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ヴィヴィアン・リー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Vivien Leigh, Lady Olivier
ヴィヴィアン・リー
ヴィヴィアン・リー
ふうともりぬ』(1939)より
本名ほんみょう Vivian Mary Hartley
生年月日せいねんがっぴ (1913-11-05) 1913ねん11月5にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1967-07-08) 1967ねん7がつ8にち(53さいぼつ
出生しゅっしょう イギリス領インド帝国の旗 イギリスりょうインド帝国ていこく西にしベンガルしゅうダージリン
死没しぼつ イングランドの旗 イングランドロンドンベルグレイヴィア
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
身長しんちょう 161 cm[1]
職業しょくぎょう 女優じょゆう
ジャンル 舞台ぶたい映画えいが
活動かつどう期間きかん 1933ねん - 1967ねん
配偶はいぐうしゃ ハーバート・リー・ホルマン(1932ねん - 1940ねん
ローレンス・オリヴィエ (1940ねん - 1960ねん
著名ちょめい家族かぞく スーザン・ファーリントン(むすめ
おも作品さくひん
ふうともりぬ』(1939ねん
哀愁あいしゅう』(1940ねん
欲望よくぼうという電車でんしゃ』(1951ねん
 
受賞じゅしょう
アカデミーしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1939ねんふうともりぬ
1951ねん欲望よくぼうという電車でんしゃ
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
女優じょゆうしょう
1951ねん欲望よくぼうという電車でんしゃ
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
主演しゅえん女優じょゆうしょう
1939ねんふうともりぬ』
1951ねん欲望よくぼうという電車でんしゃ
AFIしょう
映画えいがスターベスト100
1999ねん女優じょゆう部門ぶもんだい16)
英国えいこくアカデミーしょう
英国えいこく女優じょゆうしょう
1951ねん欲望よくぼうという電車でんしゃ
トニーしょう
ミュージカル主演しゅえん女優じょゆうしょう
1963ねん『Tovarich』
そのしょう
ハリウッド名声めいせい歩道ほどう
1960ねん 映画えいが産業さんぎょうへの貢献こうけん映画えいが演劇えんげき業界ぎょうかいへの業績ぎょうせきたいして
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ヴィヴィアン・リーVivien Leigh, Lady Olivier1913ねん11月5にち - 1967ねん7がつ8にち)は、イギリス女優じょゆう本名ほんみょうヴィヴィアン・メアリ・ハートリー(Vivian Mary Hartley)。えいりょうインド帝国ていこく西にしベンガルしゅう出身しゅっしん

1939ねん映画えいがふうともりぬ』のスカーレット・オハラやくと1951ねん映画えいが欲望よくぼうという電車でんしゃ』のブランチ・デュボワやくアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうした。後者こうしゃでは、1949ねんロンドンウェスト・エンド上演じょうえんされた舞台ぶたいばんつづいて主演しゅえんえんじた。また、1963ねんブロードウェイ・シアター上演じょうえんされたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、トニーしょうミュージカル主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしている。2結婚けっこんれき離婚りこんれきがあり、その一人ひとりローレンス・オリヴィエである[2]

演劇えんげき学校がっこうめたのちの1934ねん〜35ねんに4ほん映画えいが出演しゅつえんし、その舞台ぶたい美德びとく仮面かめん』で映画えいがプロデューサーのアレクサンダー・コルダみとめられ、1937ねん映画えいが無敵むてき艦隊かんたい』に出演しゅつえんした[3]映画えいが女優じょゆうとして有名ゆうめいとなったのち活動かつどう主軸しゅじく舞台ぶたいにおき、30ねんにわたる舞台ぶたい女優じょゆうとしての活動かつどう幅広はばひろ役柄やくがらえんじた。ノエル・カワードジョージ・バーナード・ショウらの戯曲ぎきょくをはじめ、『ハムレット』におけるオフィーリア、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『マクベス』のマクベス夫人ふじんや、ジャン・アヌイソフォクレスの「アンティゴネ」を翻案ほんあんしたアンチゴーヌなどをえんじた。

当時とうじ一般いっぱん大衆たいしゅうからはイギリスの名優めいゆうローレンス・オリヴィエの2度目どめつまとしての印象いんしょうつよくもたれていた。オリヴィエとはおおくの舞台ぶたい作品さくひん共演きょうえんし、映画えいが作品さくひんでも3共演きょうえんしている。結婚けっこん生活せいかつは1940ねんから1960ねんまでつづいたが、そのころから徐々じょじょ双極そうきょくせい障害しょうがいなやまされるようになり[4]女優じょゆうとしての仕事しごとりょう減少げんしょう経験けいけんした時期じきもあった。また、1940年代ねんだいなかばごろからは慢性まんせい結核けっかく発作ほっさまわれるようになり、最終さいしゅうてきにはこの慢性まんせい結核けっかく死去しきょしている。

1999ねんアメリカン・フィルム・インスティチュート発表はっぴょうした「映画えいがスターベスト100」では女優じょゆう部門ぶもんの16えらばれた。日本にっぽんでは、2000ねんの「キネマ旬報きねまじゅんぽう20世紀せいき映画えいがスター」の外国がいこく女優じょゆうで4えらばれている。

生涯しょうがい

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ぜん半生はんせい

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リーは1913ねん11月5にちに、イギリスりょうインド帝国ていこくダージリンのセント・ポール・スクールの寄宿舎きしゅくしゃまれた。ひがしインド会社かいしゃ解散かいさん英国えいこく王室おうしつ支配しはいするインドに10代でみ、最初さいしょ小間使こまづかいからはじめ、株式かぶしきブローカーとして財産ざいさんをつくることに成功せいこうした新興しんこう成金なりきん父親ちちおやアーネスト・ハートリーとははだいからインドにまう母親ははおやのガートルード・メアリ・フランセスとのあいだまれた一人娘ひとりむすめ[5][6]、ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーとづけられた[7]。アーネストとガートルードは1912ねんにロンドンのケンジントン結婚けっこんし、そのイギリスりょうインド帝国ていこく駐留ちゅうりゅうしていた[8]

近年きんねん、リーの先祖せんぞ起源きげんについての憶測おくそくっている[9]。リーの伝記でんき作家さっかヒューゴー・ヴィッカーズは、母親ははおやのガートルードがアルメニアじんかインドじんをひいているかもしれないとかし、それがリーのつ「くら東洋とうよううつくしさ」の説明せつめいになるだろうといている[9]

1917ねんにアーネストはバンガロールへの転属てんぞくめいじられたが、つまガートルードとおさないヴィヴィアンをウダカマンダラムのこしたままの単身たんしん赴任ふにんだった[10]。ヴィヴィアンは3さいのときに母親ははおや加入かにゅうしていた素人しろうと劇団げきだん舞台ぶたいち、イギリス童謡どうようの「ちっちゃなひつじい』 (Little Bo Peep) をうたっている。ガートルードはヴィヴィアンに文学ぶんがく教養きょうようにつけさせようとして、アンデルセンルイス・キャロルラドヤード・キップリングといった作家さっかたちの子供こども文学ぶんがく作品さくひんだけでなく、ギリシア神話しんわやインドの民間みんかん伝承でんしょうなどもかせていた。6さいのときにヴィヴィアンはははガートルードの意向いこうでインドをはなれて、それまでかよっていたダージリンの学校がっこうからロンドン南西なんせいワンズワースローハンプトン (Roehampton) にあったカトリック女子じょし修道院しゅうどういん付属ふぞく学校がっこう現在げんざいのウォルディンガム女学校じょがっこう (Woldingham School) に転入てんにゅうした。この学校がっこうった友人ゆうじんに、のち女優じょゆうとなる2さい年上としうえモーリン・オサリヴァンがおり、ヴィヴィアンはオサリヴァンに「立派りっぱ女優じょゆう」になりたいというゆめかたっている[11][12]。そのヴィヴィアンはちちアーネストのヨーロッパ旅行りょこうについていくかたちで修道院しゅうどういん付属ふぞく学校がっこう退校たいこうした。ヴィヴィアンはちちしたがってヨーロッパ各地かくち学校がっこう転々てんてんとし、アーネストとヴィヴィアンがイギリスにもどったのは1931ねんのことだった。そして、ロンドンのウエスト・エンド上映じょうえいされていた、すでに女優じょゆうとしてデビューしていたオサリヴァンが出演しゅつえんしていた映画えいがたヴィヴィアンは、両親りょうしん女優じょゆうになりたいというのぞみをげた。ヴィヴィアンのねがいをいたアーネストは、ヴィヴィアンをロンドンの王立おうりつ演劇えんげき学校がっこうへと入学にゅうがくさせた[13]

ヴィヴィアンが13さい年上としうえ法廷ほうてい弁護士べんごしハーバート・リー・ホルマンと出会であったのは1931ねんのことである。ハーバートは「役者やくしゃ」をきらっていたが、1932ねん12がつ20日はつか2人ふたり結婚けっこんし、ヴィヴィアンは王立おうりつ演劇えんげき学校がっこう退学たいがくした。そして1933ねん10がつ12にちにヴィヴィアンは一人娘ひとりむすめスーザンを出産しゅっさんした[14]かずじゅうねんにスーザンは結婚けっこんし、リーのまごとなる子供こどもを3にん出産しゅっさんしている[15]

女優じょゆうとしてのキャリア初期しょき

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ヴィヴィアンは友人ゆうじんたちのすすめで、1935ねん映画えいが作品さくひんThings Are Looking Up』に出演しゅつえんし、この作品さくひん端役はやく女優じょゆうとしてデビューした。ヴィヴィアンが契約けいやくしていた代理人だいりにんのジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン (Vivian Holman) 」という名前なまえ女優じょゆうとして相応ふさわしくないとかんがえた。グリッドンがかんがえた「エイプリル・モーン」という名前なまえらなかったヴィヴィアンは、おっとハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用しゃくようし、さらに自身じしんのファーストネーム「ヴィヴィアン (Vivian )」のつづりの「a」を「e」に変更へんこうして「ヴィヴィアン・リー (Vivien Leigh)」という芸名げいめい名乗なのることをめた。グリッドンはリーを映画えいが女優じょゆうとして映画えいが監督かんとくアレクサンダー・コルダ推薦すいせんしたが、このときコルダはリーに将来しょうらいせいけているとして出演しゅつえんっている[16]。1935ねん舞台ぶたい作品さくひん美徳びとく仮面かめん (The Mask of Virtue)』に出演しゅつえんしたリーはたか評価ひょうかけ、複数ふくすうのインタビューや新聞しんぶん記事きじにとりあげられた。タブロイドデイリー・エクスプレス』のインタビュー記事きじではリーのことを「すばやくころころとわる表情ひょうじょう」と表現ひょうげんしている。この記事きじが、のちにリーの特徴とくちょうとなっていく「まぐれ」に最初さいしょ言及げんきゅうした公的こうてきなコメントだといわれている[17]。のちに桂冠詩人けいかんしじん称号しょうごうにするイギリスの詩人しじんジョン・ベチェマン英語えいごばんは「典型てんけいてきなイングランドの少女しょうじょ」であるとリーのことをいいあらわしている[18]以前いぜん自身じしん監督かんとくする映画えいが作品さくひんへのリーの出演しゅつえんことわったコルダも、開幕かいまく初日しょにちにリーが出演しゅつえんする『美徳びとく仮面かめん』を観劇かんげきした。そしてコルダは過去かこあやまちをみとめ、リーの映画えいが出演しゅつえん契約けいやくしょにサインした。『美徳びとく仮面かめん』はヒットをつづけ、コルダのけいらいで規模きぼおおきな劇場げきじょう上演じょうえんされることとなった。しかしながら当時とうじのリーの声質せいしつだい規模きぼ劇場げきじょうてきしているとはいえなかった。リーの演技えんぎ十分じゅうぶん観客かんきゃくをひきつけることが出来できず、『美徳びとく仮面かめん』はもなく終演しゅうえんとなってしまっている[19]

1960ねんにリーはこの当時とうじのことを回想かいそうしている。デビューあいだもない自分じぶん批評ひひょうたちからたか評価ひょうかされ、突然とつぜん有名ゆうめいになったことに戸惑とまどっており「わたしすぐれた女優じょゆうだなどと無責任むせきにんなことをいう批評ひひょうもいました。なんと無責任むせきにん不道徳ふどうとくともいえる発言はつげんでしょう。当時とうじわたしにとってそういった言葉ことばがどれだけ重荷おもに負担ふたんになったことか。えられませんでした。このような最初さいしょ評価ひょうかになんとかこたえられるようになるまで、なんねんもかかったのです。ほんとうに馬鹿ばかげたはなしです。いまでもそのときの批評ひひょうをはっきりとおぼえていますし、生涯しょうがいゆるすことはないでしょう」とかたっている[20]

ローレンス・オリヴィエとの出会であ

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1948ねんおこなわれたオーストラリア公演こうえんでブリスベンの空港くうこうつリーとオリヴィエ。

美徳びとく仮面かめん』でリーをたイギリスの俳優はいゆうローレンス・オリヴィエはリーの演技えんぎ賞賛しょうさんし、それから2人ふたり交友こうゆうはじまった。オリヴィエとリーは、はじめての共演きょうえんとなる1937ねん映画えいが無敵むてき艦隊かんたい』で恋人こいびと同士どうしえんじた。当時とうじのリーはハーバートと結婚けっこんしており、オリヴィエも女優じょゆうジル・エズモンド結婚けっこんしていたが、オリヴィエとリーは不倫ふりん関係かんけいおちいっていった。この当時とうじのリーはマーガレット・ミッチェル小説しょうせつふうともりぬ』をんでおり、この小説しょうせつ映画えいが企画きかくしていたプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックにアメリカの代理人だいりにんつうじて面会めんかいもとめている。リーはマスコミに「スカーレット・オハラえんじたい」と公言こうげんしていた。イギリスの新聞しんぶんオブザーバー」の映画えいが評論ひょうろんキャロライン・アリス・レジュネ英語えいごばんは、当時とうじリーが「(オリヴィエは)レット・バトラーをえんじないでしょうけれど、わたしはスカーレット・オハラをえんじることになるわ。ていてくださいな」といいはなったことに「みな愕然がくぜんとした」とかえっている[21]

1937ねんにリーとオリヴィエは、デンマークヘルシンゲル上演じょうえんされる『ハムレット』で共演きょうえんした。ロンドンのオールド・ヴィック・シアター企画きかくしたこのシェイクスピア原作げんさく舞台劇ぶたいげきでリーはオフィーリアをえんじた[22]のちにオリヴィエはこのときの上演じょうえんで、舞台ぶたい登場とうじょうするまえのリーが「まぐれ」でこした事件じけん回想かいそうしている。なにおこらせるようなことをしていないにもかかわらず、リーがオリヴィエにかって怒鳴どなりだし、突然とつぜんだまんだとおもったら虚空こくうつめだしたことがあった。しかしながらリーは翌日よくじつにはなにおぼえておらず、いつもどおりに何事なにごともなく舞台ぶたいつとめあげたという。オリヴィエにとって、この出来事できごとがリーの突拍子とっぴょうしもない言動げんどうにした最初さいしょ経験けいけんとなった[23]

リーとオリヴィエは同棲どうせいをはじめたが、どちらの配偶はいぐうしゃ離婚りこん拒否きょひした。当時とうじ道徳どうとくてき見地けんちからの非難ひなんおそれて、映画えいが会社かいしゃ2人ふたり関係かんけい大衆たいしゅうにはかくどおそうとした。私生活しせいかつでは問題もんだいをはらんでいたリーだったが、女優じょゆうとしては1938ねん映画えいがひび凱歌がいか』に出演しゅつえんし、ロバート・テイラーライオネル・バリモアモーリン・オサリヴァン共演きょうえんしている。この『ひび凱歌がいか』はリーの出演しゅつえん作品さくひんとしては最初さいしょにアメリカで注目ちゅうもくあつめた映画えいがとなった。この作品さくひん撮影さつえいちゅうにリーは、あつかいがむずかしく理不尽りふじんだとささやかれるようになった。コルダはリーの代理人だいりにんたいし、リーの言動げんどうあらたまらないのであれば契約けいやく更新こうしんしないと警告けいこくしている。予定よていされていたリーの次回じかいさくは、コルダと親交しんこうがあったチャールズ・ロートン製作せいさく主演しゅえん担当たんとうする、1938ねん映画えいがセント・マーティンの小径しょうけい英語えいごばん』のヒロインであるリビーやくだった[24]

ふうともりぬ』

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ふうともりぬ』(1939ねん)。相手あいてやくのレット・バトラーはクラーク・ゲーブルえんじた。

1930年代ねんだいわりごろのハリウッドは、デヴィッド・O・セルズニック製作せいさく決定けっていしていた映画えいがふうともりぬ』の主役しゅやくスカーレット・オハラえんじる女優じょゆう候補こうほひろ募集ぼしゅうしていた。リーのアメリカがわでの代理人だいりにんは、セルズニックのあにマイロン英語えいごばん経営けいえいする代理だいりてんのロンドン支社ししゃだった。1938ねん2がつにリーは、自身じしんがスカーレットやくえらばれる可能かのうせいがあるかどうかをセルズニックに打診だしんしている。セルズニックはリーが出演しゅつえんした『無敵むてき艦隊かんたい』と『ひび凱歌がいか』を同月どうげつ確認かくにんし、リーがスカーレットやく相応ふさわしいかもれないとかんがえたが、「あまりにイギリスてき」だったとかんじたため、リーにはスカーレットやく無理むりだろうと判断はんだんした。しかしながらリーは、当時とうじアメリカで映画えいが撮影さつえいおこなっていたオリヴィエをたよってロサンゼルスへとかい、自分じぶんこそがスカーレットだということをセルズニックに納得なっとくさせようとした。リーと面会めんかいした、セルズニックのあにでオリヴィエの代理人だいりにんつとめていたマイロン・セルズニックは、おとうとがスカーレットやく女優じょゆうもとめている資質ししつをリーがっているのではないかという印象いんしょうけた。ハリウッドにつたわる伝説でんせつに、スカーレットやく不在ふざいのままアトランタ炎上えんじょうシーンを撮影さつえいしていた現場げんばにマイロンがリーとオリヴィエをれてき、セルズニックにリーを紹介しょうかいして「よう天才てんさい、おまえのスカーレットにわせてやるぜ」とうそぶいたというものがある。いずれにせよ、セルズニックはスクリーンテストをおこない、リーがカメラのまえ台本だいほんんでせた。リーに満足まんぞくしたセルズニックはつまてて「彼女かのじょ(リー)がスカーレットやく大穴おおあなだ。まったもうぶんない。まだだれにもってない、おまえだけだ。(スカーレットやくは)ポーレット・ゴダードジーン・アーサージョーン・ベネット、そしてヴィヴィアン・リーにしぼられた」という手紙てがみいている。『ふうともりぬ』の監督かんとく当初とうしょまかされていたジョージ・キューカーもスカーレットやくにリーを抜擢ばってきすることに賛同さんどうし、リーのことを「しんじられないくらいに野生やせいてきだ」と評価ひょうかした。そしてリーがスカーレットをえんじることが正式せいしき決定けっていされた[25]

ふうともりぬ』の撮影さつえい現場げんばはリーにとってつらいものだった。監督かんとくのキューカーが更迭こうてつされて、わりにヴィクター・フレミング監督かんとくとなったが、リーはフレミングとしょっちゅう仲違なかたがいをこしていた。リーと、メラニー・ハミルトンやくえんじるオリヴィア・デ・ハヴィランドよるにこっそりとぜん監督かんとくのキューカーとっており、毎週まいしゅうまつにはキューカーから演技えんぎ指導しどうけていた。リーはレット・バトラーやくクラーク・ゲーブルとそのつま女優じょゆうキャロル・ロンバード、デ・ハヴィランドと仲良なかよくなっていったが、スカーレットが感情かんじょうてきになるシーンがおおかったアシュレイ・ウィルクスやくレスリー・ハワードとは、撮影さつえい現場げんばでも実際じっさいはげしく衝突しょうとつしていた。しゅう7日間にちかん拘束こうそくされることもあったうえに撮影さつえい夜中よなかまでかかることもめずらしくなく、このような状況じょうきょうでリーは疲労ひろうかさねていった。リーはオリヴィエがこいしくなり、ニューヨークで仕事しごとをしていたオリヴィエに長距離ちょうきょり電話でんわをかけて「あなた、あなた、もう演技えんぎにはうんざり!もうイヤ、イヤ、二度にど映画えいがになんかたくない!」と愚痴ぐちをこぼしている[26]

2006ねん出版しゅっぱんされたオリヴィエの伝記でんきで、『ふうともりぬ』撮影さつえいちゅうのリーの躁病そうびょうじみた言動げんどうへの苦情くじょうたいして、オリヴィア・デ・ハヴィランドがリーを弁護べんごしていたという記述きじゅつがある。「ヴィヴィアンはどころがないプロフェッショナルで、『ふうともりぬ』では完全かんぜん自己じこ管理かんり出来できていました。ただし、あのときの彼女かのじょにはふたつのおおきななやみがあったのです。ひとつは(スカーレットという)きわめてむずかしいやく完璧かんぺきえんじなければならないこと、そしてもうひとつはニューヨークにいたラリー(ローレンス・オリヴィエの愛称あいしょう)とはなばなれになっていたことです」とデ・ハヴィランドはかたっている[27]

ふうともりぬ』は公開こうかい直後ちょくごから注目ちゅうもくされ、主役しゅやくのスカーレットをえんじたリーは絶賛ぜっさんされた。しかしながらリーは「わたし映画えいがスターではなく女優じょゆうです。映画えいがスター、そう映画えいがスターなどというのはうそだらけのらしでしょう。いつわりの価値かちかん虚栄きょえいのためのかたです。(それにくらべて)女優じょゆう人生じんせいすべてをついやすにあたいする仕事しごとであり、いつだって素晴すばらしく重要じゅうよう役割やくわりなのです」とかたっている[26]。『ふうともりぬ』は作品さくひんしょうをはじめ10部門ぶもんアカデミーしょう受賞じゅしょうし、リーも主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうした。さらにリーはニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうしている。

ローレンス・オリヴィエとの結婚けっこん

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哀愁あいしゅう』(1940ねん)でおどマイラ・レスターやくえんじたリー。

1940ねん2がつになって、オリヴィエのつまジル・エズモンドとリーのおっとホルマンはどちらも離婚りこん合意ごういした。ただし、両人りょうにんどもにリーとのふか交友こうゆう関係かんけいはその生涯しょうがいつづいている。オリヴィエの息子むすこタルキンの親権しんけん母親ははおやのエズモンドが、リーのむすめスーザンの親権しんけん父親ちちおやのホルマンがそれぞれている。1940ねん8がつ31にちにオリヴィエとリーはカリフォルニアしゅうサンタバーバラ高級こうきゅうホテルであるサン・イシドロ・ランチ (San Ysidro Ranch) で結婚けっこんした。結婚式けっこんしきには立会たちあいじんとして女優じょゆうキャサリン・ヘプバーンげき作家さっかガーソン・ケニンの2にんしかまねかれていない。結婚けっこんしたリーはオリヴィエとの共演きょうえんのぞみ、オリヴィエが主役しゅやく一人ひとりえんじることになっていたアルフレッド・ヒッチコック監督かんとく作品さくひんレベッカ』のスクリーンテストをけた。しかしながら、スクリーンテストを確認かくにんしたプロデューサーのセルズニックは「彼女かのじょ(リー)には、誠実せいじつさ、若々わかわかしさ、純真じゅんしんさがけているとかんじる」と判断はんだんし、監督かんとくヒッチコックやリーの恩師おんしジョージ・キューカーもこの判断はんだん支持しじした[28]

セルズニックは、オリヴィエの出演しゅつえんまるまでリーが『レベッカ』に興味きょうみしめしていなかったとかんがえており、主役しゅやくの「わたし」にはジョーン・フォンテインえらんだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演きょうえんのぞんだ『高慢こうまん偏見へんけん』でも、リーではなくグリア・ガースン起用きようした。また、1940ねん映画えいが哀愁あいしゅう』はリーとオリヴィエの共演きょうえん予定よていされていたが、セルズニックはオリヴィエをはずして、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー看板かんばんスターで、当時とうじ人気にんき絶頂ぜっちょうだったロバート・テイラー起用きようしている。この映画えいがにかけられた莫大ばくだい宣伝せんでん費用ひよう主役しゅやくえんじたリーのハリウッドでの地位ちいしめすもので、『哀愁あいしゅう』は観客かんきゃくからも批評ひひょうたちからもこう評価ひょうか[29]

結婚けっこん映画えいがでの共演きょうえんはなかなかたせなかったリーとオリヴィエだが、舞台ぶたいではブロードウェイで1940ねん5がつ上演じょうえんされた『ロミオとジュリエット』で共演きょうえんしている。しかしながらこの作品さくひんたいする評価ひょうか散々さんざんなものだった。『ニューヨーク・プレスは、リーとオリヴィエの関係かんけい不倫ふりんからはじまったことを指摘してきし、母国ぼこくイギリスがだい世界せかい大戦たいせんたたかっている最中さいちゅうであるにもかかわらず2人ふたりがイギリスにもどって戦争せんそう協力きょうりょくしないことにたいする道徳心どうとくしん欠如けつじょ疑問ぎもんする記事きじ掲載けいさいしている。『ニューヨーク・タイムズ』の映画えいが評論ひょうろんブルックス・アトキンソン英語えいごばんは「リーとオリヴィエの容姿ようし端麗たんれいかもしれないが、演技えんぎまったくなっていない」と批判ひはんしている[30]2人ふたりたいする非難ひなんはほとんどがオリヴィエの演技えんぎ演出えんしゅつたいするものだったが、バーナード・グラバニーのように「リーの発声はっせいうすっぺらく、みせみのしつしかない」とリーを酷評こくひょうする批評ひひょうもいた。「2人ふたりはこの舞台ぶたい(『ロミオとジュリエット』)にほとんどぜん財産ざいさんをつぎんだために、破産はさん寸前すんぜんとなってしまった」ともいわれている[31]

1941ねん映画えいが美女びじょありき』で、オリヴィエはイギリス海軍かいぐん提督ていとくホレーショ・ネルソンやく、リーはその愛人あいじんエマ・ハミルトンやくとして共演きょうえんした。当時とうじのアメリカはいまだだい世界せかい大戦たいせんには参戦さんせんしておらず、この『美女びじょありき』は当時とうじドイツにたいして苦戦くせんつづけていたイギリスにたいするアメリカの大衆たいしゅう関心かんしん目的もくてき製作せいさくされたハリウッド映画えいがひとつだった。『美女びじょありき』はアメリカでヒットし、ソビエト連邦れんぽうでも非常ひじょうおおきな成功せいこうおさめた。当時とうじのイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルは『美女びじょありき』の上映じょうえいかい企画きかくし、アメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト厳選げんせんした招待客しょうたいきゃくかって「みなさん、この映画えいがたのしんでいただけることとおもいます。この映画えいがは、現在げんざいあなたたちが直面ちょくめんしているおおきな出来事できごとととてもよくていますから」とスピーチしている。チャーチルはオリヴィエのことをっており、生涯しょうがいつうじて夕食ゆうしょく招待しょうたいしたり、行事ぎょうじへの参加さんか依頼いらいしたりする間柄あいだがらだった。チャーチルはリーのことも「本当ほんとう彼女かのじょ素晴すばらしい」とひょうしていた[32]

そのオリヴィエはイギリスにもどり、リーは単独たんどくで1943ねんきたアフリカのイギリスぐん慰問いもんした。きたアフリカ各地かくちまわったが、そのしばらくしてからせき発熱はつねつのために慰問いもん中断ちゅうだん余儀よぎなくされている。1944ねんにリーはひだりはい結核けっかく罹患りかんしていると診断しんだんされ、すう週間しゅうかん入院にゅういん生活せいかつおくった。『シーザーとクレオパトラ』(1945ねん)の撮影さつえいちゅう妊娠にんしんしていることが判明はんめいしたが、このときリーは流産りゅうざんしてしまった。流産りゅうざんひどくんだリーは自身じしんつかててゆかくずちるまで、オリヴィエに怒鳴どならし、なぐりかかった。これが、そのリーがながくるしむことになる双極そうきょくせい障害しょうがい最初さいしょおおきな発作ほっさとなった。リーは非常ひじょうふかんだかとおもうと、数日すうじつあいだ異常いじょうなまでに活動かつどうてきになった。んでいるときのことはなにおぼえておらず、リーはそんな自分じぶんにひどい困惑こんわくかんじていたといわれている[33]

オーストラリア滞在たいざいちゅうのリーとオリヴィエ。1948ねん6がつ

1946ねんには演技えんぎ出来できるまでにリーの病状びょうじょう回復かいふくした。げき作家さっかソーントン・ワイルダー原作げんさく戯曲ぎきょく危機一髪ききいっぱつ』 (The Skin of Our Teeth) は好評こうひょうだったが、この前後ぜんご時期じきにリーが出演しゅつえんした『シーザーとクレオパトラ』(1945ねん)と『アンナ・カレニナ』(1948ねん)はおおきな成功せいこうおさめたとはいえない。

1947ねんにオリヴィエがナイト爵け、バッキンガム宮殿きゅうでん開催かいさいされた叙任じょにんしきにはリーとオリヴィエの2人ふたり出席しゅっせきした。リーもナイト爵士夫人ふじんとして「レディ」の称号しょうごうゆるされた。のち2人ふたり離婚りこんしているが慣例かんれいしたがってリーに「レディ」の称号しょうごうのこされており、リーは公式こうしきではヴィヴィアン・レディ・オリヴィエとしてられるようになっている。

1948ねんごろにはオリヴィエがオールド・ヴィック・シアター重役じゅうやく一人ひとりとなり、劇場げきじょう運営うんえい資金しきんるためにオーストラリアニュージーランド各地かくちで6カ月かげつあいだにわたる巡業じゅんぎょう開始かいしした。オリヴィエはシェイクスピアの戯曲ぎきょくリチャードさんせい』で主役しゅやくえんじたほか、リチャード・ブリンズリー・シェリダン戯曲ぎきょく悪口わるぐち学校がっこう英語えいごばん』や『危機一髪ききいっぱつ』ではリーと共演きょうえん舞台ぶたいをつとている。この巡業じゅんぎょう非常ひじょうおおきな成功せいこうおさめた。巡業じゅんぎょうちゅうのリーは不眠症ふみんしょうなやまされており、体調たいちょうわるかったときには1週間しゅうかん代役だいやくてられたこともあったが、自身じしんまかせられた役割やくわりはなんとかこなしていた。オリヴィエはリーの「マスコミを魅了みりょうする」能力のうりょく賛辞さんじをよせている。ただし、この巡業じゅんぎょう参加さんかした団員だんいんたちが当時とうじのことをかえり、リーとオリヴィエのあいだにはなんいさかいがあり、ニュージーランドのクライストチャーチでの上演じょうえんでリーが舞台ぶたいがることを拒否きょひした事件じけんがとくに印象いんしょうてきだったとかたっている。このときオリヴィエはリーのかお平手打ひらてうちし、リーもオリヴィエに平手打ひらてうちをかえした。そして最終さいしゅうてきにリーがステージにがる直前ちょくぜんまでオリヴィエに毒舌どくぜつびせつづけた。巡業じゅんぎょうわりごろにはりょう者共ものども消耗しょうもうしきっており、体調たいちょうくずしていた。オリヴィエはマスコミにたいして「らないかもしれないけれど、いまあなたはある死人しにん2にんはなしかけているんだよ」とかたりかけている。のちにオリヴィエは、オーストラリアで「ヴィヴィアンをうしなった」とコメントしている[34]

オーストラリアとニュージーランドでの巡業じゅんぎょう公演こうえんだい成功せいこうをよくしたオリヴィエは、ロンドンのウエスト・エンドにおけるリーとのはつ舞台ぶたい共演きょうえんおこなった。このときの演目えんもくは、それまで共演きょうえんした作品さくひんのほかに古代こだいギリシアの悲劇ひげき作家さっかソフォクレスの『アンティゴネー』も上演じょうえんされている。これはリーが悲劇ひげきえんじたいと希望きぼうしたためでもあった。

欲望よくぼうという電車でんしゃ

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欲望よくぼうという電車でんしゃ』(1951ねん)の宣伝せんでんフィルム。リーは主役しゅやくのブランチ・デュボアをえんじた。

リーは、テネシー・ウィリアムズき、ウエスト・エンドで上演じょうえんされることになっていた戯曲ぎきょく欲望よくぼうという電車でんしゃ』の主役しゅやくブランチ・デュボアやくほっした。原作げんさくしゃのウィリアムズと舞台ぶたいプロデューサーのアイリーン・メイヤー・セルズニック英語えいごばんは、リーが出演しゅつえんした舞台ぶたい悪口わるぐち学校がっこう』と『アンティゴネー』をて、リーをブランチ・デュボアやく起用きようすることをめた。さらにオリヴィエも舞台ぶたい監督かんとくとして『欲望よくぼうという電車でんしゃ』に参加さんかすることがまった。陵辱りょうじょくシーンがあり、さらに乱交らんこう同性愛どうせいあいへの言及げんきゅうといった刺激しげきてき内容ないようつこの作品さくひんおおきな論争ろんそうまととなり、マスコミもこのやくえんじることがリーの精神せいしん状態じょうたい悪化あっかさせるのではないかと懸念けねんしていた。しかしながらリーはこのブランチ・デュボアは自身じしんのキャリアにおいて非常ひじょう重要じゅうようやくどころとなるとかたしんじていた。

ウエスト・エンドでの舞台劇ぶたいげき欲望よくぼうという電車でんしゃ』は1949ねん開幕かいまくした。げき作家さっかJ・B・プリーストリーはこの作品さくひん自体じたいとリーの演技えんぎはげしく非難ひなんしている。また、以前いぜんからリーの舞台ぶたい酷評こくひょうすることがおおかった演劇えんげき評論ひょうろんケネス・タイナン英語えいごばん[35]、リーはひどいミスキャストであり、その理由りゆうとして「このような(荒々あらあらしく粗野そやな)感情かんじょう舞台ぶたい表現ひょうげんするには、イギリスじん俳優はいゆう上品じょうひんぎる」とコメントしている。オリヴィエとリーは、この作品さくひん好色こうしょく扇情せんじょうてき舞台ぶたいになるにちがいないとかんがえた観客かんきゃく大量たいりょうけ、その結果けっかとして興行こうぎょう収入しゅうにゅうがったことについて遺憾いかんしめしている。しかしながらこの作品さくひんには熱心ねっしん支持しじしゃおお[36]ノエル・カワードはリーのことを「最高さいこうだ」とひょうしている[37]

ウエスト・エンドでの舞台ぶたい欲望よくぼうという電車でんしゃ』は326かいおよ公演こうえんかさねてまくじ、そのすぐに映画えいがまった『欲望よくぼうという電車でんしゃ』へのリーの出演しゅつえんまった。リーの傲岸ごうがんさと、ときに下品げひんなユーモアセンスをった共演きょうえんしゃマーロン・ブランドとのなか良好りょうこうだったが、リーのことを一流いちりゅう女優じょゆうだとはみとめていなかった監督かんとくエリア・カザンとの関係かんけいはぎくしゃくしていた。のちに「彼女かのじょ(リー)の才能さいのう微々びびたるものだった」とコメントしたこともあるカザンだったが、撮影さつえいすすむにつれてリーが「自身じしんるどの女優じょゆうよりもすぐれた演技えんぎせるとかたしんめた。彼女かのじょ(リー)はもし演技えんぎ必要ひつようであれば、くだけたガラスのうえいつくばる覚悟かくごだった」と「おおいなる賞賛しょうさん」をあたえている。それでもリーはこの映画えいがのブランチ・デュボアやくえんじることにつかてており、『ロサンゼルス・タイムズに「わたし劇場げきじょうで9カ月かげつあいだブランチ・デュボアをえんじていました。それがいまでは彼女かのじょ(ブランチ)がわたし牛耳ぎゅうじっています」とかたっている[38]。この作品さくひん撮影さつえいちゅうはオリヴィエもリーとともにハリウッドに滞在たいざいしており、ウィリアム・ワイラー監督かんとく作品さくひん黄昏たそがれ』に出演しゅつえんし、ジェニファー・ジョーンズ共演きょうえんしている。

映画えいがばん欲望よくぼうという電車でんしゃ』はたか評価ひょうかされ、リーは2度目どめとなるアカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう英国えいこくアカデミー最優秀さいゆうしゅう英国えいこく女優じょゆうしょうニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかい主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうした。原作げんさくしゃテネシー・ウィリアムスはリーがブランチ・デュボアに「わたし意図いとしたあらゆるもの、そしてわたしゆめにもおもわなかったおおくのもの」をもたらしてくれたと感謝かんしゃあらわしているが、後年こうねんにリーはブランチ・デュボアをえんじたことは「たおれそうで、くるわんばかりだった」とかえっている[39]

病気びょうきとのたたか

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1951ねんにリーとオリヴィエはシェイクスピアの戯曲ぎきょくアントニーとクレオパトラ』とバーナード・ショー戯曲ぎきょくシーザーとクレオパトラ』で共演きょうえんし、リーはどちらの作品さくひんでもクレオパトラえんじた。日替ひがわりで上演じょうえんされたりょう作品さくひん好評こうひょうはくした。リーとオリヴィエはこれらの舞台ぶたいをニューヨークでも上演じょうえんすることをめ、1952ねんのシーズンにブロードウェイのジークフェルド・シアター (Ziegfeld Theatre) で開幕かいまくした。ニューヨークでの公演こうえんもおおむね好評こうひょうだったが、評論ひょうろんケネス・タイナンは、リーが二流にりゅう才能さいのうしかっていないせいで、オリヴィエの才能さいのうまでおとしめられてしまっているとはげしく非難ひなんした。タイナンの痛烈つうれつ批判ひはんはリーの精神せいしん状態じょうたいおおきなきずあたえた。リーは失敗しっぱいおびえ、素晴すばらしい演技えんぎをすることだけに汲々きゅうきゅうとなってしまった。リーはタイナンの批判ひはんのみをおもなやみ、批評ひひょうからの好意こういてき評価ひょうかあたまからっていた[40]

1953ねん1がつにリーは、ピーター・フィンチ共演きょうえんする『きょぞうみち』の撮影さつえいのためにセイロンおとずれた。しかしながら、撮影さつえい開始かいしあいだもなくしてリーが神経症しんけいしょう発作ほっさこしたために、製作せいさく会社かいしゃパラマウント映画えいがはリーを降板こうばんさせ、代役だいやくエリザベス・テイラー起用きようした。オリヴィエはイギリスの自宅じたくにリーをもどしたが、リーの精神せいしん状態じょうたい混乱こんらんしており、オリヴィエにかってフィンチがきになった、肉体にくたい関係かんけいってしまったとかえした。その、リーの状態じょうたい数カ月すうかげつをかけて徐々じょじょにではあるが安定あんていしていったとはいえ、『きょぞうみち』の降板こうばんめぐ一連いちれん騒動そうどうのためにオリヴィエの友人ゆうじんたちがリーが問題もんだいかかえていることをった。デヴィッド・ニーヴンはリーが「完全かんぜんに、本当ほんとう完全かんぜんくるっていた」とかたり、ノエル・カワードは日記にっきに「事態じたい最悪さいあくだ。(リーは)1948ねんあたりからどんどんおかしくなっていった」とおどろきをもってしるしている[41]。リーとフィンチの不倫ふりんは1948ねんはじまり、なみはあったがすう年間ねんかん関係かんけいつづいていた。そしてリーの精神せいしん状態じょうたい悪化あっかによって自然しぜん消滅しょうめつしていた[42]

ロサンゼルスの空港くうこうで、映画えいが監督かんとくジョージ・キューカーに出迎でむかえられたリーとオリヴィエ。1957ねん2がつ撮影さつえい

1953ねんにはリーの精神せいしん状態じょうたい安定あんていし、舞台ぶたい作品さくひんねむりのもり王子おうじ』 (The Sleeping Prince) でオリヴィエと共演きょうえんした。1955ねんのシーズンには2人ふたりストラトフォード=アポン=エイヴォンでシェイクスピアの戯曲ぎきょくじゅう』、『マクベス』、『タイタス・アンドロニカス』に出演しゅつえんしている。どの公演こうえん満員まんいんになりたか評価ひょうかて、リーの精神せいしん状態じょうたい安定あんていしているようにえていた。『じゅう』の舞台ぶたい監督かんとくジョン・ギールグッド当時とうじ「……たぶん、わたしはこの舞台ぶたい成功せいこうさせることが出来できるのだろう。かれ(オリヴィエ)が可愛かわい奥方おくがた(リー)- 彼女かのじょかれよりも聡明そうめいだが、まれながらの女優じょゆうというわけではない - の小心しょうしんさと精神せいしん安定あんていくばってくれるのであればだが。かれはあまりに自信満々じしんまんまんだが……、彼女かのじょ何事なにごとたいしてもまったく自信じしんてていない。演技えんぎ過剰かじょうでないかどうかをおそれ、ぎたともいえる準備じゅんびなしにはなにもできないとおもんでいる」としるしている[43]。リーは1955ねんアナトール・リトヴァク監督かんとくする映画えいが作品さくひん愛情あいじょうふかうみのごとく』に出演しゅつえんした。この作品さくひん共演きょうえんしゃケネス・モアは、撮影さつえい間中まなかリーとの相性あいしょうわるさをかんじていた[44]

1956ねんにリーは、ノエル・カワードの戯曲ぎきょく『サウス・シー・バブル』 (South Sea Bubble) の主役しゅやくえんじる予定よていだったが、妊娠にんしんしていることが判明はんめいしてやく降板こうばんした。おりしもオリヴィエが『王子おうじおど』で共演きょうえんするマリリン・モンローをロンドンのヒースロー空港くうこう夫婦ふうふそろって出迎でむかえたさい発表はっぴょうされたため、リーの虚言きょげんではないかと一部いちぶささやかれた。リーは身重みおもからだでスタジオにかおせていたが、すう週間しゅうかん流産りゅうざんし、すうヶ月かげつにわたるうつはいってしまった。リーはヨーロッパ各地かくちで『タイタス・アンドロニカス』を巡業じゅんぎょう上演じょうえんするオリヴィエと合流ごうりゅうしたが、この巡業じゅんぎょうはオリヴィエや一座いちざ団員だんいんたいする、リーのない暴言ぼうげんのために悲惨ひさんなものとなった。一座いちざはロンドンへともどり、いまだリーにおおきな影響えいきょうりょくっていた前夫ぜんふホルマンが、リーがくまでオリヴィエに協力きょうりょくして面倒めんどうた。

1958ねんにはリーとオリヴィエの結婚けっこん生活せいかつ破綻はたんしていた。リーは自身じしん精神せいしん状態じょうたい理解りかいしていた俳優はいゆうジョン・メリヴェールと関係かんけいつようになり、メリヴェールもリーの面倒めんどうていくことをオリヴィエに約束やくそくした。1959ねんにリーはノエル・カワードの喜劇きげきLook After Lulu』に出演しゅつえんし、たか評価ひょうかされた。タイムズはリーを「うつくしく、こころよいまでに無愛想ぶあいそうだ。彼女かのじょはどの場面ばめんでも女王じょおうのように舞台ぶたい支配しはいしていた」とひょうしている[45]

1960ねんにリーとオリヴィエは正式せいしき離婚りこんした。そのまもなくオリヴィエは20さい以上いじょう年下としした女優じょゆうジョーン・プロウライトと3度目どめ結婚けっこんをしている。オリヴィエの伝記でんき作家さっかは、オリヴィエがリーの病気びょうきのためになんねん精神せいしんてきめられていたとしている。「いつも彼女かのじょ(リー)は躁鬱そううつという不気味ぶきみおそろしい怪物かいぶつっており、きわめて危険きけんめた精神せいしん状態じょうたいかえしていた。彼女かのじょ独特どくとくのなさをそなえていて、ほとんどの人間にんげんたいしては自分じぶん精神せいしん状態じょうたいをうまくかくしていた。だけどわたしたいしてはべつだった。わたし彼女かのじょからたることはかんがえてもいなかっただろうから[4]」。

さい晩年ばんねん

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メリヴェールはリーの精神せいしん状態じょうたい好影響こうえいきょうあたえることができ、リーもやすらいだらしをおくっていたが、アメリカのジャーナリストのラディ・ハリス英語えいごばんに「ラリー(オリヴィエ)と一緒いっしょにいた時間じかんはあっというあいだでしたけれど、かれのいないいまらしはなんとながかんじることでしょう」とらしている[46]。リーの最初さいしょおっとであるホルマンも、かなりの時間じかんをリーのためについやしていた。メリヴェールは、1961ねん7がつから1962ねん5がつにかけてオーストラリア、ニュージーランド、中南米ちゅうなんべいまわるリーの巡業じゅんぎょう同行どうこうしている。相手あいてやくオリヴィエのいない舞台ぶたいだったが、この巡業じゅんぎょうこう評価ひょうかてリーを安心あんしんさせた。相変あいかわらずうつ発作ほっさなやまされていたとはいえリーは舞台ぶたい活動かつどうつづけ、1963ねんにはブロードウェイ・シアター上演じょうえんされたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、ジャン・ピエール・オーモンらと共演きょうえんトニーしょうミュージカル主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょうした。映画えいが作品さくひんでは、1961ねんの『ローマの哀愁あいしゅう』、1965ねんの『おろものふね』に出演しゅつえんしている。

リーは1967ねん5がつに、マイケル・レッドグレイヴ共演きょうえんするエドワード・オールビー戯曲ぎきょく『デリケート・バランス』 (A Delicate Balance) のために舞台ぶたい稽古けいこ開始かいししたが、結核けっかく再発さいはつしてしまった[47]。リーはすう週間しゅうかん休養きゅうようをとって回復かいふくしたかのようにみえた。1967ねん7がつ7にちよるにメリヴェールは舞台ぶたい出演しゅつえんするためにリーをのこして自宅じたくて、公演こうえんえたメリヴェールが帰宅きたくした深夜しんやにはすでにリーは寝室しんしつねむりについていた。そして、およそ30ふん寝室しんしつはいったメリヴェールが、ゆかくずちて死亡しぼうしているリーを発見はっけんした。リーはおそらくトイレにこうとしてベッドからがったときに死亡しぼうしたとみられ、そのはいには大量たいりょうがたまっていた[48]。メリヴェールは、前立腺ぜんりつせんがん治療ちりょうちかくの病院びょういん入院にゅういんしていたオリヴィエに連絡れんらくをとった。すぐさまリーとメリヴェールの自宅じたくへとかったオリヴィエは、リーをベッドによこたえようとしているメリヴェールの姿すがたたときに、その自叙伝じじょでんで「このうえなく悲痛ひつう」な気持きもちになったとしるしている。オリヴィエは「そのくし、かつてわたしたちのあいだこってしまった数々かずかずいさかいごとにたいしてゆるしをうた」[49]。リーの公式こうしき死亡しぼう記録きろくには7がつ8にち記載きさいされているが、7がつ7にち死亡しぼうとしている資料しりょうもある。

リーはロンドンのゴルダーズ・グリーン (en:Golders Green Crematorium) で荼毘だびされ、そののこはいはリーの希望きぼうでイングランド南東なんとうにあたるイースト・サセックスのブラックボーイズちかくにあるティッカレジ・ミルかれた。そして追悼ついとうしきがロンドンのセント・マーティン=イン=ザ=フィールズ教会きょうかい (St Martin-in-the-Fields) で挙行きょこうされ、リーにささげる追悼ついとうぶん名優めいゆうジョン・ギールグッドげている。アメリカでもみなみカリフォルニア大学だいがくがリーを「みなみカリフォルニア大学だいがく図書館としょかん擁護ようごしゃ」の最初さいしょ女優じょゆうとして顕彰けんしょうし、出演しゅつえんした映画えいがからあつめたリーのフィルムを上映じょうえいする追悼ついとうしきひらいた。この追悼ついとうしきにはジョージ・キューカーら、生前せいぜんのリーとつながりのあった人々ひとびとから言葉ことばせられた[50]

評価ひょうか

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ふうともりぬ』(1939ねん)ではスカーレット・オハラえんじた。

リーは当時とうじもっとも容貌ようぼううつくしい女優じょゆう一人ひとりだとみなされており、監督かんとくたちはリーのうつくしさを強調きょうちょうするような作品さくひんった。そのうつくしさがぎゃく真剣しんけん演技えんぎさまたげになるのではないかとたずねられたリーは、「そのようなことはまったくの筋違すじちがいであって、あなたは演技えんぎがどういうものかをおそらくかっていないのでしょう。わたし演技えんぎ真剣しんけんかんがえています。もし自分じぶんとはてもつかないやくえんじることになって、その役柄やくがら相応ふさわしい容貌ようぼうになりたいとのぞむことでもあれば、美貌びぼう不利ふり条件じょうけんとなることがあるかもれません」とこたえている[20]

映画えいが監督かんとくのジョージ・キューカーは「完璧かんぺき女優じょゆううつくしさが邪魔じゃまをしているくらい」とリーをひょう[51]、ローレンス・オリヴィエは「彼女かのじょ(リー)を女優じょゆうとして正当せいとう評価ひょうかすべきだ。彼女かのじょつあまりのうつくしさのせいで批評ひひょうたちの判断はんだんはすっかりゆがめられてしまっている」と批評ひひょうたちに苦言くげんていしている[52]げき作家さっかガーソン・ケニンも同様どうようかんがえをっており、リーのことを「あまりにうつくしく魅力みりょくてき女性じょせいは、女優じょゆうとして圧倒的あっとうてき成果せいかげたとしても目立めだたなくなってしまう。とてつもない美貌びぼう女優じょゆう役者やくしゃとして大成たいせいすることは滅多めったにない。うつくしい女優じょゆうはそれだけでものになるからだ。だがヴィヴィアンはちがう。意欲いよくがあって不屈ふくつ精神せいしんをもち、真剣しんけん演技えんぎんでいる。見事みごとなまでに素晴すばらしい」と表現ひょうげんしている[53]

リーは「できるかぎりさまざまなやく」をえんじたいとかんがえており、自身じしん能力のうりょくたいする不安ふあんかんはらいのけるためにさまざまな研鑽けんさんんでいた。リーは演劇えんげきのなかで喜劇きげきがもっともむずかしいとしんじていた。それはリーが、喜劇きげきにはきわめて正確せいかくなタイミングでの演技えんぎとコメディに相応ふさわしいおおげさな台詞回せりふまわしが要求ようきゅうされるとかんがえていたためだった。リーのキャリア後期こうきでは、ノエル・カワードの喜劇きげきからシェイクスピアの悲劇ひげきまで幅広はばひろ役柄やくがらえんじきっている。リーは「ひとわらわせるよりもかせることのほうがはるかに簡単かんたん」とかんがえていた[20]

リーはそのキャリア初期しょきから母国ぼこくイギリスではたか評価ひょうかされていたが、世界せかいてきにみると『ふうともりぬ』のだいヒットまではほぼ無名むめい女優じょゆうだった。1939ねん12月にニューヨーク・タイムズが「リーがえんじるスカーレットの不条理ふじょうり言動げんどうが、間接かんせつてきにリーの演技えんぎりょくせつけたといえる。彼女かのじょはまさにこのやくえんじるためにまれてきた女優じょゆうであり、女優じょゆうがこのやくえんじることなど想像そうぞうもできない」という記事きじを掲せている[54]。リーの人気にんきたかくなっていき、スカーレットにふんしたリーの写真しゃしんタイムズ表紙ひょうしかざっている。映画えいが批評ひひょうアンドリュー・サリスは、1969ねんに『ふうともりぬ』の成功せいこうはリーをスカーレットやく抜擢ばってきするという「素晴すばらしい配役はいやく」によるところがおおきいとしており[55]、1998ねんにも「彼女かのじょ(リー)は我々われわれしんなかつづけている。うごかない存在そんざいとしてではなく、きとして活力かつりょくちた女優じょゆうとして我々われわれ記憶きおくのこっている」としるしている[56]。アメリカの映画えいが批評ひひょうレナード・マーティン英語えいごばんは1998ねんに、『ふうともりぬ』は映画えいが史上しじょうもっとも素晴すばらしい作品さくひんひとつであり、リーが「このうえない演技えんぎ」でスカーレットをえんじたとひょうしている[57]

リーが舞台ぶたいばんの『欲望よくぼうという電車でんしゃ』でみせた演技えんぎは、イギリスの作家さっかフィリス・ハートノール英語えいごばんが「これまでのリーの演技えんぎのなかでも、女優じょゆうとしてのもっともすぐれた力量りきりょうせつけた」とし、リーがイギリスの劇場げきじょうにもっとも相応ふさわしい女優じょゆう一人ひとりであったことが、ながきにわたってかたがれるだろうと評価ひょうかしている[58]。アメリカの映画えいが批評ひひょうポーリン・ケイルは、リーが舞台ぶたいばんつづいて主役しゅやくえんじた映画えいがばんの『欲望よくぼうという電車でんしゃ』でのリーとマーロン・ブランドの演技えんぎを「これまで上映じょうえいされた映画えいがなかでもっとも素晴すばらしい」とし、リーについて「しんそこからの恐怖きょうふしんあわれみをかきたてるまれ演技えんぎ」だったとしている[59]

ケネス・タイナンは、1955ねん舞台ぶたい作品さくひんタイタス・アンドロニカス』でオリヴィエえんじるタイタス・アンドロニカスのむすめやくラヴィニアをえんじたリーの演技えんぎ酷評こくひょうし「おっところされてその死体したいうえ陵辱りょうじょくされるとらされたときのラヴィニア(リー)の表情ひょうじょうは、(おっと死体したいうえ陵辱りょうじょくされるのではなく)発泡はっぽうゴムのうえにしてくれないかしらとかる苛立いらだっているようなものだ」とコメントした[60]。タイナンは1955ねん舞台ぶたい作品さくひん『マクベス』でマクベス夫人ふじんやくえんじたリーのやくたいする解釈かいしゃく否定ひていてき評価ひょうかした批評ひひょう一人ひとりで、リーの演技えんぎ貧弱ひんじゃくであり、レディ・マクベスやく必要ひつよう激情げきじょうけているとひょうした。しかしながらタイナンはリーの死後しごに、批評ひひょうとしてのキャリア初期しょき自分じぶん批評ひひょうが「あまりにもひどい間違まちがいだった」と前言ぜんげん撤回てっかいしている。タイナンは、リーのマクベス夫人ふじんやくたいする解釈かいしゃくがマクベスを魅了みりょうする性的せいてき魅力みりょくにあふれたもので「それまでえんじられていた傲慢ごうまん気性きしょうはげしいマクベス夫人ふじんよりも、より説得せっとくりょくかんじさせられる」とかんがえるようになっていった。リーの死後しごあいだもなくしてから演劇えんげき批評ひひょうたちを対象たいしょうとした調査ちょうさおこなわれ、複数ふくすう批評ひひょうがリーのマクベス夫人ふじん演技えんぎを、舞台ぶたいげられたもっともすぐれた演技えんぎだったとしょうしている[61]

リーが死去しきょして2ねんの1969ねんに、「俳優はいゆうたちの教会きょうかい」としてられるロンドンのコヴェント・ガーデン広場ひろばにあるセント・ポール教会きょうかい (en:St Paul's, Covent Garden) に、リーを記念きねんするかざがく設置せっちされた。1985ねんにリーの切手きってが、アルフレッド・ヒッチコックチャーリー・チャップリンピーター・セラーズデヴィッド・ニーヴンとともに、「イギリス映画えいがねん」の記念きねん切手きってとして発行はっこうされた[62]。また、2013ねん4がつにもリーの生誕せいたん100周年しゅうねんのイギリスの記念きねん切手きって発行はっこうされている。王族おうぞく以外いがい人物じんぶつがイギリスの切手きって図案ずあんふくすうかい採用さいようされるのはまれなことだった。

1999ねんにロンドンのだいえい図書館としょかんが、ローレンス・オリヴィエがらしていた邸宅ていたくからかみ資料しりょうった。「ローレンス・オリヴィエ文書ぶんしょ (The Laurence Olivier Archive)」としてられるこのコレクションには、リーがオリヴィエにおくった大量たいりょう手紙てがみなど、リーにかんする記録きろくおおふくまれている。また、リーの手紙てがみ写真しゃしん契約けいやくしょ日記にっきなどを、リーのむすめであるスーザン・ファーリントンが保管ほかんしている。1994ねんオーストラリア国立こくりつ図書館としょかんが、「L & V O」というイニシャルがはいった写真しゃしんアルバムを購入こうにゅうした。このアルバムはオリヴィエとリーの夫妻ふさい所有しょゆうしていたとかんがえられており、1948ねんにオーストラリアを巡業じゅんぎょうしたときの2人ふたり写真しゃしん573まいおさめられていた。のちにこのアルバムはオーストラリアの演劇えんげき歴史れきしてき資料しりょうひとつとしてあつかわれるようになった[63]。2013ねんにヴィヴィアン・リーの書簡しょかん日記にっき写真しゃしん解説かいせつけられた映画えいが舞台ぶたい台本だいほん、そして生涯しょうがい獲得かくとくしたおおくの賞品しょうひんなどの一大いちだいコレクションを、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館はくぶつかん購入こうにゅうしている[64]

受賞じゅしょう

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年度ねんど しょう 作品さくひんめい
1939ねん アカデミーしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[65]
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[66]
ふうともりぬ
1951ねん アカデミーしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう (受賞じゅしょう)[65]
英国えいこくアカデミーしょう 最優秀さいゆうしゅう英国えいこく女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[67]
ゴールデングローブしょう ドラマ部門ぶもん主演しゅえん女優じょゆうしょう(ノミネート)[68]
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[69]
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい 女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[67]
欲望よくぼうという電車でんしゃ
1963ねん トニーしょう ミュージカル主演しゅえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[70] 『トヴァリッチ』
1965ねん フィルム・デイリー 助演じょえん女優じょゆうしょう受賞じゅしょう[70] おろものふね
1999ねん AFI 映画えいがスターベスト100 だい16[71]

出演しゅつえん作品さくひん

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出演しゅつえん映画えいが

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公開こうかいねん 邦題ほうだい
原題げんだい
役名やくめい 備考びこう
1935ねん 万事ばんじ上向うわむ
Things Are Looking Up
女学生じょがくせい 端役はやく。クレジットなし。日本にっぽん公開こうかい
英国えいこくでビデオのみ発売はつばい
1934ねん作品さくひんかれているほんもある[72][73]
田舎いなか紳士しんし
The Village Squire
ローズ リーは2さくにして主演しゅえん女優じょゆう[3]
日本にっぽん公開こうかいぜん世界せかいでビデオ・DVD発売はつばいなし。
紳士しんし協定きょうてい
Gentlemen's Agreement[74]
フィル・スタンリー リーは主演しゅえん女優じょゆう日本にっぽん公開こうかい
英国えいこく映画えいが協会きょうかいによればフィルムは現存げんそんしていない[75]
つめてわら
Look Up And Laugh
マージョリー・ベルファー 脇役わきやく日本にっぽん公開こうかい日本にっぽんではビデオ・DVD発売はつばいなし。
1937ねん 無敵むてき艦隊かんたい
Fire Over England
シンシア 脇役わきやく
間諜かんちょう
Dark Journey
マドレーヌ・ゴダール
茶碗ちゃわんなかあらし
Storm in a Teacup
ヴィクトリア・ガウ
(ヴィッキー)
1938ねん ひび凱歌がいか
A Yank at Oxford
エルザ 脇役わきやく。『哀愁あいしゅう』のロバート・テイラーとのはつ共演きょうえん
日本にっぽんではビデオ・DVD発売はつばいなし。
セント・マーティンの小径しょうけい
St. Martins Lane
リビー 日本にっぽん公開こうかい
1939ねん ふうともりぬ
Gone with the Wind
スカーレット・オハラ アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ナショナル・ボード・オブ・レビューしょう演技えんぎしょう 受賞じゅしょう
1940ねん 21日間にちかん
Twenty-One Days
ワンダ 1937ねん撮影さつえい日本にっぽん公開こうかい。2003ねん1がつ5にちにNHK衛星えいせいだい2で放送ほうそう[76]
日本にっぽんではビデオ・DVD発売はつばいなし。
哀愁あいしゅう
Waterloo Bridge
マイラ
1941ねん 美女びじょありき
That Hamilton Woman
エマ・ハミルトン
1945ねん シーザーとクレオパトラ
Caesar and Cleopatra
クレオパトラ
1948ねん アンナ・カレニナ
Anna Karenina
アンナ・カレニナ
1951ねん 欲望よくぼうという電車でんしゃ
A Streetcar Named Desire
ブランチ・デュボア アカデミー主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
ヴェネチア国際こくさい映画えいがさい 女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
英国えいこくアカデミーしょう 主演しゅえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう
1955ねん 愛情あいじょうふかうみのごとく
The Deep Blue Sea
ヘスター・コリヤー ぜん世界せかいでビデオ・DVD発売はつばいなし。
1961ねん ローマの哀愁あいしゅう
The Roman Spring of Mrs. Stone
カレン・ストーン
1965ねん おろものふね
Ship of fool
メアリー・ドレッドウェル フィルム・デイリー 助演じょえん女優じょゆうしょう 受賞じゅしょう

おもなインタビュー収録しゅうろく

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出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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日本語にほんご関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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