ヴィヴィアン・リー (Vivien Leigh, Lady Olivier 、1913年 ねん 11月5日 にち - 1967年 ねん 7月 がつ 8日 にち )は、イギリス の女優 じょゆう 。本名 ほんみょう はヴィヴィアン・メアリ・ハートリー (Vivian Mary Hartley)。英 えい 領 りょう インド帝国 ていこく の西 にし ベンガル州 しゅう 出身 しゅっしん 。
1939年 ねん の映画 えいが 『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』のスカーレット・オハラ 役 やく と1951年 ねん の映画 えいが 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』のブランチ・デュボワ役 やく でアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。後者 こうしゃ では、1949年 ねん にロンドン のウェスト・エンド で上演 じょうえん された舞台 ぶたい 版 ばん に引 ひ き続 つづ いて主演 しゅえん を演 えん じた。また、1963年 ねん のブロードウェイ・シアター で上演 じょうえん されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich ) で、トニー賞 しょう のミュージカル主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう している。2度 ど の結婚 けっこん 歴 れき と離婚 りこん 歴 れき があり、その一人 ひとり はローレンス・オリヴィエ である[ 2] 。
演劇 えんげき 学校 がっこう を辞 や めた後 のち の1934年 ねん 〜35年 ねん に4本 ほん の映画 えいが に出演 しゅつえん し、その後 ご 舞台 ぶたい 『美德 びとく の仮面 かめん 』で映画 えいが プロデューサーのアレクサンダー・コルダ に認 みと められ、1937年 ねん の映画 えいが 『無敵 むてき 艦隊 かんたい 』に出演 しゅつえん した[ 3] 。映画 えいが 女優 じょゆう として有名 ゆうめい となった後 のち も活動 かつどう の主軸 しゅじく を舞台 ぶたい におき、30年 ねん にわたる舞台 ぶたい 女優 じょゆう としての活動 かつどう で幅広 はばひろ い役柄 やくがら を演 えん じた。ノエル・カワード やジョージ・バーナード・ショウ らの戯曲 ぎきょく をはじめ、『ハムレット 』におけるオフィーリア 、『アントニーとクレオパトラ 』のクレオパトラ 、『ロミオとジュリエット 』のジュリエット、『マクベス 』のマクベス夫人 ふじん や、ジャン・アヌイ がソフォクレス の「アンティゴネ 」を翻案 ほんあん したアンチゴーヌなどを演 えん じた。
当時 とうじ の一般 いっぱん 大衆 たいしゅう からはイギリスの名優 めいゆう ローレンス・オリヴィエ の2度目 どめ の妻 つま としての印象 いんしょう を強 つよ くもたれていた。オリヴィエとは多 おお くの舞台 ぶたい 作品 さくひん で共演 きょうえん し、映画 えいが 作品 さくひん でも3度 ど 共演 きょうえん している。結婚 けっこん 生活 せいかつ は1940年 ねん から1960年 ねん まで続 つづ いたが、そのころから徐々 じょじょ に双極 そうきょく 性 せい 障害 しょうがい に悩 なや まされるようになり[ 4] 、女優 じょゆう としての仕事 しごと 量 りょう の減少 げんしょう を経験 けいけん した時期 じき もあった。また、1940年代 ねんだい 半 なか ばごろからは慢性 まんせい の結核 けっかく の発作 ほっさ に見 み まわれるようになり、最終 さいしゅう 的 てき にはこの慢性 まんせい 結核 けっかく で死去 しきょ している。
1999年 ねん にアメリカン・フィルム・インスティチュート が発表 はっぴょう した「映画 えいが スターベスト100 」では女優 じょゆう 部門 ぶもん の16位 い に選 えら ばれた。日本 にっぽん では、2000年 ねん の「キネマ旬報 きねまじゅんぽう 20世紀 せいき の映画 えいが スター 」の外国 がいこく 女優 じょゆう で4位 い に選 えら ばれている。
リーは1913年 ねん 11月5日 にち に、イギリス領 りょう インド帝国 ていこく ダージリン のセント・ポール・スクールの寄宿舎 きしゅくしゃ で生 う まれた。東 ひがし インド会社 かいしゃ が解散 かいさん し英国 えいこく 王室 おうしつ が支配 しはい するインドに10代で乗 の り込 こ み、最初 さいしょ は小間使 こまづか いから始 はじ め、株式 かぶしき ブローカーとして財産 ざいさん をつくることに成功 せいこう した新興 しんこう 成金 なりきん の父親 ちちおや アーネスト・ハートリーと母 はは の代 だい からインドに住 す まう母親 ははおや のガートルード・メアリ・フランセスとの間 あいだ に生 う まれた一人娘 ひとりむすめ で[ 5] [ 6] 、ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーと名 な づけられた[ 7] 。アーネストとガートルードは1912年 ねん にロンドンのケンジントン で結婚 けっこん し、その後 ご イギリス領 りょう インド帝国 ていこく に駐留 ちゅうりゅう していた[ 8] 。
近年 きんねん 、リーの先祖 せんぞ の起源 きげん についての憶測 おくそく が飛 と び交 か っている[ 9] 。リーの伝記 でんき 作家 さっか ヒューゴー・ヴィッカーズは、母親 ははおや のガートルードがアルメニア人 じん かインド人 じん の血 ち をひいているかもしれないと明 あ かし、それがリーの持 も つ「暗 くら い東洋 とうよう の美 うつく しさ」の説明 せつめい になるだろうと書 か いている[ 9] 。
1917年 ねん にアーネストはバンガロール への転属 てんぞく を命 めい じられたが、妻 つま ガートルードと幼 おさな いヴィヴィアンをウダカマンダラム に残 のこ したままの単身 たんしん 赴任 ふにん だった[ 10] 。ヴィヴィアンは3歳 さい のときに母親 ははおや が加入 かにゅう していた素人 しろうと 劇団 げきだん の舞台 ぶたい に立 た ち、イギリス童謡 どうよう の「ちっちゃな羊 ひつじ 飼 か い』 (Little Bo Peep ) を歌 うた っている。ガートルードはヴィヴィアンに文学 ぶんがく の教養 きょうよう を身 み につけさせようとして、アンデルセン 、ルイス・キャロル 、ラドヤード・キップリング といった作家 さっか たちの子供 こども 向 む け文学 ぶんがく 作品 さくひん だけでなく、ギリシア神話 しんわ やインドの民間 みんかん 伝承 でんしょう なども読 よ み聞 き かせていた。6歳 さい のときにヴィヴィアンは母 はは ガートルードの意向 いこう でインドを離 はな れて、それまで通 かよ っていたダージリンの学校 がっこう からロンドン南西 なんせい 部 ぶ ワンズワース区 く ローハンプトン (Roehampton ) にあったカトリック女子 じょし 修道院 しゅうどういん 付属 ふぞく 学校 がっこう (現在 げんざい のウォルディンガム女学校 じょがっこう (Woldingham School ) に転入 てんにゅう した。この学校 がっこう で知 し り合 あ った友人 ゆうじん に、後 のち に女優 じょゆう となる2歳 さい 年上 としうえ のモーリン・オサリヴァン がおり、ヴィヴィアンはオサリヴァンに「立派 りっぱ な女優 じょゆう 」になりたいという夢 ゆめ を語 かた っている[ 11] [ 12] 。その後 ご ヴィヴィアンは父 ちち アーネストのヨーロッパ旅行 りょこう についていくかたちで修道院 しゅうどういん 付属 ふぞく 学校 がっこう を退校 たいこう した。ヴィヴィアンは父 ちち に従 したが ってヨーロッパ各地 かくち の学校 がっこう を転々 てんてん とし、アーネストとヴィヴィアンがイギリスに戻 もど ったのは1931年 ねん のことだった。そして、ロンドンのウエスト・エンド で上映 じょうえい されていた、すでに女優 じょゆう としてデビューしていたオサリヴァンが出演 しゅつえん していた映画 えいが を観 み たヴィヴィアンは、両親 りょうしん に女優 じょゆう になりたいという望 のぞ みを告 つ げた。ヴィヴィアンの願 ねが いを聞 き いたアーネストは、ヴィヴィアンをロンドンの王立 おうりつ 演劇 えんげき 学校 がっこう へと入学 にゅうがく させた[ 13] 。
ヴィヴィアンが13歳 さい 年上 としうえ の法廷 ほうてい 弁護士 べんごし ハーバート・リー・ホルマンと出会 であ ったのは1931年 ねん のことである。ハーバートは「役者 やくしゃ 」を嫌 きら っていたが、1932年 ねん 12月 がつ 20日 はつか に2人 ふたり は結婚 けっこん し、ヴィヴィアンは王立 おうりつ 演劇 えんげき 学校 がっこう を退学 たいがく した。そして1933年 ねん 10月 がつ 12日 にち にヴィヴィアンは一人娘 ひとりむすめ スーザンを出産 しゅっさん した[ 14] 。数 かず 十 じゅう 年 ねん 後 ご にスーザンは結婚 けっこん し、リーの孫 まご となる子供 こども を3人 にん 出産 しゅっさん している[ 15] 。
ヴィヴィアンは友人 ゆうじん たちの勧 すす めで、1935年 ねん の映画 えいが 作品 さくひん 『Things Are Looking Up 』に出演 しゅつえん し、この作品 さくひん の端役 はやく で女優 じょゆう としてデビューした。ヴィヴィアンが契約 けいやく していた代理人 だいりにん のジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン (Vivian Holman ) 」という名前 なまえ が女優 じょゆう として相応 ふさわ しくないと考 かんが えた。グリッドンが考 かんが えた「エイプリル・モーン」という名前 なまえ が気 き に入 い らなかったヴィヴィアンは、夫 おっと ハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用 しゃくよう し、さらに自身 じしん のファーストネーム「ヴィヴィアン (Vivian )」の綴 つづ りの「a」を「e」に変更 へんこう して「ヴィヴィアン・リー (Vivien Leigh )」という芸名 げいめい を名乗 なの ることを決 き めた。グリッドンはリーを映画 えいが 女優 じょゆう として映画 えいが 監督 かんとく アレクサンダー・コルダ に推薦 すいせん したが、このときコルダはリーに将来 しょうらい 性 せい が欠 か けているとして出演 しゅつえん を断 た っている[ 16] 。1935年 ねん に舞台 ぶたい 作品 さくひん 『美徳 びとく の仮面 かめん (The Mask of Virtue )』に出演 しゅつえん したリーは高 たか い評価 ひょうか を受 う け、複数 ふくすう のインタビューや新聞 しんぶん 記事 きじ にとりあげられた。タブロイド紙 し 『デイリー・エクスプレス 』のインタビュー記事 きじ ではリーのことを「すばやくころころと変 か わる表情 ひょうじょう 」と表現 ひょうげん している。この記事 きじ が、後 のち にリーの特徴 とくちょう となっていく「気 き まぐれ」に最初 さいしょ に言及 げんきゅう した公的 こうてき なコメントだといわれている[ 17] 。のちに桂冠詩人 けいかんしじん の称号 しょうごう を手 て にするイギリスの詩人 しじん ジョン・ベチェマン (英語 えいご 版 ばん ) は「典型 てんけい 的 てき なイングランドの少女 しょうじょ 」であるとリーのことをい表 いあらわ している[ 18] 。以前 いぜん に自身 じしん が監督 かんとく する映画 えいが 作品 さくひん へのリーの出演 しゅつえん を断 ことわ ったコルダも、開幕 かいまく 初日 しょにち にリーが出演 しゅつえん する『美徳 びとく の仮面 かめん 』を観劇 かんげき した。そしてコルダは過去 かこ の過 あやま ちを認 みと め、リーの映画 えいが 出演 しゅつえん 契約 けいやく 書 しょ にサインした。『美徳 びとく の仮面 かめん 』はヒットを続 つづ け、コルダの計 けい らいで規模 きぼ の大 おお きな劇場 げきじょう で上演 じょうえん されることとなった。しかしながら当時 とうじ のリーの声質 せいしつ は大 だい 規模 きぼ な劇場 げきじょう に適 てき しているとはいえなかった。リーの演技 えんぎ は十分 じゅうぶん に観客 かんきゃく をひきつけることが出来 でき ず、『美徳 びとく の仮面 かめん 』は間 ま もなく終演 しゅうえん となってしまっている[ 19] 。
1960年 ねん にリーはこの当時 とうじ のことを回想 かいそう している。デビュー間 あいだ もない自分 じぶん が批評 ひひょう 家 か たちから高 たか く評価 ひょうか され、突然 とつぜん 有名 ゆうめい になったことに戸惑 とまど っており「私 わたし が優 すぐ れた女優 じょゆう だなどと無責任 むせきにん なことをいう批評 ひひょう 家 か もいました。なんと無責任 むせきにん で不道徳 ふどうとく ともいえる発言 はつげん でしょう。当時 とうじ の私 わたし にとってそういった言葉 ことば がどれだけ重荷 おもに で負担 ふたん になったことか。耐 た えられませんでした。このような最初 さいしょ の評価 ひょうか になんとか応 こた えられるようになるまで、何 なん 年 ねん もかかったのです。ほんとうに馬鹿 ばか げた話 はなし です。今 いま でもそのときの批評 ひひょう 家 か をはっきりと覚 おぼ えていますし、生涯 しょうがい 許 ゆる すことはないでしょう」と語 かた っている[ 20] 。
1948年 ねん に行 おこな われたオーストラリア公演 こうえん でブリスベンの空港 くうこう へ降 お り立 た つリーとオリヴィエ。
『美徳 びとく の仮面 かめん 』でリーを観 み たイギリスの俳優 はいゆう ローレンス・オリヴィエ はリーの演技 えんぎ を賞賛 しょうさん し、それから2人 ふたり の交友 こうゆう が始 はじ まった。オリヴィエとリーは、初 はじ めての共演 きょうえん となる1937年 ねん の映画 えいが 『無敵 むてき 艦隊 かんたい 』で恋人 こいびと 同士 どうし を演 えん じた。当時 とうじ のリーはハーバートと結婚 けっこん しており、オリヴィエも女優 じょゆう ジル・エズモンド と結婚 けっこん していたが、オリヴィエとリーは不倫 ふりん 関係 かんけい に陥 おちい っていった。この当時 とうじ のリーはマーガレット・ミッチェル の小説 しょうせつ 『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』を読 よ んでおり、この小説 しょうせつ の映画 えいが 化 か を企画 きかく していたプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック にアメリカの代理人 だいりにん を通 つう じて面会 めんかい を求 もと めている。リーはマスコミに「スカーレット・オハラ を演 えん じたい」と公言 こうげん していた。イギリスの新聞 しんぶん 「オブザーバー 」の映画 えいが 評論 ひょうろん 家 か キャロライン・アリス・レジュネ (英語 えいご 版 ばん ) は、当時 とうじ リーが「(オリヴィエは)レット・バトラーを演 えん じないでしょうけれど、私 わたし はスカーレット・オハラを演 えん じることになるわ。見 み ていてくださいな」とい放 いはな ったことに「皆 みな が愕然 がくぜん とした」と振 ふ り返 かえ っている[ 21] 。
1937年 ねん にリーとオリヴィエは、デンマーク のヘルシンゲル で上演 じょうえん される『ハムレット 』で共演 きょうえん した。ロンドンのオールド・ヴィック・シアター が企画 きかく したこのシェイクスピア原作 げんさく の舞台劇 ぶたいげき でリーはオフィーリアを演 えん じた[ 22] 。後 のち にオリヴィエはこのときの上演 じょうえん で、舞台 ぶたい に登場 とうじょう する前 まえ のリーが「気 き まぐれ」で起 お こした事件 じけん を回想 かいそう している。何 なに も怒 おこ らせるようなことをしていないにもかかわらず、リーがオリヴィエに向 む かって怒鳴 どな りだし、突然 とつぜん 黙 だま り込 こ んだと思 おも ったら虚空 こくう を見 み つめだしたことがあった。しかしながらリーは翌日 よくじつ には何 なに も覚 おぼ えておらず、いつもどおりに何事 なにごと もなく舞台 ぶたい を務 つと めあげたという。オリヴィエにとって、この出来事 できごと がリーの突拍子 とっぴょうし もない言動 げんどう を目 め にした最初 さいしょ の経験 けいけん となった[ 23] 。
リーとオリヴィエは同棲 どうせい をはじめたが、どちらの配偶 はいぐう 者 しゃ も離婚 りこん を拒否 きょひ した。当時 とうじ の道徳 どうとく 的 てき 見地 けんち からの非難 ひなん を恐 おそ れて、映画 えいが 会社 かいしゃ は2人 ふたり の関係 かんけい を大衆 たいしゅう には隠 かく し通 どお そうとした。私生活 しせいかつ では問題 もんだい をはらんでいたリーだったが、女優 じょゆう としては1938年 ねん の映画 えいが 『響 ひび け凱歌 がいか 』に出演 しゅつえん し、ロバート・テイラー 、ライオネル・バリモア 、モーリン・オサリヴァン と共演 きょうえん している。この『響 ひび け凱歌 がいか 』はリーの出演 しゅつえん 作品 さくひん としては最初 さいしょ にアメリカで注目 ちゅうもく を集 あつ めた映画 えいが となった。この作品 さくひん の撮影 さつえい 中 ちゅう にリーは、扱 あつか いが難 むずか しく理不尽 りふじん だと囁 ささや かれるようになった。コルダはリーの代理人 だいりにん に対 たい し、リーの言動 げんどう が改 あらた まらないのであれば契約 けいやく を更新 こうしん しないと警告 けいこく している。予定 よてい されていたリーの次回 じかい 作 さく は、コルダと親交 しんこう があったチャールズ・ロートン が製作 せいさく と主演 しゅえん を担当 たんとう する、1938年 ねん の映画 えいが 『セント・マーティンの小径 しょうけい (英語 えいご 版 ばん ) 』のヒロインであるリビー役 やく だった[ 24] 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』(1939年 ねん )。相手 あいて 役 やく のレット・バトラーはクラーク・ゲーブル が演 えん じた。
1930年代 ねんだい 終 お わりごろのハリウッドは、デヴィッド・O・セルズニック が製作 せいさく を決定 けってい していた映画 えいが 『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』の主役 しゅやく スカーレット・オハラ を演 えん じる女優 じょゆう 候補 こうほ を広 ひろ く募集 ぼしゅう していた。リーのアメリカ側 がわ での代理人 だいりにん は、セルズニックの兄 あに マイロン (英語 えいご 版 ばん ) が経営 けいえい する代理 だいり 店 てん のロンドン支社 ししゃ だった。1938年 ねん 2月 がつ にリーは、自身 じしん がスカーレット役 やく に選 えら ばれる可能 かのう 性 せい があるかどうかをセルズニックに打診 だしん している。セルズニックはリーが出演 しゅつえん した『無敵 むてき 艦隊 かんたい 』と『響 ひび け凱歌 がいか 』を同月 どうげつ に確認 かくにん し、リーがスカーレット役 やく に相応 ふさわ しいかも知 し れないと考 かんが えたが、「あまりにイギリス的 てき 」だったと感 かん じたため、リーにはスカーレット役 やく は無理 むり だろうと判断 はんだん した。しかしながらリーは、当時 とうじ アメリカで映画 えいが 撮影 さつえい を行 おこな っていたオリヴィエを頼 たよ ってロサンゼルスへと向 む かい、自分 じぶん こそがスカーレットだということをセルズニックに納得 なっとく させようとした。リーと面会 めんかい した、セルズニックの兄 あに でオリヴィエの代理人 だいりにん も務 つと めていたマイロン・セルズニックは、弟 おとうと がスカーレット役 やく の女優 じょゆう に求 もと めている資質 ししつ をリーが持 も っているのではないかという印象 いんしょう を受 う けた。ハリウッドに伝 つた わる伝説 でんせつ に、スカーレット役 やく 不在 ふざい のままアトランタ 炎上 えんじょう シーンを撮影 さつえい していた現場 げんば にマイロンがリーとオリヴィエを連 つ れて行 い き、セルズニックにリーを紹介 しょうかい して「よう天才 てんさい 、お前 まえ のスカーレットに会 あ わせてやるぜ」と嘯 うそぶ いたというものがある。いずれにせよ、セルズニックはスクリーンテストを行 おこな い、リーがカメラの前 まえ で台本 だいほん を読 よ んで見 み せた。リーに満足 まんぞく したセルズニックは妻 つま に宛 あ てて「彼女 かのじょ (リー)がスカーレット役 やく の大穴 おおあな だ。見 み た目 め も全 まった く申 もう し分 ぶん ない。まだ誰 だれ にも言 い ってない、お前 まえ だけだ。(スカーレット役 やく は)ポーレット・ゴダード 、ジーン・アーサー 、ジョーン・ベネット 、そしてヴィヴィアン・リーに絞 しぼ られた」という手紙 てがみ を書 か いている。『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の監督 かんとく を当初 とうしょ 任 まか されていたジョージ・キューカー もスカーレット役 やく にリーを抜擢 ばってき することに賛同 さんどう し、リーのことを「信 しん じられないくらいに野生 やせい 的 てき だ」と評価 ひょうか した。そしてリーがスカーレットを演 えん じることが正式 せいしき に決定 けってい された[ 25] 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の撮影 さつえい 現場 げんば はリーにとって辛 つら いものだった。監督 かんとく のキューカーが更迭 こうてつ されて、代 か わりにヴィクター・フレミング が監督 かんとく となったが、リーはフレミングとしょっちゅう仲違 なかたが いを起 お こしていた。リーと、メラニー・ハミルトン役 やく を演 えん じるオリヴィア・デ・ハヴィランド は夜 よる にこっそりと前 ぜん 監督 かんとく のキューカーと会 あ っており、毎週 まいしゅう 末 まつ にはキューカーから演技 えんぎ 指導 しどう も受 う けていた。リーはレット・バトラー役 やく のクラーク・ゲーブル とその妻 つま の女優 じょゆう キャロル・ロンバード 、デ・ハヴィランドと仲良 なかよ くなっていったが、スカーレットが感情 かんじょう 的 てき になるシーンが多 おお かったアシュレイ・ウィルクス役 やく のレスリー・ハワード とは、撮影 さつえい 現場 げんば でも実際 じっさい に激 はげ しく衝突 しょうとつ していた。週 しゅう 7日間 にちかん 拘束 こうそく されることもあったうえに撮影 さつえい が夜中 よなか までかかることも珍 めずら しくなく、このような状況 じょうきょう 下 か でリーは疲労 ひろう を重 かさ ねていった。リーはオリヴィエが恋 こい しくなり、ニューヨークで仕事 しごと をしていたオリヴィエに長距離 ちょうきょり 電話 でんわ をかけて「あなた、あなた、もう演技 えんぎ にはうんざり!もうイヤ、イヤ、二度 にど と映画 えいが になんか出 で たくない!」と愚痴 ぐち をこぼしている[ 26] 。
2006年 ねん に出版 しゅっぱん されたオリヴィエの伝記 でんき で、『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』撮影 さつえい 中 ちゅう のリーの躁病 そうびょう じみた言動 げんどう への苦情 くじょう に対 たい して、オリヴィア・デ・ハヴィランドがリーを弁護 べんご していたという記述 きじゅつ がある。「ヴィヴィアンは非 ひ の打 う ち所 どころ がないプロフェッショナルで、『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』では完全 かんぜん に自己 じこ 管理 かんり が出来 でき ていました。ただし、あのときの彼女 かのじょ には二 ふた つの大 おお きな悩 なや みがあったのです。一 ひと つは(スカーレットという)きわめて難 むずか しい役 やく を完璧 かんぺき に演 えん じなければならないこと、そしてもう一 ひと つはニューヨークにいたラリー(ローレンス・オリヴィエの愛称 あいしょう )と離 はな れ離 ばな れになっていたことです」とデ・ハヴィランドは語 かた っている[ 27] 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』は公開 こうかい 直後 ちょくご から注目 ちゅうもく され、主役 しゅやく のスカーレットを演 えん じたリーは絶賛 ぜっさん された。しかしながらリーは「私 わたし は映画 えいが スターではなく女優 じょゆう です。映画 えいが スター、そう映画 えいが スターなどというのは嘘 うそ だらけの暮 く らしでしょう。偽 いつわ りの価値 かち 観 かん と虚栄 きょえい のための生 い き方 かた です。(それに比 くら べて)女優 じょゆう は人生 じんせい すべてを費 つい やすに値 あたい する仕事 しごと であり、いつだって素晴 すば らしく重要 じゅうよう な役割 やくわり なのです」と語 かた っている[ 26] 。『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』は作品 さくひん 賞 しょう をはじめ10部門 ぶもん でアカデミー賞 しょう を受賞 じゅしょう し、リーも主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。さらにリーはニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 賞 しょう の主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう も受賞 じゅしょう している。
『哀愁 あいしゅう 』(1940年 ねん )で踊 おど り子 こ マイラ・レスター役 やく を演 えん じたリー。
1940年 ねん 2月 がつ になって、オリヴィエの妻 つま ジル・エズモンドとリーの夫 おっと ホルマンはどちらも離婚 りこん に合意 ごうい した。ただし、両人 りょうにん 共 ども にリーとの深 ふか い交友 こうゆう 関係 かんけい はその後 ご も生涯 しょうがい 続 つづ いている。オリヴィエの息子 むすこ タルキンの親権 しんけん は母親 ははおや のエズモンドが、リーの娘 むすめ スーザンの親権 しんけん は父親 ちちおや のホルマンがそれぞれ得 え ている。1940年 ねん 8月 がつ 31日 にち にオリヴィエとリーはカリフォルニア州 しゅう サンタバーバラ の高級 こうきゅう ホテルであるサン・イシドロ・ランチ (San Ysidro Ranch ) で結婚 けっこん した。結婚式 けっこんしき には立会 たちあい 人 じん として女優 じょゆう キャサリン・ヘプバーン と劇 げき 作家 さっか ガーソン・ケニン の2人 にん しか招 まね かれていない。結婚 けっこん したリーはオリヴィエとの共演 きょうえん を望 のぞ み、オリヴィエが主役 しゅやく の一人 ひとり を演 えん じることになっていたアルフレッド・ヒッチコック の監督 かんとく 作品 さくひん 『レベッカ 』のスクリーンテストを受 う けた。しかしながら、スクリーンテストを確認 かくにん したプロデューサーのセルズニックは「彼女 かのじょ (リー)には、誠実 せいじつ さ、若々 わかわか しさ、純真 じゅんしん さが欠 か けていると感 かん じる」と判断 はんだん し、監督 かんとく ヒッチコックやリーの恩師 おんし ジョージ・キューカーもこの判断 はんだん を支持 しじ した[ 28] 。
セルズニックは、オリヴィエの出演 しゅつえん が決 き まるまでリーが『レベッカ』に興味 きょうみ を示 しめ していなかったと考 かんが えており、主役 しゅやく の「わたし」にはジョーン・フォンテイン を選 えら んだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演 きょうえん を望 のぞ んだ『高慢 こうまん と偏見 へんけん 』でも、リーではなくグリア・ガースン を起用 きよう した。また、1940年 ねん の映画 えいが 『哀愁 あいしゅう 』はリーとオリヴィエの共演 きょうえん が予定 よてい されていたが、セルズニックはオリヴィエを外 はず して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー の看板 かんばん スターで、当時 とうじ 人気 にんき 絶頂 ぜっちょう だったロバート・テイラー を起用 きよう している。この映画 えいが にかけられた莫大 ばくだい な宣伝 せんでん 費用 ひよう は主役 しゅやく を演 えん じたリーのハリウッドでの地位 ちい を示 しめ すもので、『哀愁 あいしゅう 』は観客 かんきゃく からも批評 ひひょう 家 か たちからも高 こう 評価 ひょうか を得 え た[ 29] 。
結婚 けっこん 後 ご 、映画 えいが での共演 きょうえん はなかなか果 は たせなかったリーとオリヴィエだが、舞台 ぶたい ではブロードウェイ で1940年 ねん 5月 がつ に上演 じょうえん された『ロミオとジュリエット 』で共演 きょうえん している。しかしながらこの作品 さくひん に対 たい する評価 ひょうか は散々 さんざん なものだった。『ニューヨーク・プレス 』紙 し は、リーとオリヴィエの関係 かんけい が不倫 ふりん から始 はじ まったことを指摘 してき し、母国 ぼこく イギリスが第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を戦 たたか っている最中 さいちゅう であるにもかかわらず2人 ふたり がイギリスに戻 もど って戦争 せんそう に協力 きょうりょく しないことに対 たい する道徳心 どうとくしん の欠如 けつじょ を疑問 ぎもん 視 し する記事 きじ を掲載 けいさい している。『ニューヨーク・タイムズ 』の映画 えいが 評論 ひょうろん 家 か ブルックス・アトキンソン (英語 えいご 版 ばん ) は「リーとオリヴィエの容姿 ようし は端麗 たんれい かもしれないが、演技 えんぎ は全 まった くなっていない」と批判 ひはん している[ 30] 。2人 ふたり に対 たい する非難 ひなん はほとんどがオリヴィエの演技 えんぎ や演出 えんしゅつ に対 たい するものだったが、バーナード・グラバニーのように「リーの発声 はっせい は薄 うす っぺらく、店 みせ の売 う り子 こ 並 な みの質 しつ しかない」とリーを酷評 こくひょう する批評 ひひょう 家 か もいた。「2人 ふたり はこの舞台 ぶたい (『ロミオとジュリエット』)にほとんど全 ぜん 財産 ざいさん をつぎ込 こ んだために、破産 はさん 寸前 すんぜん となってしまった」ともいわれている[ 31] 。
1941年 ねん の映画 えいが 『美女 びじょ ありき 』で、オリヴィエはイギリス海軍 かいぐん 提督 ていとく ホレーショ・ネルソン 役 やく 、リーはその愛人 あいじん エマ・ハミルトン 役 やく として共演 きょうえん した。当時 とうじ のアメリカはいまだ第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん には参戦 さんせん しておらず、この『美女 びじょ ありき』は当時 とうじ ドイツに対 たい して苦戦 くせん を続 つづ けていたイギリスに対 たい するアメリカの大衆 たいしゅう の関心 かんしん を惹 ひ く目的 もくてき で製作 せいさく されたハリウッド映画 えいが の一 ひと つだった。『美女 びじょ ありき』はアメリカでヒットし、ソビエト連邦 れんぽう でも非常 ひじょう に大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めた。当時 とうじ のイギリス首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル は『美女 びじょ ありき』の上映 じょうえい 会 かい を企画 きかく し、アメリカ大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト ら厳選 げんせん した招待客 しょうたいきゃく に向 む かって「みなさん、この映画 えいが を楽 たの しんでいただけることと思 おも います。この映画 えいが は、現在 げんざい あなたたちが直面 ちょくめん している大 おお きな出来事 できごと ととてもよく似 に ていますから」とスピーチしている。チャーチルはオリヴィエのことを気 き に入 い っており、生涯 しょうがい を通 つう じて夕食 ゆうしょく に招待 しょうたい したり、行事 ぎょうじ への参加 さんか を依頼 いらい したりする間柄 あいだがら だった。チャーチルはリーのことも「本当 ほんとう に彼女 かのじょ は素晴 すば らしい」と評 ひょう していた[ 32] 。
その後 ご オリヴィエはイギリスに戻 もど り、リーは単独 たんどく で1943年 ねん に北 きた アフリカ のイギリス軍 ぐん を慰問 いもん した。北 きた アフリカ各地 かくち を回 まわ ったが、その後 ご しばらくしてから咳 せき と発熱 はつねつ のために慰問 いもん の中断 ちゅうだん を余儀 よぎ なくされている。1944年 ねん にリーは左 ひだり 肺 はい が結核 けっかく に罹患 りかん していると診断 しんだん され、数 すう 週間 しゅうかん の入院 にゅういん 生活 せいかつ を送 おく った。『シーザーとクレオパトラ 』(1945年 ねん )の撮影 さつえい 中 ちゅう に妊娠 にんしん していることが判明 はんめい したが、このときリーは流産 りゅうざん してしまった。流産 りゅうざん にひどく落 お ち込 こ んだ リーは自身 じしん が泣 な き疲 つか れ果 は てて床 ゆか に崩 くず れ落 お ちるまで、オリヴィエに怒鳴 どな り散 ち らし、殴 なぐ りかかった。これが、その後 ご リーが長 なが く苦 くる しむことになる双極 そうきょく 性 せい 障害 しょうがい の最初 さいしょ の大 おお きな発作 ほっさ となった。リーは非常 ひじょう に深 ふか く落 お ち込 こ んだかと思 おも うと、数日 すうじつ 間 あいだ は異常 いじょう なまでに活動 かつどう 的 てき になった。落 お ち込 こ んでいるときのことは何 なに も覚 おぼ えておらず、リーはそんな自分 じぶん にひどい困惑 こんわく を感 かん じていたといわれている[ 33] 。
オーストラリア滞在 たいざい 中 ちゅう のリーとオリヴィエ。1948年 ねん 6月 がつ 。
1946年 ねん には演技 えんぎ が出来 でき るまでにリーの病状 びょうじょう が回復 かいふく した。劇 げき 作家 さっか ソーントン・ワイルダー 原作 げんさく の戯曲 ぎきょく 『危機一髪 ききいっぱつ 』 (The Skin of Our Teeth ) は好評 こうひょう だったが、この前後 ぜんご の時期 じき にリーが出演 しゅつえん した『シーザーとクレオパトラ』(1945年 ねん )と『アンナ・カレニナ 』(1948年 ねん )は大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めたとはいえない。
1947年 ねん にオリヴィエがナイト爵 を受 う け、バッキンガム宮殿 きゅうでん で開催 かいさい された叙任 じょにん 式 しき にはリーとオリヴィエの2人 ふたり で出席 しゅっせき した。リーもナイト爵士夫人 ふじん として「レディ」の称号 しょうごう を許 ゆる された。後 のち に2人 ふたり は離婚 りこん しているが慣例 かんれい に従 したが ってリーに「レディ」の称号 しょうごう は残 のこ されており、リーは公式 こうしき の場 ば ではヴィヴィアン・レディ・オリヴィエとして知 し られるようになっている。
1948年 ねん ごろにはオリヴィエがオールド・ヴィック・シアター の重役 じゅうやく の一人 ひとり となり、劇場 げきじょう の運営 うんえい 資金 しきん を得 え るためにオーストラリア とニュージーランド 各地 かくち で6カ月 かげつ 間 あいだ にわたる巡業 じゅんぎょう を開始 かいし した。オリヴィエはシェイクスピアの戯曲 ぎきょく 『リチャード三 さん 世 せい 』で主役 しゅやく を演 えん じたほか、リチャード・ブリンズリー・シェリダン の戯曲 ぎきょく 『悪口 わるぐち 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) 』や『危機一髪 ききいっぱつ 』ではリーと共演 きょうえん で舞台 ぶたい をつとている。この巡業 じゅんぎょう は非常 ひじょう に大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めた。巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう のリーは不眠症 ふみんしょう に悩 なや まされており、体調 たいちょう が悪 わる かったときには1週間 しゅうかん 代役 だいやく が立 た てられたこともあったが、自身 じしん に任 まか せられた役割 やくわり はなんとかこなしていた。オリヴィエはリーの「マスコミを魅了 みりょう する」能力 のうりょく に賛辞 さんじ をよせている。ただし、この巡業 じゅんぎょう に参加 さんか した団員 だんいん たちが当時 とうじ のことを振 ふ り返 かえ り、リーとオリヴィエの間 あいだ には何 なん 度 ど か諍 いさか いがあり、ニュージーランドのクライストチャーチ での上演 じょうえん でリーが舞台 ぶたい に上 あ がることを拒否 きょひ した事件 じけん がとくに印象 いんしょう 的 てき だったと語 かた っている。このときオリヴィエはリーの顔 かお を平手打 ひらてう ちし、リーもオリヴィエに平手打 ひらてう ちを返 かえ した。そして最終 さいしゅう 的 てき にリーがステージに上 あ がる直前 ちょくぜん までオリヴィエに毒舌 どくぜつ を浴 あ びせ続 つづ けた。巡業 じゅんぎょう の終 お わりごろには両 りょう 者共 ものども に消耗 しょうもう しきっており、体調 たいちょう を崩 くず していた。オリヴィエはマスコミに対 たい して「知 し らないかもしれないけれど、今 いま あなたは歩 ある く死人 しにん 2人 にん に話 はな しかけているんだよ」と語 かた りかけている。後 のち にオリヴィエは、オーストラリアで「ヴィヴィアンを失 うしな った」とコメントしている[ 34] 。
オーストラリアとニュージーランドでの巡業 じゅんぎょう 公演 こうえん の大 だい 成功 せいこう に気 き をよくしたオリヴィエは、ロンドンのウエスト・エンドにおけるリーとの初 はつ の舞台 ぶたい 共演 きょうえん を行 おこな った。このときの演目 えんもく は、それまで共演 きょうえん した作品 さくひん のほかに古代 こだい ギリシアの悲劇 ひげき 作家 さっか ソフォクレス の『アンティゴネー 』も上演 じょうえん されている。これはリーが悲劇 ひげき を演 えん じたいと希望 きぼう したためでもあった。
『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』(1951年 ねん )の宣伝 せんでん フィルム。リーは主役 しゅやく のブランチ・デュボアを演 えん じた。
リーは、テネシー・ウィリアムズ が書 か き、ウエスト・エンドで上演 じょうえん されることになっていた戯曲 ぎきょく 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』の主役 しゅやく ブランチ・デュボア役 やく を欲 ほっ した。原作 げんさく 者 しゃ のウィリアムズと舞台 ぶたい プロデューサーのアイリーン・メイヤー・セルズニック (英語 えいご 版 ばん ) は、リーが出演 しゅつえん した舞台 ぶたい 『悪口 わるぐち 学校 がっこう 』と『アンティゴネー』を観 み て、リーをブランチ・デュボア役 やく に起用 きよう することを決 き めた。さらにオリヴィエも舞台 ぶたい 監督 かんとく として『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』に参加 さんか することが決 き まった。陵辱 りょうじょく シーンがあり、さらに乱交 らんこう 、同性愛 どうせいあい への言及 げんきゅう といった刺激 しげき 的 てき な内容 ないよう を持 も つこの作品 さくひん は大 おお きな論争 ろんそう の的 まと となり、マスコミもこの役 やく を演 えん じることがリーの精神 せいしん 状態 じょうたい を悪化 あっか させるのではないかと懸念 けねん していた。しかしながらリーはこのブランチ・デュボアは自身 じしん のキャリアにおいて非常 ひじょう に重要 じゅうよう な役 やく どころとなると固 かた く信 しん じていた。
ウエスト・エンドでの舞台劇 ぶたいげき 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』は1949年 ねん に開幕 かいまく した。劇 げき 作家 さっか J・B・プリーストリー はこの作品 さくひん 自体 じたい とリーの演技 えんぎ を激 はげ しく非難 ひなん している。また、以前 いぜん からリーの舞台 ぶたい を酷評 こくひょう することが多 おお かった演劇 えんげき 評論 ひょうろん 家 か ケネス・タイナン (英語 えいご 版 ばん ) も[ 35] 、リーはひどいミスキャストであり、その理由 りゆう として「このような(荒々 あらあら しく粗野 そや な)感情 かんじょう を舞台 ぶたい で表現 ひょうげん するには、イギリス人 じん 俳優 はいゆう は上品 じょうひん に過 す ぎる」とコメントしている。オリヴィエとリーは、この作品 さくひん が好色 こうしょく で扇情 せんじょう 的 てき な舞台 ぶたい になるに違 ちが いないと考 かんが えた観客 かんきゃく が大量 たいりょう に詰 つ め掛 か け、その結果 けっか として興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう が上 あ がったことについて遺憾 いかん の意 い を示 しめ している。しかしながらこの作品 さくひん には熱心 ねっしん な支持 しじ 者 しゃ も多 おお く[ 36] 、ノエル・カワード はリーのことを「最高 さいこう だ」と評 ひょう している[ 37] 。
ウエスト・エンドでの舞台 ぶたい 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』は326回 かい に及 およ ぶ公演 こうえん を重 かさ ねて幕 まく を閉 と じ、その後 ご すぐに映画 えいが 化 か が決 き まった『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』へのリーの出演 しゅつえん が決 き まった。リーの傲岸 ごうがん さと、ときに下品 げひん なユーモアセンスを気 き に入 い った共演 きょうえん 者 しゃ のマーロン・ブランド との仲 なか は良好 りょうこう だったが、リーのことを一流 いちりゅう の女優 じょゆう だとは認 みと めていなかった監督 かんとく のエリア・カザン との関係 かんけい はぎくしゃくしていた。後 のち に「彼女 かのじょ (リー)の才能 さいのう は微々 びび たるものだった」とコメントしたこともあるカザンだったが、撮影 さつえい が進 すす むにつれてリーが「自身 じしん が知 し るどの女優 じょゆう よりも優 すぐ れた演技 えんぎ を見 み せると固 かた く心 しん に決 き めた。彼女 かのじょ (リー)はもし演技 えんぎ に必要 ひつよう であれば、砕 くだ けたガラスの上 うえ に這 は いつくばる覚悟 かくご だった」と「大 おお いなる賞賛 しょうさん 」を与 あた えている。それでもリーはこの映画 えいが のブランチ・デュボア役 やく を演 えん じることに疲 つか れ果 は てており、『ロサンゼルス・タイムズ 』紙 し に「私 わたし は劇場 げきじょう で9カ月 かげつ 間 あいだ ブランチ・デュボアを演 えん じていました。それが今 いま では彼女 かのじょ (ブランチ)が私 わたし を牛耳 ぎゅうじ っています」と語 かた っている[ 38] 。この作品 さくひん の撮影 さつえい 中 ちゅう はオリヴィエもリーと共 とも にハリウッドに滞在 たいざい しており、ウィリアム・ワイラー 監督 かんとく 作品 さくひん 『黄昏 たそがれ 』に出演 しゅつえん し、ジェニファー・ジョーンズ と共演 きょうえん している。
映画 えいが 版 ばん 『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』は高 たか く評価 ひょうか され、リーは2度目 どめ となるアカデミー主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう と英国 えいこく アカデミー最優秀 さいゆうしゅう 英国 えいこく 女優 じょゆう 賞 しょう 、ニューヨーク映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 協会 きょうかい 主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。原作 げんさく 者 しゃ テネシー・ウィリアムスはリーがブランチ・デュボアに「私 わたし が意図 いと したあらゆるもの、そして私 わたし が夢 ゆめ にも思 おも わなかった多 おお くのもの」をもたらしてくれたと感謝 かんしゃ を表 あらわ しているが、後年 こうねん にリーはブランチ・デュボアを演 えん じたことは「倒 たお れそうで、気 き が狂 くる わんばかりだった」と振 ふ り返 かえ っている[ 39] 。
1951年 ねん にリーとオリヴィエはシェイクスピアの戯曲 ぎきょく 『アントニーとクレオパトラ 』とバーナード・ショー の戯曲 ぎきょく 『シーザーとクレオパトラ 』で共演 きょうえん し、リーはどちらの作品 さくひん でもクレオパトラ を演 えん じた。日替 ひが わりで上演 じょうえん された両 りょう 作品 さくひん は好評 こうひょう を博 はく した。リーとオリヴィエはこれらの舞台 ぶたい をニューヨークでも上演 じょうえん することを決 き め、1952年 ねん のシーズンにブロードウェイのジークフェルド・シアター (Ziegfeld Theatre ) で開幕 かいまく した。ニューヨークでの公演 こうえん もおおむね好評 こうひょう だったが、評論 ひょうろん 家 か ケネス・タイナンは、リーが二流 にりゅう の才能 さいのう しか持 も っていないせいで、オリヴィエの才能 さいのう まで貶 おとし められてしまっていると激 はげ しく非難 ひなん した。タイナンの痛烈 つうれつ な批判 ひはん はリーの精神 せいしん 状態 じょうたい に大 おお きな傷 きず を与 あた えた。リーは失敗 しっぱい に怯 おび え、素晴 すば らしい演技 えんぎ をすることだけに汲々 きゅうきゅう となってしまった。リーはタイナンの批判 ひはん のみを思 おも い悩 なや み、他 た の批評 ひひょう 家 か からの好意 こうい 的 てき な評価 ひょうか は頭 あたま から消 き え去 さ っていた[ 40] 。
1953年 ねん 1月 がつ にリーは、ピーター・フィンチ と共演 きょうえん する『巨 きょ 象 ぞう の道 みち 』の撮影 さつえい のためにセイロン を訪 おとず れた。しかしながら、撮影 さつえい 開始 かいし 後 ご 間 あいだ もなくしてリーが神経症 しんけいしょう の発作 ほっさ を起 お こしたために、製作 せいさく 会社 かいしゃ のパラマウント映画 えいが はリーを降板 こうばん させ、代役 だいやく にエリザベス・テイラー を起用 きよう した。オリヴィエはイギリスの自宅 じたく にリーを連 つ れ戻 もど したが、リーの精神 せいしん 状態 じょうたい は混乱 こんらん しており、オリヴィエに向 む かってフィンチが好 す きになった、肉体 にくたい 関係 かんけい を持 も ってしまったと繰 く り返 かえ した。その後 ご 、リーの状態 じょうたい は数カ月 すうかげつ をかけて徐々 じょじょ にではあるが安定 あんてい していったとはいえ、『巨 きょ 象 ぞう の道 みち 』の降板 こうばん を巡 めぐ る一連 いちれん の騒動 そうどう のためにオリヴィエの友人 ゆうじん たちがリーが問題 もんだい を抱 かか えていることを知 し った。デヴィッド・ニーヴン はリーが「完全 かんぜん に、本当 ほんとう に完全 かんぜん に狂 くる っていた」と語 かた り、ノエル・カワードは日記 にっき に「事態 じたい は最悪 さいあく だ。(リーは)1948年 ねん あたりからどんどんおかしくなっていった」と驚 おどろ きをもって記 しる している[ 41] 。リーとフィンチの不倫 ふりん は1948年 ねん に始 はじ まり、波 なみ はあったが数 すう 年間 ねんかん 関係 かんけい が続 つづ いていた。そしてリーの精神 せいしん 状態 じょうたい の悪化 あっか によって自然 しぜん 消滅 しょうめつ していた[ 42] 。
ロサンゼルスの空港 くうこう で、映画 えいが 監督 かんとく ジョージ・キューカーに出迎 でむか えられたリーとオリヴィエ。1957年 ねん 2月 がつ 撮影 さつえい 。
1953年 ねん にはリーの精神 せいしん 状態 じょうたい は安定 あんてい し、舞台 ぶたい 作品 さくひん 『眠 ねむ りの森 もり の王子 おうじ 』 (The Sleeping Prince ) でオリヴィエと共演 きょうえん した。1955年 ねん のシーズンには2人 ふたり でストラトフォード=アポン=エイヴォン でシェイクスピアの戯曲 ぎきょく 『十 じゅう 二 に 夜 や 』、『マクベス 』、『タイタス・アンドロニカス 』に出演 しゅつえん している。どの公演 こうえん も満員 まんいん になり高 たか い評価 ひょうか を得 え て、リーの精神 せいしん 状態 じょうたい も安定 あんてい しているように見 み えていた。『十 じゅう 二 に 夜 や 』の舞台 ぶたい 監督 かんとく ジョン・ギールグッド は当時 とうじ 「……たぶん、私 わたし はこの舞台 ぶたい を成功 せいこう させることが出来 でき るのだろう。彼 かれ (オリヴィエ)が可愛 かわい い奥方 おくがた (リー)- 彼女 かのじょ は彼 かれ よりも聡明 そうめい だが、生 う まれながらの女優 じょゆう というわけではない - の小心 しょうしん さと精神 せいしん の安定 あんてい に気 き を配 くば ってくれるのであればだが。彼 かれ はあまりに自信満々 じしんまんまん だが……、彼女 かのじょ は何事 なにごと に対 たい してもまったく自信 じしん が持 も てていない。演技 えんぎ が過剰 かじょう でないかどうかを恐 おそ れ、行 い き過 す ぎたともいえる準備 じゅんび なしには何 なに もできないと思 おも い込 こ んでいる」と記 しる している[ 43] 。リーは1955年 ねん にアナトール・リトヴァク が監督 かんとく する映画 えいが 作品 さくひん 『愛情 あいじょう は深 ふか い海 うみ のごとく 』に出演 しゅつえん した。この作品 さくひん の共演 きょうえん 者 しゃ ケネス・モア は、撮影 さつえい の間中 まなか リーとの相性 あいしょう の悪 わる さを感 かん じていた[ 44] 。
1956年 ねん にリーは、ノエル・カワードの戯曲 ぎきょく 『サウス・シー・バブル』 (South Sea Bubble ) の主役 しゅやく を演 えん じる予定 よてい だったが、妊娠 にんしん していることが判明 はんめい して役 やく を降板 こうばん した。折 おり しもオリヴィエが『王子 おうじ と踊 おど り子 こ 』で共演 きょうえん するマリリン・モンロー をロンドンのヒースロー空港 くうこう で夫婦 ふうふ そろって出迎 でむか えた際 さい に発表 はっぴょう されたため、リーの虚言 きょげん ではないかと一部 いちぶ で囁 ささや かれた。リーは身重 みおも の体 からだ でスタジオに顔 かお を見 み せていたが、数 すう 週間 しゅうかん 後 ご に流産 りゅうざん し、数 すう ヶ月 かげつ にわたる鬱 うつ 期 き に入 はい ってしまった。リーはヨーロッパ各地 かくち で『タイタス・アンドロニカス』を巡業 じゅんぎょう 上演 じょうえん するオリヴィエと合流 ごうりゅう したが、この巡業 じゅんぎょう はオリヴィエや一座 いちざ の団員 だんいん に対 たい する、リーの絶 た え間 ま ない暴言 ぼうげん のために悲惨 ひさん なものとなった。一座 いちざ はロンドンへと戻 もど り、いまだリーに大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていた前夫 ぜんふ ホルマンが、リーが落 お ち着 つ くまでオリヴィエに協力 きょうりょく して面倒 めんどう を見 み た。
1958年 ねん にはリーとオリヴィエの結婚 けっこん 生活 せいかつ は破綻 はたん していた。リーは自身 じしん の精神 せいしん 状態 じょうたい を理解 りかい していた俳優 はいゆう ジョン・メリヴェールと関係 かんけい を持 も つようになり、メリヴェールもリーの面倒 めんどう を見 み ていくことをオリヴィエに約束 やくそく した。1959年 ねん にリーはノエル・カワードの喜劇 きげき 『Look After Lulu 』に出演 しゅつえん し、高 たか く評価 ひょうか された。タイムズ紙 し はリーを「美 うつく しく、快 こころよ いまでに無愛想 ぶあいそう だ。彼女 かのじょ はどの場面 ばめん でも女王 じょおう のように舞台 ぶたい を支配 しはい していた」と評 ひょう している[ 45] 。
1960年 ねん にリーとオリヴィエは正式 せいしき に離婚 りこん した。その後 ご まもなくオリヴィエは20歳 さい 以上 いじょう 年下 としした の女優 じょゆう ジョーン・プロウライト と3度目 どめ の結婚 けっこん をしている。オリヴィエの伝記 でんき 作家 さっか は、オリヴィエがリーの病気 びょうき のために何 なん 年 ねん も精神 せいしん 的 てき に追 お い詰 つ められていたとしている。「いつも彼女 かのじょ (リー)は躁鬱 そううつ という不気味 ぶきみ で恐 おそ ろしい怪物 かいぶつ を飼 か っており、極 きわ めて危険 きけん で張 は り詰 つ めた精神 せいしん 状態 じょうたい を繰 く り返 かえ していた。彼女 かのじょ は独特 どくとく の抜 ぬ け目 め のなさを備 そな えていて、ほとんどの人間 にんげん に対 たい しては自分 じぶん の精神 せいしん 状態 じょうたい をうまく隠 かく していた。だけど私 わたし に対 たい しては別 べつ だった。私 わたし が彼女 かのじょ に辛 から く当 あ たることは考 かんが えてもいなかっただろうから[ 4] 」。
メリヴェールはリーの精神 せいしん 状態 じょうたい に好影響 こうえいきょう を与 あた えることができ、リーも安 やす らいだ暮 く らしを送 おく っていたが、アメリカのジャーナリストのラディ・ハリス (英語 えいご 版 ばん ) に「ラリー(オリヴィエ)と一緒 いっしょ にいた時間 じかん はあっという間 あいだ でしたけれど、彼 かれ のいない今 いま の暮 く らしはなんと長 なが く感 かん じることでしょう」と漏 も らしている[ 46] 。リーの最初 さいしょ の夫 おっと であるホルマンも、かなりの時間 じかん をリーのために費 つい やしていた。メリヴェールは、1961年 ねん 7月 がつ から1962年 ねん 5月 がつ にかけてオーストラリア、ニュージーランド、中南米 ちゅうなんべい を回 まわ るリーの巡業 じゅんぎょう に同行 どうこう している。相手 あいて 役 やく オリヴィエのいない舞台 ぶたい だったが、この巡業 じゅんぎょう は好 こう 評価 ひょうか を得 え てリーを安心 あんしん させた。相変 あいか わらず鬱 うつ の発作 ほっさ に悩 なや まされていたとはいえリーは舞台 ぶたい 活動 かつどう を続 つづ け、1963年 ねん にはブロードウェイ・シアター で上演 じょうえん されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich ) で、ジャン・ピエール・オーモン らと共演 きょうえん しトニー賞 しょう のミュージカル主演 しゅえん 女優 じょゆう 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。映画 えいが 作品 さくひん では、1961年 ねん の『ローマの哀愁 あいしゅう 』、1965年 ねん の『愚 おろ か者 もの の船 ふね 』に出演 しゅつえん している。
リーは1967年 ねん 5月 がつ に、マイケル・レッドグレイヴ と共演 きょうえん するエドワード・オールビー の戯曲 ぎきょく 『デリケート・バランス』 (A Delicate Balance ) のために舞台 ぶたい 稽古 けいこ を開始 かいし したが、結核 けっかく が再発 さいはつ してしまった[ 47] 。リーは数 すう 週間 しゅうかん の休養 きゅうよう をとって回復 かいふく したかのようにみえた。1967年 ねん 7月 がつ 7日 にち の夜 よる にメリヴェールは舞台 ぶたい に出演 しゅつえん するためにリーを残 のこ して自宅 じたく を出 で て、公演 こうえん を終 お えたメリヴェールが帰宅 きたく した深夜 しんや にはすでにリーは寝室 しんしつ で眠 ねむ りについていた。そして、およそ30分 ふん 後 ご に寝室 しんしつ に入 はい ったメリヴェールが、床 ゆか に崩 くず れ落 お ちて死亡 しぼう しているリーを発見 はっけん した。リーはおそらくトイレに行 い こうとしてベッドから起 お き上 あ がったときに死亡 しぼう したとみられ、その肺 はい には大量 たいりょう の血 ち がたまっていた[ 48] 。メリヴェールは、前立腺 ぜんりつせん 癌 がん の治療 ちりょう で近 ちか くの病院 びょういん に入院 にゅういん していたオリヴィエに連絡 れんらく をとった。すぐさまリーとメリヴェールの自宅 じたく へと向 む かったオリヴィエは、リーをベッドに横 よこ たえようとしているメリヴェールの姿 すがた を見 み たときに、その自叙伝 じじょでん で「このうえなく悲痛 ひつう 」な気持 きも ちになったと記 しる している。オリヴィエは「その場 ば に立 た ち尽 つ くし、かつて私 わたし たちの間 あいだ で起 お こってしまった数々 かずかず の諍 いさか いごとに対 たい して許 ゆる しを乞 こ うた」[ 49] 。リーの公式 こうしき 死亡 しぼう 記録 きろく には7月 がつ 8日 にち と記載 きさい されているが、7月 がつ 7日 にち を死亡 しぼう 日 び としている資料 しりょう もある。
リーはロンドンのゴルダーズ・グリーン (en:Golders Green Crematorium ) で荼毘 だび に付 ふ され、その遺 のこ 灰 はい はリーの希望 きぼう でイングランド南東 なんとう 部 ぶ にあたるイースト・サセックス のブラックボーイズ近 ちか くにあるティッカレジ・ミル湖 こ に撒 ま かれた。そして追悼 ついとう 式 しき がロンドンのセント・マーティン=イン=ザ=フィールズ教会 きょうかい (St Martin-in-the-Fields ) で挙行 きょこう され、リーに捧 ささ げる追悼 ついとう 文 ぶん を名優 めいゆう ジョン・ギールグッド が読 よ み上 あ げている。アメリカでも南 みなみ カリフォルニア大学 だいがく がリーを「南 みなみ カリフォルニア大学 だいがく 図書館 としょかん の擁護 ようご 者 しゃ 」の最初 さいしょ の女優 じょゆう として顕彰 けんしょう し、出演 しゅつえん した映画 えいが から集 あつ めたリーのフィルムを上映 じょうえい する追悼 ついとう 式 しき を開 ひら いた。この追悼 ついとう 式 しき にはジョージ・キューカーら、生前 せいぜん のリーとつながりのあった人々 ひとびと から言葉 ことば が寄 よ せられた[ 50] 。
『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ 』(1939年 ねん )ではスカーレット・オハラ を演 えん じた。
リーは当時 とうじ もっとも容貌 ようぼう が美 うつく しい女優 じょゆう の一人 ひとり だとみなされており、監督 かんとく たちはリーの美 うつく しさを強調 きょうちょう するような作品 さくひん を撮 と った。その美 うつく しさが逆 ぎゃく に真剣 しんけん な演技 えんぎ の妨 さまた げになるのではないかと尋 たず ねられたリーは、「そのようなことはまったくの筋違 すじちが いであって、あなたは演技 えんぎ がどういうものかをおそらく分 わ かっていないのでしょう。私 わたし は演技 えんぎ を真剣 しんけん に考 かんが えています。もし自分 じぶん とは似 に ても似 に つかない役 やく を演 えん じることになって、その役柄 やくがら に相応 ふさわ しい容貌 ようぼう になりたいと望 のぞ むことでもあれば、美貌 びぼう が不利 ふり な条件 じょうけん となることがあるかも知 し れません」と応 こた えている[ 20] 。
映画 えいが 監督 かんとく のジョージ・キューカーは「完璧 かんぺき な女優 じょゆう 。美 うつく しさが邪魔 じゃま をしているくらい」とリーを評 ひょう し[ 51] 、ローレンス・オリヴィエは「彼女 かのじょ (リー)を女優 じょゆう として正当 せいとう に評価 ひょうか すべきだ。彼女 かのじょ が持 も つあまりの美 うつく しさのせいで批評 ひひょう 家 か たちの判断 はんだん はすっかり歪 ゆが められてしまっている」と批評 ひひょう 家 か たちに苦言 くげん を呈 てい している[ 52] 。劇 げき 作家 さっか ガーソン・ケニンも同様 どうよう の考 かんが えを持 も っており、リーのことを「あまりに美 うつく しく魅力 みりょく 的 てき な女性 じょせい は、女優 じょゆう として圧倒的 あっとうてき な成果 せいか を挙 あ げたとしても目立 めだ たなくなってしまう。とてつもない美貌 びぼう を持 も つ女優 じょゆう が役者 やくしゃ として大成 たいせい することは滅多 めった にない。美 うつく しい女優 じょゆう はそれだけで売 う り物 もの になるからだ。だがヴィヴィアンは違 ちが う。意欲 いよく があって不屈 ふくつ の精神 せいしん をもち、真剣 しんけん に演技 えんぎ に取 と り組 く んでいる。見事 みごと なまでに素晴 すば らしい」と表現 ひょうげん している[ 53] 。
リーは「できる限 かぎ りさまざまな役 やく 」を演 えん じたいと考 かんが えており、自身 じしん の能力 のうりょく に対 たい する不安 ふあん 感 かん を払 はら いのけるためにさまざまな研鑽 けんさん を積 つ んでいた。リーは演劇 えんげき のなかで喜劇 きげき がもっとも難 むずか しいと信 しん じていた。それはリーが、喜劇 きげき には極 きわ めて正確 せいかく なタイミングでの演技 えんぎ とコメディに相応 ふさわ しい大 おお げさな台詞回 せりふまわ しが要求 ようきゅう されると考 かんが えていたためだった。リーのキャリア後期 こうき では、ノエル・カワードの喜劇 きげき からシェイクスピアの悲劇 ひげき まで幅広 はばひろ い役柄 やくがら を演 えん じきっている。リーは「人 ひと を笑 わら わせるよりも泣 な かせることのほうが遥 はる かに簡単 かんたん 」と考 かんが えていた[ 20] 。
リーはそのキャリア初期 しょき から母国 ぼこく イギリスでは高 たか く評価 ひょうか されていたが、世界 せかい 的 てき にみると『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の大 だい ヒットまではほぼ無名 むめい の女優 じょゆう だった。1939年 ねん 12月にニューヨーク・タイムズが「リーが演 えん じるスカーレットの不条理 ふじょうり な言動 げんどう が、間接 かんせつ 的 てき にリーの演技 えんぎ 力 りょく を見 み せつけたといえる。彼女 かのじょ はまさにこの役 やく を演 えん じるために生 う まれてきた女優 じょゆう であり、他 た の女優 じょゆう がこの役 やく を演 えん じることなど想像 そうぞう もできない」という記事 きじ を掲せている[ 54] 。リーの人気 にんき は高 たか くなっていき、スカーレットに扮 ふん したリーの写真 しゃしん がタイムズ の表紙 ひょうし を飾 かざ っている。映画 えいが 批評 ひひょう 家 か アンドリュー・サリス は、1969年 ねん に『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』の成功 せいこう はリーをスカーレット役 やく に抜擢 ばってき するという「素晴 すば らしい配役 はいやく 」によるところが大 おお きいとしており[ 55] 、1998年 ねん にも「彼女 かのじょ (リー)は我々 われわれ の心 しん の中 なか に生 い き続 つづ けている。動 うご かない存在 そんざい としてではなく、生 い き生 い きとして活力 かつりょく に満 み ちた女優 じょゆう として我々 われわれ の記憶 きおく に残 のこ っている」と記 しる している[ 56] 。アメリカの映画 えいが 批評 ひひょう 家 か レナード・マーティン (英語 えいご 版 ばん ) は1998年 ねん に、『風 ふう と共 とも に去 さ りぬ』は映画 えいが 史上 しじょう もっとも素晴 すば らしい作品 さくひん の一 ひと つであり、リーが「この上 うえ ない演技 えんぎ 」でスカーレットを演 えん じたと評 ひょう している[ 57] 。
リーが舞台 ぶたい 版 ばん の『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』でみせた演技 えんぎ は、イギリスの作家 さっか フィリス・ハートノール (英語 えいご 版 ばん ) が「これまでのリーの演技 えんぎ のなかでも、女優 じょゆう としてのもっとも優 すぐ れた力量 りきりょう を見 み せつけた」とし、リーがイギリスの劇場 げきじょう にもっとも相応 ふさわ しい女優 じょゆう の一人 ひとり であったことが、長 なが きにわたって語 かた り継 つ がれるだろうと評価 ひょうか している[ 58] 。アメリカの映画 えいが 批評 ひひょう 家 か ポーリン・ケイル は、リーが舞台 ぶたい 版 ばん に続 つづ いて主役 しゅやく を演 えん じた映画 えいが 版 ばん の『欲望 よくぼう という名 な の電車 でんしゃ 』でのリーとマーロン・ブランドの演技 えんぎ を「これまで上映 じょうえい された映画 えいが の中 なか でもっとも素晴 すば らしい」とし、リーについて「心 しん の底 そこ からの恐怖 きょうふ 心 しん と哀 あわ れみをかきたてる稀 まれ に見 み る演技 えんぎ 」だったとしている[ 59] 。
ケネス・タイナンは、1955年 ねん の舞台 ぶたい 作品 さくひん 『タイタス・アンドロニカス 』でオリヴィエ演 えん じるタイタス・アンドロニカスの娘 むすめ 役 やく ラヴィニアを演 えん じたリーの演技 えんぎ を酷評 こくひょう し「夫 おっと を殺 ころ されてその死体 したい の上 うえ で陵辱 りょうじょく されると知 し らされたときのラヴィニア(リー)の表情 ひょうじょう は、(夫 おっと の死体 したい の上 うえ で陵辱 りょうじょく されるのではなく)発泡 はっぽう ゴムの上 うえ にしてくれないかしらと軽 かる く苛立 いらだ っているようなものだ」とコメントした[ 60] 。タイナンは1955年 ねん の舞台 ぶたい 作品 さくひん 『マクベス』でマクベス夫人 ふじん 役 やく を演 えん じたリーの役 やく に対 たい する解釈 かいしゃく を否定 ひてい 的 てき に評価 ひょうか した批評 ひひょう 家 か の一人 ひとり で、リーの演技 えんぎ が貧弱 ひんじゃく であり、レディ・マクベス役 やく に必要 ひつよう な激情 げきじょう に欠 か けていると評 ひょう した。しかしながらタイナンはリーの死後 しご に、批評 ひひょう 家 か としてのキャリア初期 しょき の自分 じぶん の批評 ひひょう が「あまりにもひどい間違 まちが いだった」と前言 ぜんげん を撤回 てっかい している。タイナンは、リーのマクベス夫人 ふじん 役 やく に対 たい する解釈 かいしゃく がマクベスを魅了 みりょう する性的 せいてき 魅力 みりょく にあふれたもので「それまで演 えん じられていた傲慢 ごうまん で気性 きしょう の激 はげ しいマクベス夫人 ふじん よりも、より説得 せっとく 力 りょく を感 かん じさせられる」と考 かんが えるようになっていった。リーの死後 しご 間 あいだ もなくしてから演劇 えんげき 批評 ひひょう 家 か たちを対象 たいしょう とした調査 ちょうさ が行 おこな われ、複数 ふくすう の批評 ひひょう 家 か がリーのマクベス夫人 ふじん の演技 えんぎ を、舞台 ぶたい で成 な し遂 と げられたもっとも優 すぐ れた演技 えんぎ だったと称 しょう している[ 61] 。
リーが死去 しきょ して2年 ねん 後 ご の1969年 ねん に、「俳優 はいゆう たちの教会 きょうかい 」として知 し られるロンドンのコヴェント・ガーデン広場 ひろば にあるセント・ポール教会 きょうかい (en:St Paul's, Covent Garden ) に、リーを記念 きねん する飾 かざ り額 がく が設置 せっち された。1985年 ねん にリーの切手 きって が、アルフレッド・ヒッチコック 、チャーリー・チャップリン 、ピーター・セラーズ 、デヴィッド・ニーヴン とともに、「イギリス映画 えいが 年 ねん 」の記念 きねん 切手 きって として発行 はっこう された[ 62] 。また、2013年 ねん 4月 がつ にもリーの生誕 せいたん 100周年 しゅうねん のイギリスの記念 きねん 切手 きって が発行 はっこう されている。王族 おうぞく 以外 いがい の人物 じんぶつ がイギリスの切手 きって の図案 ずあん に複 ふく 数 すう 回 かい 採用 さいよう されるのは稀 まれ なことだった。
1999年 ねん にロンドンの大 だい 英 えい 図書館 としょかん が、ローレンス・オリヴィエが暮 く らしていた邸宅 ていたく から紙 かみ の資料 しりょう を買 か い取 と った。「ローレンス・オリヴィエ文書 ぶんしょ (The Laurence Olivier Archive )」として知 し られるこのコレクションには、リーがオリヴィエに送 おく った大量 たいりょう の手紙 てがみ など、リーに関 かん する記録 きろく も多 おお く含 ふく まれている。また、リーの手紙 てがみ 、写真 しゃしん 、契約 けいやく 書 しょ 、日記 にっき などを、リーの娘 むすめ であるスーザン・ファーリントンが保管 ほかん している。1994年 ねん にオーストラリア国立 こくりつ 図書館 としょかん が、「L & V O」というイニシャルが入 はい った写真 しゃしん アルバムを購入 こうにゅう した。このアルバムはオリヴィエとリーの夫妻 ふさい が所有 しょゆう していたと考 かんが えられており、1948年 ねん にオーストラリアを巡業 じゅんぎょう したときの2人 ふたり の写真 しゃしん 573枚 まい が収 おさ められていた。後 のち にこのアルバムはオーストラリアの演劇 えんげき の歴史 れきし 的 てき 資料 しりょう の一 ひと つとして扱 あつか われるようになった[ 63] 。2013年 ねん にヴィヴィアン・リーの書簡 しょかん 、日記 にっき 、写真 しゃしん 、解説 かいせつ が付 つ けられた映画 えいが 、舞台 ぶたい 台本 だいほん 、そして生涯 しょうがい に獲得 かくとく した多 おお くの賞品 しょうひん などの一大 いちだい コレクションを、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館 はくぶつかん が購入 こうにゅう している[ 64] 。
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