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民俗みんぞくがく

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民俗みんぞくがく(みんぞくがく、英語えいご: folklore studies / folkloristics)は、学問がくもん領域りょういきのひとつ。高度こうど文明ぶんめいゆうするしょ国家こっかにおいて、自国じこく民族みんぞく日常にちじょう生活せいかつ文化ぶんか歴史れきしを、民間みんかん伝承でんしょうをおもな資料しりょうとしてさい構成こうせいしようとする学問がくもんで、民族みんぞくがく文化ぶんか人類じんるいがく近接きんせつ領域りょういきである。

概要がいよう

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民俗みんぞくがくは、風俗ふうぞく習慣しゅうかん伝説でんせつ民話みんわ歌謡かよう生活せいかつ用具ようぐ家屋かおくなどふるくから民間みんかん伝承でんしょうされてきた有形ゆうけい無形むけい民俗みんぞく資料しりょうをもとに、人間にんげんいとなみのなか伝承でんしょうされてきた現象げんしょう歴史れきしてき変遷へんせんあきらかにし、それをつうじて現在げんざい生活せいかつ文化ぶんか相対そうたいてき説明せつめいしようとする学問がくもんである。

この学問がくもんは、近代きんだいによっておおくの民俗みんぞく資料しりょううしなわれようとするとき、えゆく伝統でんとう文化ぶんかへのロマン主義しゅぎてき憧憬どうけいナショナリズムたかまりとともに誕生たんじょうしたわか学問がくもんであり、日本にっぽんもその例外れいがいではない。日本にっぽん民俗みんぞくがくは、ヨーロッパとくイギリスケンブリッジ学派がくはつよ影響えいきょうをうけて、柳田やなぎだ國男くにお折口おりぐち信夫しのぶらによって近代きんだい科学かがくとして完成かんせいされた。通常つうじょうfolklore訳語やくごとされるが、folklore民間みんかん伝承でんしょう民俗みんぞく)それ自体じたいをもすため、英語えいごけんでは民俗みんぞくがくをFolklore-StudiesやFolkloristicsぶこともすくなくない。

人間にんげん生活せいかつには、誕生たんじょうから、育児いくじ結婚けっこんいたるまでさまざまな儀式ぎしきともなっている。こうした通過つうか儀礼ぎれいとはべつに、普段ふだん衣食住いしょくじゅう祭礼さいれいなどのなかにもさまざまな習俗しゅうぞく習慣しゅうかん、しきたりがある。これらの風習ふうしゅうなかにはその由来ゆらいわすれられたまま、あるいは時代じだいとともに変化へんかしてもと原型げんけいがわからないままにおこなわれているものもある。民俗みんぞくがくはまた、こうした習俗しゅうぞく綿密めんみつ検証けんしょうなどをとおして伝統でんとうてき思考しこう様式ようしき解明かいめいする学問がくもんでもある。

学問がくもんとしてのしょ特徴とくちょう

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時代じだい学者がくしゃによってその定義ていぎ多岐たきにわたり、概説がいせつてき説明せつめいすることはむずかしいが、おおまかにいえば以下いかのような特徴とくちょう学問がくもんである。

  1. 研究けんきゅう目的もくてきは、ある民族みんぞく伝統でんとうてき文化ぶんか信仰しんこう風俗ふうぞく慣習かんしゅう思考しこう様式ようしき解明かいめいすることにある。また、こうした対象たいしょう歴史れきしてき変遷へんせんとともに、時代じだいをさかのぼりながらその原初げんしょ形態けいたいあきらかにしようとする傾向けいこうつ。
  2. 研究けんきゅう対象たいしょう民族みんぞく基層きそう文化ぶんかである場合ばあいは、民族みんぞく事例じれい自民じみんぞく研究けんきゅう補助ほじょ材料ざいりょうとして使つか場合ばあいおおい。
  3. 研究けんきゅう手法しゅほうとして、文献ぶんけん資料しりょうのほか、現代げんだい社会しゃかい残存ざんそんする文化ぶんか風習ふうしゅう思考しこう様式ようしき重視じゅうしする。このためフィールド・ワークによる材料ざいりょう収集しゅうしゅうおこなう。
  4. また未開みかいであるとかんがえられるほか民族みんぞく文化ぶんか風習ふうしゅう思考しこう様式ようしきを、人間にんげんのプリミティブな精神せいしん活動かつどうのあらわれであるとかんがえ、これを研究けんきゅうじょう材料ざいりょうまたは補助ほじょ材料ざいりょうとすることもおおい(このてんについて、現在げんざいではポストコロニアルかんがえから批判ひはんおこなわれることがある)。「未開みかい」と「古代こだい」(始原しげん)のどういち民俗みんぞくがく特色とくしょくのひとつである。
  5. 現代げんだいじん無意識むいしきのうちにっていること、あるいは合理ごうりてき説明せつめいをつけながらっていることのなかに、古代こだいてき意味いみ見出みいだす、というかた研究けんきゅうおおい。
  6. 日本にっぽんでは文学ぶんがく研究けんきゅう批評ひひょうおおきな影響えいきょうあたえており、このてん文化ぶんか人類じんるいがく民族みんぞくがくとはことなった特色とくしょくがある。
  7. とく日本にっぽん民俗みんぞくがく研究けんきゅうにあっては、その初期しょきおおきな影響えいきょうあたえた柳田やなぎだ國男くにお折口おりぐち信夫しのぶ二人ふたり強烈きょうれつ個性こせい持主もちぬしであり、西欧せいおう渡来とらい学問がくもん手法しゅほう消化しょうかして日本にっぽん独自どくじのフォークロアを完成かんせいさせたため、「柳田やなぎだまなぶ」「折口おりぐちまなぶ」といったばれることもある。また、柳田やなぎだ自身じしん、「新国にいくにまなぶ」としょうして民俗みんぞくがく体系たいけいこころみており、近世きんせい以来いらい国学こくがく影響えいきょうつよい。
  8. 日本にっぽん民俗みんぞくがくは「在野ざいやがく」と表現ひょうげんされ、しょ学問がくもん比較ひかくしたときにもっと特異とくいとされる特徴とくちょうでもある。これは在野ざいやとアカデミズム(民俗みんぞくがく職業しょくぎょうとしているかか)を区別くべつしない、学歴がくれき職業しょくぎょうにかかわらず民俗みんぞく事象じしょう興味きょうみ関心かんしんのあるものだれでも参加さんかできる学問がくもん、といった感覚かんかくもちいられている。これらのことから、通常つうじょう在野ざいや民俗みんぞく学者がくしゃ」といういいかたがされることはすくない(ぎゃくに「大学だいがく民俗みんぞく学者がくしゃ」といういいかたがされることがある)。
  9. 日本にっぽんにおいては民俗みんぞくまたは民俗みんぞくがくという用語ようご一般いっぱんにはつうじにくいことがあり、民族みんぞくがく文化ぶんか人類じんるいがく)と混同こんどうされたり、ミンゾクという言葉ことばから政治せいじてき活動かつどう研究けんきゅうおこなっているという勘違かんちがいをけたりすることが間々ままある。マスコミ出版しゅっぱんぶつなどにおいても「民族みんぞく文化財ぶんかざい」や「民族みんぞく資料しりょうかん」といった誤植ごしょくおおられる(無論むろん本当ほんとうの「民族みんぞく資料しりょうかん」も存在そんざいする)。大学だいがくにおいては「紛争ふんそうなどの民族みんぞく問題もんだいまなびたい」、「アイヌ民族みんぞく勉強べんきょうしたい」という理由りゆう民俗みんぞくがく研究けんきゅうかいとびらをたたく学生がくせいがいるのも新入生しんにゅうせいおお時期じきにはくある風景ふうけいである(民族みんぞくがくについては隣接りんせつ学問がくもんでもあるので、研究けんきゅうかい学会がっかいなかには研究けんきゅう対象たいしょうふくめている団体だんたいもある)。

民俗みんぞくがく

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日本にっぽん民俗みんぞくがくといった場合ばあい一般いっぱんには日本にっぽん民俗みんぞくがくすが、海外かいがいると19世紀せいき欧米おうべい中心ちゅうしんとして、おおくのくに民俗みんぞくがく相当そうとうする学問がくもん誕生たんじょうしている。誕生たんじょう経緯けいいこくごとの政治せいじてき社会しゃかいてき状況じょうきょう民族みんぞくがく文化ぶんか人類じんるいがくとうとの関係かんけいによって多様たようであるうえに、社会しゃかい科学かがくのように国際こくさいてき交流こうりゅうさかんではなく各国かっこく独自どくじ進展しんてんをしてきたこともあって、一概いちがい民俗みんぞくがく歴史れきしかたることはできない。

ヨーロッパの民俗みんぞくがく

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ヨーロッパで民俗みんぞくがくてき関心かんしんたかまった背景はいけいには、おもフランス革命かくめいによる近代きんだい都市とし、あるいは資本しほん主義しゅぎによる急激きゅうげき社会しゃかい変化へんかまえに、えゆく伝統でんとう文化ぶんかへのロマン主義しゅぎてき憧憬どうけい民族みんぞく意識いしきたかまりが存在そんざいする。

イギリス、フランス民俗みんぞくがく

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イギリスでは1846ねんに、作家さっかのウィリアム・トムズ(William John Thoms)がドイツフォルクスクンデ英語えいごやくしてフォークロアfolklore術語じゅつご提唱ていしょうし、古代こだい文化ぶんか名残なごり民謡みんようなどを対象たいしょう民俗みんぞく研究けんきゅう草分くさわけとなったが、学問がくもん組織そしきとしては、1878ねんジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)らがロンドンに“Folklore Society"(民俗みんぞくがく協会きょうかい)を設立せつりつした時期じき端緒たんしょとする。進化しんか主義しゅぎ人類じんるいがく波及はきゅうりょくっていた19世紀せいきまつのイギリスでは、民俗みんぞくがく庶民しょみん習俗しゅうぞくキリスト教きりすときょう以前いぜん残存ざんそん(Survival)を対象たいしょうにするとともに、自民じみんぞくのみならず海外かいがい植民しょくみん関心かんしんれるなど、人類じんるいがくとの近接きんせつせい顕著けんちょにみとめられる。それは1885ねん民俗みんぞくがく協会きょうかい設立せつりつされたフランスも同様どうようであり、20世紀せいき初頭しょとうにかけてサンティーヴ(Pierre Saintyves)、ロベール・エルツ(Robert Hertz)、レヴィ=ブリュル(Lucien Levi-Bruhl)、ファン・ヘネップ(Arnold van Gennep)といった学者がくしゃが、近代きんだいてき民俗みんぞくがく人類じんるいがく研究けんきゅうすすめた。かれらのアプローチに異同いどうはあるにせよ、民間みんかん伝承でんしょう起源きげん遡及そきゅう原始げんしてき民族みんぞく心理しんり究明きゅうめい重視じゅうしするてんではおおむ共通きょうつうしている。またエルツやレヴィ=ブリュルはモース(Marcel Mauss)やデュルケーム(Emile Durkheim)などとちかく、ファン・ヘネップものちターナー(Victor Turner)へ影響えいきょうおよぼすなど、人類じんるいがく社会しゃかいがく不可分ふかぶん位置いちにあったこともフランスの民俗みんぞくがく研究けんきゅう特徴とくちょうだった。

ドイツ民俗みんぞくがく

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一方いっぽう、ヨーロッパにおいてもっとさかんに研究けんきゅうおこなわれてきたドイツでは、民俗みんぞくがくはフォルクスクンデ(Volkskunde)とばれ、フォルク(ドイツ民族みんぞく/ドイツ国民こくみん)に共通きょうつうする精神せいしん発見はっけんという民族みんぞく主義しゅぎてき色彩しきさい学問がくもんであった。もともとドイツ語どいつごけんでは哲学てつがくしゃヘルダー(Johann Gottfried Herder)が民族みんぞくたましい発露はつろとしての民謡みんよう概念がいねん提唱ていしょうし、いで昔話むかしばなし収集しゅうしゅういにしえほうほうことわざ研究けんきゅう有名ゆうめいグリム兄弟きょうだいらが、ドイツロマン主義しゅぎ背景はいけい神話しんわがくとしての民俗みんぞくがくへの道筋みちすじき、それは時代じだい風潮ふうちょうともって、一種いっしゅのブームとなった。そのためロマンのドイツ民俗みんぞくがくゲルマニスティク(ドイツ語学ごがく文学ぶんがく研究けんきゅう)とのじゅうなりがつよかった。その傾向けいこうこととなえたのは、1850年代ねんだいヴィルヘルム・ハインリヒ・リールであった。リールは、ロマン民俗みんぞくがくちん習奇ぞく収集しゅうしゅうとそれを神話しんわとの関係かんけい好事家こうずかてき方向ほうこうにあることを批判ひはんし、現実げんじつ民衆みんしゅう生活せいかつ体系たいけいてき把握はあくすべきことをいた。とくに「学問がくもんとしてのフォルクスクンデ」が重要じゅうようであるが、ドイツ民俗みんぞくがく関係かんけいしゃがリールに注目ちゅうもくするようになるのは20世紀せいきはいってからであり、リール自身じしんはグリム兄弟きょうだいとの接触せっしょくもなく、また生前せいぜんには民俗みんぞくがく人脈じんみゃくとはほとんど無関係むかんけいであった。のちにリールはドイツ民俗みんぞくがく指標しひょうとされるようになるが、他方たほう、リールの思想しそう保守ほしゅせい反動はんどうてき性格せいかく指摘してきするこえ根強ねづよく、評価ひょうかをめぐってなん論争ろんそうきた。

1891ねんにはグリム兄弟きょうだい晩年ばんねん弟子でしでもあるカール・ヴァインホルトベルリン大学だいがく教授きょうじゅ)がベルリン民俗みんぞく学会がっかい基礎きそ民俗みんぞくがく協会きょうかい設立せつりつへと軌道きどうき、それがのち今日きょうドイツ民俗みんぞく学会がっかいとなった。ドイツでは19世紀せいき後半こうはんから民俗みんぞくがくさかんになり、研究けんきゅう組織そしき愛好あいこう団体だんたい多数たすうあったが、統一とういつてき組織そしきはなく、その意味いみでドイツ民俗みんぞく学会がっかい設立せつりつはドイツ民俗みんぞくがく展開てんかいにおいてエポックとなった[1]。ヴァインホルトはドイツ語どいつご方言ほうげん研究けんきゅう専門せんもんとするドイツ語学ごがく教授きょうじゅで、グリム兄弟きょうだい神話しんわ民俗みんぞくがく方向ほうこうばし、民俗みんぞくがく学問がくもん発展はってんさせるべく学会がっかい機関きかんとして『民俗みんぞくがく』の刊行かんこうはじめた[1]

20世紀せいき前半ぜんはんには、ハンブルク大学だいがくにおいてはじめて大学だいがくでの民俗みんぞくがくポスト(ただし、設置せっちしゃ構想こうそうではハンブルク都市とし重点じゅうてんがあった)にいたオットー・ラウファー(Otto Lauffer)、ロマン民俗みんぞくがくとの決別けつべつ劇的げきてき表現ひょうげんしたスイスのエードゥァルト・ホフマン=クライヤー(Eduard Hoffman-Krayer)、上層じょうそう文化ぶんか下層かそう文化ぶんかそうろん提示ていじしたナウマン(Hans Naumann)、心理しんりがくてき方法ほうほう提唱ていしょうしたアードルフ・シュパーマーなどおおくの理論りろんまれた。

しかし現行げんこう習俗しゅうぞく古代こだいとの連続れんぞくせい(Kontinuität)があるものととらえ、農村のうそん生活せいかつ農民のうみん原初げんしょのドイツ民族みんぞく精神せいしん見出みいだそうとする傾向けいこうをもつ民俗みんぞくがくは、本質ほんしつてき民族みんぞく主義しゅぎてき政治せいじイデオロギーまれやすい性格せいかくゆうしており、1933ねん以降いこう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ時代じだいには国民こくみん統治とうちおよび人種じんしゅ主義しゅぎ国策こくさく学問がくもんへとまれていった。ナチス政権せいけん国策こくさく民俗みんぞくがく機関きかんとして「ローゼンベルク機関きかん」と「アーネンエルベ(祖先そせん遺産いさん)」が組織そしきされ、ゲルマン民族みんぞく遺産いさん解明かいめいのためあらゆる資料しりょうあつめられ、そのなかには荒唐無稽こうとうむけいにせ古文書こもんじょふくまれ、オカルティックなにせまでが国策こくさく利用りようされていった[2]ナチス党員とういんとしてプロパガンダ作成さくせい民俗みんぞく行事ぎょうじ創出そうしゅつ積極せっきょくてきかかわった学者がくしゃかならずしもおおくはなく、熱狂ねっきょうてきとなったのは若手わかて少壮しょうそう中心ちゅうしんで、かれらはまたナチ・エリートでもあったが、大半たいはん研究けんきゅうしゃ批判ひはんてき視点してんをもつには程遠ほどとおく、思想しそうてきにナチズムと同質どうしつ同根どうこん要素ようそをかかえていたのが実態じったいであり、それだけに問題もんだい根深ねぶかいものがあった。そうした体質たいしつが、戦後せんごなんなみをつくりながら批判ひはんされることになった。戦後せんご西にしドイツ民俗みんぞく学界がっかいは、学問がくもんとしての信頼しんらいうしなったフォルクスクンデを自己じこ批判ひはんすることを原動力げんどうりょくに、さい出発しゅっぱつはかることになる。ミュンヘンではハンス・モーザーカール=ジーギスムント・クラーマー中心ちゅうしんとなり、民族みんぞく主義しゅぎとの親和しんわせいたか過去かこ遡及そきゅうがた方法ほうほう放棄ほうきし、より実証じっしょうてき歴史れきし民俗みんぞくがくへのみち模索もさくした。

現行げんこう民俗みんぞく事象じしょう把握はあくでは、テュービンゲン大学だいがくヘルマン・バウジンガー最初さいしょ主要しゅよう著作ちょさく科学かがく技術ぎじゅつ世界せかいのなかの民俗みんぞく文化ぶんか』(1961年刊ねんかん)において、科学かがくてき技術ぎじゅつ機器ききつね身近みぢかせっする生活せいかつのありかたこそきん現代げんだい生活せいかつ文化ぶんか基本きほんであるとの観点かんてんち、ぎゃく伝統でんとう文化ぶんか伝承でんしょうには一種いっしゅ異質いしつせいとそれゆえの吸引きゅういんりょくがあることに着目ちゃくもくして、民俗みんぞくがく背景はいけいとなっていた、伝統でんとう伝承でんしょう基底きていてきなものをてきた従来じゅうらい通念つうねんくつがえすような理解りかい構図こうず提示ていじした。またこれに理論りろんてき支柱しちゅうハンス・モーザーフォークロリズム(フォークロリスムス、Folklorismus)の概念がいねん提起ていきし、さらにバウジンガーが補強ほきょうしたことによって、観光かんこうされたまつり・イベントやあらたに創出そうしゅつされる習俗しゅうぞく民俗みんぞくがく対象たいしょうむことが大幅おおはば進展しんてんし、変化へんかしにくいとされる伝統でんとう習俗しゅうぞく固執こしつするふる民俗みんぞくがくからの脱却だっきゃくはかられた。

バウジンガーは、1971ねん、テュービンゲン大学だいがく研究所けんきゅうじょからフォルクスクンデの名称めいしょうはいし、わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft経験けいけんてき[かた]文化ぶんか研究所けんきゅうじょ)のかんした。このように1970年代ねんだい以降いこうのドイツ民俗みんぞくがくでは、戦前せんぜん清算せいさん象徴しょうちょうするようにフォルクスクンデのえつつあり、同時どうじにその方法ほうほう文化ぶんか人類じんるいがく歴史れきし社会しゃかいがくなど、社会しゃかい科学かがくりへとおおきく変容へんようし、また近年きんねんではEUが日常にちじょう生活せいかつ次元じげんでも枠組わくぐみとなる趨勢すうせいもあって、マールブルク大学だいがく先駆さきがけとするヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデじゅう名称めいしょう採用さいようすることがおおくなっている。日本にっぽんでも、ドイツのうごきに刺激しげきされて、民俗みんぞくがく名称めいしょうへの疑問ぎもんきている。ただし、学問がくもん名称めいしょうをめぐっては、ドイツ民俗みんぞくがく研究けんきゅうしゃ河野こうのしんは、ドイツの「フォルクスクンデ」は一般いっぱんであるとともに、<みんおぼえ>といったふるめかしくもあれば馴染なじみやすくもある語感ごかんをもち、それゆえ言葉ことばひとあるきして混乱こんらんおおきくしためんがあること、それにたいして日本語にほんごの「民俗みんぞくがく」は民俗みんぞく研究けんきゅうをもっぱら造語ぞうご性格せいかくにあり、そのちがいをると、学問がくもん名称めいしょう当否とうひかんするかぎり日本語にほんご場合ばあいおおきな問題もんだいではなく、むしろドイツ民俗みんぞく学界がっかいにおいて名称めいしょう変更へんこうになされた議論ぎろん中身なかみ注目ちゅうもくすべきであるといている。

日本にっぽん民俗みんぞくがく

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日本にっぽんでの民俗みんぞくがく近世きんせいにおける国学こくがく本草学ほんぞうがくにも源流げんりゅうられるが、本格ほんかくてき研究けんきゅう開始かいしされたのは19世紀せいきまつである。ひとつの嚆矢こうしとなるのは坪井つぼいただし五郎ごろう東京とうきょう人類じんるい学会がっかいげた1886ねんであり、民族みんぞくがく民俗みんぞくがく自然しぜん人類じんるいがく考古学こうこがくひとし包含ほうがんする「人類じんるいがく」の研究けんきゅうとして、「土俗どぞく」の調査ちょうさおこなわれるようになった。一方いっぽう新渡戸にとべ稲造いなぞうらと村落そんらく研究けんきゅう勉強べんきょうかいおこなっていたのう商務省しょうむしょう官僚かんりょう柳田やなぎだ國男くにおは、1909ねん宮崎みやざきけん椎葉しいばむらでききした狩猟しゅりょうはなしを「こうかり」(のちのかりのことばのき)として自費じひ出版しゅっぱんし、柳田やなぎだ民俗みんぞくがく第一歩だいいっぽす。1913ねんからは雑誌ざっし郷土きょうど研究けんきゅう』を創刊そうかんするとともに、当時とうじイギリス留学りゅうがくから帰国きこくした南方みなかた熊楠くまぐすにゴムへん『The handbook of folklore(民俗みんぞくがく便覧びんらん)』をけ、それまで余技よぎ道楽どうらくととらえていた民俗みんぞくがく学問がくもんとして体系たいけいする道筋みちすじをつけたのである。

ヨーロッパのフォークロアエスノロジーが、残存ざんそん概念がいねんによって古代こだいとの連続れんぞくせいった基層きそう文化ぶんかあきらかにしようとするのにたいして、柳田やなぎだ人々ひとびと生活せいかつ向上こうじょう初期しょきのモチベーションに、民俗みんぞくがく目的もくてき常民じょうみん生活せいかつ歴史れきしてき変遷へんせんどう時代じだい生活せいかつ文化ぶんかとの関係かんけい考察こうさつすることにあるとかんがえていた。柳田やなぎだ民俗みんぞくがく構築こうちくしようとした意図いと重層じゅうそうてきであり、ひとつには庶民しょみん生活せいかつ看過かんかする既存きそん文献ぶんけん史学しがくへのアンチテーゼとして、ふたつには進化しんか主義しゅぎてき民族みんぞくがくや「土俗どぞくがく」とのけとして、みっつには地方ちほう改良かいりょう運動うんどう代表だいひょうされる当時とうじ国内こくない文化ぶんか政策せいさくへの対抗たいこう言説げんせつとしてひとし時代じだい状況じょうきょう反映はんえいしたさまざまな企図きとがもくろまれていたとされる。

1935ねんには柳田やなぎだ中心ちゅうしんに「民間みんかん伝承でんしょうかい」が設立せつりつされ、機関きかん発刊はっかん民俗みんぞくがく講習こうしゅうかいおこなわれた。またこの時代じだい柳田やなぎだ概説がいせつしょ精力せいりょくてき執筆しっぴつしており、学説がくせつなかでは学問がくもんとしての組織そしき方法ほうほうととのった1930年代ねんだいなかばを民俗みんぞくがく完成かんせい時期じきなすのが一般いっぱんてきである。1949ねん、「民間みんかん伝承でんしょうかい」は日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかい改称かいしょうされ、このころから大学だいがくにも民俗みんぞくがく講座こうざ設置せっちされるようになった。それまでの民俗みんぞくがく柳田やなぎだていおこなわれる木曜もくようかい雑誌ざっしじょうにおいて柳田やなぎだ学徒がくと直接ちょくせつ指導しどうし、その成果せいか子弟していつうじて全国ぜんこくひろまっていくという意味いみで、アカデミズムの枠外わくがい展開てんかいした一種いっしゅうん動体どうたいだったが、戦後せんご学制がくせいなかでは國學院大學こくがくいんだいがく東京教育大学とうきょうきょういくだいがく成城大学せいじょうだいがくなどにおいて専門せんもん教育きょういく開始かいしされることにより、現在げんざいにまでいた教育きょういく研究けんきゅう制度せいどてき枠組わくぐみが誕生たんじょうした。また神奈川大学かながわだいがくではアチック・ミューゼアム(日本にっぽん常民じょうみん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ)が移設いせつ設置せっちされ民俗みんぞく資料しりょうがく研究けんきゅうされている。

民俗みんぞくがく研究けんきゅうほう

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民俗みんぞくがく調査ちょうさ手法しゅほうとしては、庶民しょみん生活せいかつ総体そうたいてき把握はあくするという目的もくてきたすため、のうやま漁村ぎょそん中心ちゅうしんとした集落しゅうらく滞在たいざいし、ききとり(きき)調査ちょうさかみ資料しりょうふく文字もじ資料しりょう金石かねいしあやむねさつなど)の収集しゅうしゅう建築けんちくぶつみんなど物質ぶっしつ文化ぶんか記録きろく、あるいは生業せいぎょう共同きょうどう労働ろうどう年中ねんじゅう行事ぎょうじ人生じんせい儀礼ぎれいなどのへの参与さんよ観察かんさつ、そして民俗みんぞく記述きじゅつ主体しゅたいとなる。フィールドワーク蓄積ちくせきからエスノグラフィーをえがくことを重視じゅうしするという意味いみでは文化ぶんか人類じんるいがく手法しゅほう近似きんじするが、マリノフスキー以降いこう近代きんだい人類じんるいがく研究けんきゅうしゃ個人こじんによるすうヶ月かげつすうねん長期ちょうき滞在たいざい調査ちょうさ基本きほんとするのにたいし、民俗みんぞくがくでは数日すうじつ数ヶ月すうかげつスパンのなか短期たんき調査ちょうさかえおこなうことがおおく、また複数ふくすう研究けんきゅうしゃによる共同きょうどう調査ちょうさ実施じっしされることもおおい。

初期しょき民俗みんぞくがくでは日本にっぽん各地かくちからあつめられた民俗みんぞく資料しりょう類型るいけい比較ひかくし、日本にっぽん全体ぜんたい枠組わくぐみのなか民俗みんぞく事象じしょう歴史れきしてき変遷へんせんあきらかにするという「重出じゅうしゅつ立証りっしょうほう」がられた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作ちょさくもと柳田やなぎだ國男くにお提唱ていしょうしたこの方法ほうほうろんなが民俗みんぞくがく基礎きそ理論りろんだったが、一方いっぽうでは山口やまぐち麻太郎あさたろう和歌森わかもり太郎たろうなどからは民俗みんぞく地域ちいきせい過小かしょう評価ひょうかする方法ほうほうろんだとする批判ひはん意見いけんされた。学説がくせつなかもっと影響えいきょうりょくのある批判ひはん福田ふくだアジオによるもので、民俗みんぞく日本にっぽん全体ぜんたいでの比較ひかくではなく、それが伝承でんしょうされる村落そんらく信仰しんこう組織そしきとうはなさずに分析ぶんせきすべきという「個別こべつ分析ぶんせきほう」を提唱ていしょうした。構造こうぞう機能きのう主義しゅぎ人類じんるいがく影響えいきょう色濃いろこ福田ふくだ方法ほうほうは、村落そんらく社会しゃかいにおいて民俗みんぞくとらえ、それが生活せいかつなか相互そうご連関れんかんしながら全体ぜんたいとしてゆうしている意味いみあきらかにしようとする。民族みんぞく全体ぜんたいのスケールのおおきい歴史れきしってきたそれ以前いぜん民俗みんぞくがくくらべ、福田ふくだ方法ほうほうろん小規模しょうきぼ集落しゅうらく(ムラ)の歴史れきしそれ自体じたいをより実証じっしょうてきえがこうとするてん特色とくしょくがあり、どう世代せだい宮田みやたのぼる提唱ていしょうする地域ちいき民俗みんぞくがくとともにポスト柳田やなぎだ民俗みんぞくがく方法ほうほうろんとして影響えいきょうした。

もともと民俗みんぞくがく文化ぶんか人類じんるいがく社会しゃかいがく宗教しゅうきょうがく歴史れきしがくなどおおくの分野ぶんや密接みっせつ関連かんれんしており、ライフヒストリー研究けんきゅうやパフォーマンス理論りろん社会しゃかい身体しんたいろんとう研究けんきゅう対象たいしょうによってはそれらの分野ぶんやつうじる方法ほうほうろんもちいられることも多々たたある。いずれにせよ民俗みんぞくがく研究けんきゅう方法ほうほう分析ぶんせきてき(Analytical)というよりは記述きじゅつてき(Descriptive)であり、対象たいしょうへのインテンシブな調査ちょうさもとあつ記述きじゅつギルバート・ライル)を目指めざす、いわゆる質的しつてき研究けんきゅうひとつに位置いちづけられる。

研究けんきゅう対象たいしょう資料しりょう

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  • 生活せいかつ衣食住いしょくじゅうみん
  • 風習ふうしゅう家族かぞく制度せいど社会しゃかい制度せいど通過つうか儀礼ぎれい社会しゃかい集団しゅうだん生業せいぎょう産業さんぎょう四季しき行事ぎょうじ、まつり、遊技ゆうぎ競技きょうぎ娯楽ごらく
  • 説話せつわ歌曲かきょく俗諺ぞくげん伝説でんせつとおとぎばなし俗曲ぞっきょく俗謡ぞくようことわざなぞことわざ俚諺りげん
  • 信仰しんこう神道しんとう仏教ぶっきょう霊魂れいこん来世らいせ妖怪変化ようかいへんげ予兆よちょうぼくうらない魔術まじゅつ病気びょうき民間みんかん療法りょうほう

うえかかげた伝承でんしょうされてきたさまざまな民俗みんぞく事象じしょうが、民俗みんぞくがく研究けんきゅう対象たいしょうとして説明せつめいされることがおおいが、ドイツの民俗みんぞく学者がくしゃハンス・ナウマンHans Naumann)は、民俗みんぞくがく研究けんきゅう対象たいしょうを「基層きそう文化ぶんか」すなわち、表層ひょうそう文化ぶんかたいして、素朴そぼく集団しゅうだんてき、また類型るいけいてき日常にちじょうてき生活せいかつ文化ぶんか伝承でんしょうせい濃厚のうこう文化ぶんかとしている。いずれにせよ、うえかかげたそれぞれは、民俗みんぞくがくにおける基本きほんてき資料しりょうとなっており、その意味いみから民俗みんぞく資料しりょうしょうされる。

民俗みんぞく資料しりょう」のかたり使用しようは、柳田やなぎだ國男くにお最初さいしょであり、折口おりぐち信夫しのぶもちいているが、2人ふたりとも当初とうしょからはっきりした規定きていをしているわけではなかった。ただし、柳田やなぎだは『民間みんかん伝承でんしょうろん』のなかで、

  1. えいずる資料しりょうからだ>…たとえば研究けんきゅうしゃ旅行りょこう途中とちゅうでもようとすれば可能かのうな、かたちをとった事物じぶつ行為こうい伝承でんしょう
  2. みみこえる言語げんご資料しりょう口碑こうひ>…多少たしょうとも地元じもと言葉ことばつうじて、みみはたらかさなければつかみない口頭こうとう伝承でんしょう言語げんご芸術げいじゅつ
  3. 心意しんい感覚かんかくうったえてはじめて理解りかいできる資料しりょうしん>…旅人たびびとではつかむことの不可能ふかのうな、同郷どうきょうじん同国どうこくじん感覚かんかくによらなければ理解りかいできないるい心意しんい伝承でんしょう

というさんふんほう類別るいべつ提示ていじしており、さらにこれを、1.有形ゆうけい文化ぶんか生活せいかつ技術ぎじゅつ旅人たびびとまなべ、2.言語げんご芸術げいじゅつ口承こうしょう文芸ぶんげい寄寓きぐうしゃがく、3.生活せいかつ解説かいせつ生活せいかつ観念かんねん生活せいかつしょ様式ようしき同郷どうきょうじんがく、というように趣旨しゅし説明せつめいしている。

いっぽう折口おりぐちは、

  1. 周期しゅうき伝承でんしょう年中ねんじゅう行事ぎょうじ
  2. 階級かいきゅう伝承でんしょう老若ろうにゃく制度せいど性別せいべつ職業しょくぎょう生得しょうとくによる区別くべつ
  3. 造形ぞうけい伝承でんしょう
  4. 行動こうどう伝承でんしょう舞踊ぶよう演劇えんげき
  5. 言語げんご伝承でんしょうことわざ歌謡かよう伝説でんせつ説話せつわ

という民俗みんぞく資料しりょう分類ぶんるいをおこなっている。

はばひろく「民俗みんぞく資料しりょう」のかたり一般いっぱん定着ていちゃくし、明確めいかく概念がいねん規定きてい法令ほうれいじょうなされたのは、1954ねん昭和しょうわ29ねん)の「文化財ぶんかざい保護ほごほう」のだいいち改正かいせいにおいて「衣食住いしょくじゅう生業せいぎょう信仰しんこう年中ねんじゅう行事ぎょうじとうかんする風俗ふうぞく慣習かんしゅうおよびこれにもちいられる衣服いふく器具きぐ家屋かおくその物件ぶっけんでわが国民こくみん生活せいかつ推移すいい理解りかいのためくことのできないもの」として文化財ぶんかざいのひとつとして保護ほご対象たいしょうとなって以来いらいであった。以後いご文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい保護ほご現在げんざい文化財ぶんかざい)によって「無形むけい民俗みんぞく資料しりょう記録きろく」などもまれるにいたっている。

民俗みんぞく資料しりょう」の名称めいしょうとともに、そのなかで資料しりょう価値かちたかいものが文化財ぶんかざいとなって、保護ほご対象たいしょうとなりうることの了解りょうかい社会しゃかいひろがり、今日きょうでは文化財ぶんかざい分類ぶんるい名称めいしょうとしての「民俗みんぞく資料しりょう」は「民俗みんぞく文化財ぶんかざい」と改称かいしょうされている。その一方いっぽうで、現代げんだいでは、文化財ぶんかざい指定してい有無うむとは関係かんけいなく、民俗みんぞくがくにおいて、庶民しょみん生活せいかつ推移すいい理解りかいのために必要ひつよう伝承でんしょう資料しりょう全般ぜんぱん民俗みんぞく資料しりょう呼称こしょうしている。

日本にっぽん民俗みんぞくがく変化へんか

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都市としによって民俗みんぞくがくしゅたるフィールドとしてきた閉鎖へいさせいたか農村のうそん実質じっしつてき消滅しょうめつし、一見いっけん伝統でんとうてき生活せいかつ様式ようしきたもっているようにえる地域ちいきにも、過疎かそ観光かんこう開発かいはつ産業さんぎょう構造こうぞう変化へんかとうふるいタイプの民俗みんぞく調査ちょうさではカバーしきれない状況じょうきょうまれつつある。また民俗みんぞくがく黎明れいめいには日本にっぽん人口じんこうおおくをめてきた農村のうそん人口じんこうも、現在げんざいでは都市とし人口じんこう圧倒あっとうされ、都市とし住民じゅうみんおよび都市とし生活せいかつ様式ようしき一般いっぱんせいつにいたった。こうした対象たいしょう変化へんかたいして、現代げんだい民俗みんぞくがくはさまざまな新分野しんぶんや開拓かいたくしつつある。

民俗みんぞく消滅しょうめつ」がさかんに議論ぎろんされた1970年代ねんだい〜80年代ねんだいにかけては、都市とし民俗みんぞくがくのブームやアメリカ民俗みんぞくがく影響えいきょうけた都市とし伝説でんせつ研究けんきゅう隆盛りゅうせいられた。また1990年代ねんだい以降いこう観光かんこう人類じんるいがく影響えいきょうけた地域ちいき開発かいはつ観光かんこう研究けんきゅう文化財ぶんかざい制度せいど研究けんきゅうとう現代げんだい社会しゃかいのシステムと地域ちいき関係かんけいうごきが増加ぞうかする。さらどう時期じきには国民こくみん国家こっかろん批判ひはん文脈ぶんみゃくから柳田やなぎだ國男くにお民俗みんぞくがくかん批判ひはんてき検証けんしょうさかんにおこなわれ、柳田やなぎだ民俗みんぞくがく中心ちゅうしんてきあつかってこなかった漂泊ひょうはくみんなどのいわゆるサンカ、「常民じょうみん」、せい主題しゅだいとする研究けんきゅう焦点しょうてんてられることも増加ぞうかした。

また、韓国かんこく台湾たいわん中国ちゅうごくモンゴル東南とうなんアジアなどで比較ひかく民俗みんぞくがく観点かんてんから実地じっち調査ちょうさおこなったり、ヨーロッパの村落そんらく調査ちょうさするこころみもあらわれている。

在野ざいやがくとしての日本にっぽん民俗みんぞくがく

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戦後せんご学問がくもんとしての民俗みんぞくがく体系たいけいがおおよそ完成かんせいし、大学だいがくなどにおける研究けんきゅうさかんになったが、民間みんかんにおける研究けんきゅう活動かつどう収縮しゅうしゅくしたわけではなく、「在野ざいや」と「アカデミズム」が混在こんざいまたは並立へいりつする日本にっぽん民俗みんぞくがく独特どくとく研究けんきゅう体制たいせい存在そんざいする。

在野ざいや」においては、戦前せんぜんから日本にっぽん各地かくち地方ちほう学会がっかいばれる学会がっかい研究けんきゅうかい組織そしきされ、地域ちいきざした研究けんきゅう活動かつどうがなされており、日本にっぽん民俗みんぞくがくおおきな一角いっかくになっている。かいめい都道府県とどうふけんめいかんした団体だんたいおおい。石仏いしぼとけ石造せきぞうぶつ)、特定とくてい宗派しゅうはなどの専門せんもんとくした研究けんきゅう団体だんたいおお設立せつりつされ、地域ちいき分野ぶんやなど様々さまざまくち研究けんきゅうがなされており、自治体じちたい編纂へんさん文化財ぶんかざい調査ちょうさにも活躍かつやくしている。

大学だいがくにおいては、民俗みんぞくがく関係かんけい大学院だいがくいん教育きょういく充実じゅうじつさをし、國學院大學こくがくいんだいがく筑波大学つくばだいがく(1975ねん)、成城大学せいじょうだいがく(1973ねん)、神奈川大学かながわだいがく(1921ねんアチック・ミューゼアム(日本にっぽん常民じょうみん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ)の移設いせつ)などが著名ちょめいである。また、1950年代ねんだい正規せいき学科がっか研究けんきゅうのほかに学生がくせい卒業生そつぎょうせい教職員きょうしょくいんなどを対象たいしょうにした研究けんきゅうかい学生がくせいサークルおお設立せつりつされた。正課せいか授業じゅぎょうなどと連携れんけいして研究けんきゅう教育きょういく積極せっきょくてきおこなう方法ほうほうや(國學院大學こくがくいんだいがく成城大学せいじょうだいがくなどの学生がくせいサークル)、民俗みんぞく調査ちょうさ民俗みんぞく採集さいしゅう)や資料しりょう収集しゅうしゅうとくするなど、形式けいしき目的もくてき様々さまざまだが、いずれも民俗みんぞく資料しりょう収集しゅうしゅう研究けんきゅうしゃ養成ようせいおおきく貢献こうけんするなど、日本にっぽん民俗みんぞく学界がっかいにおいて重要じゅうよう地位ちいめている。

研究けんきゅう団体だんたいおおくは、入会にゅうかいさいして職業しょくぎょう学歴がくれき住所じゅうしょとうわれないのが一般いっぱんてきであり、日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかい民俗みんぞくがく興味きょうみがある、会費かいひ納入のうにゅうなどの一般いっぱんてき条件じょうけんのぞいては会員かいいん資格しかくとくさだめていない(ただし、会員かいいんによる紹介しょうかい理事りじかい承認しょうにん必要ひつようとされている)。これには、会員かいいん資格しかくとくさだめないことにより、民俗みんぞく事象じしょう関心かんしんがあるという以外いがい共通きょうつうこうがないもの同士どうしよこのつながりをたせるという機能きのうがある。 研究けんきゅうおこなもの職業しょくぎょうは、民俗みんぞくがく研究けんきゅう職業しょくぎょうとしているもののほかには、会社かいしゃいん公務員こうむいん自営業じえいぎょう主婦しゅふ農業のうぎょう無職むしょく定年ていねん退職たいしょくしたものなど)など様々さまざまであり、学生がくせい大学だいがくとう研究けんきゅうしゃなかには民俗みんぞくがくせんもんにしていない(まったくかかわりが分野ぶんやしゃもいる。これにより、学会がっかいなどでの発表はっぴょう会合かいごう名乗なの肩書かたがきは、在住ざいじゅう都道府県とどうふけんめい氏名しめい名乗なのることが慣習かんしゅうとしておこなわれてきたが、最近さいきんでは在籍ざいせき研究けんきゅう機関きかんめい名乗なのものてきている。ちなみに研究けんきゅう機関きかん所属しょぞくしていない研究けんきゅうしゃ在職ざいしょく会社かいしゃめい名乗なのったり、無職むしょく主婦しゅふなどの職業しょくぎょうめい名乗なのることはあまりい。

研究けんきゅうしょく以外いがいもの研究けんきゅうつづけるには、本人ほんにん意志いし家族かぞく協力きょうりょく経済けいざいてき余裕よゆう研究けんきゅう費用ひよう原則げんそく自己じこ負担ふたんになる。とく民俗みんぞく採訪さいほうさい交通こうつう滞在たいざい資料しりょう購入こうにゅうがかさむ)、時間じかんてき余裕よゆうなどの一定いってい要件ようけん必要ひつようになってくる。サラリーマン(とく公務員こうむいん)では、兼職けんしょく副業ふくぎょう誤解ごかいされたり、“趣味しゅみにかまけている”といった評価ひょうかけたりしないためにも、場合ばあいによっては勤務きんむさき理解りかい必要ひつよう場合ばあいがある。

民俗みんぞくがく研究けんきゅうしゃ」の定義ていぎもあいまいになる。日本にっぽん民俗みんぞくがく中心ちゅうしんてき機関きかん日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかいであり、本格ほんかくてき研究けんきゅうおこなっているものはほぼ会員かいいんになっている(どう学会がっかい歴史れきし柳田やなぎだおおきくかかわっているため“はん柳田やなぎだてき研究けんきゅうしゃなかにはあえてはいらないものもいる)が、事実じじつじょう日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかい会員かいいん民俗みんぞく学者がくしゃという構図こうず暗黙あんもく了解りょうかいとして存在そんざいしていた。これ以外いがいには、地元じもと源義経みなもとのよしつね弘法大師こうぼうだいし伝説でんせつなどが実話じつわであることの証拠しょうこ資料しりょうさがしに奔走ほんそうしているものや、いわゆる郷土きょうどいえばれるものなかには民俗みんぞくがく研究けんきゅうしゃ名乗なのものがたまにあり、だれでも“研究けんきゅうしゃ”を名乗なのれてしまう問題もんだいもある。 なお、どう学会がっかい会員かいいんでは、会員かいいん名簿めいぼ情報じょうほう範囲はんいにおいて、近年きんねん大学だいがくとう研究けんきゅうしゃ博物館はくぶつかん学芸がくげいいん文化財ぶんかざい関係かんけいしゃなどの割合わりあいえている。また、現在げんざいどう学会がっかい役員やくいんは、ほぼ全員ぜんいん大学だいがくとう研究けんきゅうしゃであり、必然ひつぜんてき大卒だいそつ以上いじょう学歴がくれき所持しょじしている。

研究けんきゅうはじめるきっかけも様々さまざまで、単純たんじゅんみずからの地域ちいき文化ぶんか風習ふうしゅう興味きょうみったというものから、分野ぶんや社会しゃかいがく歴史れきしがく経済けいざいがく農学のうがくひとし)の研究けんきゅうしゃ出身しゅっしんしゃ隣接りんせつ分野ぶんやとして興味きょうみはじめるもの、民俗みんぞく事象じしょう関連かんれんがある趣味しゅみ歴史れきし散策さんさく旅行りょこう鉄道てつどう登山とざん神社じんじゃ仏閣ぶっかくめぐりなど)をつうじて興味きょうみはじめるものなど多種たしゅ多様たようである。民俗みんぞくがく自体じたいしょ学問がくもんなどと密接みっせつに、有機ゆうきてきかかわりがあることをあらわしている。また、大学生だいがくせい民俗みんぞくがく関係かんけい大学だいがく研究けんきゅうしつ・サークルにはいった理由りゆうとしては、「田舎いなかき」、「妖怪ようかい都市とし伝説でんせつ興味きょうみがある」、「民謡みんよう昔話むかしばなしき」、「博物館はくぶつかん就職しゅうしょくしたい」などをげるものおおく、入学にゅうがく当初とうしょ学問がくもん体系たいけいとしての民俗みんぞくがく自体じたい関心かんしんがあるもの比較的ひかくてきすくない。

民俗みんぞく学界がっかいにおいて在野ざいやせいやアカデミズムにかんする議論ぎろんは、職業しょくぎょうなどによる区別くべつ差別さべつ)、日本にっぽん民俗みんぞくがく史上しじょうおおくの民間みんかん研究けんきゅうしゃ功績こうせきなどの問題もんだいがあるためあまりされてこなかった(最近さいきんでは2005ねんだい57かい日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかい年会ねんかいにおいて「学問がくもんとアカデミズム」がテーマとしてげられた)。議論ぎろん間違まちがえると、学歴がくれき職業しょくぎょうによって対立たいりつこりかねない。また、大学だいがくとう研究けんきゅうしゃなかにはこの在野ざいやせいきらうものもおり、これらを排除はいじょして大学だいがくなどに所属しょぞくする職業しょくぎょう民俗みんぞく学者がくしゃのみを民俗みんぞくがく研究けんきゅうしゃとする「普通ふつう学問がくもん」にすべき、考古学こうこがく天文学てんもんがくのように民俗みんぞく学者がくしゃ民俗みんぞくがくファンといったかたちでたとえゆるやかにでも区分くぶんすべきという論調ろんちょうられる。

在野ざいやせいびるという特性とくせいから、大学だいがく関係かんけいしゃのぞいて上下じょうげ関係かんけい師弟してい関係かんけいもほとんどく、分野ぶんや研究けんきゅうしゃからは自由じゆう学風がくふうひょうされることもおおい。しかし反面はんめん、“みんなで研究けんきゅう”という雰囲気ふんいきや、とく地方ちほう学会がっかいにおいて学術がくじゅつ研究けんきゅうてき思考しこう論文ろんぶん執筆しっぴつ不慣ふなれなものおおいことから、情緒じょうちょてき趣味しゅみてき揶揄やゆされたり、妖怪ようかい方言ほうげん民謡みんよう昔話むかしばなしといった“もと人受ひとうけ”をする分野ぶんやかかえることなどから、民俗みんぞくがく科学かがくてきなイメージでとらえるものすくなからずいる。また、学問がくもん分野ぶんやしょ趣味しゅみ海外かいがい民俗みんぞく学界がっかいなどと連携れんけい共有きょうゆうできる部分ぶぶんおおくあるものの、これまではあまり積極せっきょくてきにされてこなかった。日本にっぽん民俗みんぞく学界がっかいは、これからは社会しゃかい変化へんかたいして民俗みんぞくがくがどうあるべきかといった議論ぎろんはもちろん、こうした分野ぶんや社会しゃかいとどういったかかわりをつことが出来できるのか模索もさくしていくことになる。

日本にっぽん代表だいひょうてき民俗みんぞく学者がくしゃ

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日本にっぽん代表だいひょうてき民俗みんぞくがく研究けんきゅう団体だんたい

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民俗みんぞくがくかかわった作家さっか現代げんだい作家さっか

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出典しゅってん

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  1. ^ a b 河野こうのしん民俗みんぞくがくにおける社会しゃかい ―20世紀せいきはじめのフォルク論争ろんそうなおす(3)」『文明ぶんめい21』No9、2002ねん
  2. ^ 民俗みんぞくがく国策こくさく大塚おおつか英志えいじ怪談かいだん前後ぜんこう柳田やなぎだ民俗みんぞくがく自然しぜん主義しゅぎ―』角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2007ねん2がつ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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