この項目 こうもく では、イギリスのロックバンドについて説明 せつめい しています。モンゴルのロックバンドについては「ザ・フー (モンゴルのバンド) 」をご覧 らん ください。
ザ・フー
2007年 ねん のロッテルダム公演 こうえん
基本 きほん 情報 じょうほう 別名 べつめい
出身 しゅっしん 地 ち
イングランド ロンドン ジャンル
活動 かつどう 期間 きかん
レーベル
公式 こうしき サイト
ザ・フー 公式 こうしき サイト メンバー
旧 きゅう メンバー
1975年 ねん のシカゴ 公演 こうえん
ザ・フー (The Who )は、イギリス のロックバンド 。ビートルズ 、ローリング・ストーンズ と並 なら んで、イギリスの3大 だい ロックバンドの一 ひと つに挙 あ げられる[4] 。
1964年 ねん にデビュー。ビート・バンドとしてブリティッシュビート ・ブームの一端 いったん を担 にな い、スモール・フェイセス [注釈 ちゅうしゃく 2] と並 なら ぶ2大 だい モッズ ・バンドとも称 しょう された。アルバム『トミー 』(1969年 ねん )でロック・オペラ を発表 はっぴょう 。1970年代 ねんだい にはシンセサイザー を導入 どうにゅう する[注釈 ちゅうしゃく 3] など、その音楽 おんがく 性 せい には、ハードロック 、サイケデリア [2] に加 くわ えてプログレッシヴ・ロック の傾向 けいこう もあった。
ローリング・ストーン 誌 し の選 えら ぶ「歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100組 くみ のアーティスト」において第 だい 29位 い [6] 。
現 げん メンバー
旧 きゅう メンバー
サポートメンバー
ジョン “ラビット” バンドリック (英語 えいご 版 ばん ) (John "Rabbit" Bundrick 、 (1948-11-21 ) 1948年 ねん 11月21日 にち (75歳 さい ) - )(キーボード、ボーカル)(在籍 ざいせき 期間 きかん 1979年 ねん - 1981年 ねん 、1985年 ねん - 2011年 ねん ) 1979年 ねん にムーンの後任 こうにん としてジョーンズを迎 むか えたのをきっかけに、ザ・フーがツアーリング・メンバーを従 したが えてライヴ活動 かつどう を行 おこ なうようになった時 とき に招聘 しょうへい された。以来 いらい [注釈 ちゅうしゃく 5] 、2011年 ねん までツアーに参加 さんか 。
ザック・スターキー (Zak Starkey 、 (1965-09-13 ) 1965年 ねん 9月13日 にち (58歳 さい ) - )(ドラムス)(在籍 ざいせき 期間 きかん 1996年 ねん - ) リンゴ・スター の長男 ちょうなん 。少年 しょうねん 時代 じだい にはムーンに可愛 かわい がられ彼 かれ にドラミングを学 まな んだ。1996年 ねん にタウンゼントら3人 にん が再 さい 結集 けっしゅう してプリンス・トラスト (英語 えいご 版 ばん ) のコンサートに出演 しゅつえん した時 とき に招聘 しょうへい されて以来 いらい 、ツアーリング・メンバーとして2023年 ねん 現在 げんざい も活動 かつどう 中 ちゅう 。2004年 ねん から2008年 ねん まではオアシス のドラマーも兼任 けんにん していた。
サイモン・タウンゼント (英語 えいご 版 ばん ) (Simon Townshend 、 (1960-10-10 ) 1960年 ねん 10月 がつ 10日 とおか (63歳 さい ) - )(ボーカル、ギター)(在籍 ざいせき 期間 きかん 1996年 ねん - 1997年 ねん 、2002年 ねん - ) ピート・タウンゼントの実弟 じってい 。
ピノ・パラディーノ (Pino Palladino 、 (1957-10-17 ) 1957年 ねん 10月17日 にち (66歳 さい ) - )(ベース)(在籍 ざいせき 期間 きかん 2002年 ねん - ) エントウィッスルの急死 きゅうし 直後 ちょくご に始 はじ まった2002年 ねん の全米 ぜんべい ツアーに、タウンゼントの緊急 きんきゅう 要請 ようせい で代役 だいやく を務 つと めて以来 いらい 、ツアーに参加 さんか 。
その他 た
スタジオでのレコーディングにも、ニッキー・ホプキンス をはじめ様々 さまざま なミュージシャンがゲストに招 まね かれた。メンバーが2人 ふたり になってからは、それがさらに顕著 けんちょ となっている[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
1961年 ねん -1964年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ザ・フーの前身 ぜんしん は、ロジャー・ダルトリーが10代の頃 ころ に身近 みぢか な仲間 なかま と共 とも に結成 けっせい したスキッフル バンド、ザ・ディトゥアーズ である。1961年 ねん 夏 なつ 、ダルトリーの誘 さそ いにより中学校 ちゅうがっこう 時代 じだい の後輩 こうはい だったジョン・エントウィッスルが加入 かにゅう 。1962年 ねん 1月 がつ にはBBCラジオ のオーディションに応募 おうぼ するが経験 けいけん 不足 ふそく を理由 りゆう に不 ふ 合格 ごうかく となっている。同年 どうねん 夏 なつ 、前任 ぜんにん のリズムギタリストに代 か わりエントウィッスルのかつてのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入 かにゅう 。タウンゼントの加入 かにゅう から間 あいだ もなく、他 た のメンバーよりも10歳 さい 以上 いじょう 年長 ねんちょう (1930年 ねん 生 う まれ[8] )で妻帯 さいたい 者 しゃ だったダグ・サンダムがドラマーとして加入 かにゅう する。1964年 ねん のメジャー・デビューまでにメンバーは目 め まぐるしく入 い れ替 か わり、1962年 ねん の下旬 げじゅん に前任 ぜんにん のボーカリストが他 た のメンバーと衝突 しょうとつ し脱退 だったい すると、リードギター担当 たんとう だったダルトリーはボーカルを兼任 けんにん することになった。
当時 とうじ ダルトリーは板金 ばんきん 工 こう 、エントウィッスルは税務署 ぜいむしょ 職員 しょくいん 、サンダムはレンガ職人 しょくにん とそれぞれ本業 ほんぎょう を持 も っており、またタウンゼントはイーリング・アート・カレッジの学生 がくせい であったため、音楽 おんがく 活動 かつどう はもっぱら夜間 やかん か休日 きゅうじつ に行 おこな われた。当初 とうしょ はタウンゼントの母 はは ベティがバンドの仕事 しごと を手配 てはい していたが、やがてバンドと契約 けいやく した地元 じもと のプロモーターのロバート・ドゥルースに代 か わられた。また、板金 ばんきん の仕事 しごと でしばしば手 て を負傷 ふしょう していたダルトリーがギタリストからボーカルに転向 てんこう したため、1963年 ねん にタウンゼントがリードギタリストとなった。この頃 ころ はダルトリーがバンドの絶対 ぜったい 的 てき なリーダーであり、彼 かれ の音域 おんいき でカバーできない曲 きょく は演目 えんもく から外 はず された。
ディトゥアーズの当時 とうじ の主 おも な演奏 えんそう レパートリーはベンチャーズ やシャドウズ 、ビートルズ などによる最新 さいしん ヒット曲 きょく のカバーやトラッド・ジャズ であり、自作 じさく 曲 きょく はなかったが1963年 ねん にはタウンゼントが初 はじ めて書 か いた曲 きょく が実験 じっけん 的 てき に録音 ろくおん されている。またこの年 とし の秋 あき ごろより、当時 とうじ のロンドン の音楽 おんがく の趨勢 すうせい に影響 えいきょう される形 かたち で、レパートリーをヒット曲 きょく のカバーからシカゴ・ブルース に変 か えた。ダルトリーは「(レパートリーを変 か えた事 こと で)今 いま までのファンを全 すべ て失 うしな い、それを取 と り戻 もど すのに半年 はんとし かかった。でもその時 とき にはファンの数 かず が以前 いぜん の3倍 ばい になっていた」と当時 とうじ を振 ふ り返 かえ っている。
1964年 ねん 2月 がつ 、同名 どうめい のバンドがいたことが判明 はんめい し、バンド名 めい の変更 へんこう を迫 せま られる。いくつかのふざけた名前 なまえ が候補 こうほ に挙 あ げられたが、タウンゼントの友人 ゆうじん のリチャード・バーンズが提案 ていあん したザ・フー がダルトリーの「“ザ・フー”に決 き まりだろ?」の一声 いっせい で採用 さいよう された。2月 がつ 20日 はつか のギグより、バンドはザ・フーの名 な を冠 かん するようになった。それから間 あいだ もなく、バンドを見出 みいだ したドアノブ製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ のヘルムート・ゴードンとマネージメント契約 けいやく を結 むす ぶ。
プロデビューへの光 ひかり が見 み えてきた矢先 やさき 、4月 がつ 初旬 しょじゅん に受 う けたオーディションでドラムに問題 もんだい があると評 ひょう されたことが引 ひ き金 がね となり、タウンゼントとダグ・サンダムが衝突 しょうとつ し、かねてからバンドの音楽 おんがく 性 せい になじめなかったサンダムはこれを機 き にバンドを脱退 だったい する。後 のち にタウンゼントはサンダムを追 お い出 だ したことを「人生 じんせい における最大 さいだい の後悔 こうかい の一 ひと つ」と語 かた った。サンダムは後 のち にタウンゼントと和解 わかい し、元 もと の友人 ゆうじん 同士 どうし に戻 もど ることができたという。サンダムは2019年 ねん 2月 がつ 27日 にち 、89歳 さい で死去 しきょ した[8] 。
サンダムの脱退 だったい 後 ご 、バンドはすぐに別 べつ のドラマーを雇 やと い入 い れた(つなぎで入 い れたドラマーの中 なか には、後 のち にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス のメンバーとなるミッチ・ミッチェル もいた)。それから間 あいだ もない4月 がつ 末 まつ 頃 ごろ 、演奏 えんそう 中 ちゅう に客席 きゃくせき から一人 ひとり の男 おとこ が「俺 おれ の連 つ れの方 ほう が上手 うま い」と、ある少年 しょうねん をステージに上 あ げた。その少年 しょうねん がキース・ムーンだった。ドラムが壊 こわ れる程 ほど 激 はげ しい演奏 えんそう に衝撃 しょうげき を受 う けたメンバーは、直 ただ ちにムーンを採用 さいよう した。
ハイ・ナンバーズとしてデビュー [ 編集 へんしゅう ]
ロジャー・ダルトリー(左 ひだり )とキース・ムーン(1967年 ねん )
ゴードンがフリーランスで活動 かつどう していたピーター・ミーデン をザ・フーの広報 こうほう 担当 たんとう として雇 やと った事 こと から、メジャー・デビューへの動 うご きが加速 かそく する。フォンタナ・レコード と契約 けいやく を締結 ていけつ すると、バンドを当時 とうじ 流行 りゅうこう していたモッズ 族 ぞく として売 う り出 だ すことを画策 かくさく したミーデンはメンバーにモッズ系 けい の服 ふく を着用 ちゃくよう させ、さらにバンド名 めい をハイ・ナンバーズ と改 あらた めさせた(「ナンバー」とはモッズの間 あいだ でストリートにたむろする者 もの を表 あらわ すスラングで、「ハイ」は彼 かれ らが麻薬 まやく で常 つね にハイであったことにちなむ)。1964年 ねん 7月 がつ 3日 にち 、ミーデンが書 か いた「ズート・スーツ/アイム・ザ・フェイス 」(2曲 きょく とも実際 じっさい にはミーデンの自作 じさく 曲 きょく ではなく、既存 きそん 曲 きょく の歌詞 かし を書 か き替 か えただけのもの)で、ハイ・ナンバーズはレコード・デビューする。しかしレコードは1,000枚 まい しかプレスされず、ミーデンの懸命 けんめい な宣伝 せんでん 活動 かつどう の甲斐 かい もなく不発 ふはつ に終 お わる。
7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 頃 ごろ 、才能 さいのう あるロックバンドを探 さが してドキュメンタリー映画 えいが を撮 と ることを夢見 ゆめみ ていたキット・ランバート の目 め に留 とど まったことで、再 ふたた びバンドの運命 うんめい が変 か わる。ハイ・ナンバーズの演奏 えんそう に圧倒 あっとう されたランバートは、さっそく仲間 なかま のクリス・スタンプ と共 とも にバンドに接触 せっしょく する。バンドは音楽 おんがく ビジネスの経験 けいけん が無 な いランバートとスタンプを当初 とうしょ 警戒 けいかい していたが、ミーデンの手法 しゅほう に不満 ふまん 感 かん を抱 だ いていたこともあり、ゴードンとの契約 けいやく を破棄 はき してランバートらと行動 こうどう を共 とも にする事 こと を決 き めた。この動 うご きに反抗 はんこう したミーデンも用心棒 ようじんぼう を引 ひ き連 つ れて抵抗 ていこう したものの、8月 がつ には250ポンドの手切 てぎ れ金 きん で解雇 かいこ された。バンドはランバートらと新 あら たなマネージメント契約 けいやく を結 むす んだ。契約 けいやく 内容 ないよう は取 と り分 ぶん をランバートとスタンプがそれぞれ20%ずつ、残 のこ りの60%をメンバーで4等分 とうぶん することでまとまった。なお、ミーデンはこれ以降 いこう バンドと絶縁 ぜつえん し、ムーンの死 し の少 すこ し前 まえ の1978年 ねん 7月 がつ 30日 にち に37歳 さい で死亡 しぼう した。死因 しいん は断定 だんてい されていないが、ムーン同様 どうよう オーバードース と見 み られている。
10月、EMI のオーディションに不 ふ 合格 ごうかく となるが、プロデューサーのシェル・タルミー に見出 みいだ され、プロデュース契約 けいやく を結 むす ぶ事 こと に成功 せいこう 。11月にはブランズウィックとのレコード契約 けいやく を交 か わし、バンドは再 ふたた び“ザ・フー”と改名 かいめい して再 さい デビューを果 は たした。大 だい 音量 おんりょう の演奏 えんそう だけでなく、ギターやアンプ 、ドラムを破壊 はかい する派手 はで なパフォーマンスはモッズの若者 わかもの を中心 ちゅうしん に評判 ひょうばん を呼 よ んでいった。
1965年 ねん -1968年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・エントウィッスル(1967年 ねん )
1965年 ねん 1月 がつ に発売 はつばい されたザ・フー名義 めいぎ でのデビュー・シングル『アイ・キャント・エクスプレイン 』は、全 ぜん 英 えい チャート8位 い に到達 とうたつ した。さらに10月 がつ に発売 はつばい した3枚 まい 目 め のシングル『マイ・ジェネレーション 』は全 ぜん 英 えい 2位 い という大 だい ヒットとなり、ザ・フーの名 な を一気 いっき にスターダムにのし上 あ げた。彼 かれ らの活躍 かつやく ぶりはポール・マッカートニー をして「ザ・フーの出現 しゅつげん は1965年 ねん の音楽 おんがく シーンに於 お ける最 さい 重要 じゅうよう 事項 じこう 」と言 い わしめるほどだった。だが当時 とうじ のバンド内 ない では常 つね に諍 いさか いが絶 た えず、いつ解散 かいさん してもおかしくない状態 じょうたい だった。9月にはドラッグの使用 しよう をめぐってダルトリーが他 た の3人 にん と衝突 しょうとつ し、あわや脱退 だったい というところにまで事態 じたい が進 すす んだが、「マイ・ジェネレーション」の大 だい ヒットとランバートらの説得 せっとく 、そして本人 ほんにん の謝罪 しゃざい により、脱退 だったい という最悪 さいあく の事態 じたい は免 まぬか れた。12月、1stアルバム『マイ・ジェネレーション 』をリリース(全 ぜん 英 えい 5位 い )。
翌 よく 1966年 ねん になっても問題 もんだい は続 つづ いた。印税 いんぜい 配分 はいぶん の不 ふ 均衡 きんこう からプロデューサーのシェル・タルミーと対立 たいりつ したバンドはタルミーとの契約 けいやく を破棄 はき し、バンドのエージェントであるロバート・スティグウッド が設立 せつりつ したリアクション・レコード へ移籍 いせき する。だが、4枚 まい 目 め のシングル『恋 こい のピンチ・ヒッター 』のB面 めん 曲 きょく である「サークルズ」が、著作 ちょさく 権 けん 侵害 しんがい に当 あ たるとしてタルミーがシングル発売 はつばい の停止 ていし を裁判所 さいばんしょ に訴 うった えた。またバンド内 ない の対立 たいりつ も深刻 しんこく 化 か しており、同年 どうねん 5月 がつ にはダルトリーが一時 いちじ 的 てき にバンドを脱退 だったい 、そのダルトリーが戻 もど ってくると、今度 こんど はムーンがダルトリーやタウンゼントと衝突 しょうとつ し、バンドを一時 いちじ 的 てき に脱退 だったい する。これもランバートらの説得 せっとく により、1週間 しゅうかん 後 ご にはムーンは脱退 だったい を取 と り下 さ げた。また当時 とうじ はエントウィッスルも脱退 だったい を考 かんが えており、ムーディ・ブルース への加入 かにゅう を画策 かくさく していたという。非常 ひじょう に混沌 こんとん とした時期 じき だったが、この年 とし 発売 はつばい したシングル『恋 こい のピンチ・ヒッター』『アイム・ア・ボーイ 』『ハッピー・ジャック 』は全 すべ てトップ10に到達 とうたつ するヒットとなった。特 とく に「ハッピー・ジャック」は全米 ぜんべい 24位 い につけ、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく での初 はつ ヒット曲 きょく となった。
ピート・タウンゼント(1967年 ねん ) 1967年 ねん に入 はい ると、アメリカ での活動 かつどう を本格 ほんかく 化 か させたバンドは長期 ちょうき 全米 ぜんべい ツアーを敢行 かんこう する。6月にはモンタレー・ポップ・フェスティバル に出演 しゅつえん 。楽器 がっき 破壊 はかい を披露 ひろう し、過激 かげき なライヴバンドとしてアメリカ人 じん に強 つよ い衝撃 しょうげき を与 あた えた。出演 しゅつえん 順 じゅん をめぐるザ・フーとの争 あらそ いに敗 やぶ れたジミ・ヘンドリックス は、ギターに点火 てんか するというより過激 かげき なパフォーマンスを行 おこな った。この年 とし の10月 がつ に発売 はつばい した「恋 こい のマジック・アイ 」が全米 ぜんべい 9位 い につけるヒット曲 きょく となった(ザ・フーのアメリカに於 お けるシングルの最高 さいこう 位 い )。またこの頃 ころ 、タウンゼントはその後 ご の彼 かれ の人生 じんせい と作品 さくひん に大 おお きな影響 えいきょう をもたらしたインド の導師 どうし 、メハー・ババ に帰依 きえ している。
1968年 ねん 1月 がつ からスモール・フェイセズ 、ポール・ジョーンズ と共 とも にオーストラリア ~ニュージーランド へ遠征 えんせい する。オーストラリアでのツアー中 ちゅう 、移動 いどう 中 ちゅう の飛行機 ひこうき 内 うち で問題 もんだい を起 お こし警察 けいさつ に連行 れんこう された。事 こと の発端 ほったん はあるスチュワーデス がメンバーを侮辱 ぶじょく したことだったが、航空 こうくう 会社 かいしゃ はスチュワーデスのい分 いぶん をき入 きい れ、酩酊 めいてい したバンド側 がわ が下品 げひん な言葉 ことば を述 の べたためと訴 うった えた。これに加 くわ え現地 げんち のメディアから強 つよ い批判 ひはん を受 う けたことも相 あい まって、バンドは二度 にど とオーストラリアを訪 おとず れないことを宣言 せんげん した。2月より再 ふたた びアメリカ本土 ほんど に上陸 じょうりく 、断続 だんぞく 的 てき なツアーを8月 がつ 末 まつ まで行 い った。ダルトリーは「アメリカが俺 おれ 達 たち を団結 だんけつ させてくれた。他 た に頼 たよ れるものはなく、力 ちから を合 あ わせるしかなかったんだ」と語 かた っている。
アメリカでは人気 にんき が高 たか まる一方 いっぽう 、本国 ほんごく イギリスでの人気 にんき に陰 かげ りが出 で 始 はじ めた。1968年 ねん に発表 はっぴょう したシングル『ドッグス』『マジック・バス 』は共 とも に全 ぜん 英 えい トップ20入 い りを逃 のが した。3枚 まい 目 め のアルバム『セル・アウト 』も英 えい 米 べい 双方 そうほう でトップ10入 い りを逃 のが したこともあり、ザ・フーはシングル・ヒットを飛 と ばし続 つづ ける活動 かつどう に限界 げんかい を感 かん じ始 はじ める。さらに当時 とうじ のザ・フーは慢性 まんせい 的 てき な財政難 ざいせいなん に陥 おちい っており、次回 じかい 作 さく のアルバムが失敗 しっぱい に終 おわ れば解散 かいさん というところにまで追 お い詰 つ められていた。同年 どうねん 9月 がつ より、グループはタウンゼントが構想 こうそう を温 あたた めてきたロック・オペラ『トミー 』の制作 せいさく を開始 かいし する。『トミー』はタウンゼント自身 じしん の幼少 ようしょう 期 き の経験 けいけん 、そして彼 かれ が師事 しじ していたメハー・ババの教 おし えが元 もと となっている。制作 せいさく 費 ひ 捻出 ねんしゅつ のため、録音 ろくおん 作業 さぎょう はツアーと並行 へいこう しながら行 おこな われた[43] 。
1969年 ねん -1973年 ねん (全盛期 ぜんせいき ) [ 編集 へんしゅう ]
1971年 ねん のシャーロット 公演 こうえん
半年 はんとし 以上 いじょう もの製作 せいさく 期間 きかん を費 つい やし、ようやく1969年 ねん 5月 がつ にアルバム『トミー』は発売 はつばい された。2枚 まい 組 ぐみ の大作 たいさく で、それまでのヒット曲 きょく のようなキャッチーさもないシリアスな作風 さくふう ながら、『トミー』は全 ぜん 英 えい 2位 い 、全米 ぜんべい 4位 い の大 だい ヒットとなる。本 ほん 作 さく の成功 せいこう により、ザ・フーは解散 かいさん の危機 きき から脱 だっ すると共 とも に、ヒットソング・バンドのイメージから脱却 だっきゃく した。同年 どうねん 5月 がつ 1日 にち から開始 かいし されたツアーでは、『トミー』のほぼ全曲 ぜんきょく を再現 さいげん するという長 ちょう 尺 じゃく の演奏 えんそう が行 おこな われた。1970年 ねん 12月 がつ まで続 つづ けられた「トミー・ツアー」は大 だい 成功 せいこう を収 おさ め、「“ザ・フー”を作 つく った“トミー” 」と、バンド名 めい と作品 さくひん 名 めい を間違 まちが われるほどにまで知 し れ渡 わた った。
大盛 おおもり 況 きょう だったツアーであるが、問題 もんだい もあった。1969年 ねん 5月 がつ 16日 にち 、フィルモア・イースト での公演 こうえん 中 ちゅう 、会場 かいじょう の近隣 きんりん で放火 ほうか 事件 じけん が発生 はっせい し、会場 かいじょう 内 ない にも煙 けむり が立 た ち込 こ め始 はじ めた。そのため私服 しふく 警官 けいかん がステージに上 あ がり、演奏 えんそう を中止 ちゅうし させようとしたところ、ダルトリーとタウンゼントから暴行 ぼうこう を受 う ける。公演 こうえん は中止 ちゅうし され、暴行 ぼうこう 事件 じけん を起 お こした二人 ふたり は翌日 よくじつ 警察 けいさつ に出頭 しゅっとう した。6月に行 おこな われた裁判 さいばん の結果 けっか 、タウンゼントが75ドルの罰金 ばっきん 刑 けい に服 ふく した一方 いっぽう ダルトリーは無罪 むざい となった。タウンゼントによれば、関係 かんけい 者 しゃ がメンバーに火事 かじ について伝 つた えなかったため、警官 けいかん をただの暴漢 ぼうかん と勘違 かんちが いして暴行 ぼうこう に至 いた ったという。7月5日 にち にロイヤル・アルバート・ホール で開 ひら かれたロンドン公演 こうえん でも、共演 きょうえん 者 しゃ のチャック・ベリー と出演 しゅつえん 順 じゅん をめぐって争 あらそ ったり、また観客 かんきゃく が暴 あば れて警察 けいさつ ともみ合 あ うなど混乱 こんらん が生 しょう じた。
同年 どうねん 8月 がつ 16日 にち ~17日 にち 、ウッドストック・フェスティバル に出演 しゅつえん 。ザ・フーの出番 でばん は夜 よる 10時 じ からのはずだったが、降雨 こうう による中断 ちゅうだん でただでさえ時間 じかん が押 お していたにもかかわらず、スライ&ザ・ファミリー・ストーン が3時間 じかん 以上 いじょう も演奏 えんそう を続 つづ けたため、彼 かれ らの出番 でばん は朝 あさ の4時 じ にまで延期 えんき された。「シー・ミー・フィール・ミー 」の演奏 えんそう 中 ちゅう 、偶然 ぐうぜん にも太陽 たいよう が昇 のぼ り始 はじ め会場 かいじょう に不思議 ふしぎ な効果 こうか をもたらした。タウンゼントは「信 しん じられない気持 きも ちだった」とその時 とき の興奮 こうふん を語 かた り、エントウィッスルは「神 かみ が俺 おれ 達 たち の照明 しょうめい 係 がかり だったのさ」と軽口 かるくち を叩 たた いている。この模様 もよう は映画 えいが 『ウッドストック/愛 あい と平和 へいわ と音楽 おんがく の三 さん 日間 にちかん 』にも収 おさ められている。
1970年 ねん に発売 はつばい されたザ・フー初 はつ のライブ・アルバム『ライヴ・アット・リーズ 』は全 ぜん 英 えい 3位 い 、全米 ぜんべい 4位 い という大 だい ヒットとなる。8月29日 にち ~30日 にち 、ワイト島 とう 音楽 おんがく 祭 さい に出演 しゅつえん 。ここでも彼 かれ らの出番 でばん は午前 ごぜん 2時 じ にまで延期 えんき された。公演 こうえん の映像 えいぞう は映画 えいが 用 よう に撮影 さつえい もされていたが、権利 けんり 譲渡 じょうと をめぐり撮影 さつえい 者 しゃ とバンド側 がわ で折 お り合 あ いが付 つ かず、四半世紀 しはんせいき 以上 いじょう を経 へ た1996年 ねん になってようやく音源 おんげん と映像 えいぞう がソフト化 か されている。
同年 どうねん 、タウンゼントは『トミー』に続 つづ く新 あら たなロック・オペラ「ライフハウス 」を企画 きかく 。アルバムと同時 どうじ に映画 えいが 化 か も計画 けいかく されたが、あまりにも壮大 そうだい なプロジェクトにメンバーが内容 ないよう を理解 りかい しきれず、さらに『トミー』映画 えいが 化 か とレーベル運営 うんえい で多忙 たぼう だったランバートの協力 きょうりょく が得 え られなかったこともあり、「ライフハウス」計画 けいかく は頓挫 とんざ する。そこからの楽曲 がっきょく の一部 いちぶ を集 あつ めて1971年 ねん に発売 はつばい されたのが『フーズ・ネクスト 』である。バンド側 がわ が望 のぞ まない形 かたち での発表 はっぴょう であったにもかかわらず、作品 さくひん は高 たか い評価 ひょうか を受 う け、バンドにとって初 はつ の全 ぜん 英 えい チャート1位 い を獲得 かくとく する(全米 ぜんべい 4位 い )。同年 どうねん 11月 がつ にはベストアルバム『ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ 』を発表 はっぴょう 。これによりシェル・タルミーとの長期 ちょうき にわたる法的 ほうてき 闘争 とうそう に終止符 しゅうしふ が打 う たれた。またこの年 とし には、エントウィッスルが初 はつ のソロ・アルバム『衝撃 しょうげき !!』を発売 はつばい している。
1972年 ねん は、結成 けっせい 以来 いらい 初 はつ の長期 ちょうき 休暇 きゅうか をとったためにバンドの新作 しんさく はシングル2作 さく に留 とど まったが、エントウィッスルは2作 さく 目 め のソロアルバム『風 ふう の詩 し 』、タウンゼントは初 はつ のソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト 』を発表 はっぴょう した。またムーン以外 いがい の3名 めい は、10月に発表 はっぴょう されたロンドン交響 こうきょう 楽団 がくだん とイギリス室内 しつない 合唱 がっしょう 団 だん による『トミー 』に、ロッド・スチュワート 、リンゴ・スター 、スティーヴ・ウィンウッド らと共 とも に独唱 どくしょう 者 しゃ として客演 きゃくえん した[注釈 ちゅうしゃく 7] 。同年 どうねん 12月 がつ にはロンドン のレインボウ・シアター で、これらの顔 かお ぶれによるオーケストラ版 ばん 『トミー』のチャリティー公園 こうえん が行 おこ なわれ、録音 ろくおん に参加 さんか していないムーンもスターの代役 だいやく として出演 しゅつえん した。
1973年 ねん 、ダルトリーが初 はつ のソロ・アルバム『ダルトリー』を発売 はつばい 。アルバムからのシングル『ギヴィング・イット・オール・アウェイ』が全 ぜん 英 えい 5位 い のヒットとなる。同年 どうねん 10月 がつ 、『トミー』に続 つづ くロック・オペラ第 だい 2弾 だん 『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』を発表 はっぴょう 。英 えい 米 べい 共 ども に2位 い につける大 だい ヒットとなる。だがタウンゼントが後 のち に「『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』がザ・フーにとって最後 さいご の傑作 けっさく だった」[56] と語 かた ったように、この時期 じき を境 さかい にザ・フーの活動 かつどう は下降 かこう 線 せん を辿 たど り始 はじ めた。この年 とし の10月 がつ に妻 つま と離婚 りこん し、以前 いぜん にもまして酒 さけ に依存 いぞん し始 はじ めたムーンは、『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』のアメリカ・カナダ ツアーの初日 しょにち となるサンフランシスコ 公演 こうえん で、本番 ほんばん 前 まえ にファンからもらった酒 さけ と動物 どうぶつ 用 よう の鎮静 ちんせい 剤 ざい の混合 こんごう 液 えき を飲 の んだ。その結果 けっか 本番 ほんばん 中 ちゅう に意識 いしき を失 うしな って昏倒 こんとう したムーンは担 かつ ぎ出 だ されてしまった[注釈 ちゅうしゃく 8] 。さらに、メンバーへの印税 いんぜい 支払 しはら いの滞納 たいのう が発覚 はっかく し、それまで蜜月 みつげつ の関係 かんけい にあったランバートやスタンプとの間 あいだ に修復 しゅうふく 不可能 ふかのう な亀裂 きれつ が生 しょう じる。ムーン以外 いがい のメンバーはマネージャー達 たち に対 たい する訴訟 そしょう を決意 けつい した。
1974年 ねん -1978年 ねん (ムーンの死 し ) [ 編集 へんしゅう ]
キース・ムーン(1976年 ねん )
1974年 ねん 、ランバートとスタンプに代 か わり、ビル・カービシュリー がザ・フーのマネージャーに就任 しゅうにん する。同年 どうねん の大半 たいはん は映画 えいが 『トミー 』の製作 せいさく に費 つい やされた。1975年 ねん に公開 こうかい されたこの映画 えいが で俳優 はいゆう デビューを飾 かざ ったダルトリーは、これを機 き に俳優 はいゆう 業 ぎょう にも本格 ほんかく 的 てき に進出 しんしゅつ する。この間 あいだ に空 あ いた時間 じかん を、エントウィッスルはバンド初 はつ の未 み 発表 はっぴょう 曲 きょく 集 しゅう 『オッズ&ソッズ 』(全 ぜん 英 えい 10位 い 、全米 ぜんべい 15位 い )の編集 へんしゅう 作業 さぎょう と、自身 じしん のソロ活動 かつどう に当 あ てた。エントウィッスルは自身 じしん が中心 ちゅうしん となるバンド、ジョン・エントウィッスルズ・オックス を結成 けっせい し、1974年 ねん 12月から翌年 よくねん 3月 がつ にかけてイギリスとアメリカでツアーを行 おこな う。しかしツアーは集客 しゅうきゃく に失敗 しっぱい し、、結局 けっきょく 30,000ポンド以上 いじょう もの損失 そんしつ を出 だ してしまった。
1975年 ねん 7月 がつ 、映画 えいが 『トミー』に関 かん して報酬 ほうしゅう を得 え ていないとして、ザ・フーと新 あたら しいマネージャーを訴 うった える用意 ようい があると発言 はつげん したことにより、ランバートとザ・フーの不和 ふわ が公 おおやけ になる。なお、ランバートとの争 あらそ いは1977年 ねん 1月 がつ に長 なが い交渉 こうしょう の末 すえ にようやく解決 かいけつ したが、その後 ご ランバートは音楽 おんがく 業界 ぎょうかい から身 み を引 ひ き、酒 さけ と薬 くすり に溺 おぼ れる隠遁 いんとん 生活 せいかつ を送 おく り、1981年 ねん に自宅 じたく の階段 かいだん から転落 てんらく して死亡 しぼう した。また、タウンゼントとダルトリーが誌面 しめん 上 じょう で互 たが いを中傷 ちゅうしょう し合 あ うという出来事 できごと もあり、ザ・フー解散 かいさん 説 せつ が実 まこと しやかに囁 ささや かれるようになる。この年 とし はアルバム『バイ・ナンバーズ 』(全 ぜん 英 えい 7位 い 、全米 ぜんべい 8位 い )と、ムーン唯一 ゆいいつ のソロ・アルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』の発売 はつばい 、そしてこれまでにない大 だい 規模 きぼ なスタジアム・ツアーが行 おこな われた。10月から翌年 よくねん 10月 がつ まで続 つづ いたこのツアーは大盛 おおもり 況 きょう となり、ザ・フーはローリング・ストーン 誌 し の1976年 ねん 最優秀 さいゆうしゅう グループに選 えら ばれた。エントウィッスルは「キースとの最後 さいご になったこのツアーがザ・フーのキャリアの頂点 ちょうてん だった」と語 かた っている。
だがこのツアー中 ちゅう の1976年 ねん 1月 がつ 、ムーンはアルコール の禁断症状 きんだんしょうじょう を発症 はっしょう し一 いち 時 じ 意識 いしき 不明 ふめい に陥 おちい る[注釈 ちゅうしゃく 9] 。さらに8月 がつ にはマイアミ で過度 かど の飲酒 いんしゅ により8日間 にちかん の入院 にゅういん を余儀 よぎ なくされ、ツアーの日程 にってい に影響 えいきょう を及 およ ぼした。ムーンの長年 ながねん にわたる酒 さけ と薬物 やくぶつ による身体 しんたい ・健康 けんこう 状態 じょうたい が深刻 しんこく なものとなっていたため、ザ・フーは以降 いこう 長期 ちょうき のツアーを企画 きかく できなくなった。この年 とし と1977年 ねん はデビュー以来 いらい 初 はじ めて新作 しんさく が発表 はっぴょう されず、ダルトリーがソロ・アルバム、タウンゼントがロニー・レーン との共 とも 作 さく アルバム『ラフ・ミックス 』を発表 はっぴょう するに留 とど まった。
1977年 ねん 12月、映画 えいが 『キッズ・アー・オールライト 』のために、ロンドンキルバーン のゴーモント・ステート・シネマ において公演 こうえん を行 おこな う。しかし1年 ねん 以上 いじょう もの活動 かつどう 停滞 ていたい のせいで演奏 えんそう は上手 うま くいかず、この時 とき の映像 えいぞう は殆 ほとん ど映画 えいが に使 つか われなかった。翌 よく 1978年 ねん 5月 がつ 、ロンドン近郊 きんこう のサリー にあるシェパートン・スタジオ で再度 さいど 観客 かんきゃく を入 い れて映画 えいが 用 よう の演奏 えんそう を行 おこな う。これがムーンが参加 さんか したザ・フー最後 さいご の公演 こうえん となった。同年 どうねん 8月 がつ 、3年 ねん ぶりのオリジナルアルバム『フー・アー・ユー 』を発売 はつばい (全 ぜん 英 えい 6位 い 、全米 ぜんべい 2位 い )して、ザ・フーの復活 ふっかつ を印象 いんしょう 付 つ けたかのように思 おも われた。だがそれから間 あいだ もない9月 がつ 7日 にち 、ポール・マッカートニー主催 しゅさい のパーティーに参加 さんか した翌日 よくじつ 、ムーンはオーバードース によりロンドンのメイフェアで死亡 しぼう した。32歳 さい だった。ムーンの死 し の翌日 よくじつ 、タウンゼントはムーンに対 たい する哀悼 あいとう の念 ねん と、ザ・フーを存続 そんぞく させる決意 けつい を公式 こうしき 声明 せいめい 文 ぶん で述 の べた。
1979年 ねん -1983年 ねん (解散 かいさん ) [ 編集 へんしゅう ]
ケニー・ジョーンズ加入 かにゅう 後 ご のザ・フー(1980年 ねん )
ムーンの死 し に際 さい し、バンドの元 もと にジェネシス のフィル・コリンズ から活動 かつどう を支援 しえん する旨 むね の連絡 れんらく が来 き たが、タウンゼントが望 のぞ んでいたのは元 もと フェイセズ のケニー・ジョーンズ だった。1979年 ねん 、タウンゼントの希望 きぼう 通 どお りジョーンズが新 しん メンバーとして加入 かにゅう 、またサポートメンバーのキーボーディストにジョン・“ラビット”・バンドリックを加 くわ え、ザ・フーは再始動 さいしどう する。だが同年 どうねん 12月 がつ 3日 にち 、アメリカツアー中 ちゅう のシンシナティ 公演 こうえん で、開場 かいじょう 時 じ に入場 にゅうじょう ゲートに殺到 さっとう した観客 かんきゃく が将棋倒 しょうぎだお しとなって11人 にん が死亡 しぼう する事故 じこ が起 お きる。メンバーは終演 しゅうえん 後 ご に事 こと を知 し らされ、大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う ける。同年 どうねん 12月 がつ 28日 にち 、カンボジア 難民 なんみん 救済 きゅうさい 公演 こうえん に出演 しゅつえん 。
1981年 ねん 、ジョーンズ加入 かにゅう 後 ご 初 はつ となるアルバム『フェイス・ダンシズ 』を発売 はつばい (全 ぜん 英 えい 2位 い 、全米 ぜんべい 4位 い )。この頃 ころ から新 しん メンバーのジョーンズをめぐってバンド内 ない に軋 きし みが生 しょう じ始 はじ める。タウンゼントは新生 しんせい ザ・フーの演奏 えんそう を楽 たの しんでいたが、ダルトリーはジョーンズの演奏 えんそう が気 き に入 い らず、会議 かいぎ の席 せき で「ケニーを辞 や めさせろ」と言 い い出 だ した。一方 いっぽう ジョーンズは「ピートがいい曲 きょく をソロ活動 かつどう の方 ほう に使 つか ってしまっている」と不満 ふまん を訴 うった えた。バンド内 ない の不和 ふわ に加 くわ え、家庭 かてい 内 ない の問題 もんだい も抱 かか えていたタウンゼントはこの頃 ころ から絶 た っていた薬物 やくぶつ に再 ふたた び手 て を出 だ すようになり、一時 いちじ は深刻 しんこく な状態 じょうたい に陥 おちい るが、2か月 げつ のリハビリを経 へ て復帰 ふっき する。
だが、もはや彼 かれ らにかつてのような勢 いきお いはなかった。1982年 ねん 、解散 かいさん 前 まえ のラストアルバムとなった『イッツ・ハード 』を発売 はつばい (全 ぜん 英 えい 11位 い 、全米 ぜんべい 8位 い )。同年 どうねん 12月 がつ のトロント で最後 さいご の公演 こうえん を行 おこな う。ラストナンバーはエントウィッスルがリードをとる「ツイスト・アンド・シャウト 」だった。ラストライブの模様 もよう は1984年 ねん のライヴアルバム『フーズ・ラスト 』に収録 しゅうろく された。1983年 ねん 6月 がつ 、タウンゼントがザ・フー脱退 だったい の意向 いこう を示 しめ し、正式 せいしき にバンドの解散 かいさん が決 き まった。ダルトリーは後年 こうねん 「ピートはツアーからのプレッシャーについてよく話 はな してたし、ドラッグにもはまってた。彼 かれ からプレッシャーを取 と り除 のぞ いてあげたかった。そうすれば彼 かれ は自殺 じさつ しないだろうと思 おも い、解散 かいさん を決 き めた」と語 かた っている[78] 。
再 さい 結成 けっせい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・エントウィッスル(1981年 ねん )
1985年 ねん 7月 がつ 、ライヴ・エイド に出演 しゅつえん するため、解散 かいさん 時 じ のメンバーで再 さい 結成 けっせい し4曲 きょく を演奏 えんそう した。1988年 ねん 2月 がつ にも英国 えいこく レコード産業 さんぎょう 協会 きょうかい (BPIアワード)の授賞 じゅしょう 式 しき で3曲 きょく を演奏 えんそう したが、これを最後 さいご にケニー・ジョーンズはザ・フーと袂 たもと を別 わか ち、以後 いご は参加 さんか していない。この前年 ぜんねん の1987年 ねん 、タウンゼントは結成 けっせい 25周年 しゅうねん に当 あ たる1989年 ねん に、ザ・フーとしての新作 しんさく とツアーを行 おこな う事 こと を表明 ひょうめい していたが、新作 しんさく は彼 かれ のソロアルバム『アイアン・マン 』の中 なか で、ザ・フー名義 めいぎ の曲 きょく が2曲 きょく 収録 しゅうろく されるに留 とど まった。しかしツアーは『トミー』の発表 はっぴょう 20周年 しゅうねん に合 あ わせて敢行 かんこう された。このツアーでは総勢 そうぜい 15名 めい にもなる豪華 ごうか なバックバンドを従 したが え、演奏 えんそう もかつてのものとは異 こと なりかなりシンフォニックなものになった。メンバーは1985年 ねん から1986年 ねん にかけてタウンゼントのソロ・ライブ時 じ に編成 へんせい されたディープ・エンドという名 な のバックバンドが流用 りゅうよう される形 かたち となり、ドラムを担当 たんとう したサイモン・フィリップス もその中 なか の一人 ひとり であった。だがこの頃 ころ より、以前 いぜん より患 わずら っていた難聴 なんちょう が悪化 あっか し始 はじ めたタウンゼントはアコースティック・ギター を弾 ひ くに留 と まり、セカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンを起用 きよう した[80] 。このツアーにおける音源 おんげん は、後 のち にライヴ・アルバム『ジョイン・トゥゲザー』として発売 はつばい された。1990年 ねん 、ロックの殿堂 でんどう 入 はい り[81] 。
デビュー30周年 しゅうねん の1994年 ねん には、未 み 発表 はっぴょう 曲 きょく やレア・トラックなどを収録 しゅうろく したボックスセット『ザ・フー・ボックス 』及 およ び同 どう タイトルのビデオ作品 さくひん を発表 はっぴょう 。1995年 ねん より、音楽 おんがく ジャーナリストのクリス・チャールズワース監修 かんしゅう のもと、ザ・フーの全 ぜん カタログの未 み 発表 はっぴょう 曲 きょく を付属 ふぞく したリマスター /リミックス 版 はん が断続 だんぞく 的 てき にリリースされる。第 だい 1弾 だん は『ライヴ・アット・リーズ』拡大 かくだい 版 ばん であった。リマスタリングおよびリミキシングはアルバム『フー・アー・ユー』でプロデューサーを務 つと めたジョン・アストリーが一 いち 手 て に引 ひ き受 う けた(タウンゼントの元 もと 義弟 ぎてい でもある)。
1996年 ねん 、ハイドパーク でチャールズ皇太子 こうたいし が主催 しゅさい したプリンス・トラスト・コンサートにおける『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』全曲 ぜんきょく 演奏 えんそう を契機 けいき に本格 ほんかく 的 てき なツアー活動 かつどう を再開 さいかい 。ドラムにリンゴ・スター の息子 むすこ であるザック・スターキー 、また、ギターとボーカルにタウンゼントの実弟 じってい であるサイモン・タウンゼントが加入 かにゅう するなどツアーバンドに変更 へんこう があった。ツアー当初 とうしょ は重要 じゅうよう パートはあまり弾 ひ いていなかったタウンゼントも、中盤 ちゅうばん 以降 いこう は自 みずか らリードギターを弾 ひ くようになった。1997年 ねん までツアーは続 つづ く。
1999年 ねん 10月 がつ から12月 がつ にかけてiBash '99及 およ びニール・ヤング 夫妻 ふさい が主催 しゅさい するブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演 しゅつえん を含 ふく め計 けい 7回 かい の演奏 えんそう を行 おこな う。ジョン・バンドリック、ザック・スターキーを含 ふく めた5人 にん の基本 きほん 的 てき なバンド編成 へんせい に戻 もど り、タウンゼントもほぼ全 すべ ての曲 きょく で再 ふたた びリードギターを弾 ひ くようになる。このツアーの目的 もくてき は、経済 けいざい 的 てき に逼迫 ひっぱく していたエントウィッスルを救済 きゅうさい するためでもあった。2000年 ねん に北米 ほくべい ・全 ぜん 英 えい ツアー、11月27日 にち にはダルトリーが支援 しえん している青少年 せいしょうねん のがんや白血病 はっけつびょう 患者 かんじゃ の支援 しえん 団体 だんたい であるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ公演 こうえん がロンドンのロイヤル・アルバート・ホール で開催 かいさい され、ポール・ウェラー 、オアシス のノエル・ギャラガー やパール・ジャム のエディ・ヴェダー などと競演 きょうえん する。
2001年 ねん 2月 がつ 、グラミー賞 しょう 特別 とくべつ 功労賞 こうろうしょう を受賞 じゅしょう 。10月20日 にち 、アメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 被害 ひがい 者 しゃ のための支援 しえん として米 べい マディソン・スクエア・ガーデン で行 おこな われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演 しゅつえん 。2002年 ねん 2月 がつ 7日 にち と8日 にち の両日 りょうじつ 、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ公演 こうえん に出演 しゅつえん 。これがエントウィッスルが参加 さんか した最後 さいご の生 なま 演奏 えんそう となった。
全米 ぜんべい ツアー初日 しょにち を翌日 よくじつ に控 ひか えた同年 どうねん 6月 がつ 27日 にち 、エントウィッスルがネバダ州 しゅう ラスベガス のホテルで、薬物 やくぶつ 摂取 せっしゅ に起因 きいん する心臓 しんぞう 発作 ほっさ で急死 きゅうし する(57歳 さい 没 ぼつ )。残 のこ されたメンバーはツアーを続行 ぞっこう すべきか悩 なや み苦 くる しんだ末 すえ 、過去 かこ にタウンゼントのソロ作品 さくひん にも参加 さんか した経験 けいけん のあるピノ・パラディーノ を抜擢 ばってき し、7月 がつ 1日 にち からツアーを開始 かいし した。なお、この日 ひ ハリウッド・ボウル で開 ひら かれたロサンゼルス 公演 こうえん では、メンバー全員 ぜんいん が黒 くろ い衣装 いしょう でステージに上 あ がった。またこの年 とし 、長年 ながねん 廃盤 はいばん 状態 じょうたい だった1stアルバム『マイ・ジェネレーション』が、初期 しょき プロデューサーのシェル・タルミーとの関係 かんけい が改善 かいぜん した事 こと からようやく復刻 ふっこく された。
2003年 ねん 11月、久 ひさ しぶりの新曲 しんきょく 「リアル・グッド・ルッキング・ボーイ」を録音 ろくおん 。この曲 きょく ベースはグレッグ・レイク が演奏 えんそう している。デビュー40周年 しゅうねん の2004年 ねん 、3月22日 にち のロンドンよりツアーを開始 かいし 。6月12日 にち 、復活 ふっかつ 版 ばん ワイト島 とう 音楽 おんがく 祭 さい に出演 しゅつえん 。7月24日 にち および25日 にち 、横浜 よこはま と大阪 おおさか で開催 かいさい されたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004 への出演 しゅつえん のため初 はつ 来日 らいにち 。その後 ご 2008年 ねん にもバンド単独 たんどく での来日 らいにち 公演 こうえん が行 おこな われている。また、このツアーでは1968年 ねん 以来 いらい となるオーストラリア公演 こうえん が実現 じつげん している。2005年 ねん 7月 がつ 2日 にち 、ハイドパークで行 おこな われたLIVE 8 に出演 しゅつえん 。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック 、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出 で ていたため、代役 だいやく としてデーモン・ミンチェラ とスティーヴ・ホワイト がそれぞれのパートを担当 たんとう 。
第 だい 44回 かい スーパーボウルハーフタイムショーで演奏 えんそう するザ・フー
2006年 ねん 6月 がつ 17日 にち 、ヨーロッパ とそれに続 つづ く世界 せかい ツアーの初日 しょにち として1970年 ねん 以来 いらい 36年 ねん ぶりにリーズ大学 だいがく で公演 こうえん を行 おこな う。11月、『イッツ・ハード』以来 いらい 24年 ねん ぶりのスタジオ録音 ろくおん フルアルバムとなる『エンドレス・ワイヤー 』を発表 はっぴょう (全 ぜん 英 えい 9位 い 、全米 ぜんべい 7位 い )。2007年 ねん 6月 がつ 24日 にち 、グラストンベリー・フェスティバル のヘッドライナー として出演 しゅつえん 。
2010年 ねん 2月 がつ 7日 にち 、マイアミで行 おこな われた第 だい 44回 かい スーパーボウル のハーフタイムショーを行 おこな う。3月30日 にち にはロイヤル・アルバート・ホールにおいて『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』の1日 にち 限 かぎ りの再演 さいえん 。この公演 こうえん にはパール・ジャム のエディ・ヴェダー やカサビアン のトム・ミーガン がゲスト出演 しゅつえん している[87] 。2012年 ねん 、ロンドンオリンピック 閉会 へいかい 式 しき に出演 しゅつえん 。さらに同年 どうねん から2013年 ねん にかけて、「Quadrophenia and More 」と題 だい し、『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』を再演 さいえん するツアーを行 おこな う。
デビュー50周年 しゅうねん の2014年 ねん 、新曲 しんきょく を含 ふく めた2枚 まい 組 ぐみ オールタイムベストアルバム『ヒッツ50 』リリース。また同 どう タイトルのツアーをアラブ首長 しゅちょう 国 こく 連邦 れんぽう ・アブダビ より開始 かいし 。2015年 ねん 、タウンゼントは「このツアーが終 おわ ったら、俺 おれ 達 たち は別々 べつべつ の道 みち を歩 あゆ む事 こと になるだろう」とザ・フー解散 かいさん を示唆 しさ した。ただし、「ロジャーとは折 おり にふれ何 なに かやっていく事 こと にはなるだろう」と、ダルトリーとのコラボレーションは継続 けいぞく していくことも表明 ひょうめい している[88] 。この「ヒッツ50」ツアーは、2015年 ねん 9月 がつ にダルトリーがウイルス性 せい 髄 ずい 膜 まく 炎 えん を患 わずら ったことにより中断 ちゅうだん された[89] 。2016年 ねん 6月 がつ 、4度目 どめ の出演 しゅつえん となるワイト島 とう フェスティバルでツアー復帰 ふっき 、新 しん ツアー「 Back to the Who Tour 51!」を開始 かいし する(同年 どうねん 9月 がつ まで)。2017年 ねん 3月 がつ から4月 がつ にかけて、1989年 ねん 以来 いらい となるアルバム『トミー』のフル・パフォーマンス・ツアー「Tommy and More」を敢行 かんこう 。
2019年 ねん 1月 がつ 、『エンドレス・ワイヤー』以来 いらい となるオリジナルアルバムを年内 ねんない 中 ちゅう に発売 はつばい すること、並 なら びに5月 がつ より北米 ほくべい ツアーを開始 かいし することが発表 はっぴょう された。タウンゼントはこのツアーが今度 こんど こそ最後 さいご になることを示唆 しさ した[90] 。5月7日 にち 、最新 さいしん ツアー「Moving On!」がミシガン州 しゅう グランドラピッズ より開始 かいし されるが、9月にダルトリーが気管支炎 きかんしえん を患 わずら ったためツアーは中断 ちゅうだん された[91] 。12月、13年 ねん ぶりの新 しん アルバム『WHO 』を発売 はつばい (全 ぜん 英 えい 3位 い 、全米 ぜんべい 2位 い )。ダルトリーは「『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』以来 いらい 最高 さいこう のアルバムを作 つく り上 あ げたと思 おも う」と自負 じふ した。
音楽 おんがく スタイルと影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
ギターを破壊 はかい するタウンゼント(1972年 ねん )
ザ・フーはアマチュア時代 じだい にはR&B などのブラック・ミュージック を中心 ちゅうしん に演奏 えんそう して来 き たが、ビートルズやローリング・ストーンズ といった同年代 どうねんだい のバンドに比 くら べると黒人 こくじん 音楽 おんがく の要素 ようそ は薄 うす く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』の頃 ころ から独自 どくじ のポップセンスを見 み せていた。パワー・ポップ というジャンルはタウンゼントが発 はっ した言葉 ことば から生 う まれたとされているが[93] 、当時 とうじ のザ・フーはハードでラウドな演奏 えんそう にキャッチーなメロディを乗 の せるというパワー・ポップの特徴 とくちょう そのものだった。ミュージシャンで音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か の和久井 わくい 光司 こうじ は「ザ・フーには正統 せいとう 的 てき なブルースの要素 ようそ がないのが“パンクの元祖 がんそ ”になり得 え た秘訣 ひけつ だろう。伝統 でんとう なんてものはパンクスにとって壊 こわ してナンボのものだから、ブルースの要素 ようそ は迷惑 めいわく でしかない」と分析 ぶんせき している。だが1969年 ねん のアルバム『トミー』でシリアスで内省 ないせい 的 てき な作風 さくふう に転換 てんかん し、それまでのポップバンドのイメージを刷新 さっしん すると、初 はつ のライブ盤 ばん 『ライヴ・アット・リーズ』ではこれまでレコードでは表現 ひょうげん しきれなかった彼 かれ らのハードロック・バンドとしての側面 そくめん を見 み せた。そのハードロックサウンドをスタジオで再現 さいげん し、さらにシンセサイザー を導入 どうにゅう して時代 じだい の最先端 さいせんたん をいくプログレッシブな傑作 けっさく となった『フーズ・ネクスト』で、彼等 かれら はその人気 にんき を決定 けってい 付 つ ける事 こと となる。『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』ではそのエレクトロニクス・サウンドをさらに推 お し進 すす めたが、その次 つぎ の『バイ・ナンバーズ』では一転 いってん してシンプルなサウンドに戻 もど るなど、時代 じだい や作品 さくひん によって様々 さまざま な側面 そくめん を見 み せた。
メンバーで楽曲 がっきょく を共 とも 作 さく する事 こと はほとんどなく、グループの楽曲 がっきょく の95%以上 いじょう はタウンゼント一人 ひとり で書 か かれている。タウンゼントはただ作曲 さっきょく するだけでなく、ギターやベース、ドラムス等 とう の基本 きほん アレンジも一人 ひとり でこなしており、自宅 じたく でダビング録音 ろくおん をし、そのデモテープを他 た のメンバーに渡 わた し、曲 きょく を覚 おぼ えてもらってからレコーディングに入 はい るという習慣 しゅうかん がいつしか出来上 できあ がっていたという。そのデモテープは、タウンゼントのソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』や『スクープ』(1983年 ねん )などで聴 き くことが出来 でき る。タウンゼントはまた、サウンド・クリエーターとしても評価 ひょうか が高 たか く、クラシックの作曲 さっきょく 技法 ぎほう である対位法 たいいほう を取 と り入 い れた『トミー』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期 どうき させた演奏 えんそう (例 れい :「ババ・オライリィ 」)など、ロックの枠 わく を広 ひろ げる画期的 かっきてき な試 こころ みも多 おお い。
ハイ・ナンバーズと名乗 なの っていた頃 ころ より、大 だい 音量 おんりょう で演奏 えんそう するバンドとして知 し られていた。1976年 ねん にはロンドン公演 こうえん で120デジベルという音量 おんりょう を記録 きろく し、当時 とうじ の「世界 せかい 一 いち 大 だい 音量 おんりょう を出 だ すバンド」としてギネスブック に登録 とうろく され、その後 ご 数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん この記録 きろく は破 やぶ られなかった。タウンゼントも初期 しょき の頃 ころ に受 う けたインタビューで「音楽 おんがく のクオリティなんて関係 かんけい ない。大事 だいじ なのはパワーとヴォリュームなんだ」と答 こた えていた[注釈 ちゅうしゃく 10] 。彼 かれ らが大 だい 音量 おんりょう で演奏 えんそう するようになったのは、アマチュア時代 じだい にタウンゼントとエントウィッスルが互 たが いに負 ま けじと大 おお きなアンプを次々 つぎつぎ と購入 こうにゅう していったことに起因 きいん する。タウンゼントは「2台 だい のアンプを同時 どうじ に使 つか ったギタリストは私 わたし が最初 さいしょ だろう」と語 かた っている。
しかし、彼等 かれら がライヴバンドとしての名声 めいせい を獲得 かくとく し得 え たのは、音 おと の大 おお きさよりも個々 ここ の確 たし かな演奏 えんそう 技術 ぎじゅつ であった。リードベースと言 い われるエントウィッスルの高度 こうど な技術 ぎじゅつ 、全編 ぜんぺん フィルインとも言 い える手数 てかず の多 おお いムーンのドラムは、他 た に類 るい を見 み ない物 もの であった。タウンゼントは「ベースとドラムがリード楽器 がっき で、ギターがリズム楽器 がっき になるという、本来 ほんらい の立場 たちば が逆転 ぎゃくてん していたのがザ・フーのユニークさだった」とし、彼 かれ らに影響 えいきょう を受 う けたオアシスのノエル・ギャラガー は「ザ・フーは全員 ぜんいん がリード楽器 がっき なんだよ。イカれてる」と語 かた っている。そのタウンゼントも、速 はや 弾 び きのソロ・プレイや技巧 ぎこう さとは無縁 むえん であるものの、リードギターとリズムギターを合 あ わせたようなパワーコード や、「ピンボールの魔術 まじゅつ 師 し 」などに代表 だいひょう される高速 こうそく カッティングといったリズムギターに定評 ていひょう がある。ダルトリーは初期 しょき の頃 ころ こそ声 こえ が細 ほそ く、器楽 きがく のパワーに押 お され気味 ぎみ であったが、1970年代 ねんだい に入 はい ると声 こえ が太 ふと くなり、ややハスキーな声質 せいしつ を生 い かした独自 どくじ の唱法を獲得 かくとく し、ボーカリストとしての評価 ひょうか を確立 かくりつ した [要 よう 出典 しゅってん ] 。以降 いこう 、彼 かれ は繊細 せんさい さと力強 ちからづよ さの振幅 しんぷく の激 はげ しいザ・フーの楽曲 がっきょく に極 きわ めてすぐれた解釈 かいしゃく をみせ、今日 きょう に至 いた るまで歌 うた い続 つづ けている。
ロジャー・ダルトリー(1972年 ねん )
ザ・フーの特徴 とくちょう と言 い えばステージでの派手 はで な演出 えんしゅつ が筆頭 ひっとう に挙 あ げられる。ダルトリーは投 な げ縄 なわ の如 ごと くマイクを振 ふ り回 まわ し、タウンゼントは縦横無尽 じゅうおうむじん に飛 と び跳 は ね、腕 うで を大 おお きく振 ふ り回 まわ しながらギターを演奏 えんそう した(ウィンドミル奏法 そうほう と呼 よ ばれるこの弾 ひ き方 かた は、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ がステージでウォーミングアップのために腕 うで を回 まわ したのがヒントとなっている)。ムーンは全身 ぜんしん を投 な げ出 だ すようにドラムを叩 はた きまくるその破天荒 はてんこう なプレイスタイルで、デビュー当初 とうしょ から評判 ひょうばん だった。彼 かれ らの演出 えんしゅつ とは対照 たいしょう 的 てき に、ベースのエントウィッスルは黙々 もくもく と演奏 えんそう していたが、その歪 いが んだ大 だい 音量 おんりょう はタウンゼントのギターと台頭 たいとう するものだった。
終盤 しゅうばん で行 おこな われる楽器 がっき 破壊 はかい もまたザ・フーの特徴 とくちょう だった。元々 もともと はタウンゼントが天井 てんじょう の低 ひく い会場 かいじょう で誤 あやま ってギターを天井 てんじょう にぶつけたのが演出 えんしゅつ と受 う け取 と られたことがきっかけだった。この楽器 がっき 破壊 はかい はたちまち評判 ひょうばん を呼 よ び、観客 かんきゃく のみならず、取材 しゅざい に来 き た記者 きしゃ までもが客席 きゃくせき から「ピート、ギターを壊 こわ せ!」と煽 あお る始末 しまつ だった[100] 。パフォーマンスでやる場合 ばあい もあれば、感情 かんじょう にまかせて破壊 はかい することもあり、1973年 ねん にバンドが出演 しゅつえん したテレビ番組 ばんぐみ 「トップ・オブ・ザ・ポップス 」で、何 なに を思 おも ったかタウンゼントは、演奏 えんそう 中 ちゅう に突然 とつぜん ギターとムーンのドラム・セットを破壊 はかい した(この時 とき 中指 なかゆび をつき立 た てたりもしたため、BBC から出入 でい り禁止 きんし の処分 しょぶん となった)。タウンゼントに影響 えいきょう される形 かたち で、やがてムーンもドラムを壊 こわ すようになった。特 とく に語 かた り草 ぐさ となっているのが1967年 ねん のテレビ番組 ばんぐみ 「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」出演 しゅつえん 時 じ のパフォーマンスで、ムーンはバスドラムに安全 あんぜん 基準 きじゅん を超 こ える大量 たいりょう の閃光 せんこう 粉 こ を仕込 しこ み、演奏 えんそう 後 ご に爆発 ばくはつ させた。爆風 ばくふう は近 ちか くにいたたタウンゼントの耳 みみ に強 つよ い衝撃 しょうげき を与 あた え、現在 げんざい まで続 つづ く聴覚 ちょうかく 障害 しょうがい の遠因 えんいん となった。ムーン自身 じしん も負傷 ふしょう し、さらにゲストのベティ・デイヴィス を気絶 きぜつ させた。こうした過激 かげき なステージパフォーマンスは、後 のち にセックス・ピストルズ やパール・ジャム などパンク・ロック・バンドらに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。ピストルズは「恋 こい のピンチ・ヒッター 」をカバー演奏 えんそう していた。
このようなパフォーマンスに対 たい しては否定 ひてい 的 てき に受 う け取 と る者 もの もおり、モントレーに参加 さんか したシタール奏者 そうしゃ のラヴィ・シャンカル は、ドラムを破壊 はかい するパフォーマンスが「楽器 がっき は神聖 しんせい なものである」という自分 じぶん の価値 かち 観 かん と相 あい いれなかったと産経新聞 さんけいしんぶん に述 の べている[103] 。
歌詞 かし の文学 ぶんがく 性 せい [ 編集 へんしゅう ]
ステージでの凶暴 きょうぼう 性 せい とは対照 たいしょう 的 てき に、タウンゼントが書 か く非常 ひじょう に内省 ないせい 的 てき な歌詞 かし の持 も つロック・ミュージシャンらしからぬ表現 ひょうげん 力 りょく は、「文学 ぶんがく 的 てき 」とも評 ひょう される。初期 しょき の頃 ころ は「マイ・ジェネレーション」に代表 だいひょう される若者 わかもの の不満 ふまん を代弁 だいべん するような歌詞 かし が多 おお かったが、1969年 ねん の『トミー』以降 いこう 、精神 せいしん 的 てき で繊細 せんさい な内容 ないよう が多 おお く見受 みう けられるようになった。これには彼 かれ が帰依 きえ したミハー・ババからの影響 えいきょう が大 おお きく、彼 かれ 自身 じしん も「ババのおかげで俺 おれ の人生 じんせい は完全 かんぜん に変 か わったしバンド全体 ぜんたい も変 か わった」と認 みと めている。1975年 ねん の『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』ではさらに変化 へんか し、精神 せいしん 性 せい よりも自分 じぶん の現実 げんじつ 的 てき な問題 もんだい を歌詞 かし に反映 はんえい させるようになった。一方 いっぽう 、タウンゼントに次 つ いで多 おお くの曲 きょく を提供 ていきょう したエントウィッスルは、変質 へんしつ 者 しゃ やアルコール中毒 ちゅうどく 者 しゃ 、死後 しご の世界 せかい を題材 だいざい にしてブラックユーモアに富 と んだ歌詞 かし を書 か いた。しかしメロディはタウンゼント同様 どうよう ポップで、歌詞 かし とメロディのミスマッチさで独特 どくとく な雰囲気 ふんいき を作 つく り出 だ した。
歌詞 かし に物語 ものがたり 性 せい を持 も たせたのもザ・フーの楽曲 がっきょく の大 おお きな特徴 とくちょう である。先駆 さきが けとなったのが、1966年 ねん のアルバム『ア・クイック・ワン 』収録 しゅうろく の表題 ひょうだい 曲 きょく である。この曲 きょく で採用 さいよう されたミニ・オペラという形式 けいしき は次 つぎ 作 さく の『セル・アウト』収録 しゅうろく の「ラエル」に受 う け継 つ がれ、やがてロック・オペラという新 あら たなジャンルを確立 かくりつ させた『トミー』へと結実 けつじつ する。ザ・フーはその後 ご も『ライフハウス』[注釈 ちゅうしゃく 11] 、『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』と新 あら たなロック・オペラを生 う み出 だ し、現時点 げんじてん では最新 さいしん 作 さく となる『エンドレス・ワイヤー』内 ない でも「ワイヤー&グラス」というミニ・オペラを披露 ひろう している。『トミー』は全 ぜん 世界 せかい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、『ジーザス・クライスト・スーパースター 』(1970年 ねん )やピンク・フロイド の『ザ・ウォール 』(1979年 ねん )など、多数 たすう のロック・オペラ作品 さくひん が生 う み出 だ された。
ザ・フーは当初 とうしょ モッズ ・バンドとしてデビューしたが、メンバーの中 なか にモッズであった者 もの は一人 ひとり もいなかった。ダルトリーは「俺 おれ はテッズ(テディボーイ)だった」としており、タウンゼントも1973年 ねん のインタビューで「俺 おれ 達 たち はモッズでも何 なん でもなかったよ。当時 とうじ 流行 りゅうこう だったし、マネージャーが俺 おれ 達 たち を戦略 せんりゃく 的 てき にモッズとして売 う り出 だ したんだ。成功 せいこう したポップバンドで本物 ほんもの のモッズといえばスモール・フェイセズぐらいなもんで、それに比 くら べりゃ俺 おれ 達 たち なんて便乗 びんじょう 組 ぐみ もいいとこさ」と語 かた っている。だが別 べつ のインタビューでは「ハイ・ナンバーズもザ・フーもれっきとしたモッズ・バンドだった。モッズに受 う け入 い れられてたらモッズなんだよ。デビュー当時 とうじ 、俺 おれ は生 い きてるだけで幸 しあわ せだった。気分 きぶん は最高 さいこう にモッズだったよ。一 ひと つだけ確 たし かなのは、俺 おれ 達 たち はモッズに見 み られたくて必死 ひっし だったってことさ」とも語 かた っている。しかし、彼 かれ らがモッズとして振舞 ふるま っていた時期 じき は短 みじか く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』を以って、ザ・フーはモッズの看板 かんばん を下 お ろした。タウンゼントは1970年 ねん に「とにかく俺 おれ はモッズの亡霊 ぼうれい 、ノスタルジーからとっとと離 はな れたかったんだ」と語 かた っており、ダルトリーも「ピートはシェパーズ・ブッシュ のガキ共 ども のための曲 きょく じゃなく、もっと大 おお きなものを曲 きょく の題材 だいざい にしていた。奴 やつ の曲 きょく の通訳 つうやく 者 しゃ を務 つと める俺 おれ はそう思 おも うよ」と、ザ・フーがモッズのイメージで終 お わるバンドではないことを主張 しゅちょう している。
ザ・フーはそのファッションにも注目 ちゅうもく が集 あつ まった。彼 かれ らがデビューした頃 ころ はポップアート が最先端 さいせんたん とされており、ザ・フーはこれを戦略 せんりゃく 的 てき に取 と り入 い れた。ユニオンジャック で仕立 した てたテーラードジャケット、服 ふく の全面 ぜんめん につけたバッジ、ムーンが好 この んで着用 ちゃくよう したラウンデル をあしらったトレーナーなどはその一端 いったん であり、彼 かれ らのトレードマークとなった。特 とく にラウンデルは、グループがモッズのイメージを払拭 ふっしょく した後 のち も作品 さくひん のジャケットや関連 かんれん グッズの意匠 いしょう に使用 しよう され続 つづ けている。しかしそれまでのポップな作風 さくふう から大 おお きく変換 へんかん した1969年 ねん 以降 いこう は、女 おんな の子 こ 受 う けするファッションとは無縁 むえん になり、ダルトリーは素肌 すはだ にフリンジの付 つ いたジャケットを羽織 はお り、タウンゼントは白 しろ い作業 さぎょう 着 ぎ をステージ衣装 いしょう にした。エントウィッスルも骸骨 がいこつ をあしらったレザースーツでインパクトを与 あた えたが、1970年代 ねんだい も中頃 なかごろ になると奇抜 きばつ なファッションは見 み られなくなった。
なお、デビュー当時 とうじ のザ・フーのメンバーで、最 もっと も女 おんな の子 こ からの人気 にんき が高 たか かったのはムーンだった。だが彼 かれ は20代 だい のうちにかなり容姿 ようし が老 ふ け込 こ んでしまい、代 か わってダルトリーがグループのセックス・シンボルとなった。しかし、ザ・フーのメンバーはルックスにはあまり自信 じしん を持 も っていないようで、ダルトリーは「俺 おれ たち不細工 ぶさいく すぎたから」と自嘲 じちょう しており[114] 、タウンゼントも自身 じしん の大 おお きな鼻 はな がコンプレックスで、ステージで派手 はで なアクションを決 き めるのも「顔 かお より体 からだ の方 ほう に注目 ちゅうもく してほしかったから」と明 あ かしている。
日本 にっぽん におけるザ・フーの知名度 ちめいど は、ビートルズやストーンズ、また1970年代 ねんだい 以降 いこう に登場 とうじょう したレッド・ツェッペリン やエアロスミス 、クイーン など、同年代 どうねんだい に活躍 かつやく したバンドに比 くら べると高 たか いとは言 い えず、スモール・イン・ジャパン の代表 だいひょう として挙 あ げられることがある[115] 。バンドの代表 だいひょう 作 さく の一 ひと つでもある『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』も、当時 とうじ の日本 にっぽん では全 まった く話題 わだい にならなかったという。音楽 おんがく ライターの夏川 なつかわ 翠 みどり はこの原因 げんいん について、彼 かれ らが全盛期 ぜんせいき だった1970年代 ねんだい に来日 らいにち しなかったからだと指摘 してき する。ザ・フーが来日 らいにち しなかった理由 りゆう については当時 とうじ から様々 さまざま な憶測 おくそく が流 なが れていたが、夏川 なつかわ は「実話 じつわ だ」として次 つぎ のような話 はなし を明 あ かしている。夏川 なつかわ が海外 かいがい アーティストの追 お っかけをしていた1972年 ねん 当時 とうじ 、同 おな じく追 お っかけをしていた友人 ゆうじん があるプロモーターの社長 しゃちょう に「ザ・フーを呼 よ んで」とお願 ねが いしたところ「ダメ、あれは怖 こわ いから! 」と断 こと わられたという。彼 かれ らはレッド・ツェッペリン以上 いじょう の乱暴 らんぼう 者 しゃ の集団 しゅうだん であるとの噂 うわさ が日本 にっぽん に伝 つた わっていたのである[117] 。尚 なお 、1975年 ねん には映画 えいが 『トミー』のヒットに乗 じょう じて訪日 ほうにち しようと、実際 じっさい にバンド内 ない で話 はな し合 あ いが持 も たれたことがあるが、タウンゼントが様々 さまざま な問題 もんだい を抱 かか えて気落 きお ちしていた時期 じき でもあり、彼 かれ が拒 こば んだため結局 けっきょく 実現 じつげん しなかった。
1974年 ねん にフェイセズとして来日 らいにち したケニー・ジョーンズを除 のぞ くザ・フーのメンバーの中 なか で、最初 さいしょ に日本 にっぽん の土 ど を踏 ふ んだのはエントウィッスルだった。1987年 ねん に楽器 がっき フェアのプロモーションで来日 らいにち が最初 さいしょ で、その後 ご も度々 たびたび 来日 らいにち し、計 けい 4度 ど も日本 にっぽん を訪 おとず れたが、ザ・フーとして来日 らいにち することは遂 つい になかった。ダルトリーとタウンゼントが初 はつ 来日 らいにち を果 は たしたのは2004年 ねん になってからだった。日本 にっぽん にはその後 ご も2008年 ねん に単独 たんどく 公演 こうえん のために訪 おとず れている。また2012年 ねん にはダルトリーがソロで来日 らいにち し、公演 こうえん を行 おこな っている。
『ライヴ・アット・リーズ 』 - Live At Leeds (1970年 ねん 、Track)
The Who Rocks America (1983年 ねん 、CBS/FOX)
『フーズ・ラスト 』 - Who's Last (1984年 ねん 、MCA)
『ジョイン・トゥゲザー 』 - Join Together (1990年 ねん 、Virgin)
『ワイト島 とう ライヴ1970 』 - Live at the Isle of Wight Festival 1970 (1996年 ねん 、Castle)
『BBCセッションズ 』 - BBC Sessions (2000年 ねん 、Polydor)
『ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール』 - Live at the Royal Albert Hall (2003年 ねん 、Castle)
Live from Toronto (2006年 ねん 、Polydor)
『ライヴ・グレイテスト・ヒッツ』 - Greatest Hits Live (2010年 ねん 、Polydor)
『ライヴ・アット・ハル 1970』 - Live at Hull 1970 (2012年 ねん 、Polydor)
『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく ライヴ』 - Quadrophenia Live In London (2014年 ねん 、Polydor)
『ライヴ・イン・ハイドパーク』 - Live In Hyde Park (2015年 ねん 、Polydor)
『ライヴ・アット・フィルモア・イースト1968』 - Live at The Fillmore East: Saturday April 6, 1968 (2018年 ねん 、Polydor)
コンピレーション・アルバム [ 編集 へんしゅう ]
『ダイレクト・ヒッツ 』 - Direct Hits (1968年 ねん 、Track-UKのみ)
『マジック・バス~ザ・フー・オン・ツアー 』 - Magic Bus (1968年 ねん 、Decca-USのみ)
『ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシィ 』 - Meaty Beaty Big And Bouncy (1971年 ねん 、Track)
『オッズ&ソッズ 』 - Odds And Sods (1974年 ねん 、Track)
『ストーリー・オブ・ザ・フー』 - The Story Of The Who (1976年 ねん 、Polydor)
Hooligans (1981年 ねん 、MCA)
Who Rarities Volume 1 (1983年 ねん 、Polydor)
Who Rarities Volume 2 (1984年 ねん 、Polydor)
The Singles (1985年 ねん 、Polydor)
『フーズ・ミッシング 』 - Who's Missing (1986年 ねん 、Polydor)
『トゥーズ・ミッシング 』 - Two's Missing (1987年 ねん 、Polydor)
『フーズ・ベター、フーズ・ベスト 』 - Who's Better, Who's Best (1988年 ねん 、Polydor)
『マイ・ジェネレイション〜ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・フー 』 - My Generation - The Very Best of the Who (1996年 ねん 、Polydor)
『アルティメイト・コレクション』 - The Ultimate Collection (2002年 ねん )
The 1st Singles Box (2004年 ねん 、Polydor)
『ゼン・アンド・ナウ 』 - Then and Now 1964-2004 (2004年 ねん 、Polydor)
The Who Hits 50! (2014年 ねん 、Polydor)
『レディ・ステディ・フー 』 - Ready Steady Who (1966年 ねん 、Reaction)
Tommy (1970年 ねん 、Track)
日本 にっぽん 盤 ばん シングル[ 編集 へんしゅう ]
リーガル・マター - "A Legal Matter" (1966年 ねん )
アウト・イン・ザ・ストリート - "Out in the Street" (1966年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のリリース[120]
恋 こい のピンチ・ヒッター - "Substitute" (1966年 ねん )
アイム・ア・ボーイ - "I'm A Boy"(1967年 ねん )
ハッピー・ジャック - "Happy Jack"(1967年 ねん )
ウイスキー・マン - "Whisky Man" (1967年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のリリース[121]
リリーのおもかげ - "Pictures of Lily" (1967年 ねん )
恋 こい のマジック・アイ - "I Can See for Miles" (1968年 ねん )
ラスト・タイム - "The Last Time"(1968年 ねん )
アルメニアの空 そら - "Armenia City in the Sky" (1968年 ねん )
コール・ミー・ライトニング - "Call Me Lightning" (1968年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のカップリング
ドッグ - "Dog" (1968年 ねん )
マジック・バス - "Magic Bus" (1969年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のカップリング
ピンボールの魔術 まじゅつ 師 し - "Pinball Wizard" (1969年 ねん )
シーカー - "The Seeker" (1970年 ねん )
サマータイム・ブルース - "Summertime Blues" (1970年 ねん )
シー・ミー・フィール・ミー - "See Me Feel Me" (1971年 ねん )
無法 むほう の世界 せかい - "Won't Get Fooled Again" (1971年 ねん )
ワイルド・アクション - "Let's See Action" (1972年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のカップリング[122]
奴 やつ らに伝 つた えろ! - "The Relay" (1973年 ねん )
リアル・ミー - "The Real Me" (1973年 ねん )
不死身 ふじみ のハードロック - "Long Live Rock" (1974年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のリリース
リスニング・トゥ・ユー - "Listening To You" (1975年 ねん )
フー・アー・ユウ - "Who Are You" (1978年 ねん ) ※日本 にっぽん 独自 どくじ のリリース
5時 じ 15分 ふん - "5:15" (1979年 ねん )
[123]
^ a b c d 1度 ど 限 かぎ りの再 さい 結成 けっせい
^ 1969年 ねん にメンバーが代 か わってフェイセズ になった。
^ アルバム『フーズ・ネクスト 』(1971年 ねん )、『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』(1973年 ねん )など。
^ 1985年 ねん 7月 がつ のウェンブリー・スタジアムでのライヴエイド と、1988年 ねん 2月 がつ 8日 にち の英国 えいこく レコード産業 さんぎょう 協会 きょうかい (BPI)の特別 とくべつ 功労賞 こうろうしょう の受賞 じゅしょう 式 しき の再 さい 結成 けっせい に参加 さんか した。
^ 1982年 ねん のフェアウェル・ツアーには不参加 ふさんか 。
^ 2004年 ねん に発表 はっぴょう された15年 ねん ぶりの新曲 しんきょく 「リアル・グッド・ルッキング・ボーイ」の録音 ろくおん には、グレッグ・レイク が客演 きゃくえん した。
^ >原題 げんだい は"Tommy as performed by the London Symphony Orchestra and English Chamber Choir with Guest Soloists"である。つまりロンドン交響 こうきょう 楽団 がくだん とイギリス室内 しつない 合唱 がっしょう 団 だん が主役 しゅやく で、タウンゼント達 たち は客演 きゃくえん 者 しゃ であった。プロデューサーのルー・ライズナー が制作 せいさく を担当 たんとう し、デヴィッド・ミ―シャム がロンドン交響 こうきょう 楽団 がくだん を指揮 しき した。
^ ムーンは『四 よん 重 じゅう 人格 じんかく 』の収録 しゅうろく 曲 きょく をバッキング・テープに合 あ わせて演奏 えんそう するという公演 こうえん を何 なん とかこなしていたが、終了 しゅうりょう 直前 ちょくぜん に倒 たお れてしまった。タウンゼント達 たち はドラムを叩 はた ける者 もの を客席 きゃくせき から募 つの って急場 きゅうば を凌 しの がざるを得 え なかった。この一部始終 いちぶしじゅう は、ツアーのプロモーターだったビル・グラハム の為 ため に撮影 さつえい されていた白黒 しろくろ の記録 きろく 映像 えいぞう に収録 しゅうろく された。
^ 1976年 ねん 3月 がつ 9日 にち 、二 に 巡 じゅん 目 め のアメリカ・ツアーの初日 しょにち のボストン公演 こうえん では、開始 かいし 間 あいだ もなく倒 たお れて公演 こうえん を中止 ちゅうし させてしまった。
^ 映画 えいが 『キッズ・アー・オールライト』にも収録 しゅうろく されている。
^ ザ・フーとしては未完 みかん 。その後 ご タウンゼントによって1999年 ねん に完成 かんせい された。
ウィキメディア・コモンズには、
ザ・フー に
関連 かんれん するメディアがあります。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 芸術 げいじゅつ 家 か その他 た