねんのビーチ・ボーイズの音源おんげん構成こうせいされた『スマイル・セッションズ』をキャピトル・レコードより公式こうしき発表はっぴょう全米ぜんべい27まで上昇じょうしょうした。

2012ねん2がつ12にちにはだい54かいグラミーしょう授賞じゅしょうしきにて5にん現存げんそんメンバーでははつ公式こうしきパフォーマンスをおこない、「グッド・ヴァイブレーション」をマルーン5フォスター・ザ・ピープルとも演奏えんそうした。

2012ねん4がつより9がつまで、デビュー50周年しゅうねんリユニオン・ワールド・ツアーを開催かいさい。6月には新作しんさくアルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ〜かみつくりしラジオ〜』を発売はつばい全米ぜんべい最高さいこう3)、8がつには来日らいにち公演こうえん千葉ちば名古屋なごや大阪おおさか)をおこなった。

同年どうねん10がつ以降いこうはマイクとブルースがふたたびブライアンらとたもとかち、前年ぜんねんまでのバンドをひきいてツアーを再開さいかい一方いっぽうブライアンとアルはさい集結しゅうけつ継続けいぞく希望きぼうしたもののれられなかった。そのわり、ブライアンのバンドにアルが息子むすこのマット・ジャーディンととも合流ごうりゅうしゃでのアルバム製作せいさく公演こうえん活動かつどうおこなうようになったため、現状げんじょうでは分裂ぶんれつ状態じょうたいとなっている。2016ねんごろからはかつて1971-73ねんあいだメンバーだったブロンディ・チャップリンもブライアンのバンドに参加さんかしている。

人物じんぶつ思想しそう[編集へんしゅう]

メンバーのうち、マイク・ラブとブルース・ジョンストンが、右寄みぎよりの思想しそう持主もちぬし共和党きょうわとう熱心ねっしん支持しじしている。[11]共和党きょうわとう大会たいかい出演しゅつえんして演奏えんそうしたりするのは、それが理由りゆうである。右派うはしん自由じゆう主義しゅぎしゃの、ロナルド・レーガンとの写真しゃしんのこっている。なおマイク・ラブは、60年代ねんだいにはビートルズのメンバーやドノヴァンミア・ファローらとインドを訪問ほうもんした経験けいけんがあり、環境かんきょう保全ほぜんうったえるきょく制作せいさくしていたため、それ以後いご思想しそうてき変化へんかにはおどろかされるひともいるかもしれない。

一方いっぽうブライアン・ウィルソンとアル・ジャーディンは基本きほんてきには政治せいじ活動かつどう積極せっきょくてきにはおこなっていないが、マイクひきいるビーチ・ボーイズがトロフィー・ハンティング支持しじする団体だんたいのインターナショナル・コンヴェンションで開催かいさいされるコンサートでライヴをおこなうことについて非難ひなんし、ボイコットをもとめる署名しょめい活動かつどう参加さんかした[12]

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

シングル[編集へんしゅう]

1961

  • Surfin' (US #75) / Luau

1962

1963

  • Surfin' U.S.A. (US #3 /UK #34) / Shut Down (US #23)
  • Surfer Girl (US #7) / Little Deuce Coupe (US #15)
  • Be True To Your School (US #6) / In My Room (US #23)
  • Little Saint Nick / The Lord's Prayer

1964

  • Fun, Fun, Fun (US #5) / Why Do Fools Fall In Love (US #120)
  • I Get Around (US #1 /UK #7) / Don't Worry Baby (US #24)
  • When I Grow Up (To Be A Man) (US #9 /UK #27) / She Knows Me Too Well (US #101)
  • Four By The Beach Boys[EP]: Little Honda (US #65)/ Wendy (US #44)/ Don't Look Back / Hushabye
  • Dance, Dance, Dance (US #8 /UK #24) / The Warmth Of The Sun
  • The Man With All The Toys / Blue Christmas

1965

  • Do You Wanna Dance? (US #12) / Please Let Me Wonder (US #52)
  • Help Me Rhonda (US #1 /UK #27) / Kiss Me Baby
  • California Girls (US #3 /Uk #26) / Let Him Run Wild
  • The Little Girl I Once Knew (US #20) / There's No Other (Like My Baby)

1966

1967

  • Then I Kissed Her (UK #5) / Mountain Of Love
  • Heroes And Villians (US #12 /UK #8) / You're Welcome
  • Gettin' Hungry / Devoted To You
  • Wild Honey (US #31 /UK #29) / Wind Chimes
  • Darlin' (US #19 /UK #11) / Here Today

1968

  • Friends (US #47 /UK #25) / Little Bird
  • Do It Again (US #20 /UK #1) / Wake The World
  • Bluebirds Over The Mountain (US #61 /UK #33) / Never Learn Not To Love

1969

1970

  • Add Some Music To Your Day (US #64) / Susie Cincinnati
  • Cottonfields (US #103 /UK #5) / The Nearest Faraway Place
  • Slip On Through / This Whole World
  • Tears In The Morning / It's About Time

1971

  • Cool, Cool Water / Forever
  • Long Promised Road (US #89) / Til I Die
  • Surf's Up / Don't Go Near The Water

1972

  • You Need A Mess Of Help To Stand / Cuddle Up
  • Marcella (US #110) / Hold On Dear Brother

1973

  • Sail On Sailor (US #79) / Only With You
  • California Saga (On My Way To Sunny Californ-i-a) (US #84 /UK #37) / Funky Pretty

1974

  • Surfin' U.S.A. (US #36) / The Warmth Of The Sun
  • Child Of Winter / Susie Cincinnati

1975

  • Sail On Sailor (US #49) / Only With You

1976

  • Rock And Roll Music (US #5 /UK #36) / The TM Song
  • It's O.K. (US #29) / Had To Phone Ya
  • Everyone's In Love With You / Susie Cincinnati

1977

  • Honkin' Down The Highway / Solar System

1978

1979

  • Here Comes The Night (US #44 /UK #37) / Baby Blue
  • Good Timin' (US #40) / Love Surrounds Me
  • Lady Lynda (UK #7) / Full Sail
  • It's A Beautiful Day (UK #45) / Sumahama

1980

  • Goin' On (US #83) / Endless Harmony

1981

  • The Beach Boys Medley (US #12) / God Only Knows

1982

1985

  • Getcha Back (US #26) / Male Ego
  • It's Gettin' Late (US #82) / It's O.K.
  • She Believes In Love Again / It's Just A Matter Of Time

1986

  • Rock 'N' Roll To The Rescue (US #68) / Good Vibrations [Live]
  • California Dreamin' (US #57) / Lady Liberty

1988

  • Kokomo (US #1 /UK #25) / Tutti Frutti <Little Richard>

1989

  • Still Cruisin' (US #93) / Kokomo

1990

  • Somewhere Near Japan / Kokomo
  • Wouldn't It Be Nice / The Beach Boys Medley
  • Problem Child / Tutti Frutti <Little Richard>

1992

  • Hot Fun In The Summertime / Summer Of Love

2011

  • Don't Fight The Sea / Friends (a cappella)

2012

  • That's Why God Made The Radio / That's Why God Made The Radio (Instrumental)

アルバム[編集へんしゅう]

オリジナル・アルバム[編集へんしゅう]

ライブ・アルバム[編集へんしゅう]

映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g Bush, John. The Beach Boys | Biography & History - オールミュージック. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  2. ^ サザンオールスターズ応援おうえんだん会報かいほう代官山だいかんやま通信つうしん」Vol.149 P13。
  3. ^ Sound of Soul 2019ねん12月10にち1130ふんさい放送ほうそう ビーチ・ボーイズ、グッドバイブレーション https://www.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_22.html
  4. ^ 盗作とうさくさわぎはこうして解決かいけつした https://spice.eplus.jp/articles/11813
  5. ^ http://www.songfacts.com/detail.php?id=1244
  6. ^ Electro-Theremin https://note.com/sh101/n/n4a6e8cda0423
  7. ^ べいカントリーかいだい御所ごせグレン・キャンベルさん死去しきょ 81さい”. www.afpbb.com. 2020ねん6がつ9にち閲覧えつらん
  8. ^ [1] 'We Are The World' Remake Brings Lil Wayne, Kanye West, Pink, Usher, More Together For Haiti
  9. ^ [2] Beach Boy Dishes About Kennedys, Longevity and Music
  10. ^ [3] Al Jardine Reunites With The Beach Boys Tonight – Partially!
  11. ^ https://www.rollingstone.com/.../a-pocket-guide-to-republican-rocker
  12. ^ [4]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]