ブロニスワフ・マリノフスキ

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ブロニスワフ・マリノフスキ
Bronisław Malinowski
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1884-04-07) 1884ねん4がつ7にち
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく
クラクフ大公たいこうこくクラクフ
死没しぼつ (1942-05-16) 1942ねん5月16にち(58さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくコネチカットしゅうニューヘイブン
国籍こくせき オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこくイギリスの旗 イギリス
出身しゅっしんこう ヤギェウォ大学だいがく
ライプツィヒ大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 人類じんるいがく
研究けんきゅう機関きかん ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスイェール大学だいがく
特筆とくひつすべき概念がいねん 東南とうなんアジアおよびアフリカの生活せいかつ様式ようしき研究けんきゅう
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ブロニスワフ・カスペル・マリノフスキポーランド: Bronisław Kasper Malinowski1884ねん4がつ7にち - 1942ねん5月16にち)は、ポーランド出身しゅっしんイギリス人類じんるい学者がくしゃ

日本語にほんごでは「ブロニスロゥ・カスパル・マリノウスキー[1]」、「ブロニスロウ・キャスパー・マリノフスキー」と表記ひょうきされることもあるが、「ブロニスワフ・カスペル・マリノフスキ」のほうがよりポーランド原音げんおんちか表記ひょうきである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

オーストリア=ハンガリー帝国ていこくりょうだったクラクフ大公たいこうこく首都しゅとクラクフ現在げんざいポーランド)にまれる[2]ちち貴族きぞくでありスラヴ教授きょうじゅだったが、ブロニスワフがおさなころ死亡しぼうし、ははとの2人ふたりらしをおくる。ヤギェウォ大学だいがく数学すうがく物理ぶつりがく専攻せんこうし、1908ねん学位がくい取得しゅとくした。そのライプツィヒ大学だいがくで2ねんほどまなび、そこでヴィルヘルム・ヴント民族みんぞく心理しんりがく影響えいきょうける。関心かんしん領域りょういき人類じんるいがくうつしたマリノフスキは、ジェームズ・フレイザーなどの研究けんきゅうり、当時とうじ人類じんるいがくでもっとも有名ゆうめいだったイギリスへの渡航とこう決意けつい1910ねんロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で人類じんるいがく研究けんきゅうした。

トロブリアンド諸島しょとうでの現地げんち調査ちょうさ(1918ねん)

1913ねんアボリジニについての文献ぶんけん研究けんきゅうを『オーストラリア・アボリジニの家族かぞく』として発表はっぴょうよく1914ねんには、作曲さっきょくカロル・シマノフスキならんで幼少ようしょうのころからの親友しんゆう一人ひとりであったポーランドの作家さっかスタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチとともにオーストラリアを旅行りょこうするが、同年どうねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ、イギリスはドイツ宣戦せんせん布告ふこくした。オーストリア国籍こくせきだったマリノフスキはイギリス領内りょうない敵国てきこくじんあつかいされ、出国しゅっこく不可能ふかのうとなった(他方たほうロシア国籍こくせきだったヴィトキェーヴィッチはすぐに出国しゅっこく決意けついし、ロシアぐん入隊にゅうたいする)。しかしパプアニューギニアくことは可能かのうであったため、マリノフスキは最初さいしょマイルーとうつぎニューギニアとうひがしおきにあるトロブリアンド諸島しょとうフィールドワークかる。こうしてマリノフスキは、長期ちょうきにわたって現地げんち人々ひとびと行動こうどうともにし、その生活せいかつ詳細しょうさい観察かんさつおこなうこととなり、人類じんるいがく研究けんきゅうはじめて参与さんよ観察かんさつばれる研究けんきゅう手法しゅほう導入どうにゅうされることとなった[3]

1919ねんメルボルンかえり、化学かがくしゃむすめだったエルシー・ロザリン・メーソンと結婚けっこんする。1924ねんからはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類じんるいがく講座こうざ担当たんとうし、1927ねんには主任しゅにん教授きょうじゅ就任しゅうにんする。当時とうじロンドン自宅じたくには毎日まいにちのように学生がくせい知人ちじん訪問ほうもんし、つま睡眠すいみんをとるためにいえかけたこともあるという[4]。そのだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、マリノフスキはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく定住ていじゅうし、イェール大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅとなる。

1934ねんにマリノフスキはラドクリフ=ブラウンわか人類じんるい学者がくしゃたちとアフリカ総合そうごう研究けんきゅうプロジェクトをげ、アフリカの南部なんぶ東部とうぶフィールドワークねた調査ちょうさ旅行りょこうかう。ちなみにケニア初代しょだい大統領だいとうりょう人類じんるい学者がくしゃとしても有名ゆうめいジョモ・ケニヤッタは、1935ねんからロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでマリノフスキの指導しどうした人類じんるいがく研究けんきゅうしており、かれ著作ちょさくケニアさんをのぞんで』(1938ねん)の序文じょぶんはマリノフスキがいた。また、1941ねんから42ねんまでメキシコオアハカしゅう調査ちょうさ旅行りょこうかけてもいる。1942ねんにイェール大学だいがくのあるコネチカットしゅう南部なんぶまちニューヘイブン死去しきょした。

没後ぼつご夫人ふじんにより編集へんしゅう刊行かんこうされた『マリノフスキー日記にっき[5]によって、フィールドにおけるラポール関係かんけい神話しんわ調査ちょうさしゃ調査ちょうさしゃとの信頼しんらい関係かんけいによる成果せいか)が虚説きょせつであることがあきらかにされた。

思想しそう[編集へんしゅう]

  • マリノフスキが文化ぶんかとらえる態度たいどは、これまでの進化しんか主義しゅぎてき人類じんるいがく区別くべつして機能きのう主義しゅぎ人類じんるいがくばれる。それは現存げんそんする文化ぶんかを、相互そうご関係かんけいしてはたらいているしょ要素ようそ集合しゅうごうたいとしてとらえ、それらしょ要素ようそ文化ぶんか形成けいせいおよぼす機能きのう分析ぶんせきする手法しゅほうのことをしている。
  • トロブリアンド諸島しょとうでの調査ちょうさ成果せいかは、かれ主著しゅちょである『西太平洋にしたいへいよう遠洋えんよう航海こうかいしゃ』(Argonauts of the Western Pacific)として1922ねん発表はっぴょうされる。このほんなかでマリノフスキはクラばれるしましまあいだおこなわれる財貨ざいか腕輪うでわ首飾くびかざり)の交易こうえき分析ぶんせきし、クラが経済けいざいてきざい交換こうかんだけでなく、しましまむす社会しゃかい秩序ちつじょ形成けいせい持続じぞく機能きのうたす儀礼ぎれいてき制度せいどであることをあきらかにした。
  • マリノフスキは晩年ばんねんにかけて、メキシコオアハカしゅうサポテカぞく市場いちばから文化ぶんかてきしょ関係かんけい研究けんきゅうしようと構想こうそうしていたが、かれ死去しきょにより途絶とぜつし、J・デ・ラ・フエンテとの共著きょうちょのみがのこされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 江守えもり五夫いつお解説かいせつ」『マリノウスキーしょ 青山あおやま道夫みちおわけ 未開みかい社会しゃかいにおける犯罪はんざい習慣しゅうかん づけ 文化ぶんかろん新泉しんいずみしゃ、1967ねん、248ぺーじ 
  2. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  3. ^ ロジャー・パルバースのエッセーはちがつ二人ふたりのポーランドじん
  4. ^ いずみやすしいち解説かいせつ西太平洋にしたいへいよう遠洋えんよう航海こうかいしゃ』、27ぺーじ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  5. ^ A Diary in the Strict Sense of the Term, New York: Harcourt, Brace & World,Inc.1967.日本語にほんごやく『マリノフスキー日記にっき』(谷口たにぐち佳子けいこわけ平凡社へいぼんしゃ)は、だい11914-15ねんだい21917-18ねんやくした。

主要しゅよう著作ちょさく[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]