ロシア民謡みんよう

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民俗みんぞくアンサンブル

ロシア民謡みんよう(ロシアみんよう)は、本来ほんらいてきにはロシア民俗みんぞく伝承でんしょうもとづく叙情じょじょうをさすが、近代きんだい以降いこう俗謡ぞくよう歌曲かきょくなどを広義こうぎふくみ、実際じっさいに「ロシア民謡みんよう」としてあつかわれるジャンルは多岐たきにわたっている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ロシアにおいて、「ロマンスロシアばん英語えいごばん」とばれる芸術げいじゅつ歌曲かきょくたいして民謡みんようは「ナロードナヤ・ペースニャ」とばれる。狭義きょうぎのロシア民謡みんようは、農村のうそんうたわれてきた「叙情じょじょう」をさし、ブィリーナのような叙事じょじ歌謡かようふくまない。フォークロアとしてのロシア民謡みんよう中心ちゅうしんてきになってきたのは農民のうみんであったが、職人しょくにんスコモローフなど、中世ちゅうせいまでに農民のうみん以外いがい社会しゃかいそうによってもうたわれてきた。

18世紀せいき後半こうはんには、これらの民謡みんよう西欧せいおう文化ぶんかとの融合ゆうごうによって、ロシア歌詞かし西欧せいおうてき和音わおん伴奏ばんそう形態けいたい特徴とくちょうとする「ロシア歌謡かよう」(後述こうじゅつ)とばれるあらたなジャンルがまれた。さらに19世紀せいきはいると、都市とし発展はってんによってまねせられた農民のうみんそうから御者ぎょしゃふねき、兵士へいし盗賊とうぞく囚人しゅうじんなど多様たよう社会しゃかいそう派生はせいし、それぞれが独自どくじ民謡みんようつにいたる。19世紀せいき後半こうはんには労働ろうどうしゃそうによる「仕事しごとうた」が重要じゅうようなジャンルとなり、20世紀せいき初頭しょとう革命かくめいは、こうした労働ろうどうからまれた。これら18世紀せいき以降いこう都市としあらわれた通俗つうぞくてきあるいは芸術げいじゅつてき歌曲かきょく広義こうぎのロシア民謡みんようとしてられており、たとえば、アレクサンドル・ヴァルラーモフ(1801ねん - 1848ねん作曲さっきょくの『あかいサラファン』は、芸術げいじゅつ歌曲かきょくである「ロマンスロシアばん英語えいごばん」が民謡みんようおもわれているれいである。

宗教しゅうきょうながれをくむカントならんで、ロシア民謡みんようはのちのロシア芸術げいじゅつ音楽おんがく源泉げんせんとなった。また、喜劇きげき舞台ぶたいでは俳優はいゆうたちによって民謡みんよううたわれ、のちのコミック・オペラにつながった[1][2]

叙情じょじょうのジャンル[編集へんしゅう]

農村のうそんうたわれていた「叙情じょじょう」は、儀礼ぎれい儀礼ぎれい大別たいべつされる。儀礼ぎれいには、婚礼こんれい葬礼そうれい徴兵ちょうへいなどにさいしてうたわれる家族かぞく儀礼ぎれい農耕のうこうかかわる年中ねんじゅう行事ぎょうじさいしてうたわれる農耕のうこう儀礼ぎれいがある。

叙情じょじょうはまた様々さまざまなジャンルをはらんでおり、内容ないようおよ歌唱かしょう形態けいたいによる分類ぶんるい方法ほうほうがある。内容ないようによる分類ぶんるいでは、恋愛れんあいうたったうた家庭かてい生活せいかつうたったうた風刺ふうしてきあるいは滑稽こっけい内容ないよううたなどがある。歌唱かしょう形態けいたいによる分類ぶんるいでは、おどりや遊戯ゆうぎなどからだうごきをともなわないものとともなうものにけられる。前者ぜんしゃは「プロチャージナヤ()」とばれ、緩慢かんまんテンポ規則きそくてきはくぶしたない装飾そうしょくてき旋律せんりつ特徴とくちょうである。後者こうしゃは、「チャースタヤ(そく)」または「チャストゥーシカ」とばれ、そののとおりはやいテンポでおど遊戯ゆうぎともなってうたわれる[1]

プロチャージナヤ[編集へんしゅう]

プロチャージナヤは不規則ふきそくリズム可変かへんてきなテンポ、豊富ほうふメリスマ不安定ふあんてい調しらべせい特徴とくちょうとし、ポドゴローソク(「下方かほうこえ」のふくこえとも)とばれる、ヘテロフォニーてきこえする伝統でんとう[3]

18世紀せいき後半こうはんからロシア民謡みんよう収集しゅうしゅう出版しゅっぱんされるようになると、プロチャージナヤの詩情しじょうきわだった独創どくそうせいは、まず文学ぶんがく分野ぶんや注目ちゅうもくされ、アレクサンドル・プーシキンアントン・デリヴィグニコライ・ツィガーノフロシアばん英語えいごばんアレクセイ・コリツォーフらがプロチャージナヤをモデルにしたロシア抒情詩じょじょうし作品さくひんのこした。これにすこおくれて音楽おんがく分野ぶんやでもプロチャージナヤがげられ、これをイタリアふうアリアフランスふうロマンス様式ようしきつくえるこころみがなされた。しかし、その独創どくそうてき民謡みんよう様式ようしき当時とうじ西欧せいおう音楽おんがくとのへだたりのおおきさから、やがて独自どくじの「ロシア・ロマンスロシアばん英語えいごばん」のスタイルがげられていくことになった[4]

チャストゥーシカ[編集へんしゅう]

チャストゥーシカは1870年代ねんだいグレープ・ウスペンスキーによってはじめて術語じゅつごとして使つかわれたで、ロシア・フォークロア一大いちだいジャンルを形成けいせいする。形容詞けいようしチャーストゥイ(「はやい」の)からはっするとされるが、呼称こしょう地方ちほうによってことなる。通常つうじょう4ぎょうからなり、まった音節おんせつすう通常つうじょうは8・7・8・7)を即興そっきょうみじか旋律せんりつせてうたう。かなら複数ふくすうであることから、チャストゥーシキと複数ふくすうがたばれることもおおい。2-4ぎょうずつを複数ふくすうじんうたい、途切とぎれないようにきそ場合ばあいもある。旋律せんりつは、地方ちほう独特どくとくのものから全国ぜんこくられるものもあり、うたわれる内容ないよう多種たしゅ多様たようである。おどりであるプリャースカ同時どうじあるいは交代こうたいうたわれる。通常つうじょう楽器がっきによる伴奏ばんそうがつき、伴奏ばんそうがない場合ばあいは、やコップなどをたたいて拍子ひょうし[5]

ロシア歌謡かよう[編集へんしゅう]

18世紀せいき後半こうはんエカチェリーナ2せい時代じだいに、アレクサンドル・スマローコフガヴリーラ・デルジャーヴィンなど、当時とうじ有名ゆうめい詩人しじんによるロシアしゅとして鍵盤けんばん楽器がっき和音わおん伴奏ばんそうされた世俗せぞく歌謡かよう形式けいしきまれた。これが「ロシア歌謡かよう」である。ロシア歌謡かようにはふたつの特徴とくちょうられる。ひとつはワルツポロネーズなど西にしヨーロッパの舞曲ぶきょく形式けいしきもちいていること、もうひとつは6音程おんてい過剰かじょう利用りようした感傷かんしょうてき旋律せんりつ様式ようしきそなえていたことである。ロシア歌謡かよう貴族きぞくサロンうたわれたのをはじめ、市民しみんそうにもひろがり、それまで普及ふきゅうしていたカントにってわるものとなった。

ロシアで最初さいしょ出版しゅっぱんされたロシア歌謡かようしゅうとしてられるのが、グリゴリー・テプローフの『余暇よかひまつぶし』(1759ねん出版しゅっぱん)である。さらに、ワシーリー・トルトフスキー(1776ねん-1795ねん出版しゅっぱん)、ニコライ・リヴォフ(1790ねん-1815ねん出版しゅっぱん)らが「ロシア民謡みんようしゅう」を出版しゅっぱんしたが、実質じっしつてきにはこれらもロシア歌謡かようであった。とくにリヴォフのものは、ジョアキーノ・ロッシーニヨハン・ネポムク・フンメルフェルナンド・ソルルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(「ラズモフスキー」とばれる3きょく弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく作品さくひん59におけるロシア主題しゅだい)らが作曲さっきょく利用りようするなど、ロシア国内外こくないがいおおきな影響えいきょうおよぼした。この結果けっか、ロシア歌謡かよう次第しだい姿すがたえ、「ロシア・ロマンスロシアばん英語えいごばん」とばれるあたらしい叙情じょじょう歌謡かようのジャンルへと発展はってんてき解消かいしょうされていった[6]

ロシアに漂着ひょうちゃくした大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうが、鎖国さこくちゅうへの日本にっぽんへの帰国きこく許可きょかをエカチェリーナ2せい直訴じきそするため、1791ねんサンクトペテルブルク郊外こうがいツァールスコエ・セロー滞在たいざいちゅうに、御苑ぎょえんちょうブーシュのいもうとソフィアがかれうえあわれんでうたかせたという、通称つうしょう「ソフィアのうた」を光太夫こうだゆう暗誦あんしょうしてかえり、帰国きこくかれへの幕府ばくふによるききと調書ちょうしょきた槎聞りゃく』に歌詞かし記録きろくされている。きた槎聞りゃくまききゅう記述きじゅつ光太夫こうだゆうのうへをブシがいもうとソヒヤ・イワノウナにつくりてうたひはやらかし、都下とか一般いっぱんにうたひけるとぞ」にきずられ、ソフィアがかれのためにつくったうたがペテルブルク都下とか流行はやはじめた、という解釈かいしゃくもあったが[7]、このせつは1965ねん中村なかむら喜和きわレニングラード[8]光太夫こうだゆうのペテルブルク到着とうちゃく以前いぜん出版しゅっぱんされた歌集かしゅうなかもとうた発見はっけんしたためくつがえされた[9]もとうた異郷いきょうにありて、はさびし Ах, скучно мне」は、19世紀せいきから20世紀せいきにはうたつくられ、、抵抗ていこう軍歌ぐんかにもなった[10]

日本にっぽんでの受容じゅよう[編集へんしゅう]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

「ロシア民謡みんよう」というジャンルは、日本にっぽんでは「民謡みんよう」とばれているにもかかわらず、その内実ないじつロシアで「人民じんみんうた大衆たいしゅう歌曲かきょく大衆たいしゅう歌謡かよう」(Народная песня)とばれたソ連それん時代じだいおおくの流行りゅうこう愛唱あいしょうからなっている。とくに、日本にっぽんでは赤軍せきぐんしろぐんとのロシア内戦ないせんや、だい大戦たいせんどくせんなか流行りゅうこうしたうたしたしまれている。したがって、「ロシア民謡みんよう」とはっても、長年ながねんうたって民間みんかんがれてきたような本来ほんらい意味いみでの「民謡みんようではない歌曲かきょくおお[注釈ちゅうしゃく 1]

このようなジャンルめい意味いみ内実ないじつとのずれは、英訳えいやくすれば「Popular song/ポピュラーソング」になる「Народная песня」というロシアを「民謡みんよう」と誤訳ごやくしたことが原因げんいんとなっている。さらに、ソ連それん時代じだいにはうた公共こうきょう財産ざいさんとされたため特定とくてい作曲さっきょくしゃ作詞さくししゃせられていた場合ばあいおお[よう出典しゅってん]、そうした事情じじょうをよく理解りかいしていない日本人にっぽんじんに「代々だいだいがれてきた作者さくしゃ不明ふめい民謡みんようである」という誤解ごかい助長じょちょうする結果けっかとなった。

原則げんそくとしてロシアうたが「ロシア民謡みんよう」とばれているが、なかには元々もともとウクライナベラルーシうたであったものもおおふくまれている[注釈ちゅうしゃく 2]ソ連それんでは流行りゅうこうつねとしてさまざまなうた存在そんざいしたが、日本にっぽんではそうした事象じしょう反映はんえいされていない。

また、「ロシア」民謡みんようではあるものの現代げんだいロシア連邦れんぽううたはひとつもふくまれず[よう出典しゅってん]実質じっしつてきにはソ連それん時代じだい流行りゅうこうあつめた「ソ連それん民謡みんようとなっている[11]

ソ連それんでの流行りゅうこう[編集へんしゅう]

日本にっぽん一部いちぶではロシアのうた物悲ものがなしいというイメージがたれているが、これはソ連それん流行りゅうこうのうち短調たんちょうのものばかりを日本にっぽんんだというのがそのであり、ソ連それん流行りゅうこう短調たんちょうばかりであったわけではない。とはいえ、ソ連それんではあまりにあかるすぎる印象いんしょうあたえるうた発禁はっきんとなり、歌手かしゅ仕事しごとうしな危険きけんせいがあった[よう出典しゅってん]ことは事実じじつであった。そのため、曲想きょくそう短調たんちょうにしたほう無難ぶなんであった。こうした状況じょうきょう1960年代ねんだい後半こうはんにはわってきたが、日本人にっぽんじんこのみにわなかったのか日本にっぽんへはあまり流入りゅうにゅうしなかった。

だい世界せかい大戦たいせん前後ぜんご戦乱せんらんには、帝政ていせい末期まっきから流行りゅうこうしたうたほかタンゴなどの流行りゅうこうられた。有名ゆうめいな「カチューシャのうた」は戦前せんぜんさくであったが、戦時せんじちゅうに「恋人こいびと兵士へいしちわびる乙女おとめうた」としてだい流行りゅうこうした。戦時せんじちゅうにはおおくの流行りゅうこう存在そんざいしたが、そうしたうたおおくは世相せそううつしてかなしいものやぎゃくいさましいものがあった(「カチューシャ」にも「英雄えいゆうてきおんな兵士へいし」バージョンや「献身けんしんてき看護かんご」バージョンが存在そんざいする)。

アフガニスタン侵攻しんこうなど戦争せんそうえなかった世相せそう反映はんえいし、ソ連それんではこうした比較的ひかくてきふる戦時せんじちゅう流行りゅうこうしたしみをつづけられた。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいこうチェチェン紛争ふんそうかかえるロシア連邦れんぽう中心ちゅうしんふる流行りゅうこう一定いってい流行りゅうこうつづけ、また、当然とうぜんながら戦争せんそうとは関係かんけいのない無数むすう流行りゅうこうをもふくめ、現代げんだいでも「ともしび」や「カチューシャ」のような「ロシア民謡みんよう」はうたわれている。

それらいわゆる「ロシア民謡みんよう」は、ふるくはフョードル・シャリアピンや、ボリス・クリストフ現在げんざいではディミトリー・ホロストフスキーひとし有名ゆうめいオペラ歌手かしゅ声楽せいがくや、ブラート・オクジャワヴラジーミル・ヴィソツキーアーラ・プガチョワなどの歌手かしゅきゅう西側にしがわ諸国しょこくにもおおくファンをロシア連邦れんぽうぐんきゅうソ連それんぐん所属しょぞく赤軍せきぐん合唱がっしょうだんアレクサンドロフ・アンサンブル赤星あかほし赤軍せきぐん合唱がっしょうだん内務省ないむしょうぐんアンサンブルひとし等々とうとうおおくのうたにより歌唱かしょうされている。

日本にっぽんへの浸透しんとう[編集へんしゅう]

日本にっぽん流入りゅうにゅうし「ロシア民謡みんよう」とばれたソ連それん流行りゅうこうは、日本にっぽんではロシアの民衆みんしゅうあいだ長年ながねんにわたってうたがれてきた民謡みんようであるとしんじられた。日本人にっぽんじんこのみにわせ、短調たんちょううたおおまれた。そのため、ロシア民謡みんようにはヨーロッパ各国かっこく民謡みんようくらべて短調たんちょうきょくおおいという批評ひひょうがなされるようになった。

日本にっぽんとロシア帝国ていこくソ連それんとの政治せいじてき関係かんけい元々もともとあまり良好りょうこうとはいえなかったが、ロシア民謡みんよう日本にっぽん非常ひじょうにポピュラーなものとなり、ドイツリートや、りょ旋法せんぽうとほぼおな旋法せんぽうもちいたスコットランド民謡みんようなどとかたならべている。明治めいじ中期ちゅうきごろから戦後せんごまで日本語にほんご訳詞やくしあるいは作詞さくしがなされ、『カリンカ』『ヴォルガの舟歌ふなうた』『くろひとみ』『アムールかわなみ英語えいごばんロシアばん』『行商ぎょうしょうじん』『ともしび』『いち週間しゅうかん』など、そのかずすうじゅうきょくのぼる。『トロイカ』、『ポーリュシカ・ポーレ』などのように、ロシア日本語にほんごあいだ歌詞かし意味いみおおきくことなるきょく[12][13]もある。

日本にっぽんにおいてロシア民謡みんようかなしいメロディーであると典型てんけい出来上できあがった背景はいけいには、そうしたメロディーのほう日本にっぽん民謡みんようちかいものがあったということがげられている。また、ロシア民謡みんようは、とくシベリア抑留よくりゅうから解放かいほうされた帰国きこくしゃによって日本にっぽんおおまれた。そのため、流刑りゅうけいしゅううた当時とうじ現地げんち流行はやっていた戦時せんじちゅううた最新さいしんうた多少たしょうはあった)がおおく、内容ないようてきにも物悲ものがなしいものがおおかったことは特徴とくちょうとしてげられる。

戦後せんご日本にっぽんにおいてロシア民謡みんようがポピュラーになるのにおおきな役割やくわりたしたのが、「(ともしび)」をはじめとする歌声うたごえ喫茶きっさである。テレビ普及ふきゅうまえであった当時とうじ歌声うたごえ喫茶きっさ大勢おおぜい若者わかものたのしむ娯楽ごらくでもあった。ロシア歌曲かきょく得意とくいとするダークダックスが、積極せっきょくてきにロシア民謡みんようげたことも、日本にっぽんちゅう浸透しんとうするのに一役ひとやくっている[11]

しかし、ロシア民謡みんよう流行りゅうこう歌声うたごえ喫茶きっさ客層きゃくそうられるように、ベールにつつまれた東側ひがしがわ諸国しょこく社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎへのあこがれと表裏一体ひょうりいったいのものであった[14]ソ連それん経済けいざいかたむき、国家こっか欠陥けっかん露呈ろていするにしたがいそうした幻想げんそう衰退すいたいしていくと、ロシア民謡みんよう流行りゅうこう最盛さいせいっていった。結局けっきょくソ連それん崩壊ほうかいはロシアの流行りゅうこう日本にっぽんへはほぼまったく流入りゅうにゅうしなくなり[よう出典しゅってん]、せいぜいt.A.T.u.Origa一時いちじてき流行りゅうこう例外れいがいとしてげられるほかいま時折ときおりテレビCM映像えいぞうBGM有名ゆうめいきょくのメロディが使つかわれるとうある程度ていど一般いっぱん知名度ちめいどや、ロシア歌曲かきょく愛好あいこう存在そんざいする程度ていどとしている記事きじおおい。

その一方いっぽうで、日本にっぽん歌謡かようかいでレパートリーとしてうたっている歌手かしゅもいる。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジーン・ラスキン英語えいごばん作詞さくし作曲さっきょくのヒットきょくのはずだったが、のちにロシアの大衆たいしゅう音楽おんがく作曲さっきょくボリス・フォミーンロシアばん[注釈ちゅうしゃく 3]ロシア革命かくめい直後ちょくごごろの作曲さっきょくであることがかった『かなしき天使てんし』(ロシア原題げんだい Дорогой длинною)が、さざなみ健児けんじ訳詩やくしで、森山もりやま良子りょうこみなみ沙織さおりらにうたわれる。「ポーリュシカ・ポーレ」をなか雅美まさみうたっていた。ソ連それん歌手かしゅアーラ・プガチョワのヒットきょくひゃくまんほんのバラ』が、加藤かとう登紀子ときこによってうたわれヒットしてだい40かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうきょくとなる。加藤かとう登紀子ときこは、CDアルバム「ロシアのすたるじい」で、古今ここん有名ゆうめい無名むめいのロシア歌謡かよううたっている。

有名ゆうめいうた[編集へんしゅう]

ロシア帝国ていこく時代じだいうた1917ねん以前いぜん

ロシア革命かくめいから「雪解ゆきどけ(スターリンの)」まで(1917ねん1952ねん

雪解ゆきどけ」(1952ねん~)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんでは「ロシア民謡みんよう」として有名ゆうめいな『モスクワ郊外こうがいゆう』(: Подмосковные вечера)は、1955ねんにされた歌曲かきょくであり、純粋じゅんすい戦後せんご流行りゅうこうである。
  2. ^ ロシア以外いがいうたほかに、『くろひとみ』の作詞さくしおこなったエヴゲーニイ・グレビョンカ(ウクライナイェウヘーン・フレビーンカ英語えいごばん Yevhen Hrebinka)のように、ロシアじん以外いがい作詞さくしがロシア作詞さくししたものもある。
  3. ^ : Борис Фомин

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ロシア音楽おんがく事典じてん pp.347-348
  2. ^ マース p.28, p.30
  3. ^ マース pp.28 - 29
  4. ^ マース p.31
  5. ^ ロシア音楽おんがく事典じてん pp.218-219, 300-301
  6. ^ ロシア音楽おんがく事典じてん p.401、マース p.29
  7. ^ ソ連それん光太夫こうだゆう研究けんきゅうヴラジーミル・コンスタンチーノフロシアばんもこのせつり、ソ連それんの『ノーヴィ・ミール Новый мир』(=しん世界せかい)・1961ねんだい5ごうにこのせつもとづく論文ろんぶん日本にっぽんにおける最初さいしょのロシア歌謡かよう Первая русская песня в Японии」を発表はっぴょうしている。中村なかむら喜和きわによる邦訳ほうやく亀井かめいこうたかし光太夫こうだゆう悲恋ひれん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1967ねん3がつ)に所収しょしゅう
  8. ^ このときほう日程にってい亀井かめいこうたかし光太夫こうだゆう悲恋ひれん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1967ねん3がつ)にくわしい。亀井かめい村山むらやま七郎しちろう、そしてもっと若手わかて中村なかむらの3にんによるほうソ。
  9. ^ 中村なかむら「あるロシア歌謡かよう歴史れきし いわゆる「ソフィアのうた」について」(『言語げんご文化ぶんかだい3ごう(一橋大学ひとつばしだいがく語学ごがく研究けんきゅうしつ、1966ねん11月)p.25-55) より p.36。または、「ソフィアのうたをめぐって ー中村なかむら喜和きわくー」(山下やました恒夫つねおへん大黒屋だいこくや光太夫こうだゆう史料しりょうしゅう だいさんかん』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、2003ねん5がつ)p.669-702)より p.679-680。
  10. ^ 生田いくた美智子みちこ「『ソフィアのうた』と大黒屋だいこくや光太夫こうだゆう」『たていのちかん経済けいざいがく』(だい46かんだい6ごう
  11. ^ a b 浜崎はまざき 2016, p. 31.
  12. ^ 浜崎はまざき 2016, p. 44.
  13. ^ 浜崎はまざき 2016, pp. 37–38.
  14. ^ 浜崎はまざき 2016, p. 32.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん・ロシア音楽家おんがくか協会きょうかい へん『ロシア音楽おんがく事典じてん(株)かぶしきがいしゃ河合楽器製作所かわいがっきせいさくしょ出版しゅっぱん、2006ねんISBN 9784760950164 
  • フランシス・マース ちょ 森田もりたみのる梅津うめづ紀雄としお中田なかた朱美あけみ やく『ロシア音楽おんがく 《カマリーンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで』春秋しゅんじゅうしゃ、2006ねんISBN 4393930193 
  • 浜崎はまざき慎吾しんご (2016-02-28). 戦後せんご日本にっぽんにおける「ロシア民謡みんよう」の受容じゅよう変容へんようやく調ちょうはいかにつくられるかー”. 千葉大学ちばだいがく大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかい科学かがく研究けんきゅう研究けんきゅうプロジェクト報告ほうこくしょ 304: 31-95. ISSN 1881-7165. https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/100388/. 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]