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グレープ・ウスペンスキー

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グレープ・ウスペンスキーロシア:Глеб Иванович Успенский1843ねん10月25にちユリウスれき10月13にち)-1902ねん4がつ6にち(ユリウスれき3がつ24にち))は帝政ていせいロシア作家さっか

略伝りゃくでん

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モスクワ南方なんぽうトゥーラしょう官吏かんりとしてまれる。トゥーラでまなび、そのチェルニーゴフうつる。1861ねんペテルブルク大学だいがく入学にゅうがくし、翌年よくねんモスクワ大学だいがくてんじるが1863ねん中退ちゅうたいする。そのころから地方ちほう都市とし職人しょくにんしょう官吏かんり生活せいかつえがいた散文さんぶんを«ヤースナヤ・ポリャーナ Ясная Поляна», «Библиотека для чтения», «ロシアの言葉ことば Русское слово», «Зритель», «Северное сияние», «Искра», «Будильник», «Женский вестник», «Новый русский базар», «どう時代じだいじん Современник»などの雑誌ざっしせ、文名ぶんめい確立かくりつ。1870年代ねんだいには「ヴ・ナロード運動うんどうとうじるためにロシアひがし南部なんぶのサマーラけんおもむく。農奴のうど解放かいほう否定ひていてき影響えいきょうがあらわれ商業しょうぎょう主義しゅぎ犠牲ぎせいとなった農村のうそん共同きょうどうたい目撃もくげきしたウスペンスキーは、むら生活せいかつについてペシミズムにいろどられたスケッチをえがく。その北部ほくぶロシアのノヴゴロドけんうつり、記録きろく文学ぶんがく著述ちょじゅつつづけた。80年代ねんだいにおけるナロードニキ大量たいりょう逮捕たいほ反動はんどううごきに憂鬱ゆううつしょうをわずらって1889ねん発狂はっきょうし、ぬまでの13年間ねんかん精神せいしん病院びょういんごしている。

評価ひょうか

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政府せいふ主義しゅぎしゃクロポトキンは、ウスペンスキーについて「自分じぶん一人ひとりひとつの流派りゅうはをつくっていて、かれのような文学ぶんがく作品さくひんはどこのくににもあたらない」とべ、民俗みんぞくがく人口じんこう統計とうけいがく民衆みんしゅう心理しんりがく要素ようそをふくむそのユニークさを特筆とくひつしている。さらに、ウスペンスキーが貧民ひんみん階級かいきゅう理想りそうするいままでの民衆みんしゅう作家さっか傾向けいこうからぬけだし、農村のうそん共同きょうどうたい生活せいかつ様式ようしき社会しゃかいてきりょくをリアルにとらえた、とひょうする。

マルクス主義まるくすしゅぎしゃプレハーノフには、官僚かんりょうによってそこなわれた農村のうそん共同きょうどうたい拒否きょひするてんが「ナロードニキたちの牧歌ぼっかてき幻想げんそうからも解放かいほうされている」とたか評価ひょうかされ、社会しゃかい主義しゅぎ基盤きばんとしての農村のうそん共同きょうどうたい階級かいきゅう分化ぶんかによって分裂ぶんれつした例証れいしょうとして、その作品さくひんがあげられた。

たとえばヴェーラ・フィグネルのようなどう時代じだいのナロードニキ出身しゅっしん革命かくめいたちにも愛読あいどくされ、わかときトロツキーにもふか影響えいきょうあたえている。

主著しゅちょ

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  • 『ラスチェリャーエヴァがい習俗しゅうぞく Нравы Растеряевой улицы1866ねん
  • 零落れいらく Разорение1869ねん
  • 農民のうみん農民のうみん労働ろうどう Крестьянин и Крестьянский1880ねん
  • 土地とちちから Власть земли1882ねん