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ベティ・デイヴィス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベティ・デイヴィス
Bette Davis
Bette Davis
黄昏たそがれまど』(1951ねん)の宣伝せんでん写真しゃしん
本名ほんみょう ルース・エリザベス・デイヴィス
Ruth Elizabeth Davis
生年月日せいねんがっぴ (1908-04-05) 1908ねん4がつ5にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1989-10-06) 1989ねん10月6にち(81さいぼつ
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
マサチューセッツしゅうローウェル
死没しぼつ フランスの旗 フランスパリオー=ド=セーヌけん
ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
職業しょくぎょう 女優じょゆう
活動かつどう期間きかん 1928ねん - 1989ねん
配偶はいぐうしゃ ハーモン・ネルソン(1932ねん8がつ18にち - 1938ねん12月6にち離婚りこん
アーサー・ファーンズワース(1940ねん12月31にち - 1943ねん8がつ25にち死別しべつ
ウィリアム・グラント・シェリー(1945ねん11月30にち - 1950ねん7がつ5にち離婚りこん
ゲイリー・メリル1950ねん7がつ28にち - 1960ねん7がつ6にち離婚りこん
著名ちょめい家族かぞく バーバラ・メリル(むすめ
マイケル(養子ようし
マーゴット(養女ようじょ
おも作品さくひん
くろらんおんな』(1938ねん
いつわりの花園はなぞの』(1941ねん
情熱じょうねつ航路こうろ』(1942ねん
イヴのすべ』(1950ねん
なにがジェーンにおこったか?』(1962ねん
 
受賞じゅしょう
アカデミーしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1935ねん青春せいしゅん抗議こうぎ
1938ねんくろらんおんな
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
女優じょゆうしょう
1951ねんイヴのすべ
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
女優じょゆうしょう
1937ねんふだつきおんな』『たおれるまで』
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1950ねん『イヴのすべて』
AFIしょう
生涯しょうがい功労賞こうろうしょう
1977ねん
エミーしょう
女優じょゆうしょう(ミニシリーズ/テレビ映画えいが部門ぶもん
1979ねん『Strangers: The Story of a Mother and Daughter』
ゴールデングローブしょう
セシル・B・デミルしょう
1974ねん 生涯しょうがい功労賞こうろうしょう
セザールしょう
名誉めいよしょう
1986ねん
そのしょう
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ベティ・デイヴィスのサイン

ベティ・デイヴィス英語えいご: Bette Davis本名ほんみょうルース・エリザベス・デイヴィス英語えいご: Ruth Elizabeth Davis)、1908ねん4がつ5にち - 1989ねん10月6にち)はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマサチューセッツしゅうローウェル出身しゅっしん女優じょゆうである。

キャサリン・ヘプバーンならぶ、ハリウッド映画えいが史上しじょう屈指くっし演技えんぎ女優じょゆうで、尊敬そんけいをこめて「フィルムのファースト・レディ」とばれた。

生涯しょうがい初期しょきのキャリア

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映画えいがデビューさく姉妹しまい小町こまち』(1931ねん)

弁護士べんごしであるちちち、裕福ゆうふく幼少ようしょうごすが、おさなころ両親りょうしん離婚りこん典型てんけいてきなステージ・ママであるおもあね影響えいきょうからだっせねばならなかった。

ニューヨーク移住いじゅう、ニュートン・ハイスクール、クッシング・アカデミー・ハイスクールでは演技えんぎ・ダンスもまなんだ。最初さいしょはダンサーにあこがれていたが、高校こうこう時代じだいにダンスをめて俳優はいゆう目指めざした。

ロチェスターしょう劇団げきだん在籍ざいせきし、1928ねん巡業じゅんぎょう劇団げきだんであるプロヴィンスタウン・プレイヤーズのオフ・ブロードウェイ舞台ぶたい「Earth Between」にち、ニューヨーク進出しんしゅつたす。1929ねんに『Broken Dishes』でブロードウェイ舞台ぶたいデビューをかざる。

舞台ぶたい主演しゅえん女優じょゆうとして順調じゅんちょうなキャリアをんでいたが、舞台ぶたいかたわら、サミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストをけたが不合格ふごうかくとなる。のちにゴールドウィンは「彼女かのじょやとわなかったのは最大さいだい誤算ごさんであり間違まちがいであった」とべている。

やがて、映画えいが女優じょゆうみちえらんだデイヴィスは1931ねんユニヴァーサル映画えいがによってやとわれ、スター男優だんゆうコンラッド・ネイゲル英語えいごばんスペインばん主演しゅえん姉妹しまい小町こまち英語えいごばんフランス語ふらんすごばん』でスクリーン・デビューをたす。

ユニヴァーサル時代じだい作品さくひんめぐまれず、当時とうじのユニヴァーサル幹部かんぶより「スターの素質そしつはない」として解雇かいこにあうが、そのワーナー・ブラザースと7ねん専属せんぞく契約けいやくむすび、名優めいゆうジョージ・アーリス主演しゅえんの『The Man Who Played God』(1932)で注目ちゅうもくされ、49ねんまでのワーナーとの契約けいやく期間きかんだいスターとしての地位ちいをきずきあげることとなる。

転機てんき

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デイヴィスの転機てんき1934ねんおとずれる。ワーナーでは便利べんり使づかいの適当てきとうなヒロインやくじゅんヒロインやくあまんじていたが、自分じぶん女優じょゆうとしての運命うんめいえることとなった名匠めいしょうジョン・クロムウェル監督かんとくの『じんあい』(原作げんさくサマーセット・モームの『人間にんげんきずな』)と出逢であう。

当初とうしょ、この作品さくひん映画えいがされるにたり、ヒロインのなりまったくなかった。モームの自伝じでんてき小説しょうせつともえる『人間にんげんきずな』のヒロインであるミルドレッドは、それまでのえいべい文学ぶんがくえがかれることのかった人物じんぶつであり、史上しじょう最低さいてい最悪さいあくのヒロインとばれたほどの悪辣あくらつ女性じょせいぞうであった。

スター・システム全盛期ぜんせいきに、自分じぶんのイメージをわるくするようなやくえんじたがる女優じょゆうるはずもなく、ヒロインさがしは難航なんこうしたが、当時とうじワーナーに所属しょぞくしていたデイヴィスが、もなく不可ふかもない、便利べんり使づかいの適当てきとうなヒロインやくきたらず、これを転機てんき見定みさだめ、みずからミルドレッドやく志願しがんした。

しかし、専属せんぞく契約けいやくをしていたワーナーは、当時とうじ他社たしゃであるRKOの作品さくひんへの出演しゅつえんみとめず、デイヴィスはこれに対抗たいこうみずからのてつ意思いしつらぬいた。

ミルドレッドやくにした彼女かのじょにとって、もうひとつ幸運こううんだったのは、モームの分身ぶんしんえんじる共演きょうえんしゃイギリス名優めいゆう監督かんとくでもあるだいスター、レスリー・ハワードだったことである。非常ひじょう洗練せんれんされたハワードが相方あいかたまわったことにより、デイヴィスは一層いっそうてられ、演技えんぎ開眼かいがんしたとっても過言かごんではない。

じんあい』が全米ぜんべい公開こうかいされるやいなや、デイヴィスのにくらしいまでの強烈きょうれつ存在そんざいかん悪女あくじょぶりがだい評判ひょうばんとなり、批評ひひょう評論ひょうろん彼女かのじょ激賞げきしょうした。ただし、彼女かのじょにとって不運ふうんだったことは、当時とうじアカデミーしょうのシステムにもよるが、他社たしゃ映画えいがだい評判ひょうばんったことである。

これに気分きぶんがいしたワーナーのボス、ジャック・ワーナー露骨ろこつに、かつ意図いとてき彼女かのじょしにかかり、デイヴィスはオスカーにノミネートされなかった(だい7かいアカデミーしょう)。

これにおこったのはデイヴィスでもワーナーでもなく、RKOでもなかった。当時とうじおおくの新聞しんぶんのコラムで疑問ぎもんていされ、ファンや評論ひょうろん抗議こうぎしたのである。俳優はいゆう仲間なかまでは親友しんゆうジョーン・ブロンデル彼女かのじょ当時とうじおっと人気にんきスターのディック・パウエルらが率先そっせんして、抗議こうぎのアピールをした。

アカデミーの事務じむきょくには、電話でんわ電報でんぽうによる抗議こうぎ殺到さっとうし、収拾しゅうしゅうがつかないほど事態じたいおちいり、デモたいまでが登場とうじょう抗議こうぎ集会しゅうかいひらかれる寸前すんぜんところ、ノミネーション発表はっぴょう9にちにして、どのカテゴリーもノミネーションに関係かんけいなく、だれ投票とうひょうしてもかまわないというしき緊急きんきゅう措置そちがとられ、アカデミー会員かいいんがわ通達つうたつする羽目はめになったのである。

しかし、デイヴィスはオスカーを受賞じゅしょうすることはなかった。これはのちに「オスカー史上しじょうもっとおおきなあやまち」とばれ、いまなおアカデミーのなが歴史れきしかえじょうで、わすられることのい、かたがれるほど有名ゆうめいはなしである。

翌年よくねんに『青春せいしゅん抗議こうぎ』によってアカデミーしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとくするも、本人ほんにん不本意ふほんいであった。それは前年ぜんねん受賞じゅしょうできなかったことにたいする「同情どうじょうてきわせのオスカー」であったことは明白めいはくであり、「今年ことしわたしではなく『乙女おとめなげくな』のキャサリン・ヘプバーンが本当ほんとう受賞じゅしょうしゃ」と率直そっちょくかたった。

全盛期ぜんせいき

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くろらんおんな』の予告編よこくへんより(1938ねん

デイヴィスは『じんあい以後いご演技えんぎだい女優じょゆうへのみちあゆむこととなる。

1930年代ねんだいアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとくした『青春せいしゅん抗議こうぎ』(1935)、『くろらんおんな』(1938)をはじめ、ブロードウェイのヒットさく映画えいがにあたって、レスリー・ハワードや、悪役あくやく頭角とうかくあらわしたハンフリー・ボガート共演きょうえんした『化石かせきもり』(1936)、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい女優じょゆうしょう獲得かくとくした『ふだつきおんな』(1937)、悲劇ひげきてきなヒロインをえんじた『あい勝利しょうり』(1939)など、すうおおくの話題わだいさくがある。

40年代ねんだいはいってからも、不倫ふりん相手あいて平然へいぜん射殺しゃさつしながら、さめざめといてせる『月光げっこうおんな』(1940)でのヒロインや、リリアン・ヘルマン原作げんさくの『いつわりの花園はなぞの』(1941)の強欲ごうよく冷酷れいこくなレジーナやくなどでは凄味すごみし、わすれがたい名演技めいえんぎ披露ひろうしている。

ラインの監視かんし』(1943)のレジスタンス闘士とうしおっとささえる献身けんしんてきつまや、『情熱じょうねつ航路こうろ』(1943)でのロマンティックなヒロインやく印象深いんしょうぶかく、のち幾度いくどとなく、『情熱じょうねつ航路こうろ』の路線ろせんいだロマンス映画えいがつくられている。

また『小麦こむぎみどり英語えいごばんドイツばん』(1945)では、炭坑たんこうがいらすまずしい青年せいねん天才てんさいてき才能さいのう見出みいだ教師きょうしやくわすがたく、感動かんどうてき作品さくひんとなっている。

1969ねん、アメリカTIME発表はっぴょうした「アメリカの世紀せいき1930〜1940(This Fabulous Century)」では彼女かのじょについて2ページがかれており、その演技えんぎ才能さいのうしみない賛辞さんじおくっている。そのこうには「彼女かのじょえんじたやくは、どれもまぎれもなくベティ・デイヴィスなのだが、それでいてまったく性格せいかくちがやくするどいリアリティをってえんじた」としるされている。

1938ねんから1942ねんまで、主演しゅえん演技えんぎ部門ぶもんで5ねん連続れんぞくアカデミーしょうにノミネートされたのは、グリア・ガースンならび、アカデミーしょう史上しじょう空前くうぜん記録きろくである。

また、1941ねん10月には米国べいこく映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー(A.M.P.A.S)に女性じょせいとしてはじめて会長かいちょうだい9だい)に就任しゅうにんする。しかし事務じむきょく対立たいりつし、2かげつには退任たいにん

小麦こむぎみどり』(1945)以降いこうは、徐々じょじょにヒット作品さくひんめぐまれなくなるが、1949ねんにワーナー・ブラザースをはなれてからは、年齢ねんれいてきなこともあり、フリーの立場たちば仕事しごとつづけていくこととなる。

中年ちゅうねん後期こうき

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なにがジェーンにおこったか?』(1962ねん)

1950ねんふたた彼女かのじょ転機てんきおとずれた。

このとし背中せなか怪我けがしたクローデット・コルベール代役だいやくとして出演しゅつえんした『イヴのすべ』では、自身じしんのイメージを逆手さかてるかのように、ブロードウェイのだい女優じょゆうやくのマーゴ・チャニングをえんじ、圧倒的あっとうてき貫禄かんろくせ、カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい女優じょゆうしょうをはじめ、ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかい女優じょゆうしょうなどを獲得かくとくし、オスカーにもノミネートされた。彼女かのじょ演技えんぎ評論ひょうろんだい絶賛ぜっさんされ、映画えいがどおりのファンのあいだでは「マーゴ・チャニング」は悪女あくじょ代名詞だいめいしとなった。

1960ねん以降いこうは、『ポケットいちはい幸福こうふく』(1961)や、20年代ねんだい後期こうきから活躍かつやくしていたもとMGMだいスターであったジョーン・クロフォード共演きょうえんした、ロバート・アルドリッチ監督かんとく異色いしょくさくなにがジェーンにおこったか?』(1962)でも復活ふっかつつよ印象いんしょうけた。

とりわけ『なにがジェーンにこったか?』におけるデイヴィスの狂乱きょうらん演技えんぎすさまじく、映画えいがファンのみならず、業界ぎょうかいじん評論ひょうろんまでもが度肝どぎもかれた。過去かこ栄光えいこうけがすと周囲しゅうい反対はんたいもききいれず、彼女かのじょ強烈きょうれつなキャラクターのベイビー・ジェーン・ハドソンやく見事みごとつくげ、あえて醜悪しゅうあくなメイクをほどこした。それはひらなおりではなく、女優じょゆうとしてのくなき探求たんきゅうしんからであった。

これは、彼女かのじょのキャリアのなかでもとく重要じゅうよう作品さくひんである。50年代ねんだい以降いこう、あまり作品さくひんめぐまれていなかった本人ほんにんにとって起死回生きしかいせいだいヒットとなり、つづく『だれわたしころしたか?』(1964)、『ふるえてねむ』(1964)などで、さら一癖ひとくせある独特どくとく性格せいかく女優じょゆうとしての真価しんか発揮はっきする。

とくに『ふるえてねむれ』では、ふたたびアルドリッチ監督かんとくが、クロフォードとの共演きょうえん企画きかくすすめていたが、共演きょうえんしゃ演技えんぎめい女優じょゆうオリヴィア・デ・ハヴィランド変更へんこうされた。この経緯けいい後述こうじゅつする。(人柄ひとがら人物じんぶつこう参照さんしょう

70年代ねんだいにもデイヴィスは積極せっきょくてき幅広はばひろ分野ぶんや活動かつどうし、アガサ・クリスティの『ナイル殺人さつじん事件じけん (1978ねん映画えいが)』(1978)では、コメディ・リリーフてき役柄やくがらかいえんじしている。

1979ねんにはTVのミニ・シリーズ『Strangers:The Story of a Mother and Daughter』でエミーしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとくした。

さい晩年ばんねん

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の2ねんまえ、48ねんまえに『あい勝利しょうり』で共演きょうえんした大統領だいとうりょうロナルド・レーガンとともに(1987ねん

デイヴィスは1980年代ねんだいはいってからも精力せいりょくてき映画えいがやTVで活躍かつやくし、TVショーにも数多かずおお出演しゅつえんしている。

1981ねんキム・カーンズがデイヴィスを題材だいざいにしたジャッキー・デシャノンのきょくベティ・デイビスのひとみ」をカバーし、全米ぜんべいチャートで9週間しゅうかんだい1という記録きろくてきだいヒットとなった。そのほか8かこくで1記録きろくし、グラミーしょう最優秀さいゆうしゅう楽曲がっきょくしょう最優秀さいゆうしゅうレコードしょう受賞じゅしょうした。

1987ねんたましい叙事詩じょじしぶにふさわしい作品さくひんとなった『はちがつくじら』ではサイレントから活躍かつやくしていためい女優じょゆうリリアン・ギッシュ姉妹しまいやく共演きょうえんし、世界中せかいじゅうたか評価ひょうか映画えいがもロングラン・ヒットとなり、オールド・ファンのみならず、おおくの観客かんきゃく感動かんどうさせた。

1989ねん、フランス・パリ近郊きんこうオー=ド=セーヌけんヌイイ=シュル=セーヌのアメリカン病院びょういん転移てんいせい乳癌にゅうがんのため死去しきょ、81さいぼつ

人柄ひとがら人物じんぶつ

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身長しんちょう160cmと小柄こがらながらエネルギッシュで、辛辣しんらつでブラック・ユーモアをまじえた発言はつげんおおく、ジョーン・クロフォードについては「彼女かのじょ使つかったのち便座べんざだけにはすわりたくない」と発言はつげんしたことはあまりにも有名ゆうめい。また、前述ぜんじゅつした『ふるえてねむれ』のキャスティングにあたり、ジョーン・クロフォードとの共演きょうえん拒絶きょぜつし「ペプシ・コーラのセールス・ウーマンと共演きょうえんするなんてぴらごめん」と発言はつげんし、彼女かのじょ降板こうばんさせた経緯けいいがある。

また、後輩こうはいだいスターであるスーザン・ヘイワード撮影さつえい遅刻ちこくをしようものなら、カツラをげつけたりするなど、非常ひじょうつよいことで有名ゆうめいなヘイワードをもかせるほどであった。

わたしおな演技えんぎなどはいちたりともしたことはないから、こわいものなどはない」とう有名ゆうめい発言はつげんであるが、もっと有名ゆうめい発言はつげん男性だんせい優位ゆうい社会しゃかいのハリウッドや男性だんせい女性じょせい社会しゃかいてき地位ちい格差かくさ痛烈つうれつ批判ひはんした「おとこがやると尊敬そんけいされる。おんながやるときらわれる」であろう。

のちアメリカン・ニューシネマや、ウィメンズ・リブ台頭たいとう1970年代ねんだい復活ふっかつした「女性じょせい映画えいが」のヒロインとして活躍かつやくしたフェイ・ダナウェイジェーン・フォンダらが、時代じだいわってもハリウッドはわらず「ボーイズ・タウン」であることを皮肉ひにくった自分じぶんたちの発言はつげんにおいても、しばしばこのデイヴィスの発言はつげん引用いんようしている。

また、業界ぎょうかいデイリー・ヴァラエティ広告こうこくらんにわざと「しょくもとむ」と実名じつめい仕事しごと募集ぼしゅう広告こうこくすなど、ジョークもきで茶目ちゃめもあった。 強烈きょうれつ個性こせい武器ぶきにハリウッドをサバイバルした彼女かのじょであるが、ハリウッドのみならず、世界せかいてき尊敬そんけいされた「しん女優じょゆう」という意味いみで、彼女かのじょ唯一ゆいいつ無二むに個性こせいわせたるいまれなる女優じょゆうであることは間違まちがいなく、その評価ひょうかるぎない。

悪女あくじょやくのイメージがつよいが、出演しゅつえん作品さくひん通覧つうらんすると役柄やくがら非常ひじょう幅広はばひろい。ワーナーでの「半分はんぶん天使てんし半分はんぶん妖婦ようふ、そしてすべてが女性じょせい」というキャッチ・フレーズどおり、悪魔あくまのような人物じんぶつぞうから、情熱じょうねつてきやくから可憐かれんうつくしい女性じょせいにくらしいおんなから、見張みはるほどうつくしく可愛かわい女性じょせいぞう地味じみ目立めだたないような人物じんぶつや、苦悩くのう色濃いろこやく薄幸はっこう人物じんぶつまでイメージをことごとくえてせることの出来でき才能さいのうぬしであり、女王じょおうやくなどはうにおよばずというところであった。

1930年代ねんだい、それまで男性だんせいスターを中心ちゅうしんうごいていたボーイズ・タウンのハリウッドは軌道きどう修正しゅうせいせまられた。女性じょせいきゃく圧倒的あっとうてき増加ぞうかにより、女性じょせい積極せっきょくてき主人公しゅじんこう起用きようする、「女性じょせい映画えいが」の制作せいさくせまられた。かざものではなく、男優だんゆうるパワーのある女性じょせいスターがのぞまれた。そんな時代じだい登場とうじょうしたのがベティ・デイヴィス、直後ちょくごにはキャサリン・ヘプバーンであった。

彼女かのじょ女優じょゆういやがるようやく尻込しりごみするやく積極せっきょくてきえんじ、迫真はくしん名演技めいえんぎ観客かんきゃくをスクリーンに釘付くぎづけにした。「フィルムのファースト・レディ」("The First Lady of the American Screen") とばれるゆえんである。

俳優はいゆうゲイリー・メリルなどとの4結婚けっこんれきがあるが、実子じっしは3度目どめ結婚けっこん相手あいてである芸術げいじゅつのウィリアム・グラント・シェリーとのあいだまれたむすめのバーバラのみである。

自伝じでんは2さつあり、『This N That』、『Betty Davis, The Lonely Life』という著書ちょしょみずかしるしている。

バーバラはははであるデイヴィスが主演しゅえんした『なにがジェーンにおこったか?』に隣家りんかむすめやく出演しゅつえんしており、デイヴィスの死後しごには、ははむすめとしては常識じょうしきから逸脱いつだつした苦悩くのう生活せいかつ赤裸々せきらら告白こくはくした暴露ばくろてき要素ようそい「My Mother's Keeper」を出版しゅっぱんし、全米ぜんべいおおきな話題わだいとなった。

デイヴィスは、彼女かのじょ主演しゅえんさく監督かんとくしたウィリアム・ワイラーあいしていた[1]とされるが、真偽しんぎのほどはさだかではない。

AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)は、1977ねん女性じょせいとしてはつ生涯しょうがい功労賞こうろうしょう授与じゅよ[2]、そしてまた1999ねんに「もっと偉大いだい女優じょゆう50にん」のだい2選出せんしゅつしている。また、AFIが選出せんしゅつした「100にんのヒーロー・ヒロインと悪者わるものたち」のなかで、フェイ・ダナウェイとならび2作品さくひんえらばれている。だい33の『いつわりの花園はなぞの』(1941)でのレジーナ・ギデンズやくと、だい34なにがジェーンにこったか?』(1962)のベイビー・ジェーン・ハドソンやくである。

2007ねんべい郵政ゆうせい公社こうしゃはデイヴィス生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねん切手きって発行はっこうした[3]

逸話いつわ

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スクリーン・デビューまえ、デイヴィスがハリウッドに到着とうちゃくしたとき、えきまで出迎でむかえにったユニヴァーサル映画えいがのスタジオ代表だいひょうは、どの映画えいがスターにもていないおおきなひとみ個性こせいてき顔立かおだちに、ついに彼女かのじょさがしあぐねてかえってしまったという。

デイヴィスが2度目どめのアカデミーしょう受賞じゅしょうした『くろらんおんな』(1938)の、意志いしつよ我儘わがまま独善どくぜんてき女性じょせいぞうには、『ふうともりぬ』(1939)のヒロインであるスカーレット・オハラとの共通きょうつうてんがある。もとよりそれをつよ意識いしきして制作せいさくされた映画えいがであった。

デイヴィスはスカーレットやく有力ゆうりょく候補こうほ1人ひとりであったものの、映画えいがのプロデューサーであったデヴィッド・O・セルズニックが、スカーレット・フィーバーこし、あくまでもセンセーショナルでインパクトのある主演しゅえん女優じょゆう妥協だきょうせずにさがつづけており、撮影さつえい開始かいし時点じてんでも、ヒロインは正式せいしきまらなかった。 また、デイヴィスはワーナーのだいスターでもあるエロール・フリン共演きょうえんしゃ指名しめいしたため、やくうしな羽目はめになった。そのため、デイヴィスはスカーレットやくられなかったために、それに似通にかよったやくさきんじてえんじることで、オスカーを意識いしきしたとわれている。

なにがジェーンにおこったか?』(1962)によりだい35かいアカデミーしょうではデイヴィスは主演しゅえん女優じょゆうしょうにノミネートされたが、せんかられたジョーン・クロフォードが、デイヴィスの受賞じゅしょうへの反対はんたい運動うんどうおこなった[4][5]。また、どうしょう授賞じゅしょうしきにクロフォードは「監督かんとくしょうのプレゼンターやく」で出演しゅつえんし、さらに、演劇えんげき出演しゅつえんちゅうであって授賞じゅしょうしき出演しゅつえんできなかった、主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしゃアン・バンクロフト(『奇跡きせきひと』で受賞じゅしょう)の代理人だいりにんとして、オスカーぞうにした[4][6]

なお、2017ねん放送ほうそうされたテレビシリーズ『フュード/確執かくしつ ベティ vs ジョーン』では、デイヴィスとクロフォードとの対立たいりつする人生じんせいえがかれ、スーザン・サランドンがデイヴィスやくえんじた。

記録きろく

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1963ねんまでにアカデミーしょうに11かいノミネートされたのも空前くうぜん記録きろくであった(生涯しょうがいノミネート10かい記載きさいされることがおおいが現在げんざいは「じんあい」のノミネーションが映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミーからみとめられており、11かいただしい)。

キャサリン・ヘプバーンがデイヴィスの記録きろく1982ねん更新こうしんするまで、デイヴィスが史上しじょう最多さいた候補こうほ記録きろく保持ほじしていた。そのメリル・ストリープがさらに最多さいた候補こうほ記録きろく更新こうしんしている(20かい2017ねん1がつ31にち現在げんざい)。

おも出演しゅつえん作品さくひん

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公開こうかいねん 邦題ほうだい
原題げんだい
役名やくめい 備考びこう
1931 母性ぼせい
Seed
マーガレット・カーター
ウォタルウきょう
Waterloo Bridge
ジャネット
1932 なつかしき故里ふるさと
Way Back Home
メアリー・ルーシー
はは
So Big!
ダラス・オマラ
あかつき耕地こうち
The Cabin in the Cotton
マグダ・ノーウッド
歩道ほどうさんにんおんな
Three on a Match
ルース 杉田すぎた郁子いくこ
はるなきまんねん
20,000 Years in Sing Sing
フェイ・ウィルソン
1933 落下傘らっかさん
Parachute Jumper
パトリシア・ブレント(アラバマ)
失踪しっそうしゃさんまんにん
Bureau of Missing Persons
ノーマ・ロバーツ
1934 めりけん商売しょうばい
The Big Shakedown
ノーマ・ネルソン
流行りゅうこう王様おうさま
Fashions of 1934
リン・メイソン
じんあい
Of Human Bondage
ミルドレッド・ロジャース
1935 国境こっきょうまち
Bordertown
マリー 平井ひらい道子みちこ
特高警察とっこうけいさつ
Special Agent
ジュリー・ガードナー
青春せいしゅん抗議こうぎ
Dangerous
ジョイス アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
1936 化石かせきもり
The Petrified Forest
ガブリエル 杉田すぎた郁子いくこ
マルタのたか
Satan met a lady
ヴァレリー・パーヴィス
1937 ふだつきおんな
Marked Woman
メアリー
たおれるまで
Kid Galahad
ルイーズ・フィリップス
あるおんな
That Certain Woman
メアリー
恋愛れんあい合戦かっせん
It's Love I'm After
ジョイス・アーデン
1938 くろらんおんな
Jezebel
ジュリー・マースデン アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう 杉田すぎた郁子いくこ
黄昏たそがれ
The Sisters
ルイーズ
1939 あい勝利しょうり
Dark Victory
ジュディス・トレハーン アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 杉田すぎた郁子いくこ
革命かくめいファレス
Juarez
カルロッタ皇后こうごう 花形はながた恵子けいこ
女王じょおうエリザベス
The Private Lives of Elizabeth and Essex
エリザベス1せい 杉田すぎた郁子いくこ
1940 すべてこの天国てんごく
All This, and Heaven Too
ヘンリエッタ(アンリエット) 花形はながた恵子けいこ
月光げっこうおんな
The Letter
レスリー アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 杉田すぎた郁子いくこ
1941 偉大いだいうそ
The Great Lie
マギー
いつわりの花園はなぞの
The Little Foxes
レジーナ・ギデンス アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 瀬能せのう令子れいこ
1942 晩餐ばんさんおとこ
The Man Who Came to Dinner
マギー 杉田すぎた郁子いくこ
追憶ついおくおんな
In This Our Life
スタンリー・ティンバーレイク・キングスミル 森田もりた育代いくよ
情熱じょうねつ航路こうろ
Now, Voyager
シャーロット アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ
1943 ラインの監視かんし
Watch on the Rhine
サラ・ミュラー 杉田すぎた郁子いくこはやし洋子ようこ
旧友きゅうゆう
Old Acquaintance
キット・マーロウ 杉田すぎた郁子いくこ
1944 ハリウッド玉手箱たまてばこ
Hollywood Canteen
本人ほんにんやく
あい終幕しゅうまく

Mr. Skeffington

ファニー・トレリス・スケフィントン アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 杉田すぎた郁子いくこ
1945 小麦こむぎみどり
The Corn Is Green
リリー・モファット
1946 ぬすまれた青春せいしゅん
A Stolen Life
ケイト・ボスワース/パトリシア・ボスワース たに育子いくこ
愛憎あいぞうきょく
Deception
クリスティーン たに育子いくこ
1948 幸福こうふくへの招待しょうたいじょう
Winter Meeting
スーザン
花嫁はなよめぶし
June Bride
リンダ・ギルマン
1949 もり彼方かなた
Beyond the Forest
ローズ 此島愛子あいこ
1950 イヴのすべ
All About Eve
マーゴ・チャニング カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう・アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 奈良岡ならおか朋子ともこ(NET)ばん
1951 黄昏たそがれまど
Payment on Demand
ジョイス・ラムセイ 杉田すぎた郁子いくこ
1952 The Star マーガレット・エリオット アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ
1955 ヴァージン・クイーン
The Virgin Queen
エリザベス1せい
1959 大海おおうみ戦史せんし
John Paul Jones
エカチェリーナ2せい 北原きたはら文枝ふみえ
1961 ポケットいちはい幸福こうふく
Pocketful of Miracles
アップル・アニー 北林きたばやしたにさかえ(NETばん),初井はついげんさかえ(NHKばん)
1962 なにがジェーンにおこったか?
What Ever Happened to Baby Jane?
ジェーン・ハドソン アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう候補こうほ 北林きたばやしたにさかえ
1963 きんじられた抱擁ほうよう
The Empty Canvas
ディノの母親ははおや
1964 だれわたしころしたか?
Dead Ringer
マーガレット・デ・ロルカ/イーディス・フィリップス 北林きたばやしたにさかえ
あいよいずこへ
Where Love Has Gone
ゲラルド・ハイデン夫人ふじん
ふるえてねむ
Hush... Hush, Sweet Charlotte
奈良岡ならおか朋子ともこ
1965 妖婆のいえ
The Nanny
ナニー 鈴木すずき光枝みつえ
1968 残酷ざんこく記念きねん
The Anniversary
タガート夫人ふじん
1971 原潜げんせんポラリスSOS
Madame Sin
マダム・シン 岩崎いわさき根子ねっこ
1972 くろ薔薇ばらおんな
The Judge and Jake Wyler
メレディス テレビ映画えいが
1976 いえ
Burnt Offerings
エリザベス 高村たかむら章子あきこ
1978 ぞくほしくにから仲間なかま
Return from Witch Mountain
ナイル殺人さつじん事件じけん
Death on the Nile
ヴァン・スカイラー おおとり八千代やちよ
1980 のろわれたもり
The Watcher in the Woods
アイルウッド夫人ふじん こうむら俊子としこ
1982 チミノ夫人ふじんのピアノ(NHK 放送ほうそうタイトル「とおみち」)
A Piano for Mrs. Cimino
エスター・マクドナルド・チミノ テレビ映画えいが ぶん朋子ともこ
1983 幸福こうふく選択せんたく
Right of Way
ミニ・ドワイヤー テレビ映画えいが
1985 ミス・マープル/魔術まじゅつ殺人さつじん
Murder with Mirrors
キャリー テレビ映画えいが
1986 ジョージアのあつふう
As Summers Die
ハンナ・ロフティン テレビ映画えいが
1987 はちがつくじら
The Whales of August
リビー・ストロング 京田きょうだ尚子しょうこ
1989 おばあちゃんは魔女まじょ
Wicked Stepmother
ミランダ

受賞じゅしょうれき

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しょう とし 部門ぶもん 候補者こうほしゃ 結果けっか
アカデミーしょう 1935ねん[7] 主演しゅえん女優じょゆうしょう 青春せいしゅん抗議こうぎ 受賞じゅしょう
1938ねん[8] くろらんおんな 受賞じゅしょう
1939ねん[9] あい勝利しょうり ノミネート
1940ねん[10] 月光げっこうおんな ノミネート
1941ねん[11] いつわりの花園はなぞの ノミネート
1942ねん[12] 情熱じょうねつ航路こうろ ノミネート
1944ねん[13] あい終焉しゅうえん ノミネート
1950ねん[14] イヴのすべ ノミネート
1952ねん[15] The Star ノミネート
1962ねん[16] なにがジェーンにおこったか? ノミネート
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 1951ねん 女優じょゆうしょう 『イヴのすべて』 受賞じゅしょう

参照さんしょう

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  1. ^ Chandler, Charlotte (2006). The Girl Who Walked Home Alone : Bette Davis, A Personal Biography. Simon and Schuster. pp. p 121. ISBN 978-0-7432-6208-8 
  2. ^ Sikov (2007), p 405
  3. ^ べい郵政ゆうせい公社こうしゃ映画えいが女優じょゆうベティ・デービスの切手きって発売はつばい 国際こくさいニュース : AFPBB News
  4. ^ a b Considine「Bette and Joan: The Divine Feud」
  5. ^ 川本かわもと三郎さぶろう『アカデミーしょう』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ)P.94
  6. ^ 川本かわもと三郎さぶろう『アカデミーしょう』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ)P.96-98
  7. ^ The 8th Academy Awards (1936) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ The 11th Academy Awards (1939) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ The 12th Academy Awards (1940) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  10. ^ The 13th Academy Awards (1941) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ The 14th Academy Awards (1942) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  12. ^ The 15th Academy Awards (1943) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2013ねん10がつ12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  13. ^ The 17th Academy Awards (1945) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2014ねん3がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  14. ^ The 23rd Academy Awards (1951) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2013ねん12月24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  15. ^ The 25th Academy Awards (1953) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  16. ^ The 35th Academy Awards (1963) Nominees and Winners”. 映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー. 2012ねん2がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Sikov, Ed (2007). Dark Victory: The Life of Bette Davis. Henry Holt and Company. ISBN 0-8050-7548-8 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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