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オリヴィア・デ・ハヴィランド

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Olivia De Havilland
オリヴィア・デ・ハヴィランド
DBE
オリヴィア・デ・ハヴィランド DBE
1945ねんごろに撮影さつえいされたせんざい写真しゃしん
本名ほんみょう Dame Olivia Mary de Havilland
生年月日せいねんがっぴ (1916-07-01) 1916ねん7がつ1にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2020-07-26) 2020ねん7がつ26にち(104さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう
死没しぼつ フランスの旗 フランスパリ16
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
フランスの旗 フランス
職業しょくぎょう 女優じょゆう
活動かつどう期間きかん 1935ねん - 2009ねん
配偶はいぐうしゃ マーカス・グッドリッチ英語えいごばん(1946ねん - 1953ねん
ピエール・ギャラントフランス語ふらんすごばん(1955ねん - 1979ねん
著名ちょめい家族かぞく ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド父親ちちおや
リリアン・フォンテイン英語えいごばん母親ははおや
ジョーン・フォンテインいもうと
おも作品さくひん
海賊かいぞくブラッド』(1935ねん
ふうともりぬ』(1939ねん
はるかなる』(1946ねん
おんな相続そうぞくじん』(1949ねん
 
受賞じゅしょう
アカデミーしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1946ねんはるかなる
1949ねんおんな相続そうぞくじん
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
女優じょゆうしょう
1949ねんへびあな
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1948ねんへびあな
1949ねんおんな相続そうぞくじん
ゴールデングローブしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん
1949ねんおんな相続そうぞくじん
助演じょえん女優じょゆうしょう(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画えいが部門ぶもん
1986ねんアナスタシア/ひかり・ゆらめいて
そのしょう
ナショナル・ボード・オブ・レビューしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1949ねんへびあな
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デイム・オリヴィア・メアリー・デ・ハヴィランド(Dame Olivia Mary de Havilland, DBE、[əˈlɪviə də ˈhævɪlənd]1916ねん7がつ1にち - 2020ねん7がつ26にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく女優じょゆう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

女優じょゆうとしてのキャリア初期しょきには清純せいじゅんむすめやくえんじることがおおかったが、キャリア後期こうきには存在そんざいかんのある重厚じゅうこう役柄やくがらえんじている[1]。デ・ハヴィランドはイギリスじん両親りょうしんあいだ日本にっぽんまれた。いもうとジョーン・フォンテイン日本にっぽんまれで、デ・ハヴィランドとおなじく女優じょゆうみちすすんでいる。デ・ハヴィランドの家系かけいは、イギリス王室おうしつにあたるノルマンディーこうギヨーム2せい(ウィリアム1せい)とともノルマン・コンクエストくわわったノルマンじんのド・アヴィル (de Haville) にさかのぼる[2]。1919ねん一家いっか日本にっぽんはなれて故国ここくイギリスへとかったが、たび途中とちゅう姉妹しまいやまいにかかったため滞在たいざいちゅうカリフォルニアに、母子ぼしだけがそのまま移住いじゅうした。

デ・ハヴィランドが出演しゅつえんした映画えいがのなかでもっとも有名ゆうめい作品さくひんとして『ふうともりぬ』(1939ねん)がげられる。映画えいが作品さくひんではエロール・フリン相手あいてやくえんじることがおおく、『ロビンフッドの冒険ぼうけん』(1938ねん)、『無法者むほうものぐん (en:Dodge City)』(1939ねん)、『カンサス騎兵隊きへいたい』(1940ねん)、『壮烈そうれつだいなな騎兵隊きへいたい』(1941ねん)など、8作品さくひん共演きょうえんしている。

デ・ハヴィランドは『はるかなる』(1946ねん)と『おんな相続そうぞくじん』(1949ねん)で、アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうを2受賞じゅしょうしている。いもうとのジョーン・フォンテインも『断崖だんがい』(1941ねん)でアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしており、2013ねん現在げんざい時点じてんでアカデミー主演しゅえんしょう獲得かくとくした唯一ゆいいつ兄弟きょうだい姉妹しまいとなっている。アカデミーしょうのほかにデ・ハヴィランドは『へびあな』(1948ねん)でナショナル・ボード・オブ・レビュー主演しゅえん女優じょゆうしょうニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょうナストロ・ダルジェントしょう最優秀さいゆうしゅう外国がいこく女優じょゆうしょうヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしている。また、ゴールデングローブしょうでは『おんな相続そうぞくじん』(1949ねん)で主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもんを、『アナスタシア/ひかり・ゆらめいて』(1986ねん)で助演じょえん女優じょゆうしょう(ミニシリーズ・テレビ映画えいが部門ぶもん)をそれぞれ受賞じゅしょうしている。1960ねんには、それまでの映画えいがかいへの貢献こうけんたたえられてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにプレートが設置せっちされた。2008ねんには当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュから、芸術げいじゅつ分野ぶんや顕彰けんしょうとしてはアメリカ最高さいこう国家こっか芸術げいじゅつメダル (en:National Medal of Arts) がおくられている[3]。2017ねん6がつ史上しじょうさい高齢こうれいの101さいだいえい帝国ていこく勲章くんしょう(DBE)を受章じゅしょうした[4]。2020ねん7がつ26にち、パリの自宅じたくくなった[5][6][7][8]。『ふうともりぬ』の主要しゅよう出演しゅつえんしゃのうち、上映じょうえい当時とうじ成人せいじんしていた最後さいご存命ぞんめいしゃであった(子役こやくふくむとボー・ウィルクスやくミッキー・カーン2022ねん11月20にちまで存命ぞんめいで、カーンの死去しきょによりどうさく主要しゅよう出演しゅつえんしゃ全員ぜんいんこのった)。

ぜん半生はんせい[編集へんしゅう]

オリヴィア・デ・ハヴィランドは、だいいち世界せかい大戦たいせんなかの1916ねん7がつ1にち日本にっぽん東京とうきょう現在げんざい東京とうきょうみなと)で、イギリスじん両親りょうしんあいだまれた。

父親ちちおやのウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872ねん8がつ31にち - 1968ねん5がつ23にち)はケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく出身しゅっしんで、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく英語えいご教授きょうじゅとして日本にっぽんまねかれていたとされているが異説いせつがある(「ジョーン・フォンテイン#幼少ようしょう参照さんしょう)。いずれにしてものちにウォルターは、日本にっぽんでの経験けいけんかして特許とっきょ弁護士べんごしとなっている[9]

母親ははおやのリリアン・オーガスタ(1886ねん6がつ11にち - 1975ねん2がつ20日はつか)は[10][11]、ロンドンの王立おうりつ演劇えんげき学校がっこう出身しゅっしんで、おっとウォルターと来日らいにちするまえには舞台ぶたい女優じょゆうをしていた[9]。リリアンは、むすめたちが1940年代ねんだい女優じょゆうとして成功せいこうおさめたのちに「リリアン・フォンテイン」という芸名げいめいで、ふたた舞台ぶたい女優じょゆう復帰ふっきしている。

オリヴィアの父方ちちかた従兄じゅうけいジェフリー・デ・ハヴィランド (en:Geoffrey de Havilland) は、イギリス空軍くうぐんばくげきデ・ハヴィランド・モスキート設計せっけい担当たんとうしたことで有名ゆうめい[12]のち航空機こうくうきメーカーであるデ・ハヴィランド・エアクラフト創始そうししゃとなった人物じんぶつである。また、オリヴィアの父方ちちかた祖母そぼチャンネル諸島しょとうガーンジー出身しゅっしんだった[13][14]

舞台劇ぶたいげき不思議ふしぎくにのアリス』に出演しゅつえんしたときのオリヴィア・デ・ハヴィランド。1933ねん

オリヴィアの両親りょうしんは1914ねん結婚けっこんしたが、ウォルターが浮気うわきがちな男性だんせいだったために、二人ふたり結婚けっこん生活せいかつかならずしも幸福こうふくとはいえなかった[15]。オリヴィアのいもうとで、のち女優じょゆうジョーン・フォンテインとなるジョーン・デ・ハヴィランドがまれたのは1917ねん10がつ22にちだった。オリビアが後年こうねんかたったところによれば、1918ねんなつ軽井沢かるいざわ別荘べっそうははむすめ滞在たいざいちゅうのこと[ちゅう 1]ははリリアンがある宣教師せんきょうしつまから「あなたのおっと東京とうきょう女中じょちゅう浮気うわきをしているようだ」というはなしいた[16]。そこではは東京とうきょうもどって女中じょちゅう部屋へやはいると、あんじょうおっとウォルターの私物しぶつがあった。そのときからかれらの結婚けっこん生活せいかつ絶望ぜつぼうてき運命うんめい決定けっていづけられていたという[16]。なお、オリヴィアがなんじゅうねんのちになってちちウォルターにこのことについていたところ、ちちはその一連いちれん出来事できごとらなかった様子ようすで、困惑こんわくしながらも当時とうじ記憶きおくおもこし「諜報ちょうほう機関きかんにいるふる友人ゆうじん彼女かのじょ女中じょちゅう)をかくまってしいとたのまれたのだ」とはなした[16]。オリヴィアはそれをき、ちちうそいていないとかんじたといい、両親りょうしん離婚りこん原因げんいんちち浮気うわきではなく、ただの誤解ごかいからはじまった気持きもちのすれちがいだったとしんじているという[16]

1919ねん2がつに、ははリリアンは病弱びょうじゃくだったむすめたちには東京とうきょう気候きこうがあっていないのではないかとかんがえ、ウォルターを説得せっとくして一家いっかはイギリスへともどることをめた[15]。イギリスへもど途中とちゅうにオリヴィアが気管支炎きかんしえんとなり、高熱こうねつたおれたために一家いっかはカリフォルニアにしばらく滞在たいざいしている。そのジョーンも肺炎はいえん罹患りかんしたために、リリアンはにんむすめとカリフォルニアにのこ決断けつだんをし、サンフランシスコから50マイルほどはなれたサラトガうつんだ。しかしながらちちウォルターは家族かぞく見捨みすてて、のち結婚けっこんすることとなる日本人にっぽんじん家政かせいとともに日本にっぽんもどっていった[15]。オリヴィアの両親りょうしんはその別居べっきょ生活せいかつとなったが、二人ふたり正式せいしき離婚りこんしたのは1925ねん2がつになってからだった[17]

ははリリアンは女優じょゆうをやめてかなりの年月としつきっていたために専門せんもんてき知識ちしきわすれかけていたが、むすめたちにシェイクスピアをかせて芸術げいじゅつたいする知識ちしきおし[ちゅう 2]、ほかに音楽おんがく弁論べんろんじゅつなどもむすめたちにまなばせた[18]。1925ねん4がつにウォルターとのあいだ正式せいしき離婚りこん成立せいりつすると、リリアンは百貨店ひゃっかてん経営けいえいしゃジョージ・M・フォンテインと再婚さいこんした。ジョージは厳格げんかく人物じんぶつで、よしむすめとなったオリヴィアとジョーンをきびしくしつけようとしたためにオリヴィアとジョーンはジョージに敵意てきいいだくようになった。また年子としごだったオリヴィアとジョーンもなかわるくなり、この二人ふたり不仲ふなか生涯しょうがいつづいている[19]

デ・ハヴィランドはベルモントのノートルダム高校こうこう (Notre Dame High School) とロス・ガトス高校こうこう (en:Los Gatos High School) でまなんだ[20][21][ちゅう 3]高校生こうこうせい時代じだいのデ・ハヴィランドはくち達者たっしゃなフィールド・ホッケーが得意とくい少女しょうじょで、高校こうこうでは演劇えんげき所属しょぞくしていた[22]。1933ねんにデ・ハヴィランドは、ルイス・キャロル小説しょうせつ原作げんさくとした、地域ちいき素人しろうと劇団げきだん公演こうえん不思議ふしぎくにのアリス』の主役しゅやくアリスはつ舞台ぶたいんだ[22]のちにデ・ハヴィランドはこの舞台ぶたいのことをつぎのようにかえっている。

自分じぶんえんじているやくどころが一心いっしん同体どうたいかんじられるという、なんとも不思議ふしぎ体験たいけんをした最初さいしょでした。そのときのわたしはアリスそのものであり、舞台ぶたいうごわたし魅力みりょくにあふれたアリスの不思議ふしぎくに本当ほんとうあるいていました。この体験たいけん以来いらいわたし演技えんぎたのしむだけでなくあいすることができるようになったのです[22]

1934ねん高校こうこう卒業そつぎょうしたデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場げきじょう上演じょうえんされるシェイクスピア原作げんさく戯曲ぎきょく真夏まなつよるゆめ』の妖精ようせいパックやく出演しゅつえん依頼いらいけた[22]。このとしなつ、オーストリアじん演出えんしゅつマックス・ラインハルトハリウッド・ボウルで『真夏まなつよるゆめ』を上演じょうえんするためにカリフォルニアをおとずれていた。ラインハルトの助手じょしゅ偶然ぐうぜんにデ・ハヴィランドの演技えんぎ興味きょうみいだき、そのことをいたラインハルトが自身じしん監督かんとくする『真夏まなつよるゆめ』の主役しゅやくハーミアの代役だいやくにデ・ハヴィランドを指名しめいした[23]。そしてラインハルトの『真夏まなつよるゆめ』が開幕かいまくするいち週間しゅうかんまえに、ハーミアやく女優じょゆう映画えいが撮影さつえいのためにカリフォルニアをはなれてしまったために、代役だいやくのデ・ハヴィランドがハーミアをえんじることとなった。初日しょにち公演こうえんでデ・ハヴィランドの演技えんぎ好評こうひょうはくし、そのの4週間しゅうかんにわたる巡業じゅんぎょう公演こうえんでデ・ハヴィランドはハーミアをえんつづけた[23]。この巡業じゅんぎょうちゅうにラインハルトは映画えいが会社かいしゃワーナー・ブラザースから、ラインハルトの舞台ぶたいばん真夏まなつよるゆめ』の映画えいがまったというらせをけ、ラインハルト自身じしん映画えいが監督かんとく担当たんとうすることとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台ぶたいばん同様どうようにこの映画えいがでもハーミアやくでの出演しゅつえん依頼いらいもうた。当時とうじのデ・ハヴィランドは英語えいご教師きょうしになるつもりで[23]あきには奨学しょうがくきんてミルズ大学だいがく入学にゅうがくすることがまっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドをせて映画えいが出演しゅつえん承諾しょうだくさせている。そして18さいのデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザースとの8年間ねんかん出演しゅつえん契約けいやくしょにサインした[24]

女優じょゆうとしてのキャリア[編集へんしゅう]

スタジオで撮影さつえいされたせんざい写真しゃしん。1938ねん

デ・ハヴィランドは1935ねん10がつ公開こうかいされた、マックス・ラインハルトの監督かんとく作品さくひん真夏まなつよるゆめ (en:A Midsummer Night's Dream)』で映画えいがデビューした。そのもコメディアンのジョー・E・ブラウン (en:Joe E. Brown) 主演しゅえんの『ブラウンのかい投手とうしゅ (en:Alibi Ike)』(1935ねん)、ジェームズ・キャグニー主演しゅえんの『頑張がんばれキャグニー (en:The Irish in Us)』(1935ねん)と、つづけに3ほんのコメディ映画えいが出演しゅつえんしている[24][25]

これら3ほんのコメディ映画えいがたいする評価ひょうか賛否さんぴ両論りょうろんであり、デ・ハヴィランドにたいする観客かんきゃくからの反応はんのうはよくなかった[24]。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドを路線ろせん変更へんこうすることをめ、当時とうじ無名むめいだったオーストラリアの俳優はいゆうエロール・フリン相手あいてやくとして『海賊かいぞくブラッド』(1935ねん)に出演しゅつえんさせるというけにた。デ・ハヴィランドが起用きようされたのは、ワーナー・ブラザースのプロデューサーであるハル・B・ウォリスが、デ・ハヴィランドとのことを「おり」でしたかったためだという要因よういんもあった[26][26]。『海賊かいぞくブラッド』はだいヒットし、批評ひひょうたちも主演しゅえんした二人ふたり役者やくしゃたか評価ひょうかした[27]。このため、デ・ハヴィランドとフリンの共演きょうえん作品さくひん次々つぎつぎ製作せいさくされることとなり、『すす龍騎兵りゅうきへい (en:The Charge of the Light Brigade)』(1936ねん)、『ロビンフッドの冒険ぼうけん』(1938ねん)、 『無法者むほうものぐん』(1939ねん)、『カンサス騎兵隊きへいたい (en:Santa Fe Trail)』(1940ねん)、『壮烈そうれつだいなな騎兵隊きへいたい』(1941ねん)など、合計ごうけい8ほん映画えいが製作せいさくされている[27]

ふうともりぬ』(1939ねん)のせんざい写真しゃしん。デ・ハヴィランドはメラニー・ハミルトンやくえんじた。

1930ねん後半こうはんにデ・ハヴィランドは、『Call It a Day』(1937ねん)、『結婚けっこんスクラム (en:Four's a Crowd)』(1938ねん)、『Hard to Get』(1938ねん)などさまざまな内容ないよう現代げんだいふうライトコメディ作品さくひん出演しゅつえんしている。現代げんだいふうコメディ以外いがい作品さくひんとしては『風雲児ふううんじアドヴァース (en:Anthony Adverse)』(1936ねん)、『The Great Garrick』(1937ねん)などに出演しゅつえんしており、これらの作品さくひんでは、デ・ハヴィランドの洗練せんれんされた容姿ようしうつくしい台詞回せりふまわしが効果こうかてき描写びょうしゃされている[28]。コメディ映画えいがでのデ・ハヴィランドの演技えんぎ批評ひひょうからも観客かんきゃくからもおおむ好評こうひょうであり、デ・ハヴィランドがえんじたいとのぞんでいたシリアスで重厚じゅうこうやくどころへとすきっかけとはならなかった[28]。そのようななかで『ふうともりぬ』(1939ねん)のメラニー・ハミルトンは、まさしくデ・ハヴィランドがもとめていたシリアスなやくだった。マーガレット・ミッチェルいた大河おおかわ小説しょうせつふうともりぬ』を原作げんさくとするこの映画えいがは、大物おおものプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック製作せいさくした大作たいさくである。原作げんさく小説しょうせつんだデ・ハヴィランドは、このメラニー・ハミルトンが自分じぶんにとっておおきな転機てんきとなるやくだと直感ちょっかんした。『ふうともりぬ』の監督かんとく起用きようされたジョージ・キューカーが、デ・ハヴィランドのいもうとジョーン・フォンテインにこのメラニー・ハミルトンやくのオーディションをけるようすすめたという複数ふくすう資料しりょう存在そんざいする。しかしながら、メラニーやくよりも主役しゅやくのスカーレット・オハラに興味きょうみっていたフォンテインはキューカーのさそいをことわったとされており、自分じぶんわりにあねデ・ハヴィランドをキューカーに推薦すいせんしたといわれている[28]最終さいしゅうてきにはワーナー・ブラザースの社長しゃちょうジャック・L・ワーナーつまアンが、デ・ハヴィランドのメラニーやく起用きよう後押あとおししている[29]。そして『ふうともりぬ』でメラニーをえんじたデ・ハヴィランドは、アカデミー助演じょえん女優じょゆうしょうにノミネートされた[30]。しかしながらこのとしアカデミー助演じょえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしたのは、おなじく『ふうともりぬ』でスカーレットの黒人こくじん召使めしつかいマミーやくえんじた女優じょゆうハティ・マクダニエルだった。

『カンサス騎兵隊きへいたい』(1940ねん)のせんざい写真しゃしん

ふうともりぬ』のメラニーやく批評ひひょうたちから絶賛ぜっさんされたデ・ハヴィランドは、それまでにもしてシリアスでむずかしいやくどころをえんじてみたいとかんがえていた。しかしながらワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドの期待きたいにはこたえなかった。『女王じょおうエリザベス (en:The Private Lives of Elizabeth and Essex)』(1939ねん)で、主役しゅやくベティ・デイヴィスとエロール・フリンにさん番目ばんめやくえんじたデ・ハヴィランドは、犯罪はんざいドラマ映画えいが犯人はんにんだれだ (en:Raffles)』(1939ねん)への出演しゅつえんめいじられて、ワーナー・ブラザース外部がいぶ映画えいがプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンあづけられている。また、つぎさくのライトコメディミュージカル映画えいがMy Love Came Back』(1940ねん)の主役しゅやくまっていた[31]。1940年代ねんだい前半ぜんはんのデ・ハヴィランドは、えんじがいがなく浅薄せんばくだと自身じしんおもやくばかりに起用きようされることにたいしておおきな不満ふまんつようになっていった[31][32]。『ふうともりぬ』のメラニー・ハミルトンやくで、シリアスなやくどころもえんじる能力のうりょくがあることを証明しょうめいしたとかんがえていたデ・ハヴィランドにとって、以前いぜんわらない純情じゅんじょうむすめやく可憐かれん乙女おとめやく苦痛くつうでしかなかったのである。デ・ハヴィランドはこれまで同様どうよう内容ないよう配役はいやくかれた脚本きゃくほんかえすようになり、自身じしんのぞむやりがいのあるやく積極せっきょくてきさがしていった。さらにデ・ハヴィランドは、『カンサス騎兵隊きへいたい』や『壮烈そうれつだいなな騎兵隊きへいたい』など評判ひょうばんがよかったエロール・フリンとのながきにわたる共演きょうえんわらせた。共演きょうえんした最後さいご作品さくひんである『壮烈そうれつだいなな騎兵隊きへいたい』はもっともなが二人ふたりかた場面ばめん描写びょうしゃされた作品さくひんとなっている[31]。 1941ねん11月28にちにデ・ハヴィランドはアメリカに帰化きかした[33][34]。 1940年代ねんだい前半ぜんはんにデ・ハヴィランドが出演しゅつえんした映画えいがでヒットした作品さくひんとして『いちごブロンド (en:The Strawberry Blonde)』(1941ねん)、『Hold Back the Dawn』(1941ねん)、『カナリヤひめ (en:Princess O'Rourke)』(1943ねん)などがげられる。『カナリヤひめ』でえんじたマリア王女おうじょは、ワーナー・ブラザースでえんじたやくのうち、デ・ハヴィランドにとってもっとも満足まんぞくのいくやくどころだった[35][ちゅう 4]。デ・ハヴィランドはだい14かいアカデミーしょうで、『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウンやく主演しゅえん女優じょゆうしょうにノミネートされた。

『カンサス騎兵隊きへいたい』(1940ねん)で共演きょうえんしたデ・ハヴィランドとエロール・フリン。

デ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザース作品さくひんの『男性だんせい (en:The Male Animal)』(1942ねん)、『追憶ついおくおんな (en:In This Our Life)』(1942ねん)、『陽気ようきおんな秘書ひしょ (en:Government Girl)』(1944ねん)、『まごころ (en:Devotion)』(1946ねん)に出演しゅつえんした。『まごころ』の公開こうかいねんは1946ねんだが撮影さつえい自体じたいは1943ねん終了しゅうりょうしており、公開こうかいねんとしてはこの『まごころ』がデ・ハヴィランドの7年間ねんかんにわたるワーナー・ブラザースとの契約けいやくにおける最後さいご出演しゅつえん作品さくひんとなった。ワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドに6カ月かげつ契約けいやく延長えんちょうげたが、デ・ハヴィランドはこのもうれをれなかった[37]当時とうじ法律ほうりつでは、契約けいやくちゅう俳優はいゆう製作せいさく会社かいしゃから提示ていじされた配役はいやく拒否きょひした場合ばあいには、その作品さくひん撮影さつえい期間きかん契約けいやく期間きかん加算かさん延長えんちょうすることをみとめており、ほとんどの俳優はいゆうはこの慣例かんれいのもとでの契約けいやくれていた。しかしながらこの契約けいやく形態けいたい疑問ぎもん俳優はいゆう少数しょうすうながら存在そんざいし、1930年代ねんだいベティ・デイヴィスがワーナー・ブラザースに訴訟そしょうこしたことがあったが最終さいしゅうてきには敗訴はいそしている。デ・ハヴィランドは顧問こもん弁護士べんごし助言じょげん全米ぜんべい映画えいが俳優はいゆう組合くみあい後押あとおしをけて、1943ねん8がつにワーナー・ブラザースを相手取あいてどって出演しゅつえん拒否きょひたいする契約けいやく期間きかん延長えんちょう処置しょちへの訴訟そしょうこした。この訴訟そしょう審理しんりしたカリフォルニアしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょはワーナー・ブラザースの異議いぎ却下きゃっかし、デ・ハヴィランドの勝訴しょうそとする判決はんけつくだした(判例はんれい #487, 685)[38]。それまでの製作せいさく会社かいしゃ絶大ぜつだい権限けんげんよわめ、俳優はいゆうたちにはるかに自由じゆう創作そうさく活動かつどうあたえるというこの判決はんけつは、ハリウッド映画えいがかい非常ひじょう重要じゅうようおおきな影響えいきょうあたえることとなった。デ・ハヴィランドがたこの判例はんれいは、いまでも「デ・ハヴィランドほう (en:De Havilland Law)」としてられている[39]製作せいさく会社かいしゃ相手取あいてどって勝訴しょうそしたデ・ハヴィランドは、俳優はいゆう仲間なかまたちから敬意けいい賞賛しょうさんまととなった。デ・ハヴィランドと不仲ふなかだったいもうとのジョーン・フォンテインも「ハリウッドはオリヴィアに途方とほうもなくおおきなりがあります」とコメントしている[40]敗訴はいそしたワーナー・ブラザースはデ・ハヴィランドにかんする書簡しょかんをほかの製作せいさく会社かいしゃおくりつけた。そしてデ・ハヴィランドは「ブラックリスト女優じょゆう」とみなされて、その2年間ねんかんにわたって映画えいが作品さくひん出演しゅつえんすることができなかった[38]

追憶ついおくおんな』(1942ねん)におけるデ・ハヴィランド。

ブロンテ姉妹しまい生涯しょうがい大幅おおはば脚色きゃくしょくした映画えいがで、1943ねん撮影さつえい終了しゅうりょうしていたもののワーナー・ブラザースとの訴訟そしょう期間きかんちゅうはおぞうりとなっていた『まごころ』の公開こうかい、デ・ハヴィランドはパラマウント映画えいがと3ほん映画えいが出演しゅつえんする契約けいやくわした。そしてこれらの映画えいがえんじたさまざまな役柄やくがらへの演技えんぎが、そののデ・ハヴィランドの女優じょゆうとしてのキャリアを決定けっていける先駆さきがけとなった。ジェームズ・エイジーは『くらかがみ (en:The Dark Mirror)』(1946ねん)について、デ・ハヴィランドがつねに「もっとも可憐かれん映画えいが女優じょゆう一人ひとりだった」としつつ、近年きんねん映画えいがではすぐれた演技えんぎりょく女優じょゆうであることも証明しょうめいしてせたとしている。そして「そのすぐれた才能さいのう」をひょうしていない場面ばめんでさえも、デ・ハヴィランドの演技えんぎりょくが「思慮しりょふかく、うちめたささやかな演技えんぎたもつづけている」と指摘してきした。さらにエイジーは、デ・ハヴィランドの演技えんぎが「ゆたかな才能さいのうだけでなく、(デ・ハヴィランドの)心身しんしんともに健全けんぜんこのましい内面ないめんによるところがおおきい。ているだけでうれしくなってしまう」とむすんでいる[41]。デ・ハヴィランドは『はるかなる』(1946ねん)のジョゼフィン・ノリスやくアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうし、さらに『おんな相続そうぞくじん』(1949ねん)のキャサリン・スローパーやくでアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかい主演しゅえん女優じょゆうしょうゴールデングローブしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん受賞じゅしょうした。『へびあな』(1948ねん)のヴァージニア・スチュアート・カニンガムやくたか評価ひょうかされ、アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうにノミネートされている。この『へびあな』は精神せいしん疾患しっかん正面しょうめんからえがいた最初さいしょ映画えいがひとつで、「陰惨いんさん精神せいしん病院びょういん実態じったいあばした、ハリウッドの歴史れきしのこ重要じゅうよう作品さくひん」といわれている[12]。デ・ハヴィランドがそれまでの美女びじょやくとはまったくかけはなれたやくえんじた意欲いよくと、議論ぎろんこるであろう作品さくひんこうからんだ姿勢しせいたか評価ひょうかされた。デ・ハヴィランドはこの『へびあな』でニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかい主演しゅえん女優じょゆうしょうナストロ・ダルジェント最優秀さいゆうしゅう外国がいこくじん女優じょゆうしょうナショナル・ボード・オブ・レビュー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしている。

Publicity photo of Olivia de Havilland, 1952
デ・ハヴィランドのせんざい写真しゃしん。1952ねん

この時期じきのデ・ハヴィランドは確固かっこたる自由じゆう主義しゅぎしゃで、民主党みんしゅとうフランクリン・ルーズベルトハリー・S・トルーマン支持しじしゃだった[42]自由じゆう主義しゅぎへの共産きょうさん主義しゅぎ浸透しんとう憂慮ゆうりょしていたデ・ハヴィランドは、1946ねんにある騒動そうどうこし、マスコミにもおおきく報道ほうどうされた。スターリン主義しゅぎによる残虐ざんぎゃく行為こういかんする報告ほうこくかいで、ハリウッド美術びじゅつ科学かがく専門せんもんしょく独立どくりつ市民しみん委員いいんかい事前じぜん用意よういした演説えんぜつ原稿げんこうから、おや共産きょうさん主義しゅぎおもわれる箇所かしょばしてげたのである。この独立どくりつ市民しみん委員いいんかいのち共産きょうさん主義しゅぎしゃ偽装ぎそう組織そしきだと認定にんていされている[43]。デ・ハヴィランドは、独立どくりつ市民しみん委員いいんかい自由じゆう主義しゅぎ会員かいいんたちがいちにぎりの上層じょうそう共産きょうさん主義しゅぎ会員かいいんあやつられているのではないかと危惧きぐするようになった。そして、1946ねん中間ちゅうかん選挙せんきょ民主党みんしゅとう大勝たいしょうすれば、独立どくりつ市民しみん委員いいんかいしんソヴィエトてき言動げんどう抑制よくせいできるとかんがえた。デ・ハヴィランドは、独立どくりつ市民しみん委員いいんかい共産きょうさん主義しゅぎしゃからもどすための活動かつどうはじめたが、最終さいしゅうてきにはこの活動かつどう失敗しっぱいし、デ・ハヴィランドに共鳴きょうめいして改革かいかくくわわったハリウッド業界ぎょうかいじんたちのおおくが離脱りだつするという結果けっかとなった。デ・ハヴィランドに説得せっとくされて改革かいかくくわわっていた俳優はいゆうロナルド・レーガンがおり、その1952ねん以降いこうのレーガンの政治せいじ活動かつどう劇的げきてき変化へんかしていった[42]。デ・ハヴィランドが自由じゆう主義しゅぎ改革かいかく活動かつどうをあまりに主張しゅちょうしたために、赤狩あかが舞台ぶたいとなった下院かいんべい活動かつどう委員いいんかいに1958ねん召還しょうかんされたこともあったが、女優じょゆうとしてのキャリアにきずがつくことはなかった[42]

『Libel』(1959ねん)のせんざい写真しゃしん

1950年代ねんだい以降いこう、デ・ハヴィランドの映画えいが出演しゅつえん散発さんぱつてきになっていった。1951ねん公開こうかい予定よていだった映画えいが欲望よくぼうという電車でんしゃ』の主役しゅやくブランチ・デュボアを提示ていじされたが、デ・ハヴィランドはこのオファーをっている。このブランチ・デュボアやく拒否きょひした理由りゆうについて、脚本きゃくほん内容ないよう生理せいりてきれられなかったことと、くちにしたくない台詞せりふおおくあったためだといわれてきた。しかしながらデ・ハヴィランドは2006ねんにこのうわさ否定ひていし、おさな子供こども世話せわわれていたためにやくけることができなかったとかたっている[44]最終さいしゅうてきにブランチ・デュボアやくは『ふうともりぬ』でデ・ハヴィランドと共演きょうえんしたヴィヴィアン・リーが、ロンドンでの舞台ぶたいばん欲望よくぼうという電車でんしゃ』でブランチやくえんじたのにつづいて映画えいがばんのブランチやくけ、度目どめのアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとくした[45]

デ・ハヴィランドが1960年代ねんだい出演しゅつえんした数少かずすくない作品さくひんなかで、もっともよくられているのが『不意打ふいう』(1964ねん)で、デ・ハヴィランドはエレベーターにめられて乱入らんにゅうしゃおどされる未亡人みぼうじんコーネリア・ヒリヤードやくえんじている。ほかの作品さくひんとしてロバート・アルドリッチ監督かんとく作品さくひんふるえてねむ』(1964ねん)、キャサリン・アン・ポーター (en:Katherine Anne Porter) の小説しょうせつサム・ペキンパー監督かんとくでテレビドラマした『ひるしゅ ( en:Noon Wine)』(1966ねん)が有名ゆうめいである。1965ねんにデ・ハヴィランドは、カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいはつ女性じょせい審査しんさ委員いいんちょう任命にんめいされた。

デ・ハヴィランドは1970年代ねんだい後半こうはんまで映画えいが女優じょゆうつづけ、そのテレビ番組ばんぐみへと舞台ぶたいうつして1980年代ねんだい後半こうはんまで活動かつどうつづけた。1986ねん出演しゅつえんしたテレビ映画えいがアナスタシア/ひかり・ゆらめいて』ではロシア皇后こうごうマリア・フョードロヴナえんじ、ゴールデングローブ助演じょえん女優じょゆうしょう (ミニシリーズ・テレビ映画えいが部門ぶもん)受賞じゅしょうしている。

2000ねん以降いこうのデ・ハヴィランド[編集へんしゅう]

デ・ハヴィランドは1953ねん以来いらい、フランスのパリ市内しない居住きょじゅうし、セーヌがわ左岸さがん地域ちいきおよび60年代ねんだい以降いこうどうパリ右岸うがんパリ16ロンシャンどお界隈かいわいくなるときまで居住きょじゅうした[46]。2000ねん以降いこうのデ・ハヴィランドがおおやけ姿すがたせることはほとんどなかった。

2003ねんだい75かいアカデミーしょう授賞じゅしょうしきにプレゼンターとしてあらわれたときには、1分間ふんかんにもおよぶスタンディングオベーションむかえられた。2006ねん6がつに、映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミーとロサンゼルス州立しゅうりつ美術館びじゅつかんがデ・ハヴィランドの90さい誕生たんじょういわ式典しきてん開催かいさいし、デ・ハヴィランドもこの式典しきてん出席しゅっせきしている。

2004ねんターナー・クラシック・ムービーズが「おものメラニー (Melanie Remembers)」というテレビ番組ばんぐみ制作せいさくした。この番組ばんぐみは『ふうともりぬ』の公開こうかい65周年しゅうねん回顧かいこ記念きねん番組ばんぐみひとつで、デ・ハヴィランドのインタビューを中心ちゅうしんとして構成こうせいされていた。『おものメラニー』が公開こうかいされたときに『ふうともりぬ』の主要しゅようキャストで存命ぞんめいちゅうだった人物じんぶつとしてデ・ハヴィランドのほかに、インディア・ウィルクスやくアリシア・レット、メイベル・メリーウェザーやくのメアリー・アンダーソン (en:Mary Anderson)、ボー・ウィルクスやくのミッキー・カーン (en:Mickey Kuhn) がいた(2023ねん現在げんざいはいずれも故人こじんとなっている、詳細しょうさいはそれぞれの人物じんぶつ記事きじ参照さんしょうのこと)。デ・ハヴィランドはインタビューでメラニーやくのことや撮影さつえいちゅうのことなどをいまでもはっきりおぼえているとかたっている。40ふんにわたるこの番組ばんぐみは、4まいぐみのDVDの一部いちぶとして発売はつばいされた。

2008ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュから、国民こくみん芸術げいじゅつ勲章くんしょう授与じゅよされたデ・ハヴィランド。

2008ねん11月17にちに、92さいだったデ・ハヴィランドは芸術げいじゅつ分野ぶんや顕彰けんしょうとしてはアメリカ最高さいこう国民こくみん芸術げいじゅつ勲章くんしょう受章じゅしょうした。メダルをデ・ハヴィランドに授与じゅよした大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュは、「シェークスピアのハーミアからマーガレット・ミッチェルのメラニーまで幅広はばひろ役柄やくがらえんける、その説得せっとくりょくにあふれたひとをひきつけてはなさない演技えんぎりょくたいして。彼女かのじょ独立どくりつしん誠実せいじつさ、優雅ゆうがさがゆたかな創造そうぞうりょくはなち、素晴すばらしい映画えいが女優じょゆうとしてだい成功せいこうさせたのです」と演説えんぜつした[47]

2009ねんに、デ・ハヴィランドはドキュメント番組ばんぐみI Remember Better When I Paint』のナレーターを担当たんとうした[48]。この番組ばんぐみは、芸術げいじゅつ分野ぶんやにおけるアルツハイマーがた認知にんちしょう重要じゅうようせいえがいた作品さくひんだった[49]。2011ねんにはパリで開催かいさいされた特別とくべつ上映じょうえいかいにも出席しゅっせきしている[50]

2010ねん9がつ9にちに、デ・ハヴィランドはフランスの最高さいこう勲章くんしょうであるレジオンドヌール勲章くんしょうシュヴァリエしょう授与じゅよされた。勲章くんしょう授与じゅよしたフランス大統領だいとうりょうニコラ・サルコジは、「フランスを(住居じゅうきょとして)えらんでくださったことをほこりにおもいます」とかたった[51]

2011ねん2がつ1にちに、デ・ハヴィランドはフランスの映画えいがしょうセザールしょう授与じゅよしき姿すがたせた。式典しきてん代表だいひょうつとめた女優じょゆうジョディ・フォスター紹介しょうかいすると、会場かいじょうはスタンディングオベーションでデ・ハヴィランドをむかえた[52]

2014ねん1がつ3にち、インディア・ウィルクスやくアリシア・レットくなる。レットのにより、デ・ハヴィランドは存命ぞんめいしている『ふうともりぬ』出演しゅつえんしゃちゅう最年長さいねんちょうとなる[53]

2016ねん2がつに、デ・ハヴィランドは風刺ふうし雑誌ざっし『オールディ』 (en:The Oldie) によって、「今年ことしのオールディ」に選定せんていされた。フランスの自宅じたくからロンドンの授賞じゅしょうしきまでしょうりに出向でむくことはできなかったが、録音ろくおんされたメッセージのなかで、「大変たいへんうれしくおもいます」とはなした[54]

2020ねん7がつ26にち死去しきょ[55][56]

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

日本にっぽん滞在たいざい時代じだい[編集へんしゅう]

カリフォルニアしゅうサラトガ箱根はこねガーデン開園かいえんしたイザベル・スタインは、その開園かいえんのきっかけとなる日本にっぽん旅行りょこうちゅうにデ・ハヴィランド偶然ぐうぜんい、その偶然ぐうぜんにもオリビア母子ぼしがサラトガに移住いじゅうしたことから、両家りょうけしたしい交際こうさいはじまった[57]

芥川あくたがわ比呂志ひろしによれば、大学だいがくがある日吉ひよし東急東横とうきゅうとうよこせん中村なかむら真一郎しんいちろう加藤かとう道夫みちお通学つうがくしていた時代じだい、オリヴィア、ジョーン姉妹しまいとよくわせていた[58]

羽仁はに五郎ごろうによれば、軽井沢かるいざわ教会きょうかいひらかれた別荘べっそう住民じゅうみんによる音楽おんがくかいでオリヴィア、ジョーン姉妹しまいうた披露ひろうしたことがある[59]。なおオリヴィアによれば、軽井沢かるいざわにはデ・ハヴィランド所有しょゆうする物件ぶっけん別荘べっそう)が2つあってなつ滞在たいざいしていた[16]

交友こうゆう関係かんけい[編集へんしゅう]

ロビンフッドの冒険ぼうけん』(1938ねん)の宣伝せんでんフィルム。デ・ハヴィランドとエロール・フリン

8ほん作品さくひん共演きょうえんしたデ・ハヴィランドとエロール・フリンは、ハリウッド屈指くっしのカップルといわれていたが、私生活しせいかつ恋愛れんあい関係かんけいになったことはなかった。デ・ハヴィランドはフリンについて

わたし(デ・ハヴィランド)が恋心こいごころいていたなどとは、かれ(フリン)もおもっていなかったでしょう。たがいにそのような感情かんじょうはありませんでした。わたしなにかで、映画えいがすす龍騎兵りゅうきへい』の撮影さつえいちゅうだった1935ねんに、かれわたしにラブレターをいたことがあるという記述きじゅつんだことがあります。これにはおどろきました。なんほんもの作品さくひん恋人こいびとやくえんじてきましたが、かれわたししんうごかされたことはいちもなく、こんな手紙てがみをもらったことはなかったからです[60]

かたっている。

しかしながらデ・ハヴィランドはのインタビューで、二人ふたりたがいに好意こういいておりフリンが求婚きゅうこんしたことがあったが、デ・ハヴィランドは当時とうじのフリンが女優じょゆうリリ・ダミタ (en:Lili Damita) と結婚けっこんしていたために、この求婚きゅうこんことわったともかたっている[61]。1939ねん12月から1942ねん3がつまで、デ・ハヴィランドは俳優はいゆうジェームズ・ステュアート交際こうさいしていた。デ・ハヴィランドの代理人だいりにんアイリーン・メイヤー・セルズニックが、1939ねん12月19にちにニューヨークのアスター劇場げきじょう開催かいさいされる『ふうともりぬ』のプレミア試写ししゃかいで、ステュアートにデ・ハヴィランドのエスコートやくたのんだことがある。この依頼いらいけたステュアートはすう日間にちかんにわたって複数ふくすう劇場げきじょうでデ・ハヴィランドのエスコートやくつとめ、有名ゆうめいなレストランの21クラブにもデ・ハヴィランドと同行どうこうした[62]。ステュアートがアメリカ空軍くうぐん志願しがんするために飛行ひこう訓練くんれんけていたロサンゼルスでもにん逢瀬おうせつづいた。デ・ハヴィランドは、1940ねんにステュアートが求婚きゅうこんしたが、まだステュアートには結婚けっこん心積こころづもりが出来できていないとかんじてことわったことがあるとしている[62]二人ふたり関係かんけいは1941ねん3がつにステュアートが空軍くうぐん入隊にゅうたいしたことにより中断ちゅうだんした。それでも1942ねんまで3がつまで断続だんぞくてきにではあるがにん関係かんけいつづいていたが、デ・ハヴィランドが映画えいが監督かんとくジョン・ヒューストンかれていったために、ステュアートとの関係かんけいわりをげている[63]

結婚けっこんども[編集へんしゅう]

息子むすこのベンジャミンと一緒いっしょのデ・ハヴィランド。1952ねん

デ・ハヴィランドは、作家さっか脚本きゃくほんでもあった退役たいえき海軍かいぐん軍人ぐんじんマーカス・グッドリッチ (en:Marcus Goodrich) と1946ねん1がつ24にち結婚けっこんした。二人ふたりあいだには1949ねん12月1にち一人ひとり息子むすこベンジャミン・グッドリッチがまれたが、1952ねん離婚りこんしている。息子むすこベンジャミンはがんのために、ちちマーカスが死去しきょするさん週間しゅうかんまえの1991ねん10がつ1にちに41さい死去しきょした[64]

デ・ハヴィランドが、ジャーナリストでフランスの雑誌ざっし『パリ・マッチ (en:Paris Match)』の編集へんしゅうしゃピエール・ギャラント (fr:Pierre Galante) と再婚さいこんしたのは1955ねん4がつ2にちである。二人ふたりあいだには1956ねん7がつ18にち一人娘ひとりむすめジゼル・ギャラントがまれた。この結婚けっこんにパリへの移住いじゅう人生じんせいさい設計せっけい決意けついしたと、デ・ハヴィランドの回想かいそうろく『Every Frenchman Has One』にはしるされている。1962ねんからにん別居べっきょしていたが、正式せいしき離婚りこんしたのは1979ねんのことだった[65]

後半こうはんせい[編集へんしゅう]

恋愛れんあい合戦かっせん (en:It's Love I'm After)』(1937ねん)、『女王じょおうエリザベス』(1939ねん)、『追憶ついおくおんな』(1942ねん)、『ふるえてねむれ』(1964ねん)で共演きょうえんした女優じょゆうベティ・デイヴィスは、その生涯しょうがいにわたってデ・ハヴィランドの親友しんゆうだった。ほかにもグロリア・スチュアートは2010ねんに100さい死去しきょするまでデ・ハヴィランドの親友しんゆうだった女優じょゆうである。2008ねん4がつには、ロサンゼルスでおこなわれた俳優はいゆうチャールトン・ヘストン葬儀そうぎ参列さんれつしていた。またこのとしには、アカデミーしょう主催しゅさい団体だんたいである映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー企画きかくしたベティ・デイヴィス生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねん式典しきてんにサプライズ・ゲストとしてまねかれている[66]

いもうととの確執かくしつ[編集へんしゅう]

デ・ハヴィランドのいもうとジョーン・フォンテイン。デ・ハヴィランドと同時どうじにアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうにノミネートされ、フォンテインが主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうした『断崖だんがい』(1941ねん)の宣伝せんでんフィルム。

オリヴィア・デ・ハヴィランドといもうとのジョーン・フォンテインは、アカデミー主演しゅえんしょう受賞じゅしょうした史上しじょう唯一ゆいいつ兄弟きょうだい姉妹しまいである。最初さいしょ女優じょゆうみちえらんだのはデ・ハヴィランドで、いもうとのフォンテインもあねつづいて女優じょゆうになろうとした。しかし、二人ふたり母親ははおやリリアンはデ・ハヴィランドのほうを可愛かわいがっており、フォンテインが女優じょゆうになっても「デ・ハヴィランド」という名前なまえ使つかうことをゆるさなかったといわれている。このためフォンテインはべつ芸名げいめいをつけざるをなくなり、最初さいしょにジョーン・バーフィールド、のちにジョーン・フォンテインという名前なまえ芸能げいのう活動かつどうつづけることとなった。伝記でんき作家さっかのチャールズ・ハイアム (en:Charles Higham) は、この姉妹しまいおさないころからいつも喧嘩けんかをしていたと指摘してきしており、フォンテインはデ・ハヴィランドのおがりのふくあたえられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインにわたふくをわざとやぶったために、フォンテインはそのふくなおしてなければならなかったというエピソードを紹介しょうかいしている[67]

1942ねんにデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時どうじにアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうにノミネートされた。対象たいしょうとなったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウンやく、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督かんとく作品さくひん断崖だんがい』のリナ・マクレイドロウやくで、主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとくしたのはいもうとのフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優じょゆうという仕事しごと心身しんしんささげていない自分じぶんしょう獲得かくとくしたことにたいしてうしろめたくかんじていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞じゅしょうしきで、主演しゅえん女優じょゆうしょうるためにあるしたフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福しゅくふくをあからさまに拒絶きょぜつしたために、デ・ハヴィランドは気分きぶんがいして当惑とうわくしてえたと記述きじゅつしている。

ハイアムはフォンテインが自分じぶんむすめとも疎遠そえんになったとしており、おそらくむすめ伯母おばであるデ・ハヴィランドとかくれて連絡れんらくっていたためではないかと指摘してきしている[67]。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分じぶんたちの関係かんけい公言こうげんしたことはほとんどない。ただしフォンテインは1979ねんのインタビューで、自分じぶんたち姉妹しまいくちをきかなくなったのは、がんくるしんでいた母親ははおや外科げか手術しゅじゅつけさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時とうじ88さい母親ははおやには手術しゅじゅつ無理むりだとかんがえていた自分じぶんとのあいだ意見いけん対立たいりつしたことが原因げんいんだとかたったことがある。そしてフォンテインは、ははリリアンが死去しきょしたときにデ・ハヴィランドが、当時とうじ舞台ぶたい巡業じゅんぎょう公演こうえん各地かくちまわっていた自分じぶんさがそうとしなかったと主張しゅちょうしている。デ・ハヴィランドはははらせる電報でんぽうをフォンテインにおくったが、この電報でんぽうをフォンテインがにしたのは週間しゅうかんで、フォンテインがははったのはつぎ公演こうえん移動いどうしてからのことだった[68]

姉妹しまい確執かくしつは2013ねん12月のフォンテインの終焉しゅうえんむかえた。フォンテインは生前せいぜんに「わたしのほうがオリヴィアよりもさき結婚けっこんし、さきにアカデミーしょう受賞じゅしょうしました。もしわたしのほうがさき死去しきょすることがあれば、すべてにおいてわたしかれたとって彼女かのじょ間違まちがいなく激怒げきどすることでしょう」とかたっていた[69]。しかし、デ・ハヴィランドはいもうとのニュースに「衝撃しょうげきけ、かなしみにおそわれています」との声明せいめい発表はっぴょうした[70]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

デ・ハヴィランドは1960ねん回顧かいころくEvery Frenchman Has One』を出版しゅっぱんした。また、ジョン・リッチフィールドによるとデ・ハヴィランドが自叙伝じじょでん執筆しっぴつちゅうで、2009ねん9がつには初稿しょこう完成かんせいさせたいとしている[71]。2015ねん1がつのインタビューでデ・ハヴィランドは自叙伝じじょでん執筆しっぴつんでいるとべた[72]

訴訟そしょう[編集へんしゅう]

2017ねん6がつ30にち自身じしん誕生たんじょう前日ぜんじつにドラマシリーズ『フュード/確執かくしつ ベティ vs ジョーン』のテレビ局てれびきょくFXおよびプロデューサーのライアン・マーフィーたいして訴訟そしょうこした。ドラマはタイトルのとおり、デ・ハヴィランドの旧友きゅうゆうベティ・デイヴィスと『なにがジェーンにおこったか?』の共演きょうえんしゃジョーン・クロフォード確執かくしつえがいたもので、キャサリン・ゼタ=ジョーンズがデ・ハヴィランドとして登場とうじょうしている。

このドラマが前述ぜんじゅついもうとジョーン・フォンテイン本人ほんにん関係かんけいにもれ、そのシーンでデ・ハヴィランドがフォンテインを"bitch"と侮辱ぶじょくしたようにえがかれている。このシーンがデ・ハヴィランドのイメージをおおいにきずつけるとして訴訟そしょうこした。しかし、FXやマーフィーがわ過去かこにデ・ハヴィランドが出演しゅつえんした映画えいがやドラマにおける下品げひん表現ひょうげん"God damn it"や"son of a bitch"、また彼女かのじょ著書ちょしょなかから"I don't play bitches"という引用いんようしめ対抗たいこうしている。

2018ねん3がつ、カリフォルニアしゅう裁判所さいばんしょは「制作せいさくしゃがわ表現ひょうげん自由じゆうさだめたべい憲法けんぽうまもられる」としてうったえを退しりぞけた。デ・ハヴィランドは上訴じょうそしたが、2019ねん1がつ7にち連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ棄却ききゃくした[73]

映画えいがしょう表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッドどおり6762にある、デ・ハヴィランドのスター・プレート。
グローマンズ・チャイニーズ・シアターのデ・ハヴィランドの手形てがた足型あしがた
  • 1940ねん アカデミー助演じょえん女優じょゆうしょうノミネート - 『ふうともりぬ
  • 1941ねん ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょうだい2 - 『Hold Back the Dawn』
  • 1942ねん アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうノミネート - 『Hold Back the Dawn』
  • 1946ねん ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょうだい2 - 『はるかなる
  • 1947ねん アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『はるかなる
  • 1948ねん ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『へびあな
  • 1948ねん ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『へびあな
  • 1949ねん アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょうノミネート - 『へびあな
  • 1949ねん ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『へびあな
  • 1949ねん ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『へびあな
  • 1950ねん アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『おんな相続そうぞくじん
  • 1950ねん ゴールデングローブ主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん) - 『おんな相続そうぞくじん
  • 1950ねん ナストロ・ダルジェントしょう最優秀さいゆうしゅう外国がいこく女優じょゆうしょう受賞じゅしょう - 『おんな相続そうぞくじん
  • 1953ねん ゴールデングローブしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん)ノミネート - 『なぞ佳人かじんレイチェル
  • 1960ねん ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッドどおり6762にスタープレート設置せっち
  • 1987ねん ゴールデングローブ助演じょえん女優じょゆうしょう(ミニシリーズ・テレビ映画えいが部門ぶもん受賞じゅしょう - 『アナスタシア/ひかり・ゆらめいて
  • 2008ねん アメリカの国家こっか芸術げいじゅつメダル受章じゅしょう
  • 2010ねん フランスのレジオンドヌール勲章くんしょうシュヴァリエあきら受章じゅしょう[3]
  • 2016ねん 今年ことしのオールディ受賞じゅしょう[54]
  • 2017ねん だいえい帝国ていこく勲章くんしょうDame Commender of the Order of the British Empire(DBE)受章じゅしょう

出演しゅつえん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが作品さくひん[編集へんしゅう]

公開こうかいねん 邦題ほうだい
原題げんだい
役柄やくがら 備考びこう
1935ねん 『ブラウンのかい投手とうしゅ
Alibi Ike
ドリー・スティーヴンス
頑張がんばれキャグニー』
The Irish in Us
ルシール・ジャクソン
真夏まなつよるゆめ
A Midsummer Night's Dream
ハーミア 「Olivia de Haviland」としてクレジット
映画えいがデビュー作品さくひん[25]
海賊かいぞくブラッド
Captain Blood
アラベラ・ビショップ
1936ねん 風雲児ふううんじアドヴァース』
Anthony Adverse
アンジェラ・ジョゼッペ
すす龍騎兵りゅうきへい
The Charge of the Light Brigade
エルザ・キャンベル
1937ねん Call It a Day キャサリーン・"キャス"・ヒルトン
恋愛れんあい合戦かっせん
It's Love I'm After
マルシア・ウエスト
The Great Garrick ガーメイン・デ・ラ・コルベ
1938ねん 黄金おうごんわな
Gold Is Where You Find It
セレーナ・"スプラット"・フェリス
ロビンフッドの冒険ぼうけん
The Adventures of Robin Hood
マリアン・フィッツウォーター
結婚けっこんスクラム』
Four's a Crowd
ロリ・ディリングウェル
Hard to Get マルガリータ・リチャーズ
1939ねん 太平洋たいへいようつばさ/うみあらわし
Wings of the Navy
イレーネ・デイル
無法者むほうものぐん
Dodge City
アビー・アーヴィング
女王じょおうエリザベス
The Private Lives of Elizabeth and Essex
レディ・ペネロープ・グレイ
ふうともりぬ
Gone with the Wind
メラニー・ウィルクス アカデミー助演じょえん女優じょゆうしょう ノミネート
犯人はんにんだれだ』
Raffles
グウェン・マンダーズ
1940ねん My Love Came Back アメリア・コーネル
カンサス騎兵隊きへいたい
Santa Fe Trail
キット・カーソン・ホリディ
1941ねん いちごブロンド
The Strawberry Blonde
エイミー・リンド・グリムズ
Hold Back the Dawn エイミー・ブラウン ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう だい2
アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう ノミネート
壮烈そうれつだいなな騎兵隊きへいたい
They Died with Their Boots On
エリザベス・ベーコン・カスター
1942ねん 男性だんせい
The Male Animal
エレーン・ターナー
追憶ついおくおんな
In This Our Life
ロイ・ティンバーレイク
1943ねん Thank Your Lucky Stars デ・ハヴィランド自身じしん だい世界せかい大戦たいせん資金しきんあつめのために製作せいさくされた一連いちれんの「ハリウッド玉手箱たまてばこ」のひと
『カナリヤひめ
Princess O'Rourke
マリア王女おうじょ / メアリー・ウィリアムス 「Olivia DeHavilland」としてクレジット
陽気ようきおんな秘書ひしょ
Government Girl
エリザベス・"スモーキー"・アラード
1946ねん はるかなる
To Each His Own
ミス ジョゼフィン・"ジョディ"・ノリス アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう だい2
『まごころ』
Devotion
シャーロット・ブロンテ
The Well-Groomed Bride マージー・ドーソン
くらかがみ
The Dark Mirror
テリー / ルース・コリンズ
1948ねん へびあな
The Snake Pit
ヴァージニア・スチュアート・カニンガム アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう ノミネート
ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ナストロ・ダルジェントしょう最優秀さいゆうしゅう外国がいこく女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
1949ねん おんな相続そうぞくじん
The Heiress
キャサリン・スローパー アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ゴールデングローブしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん 受賞じゅしょう
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
1952 なぞ佳人かじんレイチェル
My Cousin Rachel
レイチェル・サンガラッティ・アシュレー ゴールデングローブしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう(ドラマ部門ぶもん) ノミネート
1955ねん 王女おうじょアナ・メンドーサ』
That Lady
アナ・デ・メンドーサ
見知みしらぬひとでなく
Not as a Stranger
クリスティナ・ヘヴィソン
1956ねん こい巴里ぱりで』
The Ambassador's Daughter
ジョーン・フィスク
1958ねん ほこたか反逆はんぎゃくしゃ
The Proud Rebel
リネット・ムーア
1959ねん Libel レディ・マーガレット・ロッドン
1962ねん Light in the Piazza メグ・ジョンソン
1964ねん 不意打ふいう
Lady in a Cage
コーネリア・ヒリヤード
ふるえてねむ
Hush… Hush, Sweet Charlotte
ミリアム・ディーリング 「Olivia deHavilland」としてクレジット
1970ねん 冒険ぼうけんしゃ
The Adventurers
デボラ・ハドリー
1972ねん Pope Joan マザー・スペリア
1977ねん エアポート'77/バミューダからの脱出だっしゅつ
Airport '77
エミリー・リヴィングストン
1978ねん スウォーム
The Swarm
モーリーン・シャスター
1979ねん The Fifth Musketeer おうふとしきさきアンヌ
2009 I Remember Better When I Paint ナレーション

テレビ作品さくひん[編集へんしゅう]

放送ほうそうねん 邦題ほうだい
原題げんだい
役柄やくがら 備考びこう
1966ねん ひるさけ
Noon Wine
エリー・トンプソン ABC Stage 67
1972ねん められたおんな
The Screaming Woman
ローラ・ワイナント
1979ねん ルーツ2
Roots: The Next Generations
ミセス・ワーナー ミニシリーズ
1981ねん The Love Boat ヒリー シーズン4、エピソード23
1982ねん 殺人さつじん容易よういだ』
Murder Is Easy
ホノリア・ウェインフリート
『ロイヤル・ロマンス/ダイアナ世紀せいきこい
The Royal Romance of Charles and Diana
おうふとしきさきエリザベス・ボーズ=ライアン
1986ねん 南北戦争なんぼくせんそう物語ものがたり あい自由じゆうへの大地だいち
North and South II
ミセス・ニール ミニシリーズ
アナスタシア/ひかり・ゆらめいて
Anastasia: The Mystery of Anna
ロシア皇后こうごうマリア・フョードロヴナ ゴールデングローブ助演じょえん女優じょゆうしょう (ミニシリーズ・テレビ映画えいが部門ぶもん) 受賞じゅしょう
プライムタイム・エミーしょう助演じょえん女優じょゆうしょう(ミニシリーズ/テレビ映画えいが部門ぶもん ノミネート
1988ねん The Woman He Loved ベッシー・メリマン

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ日本にっぽん外国がいこくじんコミュニティのあいだでは、なつになるとははむすめ避暑ひしょ別荘べっそうやホテルに定住ていじゅうし、仕事しごとのあるちち東京とうきょう横浜よこはまなどの首都しゅとけんのこり、週末しゅうまつになると避暑ひしょ一家いっか団欒だんらんときごす、というのがならわしであった。
  2. ^ 「オリヴィア」という名前なまえはシェークスピアの戯曲ぎきょくじゅう』の登場とうじょう人物じんぶつからづけられた。
  3. ^ ロス・ガトスでおくられる演劇えんげきしょうはオリヴィア・デ・ハヴィランドにちなんで制定せいていされた。
  4. ^ 当初とうしょのデ・ハヴィランドは『カナリヤひめ』のマリア王女おうじょやく拒否きょひしており、社長しゃちょうジャック・L・ワーナーが製作せいさく中断ちゅうだんさせたといういきさつがある[36]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]