民俗 みんぞく アンサンブル
ロシア民謡 みんよう (ロシアみんよう)は、本来 ほんらい 的 てき にはロシア の民俗 みんぞく ・伝承 でんしょう に基 もと づく叙情 じょじょう 歌 か をさすが、近代 きんだい 以降 いこう の俗謡 ぞくよう や歌曲 かきょく などを広義 こうぎ に含 ふく み、実際 じっさい に「ロシア民謡 みんよう 」として扱 あつか われるジャンルは多岐 たき にわたっている。
ロシアにおいて、「ロマンス (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる芸術 げいじゅつ 歌曲 かきょく に対 たい して民謡 みんよう は「ナロードナヤ・ペースニャ」と呼 よ ばれる。狭義 きょうぎ のロシア民謡 みんよう は、農村 のうそん で歌 うた われてきた「叙情 じょじょう 歌 か 」をさし、ブィリーナ のような叙事 じょじ 歌謡 かよう は含 ふく まない。フォークロア としてのロシア民謡 みんよう を中心 ちゅうしん 的 てき に担 にな ってきたのは農民 のうみん であったが、職人 しょくにん やスコモローフ など、中世 ちゅうせい までに農民 のうみん 以外 いがい の社会 しゃかい 層 そう によっても歌 うた われてきた。
18世紀 せいき 後半 こうはん には、これらの民謡 みんよう と西欧 せいおう 文化 ぶんか との融合 ゆうごう によって、ロシア語 ご の歌詞 かし と西欧 せいおう 的 てき な和音 わおん 伴奏 ばんそう の形態 けいたい を特徴 とくちょう とする「ロシア歌謡 かよう 」(後述 こうじゅつ )と呼 よ ばれる新 あら たなジャンルが生 う まれた。さらに19世紀 せいき に入 はい ると、都市 とし 化 か の発展 はってん によって招 まね き寄 よ せられた農民 のうみん 層 そう から御者 ぎょしゃ 、船 ふね 曳 ひ き、兵士 へいし 、盗賊 とうぞく 、囚人 しゅうじん など多様 たよう な社会 しゃかい 層 そう が派生 はせい し、それぞれが独自 どくじ の民謡 みんよう を持 も つに至 いた る。19世紀 せいき 後半 こうはん には労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう による「仕事 しごと の歌 うた 」が重要 じゅうよう なジャンルとなり、20世紀 せいき 初頭 しょとう の革命 かくめい 歌 か は、こうした労働 ろうどう 歌 か から生 う まれた。これら18世紀 せいき 以降 いこう の都市 とし に現 あらわ れた通俗 つうぞく 的 てき あるいは芸術 げいじゅつ 的 てき 歌曲 かきょく も広義 こうぎ のロシア民謡 みんよう として知 し られており、例 たと えば、アレクサンドル・ヴァルラーモフ (1801年 ねん - 1848年 ねん )作曲 さっきょく の『赤 あか いサラファン 』は、芸術 げいじゅつ 歌曲 かきょく である「ロマンス (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」が民謡 みんよう と思 おも われている例 れい である。
宗教 しゅうきょう 歌 か の流 なが れをくむカント と並 なら んで、ロシア民謡 みんよう はのちのロシア芸術 げいじゅつ 音楽 おんがく の源泉 げんせん となった。また、喜劇 きげき の舞台 ぶたい では俳優 はいゆう たちによって民謡 みんよう が歌 うた われ、のちのコミック・オペラ につながった[1] [2] 。
叙情 じょじょう 歌 か のジャンル[ 編集 へんしゅう ]
農村 のうそん で歌 うた われていた「叙情 じょじょう 歌 か 」は、儀礼 ぎれい 歌 か と非 ひ 儀礼 ぎれい 歌 か に大別 たいべつ される。儀礼 ぎれい 歌 か には、婚礼 こんれい や葬礼 そうれい 、徴兵 ちょうへい などに際 さい して歌 うた われる家族 かぞく 儀礼 ぎれい 歌 か 、農耕 のうこう に関 かか わる年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ に際 さい して歌 うた われる農耕 のうこう 儀礼 ぎれい 歌 か がある。
叙情 じょじょう 歌 か はまた様々 さまざま なジャンルをはらんでおり、内容 ないよう 及 およ び歌唱 かしょう 形態 けいたい による分類 ぶんるい 方法 ほうほう がある。内容 ないよう による分類 ぶんるい では、恋愛 れんあい を歌 うた った歌 うた 、家庭 かてい 生活 せいかつ を歌 うた った歌 うた 、風刺 ふうし 的 てき あるいは滑稽 こっけい な内容 ないよう を持 も つ歌 うた などがある。歌唱 かしょう 形態 けいたい による分類 ぶんるい では、踊 おど りや遊戯 ゆうぎ など体 からだ の動 うご きを伴 ともな わないものと伴 ともな うものに分 わ けられる。前者 ぜんしゃ は「プロチャージナヤ(延 の べ歌 か )」と呼 よ ばれ、緩慢 かんまん なテンポ と規則 きそく 的 てき 拍 はく 節 ぶし を持 も たない装飾 そうしょく 的 てき 旋律 せんりつ が特徴 とくちょう である。後者 こうしゃ は、「チャースタヤ(速 そく 歌 か )」または「チャストゥーシカ」と呼 よ ばれ、その名 な のとおり速 はや いテンポで踊 おど り や遊戯 ゆうぎ を伴 ともな って歌 うた われる[1] 。
プロチャージナヤは不規則 ふきそく なリズム 、可変 かへん 的 てき なテンポ、豊富 ほうふ なメリスマ 、不安定 ふあんてい な調 しらべ 性 せい を特徴 とくちょう とし、ポドゴローソク(「下方 かほう の声 こえ 」の意 い 。副 ふく 声 こえ 部 ぶ とも)と呼 よ ばれる、ヘテロフォニー 的 てき に多 た 声 こえ 化 か する伝統 でんとう を持 も つ[3] 。
18世紀 せいき 後半 こうはん からロシア民謡 みんよう が収集 しゅうしゅう ・出版 しゅっぱん されるようになると、プロチャージナヤの持 も つ詩情 しじょう と際 きわ だった独創 どくそう 性 せい は、まず文学 ぶんがく の分野 ぶんや で注目 ちゅうもく され、アレクサンドル・プーシキン 、アントン・デリヴィグ 、ニコライ・ツィガーノフ (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、アレクセイ・コリツォーフ らがプロチャージナヤをモデルにしたロシア抒情詩 じょじょうし の作品 さくひん を残 のこ した。これに少 すこ し遅 おく れて音楽 おんがく 分野 ぶんや でもプロチャージナヤが取 と り上 あ げられ、これをイタリア 風 ふう アリア やフランス 風 ふう ロマンス の様式 ようしき に作 つく り替 か える試 こころ みがなされた。しかし、その独創 どくそう 的 てき な民謡 みんよう 様式 ようしき と当時 とうじ の西欧 せいおう 音楽 おんがく との隔 へだ たりの大 おお きさから、やがて独自 どくじ の「ロシア・ロマンス (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」のスタイルが練 ね り上 あ げられていくことになった[4] 。
チャストゥーシカは1870年代 ねんだい にグレープ・ウスペンスキー によって初 はじ めて術語 じゅつご として使 つか われた呼 よ び名 な で、ロシア・フォークロア の一大 いちだい ジャンルを形成 けいせい する。形容詞 けいようし チャーストゥイ(「速 はや い」の意 い )から発 はっ するとされるが、呼称 こしょう は地方 ちほう によって異 こと なる。通常 つうじょう 4行 ぎょう からなり、決 き まった音節 おんせつ 数 すう (通常 つうじょう は8・7・8・7)を持 も つ即興 そっきょう 詩 し を短 みじか い旋律 せんりつ に乗 の せて歌 うた う。詩 し は必 かなら ず複数 ふくすう であることから、チャストゥーシキと複数 ふくすう 形 がた で呼 よ ばれることも多 おお い。2-4行 ぎょう ずつを複数 ふくすう 人 じん で歌 うた い合 あ い、詩 し が途切 とぎ れないように競 きそ う場合 ばあい もある。旋律 せんりつ は、地方 ちほう 独特 どくとく のものから全国 ぜんこく で見 み られるものもあり、歌 うた われる内容 ないよう は多種 たしゅ 多様 たよう である。踊 おど りであるプリャースカ と同時 どうじ あるいは交代 こうたい で歌 うた われる。通常 つうじょう は楽器 がっき による伴奏 ばんそう がつき、伴奏 ばんそう がない場合 ばあい は、手 て やコップなどを叩 たた いて拍子 ひょうし を取 と る[5] 。
18世紀 せいき 後半 こうはん 、エカチェリーナ2世 せい の時代 じだい に、アレクサンドル・スマローコフ やガヴリーラ・デルジャーヴィン など、当時 とうじ の有名 ゆうめい な詩人 しじん によるロシア語 ご の詩 し に主 しゅ として鍵盤 けんばん 楽器 がっき の和音 わおん 伴奏 ばんそう が付 ふ された世俗 せぞく 歌謡 かよう の形式 けいしき が生 う まれた。これが「ロシア歌謡 かよう 」である。ロシア歌謡 かよう には二 ふた つの特徴 とくちょう が見 み られる。ひとつはワルツ 、ポロネーズ など西 にし ヨーロッパの舞曲 ぶきょく 形式 けいしき を用 もち いていること、もうひとつは6度 ど 音程 おんてい を過剰 かじょう に利用 りよう した感傷 かんしょう 的 てき な旋律 せんりつ 様式 ようしき を備 そな えていたことである。ロシア歌謡 かよう は貴族 きぞく のサロン で歌 うた われたのを始 はじ め、市民 しみん 層 そう にも広 ひろ がり、それまで普及 ふきゅう していたカントに取 と って代 か わるものとなった。
ロシアで最初 さいしょ に出版 しゅっぱん されたロシア歌謡 かよう 集 しゅう として知 し られるのが、グリゴリー・テプローフ の『余暇 よか の暇 ひま つぶし』(1759年 ねん 出版 しゅっぱん )である。さらに、ワシーリー・トルトフスキー (1776年 ねん -1795年 ねん 出版 しゅっぱん )、ニコライ・リヴォフ (1790年 ねん -1815年 ねん 出版 しゅっぱん )らが「ロシア民謡 みんよう 集 しゅう 」を出版 しゅっぱん したが、実質 じっしつ 的 てき にはこれらもロシア歌謡 かよう であった。とくにリヴォフのものは、ジョアキーノ・ロッシーニ 、ヨハン・ネポムク・フンメル 、フェルナンド・ソル 、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (「ラズモフスキー」と呼 よ ばれる3曲 きょく の弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 作品 さくひん 59におけるロシア主題 しゅだい )らが作曲 さっきょく に利用 りよう するなど、ロシア国内外 こくないがい に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。この結果 けっか 、ロシア歌謡 かよう は次第 しだい に姿 すがた を変 か え、「ロシア・ロマンス (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる新 あたら しい叙情 じょじょう 歌謡 かよう のジャンルへと発展 はってん 的 てき に解消 かいしょう されていった[6] 。
ロシアに漂着 ひょうちゃく した大黒屋 だいこくや 光太夫 こうだゆう が、鎖国 さこく 中 ちゅう への日本 にっぽん への帰国 きこく の許可 きょか をエカチェリーナ2世 せい に直訴 じきそ するため、1791年 ねん にサンクトペテルブルク 郊外 こうがい のツァールスコエ・セロー に滞在 たいざい 中 ちゅう に、御苑 ぎょえん 長 ちょう ブーシュの妹 いもうと ソフィアが彼 かれ の身 み の上 うえ を憐 あわ れんで歌 うた い聞 き かせたという、通称 つうしょう 「ソフィアの歌 うた 」を光太夫 こうだゆう は暗誦 あんしょう して持 も ち帰 かえ り、帰国 きこく 後 ご の彼 かれ への幕府 ばくふ によるき取 きと り調書 ちょうしょ 『北 きた 槎聞略 りゃく 』に歌詞 かし が記録 きろく されている。北 きた 槎聞略 りゃく 巻 まき 之 の 九 きゅう の記述 きじゅつ 「光太夫 こうだゆう が身 み のうへをブシが妹 いもうと ソヒヤ・イワノウナ歌 か につくりてうたひはやらかし、都下 とか 一般 いっぱん にうたひけるとぞ」に引 ひ きずられ、ソフィアが彼 かれ のために作 つく った歌 うた がペテルブルク都下 とか で流行 はや り始 はじ めた、という解釈 かいしゃく もあったが[7] 、この説 せつ は1965年 ねん に中村 なかむら 喜和 きわ がレニングラード で[8] 、光太夫 こうだゆう のペテルブルク到着 とうちゃく 以前 いぜん に出版 しゅっぱん された歌集 かしゅう の中 なか に元 もと 歌 うた を発見 はっけん したため覆 くつがえ された[9] 。元 もと 歌 うた 「異郷 いきょう にありて、身 み はさびし Ах, скучно мне」は、19世紀 せいき から20世紀 せいき には替 か え歌 うた が作 つく られ、、抵抗 ていこう 歌 か や軍歌 ぐんか にもなった[10] 。
日本 にっぽん での受容 じゅよう [ 編集 へんしゅう ]
「ロシア民謡 みんよう 」というジャンルは、日本 にっぽん では「民謡 みんよう 」と呼 よ ばれているにもかかわらず、その内実 ないじつ はロシア語 ご で「人民 じんみん の歌 うた 、大衆 たいしゅう 歌曲 かきょく 、大衆 たいしゅう 歌謡 かよう 」(Народная песня )と呼 よ ばれたソ連 それん 時代 じだい の多 おお くの流行 りゅうこう 歌 か 、愛唱 あいしょう 歌 か からなっている。特 とく に、日本 にっぽん では赤軍 せきぐん と白 しろ 軍 ぐん とのロシア内戦 ないせん や、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の独 どく ソ戦 せん 中 なか に流行 りゅうこう した歌 うた が親 した しまれている。従 したが って、「ロシア民謡 みんよう 」とは言 い っても、長年 ながねん に歌 うた って民間 みんかん で受 う け継 つ がれてきたような本来 ほんらい の意味 いみ での「民謡 みんよう 」ではない 歌曲 かきょく が多 おお い[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
このようなジャンル名 めい の意味 いみ と内実 ないじつ とのずれは、英訳 えいやく すれば「Popular song /ポピュラーソング 」になる「Народная песня 」というロシア語 ご を「民謡 みんよう 」と誤訳 ごやく したことが原因 げんいん となっている。さらに、ソ連 それん 時代 じだい には歌 うた も公共 こうきょう の財産 ざいさん とされたため特定 とくてい の作曲 さっきょく 者 しゃ や作詞 さくし 者 しゃ が伏 ふ せられていた場合 ばあい も多 おお く[要 よう 出典 しゅってん ] 、そうした事情 じじょう をよく理解 りかい していない日本人 にっぽんじん に「代々 だいだい 受 う け継 つ がれてきた作者 さくしゃ 不明 ふめい の民謡 みんよう である」という誤解 ごかい を助長 じょちょう する結果 けっか となった。
原則 げんそく としてロシア語 ご の歌 うた が「ロシア民謡 みんよう 」と呼 よ ばれているが、中 なか には元々 もともと はウクライナ やベラルーシ の歌 うた であったものも多 おお く含 ふく まれている[注釈 ちゅうしゃく 2] 。ソ連 それん では流行 りゅうこう 歌 か の常 つね としてさまざまな替 か え歌 うた も存在 そんざい したが、日本 にっぽん ではそうした事象 じしょう は反映 はんえい されていない。
また、「ロシア」民謡 みんよう ではあるものの現代 げんだい のロシア連邦 れんぽう の歌 うた はひとつも含 ふく まれず[要 よう 出典 しゅってん ] 、実質 じっしつ 的 てき にはソ連 それん 時代 じだい の流行 りゅうこう 歌 か を集 あつ めた「ソ連 それん 」民謡 みんよう となっている。
ソ連 それん での流行 りゅうこう 歌 か [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん の一部 いちぶ ではロシアの歌 うた は物悲 ものがな しいというイメージが持 も たれているが、これはソ連 それん の流行 りゅうこう 歌 か のうち短調 たんちょう のものばかりを日本 にっぽん に持 も ち込 こ んだというのがその実 み であり、ソ連 それん の流行 りゅうこう 歌 か が短調 たんちょう ばかりであったわけではない。とはいえ、ソ連 それん ではあまりに明 あか るすぎる印象 いんしょう を与 あた える歌 うた は発禁 はっきん となり、歌手 かしゅ も仕事 しごと を失 うしな う危険 きけん 性 せい があった[要 よう 出典 しゅってん ] ことは事実 じじつ であった。そのため、曲想 きょくそう は短調 たんちょう にした方 ほう が無難 ぶなん であった。こうした状況 じょうきょう は1960年代 ねんだい 後半 こうはん には変 か わってきたが、日本人 にっぽんじん の好 この みに合 あ わなかったのか日本 にっぽん へはあまり流入 りゅうにゅう しなかった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんご の戦乱 せんらん 期 き には、帝政 ていせい 末期 まっき から流行 りゅうこう した歌 うた の他 ほか にタンゴ などの流行 りゅうこう も見 み られた。有名 ゆうめい な「カチューシャの歌 うた 」は戦前 せんぜん の作 さく であったが、戦時 せんじ 中 ちゅう に「恋人 こいびと の兵士 へいし を待 ま ちわびる乙女 おとめ の歌 うた 」として大 だい 流行 りゅうこう した。戦時 せんじ 中 ちゅう には多 おお くの流行 りゅうこう 歌 か が存在 そんざい したが、そうした歌 うた の多 おお くは世相 せそう を映 うつ して悲 かな しいものや逆 ぎゃく に勇 いさ ましいものがあった(「カチューシャ」にも「英雄 えいゆう 的 てき な女 おんな 兵士 へいし 」バージョンや「献身 けんしん 的 てき な看護 かんご 婦 ふ 」バージョンが存在 そんざい する)。
アフガニスタン侵攻 しんこう など戦争 せんそう の絶 た えなかった世相 せそう を反映 はんえい し、ソ連 それん ではこうした比較的 ひかくてき 古 ふる い戦時 せんじ 中 ちゅう の流行 りゅうこう 歌 か は親 した しみを持 も ち続 つづ けられた。ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい 後 こう もチェチェン紛争 ふんそう を抱 かか えるロシア連邦 れんぽう を中心 ちゅうしん に古 ふる い流行 りゅうこう 歌 か は一定 いってい の流行 りゅうこう を続 つづ け、また、当然 とうぜん ながら戦争 せんそう とは関係 かんけい のない無数 むすう の流行 りゅうこう 歌 か をも含 ふく め、現代 げんだい でも「ともしび」や「カチューシャ」のような「ロシア民謡 みんよう 」は歌 うた われている。
それらいわゆる「ロシア民謡 みんよう 」は、古 ふる くはフョードル・シャリアピン や、ボリス・クリストフ 、現在 げんざい ではディミトリー・ホロストフスキー 等 ひとし 有名 ゆうめい なオペラ歌手 かしゅ ・声楽 せいがく 家 か や、ブラート・オクジャワ やヴラジーミル・ヴィソツキー 、アーラ・プガチョワ などの歌手 かしゅ 、旧 きゅう 西側 にしがわ 諸国 しょこく にも多 おお くファンを持 も つロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん (旧 きゅう ソ連 それん 軍 ぐん )所属 しょぞく の赤軍 せきぐん 合唱 がっしょう 団 だん (アレクサンドロフ・アンサンブル 、赤星 あかほし 赤軍 せきぐん 合唱 がっしょう 団 だん 、内務省 ないむしょう 軍 ぐん アンサンブル等 ひとし )等々 とうとう 、多 おお くの歌 うた い手 て により歌唱 かしょう されている。
日本 にっぽん への浸透 しんとう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん に流入 りゅうにゅう し「ロシア民謡 みんよう 」と呼 よ ばれたソ連 それん の流行 りゅうこう 歌 か は、日本 にっぽん ではロシアの民衆 みんしゅう の間 あいだ で長年 ながねん にわたって歌 うた い継 つ がれてきた民謡 みんよう であると信 しん じられた。日本人 にっぽんじん の好 この みに合 あ わせ、短調 たんちょう の歌 うた が多 おお く持 も ち込 こ まれた。そのため、ロシア民謡 みんよう には他 た のヨーロッパ 各国 かっこく の民謡 みんよう に比 くら べて短調 たんちょう の曲 きょく が多 おお いという批評 ひひょう がなされるようになった。
日本 にっぽん とロシア帝国 ていこく やソ連 それん との政治 せいじ 的 てき 関係 かんけい は元々 もともと あまり良好 りょうこう とはいえなかったが、ロシア民謡 みんよう は日本 にっぽん で非常 ひじょう にポピュラーなものとなり、ドイツリートや、呂 りょ 旋法 せんぽう とほぼ同 おな じ旋法 せんぽう を用 もち いたスコットランド民謡 みんよう などと肩 かた を並 なら べている。明治 めいじ の中期 ちゅうき 頃 ごろ から戦後 せんご まで日本語 にほんご の訳詞 やくし あるいは作詞 さくし がなされ、『カリンカ 』『ヴォルガの舟歌 ふなうた 』『黒 くろ い瞳 ひとみ 』『アムール河 かわ の波 なみ (英語 えいご 版 ばん 、ロシア語 ご 版 ばん ) 』『行商 ぎょうしょう 人 じん 』『ともしび 』『一 いち 週間 しゅうかん 』など、その数 かず は数 すう 十 じゅう 曲 きょく に上 のぼ る。『トロイカ 』、『ポーリュシカ・ポーレ 』などのように、ロシア語 ご と日本語 にほんご の間 あいだ で歌詞 かし の意味 いみ が大 おお きく異 こと なる曲 きょく もある。
日本 にっぽん においてロシア民謡 みんよう が悲 かな しいメロディーであると言 い う典型 てんけい が出来上 できあ がった背景 はいけい には、そうしたメロディーの方 ほう が日本 にっぽん の民謡 みんよう に近 ちか いものがあったということが挙 あ げられている。また、ロシア民謡 みんよう は、特 とく にシベリア抑留 よくりゅう から解放 かいほう された帰国 きこく 者 しゃ によって日本 にっぽん に多 おお く持 も ち込 こ まれた。そのため、流刑 りゅうけい 囚 しゅう の歌 うた や当時 とうじ 現地 げんち で流行 はや っていた戦時 せんじ 中 ちゅう の歌 うた (最新 さいしん の歌 うた も多少 たしょう はあった)が多 おお く、内容 ないよう 的 てき にも物悲 ものがな しいものが多 おお かったことは特徴 とくちょう として挙 あ げられる。
戦後 せんご 、日本 にっぽん においてロシア民謡 みんよう がポピュラーになるのに大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたのが、「灯 ひ (ともしび)」をはじめとする歌声 うたごえ 喫茶 きっさ である。テレビ普及 ふきゅう 前 まえ であった当時 とうじ 、歌声 うたごえ 喫茶 きっさ は大勢 おおぜい の若者 わかもの が楽 たの しむ娯楽 ごらく でもあった。ロシア歌曲 かきょく を得意 とくい とするダークダックス が、積極 せっきょく 的 てき にロシア民謡 みんよう を取 と り上 あ げたことも、日本 にっぽん 中 ちゅう に浸透 しんとう するのに一役 ひとやく 買 か っている。
しかし、ロシア民謡 みんよう の流行 りゅうこう は歌声 うたごえ 喫茶 きっさ の客層 きゃくそう に見 み られるように、ベールに包 つつ まれた東側 ひがしがわ 諸国 しょこく や社会 しゃかい 主義 しゅぎ や共産 きょうさん 主義 しゅぎ への憧 あこが れと表裏一体 ひょうりいったい のものであった。ソ連 それん の経済 けいざい が傾 かたむ き、国家 こっか の欠陥 けっかん を露呈 ろてい するに従 したが いそうした幻想 げんそう が衰退 すいたい していくと、ロシア民謡 みんよう の流行 りゅうこう の最盛 さいせい 期 き も去 さ っていった。結局 けっきょく 、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご はロシアの流行 りゅうこう 歌 か は日本 にっぽん へはほぼまったく流入 りゅうにゅう しなくなり[要 よう 出典 しゅってん ] 、せいぜいt.A.T.u. やOriga の一時 いちじ 的 てき な流行 りゅうこう が例外 れいがい として上 あ げられる他 ほか 、今 いま や時折 ときおり テレビ CM や映像 えいぞう BGM に有名 ゆうめい な曲 きょく のメロディが使 つか われる等 とう ある程度 ていど の一般 いっぱん 知名度 ちめいど や、ロシア歌曲 かきょく の愛好 あいこう 家 か が存在 そんざい する程度 ていど としている記事 きじ も多 おお い。
その一方 いっぽう で、日本 にっぽん の歌謡 かよう 界 かい でレパートリーとして歌 うた っている歌手 かしゅ もいる。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のジーン・ラスキン (英語 えいご 版 ばん ) 作詞 さくし 作曲 さっきょく のヒット曲 きょく のはずだったが、後 のち にロシアの大衆 たいしゅう 音楽 おんがく 作曲 さっきょく 家 か ボリス・フォミーン (ロシア語 ご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 3] のロシア革命 かくめい 直後 ちょくご ごろの作曲 さっきょく であることが分 わ かった『悲 かな しき天使 てんし 』(ロシア語 ご 原題 げんだい Дорогой длинною)が、漣 さざなみ 健児 けんじ 訳詩 やくし で、森山 もりやま 良子 りょうこ や南 みなみ 沙織 さおり らに歌 うた われる。「ポーリュシカ・ポーレ 」を仲 なか 雅美 まさみ が歌 うた っていた。ソ連 それん の歌手 かしゅ アーラ・プガチョワ のヒット曲 きょく 『百 ひゃく 万 まん 本 ほん のバラ 』が、加藤 かとう 登紀子 ときこ によって歌 うた われヒットして第 だい 40回 かい NHK紅白 こうはく 歌合戦 うたがっせん 出場 しゅつじょう 曲 きょく となる。加藤 かとう 登紀子 ときこ は、CDアルバム「ロシアのすたるじい 」で、古今 ここん の有名 ゆうめい 無名 むめい のロシア歌謡 かよう を歌 うた っている。
ロシア帝国 ていこく 時代 じだい の歌 うた (1917年 ねん 以前 いぜん )
ロシア革命 かくめい 後 ご から「雪解 ゆきど け(スターリンの死 し )」まで(1917年 ねん ~1952年 ねん )
「雪解 ゆきど け」後 ご (1952年 ねん ~)