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ザ・フー

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ザ・フー
2007ねんのロッテルダム公演こうえん
基本きほん情報じょうほう
別名べつめい
  • ザ・ディトゥアーズ
  • ハイ・ナンバーズ
出身しゅっしん イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動かつどう期間きかん
レーベル
公式こうしきサイト ザ・フー 公式こうしきサイト
メンバー
きゅうメンバー
1975ねんシカゴ公演こうえん

ザ・フーThe Who)は、イギリスロックバンドビートルズローリング・ストーンズならんで、イギリスの3だいロックバンドのひとつにげられる[4]

1964ねんにデビュー。ビート・バンドとしてブリティッシュビート・ブームの一端いったんにない、スモール・フェイセス[注釈ちゅうしゃく 2]ならぶ2だいモッズ・バンドともしょうされた。アルバム『トミー』(1969ねん)でロック・オペラ発表はっぴょう。1970年代ねんだいにはシンセサイザー導入どうにゅうする[注釈ちゅうしゃく 3]など、その音楽おんがくせいには、ハードロックサイケデリア[2]くわえてプログレッシヴ・ロック傾向けいこうもあった。

ローリング・ストーンえらぶ「歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100くみのアーティスト」においてだい29[6]

メンバー[編集へんしゅう]

げんメンバー
きゅうメンバー
サポートメンバー
  • ジョン “ラビット” バンドリック英語えいごばんJohn "Rabbit" Bundrick (1948-11-21) 1948ねん11月21にち(75さい) - )(キーボード、ボーカル)(在籍ざいせき期間きかん 1979ねん - 1981ねん、1985ねん - 2011ねん) 1979ねんにムーンの後任こうにんとしてジョーンズをむかえたのをきっかけに、ザ・フーがツアーリング・メンバーをしたがえてライヴ活動かつどうおこなうようになったとき招聘しょうへいされた。以来いらい[注釈ちゅうしゃく 5]、2011ねんまでツアーに参加さんか
  • ザック・スターキーZak Starkey (1965-09-13) 1965ねん9月13にち(58さい) - )(ドラムス)(在籍ざいせき期間きかん 1996ねん - ) リンゴ・スター長男ちょうなん少年しょうねん時代じだいにはムーンに可愛かわいがられかれにドラミングをまなんだ。1996ねんにタウンゼントら3にんさい結集けっしゅうしてプリンス・トラスト英語えいごばんのコンサートに出演しゅつえんしたとき招聘しょうへいされて以来いらい、ツアーリング・メンバーとして2023ねん現在げんざい活動かつどうちゅう。2004ねんから2008ねんまではオアシスのドラマーも兼任けんにんしていた。
  • サイモン・タウンゼント英語えいごばんSimon Townshend (1960-10-10) 1960ねん10がつ10日とおか(63さい) - )(ボーカル、ギター)(在籍ざいせき期間きかん 1996ねん - 1997ねん、2002ねん - ) ピート・タウンゼントの実弟じってい
  • ピノ・パラディーノPino Palladino (1957-10-17) 1957ねん10月17にち(66さい) - )(ベース)(在籍ざいせき期間きかん 2002ねん - ) エントウィッスルの急死きゅうし直後ちょくごはじまった2002ねん全米ぜんべいツアーに、タウンゼントの緊急きんきゅう要請ようせい代役だいやくつとめて以来いらい、ツアーに参加さんか
その

スタジオでのレコーディングにも、ニッキー・ホプキンスをはじめ様々さまざまなミュージシャンがゲストにまねかれた。メンバーが2人ふたりになってからは、それがさらに顕著けんちょとなっている[注釈ちゅうしゃく 6]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1961ねん-1964ねん[編集へんしゅう]

ザ・フーの前身ぜんしんは、ロジャー・ダルトリーが10代のころ身近みぢか仲間なかまとも結成けっせいしたスキッフルバンド、ザ・ディトゥアーズである。1961ねんなつ、ダルトリーのさそいにより中学校ちゅうがっこう時代じだい後輩こうはいだったジョン・エントウィッスルが加入かにゅう。1962ねん1がつにはBBCラジオのオーディションに応募おうぼするが経験けいけん不足ふそく理由りゆう合格ごうかくとなっている[7]同年どうねんなつ前任ぜんにんのリズムギタリストにわりエントウィッスルのかつてのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入かにゅう。タウンゼントの加入かにゅうからあいだもなく、のメンバーよりも10さい以上いじょう年長ねんちょう(1930ねんまれ[8])で妻帯さいたいしゃだったダグ・サンダムがドラマーとして加入かにゅうする[9]。1964ねんのメジャー・デビューまでにメンバーはまぐるしくわり、1962ねん下旬げじゅん前任ぜんにんのボーカリストがのメンバーと衝突しょうとつ脱退だったいすると、リードギター担当たんとうだったダルトリーはボーカルを兼任けんにんすることになった[10]

当時とうじダルトリーは板金ばんきんこう、エントウィッスルは税務署ぜいむしょ職員しょくいん、サンダムはレンガ職人しょくにんとそれぞれ本業ほんぎょうっており、またタウンゼントはイーリング・アート・カレッジの学生がくせいであったため、音楽おんがく活動かつどうはもっぱら夜間やかん休日きゅうじつおこなわれた[11]当初とうしょはタウンゼントのははベティがバンドの仕事しごと手配てはいしていたが、やがてバンドと契約けいやくした地元じもとのプロモーターのロバート・ドゥルースにわられた[12]。また、板金ばんきん仕事しごとでしばしば負傷ふしょうしていたダルトリーがギタリストからボーカルに転向てんこうしたため、1963ねんにタウンゼントがリードギタリストとなった。このころはダルトリーがバンドの絶対ぜったいてきなリーダーであり、かれ音域おんいきでカバーできないきょく演目えんもくからはずされた[13]

ディトゥアーズの当時とうじおも演奏えんそうレパートリーはベンチャーズシャドウズビートルズなどによる最新さいしんヒットきょくのカバーやトラッド・ジャズであり[14]自作じさくきょくはなかったが1963ねんにはタウンゼントがはじめていたきょく実験じっけんてき録音ろくおんされている。またこのとしあきごろより、当時とうじロンドン音楽おんがく趨勢すうせい影響えいきょうされるかたちで、レパートリーをヒットきょくのカバーからシカゴ・ブルースえた[13]。ダルトリーは「(レパートリーをえたことで)いままでのファンをすべうしない、それをもどすのに半年はんとしかかった。でもそのときにはファンのかず以前いぜんの3ばいになっていた」と当時とうじかえっている[15]

1964ねん2がつ同名どうめいのバンドがいたことが判明はんめいし、バンドめい変更へんこうせまられる。いくつかのふざけた名前なまえ候補こうほげられたが、タウンゼントの友人ゆうじんのリチャード・バーンズが提案ていあんしたザ・フーがダルトリーの「“ザ・フー”にまりだろ?」の一声いっせい採用さいようされた[16]。2がつ20日はつかのギグより、バンドはザ・フーのかんするようになった[17]。それからあいだもなく、バンドを見出みいだしたドアノブ製造せいぞう業者ぎょうしゃのヘルムート・ゴードンとマネージメント契約けいやくむす[16]

プロデビューへのひかりえてきた矢先やさき、4がつ初旬しょじゅんけたオーディションでドラムに問題もんだいがあるとひょうされたことががねとなり、タウンゼントとダグ・サンダムが衝突しょうとつし、かねてからバンドの音楽おんがくせいになじめなかったサンダムはこれをにバンドを脱退だったいする[18]のちにタウンゼントはサンダムをしたことを「人生じんせいにおける最大さいだい後悔こうかいひとつ」とかたった[19]。サンダムはのちにタウンゼントと和解わかいし、もと友人ゆうじん同士どうしもどることができたという。サンダムは2019ねん2がつ27にち、89さい死去しきょした[8]

サンダムの脱退だったい、バンドはすぐにべつのドラマーをやとれた(つなぎでれたドラマーのなかには、のちジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとなるミッチ・ミッチェルもいた[19])。それからあいだもない4がつまつごろ演奏えんそうちゅう客席きゃくせきから一人ひとりおとこが「おれれのほう上手うまい」と、ある少年しょうねんをステージにげた。その少年しょうねんがキース・ムーンだった。ドラムがこわれるほどはげしい演奏えんそう衝撃しょうげきけたメンバーは、ただちにムーンを採用さいようした[20]

ハイ・ナンバーズとしてデビュー[編集へんしゅう]

ロジャー・ダルトリー(ひだり)とキース・ムーン(1967ねん

ゴードンがフリーランスで活動かつどうしていたピーター・ミーデンをザ・フーの広報こうほう担当たんとうとしてやとったことから、メジャー・デビューへのうごきが加速かそくする。フォンタナ・レコード契約けいやく締結ていけつすると、バンドを当時とうじ流行りゅうこうしていたモッズぞくとしてすことを画策かくさくしたミーデンはメンバーにモッズけいふく着用ちゃくようさせ、さらにバンドめいハイ・ナンバーズあらためさせた(「ナンバー」とはモッズのあいだでストリートにたむろするものあらわすスラングで、「ハイ」はかれらが麻薬まやくつねにハイであったことにちなむ)[21]。1964ねん7がつ3にち、ミーデンがいた「ズート・スーツ/アイム・ザ・フェイス」(2きょくとも実際じっさいにはミーデンの自作じさくきょくではなく、既存きそんきょく歌詞かしえただけのもの)で、ハイ・ナンバーズはレコード・デビューする。しかしレコードは1,000まいしかプレスされず[22]、ミーデンの懸命けんめい宣伝せんでん活動かつどう甲斐かいもなく不発ふはつわる[23]

7がつ中旬ちゅうじゅんごろ才能さいのうあるロックバンドをさがしてドキュメンタリー映画えいがることを夢見ゆめみていたキット・ランバートとどまったことで、ふたたびバンドの運命うんめいわる。ハイ・ナンバーズの演奏えんそう圧倒あっとうされたランバートは、さっそく仲間なかまクリス・スタンプともにバンドに接触せっしょくする。バンドは音楽おんがくビジネスの経験けいけんいランバートとスタンプを当初とうしょ警戒けいかいしていたが、ミーデンの手法しゅほう不満ふまんかんいていたこともあり、ゴードンとの契約けいやく破棄はきしてランバートらと行動こうどうともにすることめた[24]。このうごきに反抗はんこうしたミーデンも用心棒ようじんぼうれて抵抗ていこうしたものの、8がつには250ポンドの手切てぎきん解雇かいこされた。バンドはランバートらとあらたなマネージメント契約けいやくむすんだ。契約けいやく内容ないようぶんをランバートとスタンプがそれぞれ20%ずつ、のこりの60%をメンバーで4等分とうぶんすることでまとまった[25]。なお、ミーデンはこれ以降いこうバンドと絶縁ぜつえんし、ムーンのすこまえの1978ねん7がつ30にちに37さい死亡しぼうした。死因しいん断定だんていされていないが、ムーン同様どうようオーバードースられている[26]

10月、EMIのオーディションに合格ごうかくとなるが、プロデューサーのシェル・タルミー見出みいだされ、プロデュース契約けいやくむすこと成功せいこう[27]。11月にはブランズウィックとのレコード契約けいやくわし、バンドはふたたび“ザ・フー”と改名かいめいしてさいデビューをたした[28]だい音量おんりょう演奏えんそうだけでなく、ギターやアンプ、ドラムを破壊はかいする派手はでなパフォーマンスはモッズの若者わかもの中心ちゅうしん評判ひょうばんんでいった。

1965ねん-1968ねん[編集へんしゅう]

ジョン・エントウィッスル(1967ねん

1965ねん1がつ発売はつばいされたザ・フー名義めいぎでのデビュー・シングル『アイ・キャント・エクスプレイン』は、ぜんえいチャート8到達とうたつした。さらに10がつ発売はつばいした3まいのシングル『マイ・ジェネレーション』はぜんえい2というだいヒットとなり、ザ・フーの一気いっきにスターダムにのしげた。かれらの活躍かつやくぶりはポール・マッカートニーをして「ザ・フーの出現しゅつげんは1965ねん音楽おんがくシーンにけるさい重要じゅうよう事項じこう」とわしめるほどだった[29]。だが当時とうじのバンドないではつねいさかいがえず、いつ解散かいさんしてもおかしくない状態じょうたいだった。9月にはドラッグの使用しようをめぐってダルトリーがの3にん衝突しょうとつし、あわや脱退だったいというところにまで事態じたいすすんだが、「マイ・ジェネレーション」のだいヒットとランバートらの説得せっとく、そして本人ほんにん謝罪しゃざいにより、脱退だったいという最悪さいあく事態じたいまぬかれた[30]。12月、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』をリリース(ぜんえい5)。

よく1966ねんになっても問題もんだいつづいた。印税いんぜい配分はいぶん均衡きんこうからプロデューサーのシェル・タルミーと対立たいりつしたバンドはタルミーとの契約けいやく破棄はきし、バンドのエージェントであるロバート・スティグウッド設立せつりつしたリアクション・レコード移籍いせきする。だが、4まいのシングル『こいのピンチ・ヒッター』のBめんきょくである「サークルズ」が、著作ちょさくけん侵害しんがいたるとしてタルミーがシングル発売はつばい停止ていし裁判所さいばんしょうったえた[31]。またバンドない対立たいりつ深刻しんこくしており、同年どうねん5がつにはダルトリーが一時いちじてきにバンドを脱退だったい[32]、そのダルトリーがもどってくると、今度こんどはムーンがダルトリーやタウンゼントと衝突しょうとつし、バンドを一時いちじてき脱退だったいする。これもランバートらの説得せっとくにより、1週間しゅうかんにはムーンは脱退だったいげた[33]。また当時とうじはエントウィッスルも脱退だったいかんがえており、ムーディ・ブルースへの加入かにゅう画策かくさくしていたという[34]非常ひじょう混沌こんとんとした時期じきだったが、このとし発売はつばいしたシングル『こいのピンチ・ヒッター』『アイム・ア・ボーイ』『ハッピー・ジャック』はすべてトップ10に到達とうたつするヒットとなった。とくに「ハッピー・ジャック」は全米ぜんべい24につけ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでのはつヒットきょくとなった。

ピート・タウンゼント(1967ねん

1967ねんはいると、アメリカでの活動かつどう本格ほんかくさせたバンドは長期ちょうき全米ぜんべいツアーを敢行かんこうする。6月にはモンタレー・ポップ・フェスティバル出演しゅつえん楽器がっき破壊はかい披露ひろうし、過激かげきなライヴバンドとしてアメリカじんつよ衝撃しょうげきあたえた。出演しゅつえんじゅんをめぐるザ・フーとのあらそいにやぶれたジミ・ヘンドリックスは、ギターに点火てんかするというより過激かげきなパフォーマンスをおこなった[35]。このとしの10がつ発売はつばいした「こいのマジック・アイ」が全米ぜんべい9につけるヒットきょくとなった(ザ・フーのアメリカにけるシングルの最高さいこう[36]。またこのころ、タウンゼントはそのかれ人生じんせい作品さくひんおおきな影響えいきょうをもたらしたインド導師どうしメハー・ババ帰依きえしている[37]

1968ねん1がつからスモール・フェイセズポール・ジョーンズともオーストラリアニュージーランド遠征えんせいする。オーストラリアでのツアーちゅう移動いどうちゅう飛行機ひこうきうち問題もんだいこし警察けいさつ連行れんこうされた。こと発端ほったんはあるスチュワーデスがメンバーを侮辱ぶじょくしたことだったが、航空こうくう会社かいしゃはスチュワーデスのいいぶんをききいれ、酩酊めいていしたバンドがわ下品げひん言葉ことばべたためとうったえた[38]。これにくわ現地げんちのメディアからつよ批判ひはんけたこともあいまって、バンドは二度にどとオーストラリアをおとずれないことを宣言せんげんした[39]。2月よりふたたびアメリカ本土ほんど上陸じょうりく断続だんぞくてきなツアーを8がつまつまでった[40]。ダルトリーは「アメリカがおれたち団結だんけつさせてくれた。たよれるものはなく、ちからわせるしかなかったんだ」とかたっている[41]

アメリカでは人気にんきたかまる一方いっぽう本国ほんごくイギリスでの人気にんきかげりがはじめた。1968ねん発表はっぴょうしたシングル『ドッグス』『マジック・バス』はともぜんえいトップ20りをのがした。3まいのアルバム『セル・アウト』もえいべい双方そうほうでトップ10りをのがしたこともあり、ザ・フーはシングル・ヒットをばしつづける活動かつどう限界げんかいかんはじめる。さらに当時とうじのザ・フーは慢性まんせいてき財政難ざいせいなんおちいっており、次回じかいさくのアルバムが失敗しっぱいおわれば解散かいさんというところにまでめられていた[42]同年どうねん9がつより、グループはタウンゼントが構想こうそうあたためてきたロック・オペラ『トミー』の制作せいさく開始かいしする。『トミー』はタウンゼント自身じしん幼少ようしょう経験けいけん、そしてかれ師事しじしていたメハー・ババのおしえがもととなっている。制作せいさく捻出ねんしゅつのため、録音ろくおん作業さぎょうはツアーと並行へいこうしながらおこなわれた[43]

1969ねん-1973ねん全盛期ぜんせいき[編集へんしゅう]

1971ねんシャーロット公演こうえん

半年はんとし以上いじょうもの製作せいさく期間きかんついやし、ようやく1969ねん5がつにアルバム『トミー』は発売はつばいされた。2まいぐみ大作たいさくで、それまでのヒットきょくのようなキャッチーさもないシリアスな作風さくふうながら、『トミー』はぜんえい2全米ぜんべい4だいヒットとなる。ほんさく成功せいこうにより、ザ・フーは解散かいさん危機ききからだっするとともに、ヒットソング・バンドのイメージから脱却だっきゃくした[44]同年どうねん5がつ1にちから開始かいしされたツアーでは、『トミー』のほぼ全曲ぜんきょく再現さいげんするというちょうじゃく演奏えんそうおこなわれた[45]。1970ねん12がつまでつづけられた「トミー・ツアー」はだい成功せいこうおさめ、「“ザ・フー”をつくった“トミー”」と、バンドめい作品さくひんめい間違まちがわれるほどにまでわたった[46]

大盛おおもりきょうだったツアーであるが、問題もんだいもあった。1969ねん5がつ16にちフィルモア・イーストでの公演こうえんちゅう会場かいじょう近隣きんりん放火ほうか事件じけん発生はっせいし、会場かいじょうないにもけむりはじめた。そのため私服しふく警官けいかんがステージにがり、演奏えんそう中止ちゅうしさせようとしたところ、ダルトリーとタウンゼントから暴行ぼうこうける。公演こうえん中止ちゅうしされ、暴行ぼうこう事件じけんこした二人ふたり翌日よくじつ警察けいさつ出頭しゅっとうした[47]。6月におこなわれた裁判さいばん結果けっか、タウンゼントが75ドルの罰金ばっきんけいふくした一方いっぽうダルトリーは無罪むざいとなった[48]。タウンゼントによれば、関係かんけいしゃがメンバーに火事かじについてつたえなかったため、警官けいかんをただの暴漢ぼうかん勘違かんちがいして暴行ぼうこういたったという[49]。7月5にちロイヤル・アルバート・ホールひらかれたロンドン公演こうえんでも、共演きょうえんしゃチャック・ベリー出演しゅつえんじゅんをめぐってあらそったり、また観客かんきゃくあばれて警察けいさつともみうなど混乱こんらんしょうじた[50]

同年どうねん8がつ16にち~17にちウッドストック・フェスティバル出演しゅつえん。ザ・フーの出番でばんよる10からのはずだったが、降雨こううによる中断ちゅうだんでただでさえ時間じかんしていたにもかかわらず、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが3時間じかん以上いじょう演奏えんそうつづけたため、かれらの出番でばんあさの4にまで延期えんきされた[51]。「シー・ミー・フィール・ミー」の演奏えんそうちゅう偶然ぐうぜんにも太陽たいようのぼはじ会場かいじょう不思議ふしぎ効果こうかをもたらした。タウンゼントは「しんじられない気持きもちだった」とそのとき興奮こうふんかたり、エントウィッスルは「かみおれたち照明しょうめいがかりだったのさ」と軽口かるくちたたいている[52]。この模様もよう映画えいがウッドストック/あい平和へいわ音楽おんがくさん日間にちかん』にもおさめられている。

1970ねん発売はつばいされたザ・フーはつのライブ・アルバム『ライヴ・アット・リーズ』はぜんえい3全米ぜんべい4というだいヒットとなる。8月29にち~30にちワイトとう音楽おんがくさい出演しゅつえん。ここでもかれらの出番でばん午前ごぜん2にまで延期えんきされた。公演こうえん映像えいぞう映画えいがよう撮影さつえいもされていたが、権利けんり譲渡じょうとをめぐり撮影さつえいしゃとバンドがわいがかず、四半世紀しはんせいき以上いじょうた1996ねんになってようやく音源おんげん映像えいぞうがソフトされている[53]

同年どうねん、タウンゼントは『トミー』につづあらたなロック・オペラ「ライフハウス」を企画きかく。アルバムと同時どうじ映画えいが計画けいかくされたが、あまりにも壮大そうだいなプロジェクトにメンバーが内容ないよう理解りかいしきれず、さらに『トミー』映画えいがとレーベル運営うんえい多忙たぼうだったランバートの協力きょうりょくられなかったこともあり、「ライフハウス」計画けいかく頓挫とんざする。そこからの楽曲がっきょく一部いちぶあつめて1971ねん発売はつばいされたのが『フーズ・ネクスト』である。バンドがわのぞまないかたちでの発表はっぴょうであったにもかかわらず、作品さくひんたか評価ひょうかけ、バンドにとってはつぜんえいチャート1獲得かくとくする(全米ぜんべい4[54]同年どうねん11がつにはベストアルバム『ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ』を発表はっぴょう。これによりシェル・タルミーとの長期ちょうきにわたる法的ほうてき闘争とうそう終止符しゅうしふたれた[55]。またこのとしには、エントウィッスルがはつのソロ・アルバム『衝撃しょうげき!!』を発売はつばいしている。

1972ねんは、結成けっせい以来いらいはつ長期ちょうき休暇きゅうかをとったためにバンドの新作しんさくはシングル2さくとどまったが、エントウィッスルは2さくのソロアルバム『ふう』、タウンゼントははつのソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』を発表はっぴょうした。またムーン以外いがいの3めいは、10月に発表はっぴょうされたロンドン交響こうきょう楽団がくだんイギリス室内しつない合唱がっしょうだんによる『トミー』に、ロッド・スチュワートリンゴ・スタースティーヴ・ウィンウッドらととも独唱どくしょうしゃとして客演きゃくえんした[注釈ちゅうしゃく 7]同年どうねん12がつにはロンドンレインボウ・シアターで、これらのかおぶれによるオーケストラばん『トミー』のチャリティー公園こうえんおこなわれ、録音ろくおん参加さんかしていないムーンもスターの代役だいやくとして出演しゅつえんした。

1973ねん、ダルトリーがはつのソロ・アルバム『ダルトリー』を発売はつばい。アルバムからのシングル『ギヴィング・イット・オール・アウェイ』がぜんえい5のヒットとなる。同年どうねん10がつ、『トミー』につづくロック・オペラだい2だんよんじゅう人格じんかく』を発表はっぴょうえいべいどもに2につけるだいヒットとなる。だがタウンゼントがのちに「『よんじゅう人格じんかく』がザ・フーにとって最後さいご傑作けっさくだった」[56]かたったように、この時期じきさかいにザ・フーの活動かつどう下降かこうせん辿たどはじめた。このとしの10がつつま離婚りこんし、以前いぜんにもましてさけ依存いぞんはじめたムーンは、『よんじゅう人格じんかく』のアメリカ・カナダツアーの初日しょにちとなるサンフランシスコ公演こうえんで、本番ほんばんまえにファンからもらったさけ動物どうぶつよう鎮静ちんせいざい混合こんごうえきんだ。その結果けっか本番ほんばんちゅう意識いしきうしなって昏倒こんとうしたムーンはかつされてしまった[注釈ちゅうしゃく 8][57]。さらに、メンバーへの印税いんぜい支払しはらいの滞納たいのう発覚はっかくし、それまで蜜月みつげつ関係かんけいにあったランバートやスタンプとのあいだ修復しゅうふく不可能ふかのう亀裂きれつしょうじる。ムーン以外いがいのメンバーはマネージャーたちたいする訴訟そしょう決意けついした[58]

1974ねん-1978ねん(ムーンの[編集へんしゅう]

キース・ムーン(1976ねん

1974ねん、ランバートとスタンプにわり、ビル・カービシュリーがザ・フーのマネージャーに就任しゅうにんする[59]同年どうねん大半たいはん映画えいがトミー』の製作せいさくついやされた。1975ねん公開こうかいされたこの映画えいが俳優はいゆうデビューをかざったダルトリーは、これを俳優はいゆうぎょうにも本格ほんかくてき進出しんしゅつする。このあいだいた時間じかんを、エントウィッスルはバンドはつ発表はっぴょうきょくしゅうオッズ&ソッズ』(ぜんえい10全米ぜんべい15)の編集へんしゅう作業さぎょうと、自身じしんのソロ活動かつどうてた。エントウィッスルは自身じしん中心ちゅうしんとなるバンド、ジョン・エントウィッスルズ・オックス結成けっせいし、1974ねん12月から翌年よくねん3がつにかけてイギリスとアメリカでツアーをおこなう。しかしツアーは集客しゅうきゃく失敗しっぱいし、、結局けっきょく30,000ポンド以上いじょうもの損失そんしつしてしまった[60]

1975ねん7がつ映画えいが『トミー』にかんして報酬ほうしゅうていないとして、ザ・フーとあたらしいマネージャーをうったえる用意よういがあると発言はつげんしたことにより、ランバートとザ・フーの不和ふわおおやけになる[61]。なお、ランバートとのあらそいは1977ねん1がつなが交渉こうしょうすえにようやく解決かいけつしたが[62]、そのランバートは音楽おんがく業界ぎょうかいからき、さけくすりおぼれる隠遁いんとん生活せいかつおくり、1981ねん自宅じたく階段かいだんから転落てんらくして死亡しぼうした[63]。また、タウンゼントとダルトリーが誌面しめんじょうたがいを中傷ちゅうしょううという出来事できごともあり、ザ・フー解散かいさんせつまことしやかにささやかれるようになる[64]。このとしはアルバム『バイ・ナンバーズ』(ぜんえい7全米ぜんべい8)と、ムーン唯一ゆいいつのソロ・アルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』の発売はつばい、そしてこれまでにないだい規模きぼなスタジアム・ツアーがおこなわれた。10月から翌年よくねん10がつまでつづいたこのツアーは大盛おおもりきょうとなり、ザ・フーはローリング・ストーンの1976ねん最優秀さいゆうしゅうグループにえらばれた。エントウィッスルは「キースとの最後さいごになったこのツアーがザ・フーのキャリアの頂点ちょうてんだった」とかたっている[65]

だがこのツアーちゅうの1976ねん1がつ、ムーンはアルコール禁断症状きんだんしょうじょう発症はっしょういち意識いしき不明ふめいおちい[66][注釈ちゅうしゃく 9]。さらに8がつにはマイアミ過度かど飲酒いんしゅにより8日間にちかん入院にゅういん余儀よぎなくされ、ツアーの日程にってい影響えいきょうおよぼした[67]。ムーンの長年ながねんにわたるさけ薬物やくぶつによる身体しんたい健康けんこう状態じょうたい深刻しんこくなものとなっていたため、ザ・フーは以降いこう長期ちょうきのツアーを企画きかくできなくなった。このとしと1977ねんはデビュー以来いらいはじめて新作しんさく発表はっぴょうされず、ダルトリーがソロ・アルバム、タウンゼントがロニー・レーンとのともさくアルバム『ラフ・ミックス』を発表はっぴょうするにとどまった。

1977ねん12月、映画えいがキッズ・アー・オールライト』のために、ロンドンキルバーンゴーモント・ステート・シネマにおいて公演こうえんおこなう。しかし1ねん以上いじょうもの活動かつどう停滞ていたいのせいで演奏えんそう上手うまくいかず、このとき映像えいぞうほとん映画えいが使つかわれなかった[68]よく1978ねん5がつ、ロンドン近郊きんこうサリーにあるシェパートン・スタジオ再度さいど観客かんきゃくれて映画えいがよう演奏えんそうおこなう。これがムーンが参加さんかしたザ・フー最後さいご公演こうえんとなった[69]同年どうねん8がつ、3ねんぶりのオリジナルアルバム『フー・アー・ユー』を発売はつばいぜんえい6全米ぜんべい2)して、ザ・フーの復活ふっかつ印象いんしょうけたかのようにおもわれた。だがそれからあいだもない9がつ7にち、ポール・マッカートニー主催しゅさいのパーティーに参加さんかした翌日よくじつ、ムーンはオーバードースによりロンドンのメイフェアで死亡しぼうした。32さいだった[70]。ムーンの翌日よくじつ、タウンゼントはムーンにたいする哀悼あいとうねんと、ザ・フーを存続そんぞくさせる決意けつい公式こうしき声明せいめいぶんべた[71]

1979ねん-1983ねん解散かいさん[編集へんしゅう]

ケニー・ジョーンズ加入かにゅうのザ・フー(1980ねん

ムーンのさいし、バンドのもとジェネシスフィル・コリンズから活動かつどう支援しえんするむね連絡れんらくたが、タウンゼントがのぞんでいたのはもとフェイセズケニー・ジョーンズだった[72]。1979ねん、タウンゼントの希望きぼうどおりジョーンズがしんメンバーとして加入かにゅう、またサポートメンバーのキーボーディストにジョン・“ラビット”・バンドリックをくわえ、ザ・フーは再始動さいしどうする。だが同年どうねん12がつ3にち、アメリカツアーちゅうシンシナティ公演こうえんで、開場かいじょう入場にゅうじょうゲートに殺到さっとうした観客かんきゃく将棋倒しょうぎだおしとなって11にん死亡しぼうする事故じこきる。メンバーは終演しゅうえんことらされ、おおきな衝撃しょうげきける[73]同年どうねん12がつ28にちカンボジア難民なんみん救済きゅうさい公演こうえん出演しゅつえん

1981ねん、ジョーンズ加入かにゅうはつとなるアルバム『フェイス・ダンシズ』を発売はつばいぜんえい2全米ぜんべい4)。このころからしんメンバーのジョーンズをめぐってバンドないきしみがしょうはじめる。タウンゼントは新生しんせいザ・フーの演奏えんそうたのしんでいたが[74]、ダルトリーはジョーンズの演奏えんそうらず、会議かいぎせきで「ケニーをめさせろ」とした。一方いっぽうジョーンズは「ピートがいいきょくをソロ活動かつどうほう使つかってしまっている」と不満ふまんうったえた[75]。バンドない不和ふわくわえ、家庭かていない問題もんだいかかえていたタウンゼントはこのころからっていた薬物やくぶつふたたすようになり、一時いちじ深刻しんこく状態じょうたいおちいるが、2かげつのリハビリを復帰ふっきする[76]

だが、もはやかれらにかつてのようないきおいはなかった。1982ねん解散かいさんまえのラストアルバムとなった『イッツ・ハード』を発売はつばいぜんえい11全米ぜんべい8)。同年どうねん12がつトロント最後さいご公演こうえんおこなう。ラストナンバーはエントウィッスルがリードをとる「ツイスト・アンド・シャウト」だった[73]。ラストライブの模様もようは1984ねんのライヴアルバム『フーズ・ラスト』に収録しゅうろくされた。1983ねん6がつ、タウンゼントがザ・フー脱退だったい意向いこうしめし、正式せいしきにバンドの解散かいさんまった[77]。ダルトリーは後年こうねん「ピートはツアーからのプレッシャーについてよくはなしてたし、ドラッグにもはまってた。かれからプレッシャーをのぞいてあげたかった。そうすればかれ自殺じさつしないだろうとおもい、解散かいさんめた」とかたっている[78]

さい結成けっせい以降いこう[編集へんしゅう]

ジョン・エントウィッスル(1981ねん

1985ねん7がつライヴ・エイド出演しゅつえんするため、解散かいさんのメンバーでさい結成けっせいし4きょく演奏えんそうした。1988ねん2がつにも英国えいこくレコード産業さんぎょう協会きょうかい(BPIアワード)の授賞じゅしょうしきで3きょく演奏えんそうしたが、これを最後さいごにケニー・ジョーンズはザ・フーとたもとわかち、以後いご参加さんかしていない[73]。この前年ぜんねんの1987ねん、タウンゼントは結成けっせい25周年しゅうねんたる1989ねんに、ザ・フーとしての新作しんさくとツアーをおこなこと表明ひょうめいしていたが、新作しんさくかれのソロアルバム『アイアン・マン』のなかで、ザ・フー名義めいぎきょくが2きょく収録しゅうろくされるにとどまった[79]。しかしツアーは『トミー』の発表はっぴょう20周年しゅうねんわせて敢行かんこうされた。このツアーでは総勢そうぜい15めいにもなる豪華ごうかなバックバンドをしたがえ、演奏えんそうもかつてのものとはことなりかなりシンフォニックなものになった。メンバーは1985ねんから1986ねんにかけてタウンゼントのソロ・ライブ編成へんせいされたディープ・エンドというのバックバンドが流用りゅうようされるかたちとなり、ドラムを担当たんとうしたサイモン・フィリップスもそのなか一人ひとりであった。だがこのころより、以前いぜんよりわずらっていた難聴なんちょう悪化あっかはじめたタウンゼントはアコースティック・ギターくにまり、セカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンを起用きようした[80]。このツアーにおける音源おんげんは、のちにライヴ・アルバム『ジョイン・トゥゲザー』として発売はつばいされた。1990ねんロックの殿堂でんどうはい[81]

デビュー30周年しゅうねんの1994ねんには、発表はっぴょうきょくやレア・トラックなどを収録しゅうろくしたボックスセット『ザ・フー・ボックスおよどうタイトルのビデオ作品さくひん発表はっぴょう。1995ねんより、音楽おんがくジャーナリストのクリス・チャールズワース監修かんしゅうのもと、ザ・フーのぜんカタログの発表はっぴょうきょく付属ふぞくしたリマスターリミックスはん断続だんぞくてきにリリースされる。だい1だんは『ライヴ・アット・リーズ』拡大かくだいばんであった。リマスタリングおよびリミキシングはアルバム『フー・アー・ユー』でプロデューサーをつとめたジョン・アストリーがいちけた(タウンゼントのもと義弟ぎていでもある)[82]

1996ねんハイドパークチャールズ皇太子こうたいし主催しゅさいしたプリンス・トラスト・コンサートにおける『よんじゅう人格じんかく全曲ぜんきょく演奏えんそう契機けいき本格ほんかくてきなツアー活動かつどう再開さいかい。ドラムにリンゴ・スター息子むすこであるザック・スターキー、また、ギターとボーカルにタウンゼントの実弟じっていであるサイモン・タウンゼントが加入かにゅうするなどツアーバンドに変更へんこうがあった。ツアー当初とうしょ重要じゅうようパートはあまりいていなかったタウンゼントも、中盤ちゅうばん以降いこうみずからリードギターをくようになった。1997ねんまでツアーはつづ[83]

1999ねん10がつから12がつにかけてiBash '99およニール・ヤング夫妻ふさい主催しゅさいするブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演しゅつえんふくけい7かい演奏えんそうおこなう。ジョン・バンドリック、ザック・スターキーをふくめた5にん基本きほんてきなバンド編成へんせいもどり、タウンゼントもほぼすべてのきょくふたたびリードギターをくようになる。このツアーの目的もくてきは、経済けいざいてき逼迫ひっぱくしていたエントウィッスルを救済きゅうさいするためでもあった[84]。2000ねん北米ほくべいぜんえいツアー、11月27にちにはダルトリーが支援しえんしている青少年せいしょうねんのがんや白血病はっけつびょう患者かんじゃ支援しえん団体だんたいであるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ公演こうえんがロンドンのロイヤル・アルバート・ホール開催かいさいされ、ポール・ウェラーオアシスノエル・ギャラガーパール・ジャムエディ・ヴェダーなどと競演きょうえんする。

2001ねん2がつグラミーしょう特別とくべつ功労賞こうろうしょう受賞じゅしょう。10月20にちアメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん被害ひがいしゃのための支援しえんとしてべいマディソン・スクエア・ガーデンおこなわれたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演しゅつえん。2002ねん2がつ7にちと8にち両日りょうじつ、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ公演こうえん出演しゅつえん。これがエントウィッスルが参加さんかした最後さいごなま演奏えんそうとなった[85]

全米ぜんべいツアー初日しょにち翌日よくじつひかえた同年どうねん6がつ27にち、エントウィッスルがネバダしゅうラスベガスのホテルで、薬物やくぶつ摂取せっしゅ起因きいんする心臓しんぞう発作ほっさ急死きゅうしする(57さいぼつ)。のこされたメンバーはツアーを続行ぞっこうすべきかなやくるしんだすえ過去かこにタウンゼントのソロ作品さくひんにも参加さんかした経験けいけんのあるピノ・パラディーノ抜擢ばってきし、7がつ1にちからツアーを開始かいしした。なお、このハリウッド・ボウルひらかれたロサンゼルス公演こうえんでは、メンバー全員ぜんいんくろ衣装いしょうでステージにがった[85]。またこのとし長年ながねん廃盤はいばん状態じょうたいだった1stアルバム『マイ・ジェネレーション』が、初期しょきプロデューサーのシェル・タルミーとの関係かんけい改善かいぜんしたことからようやく復刻ふっこくされた。

2003ねん11月、ひさしぶりの新曲しんきょく「リアル・グッド・ルッキング・ボーイ」を録音ろくおん。このきょくベースはグレッグ・レイク演奏えんそうしている。デビュー40周年しゅうねんの2004ねん、3月22にちのロンドンよりツアーを開始かいし。6月12にち復活ふっかつばんワイトとう音楽おんがくさい出演しゅつえん。7月24にちおよび25にち横浜よこはま大阪おおさか開催かいさいされたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演しゅつえんのためはつ来日らいにち。その2008ねんにもバンド単独たんどくでの来日らいにち公演こうえんおこなわれている。また、このツアーでは1968ねん以来いらいとなるオーストラリア公演こうえん実現じつげんしている[86]。2005ねん7がつ2にち、ハイドパークでおこなわれたLIVE 8出演しゅつえん。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーにていたため、代役だいやくとしてデーモン・ミンチェラスティーヴ・ホワイトがそれぞれのパートを担当たんとう

だい44かいスーパーボウルハーフタイムショーで演奏えんそうするザ・フー

2006ねん6がつ17にちヨーロッパとそれにつづ世界せかいツアーの初日しょにちとして1970ねん以来いらい36ねんぶりにリーズ大学だいがく公演こうえんおこなう。11月、『イッツ・ハード』以来いらい24ねんぶりのスタジオ録音ろくおんフルアルバムとなる『エンドレス・ワイヤー』を発表はっぴょうぜんえい9全米ぜんべい7)。2007ねん6がつ24にちグラストンベリー・フェスティバルヘッドライナーとして出演しゅつえん

2010ねん2がつ7にち、マイアミでおこなわれただい44かいスーパーボウルのハーフタイムショーをおこなう。3月30にちにはロイヤル・アルバート・ホールにおいて『よんじゅう人格じんかく』の1にちかぎりの再演さいえん。この公演こうえんにはパール・ジャムエディ・ヴェダーカサビアントム・ミーガンがゲスト出演しゅつえんしている[87]。2012ねんロンドンオリンピック閉会へいかいしき出演しゅつえん。さらに同年どうねんから2013ねんにかけて、「Quadrophenia and More」とだいし、『よんじゅう人格じんかく』を再演さいえんするツアーをおこなう。

デビュー50周年しゅうねんの2014ねん新曲しんきょくふくめた2まいぐみオールタイムベストアルバム『ヒッツ50』リリース。またどうタイトルのツアーをアラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽうアブダビより開始かいし。2015ねん、タウンゼントは「このツアーがおわったら、おれたち別々べつべつみちあゆことになるだろう」とザ・フー解散かいさん示唆しさした。ただし、「ロジャーとはおりにふれなにかやっていくことにはなるだろう」と、ダルトリーとのコラボレーションは継続けいぞくしていくことも表明ひょうめいしている[88]。この「ヒッツ50」ツアーは、2015ねん9がつにダルトリーがウイルスせいずいまくえんわずらったことにより中断ちゅうだんされた[89]。2016ねん6がつ、4度目どめ出演しゅつえんとなるワイトとうフェスティバルでツアー復帰ふっきしんツアー「 Back to the Who Tour 51!」を開始かいしする(同年どうねん9がつまで)。2017ねん3がつから4がつにかけて、1989ねん以来いらいとなるアルバム『トミー』のフル・パフォーマンス・ツアー「Tommy and More」を敢行かんこう

2019ねん1がつ、『エンドレス・ワイヤー』以来いらいとなるオリジナルアルバムを年内ねんないちゅう発売はつばいすること、ならびに5がつより北米ほくべいツアーを開始かいしすることが発表はっぴょうされた。タウンゼントはこのツアーが今度こんどこそ最後さいごになることを示唆しさした[90]。5月7にち最新さいしんツアー「Moving On!」がミシガンしゅうグランドラピッズより開始かいしされるが、9月にダルトリーが気管支炎きかんしえんわずらったためツアーは中断ちゅうだんされた[91]。12月、13ねんぶりのしんアルバム『WHO』を発売はつばいぜんえい3全米ぜんべい2)。ダルトリーは「『よんじゅう人格じんかく以来いらい最高さいこうのアルバムをつくげたとおもう」と自負じふした。

音楽おんがくスタイルと影響えいきょう[編集へんしゅう]

楽曲がっきょくめん[編集へんしゅう]

ギターを破壊はかいするタウンゼント(1972ねん

ザ・フーはアマチュア時代じだいにはR&Bなどのブラック・ミュージック中心ちゅうしん演奏えんそうしてたが、ビートルズやローリング・ストーンズといった同年代どうねんだいのバンドにくらべると黒人こくじん音楽おんがく要素ようそうすく、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』のころから独自どくじのポップセンスをせていた[92]パワー・ポップというジャンルはタウンゼントがはっした言葉ことばからまれたとされているが[93]当時とうじのザ・フーはハードでラウドな演奏えんそうにキャッチーなメロディをせるというパワー・ポップの特徴とくちょうそのものだった。ミュージシャンで音楽おんがく評論ひょうろん和久井わくい光司こうじは「ザ・フーには正統せいとうてきなブルースの要素ようそがないのが“パンクの元祖がんそ”になり秘訣ひけつだろう。伝統でんとうなんてものはパンクスにとってこわしてナンボのものだから、ブルースの要素ようそ迷惑めいわくでしかない」と分析ぶんせきしている[94]。だが1969ねんのアルバム『トミー』でシリアスで内省ないせいてき作風さくふう転換てんかんし、それまでのポップバンドのイメージを刷新さっしんすると、はつのライブばん『ライヴ・アット・リーズ』ではこれまでレコードでは表現ひょうげんしきれなかったかれらのハードロック・バンドとしての側面そくめんせた。そのハードロックサウンドをスタジオで再現さいげんし、さらにシンセサイザー導入どうにゅうして時代じだい最先端さいせんたんをいくプログレッシブな傑作けっさくとなった『フーズ・ネクスト』で、彼等かれらはその人気にんき決定けっていけることとなる。『よんじゅう人格じんかく』ではそのエレクトロニクス・サウンドをさらにすすめたが、そのつぎの『バイ・ナンバーズ』では一転いってんしてシンプルなサウンドにもどるなど、時代じだい作品さくひんによって様々さまざま側面そくめんせた。

メンバーで楽曲がっきょくともさくすることはほとんどなく、グループの楽曲がっきょくの95%以上いじょうはタウンゼント一人ひとりかれている[95]。タウンゼントはただ作曲さっきょくするだけでなく、ギターやベース、ドラムスとう基本きほんアレンジも一人ひとりでこなしており、自宅じたくでダビング録音ろくおんをし、そのデモテープをのメンバーにわたし、きょくおぼえてもらってからレコーディングにはいるという習慣しゅうかんがいつしか出来上できあがっていたという[95]。そのデモテープは、タウンゼントのソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』や『スクープ』(1983ねん)などでくことが出来できる。タウンゼントはまた、サウンド・クリエーターとしても評価ひょうかたかく、クラシックの作曲さっきょく技法ぎほうである対位法たいいほうれた『トミー』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期どうきさせた演奏えんそうれい:「ババ・オライリィ」)など、ロックのわくひろげる画期的かっきてきこころみもおおい。

演奏えんそうめん[編集へんしゅう]

ハイ・ナンバーズと名乗なのっていたころより、だい音量おんりょう演奏えんそうするバンドとしてられていた[25]。1976ねんにはロンドン公演こうえんで120デジベルという音量おんりょう記録きろくし、当時とうじの「世界せかいいちだい音量おんりょうすバンド」としてギネスブック登録とうろくされ、そのすうじゅう年間ねんかんこの記録きろくやぶられなかった[96]。タウンゼントも初期しょきころけたインタビューで「音楽おんがくのクオリティなんて関係かんけいない。大事だいじなのはパワーとヴォリュームなんだ」とこたえていた[97][注釈ちゅうしゃく 10]かれらがだい音量おんりょう演奏えんそうするようになったのは、アマチュア時代じだいにタウンゼントとエントウィッスルがたがいにけじとおおきなアンプを次々つぎつぎ購入こうにゅうしていったことに起因きいんする。タウンゼントは「2だいのアンプを同時どうじ使つかったギタリストはわたし最初さいしょだろう」とかたっている[98]

しかし、彼等かれらがライヴバンドとしての名声めいせい獲得かくとくたのは、おとおおきさよりも個々ここたしかな演奏えんそう技術ぎじゅつであった。リードベースとわれるエントウィッスルの高度こうど技術ぎじゅつ全編ぜんぺんフィルインともえる手数てかずおおいムーンのドラムは、るいないものであった。タウンゼントは「ベースとドラムがリード楽器がっきで、ギターがリズム楽器がっきになるという、本来ほんらい立場たちば逆転ぎゃくてんしていたのがザ・フーのユニークさだった」とし、[95]かれらに影響えいきょうけたオアシスのノエル・ギャラガーは「ザ・フーは全員ぜんいんがリード楽器がっきなんだよ。イカれてる」とかたっている。そのタウンゼントも、はやきのソロ・プレイや技巧ぎこうさとは無縁むえんであるものの、リードギターとリズムギターをわせたようなパワーコードや、「ピンボールの魔術まじゅつ」などに代表だいひょうされる高速こうそくカッティングといったリズムギターに定評ていひょうがある[95]ダルトリーは初期しょきころこそこえほそく、器楽きがくのパワーにされ気味ぎみであったが、1970年代ねんだいはいるとこえふとくなり、ややハスキーな声質せいしつかした独自どくじの唱法を獲得かくとくし、ボーカリストとしての評価ひょうか確立かくりつした[よう出典しゅってん]以降いこうかれ繊細せんさいさと力強ちからづよさの振幅しんぷくはげしいザ・フーの楽曲がっきょくきわめてすぐれた解釈かいしゃくをみせ、今日きょういたるまでうたつづけている。

ステージ・パフォーマンス[編集へんしゅう]

ロジャー・ダルトリー(1972ねん

ザ・フーの特徴とくちょうえばステージでの派手はで演出えんしゅつ筆頭ひっとうげられる。ダルトリーはなわごとくマイクをまわし、タウンゼントは縦横無尽じゅうおうむじんね、うでおおきくまわしながらギターを演奏えんそうした(ウィンドミル奏法そうほうばれるこのかたは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズがステージでウォーミングアップのためにうでまわしたのがヒントとなっている[15])。ムーンは全身ぜんしんすようにドラムをはたきまくるその破天荒はてんこうなプレイスタイルで、デビュー当初とうしょから評判ひょうばんだった。かれらの演出えんしゅつとは対照たいしょうてきに、ベースのエントウィッスルは黙々もくもく演奏えんそうしていたが、そのいがんだだい音量おんりょうはタウンゼントのギターと台頭たいとうするものだった。

終盤しゅうばんおこなわれる楽器がっき破壊はかいもまたザ・フーの特徴とくちょうだった。元々もともとはタウンゼントが天井てんじょうひく会場かいじょうあやまってギターを天井てんじょうにぶつけたのが演出えんしゅつられたことがきっかけだった[99]。この楽器がっき破壊はかいはたちまち評判ひょうばんび、観客かんきゃくのみならず、取材しゅざい記者きしゃまでもが客席きゃくせきから「ピート、ギターをこわせ!」とあお始末しまつだった[100]。パフォーマンスでやる場合ばあいもあれば、感情かんじょうにまかせて破壊はかいすることもあり、1973ねんにバンドが出演しゅつえんしたテレビ番組ばんぐみトップ・オブ・ザ・ポップス」で、なにおもったかタウンゼントは、演奏えんそうちゅう突然とつぜんギターとムーンのドラム・セットを破壊はかいした(このとき中指なかゆびをつきてたりもしたため、BBCから出入でい禁止きんし処分しょぶんとなった)[101]。タウンゼントに影響えいきょうされるかたちで、やがてムーンもドラムをこわすようになった。とくかたぐさとなっているのが1967ねんのテレビ番組ばんぐみ「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」出演しゅつえんのパフォーマンスで、ムーンはバスドラムに安全あんぜん基準きじゅんえる大量たいりょう閃光せんこう仕込しこみ、演奏えんそう爆発ばくはつさせた。爆風ばくふうちかくにいたたタウンゼントのみみつよ衝撃しょうげきあたえ、現在げんざいまでつづ聴覚ちょうかく障害しょうがい遠因えんいんとなった。ムーン自身じしん負傷ふしょうし、さらにゲストのベティ・デイヴィス気絶きぜつさせた[102]。こうした過激かげきなステージパフォーマンスは、のちセックス・ピストルズパール・ジャムなどパンク・ロック・バンドらにおおきな影響えいきょうあたえた。ピストルズは「こいのピンチ・ヒッター」をカバー演奏えんそうしていた。 このようなパフォーマンスにたいしては否定ひていてきものもおり、モントレーに参加さんかしたシタール奏者そうしゃラヴィ・シャンカルは、ドラムを破壊はかいするパフォーマンスが「楽器がっき神聖しんせいなものである」という自分じぶん価値かちかんあいいれなかったと産経新聞さんけいしんぶんべている[103]

歌詞かし文学ぶんがくせい[編集へんしゅう]

ステージでの凶暴きょうぼうせいとは対照たいしょうてきに、タウンゼントが非常ひじょう内省ないせいてき歌詞かしつロック・ミュージシャンらしからぬ表現ひょうげんりょくは、「文学ぶんがくてき」ともひょうされる[104]初期しょきころは「マイ・ジェネレーション」に代表だいひょうされる若者わかもの不満ふまん代弁だいべんするような歌詞かしおおかったが、1969ねんの『トミー』以降いこう精神せいしんてき繊細せんさい内容ないようおお見受みうけられるようになった。これにはかれ帰依きえしたミハー・ババからの影響えいきょうおおきく、かれ自身じしんも「ババのおかげでおれ人生じんせい完全かんぜんわったしバンド全体ぜんたいわった」とみとめている[37]。1975ねんの『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』ではさらに変化へんかし、精神せいしんせいよりも自分じぶん現実げんじつてき問題もんだい歌詞かし反映はんえいさせるようになった[64]一方いっぽう、タウンゼントにいでおおくのきょく提供ていきょうしたエントウィッスルは、変質へんしつしゃやアルコール中毒ちゅうどくしゃ死後しご世界せかい題材だいざいにしてブラックユーモアにんだ歌詞かしいた。しかしメロディはタウンゼント同様どうようポップで、歌詞かしとメロディのミスマッチさで独特どくとく雰囲気ふんいきつくした[105]

歌詞かし物語ものがたりせいたせたのもザ・フーの楽曲がっきょくおおきな特徴とくちょうである。先駆さきがけとなったのが、1966ねんのアルバム『ア・クイック・ワン収録しゅうろく表題ひょうだいきょくである。このきょく採用さいようされたミニ・オペラという形式けいしきつぎさくの『セル・アウト』収録しゅうろくの「ラエル」にがれ、やがてロック・オペラというあらたなジャンルを確立かくりつさせた『トミー』へと結実けつじつする[106]。ザ・フーはそのも『ライフハウス』[注釈ちゅうしゃく 11]、『よんじゅう人格じんかく』とあらたなロック・オペラをし、現時点げんじてんでは最新さいしんさくとなる『エンドレス・ワイヤー』ないでも「ワイヤー&グラス」というミニ・オペラを披露ひろうしている。『トミー』はぜん世界せかいおおきな影響えいきょうあたえ、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1970ねん)やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』(1979ねん)など、多数たすうのロック・オペラ作品さくひんされた。

ファッションせい[編集へんしゅう]

ザ・フーは当初とうしょモッズ・バンドとしてデビューしたが、メンバーのなかにモッズであったもの一人ひとりもいなかった。ダルトリーは「おれはテッズ(テディボーイ)だった」としており[107]、タウンゼントも1973ねんのインタビューで「おれたちはモッズでもなんでもなかったよ。当時とうじ流行りゅうこうだったし、マネージャーがおれたち戦略せんりゃくてきにモッズとしてしたんだ。成功せいこうしたポップバンドで本物ほんもののモッズといえばスモール・フェイセズぐらいなもんで、それにくらべりゃおれたちなんて便乗びんじょうぐみもいいとこさ」とかたっている[108]。だがべつのインタビューでは「ハイ・ナンバーズもザ・フーもれっきとしたモッズ・バンドだった。モッズにれられてたらモッズなんだよ。デビュー当時とうじおれきてるだけでしあわせだった。気分きぶん最高さいこうにモッズだったよ。ひとつだけたしかなのは、おれたちはモッズにられたくて必死ひっしだったってことさ」ともかたっている[109]。しかし、かれらがモッズとして振舞ふるまっていた時期じきみじかく、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』を以って、ザ・フーはモッズの看板かんばんろした[30]。タウンゼントは1970ねんに「とにかくおれはモッズの亡霊ぼうれい、ノスタルジーからとっととはなれたかったんだ」とかたっており[110]、ダルトリーも「ピートはシェパーズ・ブッシュのガキどものためのきょくじゃなく、もっとおおきなものをきょく題材だいざいにしていた。やつきょく通訳つうやくしゃつとめるおれはそうおもうよ」と、ザ・フーがモッズのイメージでわるバンドではないことを主張しゅちょうしている[111]

ザ・フーはそのファッションにも注目ちゅうもくあつまった。かれらがデビューしたころポップアート最先端さいせんたんとされており、ザ・フーはこれを戦略せんりゃくてきれた。ユニオンジャック仕立したてたテーラードジャケット、ふく全面ぜんめんにつけたバッジ、ムーンがこのんで着用ちゃくようしたラウンデルをあしらったトレーナーなどはその一端いったんであり、かれらのトレードマークとなった[112]とくにラウンデルは、グループがモッズのイメージを払拭ふっしょくしたのち作品さくひんのジャケットや関連かんれんグッズの意匠いしょう使用しようされつづけている。しかしそれまでのポップな作風さくふうからおおきく変換へんかんした1969ねん以降いこうは、おんなけするファッションとは無縁むえんになり、ダルトリーは素肌すはだにフリンジのいたジャケットを羽織はおり、タウンゼントはしろ作業さぎょうをステージ衣装いしょうにした。エントウィッスルも骸骨がいこつをあしらったレザースーツでインパクトをあたえたが、1970年代ねんだい中頃なかごろになると奇抜きばつなファッションはられなくなった。

なお、デビュー当時とうじのザ・フーのメンバーで、もっとおんなからの人気にんきたかかったのはムーンだった。だがかれは20だいのうちにかなり容姿ようしんでしまい、わってダルトリーがグループのセックス・シンボルとなった[113]。しかし、ザ・フーのメンバーはルックスにはあまり自信じしんっていないようで、ダルトリーは「おれたち不細工ぶさいくすぎたから」と自嘲じちょうしており[114]、タウンゼントも自身じしんおおきなはながコンプレックスで、ステージで派手はでなアクションをめるのも「かおよりからだほう注目ちゅうもくしてほしかったから」とかしている[25]

ザ・フーと日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおけるザ・フーの知名度ちめいどは、ビートルズやストーンズ、また1970年代ねんだい以降いこう登場とうじょうしたレッド・ツェッペリンエアロスミスクイーンなど、同年代どうねんだい活躍かつやくしたバンドにくらべるとたかいとはえず、スモール・イン・ジャパン代表だいひょうとしてげられることがある[115]。バンドの代表だいひょうさくひとつでもある『よんじゅう人格じんかく』も、当時とうじ日本にっぽんではまった話題わだいにならなかったという[116]音楽おんがくライターの夏川なつかわみどりはこの原因げんいんについて、かれらが全盛期ぜんせいきだった1970年代ねんだい来日らいにちしなかったからだと指摘してきする。ザ・フーが来日らいにちしなかった理由りゆうについては当時とうじから様々さまざま憶測おくそくながれていたが、夏川なつかわは「実話じつわだ」としてつぎのようなはなしかしている。夏川なつかわ海外かいがいアーティストのっかけをしていた1972ねん当時とうじおなじくっかけをしていた友人ゆうじんがあるプロモーターの社長しゃちょうに「ザ・フーをんで」とおねがいしたところ「ダメ、あれはこわいから!」とことわられたという。かれらはレッド・ツェッペリン以上いじょう乱暴らんぼうしゃ集団しゅうだんであるとのうわさ日本にっぽんつたわっていたのである[117]なお、1975ねんには映画えいが『トミー』のヒットにじょうじて訪日ほうにちしようと、実際じっさいにバンドないはないがたれたことがあるが、タウンゼントが様々さまざま問題もんだいかかえて気落きおちしていた時期じきでもあり、かれこばんだため結局けっきょく実現じつげんしなかった[118]

1974ねんにフェイセズとして来日らいにちしたケニー・ジョーンズをのぞくザ・フーのメンバーのなかで、最初さいしょ日本にっぽんんだのはエントウィッスルだった。1987ねん楽器がっきフェアのプロモーションで来日らいにち最初さいしょで、その度々たびたび来日らいにちし、けい4日本にっぽんおとずれたが、ザ・フーとして来日らいにちすることはついになかった[119]。ダルトリーとタウンゼントがはつ来日らいにちたしたのは2004ねんになってからだった。日本にっぽんにはそのも2008ねん単独たんどく公演こうえんのためにおとずれている。また2012ねんにはダルトリーがソロで来日らいにちし、公演こうえんおこなっている。

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

スタジオ・アルバム[編集へんしゅう]

ライブ・アルバム[編集へんしゅう]

  • ライヴ・アット・リーズ』 - Live At Leeds (1970ねん、Track)
  • The Who Rocks America (1983ねん、CBS/FOX)
  • フーズ・ラスト』 - Who's Last (1984ねん、MCA)
  • ジョイン・トゥゲザー』 - Join Together (1990ねん、Virgin)
  • ワイトとうライヴ1970』 - Live at the Isle of Wight Festival 1970 (1996ねん、Castle)
  • BBCセッションズ』 - BBC Sessions (2000ねん、Polydor)
  • 『ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール』 - Live at the Royal Albert Hall (2003ねん、Castle)
  • Live from Toronto (2006ねん、Polydor)
  • 『ライヴ・グレイテスト・ヒッツ』 - Greatest Hits Live (2010ねん、Polydor)
  • 『ライヴ・アット・ハル 1970』 - Live at Hull 1970 (2012ねん、Polydor)
  • よんじゅう人格じんかくライヴ』 - Quadrophenia Live In London (2014ねん、Polydor)
  • 『ライヴ・イン・ハイドパーク』 - Live In Hyde Park (2015ねん、Polydor)
  • 『ライヴ・アット・フィルモア・イースト1968』 - Live at The Fillmore East: Saturday April 6, 1968 (2018ねん、Polydor)

コンピレーション・アルバム[編集へんしゅう]

サウンドトラック[編集へんしゅう]

EP[編集へんしゅう]

日本にっぽんばんシングル[編集へんしゅう]

  • リーガル・マター - "A Legal Matter" (1966ねん) 
  • アウト・イン・ザ・ストリート - "Out in the Street" (1966ねん) ※日本にっぽん独自どくじのリリース[120]
  • こいのピンチ・ヒッター - "Substitute" (1966ねん)
  • アイム・ア・ボーイ - "I'm A Boy"(1967ねん
  • ハッピー・ジャック - "Happy Jack"(1967ねん
  • ウイスキー・マン - "Whisky Man" (1967ねん) ※日本にっぽん独自どくじのリリース[121]
  • リリーのおもかげ - "Pictures of Lily" (1967ねん)
  • こいのマジック・アイ - "I Can See for Miles" (1968ねん)
  • ラスト・タイム - "The Last Time"(1968ねん
  • アルメニアのそら - "Armenia City in the Sky" (1968ねん)
  • コール・ミー・ライトニング - "Call Me Lightning" (1968ねん) ※日本にっぽん独自どくじのカップリング
  • ドッグ - "Dog" (1968ねん)
  • マジック・バス - "Magic Bus" (1969ねん) ※日本にっぽん独自どくじのカップリング
  • ピンボールの魔術まじゅつ - "Pinball Wizard" (1969ねん)
  • シーカー - "The Seeker" (1970ねん)
  • サマータイム・ブルース - "Summertime Blues" (1970ねん)
  • シー・ミー・フィール・ミー - "See Me Feel Me" (1971ねん)
  • 無法むほう世界せかい - "Won't Get Fooled Again" (1971ねん)
  • ワイルド・アクション - "Let's See Action" (1972ねん) ※日本にっぽん独自どくじのカップリング[122]
  • やつらにつたえろ! - "The Relay" (1973ねん)
  • リアル・ミー - "The Real Me" (1973ねん)
  • 不死身ふじみのハードロック - "Long Live Rock" (1974ねん) ※日本にっぽん独自どくじのリリース
  • リスニング・トゥ・ユー - "Listening To You" (1975ねん)
  • フー・アー・ユウ - "Who Are You" (1978ねん) ※日本にっぽん独自どくじのリリース
  • 515ふん - "5:15" (1979ねん)

[123]

日本にっぽん公演こうえん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 1かぎりのさい結成けっせい
  2. ^ 1969ねんにメンバーがわってフェイセズになった。
  3. ^ アルバム『フーズ・ネクスト』(1971ねん)、『よんじゅう人格じんかく』(1973ねん)など。
  4. ^ 1985ねん7がつのウェンブリー・スタジアムでのライヴエイドと、1988ねん2がつ8にち英国えいこくレコード産業さんぎょう協会きょうかい(BPI)の特別とくべつ功労賞こうろうしょう受賞じゅしょうしきさい結成けっせい参加さんかした。
  5. ^ 1982ねんのフェアウェル・ツアーには不参加ふさんか
  6. ^ 2004ねん発表はっぴょうされた15ねんぶりの新曲しんきょく「リアル・グッド・ルッキング・ボーイ」の録音ろくおんには、グレッグ・レイク客演きゃくえんした。
  7. ^ >原題げんだいは"Tommy as performed by the London Symphony Orchestra and English Chamber Choir with Guest Soloists"である。つまりロンドン交響こうきょう楽団がくだんとイギリス室内しつない合唱がっしょうだん主役しゅやくで、タウンゼントたち客演きゃくえんしゃであった。プロデューサーのルー・ライズナー制作せいさく担当たんとうし、デヴィッド・ミ―シャムがロンドン交響こうきょう楽団がくだん指揮しきした。
  8. ^ ムーンは『よんじゅう人格じんかく』の収録しゅうろくきょくをバッキング・テープにわせて演奏えんそうするという公演こうえんなんとかこなしていたが、終了しゅうりょう直前ちょくぜんたおれてしまった。タウンゼントたちはドラムをはたけるもの客席きゃくせきからつのって急場きゅうばしのがざるをなかった。この一部始終いちぶしじゅうは、ツアーのプロモーターだったビル・グラハムため撮影さつえいされていた白黒しろくろ記録きろく映像えいぞう収録しゅうろくされた。
  9. ^ 1976ねん3がつ9にちじゅんのアメリカ・ツアーの初日しょにちのボストン公演こうえんでは、開始かいしあいだもなくたおれて公演こうえん中止ちゅうしさせてしまった。
  10. ^ 映画えいが『キッズ・アー・オールライト』にも収録しゅうろくされている。
  11. ^ ザ・フーとしては未完みかん。そのタウンゼントによって1999ねん完成かんせいされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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メンバーの著書ちょしょ[編集へんしゅう]

ビブリオグラフィ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]