デイム・オリヴィア・メアリー・デ・ハヴィランド (Dame Olivia Mary de Havilland, DBE、[əˈlɪviə də ˈhævɪlənd] 、1916年 ねん 7月 がつ 1日 にち - 2020年 ねん 7月 がつ 26日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の女優 じょゆう 。
女優 じょゆう としてのキャリア初期 しょき には清純 せいじゅん な娘 むすめ 役 やく を演 えん じることが多 おお かったが、キャリア後期 こうき には存在 そんざい 感 かん のある重厚 じゅうこう な役柄 やくがら を演 えん じている[1] 。デ・ハヴィランドはイギリス人 じん の両親 りょうしん の間 あいだ に日本 にっぽん で生 う まれた。妹 いもうと のジョーン・フォンテイン も日本 にっぽん の生 う まれで、デ・ハヴィランドと同 おな じく女優 じょゆう の道 みち に進 すす んでいる。デ・ハヴィランドの家系 かけい は、イギリス王室 おうしつ の祖 そ にあたるノルマンディー公 こう ギヨーム2世 せい (ウィリアム1世 せい )と共 とも にノルマン・コンクエスト に加 くわ わったノルマン人 じん のド・アヴィル (de Haville) にさかのぼる[2] 。1919年 ねん に一家 いっか は日本 にっぽん を離 はな れて故国 ここく イギリスへと向 む かったが、旅 たび の途中 とちゅう で姉妹 しまい が病 やまい にかかったため滞在 たいざい 中 ちゅう のカリフォルニア に、母子 ぼし だけがそのまま移住 いじゅう した。
デ・ハヴィランドが出演 しゅつえん した映画 えいが のなかでもっとも有名 ゆうめい な作品 さくひん として『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』(1939年 ねん )が挙 あ げられる。映画 えいが 作品 さくひん ではエロール・フリン の相手 あいて 役 やく を演 えん じることが多 おお く、『ロビンフッドの冒険 ぼうけん 』(1938年 ねん )、『無法者 むほうもの の群 ぐん (en:Dodge City )』(1939年 ねん )、『カンサス騎兵隊 きへいたい 』(1940年 ねん )、『壮烈 そうれつ 第 だい 七 なな 騎兵隊 きへいたい 』(1941年 ねん )など、8作品 さくひん で共演 きょうえん している。
デ・ハヴィランドは『遥 はる かなる我 わ が子 こ 』(1946年 ねん )と『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』(1949年 ねん )で、アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を2度 ど 受賞 じゅしょう している。妹 いもうと のジョーン・フォンテインも『断崖 だんがい 』(1941年 ねん )でアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう しており、2013年 ねん 現在 げんざい 時点 じてん でアカデミー主演 しゅえん 賞 しょう を獲得 かくとく した唯一 ゆいいつ の兄弟 きょうだい 姉妹 しまい となっている。アカデミー賞 しょう のほかにデ・ハヴィランドは『蛇 へび の穴 あな 』(1948年 ねん )でナショナル・ボード・オブ・レビュー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ナストロ・ダルジェント賞 しょう 最優秀 さいゆうしゅう 外国 がいこく 女優 じょゆう 賞 しょう 、ヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう している。また、ゴールデングローブ賞 しょう では『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』(1949年 ねん )で主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ドラマ部門 ぶもん ) を、『アナスタシア/光 ひかり ・ゆらめいて 』(1986年 ねん )で助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ミニシリーズ・テレビ映画 えいが 部門 ぶもん )をそれぞれ受賞 じゅしょう している。1960年 ねん には、それまでの映画 えいが 界 かい への貢献 こうけん が讃 たた えられてハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム にプレートが設置 せっち された。2008年 ねん には当時 とうじ のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう ジョージ・W・ブッシュ から、芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや の顕彰 けんしょう としてはアメリカ最高 さいこう 位 い の国家 こっか 芸術 げいじゅつ メダル (en:National Medal of Arts ) が贈 おく られている[3] 。2017年 ねん 6月 がつ 、史上 しじょう 最 さい 高齢 こうれい の101歳 さい で大 だい 英 えい 帝国 ていこく 勲章 くんしょう (DBE)を受章 じゅしょう した[4] 。2020年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、パリの自宅 じたく で亡 な くなった[5] [6] [7] [8] 。『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の主要 しゅよう な出演 しゅつえん 者 しゃ のうち、上映 じょうえい 当時 とうじ 成人 せいじん していた最後 さいご の存命 ぞんめい 者 しゃ であった(子役 こやく を含 ふく むとボー・ウィルクス役 やく のミッキー・カーン が2022年 ねん 11月20日 にち まで存命 ぞんめい で、カーンの死去 しきょ により同 どう 作 さく の主要 しゅよう な出演 しゅつえん 者 しゃ が全員 ぜんいん この世 よ を去 さ った)。
オリヴィア・デ・ハヴィランドは、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1916年 ねん 7月 がつ 1日 にち に日本 にっぽん の東京 とうきょう (現在 げんざい の東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く )で、イギリス人 じん の両親 りょうしん の間 あいだ に生 う まれた。
父親 ちちおや のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年 ねん 8月 がつ 31日 にち - 1968年 ねん 5月 がつ 23日 にち )はケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく 出身 しゅっしん で、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく の英語 えいご 教授 きょうじゅ として日本 にっぽん に招 まね かれていたとされているが異説 いせつ がある(「ジョーン・フォンテイン#幼少 ようしょう 期 き 」参照 さんしょう )。いずれにしても後 のち にウォルターは、日本 にっぽん での経験 けいけん を活 い かして特許 とっきょ 弁護士 べんごし となっている[9] 。
母親 ははおや のリリアン・オーガスタ(1886年 ねん 6月 がつ 11日 にち - 1975年 ねん 2月 がつ 20日 はつか )は[10] [11] 、ロンドンの王立 おうりつ 演劇 えんげき 学校 がっこう 出身 しゅっしん で、夫 おっと ウォルターと来日 らいにち する前 まえ には舞台 ぶたい 女優 じょゆう をしていた[9] 。リリアンは、娘 むすめ たちが1940年代 ねんだい に女優 じょゆう として成功 せいこう を収 おさ めた後 のち に「リリアン・フォンテイン」という芸名 げいめい で、再 ふたた び舞台 ぶたい 女優 じょゆう に復帰 ふっき している。
オリヴィアの父方 ちちかた の従兄 じゅうけい ジェフリー・デ・ハヴィランド (en:Geoffrey de Havilland ) は、イギリス空軍 くうぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き デ・ハヴィランド・モスキート の設計 せっけい を担当 たんとう したことで有名 ゆうめい で[12] 、後 のち に航空機 こうくうき メーカーであるデ・ハヴィランド・エアクラフト の創始 そうし 者 しゃ となった人物 じんぶつ である。また、オリヴィアの父方 ちちかた の祖母 そぼ はチャンネル諸島 しょとう のガーンジー 出身 しゅっしん だった[13] [14] 。
舞台劇 ぶたいげき 『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス』に出演 しゅつえん したときのオリヴィア・デ・ハヴィランド。1933年 ねん 。
オリヴィアの両親 りょうしん は1914年 ねん に結婚 けっこん したが、ウォルターが浮気 うわき がちな男性 だんせい だったために、二人 ふたり の結婚 けっこん 生活 せいかつ は必 かなら ずしも幸福 こうふく とはいえなかった[15] 。オリヴィアの妹 いもうと で、後 のち に女優 じょゆう ジョーン・フォンテイン となるジョーン・デ・ハヴィランドが生 う まれたのは1917年 ねん 10月 がつ 22日 にち だった。オリビアが後年 こうねん 語 かた ったところによれば、1918年 ねん の夏 なつ 、軽井沢 かるいざわ の別荘 べっそう に母 はは 娘 むすめ で滞在 たいざい 中 ちゅう のこと[注 ちゅう 1] 、母 はは リリアンがある宣教師 せんきょうし の妻 つま から「あなたの夫 おっと が東京 とうきょう で女中 じょちゅう と浮気 うわき をしているようだ」という話 はなし を聞 き いた[16] 。そこで母 はは は東京 とうきょう に戻 もど って女中 じょちゅう 部屋 へや に入 はい ると、案 あん の定 じょう 夫 おっと ウォルターの私物 しぶつ があった。そのときから彼 かれ らの結婚 けっこん 生活 せいかつ の絶望 ぜつぼう 的 てき な運命 うんめい は決定 けってい づけられていたという[16] 。なお、オリヴィアが何 なん 十 じゅう 年 ねん も後 のち になって父 ちち ウォルターにこのことについて聞 き いたところ、父 ちち はその一連 いちれん の出来事 できごと を知 し らなかった様子 ようす で、困惑 こんわく しながらも当時 とうじ の記憶 きおく を思 おも い起 お こし「諜報 ちょうほう 機関 きかん にいる古 ふる い友人 ゆうじん に彼女 かのじょ (女中 じょちゅう )を匿 かくま って欲 ほ しいと頼 たの まれたのだ」と話 はな した[16] 。オリヴィアはそれを聞 き き、父 ちち は嘘 うそ を付 つ いていないと感 かん じたといい、両親 りょうしん の離婚 りこん の原因 げんいん は父 ちち の浮気 うわき ではなく、ただの誤解 ごかい から始 はじ まった気持 きも ちのすれ違 ちが いだったと信 しん じているという[16] 。
1919年 ねん 2月 がつ に、母 はは リリアンは病弱 びょうじゃく だった娘 むすめ たちには東京 とうきょう の気候 きこう があっていないのではないかと考 かんが え、ウォルターを説得 せっとく して一家 いっか はイギリスへと戻 もど ることを決 き めた[15] 。イギリスへ戻 もど る途中 とちゅう にオリヴィアが気管支炎 きかんしえん となり、高熱 こうねつ で倒 たお れたために一家 いっか はカリフォルニアにしばらく滞在 たいざい している。その後 ご ジョーンも肺炎 はいえん に罹患 りかん したために、リリアンは二 に 人 にん の娘 むすめ とカリフォルニアに残 のこ る決断 けつだん をし、サンフランシスコから50マイルほど離 はな れたサラトガ に移 うつ り住 す んだ。しかしながら父 ちち ウォルターは家族 かぞく を見捨 みす てて、後 のち に結婚 けっこん することとなる日本人 にっぽんじん 家政 かせい 婦 ふ とともに日本 にっぽん へ戻 もど っていった[15] 。オリヴィアの両親 りょうしん はその後 ご 別居 べっきょ 生活 せいかつ となったが、二人 ふたり が正式 せいしき に離婚 りこん したのは1925年 ねん 2月 がつ になってからだった[17] 。
母 はは リリアンは女優 じょゆう をやめてかなりの年月 としつき が経 た っていたために専門 せんもん 的 てき な知識 ちしき も忘 わす れかけていたが、娘 むすめ たちにシェイクスピアを読 よ み聞 き かせて芸術 げいじゅつ に対 たい する知識 ちしき を教 おし え込 こ み[注 ちゅう 2] 、ほかに音楽 おんがく や弁論 べんろん 術 じゅつ なども娘 むすめ たちに学 まな ばせた[18] 。1925年 ねん 4月 がつ にウォルターとの間 あいだ に正式 せいしき に離婚 りこん が成立 せいりつ すると、リリアンは百貨店 ひゃっかてん の経営 けいえい 者 しゃ ジョージ・M・フォンテインと再婚 さいこん した。ジョージは厳格 げんかく な人物 じんぶつ で、義 よし 娘 むすめ となったオリヴィアとジョーンを厳 きび しくしつけようとしたためにオリヴィアとジョーンはジョージに敵意 てきい を抱 いだ くようになった。また年子 としご だったオリヴィアとジョーンも仲 なか が悪 わる くなり、この二人 ふたり の不仲 ふなか は生涯 しょうがい 続 つづ いている[19] 。
デ・ハヴィランドはベルモントのノートルダム高校 こうこう (Notre Dame High School ) とロス・ガトス高校 こうこう (en:Los Gatos High School ) で学 まな んだ[20] [21] [注 ちゅう 3] 。高校生 こうこうせい 時代 じだい のデ・ハヴィランドは口 くち が達者 たっしゃ なフィールド・ホッケーが得意 とくい な少女 しょうじょ で、高校 こうこう では演劇 えんげき 部 ぶ に所属 しょぞく していた[22] 。1933年 ねん にデ・ハヴィランドは、ルイス・キャロル の小説 しょうせつ を原作 げんさく とした、地域 ちいき 素人 しろうと 劇団 げきだん の公演 こうえん 『不思議 ふしぎ の国 くに のアリス 』の主役 しゅやく アリス で初 はつ 舞台 ぶたい を踏 ふ んだ[22] 。後 のち にデ・ハヴィランドはこの舞台 ぶたい のことを次 つぎ のように振 ふ り返 かえ っている。
自分 じぶん と演 えん じている役 やく どころが一心 いっしん 同体 どうたい に感 かん じられるという、なんとも不思議 ふしぎ な体験 たいけん をした最初 さいしょ の日 ひ でした。そのときの私 わたし はアリスそのものであり、舞台 ぶたい を動 うご く私 わたし は魅力 みりょく にあふれたアリスの不思議 ふしぎ の国 くに を本当 ほんとう に歩 ある いていました。この体験 たいけん 以来 いらい 、私 わたし は演技 えんぎ を楽 たの しむだけでなく愛 あい することができるようになったのです[22] 。
1934年 ねん に高校 こうこう を卒業 そつぎょう したデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場 げきじょう で上演 じょうえん されるシェイクスピア原作 げんさく の戯曲 ぎきょく 『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ 』の妖精 ようせい パック役 やく の出演 しゅつえん 依頼 いらい を受 う けた[22] 。この年 とし の夏 なつ 、オーストリア人 じん 演出 えんしゅつ 家 か マックス・ラインハルト がハリウッド・ボウル で『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ 』を上演 じょうえん するためにカリフォルニアを訪 おとず れていた。ラインハルトの助手 じょしゅ が偶然 ぐうぜん にデ・ハヴィランドの演技 えんぎ を観 み て興味 きょうみ を抱 いだ き、そのことを聞 き いたラインハルトが自身 じしん が監督 かんとく する『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ 』の主役 しゅやく ハーミアの代役 だいやく にデ・ハヴィランドを指名 しめい した[23] 。そしてラインハルトの『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ 』が開幕 かいまく する一 いち 週間 しゅうかん 前 まえ に、ハーミア役 やく の女優 じょゆう が映画 えいが の撮影 さつえい のためにカリフォルニアを離 はな れてしまったために、代役 だいやく のデ・ハヴィランドがハーミアを演 えん じることとなった。初日 しょにち の公演 こうえん でデ・ハヴィランドの演技 えんぎ は好評 こうひょう を博 はく し、その後 ご の4週間 しゅうかん にわたる巡業 じゅんぎょう 公演 こうえん でデ・ハヴィランドはハーミアを演 えん じ続 つづ けた[23] 。この巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう にラインハルトは映画 えいが 会社 かいしゃ ワーナー・ブラザース から、ラインハルトの舞台 ぶたい 版 ばん 『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ 』の映画 えいが 化 か が決 き まったという知 し らせを受 う け、ラインハルト自身 じしん が映画 えいが 監督 かんとく を担当 たんとう することとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台 ぶたい 版 ばん と同様 どうよう にこの映画 えいが でもハーミア役 やく での出演 しゅつえん 依頼 いらい を申 もう し出 で た。当時 とうじ のデ・ハヴィランドは英語 えいご 教師 きょうし になるつもりで[23] 、秋 あき には奨学 しょうがく 金 きん を得 え てミルズ大学 だいがく に入学 にゅうがく することが決 き まっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドを説 と き伏 ふ せて映画 えいが 出演 しゅつえん を承諾 しょうだく させている。そして18歳 さい のデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザースとの8年間 ねんかん の出演 しゅつえん 契約 けいやく 書 しょ にサインした[24] 。
女優 じょゆう としてのキャリア[ 編集 へんしゅう ]
スタジオで撮影 さつえい された宣 せん 材 ざい 写真 しゃしん 。1938年 ねん 。
デ・ハヴィランドは1935年 ねん 10月 がつ に公開 こうかい された、マックス・ラインハルトの監督 かんとく 作品 さくひん 『真夏 まなつ の夜 よる の夢 ゆめ (en:A Midsummer Night's Dream )』で映画 えいが デビューした。その後 ご もコメディアンのジョー・E・ブラウン (en:Joe E. Brown ) 主演 しゅえん の『ブラウンの怪 かい 投手 とうしゅ (en:Alibi Ike )』(1935年 ねん )、ジェームズ・キャグニー 主演 しゅえん の『頑張 がんば れキャグニー (en:The Irish in Us )』(1935年 ねん )と、立 た て続 つづ けに3本 ほん のコメディ映画 えいが に出演 しゅつえん している[24] [25] 。
これら3本 ほん のコメディ映画 えいが に対 たい する評価 ひょうか は賛否 さんぴ 両論 りょうろん であり、デ・ハヴィランドに対 たい する観客 かんきゃく からの反応 はんのう はよくなかった[24] 。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドを売 う り出 だ す路線 ろせん を変更 へんこう することを決 き め、当時 とうじ 無名 むめい だったオーストラリアの俳優 はいゆう エロール・フリン の相手 あいて 役 やく として『海賊 かいぞく ブラッド 』(1935年 ねん )に出演 しゅつえん させるという賭 か けに出 で た。デ・ハヴィランドが起用 きよう されたのは、ワーナー・ブラザースのプロデューサーであるハル・B・ウォリス が、デ・ハヴィランドとのことを「お気 き に入 い り」で売 う り出 だ したかったためだという要因 よういん もあった[26] [26] 。『海賊 かいぞく ブラッド』は大 だい ヒットし、批評 ひひょう 家 か たちも主演 しゅえん した二人 ふたり の役者 やくしゃ を高 たか く評価 ひょうか した[27] 。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演 きょうえん 作品 さくひん が次々 つぎつぎ と製作 せいさく されることとなり、『進 すす め龍騎兵 りゅうきへい (en:The Charge of the Light Brigade )』(1936年 ねん )、『ロビンフッドの冒険 ぼうけん 』(1938年 ねん )、 『無法者 むほうもの の群 ぐん 』(1939年 ねん )、『カンサス騎兵隊 きへいたい (en:Santa Fe Trail )』(1940年 ねん )、『壮烈 そうれつ 第 だい 七 なな 騎兵隊 きへいたい 』(1941年 ねん )など、合計 ごうけい 8本 ほん の映画 えいが が製作 せいさく されている[27] 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』(1939年 ねん )の宣 せん 材 ざい 写真 しゃしん 。デ・ハヴィランドはメラニー・ハミルトン役 やく を演 えん じた。
1930年 ねん 後半 こうはん にデ・ハヴィランドは、『Call It a Day 』(1937年 ねん )、『結婚 けっこん スクラム (en:Four's a Crowd )』(1938年 ねん )、『Hard to Get 』(1938年 ねん )などさまざまな内容 ないよう の現代 げんだい 風 ふう ライトコメディ作品 さくひん に出演 しゅつえん している。現代 げんだい 風 ふう コメディ以外 いがい の作品 さくひん としては『風雲児 ふううんじ アドヴァース (en:Anthony Adverse )』(1936年 ねん )、『The Great Garrick 』(1937年 ねん )などに出演 しゅつえん しており、これらの作品 さくひん では、デ・ハヴィランドの洗練 せんれん された容姿 ようし と美 うつく しい台詞回 せりふまわ しが効果 こうか 的 てき に描写 びょうしゃ されている[28] 。コメディ映画 えいが でのデ・ハヴィランドの演技 えんぎ は批評 ひひょう 家 か からも観客 かんきゃく からも概 おおむ ね好評 こうひょう であり、デ・ハヴィランドが演 えん じたいと望 のぞ んでいたシリアスで重厚 じゅうこう な役 やく どころへと踏 ふ み出 だ すきっかけとはならなかった[28] 。そのような中 なか で『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』(1939年 ねん )のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドが求 もと めていたシリアスな役 やく だった。マーガレット・ミッチェル が書 か いた大河 おおかわ 小説 しょうせつ 『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』を原作 げんさく とするこの映画 えいが は、大物 おおもの プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック が製作 せいさく した大作 たいさく である。原作 げんさく 小説 しょうせつ を読 よ んだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分 じぶん にとって大 おお きな転機 てんき となる役 やく だと直感 ちょっかん した。『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の監督 かんとく に起用 きよう されたジョージ・キューカー が、デ・ハヴィランドの妹 いもうと ジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトン役 やく のオーディションを受 う けるよう勧 すす めたという複数 ふくすう の資料 しりょう が存在 そんざい する。しかしながら、メラニー役 やく よりも主役 しゅやく のスカーレット・オハラに興味 きょうみ を持 も っていたフォンテインはキューカーの誘 さそ いを断 ことわ ったとされており、自分 じぶん の代 か わりに姉 あね デ・ハヴィランドをキューカーに推薦 すいせん したといわれている[28] 。最終 さいしゅう 的 てき にはワーナー・ブラザースの社長 しゃちょう ジャック・L・ワーナー の妻 つま アンが、デ・ハヴィランドのメラニー役 やく 起用 きよう を後押 あとお ししている[29] 。そして『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』でメラニーを演 えん じたデ・ハヴィランドは、アカデミー助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされた[30] 。しかしながらこの年 とし のアカデミー助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう したのは、同 おな じく『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』でスカーレットの黒人 こくじん の召使 めしつかい マミー役 やく を演 えん じた女優 じょゆう のハティ・マクダニエル だった。
『カンサス騎兵隊 きへいたい 』(1940年 ねん )の宣 せん 材 ざい 写真 しゃしん 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』のメラニー役 やく で批評 ひひょう 家 か たちから絶賛 ぜっさん されたデ・ハヴィランドは、それまでにも増 ま してシリアスで難 むずか しい役 やく どころを演 えん じてみたいと考 かんが えていた。しかしながらワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドの期待 きたい には応 こた えなかった。『女王 じょおう エリザベス (en:The Private Lives of Elizabeth and Essex )』(1939年 ねん )で、主役 しゅやく のベティ・デイヴィス とエロール・フリンに次 つ ぐ三 さん 番目 ばんめ の役 やく を演 えん じたデ・ハヴィランドは、犯罪 はんざい ドラマ映画 えいが 『犯人 はんにん は誰 だれ だ (en:Raffles )』(1939年 ねん )への出演 しゅつえん を命 めい じられて、ワーナー・ブラザース外部 がいぶ の映画 えいが プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン に預 あづ けられている。また、次 つぎ 作 さく のライトコメディミュージカル映画 えいが 『My Love Came Back 』(1940年 ねん )の主役 しゅやく も決 き まっていた[31] 。1940年代 ねんだい 前半 ぜんはん のデ・ハヴィランドは、演 えん じがいがなく浅薄 せんばく だと自身 じしん が思 おも う役 やく ばかりに起用 きよう されることに対 たい して大 おお きな不満 ふまん を持 も つようになっていった[31] [32] 。『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』のメラニー・ハミルトン役 やく で、シリアスな役 やく どころも演 えん じる能力 のうりょく があることを証明 しょうめい したと考 かんが えていたデ・ハヴィランドにとって、以前 いぜん と変 か わらない純情 じゅんじょう な娘 むすめ 役 やく や可憐 かれん な乙女 おとめ 役 やく は苦痛 くつう でしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様 どうよう の内容 ないよう と配役 はいやく で書 か かれた脚本 きゃくほん を突 つ き返 かえ すようになり、自身 じしん が望 のぞ むやりがいのある役 やく を積極 せっきょく 的 てき に探 さが していった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊 きへいたい 』や『壮烈 そうれつ 第 だい 七 なな 騎兵隊 きへいたい 』など評判 ひょうばん がよかったエロール・フリンとの長 なが きにわたる共演 きょうえん も終 お わらせた。共演 きょうえん した最後 さいご の作品 さくひん である『壮烈 そうれつ 第 だい 七 なな 騎兵隊 きへいたい 』はもっとも長 なが く二人 ふたり が語 かた り合 あ う場面 ばめん が描写 びょうしゃ された作品 さくひん となっている[31] 。
1941年 ねん 11月28日 にち にデ・ハヴィランドはアメリカに帰化 きか した[33] [34] 。
1940年代 ねんだい 前半 ぜんはん にデ・ハヴィランドが出演 しゅつえん した映画 えいが でヒットした作品 さくひん として『いちごブロンド (en:The Strawberry Blonde )』(1941年 ねん )、『Hold Back the Dawn 』(1941年 ねん )、『カナリヤ姫 ひめ (en:Princess O'Rourke )』(1943年 ねん )などが挙 あ げられる。『カナリヤ姫 ひめ 』で演 えん じたマリア王女 おうじょ は、ワーナー・ブラザースで演 えん じた役 やく のうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足 まんぞく のいく役 やく どころだった[35] [注 ちゅう 4] 。デ・ハヴィランドは第 だい 14回 かい アカデミー賞 しょう で、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役 やく で主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされた。
『カンサス騎兵隊 きへいたい 』(1940年 ねん )で共演 きょうえん したデ・ハヴィランドとエロール・フリン。
デ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザース作品 さくひん の『男性 だんせい (en:The Male Animal )』(1942年 ねん )、『追憶 ついおく の女 おんな (en:In This Our Life )』(1942年 ねん )、『陽気 ようき な女 おんな 秘書 ひしょ (en:Government Girl )』(1944年 ねん )、『まごころ (en:Devotion )』(1946年 ねん )に出演 しゅつえん した。『まごころ』の公開 こうかい 年 ねん は1946年 ねん だが撮影 さつえい 自体 じたい は1943年 ねん に終了 しゅうりょう しており、公開 こうかい 年 ねん としてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間 ねんかん にわたるワーナー・ブラザースとの契約 けいやく における最後 さいご の出演 しゅつえん 作品 さくひん となった。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに6カ月 かげつ の契約 けいやく 延長 えんちょう を告 つ げたが、デ・ハヴィランドはこの申 もう し入 い れを受 う け入 い れなかった[37] 。当時 とうじ の法律 ほうりつ では、契約 けいやく 中 ちゅう の俳優 はいゆう が製作 せいさく 会社 かいしゃ から提示 ていじ された配役 はいやく を拒否 きょひ した場合 ばあい には、その作品 さくひん の撮影 さつえい 期間 きかん を契約 けいやく 期間 きかん に加算 かさん 延長 えんちょう することを認 みと めており、ほとんどの俳優 はいゆう はこの慣例 かんれい のもとでの契約 けいやく を受 う け入 い れていた。しかしながらこの契約 けいやく 形態 けいたい に疑問 ぎもん を持 も つ俳優 はいゆう も少数 しょうすう ながら存在 そんざい し、1930年代 ねんだい にベティ・デイヴィス がワーナー・ブラザースに訴訟 そしょう を起 お こしたことがあったが最終 さいしゅう 的 てき には敗訴 はいそ している。デ・ハヴィランドは顧問 こもん 弁護士 べんごし の助言 じょげん と全米 ぜんべい 映画 えいが 俳優 はいゆう 組合 くみあい の後押 あとお しを受 う けて、1943年 ねん 8月 がつ にワーナー・ブラザースを相手取 あいてど って出演 しゅつえん 拒否 きょひ に対 たい する契約 けいやく 期間 きかん 延長 えんちょう 処置 しょち への訴訟 そしょう を起 お こした。この訴訟 そしょう を審理 しんり したカリフォルニア州 しゅう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ はワーナー・ブラザースの異議 いぎ を却下 きゃっか し、デ・ハヴィランドの勝訴 しょうそ とする判決 はんけつ を下 くだ した(判例 はんれい #487, 685)[38] 。それまでの製作 せいさく 会社 かいしゃ の絶大 ぜつだい な権限 けんげん を弱 よわ め、俳優 はいゆう たちにはるかに自由 じゆう な創作 そうさく 活動 かつどう の場 ば を与 あた えるというこの判決 はんけつ は、ハリウッド映画 えいが 界 かい に非常 ひじょう に重要 じゅうよう で大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えることとなった。デ・ハヴィランドが勝 か ち得 え たこの判例 はんれい は、今 いま でも「デ・ハヴィランド法 ほう (en:De Havilland Law )」として知 し られている[39] 。製作 せいさく 会社 かいしゃ を相手取 あいてど って勝訴 しょうそ したデ・ハヴィランドは、俳優 はいゆう 仲間 なかま たちから敬意 けいい と賞賛 しょうさん の的 まと となった。デ・ハヴィランドと不仲 ふなか だった妹 いもうと のジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方 とほう もなく大 おお きな借 か りがあります」とコメントしている[40] 。敗訴 はいそ したワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに関 かん する書簡 しょかん をほかの製作 せいさく 会社 かいしゃ に送 おく りつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優 じょゆう 」とみなされて、その後 ご 2年間 ねんかん にわたって映画 えいが 作品 さくひん に出演 しゅつえん することができなかった[38] 。
『追憶 ついおく の女 おんな 』(1942年 ねん )におけるデ・ハヴィランド。
ブロンテ姉妹 しまい の生涯 しょうがい を大幅 おおはば に脚色 きゃくしょく した映画 えいが で、1943年 ねん に撮影 さつえい が終了 しゅうりょう していたもののワーナー・ブラザースとの訴訟 そしょう 期間 きかん 中 ちゅう はお蔵 ぞう 入 い りとなっていた『まごころ』の公開 こうかい 後 ご 、デ・ハヴィランドはパラマウント映画 えいが と3本 ほん の映画 えいが に出演 しゅつえん する契約 けいやく を交 か わした。そしてこれらの映画 えいが で演 えん じたさまざまな役柄 やくがら への演技 えんぎ が、その後 ご のデ・ハヴィランドの女優 じょゆう としてのキャリアを決定 けってい 付 つ ける先駆 さきが けとなった。ジェームズ・エイジー は『暗 くら い鏡 かがみ (en:The Dark Mirror )』(1946年 ねん )について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐 かれん な映画 えいが 女優 じょゆう の一人 ひとり だった」としつつ、近年 きんねん の映画 えいが では優 すぐ れた演技 えんぎ 力 りょく を持 も つ女優 じょゆう であることも証明 しょうめい して見 み せたとしている。そして「その優 すぐ れた才能 さいのう 」を表 ひょう に出 だ していない場面 ばめん でさえも、デ・ハヴィランドの演技 えんぎ 力 りょく が「思慮 しりょ 深 ふか く、内 うち に秘 ひ めた細 ささ やかな演技 えんぎ を保 たも ち続 つづ けている」と指摘 してき した。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技 えんぎ が「豊 ゆた かな才能 さいのう だけでなく、(デ・ハヴィランドの)心身 しんしん ともに健全 けんぜん で好 この ましい内面 ないめん によるところが大 おお きい。観 み ているだけで嬉 うれ しくなってしまう」と結 むす んでいる[41] 。デ・ハヴィランドは『遥 はる かなる我 わ が子 こ 』(1946年 ねん )のジョゼフィン・ノリス役 やく でアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、さらに『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』(1949年 ねん )のキャサリン・スローパー役 やく でアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ゴールデングローブ賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ドラマ部門 ぶもん ) を受賞 じゅしょう した。『蛇 へび の穴 あな 』(1948年 ねん )のヴァージニア・スチュアート・カニンガム役 やく も高 たか く評価 ひょうか され、アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされている。この『蛇 へび の穴 あな 』は精神 せいしん 疾患 しっかん を正面 しょうめん から描 えが いた最初 さいしょ 期 き の映画 えいが の一 ひと つで、「陰惨 いんさん な精神 せいしん 病院 びょういん の実態 じったい を暴 あば き出 だ した、ハリウッドの歴史 れきし に残 のこ る重要 じゅうよう な作品 さくひん 」といわれている[12] 。デ・ハヴィランドがそれまでの美女 びじょ 役 やく とはまったくかけ離 はな れた役 やく を演 えん じた意欲 いよく と、議論 ぎろん が巻 ま き起 お こるであろう作品 さくひん に真 ま っ向 こう から取 と り組 く んだ姿勢 しせい は高 たか く評価 ひょうか された。デ・ハヴィランドはこの『蛇 へび の穴 あな 』でニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ナストロ・ダルジェント最優秀 さいゆうしゅう 外国 がいこく 人 じん 女優 じょゆう 賞 しょう 、ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう している。
デ・ハヴィランドの宣 せん 材 ざい 写真 しゃしん 。1952年 ねん 。
この時期 じき のデ・ハヴィランドは確固 かっこ たる自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ で、民主党 みんしゅとう のフランクリン・ルーズベルト とハリー・S・トルーマン の支持 しじ 者 しゃ だった[42] 。自由 じゆう 主義 しゅぎ への共産 きょうさん 主義 しゅぎ の浸透 しんとう を憂慮 ゆうりょ していたデ・ハヴィランドは、1946年 ねん にある騒動 そうどう を巻 ま き起 お こし、マスコミにも大 おお きく報道 ほうどう された。スターリン主義 しゅぎ による残虐 ざんぎゃく 行為 こうい に関 かん する報告 ほうこく 会 かい の場 ば で、ハリウッド美術 びじゅつ 科学 かがく 専門 せんもん 職 しょく の独立 どくりつ 市民 しみん 委員 いいん 会 かい が事前 じぜん に用意 ようい した演説 えんぜつ 原稿 げんこう から、親 おや 共産 きょうさん 主義 しゅぎ と思 おも われる箇所 かしょ を飛 と ばして読 よ み上 あ げたのである。この独立 どくりつ 市民 しみん 委員 いいん 会 かい は後 のち に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の偽装 ぎそう 組織 そしき だと認定 にんてい されている[43] 。デ・ハヴィランドは、独立 どくりつ 市民 しみん 委員 いいん 会 かい の自由 じゆう 主義 しゅぎ 会員 かいいん たちが一 いち 握 にぎ りの上層 じょうそう 部 ぶ の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 会員 かいいん に操 あやつ られているのではないかと危惧 きぐ するようになった。そして、1946年 ねん の中間 ちゅうかん 選挙 せんきょ で民主党 みんしゅとう が大勝 たいしょう すれば、独立 どくりつ 市民 しみん 委員 いいん 会 かい の親 しん ソヴィエト的 てき な言動 げんどう を抑制 よくせい できると考 かんが えた。デ・ハヴィランドは、独立 どくりつ 市民 しみん 委員 いいん 会 かい を共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ から取 と り戻 もど すための活動 かつどう を始 はじ めたが、最終 さいしゅう 的 てき にはこの活動 かつどう は失敗 しっぱい し、デ・ハヴィランドに共鳴 きょうめい して改革 かいかく 派 は に加 くわ わったハリウッド業界 ぎょうかい 人 じん たちの多 おお くが離脱 りだつ するという結果 けっか となった。デ・ハヴィランドに説得 せっとく されて改革 かいかく 派 は に加 くわ わっていた俳優 はいゆう にロナルド・レーガン がおり、その後 ご 1952年 ねん 以降 いこう のレーガンの政治 せいじ 活動 かつどう は劇的 げきてき に変化 へんか していった[42] 。デ・ハヴィランドが自由 じゆう 主義 しゅぎ の改革 かいかく 活動 かつどう をあまりに主張 しゅちょう したために、赤狩 あかが り の舞台 ぶたい となった下院 かいん 非 ひ 米 べい 活動 かつどう 委員 いいん 会 かい に1958年 ねん に召還 しょうかん されたこともあったが、女優 じょゆう としてのキャリアに傷 きず がつくことはなかった[42] 。
『Libel』(1959年 ねん )の宣 せん 材 ざい 写真 しゃしん 。
1950年代 ねんだい 以降 いこう 、デ・ハヴィランドの映画 えいが 出演 しゅつえん は散発 さんぱつ 的 てき になっていった。1951年 ねん に公開 こうかい 予定 よてい だった映画 えいが 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』の主役 しゅやく ブランチ・デュボアを提示 ていじ されたが、デ・ハヴィランドはこのオファーを断 た っている。このブランチ・デュボア役 やく を拒否 きょひ した理由 りゆう について、脚本 きゃくほん の内容 ないよう が生理 せいり 的 てき に受 う け入 い れられなかったことと、口 くち にしたくない台詞 せりふ が多 おお くあったためだといわれてきた。しかしながらデ・ハヴィランドは2006年 ねん にこの噂 うわさ を否定 ひてい し、幼 おさな い子供 こども の世話 せわ に追 お われていたために役 やく を受 う けることができなかったと語 かた っている[44] 。最終 さいしゅう 的 てき にブランチ・デュボア役 やく は『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』でデ・ハヴィランドと共演 きょうえん したヴィヴィアン・リー が、ロンドンでの舞台 ぶたい 版 ばん 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』でブランチ役 やく で演 えん じたのに引 ひ き続 つづ いて映画 えいが 版 ばん のブランチ役 やく を受 う け、二 に 度目 どめ のアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を獲得 かくとく した[45] 。
デ・ハヴィランドが1960年代 ねんだい に出演 しゅつえん した数少 かずすく ない作品 さくひん の中 なか で、もっともよく知 し られているのが『不意打 ふいう ち 』(1964年 ねん )で、デ・ハヴィランドはエレベーターに閉 と じ込 こ められて乱入 らんにゅう 者 しゃ に脅 おど される未亡人 みぼうじん コーネリア・ヒリヤード役 やく を演 えん じている。ほかの作品 さくひん としてロバート・アルドリッチ 監督 かんとく 作品 さくひん 『ふるえて眠 ねむ れ 』(1964年 ねん )、キャサリン・アン・ポーター (en:Katherine Anne Porter ) の小説 しょうせつ をサム・ペキンパー 監督 かんとく でテレビドラマ化 か した『昼 ひる 酒 しゅ ( en:Noon Wine )』(1966年 ねん )が有名 ゆうめい である。1965年 ねん にデ・ハヴィランドは、カンヌ国際映画祭 かんぬこくさいえいがさい で初 はつ の女性 じょせい 審査 しんさ 委員 いいん 長 ちょう に任命 にんめい された。
デ・ハヴィランドは1970年代 ねんだい 後半 こうはん まで映画 えいが 女優 じょゆう を続 つづ け、その後 ご テレビ番組 ばんぐみ へと舞台 ぶたい を移 うつ して1980年代 ねんだい 後半 こうはん まで活動 かつどう を続 つづ けた。1986年 ねん に出演 しゅつえん したテレビ映画 えいが 『アナスタシア/光 ひかり ・ゆらめいて 』ではロシア皇后 こうごう マリア・フョードロヴナ を演 えん じ、ゴールデングローブ助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ミニシリーズ・テレビ映画 えいが 部門 ぶもん ) を受賞 じゅしょう している。
2000年 ねん 以降 いこう のデ・ハヴィランド [ 編集 へんしゅう ]
デ・ハヴィランドは1953年 ねん 以来 いらい 、フランスのパリ 市内 しない に居住 きょじゅう し、セーヌ川 がわ 左岸 さがん 地域 ちいき 及 およ び60年代 ねんだい 以降 いこう は同 どう パリ右岸 うがん パリ16区 く ロンシャン通 どお り界隈 かいわい に亡 な くなる時 とき まで居住 きょじゅう した[46] 。2000年 ねん 以降 いこう のデ・ハヴィランドが公 おおやけ の場 ば に姿 すがた を見 み せることはほとんどなかった。
2003年 ねん に第 だい 75回 かい アカデミー賞 しょう 授賞 じゅしょう 式 しき にプレゼンターとして表 あらわ れたときには、1分間 ふんかん にもおよぶスタンディングオベーション で迎 むか えられた。2006年 ねん 6月 がつ に、映画 えいが 芸術 げいじゅつ 科学 かがく アカデミーとロサンゼルス州立 しゅうりつ 美術館 びじゅつかん がデ・ハヴィランドの90歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ う式典 しきてん を開催 かいさい し、デ・ハヴィランドもこの式典 しきてん に出席 しゅっせき している。
2004年 ねん にターナー・クラシック・ムービーズ が「思 おも い出 で のメラニー (Melanie Remembers) 」というテレビ番組 ばんぐみ を制作 せいさく した。この番組 ばんぐみ は『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の公開 こうかい 65周年 しゅうねん の回顧 かいこ 記念 きねん 番組 ばんぐみ の一 ひと つで、デ・ハヴィランドのインタビューを中心 ちゅうしん として構成 こうせい されていた。『思 おも い出 で のメラニー』が公開 こうかい されたときに『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の主要 しゅよう キャストで存命 ぞんめい 中 ちゅう だった人物 じんぶつ としてデ・ハヴィランドのほかに、インディア・ウィルクス役 やく のアリシア・レット 、メイベル・メリーウェザー役 やく のメアリー・アンダーソン (en:Mary Anderson )、ボー・ウィルクス役 やく のミッキー・カーン (en:Mickey Kuhn ) がいた(2023年 ねん 現在 げんざい はいずれも故人 こじん となっている、詳細 しょうさい はそれぞれの人物 じんぶつ の記事 きじ を参照 さんしょう のこと)。デ・ハヴィランドはインタビューでメラニー役 やく のことや撮影 さつえい 中 ちゅう のことなどを今 いま でもはっきり覚 おぼ えていると語 かた っている。40分 ふん にわたるこの番組 ばんぐみ は、4枚 まい 組 ぐみ のDVDの一部 いちぶ として発売 はつばい された。
2008年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう ジョージ・W・ブッシュ から、国民 こくみん 芸術 げいじゅつ 勲章 くんしょう を授与 じゅよ されたデ・ハヴィランド。
2008年 ねん 11月17日 にち に、92歳 さい だったデ・ハヴィランドは芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや の顕彰 けんしょう としてはアメリカ最高 さいこう 位 い の国民 こくみん 芸術 げいじゅつ 勲章 くんしょう を受章 じゅしょう した。メダルをデ・ハヴィランドに授与 じゅよ した大統領 だいとうりょう のジョージ・W・ブッシュ は、「シェークスピアのハーミアからマーガレット・ミッチェルのメラニーまで幅広 はばひろ い役柄 やくがら を演 えん じ分 わ ける、その説得 せっとく 力 りょく にあふれた人 ひと をひきつけて離 はな さない演技 えんぎ 力 りょく に対 たい して。彼女 かのじょ が持 も つ独立 どくりつ 心 しん 、誠実 せいじつ さ、優雅 ゆうが さが豊 ゆた かな創造 そうぞう 力 りょく を解 と き放 はな ち、素晴 すば らしい映画 えいが 女優 じょゆう として大 だい 成功 せいこう させたのです」と演説 えんぜつ した[47] 。
2009年 ねん に、デ・ハヴィランドはドキュメント番組 ばんぐみ 『I Remember Better When I Paint 』のナレーターを担当 たんとう した[48] 。この番組 ばんぐみ は、芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや におけるアルツハイマー型 がた 認知 にんち 症 しょう の重要 じゅうよう 性 せい を描 えが いた作品 さくひん だった[49] 。2011年 ねん にはパリで開催 かいさい された特別 とくべつ 上映 じょうえい 会 かい にも出席 しゅっせき している[50] 。
2010年 ねん 9月 がつ 9日 にち に、デ・ハヴィランドはフランスの最高 さいこう 勲章 くんしょう であるレジオンドヌール勲章 くんしょう シュヴァリエ賞 しょう を授与 じゅよ された。勲章 くんしょう を授与 じゅよ したフランス大統領 だいとうりょう ニコラ・サルコジ は、「フランスを(住居 じゅうきょ として)選 えら んでくださったことを誇 ほこ りに思 おも います」と語 かた った[51] 。
2011年 ねん 2月 がつ 1日 にち に、デ・ハヴィランドはフランスの映画 えいが 賞 しょう セザール賞 しょう 授与 じゅよ 式 しき に姿 すがた を見 み せた。式典 しきてん の代表 だいひょう を務 つと めた女優 じょゆう のジョディ・フォスター が紹介 しょうかい すると、会場 かいじょう はスタンディングオベーションでデ・ハヴィランドを迎 むか えた[52] 。
2014年 ねん 1月 がつ 3日 にち 、インディア・ウィルクス役 やく のアリシア・レット が亡 な くなる。レットの死 し により、デ・ハヴィランドは存命 ぞんめい している『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』出演 しゅつえん 者 しゃ 中 ちゅう 、最年長 さいねんちょう となる[53] 。
2016年 ねん 2月 がつ に、デ・ハヴィランドは風刺 ふうし 雑誌 ざっし 『オールディ』 (en:The Oldie ) によって、「今年 ことし のオールディ」に選定 せんてい された。フランスの自宅 じたく からロンドンの授賞 じゅしょう 式 しき まで賞 しょう を受 う け取 と りに出向 でむ くことはできなかったが、録音 ろくおん されたメッセージの中 なか で、「大変 たいへん 嬉 うれ しく思 おも います」と話 はな した[54] 。
2020年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、死去 しきょ [55] [56] 。
日本 にっぽん 滞在 たいざい 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
カリフォルニア州 しゅう サラトガ で箱根 はこね ガーデン を開園 かいえん したイザベル・スタインは、その開園 かいえん のきっかけとなる日本 にっぽん 旅行 りょこう 中 ちゅう にデ・ハヴィランド家 か と偶然 ぐうぜん 知 し り合 あ い、その後 ご 、偶然 ぐうぜん にもオリビア母子 ぼし がサラトガに移住 いじゅう したことから、両家 りょうけ の親 した しい交際 こうさい が始 はじ まった[57] 。
芥川 あくたがわ 比呂志 ひろし によれば、大学 だいがく がある日吉 ひよし へ東急東横 とうきゅうとうよこ 線 せん で中村 なかむら 真一郎 しんいちろう や加藤 かとう 道夫 みちお と通学 つうがく していた時代 じだい 、オリヴィア、ジョーン姉妹 しまい とよく乗 の り合 あ わせていた[58] 。
羽仁 はに 五郎 ごろう によれば、軽井沢 かるいざわ の教会 きょうかい で開 ひら かれた別荘 べっそう 住民 じゅうみん による音楽 おんがく 会 かい でオリヴィア、ジョーン姉妹 しまい が歌 うた を披露 ひろう したことがある[59] 。なおオリヴィアによれば、軽井沢 かるいざわ にはデ・ハヴィランド家 か の所有 しょゆう する物件 ぶっけん (別荘 べっそう )が2つあって夏 なつ に滞在 たいざい していた[16] 。
『ロビンフッドの冒険 ぼうけん 』(1938年 ねん )の宣伝 せんでん フィルム。デ・ハヴィランドとエロール・フリン
8本 ほん の作品 さくひん で共演 きょうえん したデ・ハヴィランドとエロール・フリンは、ハリウッド屈指 くっし のカップルといわれていたが、私生活 しせいかつ で恋愛 れんあい 関係 かんけい になったことはなかった。デ・ハヴィランドはフリンについて
私 わたし (デ・ハヴィランド)が恋心 こいごころ を抱 だ いていたなどとは、彼 かれ (フリン)も思 おも っていなかったでしょう。互 たが いにそのような感情 かんじょう はありませんでした。私 わたし は何 なに かで、映画 えいが 『進 すす め龍騎兵 りゅうきへい 』の撮影 さつえい 中 ちゅう だった1935年 ねん に、彼 かれ が私 わたし にラブレターを書 か いたことがあるという記述 きじゅつ を読 よ んだことがあります。これには驚 おどろ きました。何 なん 本 ほん もの作品 さくひん で恋人 こいびと 役 やく を演 えん じてきましたが、彼 かれ が私 わたし に心 しん を動 うご かされたことは一 いち 度 ど もなく、こんな手紙 てがみ をもらったことはなかったからです[60] 。
と語 かた っている。
しかしながらデ・ハヴィランドは他 た のインタビューで、二人 ふたり は互 たが いに好意 こうい を抱 だ いておりフリンが求婚 きゅうこん したことがあったが、デ・ハヴィランドは当時 とうじ のフリンが女優 じょゆう リリ・ダミタ (en:Lili Damita ) と結婚 けっこん していたために、この求婚 きゅうこん を断 ことわ ったとも語 かた っている[61] 。1939年 ねん 12月から1942年 ねん 3月 がつ まで、デ・ハヴィランドは俳優 はいゆう ジェームズ・ステュアート と交際 こうさい していた。デ・ハヴィランドの代理人 だいりにん アイリーン・メイヤー・セルズニックが、1939年 ねん 12月19日 にち にニューヨークのアスター劇場 げきじょう で開催 かいさい される『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』のプレミア試写 ししゃ 会 かい で、ステュアートにデ・ハヴィランドのエスコート役 やく を頼 たの んだことがある。この依頼 いらい を引 ひ き受 う けたステュアートは数 すう 日間 にちかん にわたって複数 ふくすう の劇場 げきじょう でデ・ハヴィランドのエスコート役 やく を務 つと め、有名 ゆうめい なレストランの21クラブ にもデ・ハヴィランドと同行 どうこう した[62] 。ステュアートがアメリカ空軍 くうぐん へ志願 しがん するために飛行 ひこう 訓練 くんれん を受 う けていたロサンゼルスでも二 に 人 にん の逢瀬 おうせ は続 つづ いた。デ・ハヴィランドは、1940年 ねん にステュアートが求婚 きゅうこん したが、まだステュアートには結婚 けっこん の心積 こころづ もりが出来 でき ていないと感 かん じて断 ことわ ったことがあるとしている[62] 。二人 ふたり の関係 かんけい は1941年 ねん 3月 がつ にステュアートが空軍 くうぐん に入隊 にゅうたい したことにより中断 ちゅうだん した。それでも1942年 ねん まで3月 がつ まで断続 だんぞく 的 てき にではあるが二 に 人 にん の関係 かんけい は続 つづ いていたが、デ・ハヴィランドが映画 えいが 監督 かんとく ジョン・ヒューストン に惹 ひ かれていったために、ステュアートとの関係 かんけい は終 お わりを告 つ げている[63] 。
息子 むすこ のベンジャミンと一緒 いっしょ のデ・ハヴィランド。1952年 ねん 。
デ・ハヴィランドは、作家 さっか で脚本 きゃくほん 家 か でもあった退役 たいえき 海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん マーカス・グッドリッチ (en:Marcus Goodrich ) と1946年 ねん 1月 がつ 24日 にち に結婚 けっこん した。二人 ふたり の間 あいだ には1949年 ねん 12月1日 にち に一人 ひとり 息子 むすこ ベンジャミン・グッドリッチが生 う まれたが、1952年 ねん に離婚 りこん している。息子 むすこ ベンジャミンは癌 がん のために、父 ちち マーカスが死去 しきょ する三 さん 週間 しゅうかん 前 まえ の1991年 ねん 10月 がつ 1日 にち に41歳 さい で死去 しきょ した[64] 。
デ・ハヴィランドが、ジャーナリストでフランスの雑誌 ざっし 『パリ・マッチ (en:Paris Match )』の編集 へんしゅう 者 しゃ ピエール・ギャラント (fr:Pierre Galante ) と再婚 さいこん したのは1955年 ねん 4月 がつ 2日 にち である。二人 ふたり の間 あいだ には1956年 ねん 7月 がつ 18日 にち に一人娘 ひとりむすめ ジゼル・ギャラントが生 う まれた。この結婚 けっこん を期 き にパリへの移住 いじゅう と人生 じんせい の再 さい 設計 せっけい を決意 けつい したと、デ・ハヴィランドの回想 かいそう 録 ろく 『Every Frenchman Has One』には記 しる されている。1962年 ねん から二 に 人 にん は別居 べっきょ していたが、正式 せいしき に離婚 りこん したのは1979年 ねん のことだった[65] 。
『恋愛 れんあい 合戦 かっせん (en:It's Love I'm After )』(1937年 ねん )、『女王 じょおう エリザベス』(1939年 ねん )、『追憶 ついおく の女 おんな 』(1942年 ねん )、『ふるえて眠 ねむ れ』(1964年 ねん )で共演 きょうえん した女優 じょゆう ベティ・デイヴィス は、その生涯 しょうがい にわたってデ・ハヴィランドの親友 しんゆう だった。ほかにもグロリア・スチュアート は2010年 ねん に100歳 さい で死去 しきょ するまでデ・ハヴィランドの親友 しんゆう だった女優 じょゆう である。2008年 ねん 4月 がつ には、ロサンゼルスで行 おこな われた俳優 はいゆう チャールトン・ヘストン の葬儀 そうぎ に参列 さんれつ していた。またこの年 とし には、アカデミー賞 しょう の主催 しゅさい 団体 だんたい である映画 えいが 芸術 げいじゅつ 科学 かがく アカデミー が企画 きかく したベティ・デイヴィス生誕 せいたん 100周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん にサプライズ・ゲストとして招 まね かれている[66] 。
妹 いもうと との確執 かくしつ [ 編集 へんしゅう ]
デ・ハヴィランドの妹 いもうと ジョーン・フォンテイン 。デ・ハヴィランドと同時 どうじ にアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされ、フォンテインが主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう した『断崖 だんがい 』(1941年 ねん )の宣伝 せんでん フィルム。
オリヴィア・デ・ハヴィランドと妹 いもうと のジョーン・フォンテインは、アカデミー主演 しゅえん 賞 しょう を受賞 じゅしょう した史上 しじょう 唯一 ゆいいつ の兄弟 きょうだい 姉妹 しまい である。最初 さいしょ に女優 じょゆう の道 みち を選 えら んだのはデ・ハヴィランドで、妹 いもうと のフォンテインも姉 あね に続 つづ いて女優 じょゆう になろうとした。しかし、二人 ふたり の母親 ははおや リリアンはデ・ハヴィランドのほうを可愛 かわい がっており、フォンテインが女優 じょゆう になっても「デ・ハヴィランド」という名前 なまえ を使 つか うことを許 ゆる さなかったといわれている。このためフォンテインは別 べつ の芸名 げいめい をつけざるを得 え なくなり、最初 さいしょ にジョーン・バーフィールド、後 のち にジョーン・フォンテインという名前 なまえ で芸能 げいのう 活動 かつどう を続 つづ けることとなった。伝記 でんき 作家 さっか のチャールズ・ハイアム (en:Charles Higham ) は、この姉妹 しまい が幼 おさな いころからいつも喧嘩 けんか をしていたと指摘 してき しており、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下 さ がりの服 ふく を与 あた えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡 わた す服 ふく をわざと破 やぶ ったために、フォンテインはその服 ふく を縫 ぬ い直 なお して着 き なければならなかったというエピソードを紹介 しょうかい している[67] 。
1942年 ねん にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時 どうじ にアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう にノミネートされた。対象 たいしょう となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役 やく 、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック 監督 かんとく 作品 さくひん 『断崖 だんがい 』のリナ・マクレイドロウ役 やく で、主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を獲得 かくとく したのは妹 いもうと のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優 じょゆう という仕事 しごと に心身 しんしん を捧 ささ げていない自分 じぶん が賞 しょう を獲得 かくとく したことに対 たい して後 うし ろめたく感 かん じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞 じゅしょう 式 しき で、主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受 う け取 と るために歩 ある き出 だ したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福 しゅくふく をあからさまに拒絶 きょぜつ したために、デ・ハヴィランドは気分 きぶん を害 がい して当惑 とうわく して見 み えたと記述 きじゅつ している。
ハイアムはフォンテインが自分 じぶん の娘 むすめ とも疎遠 そえん になったとしており、おそらく娘 むすめ が伯母 おば であるデ・ハヴィランドと隠 かく れて連絡 れんらく を取 と り合 あ っていたためではないかと指摘 してき している[67] 。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分 じぶん たちの関係 かんけい を公言 こうげん したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年 ねん のインタビューで、自分 じぶん たち姉妹 しまい が口 くち をきかなくなったのは、癌 がん に苦 くる しんでいた母親 ははおや に外科 げか 手術 しゅじゅつ を受 う けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時 とうじ 88歳 さい の母親 ははおや には手術 しゅじゅつ は無理 むり だと考 かんが えていた自分 じぶん との間 あいだ で意見 いけん が対立 たいりつ したことが原因 げんいん だと語 かた ったことがある。そしてフォンテインは、母 はは リリアンが死去 しきょ したときにデ・ハヴィランドが、当時 とうじ 舞台 ぶたい 巡業 じゅんぎょう 公演 こうえん で各地 かくち を回 まわ っていた自分 じぶん を探 さが そうとしなかったと主張 しゅちょう している。デ・ハヴィランドは母 はは の死 し を知 し らせる電報 でんぽう をフォンテインに送 おく ったが、この電報 でんぽう をフォンテインが目 め にしたのは二 に 週間 しゅうかん 後 ご で、フォンテインが母 はは の死 し を知 し ったのは次 つぎ の公演 こうえん 地 ち に移動 いどう してからのことだった[68] 。
姉妹 しまい の確執 かくしつ は2013年 ねん 12月のフォンテインの死 し で終焉 しゅうえん を迎 むか えた。フォンテインは生前 せいぜん に「私 わたし のほうがオリヴィアよりも先 さき に結婚 けっこん し、先 さき にアカデミー賞 しょう を受賞 じゅしょう しました。もし私 わたし のほうが先 さき に死去 しきょ することがあれば、すべてにおいて私 わたし に出 だ し抜 ぬ かれたと知 し って彼女 かのじょ は間違 まちが いなく激怒 げきど することでしょう」と語 かた っていた[69] 。しかし、デ・ハヴィランドは妹 いもうと の死 し のニュースに「衝撃 しょうげき を受 う け、悲 かな しみに襲 おそ われています」との声明 せいめい を発表 はっぴょう した[70] 。
デ・ハヴィランドは1960年 ねん に回顧 かいこ 録 ろく 『Every Frenchman Has One 』を出版 しゅっぱん した。また、ジョン・リッチフィールドによるとデ・ハヴィランドが自叙伝 じじょでん を執筆 しっぴつ 中 ちゅう で、2009年 ねん 9月 がつ には初稿 しょこう を完成 かんせい させたいとしている[71] 。2015年 ねん 1月 がつ のインタビューでデ・ハヴィランドは自叙伝 じじょでん の執筆 しっぴつ に取 と り組 く んでいると述 の べた[72] 。
2017年 ねん 6月 がつ 30日 にち の自身 じしん の誕生 たんじょう 日 び 前日 ぜんじつ にドラマシリーズ『フュード/確執 かくしつ ベティ vs ジョーン 』のテレビ局 てれびきょく FX 及 およ びプロデューサーのライアン・マーフィー に対 たい して訴訟 そしょう を起 お こした。ドラマはタイトルの通 とお り、デ・ハヴィランドの旧友 きゅうゆう ベティ・デイヴィス と『何 なに がジェーンに起 おこ ったか? 』の共演 きょうえん 者 しゃ ジョーン・クロフォード の確執 かくしつ を描 えが いたもので、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ がデ・ハヴィランドとして登場 とうじょう している。
このドラマが前述 ぜんじゅつ の妹 いもうと ジョーン・フォンテイン と本人 ほんにん の関係 かんけい にも触 ふ れ、そのシーンでデ・ハヴィランドがフォンテインを"bitch"と侮辱 ぶじょく したように描 えが かれている。このシーンがデ・ハヴィランドのイメージを大 おお いに傷 きず つけるとして訴訟 そしょう を起 お こした。しかし、FXやマーフィー側 がわ は過去 かこ にデ・ハヴィランドが出演 しゅつえん した映画 えいが やドラマにおける下品 げひん な表現 ひょうげん "God damn it"や"son of a bitch"、また彼女 かのじょ の著書 ちょしょ の中 なか から"I don't play bitches"という引用 いんよう を示 しめ し対抗 たいこう している。
2018年 ねん 3月 がつ 、カリフォルニア州 しゅう 裁判所 さいばんしょ は「制作 せいさく 者 しゃ 側 がわ は表現 ひょうげん の自由 じゆう を定 さだ めた米 べい 憲法 けんぽう で守 まも られる」として訴 うった えを退 しりぞ けた。デ・ハヴィランドは上訴 じょうそ したが、2019年 ねん 1月 がつ 7日 にち に連邦 れんぽう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ は棄却 ききゃく した[73] 。
映画 えいが 賞 しょう 、表彰 ひょうしょう [ 編集 へんしゅう ]
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム のハリウッド通 どお り6762にある、デ・ハヴィランドのスター・プレート。
グローマンズ・チャイニーズ・シアター のデ・ハヴィランドの手形 てがた と足型 あしがた 。
1940年 ねん アカデミー助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう ノミネート - 『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』
1941年 ねん ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 第 だい 2位 い - 『Hold Back the Dawn』
1942年 ねん アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう ノミネート - 『Hold Back the Dawn』
1946年 ねん ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 第 だい 2位 い - 『遥 はる かなる我 わ が子 こ 』
1947年 ねん アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『遥 はる かなる我 わ が子 こ 』
1948年 ねん ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『蛇 へび の穴 あな 』
1948年 ねん ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『蛇 へび の穴 あな 』
1949年 ねん アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう ノミネート - 『蛇 へび の穴 あな 』
1949年 ねん ヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『蛇 へび の穴 あな 』
1949年 ねん ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『蛇 へび の穴 あな 』
1950年 ねん アカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』
1950年 ねん ゴールデングローブ主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ドラマ部門 ぶもん ) - 『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』
1950年 ねん ナストロ・ダルジェント賞 しょう 最優秀 さいゆうしゅう 外国 がいこく 女優 じょゆう 賞 しょう 受賞 じゅしょう - 『女 おんな 相続 そうぞく 人 じん 』
1953年 ねん ゴールデングローブ賞 しょう 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ドラマ部門 ぶもん )ノミネート - 『謎 なぞ の佳人 かじん レイチェル 』
1960年 ねん ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド通 どお り6762にスタープレート設置 せっち
1987年 ねん ゴールデングローブ助演 じょえん 女優 じょゆう 賞 しょう (ミニシリーズ・テレビ映画 えいが 部門 ぶもん )受賞 じゅしょう - 『アナスタシア/光 ひかり ・ゆらめいて 』
2008年 ねん アメリカの国家 こっか 芸術 げいじゅつ メダル受章 じゅしょう
2010年 ねん フランスのレジオンドヌール勲章 くんしょう シュヴァリエ章 あきら 受章 じゅしょう [3]
2016年 ねん 今年 ことし のオールディ受賞 じゅしょう [54]
2017年 ねん 大 だい 英 えい 帝国 ていこく 勲章 くんしょう Dame Commender of the Order of the British Empire(DBE)受章 じゅしょう
出演 しゅつえん 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
^ 当時 とうじ の日本 にっぽん に住 す む外国 がいこく 人 じん コミュニティの間 あいだ では、夏 なつ になると母 はは 娘 むすめ は避暑 ひしょ 地 ち の別荘 べっそう やホテルに定住 ていじゅう し、仕事 しごと のある父 ちち は東京 とうきょう ・横浜 よこはま などの首都 しゅと 圏 けん に残 のこ り、週末 しゅうまつ になると避暑 ひしょ 地 ち に来 き て一家 いっか 団欒 だんらん の時 とき を過 す ごす、というのが慣 なら わしであった。
^ 「オリヴィア」という名前 なまえ はシェークスピアの戯曲 ぎきょく 『十 じゅう 二 に 夜 や 』の登場 とうじょう 人物 じんぶつ から名 な づけられた。
^ ロス・ガトスで贈 おく られる演劇 えんげき 賞 しょう はオリヴィア・デ・ハヴィランドにちなんで制定 せいてい された。
^ 当初 とうしょ のデ・ハヴィランドは『カナリヤ姫 ひめ 』のマリア王女 おうじょ 役 やく を拒否 きょひ しており、社長 しゃちょう ジャック・L・ワーナーが製作 せいさく を中断 ちゅうだん させたといういきさつがある[36] 。
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1935–1940 1941–1960 1961–1980 1981–2000 2001–2020 2021–2040
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