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和歌森わかもり太郎たろう

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和歌森わかもり 太郎たろうわかもり たろう
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1915-06-13) 1915ねん6月13にち
日本の旗 日本にっぽん千葉ちばけん
死没しぼつ 1977ねん4がつ7にち(1977-04-07)(61さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく
子供こども 和歌森わかもり民男たみお(民俗みんぞくがく研究けんきゅうしゃ)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 歴史れきしがく(日本にっぽん)・民俗みんぞくがく
研究けんきゅう機関きかん 国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく東京教育大学とうきょうきょういくだいがく都留文科大学つるぶんかだいがく
学位がくい 文学ぶんがく博士はかせ
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和歌森わかもり 太郎たろう(わかもり たろう、1915ねん大正たいしょう4ねん6月13にち[1] - 1977ねん昭和しょうわ52ねん4がつ7にち[1])は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ民俗みんぞく学者がくしゃ東京教育大学とうきょうきょういくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅせんもんは、日本にっぽん民衆みんしゅう修験しゅげんどう

経歴けいれき

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1915ねん千葉ちばけん銚子ちょうしまちまれ[1]東京とうきょう府立ふりつだいよん中学校ちゅうがっこう東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう卒業そつぎょうし、1939ねん東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく国史こくしがく専攻せんこう卒業そつぎょう[2][3]

卒業そつぎょう東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく大学だいがく助手じょしゅて、国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょせき[1][4]ほり一郎いちろう萩原はぎはら龍夫たつおらとともに国民こくみん信仰しんこう生活せいかつかんする調査ちょうさをおこなった。その東京文理科大とうきょうぶんりかだいがくおよび東京教育大学とうきょうきょういくだいがく教授きょうじゅとなった[1]1951ねん博士はかせ論文ろんぶん国史こくしける協同体きょうどうたい研究けんきゅう : とく神社じんじゃとの関係かんけいについて」を東京教育大学とうきょうきょういくだいがく提出ていしゅつして文学ぶんがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく[5]東京教育大学とうきょうきょういくだいがく文学部ぶんがくぶ日本にっぽん史学しがく専攻せんこうでは、桜井さくらい徳太郎とくたろうらとともに古代こだい講座こうざぞくし、「東京教育大学とうきょうきょういくだいがく」ともばれる後進こうしん育成いくせいした。しかし、文学ぶんがく部長ぶちょう[1]つとめているさい筑波大学つくばだいがく構想こうそうがおこり、どう大学だいがく筑波つくば移転いてんにはつよ反対はんたいし、また移転いてん反対はんたい牙城がじょうであった文学部ぶんがくぶにおいてもその旗手きしゅとして論陣ろんじんり、評議ひょうぎかい理学部りがくぶ中心ちゅうしんとした推進すいしん対立たいりつしたことから、1966ねんには学部がくぶちょう辞任じにんどう大学だいがくった。1976ねんからくなる1977ねんまで、都留文科大学つるぶんかだいがく学長がくちょうをつとめた。東京教育大学とうきょうきょういくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ墓所はかしょ小平こだいら霊園れいえん

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき

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  • 歴史れきし学者がくしゃ松本まつもと彦次郎ひこじろう古代こだいおよび中世ちゅうせい庶民しょみん)、肥後ひご和男かずお文化ぶんか)などにおしえをけ、修験しゅげんどう研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃとなる。一方いっぽう西田にしだただし二郎じろう門下もんかである肥後ひご文化ぶんか、および1941ねんから師事しじした柳田やなぎだ國男くにお民俗みんぞくがく影響えいきょうけ、従来じゅうらい文献ぶんけん資料しりょう民俗みんぞく資料しりょうんだ歴史れきし民俗みんぞくがくてき研究けんきゅう開拓かいたくした。
  • 教鞭きょうべんをとった東京教育大学とうきょうきょういくだいがく文学部ぶんがくぶ日本にっぽん史学しがく専攻せんこうでは、桜井さくらい徳太郎とくたろう民間みんかん信仰しんこう)とともに古代こだい講座こうざぞくし、史学しがく方法ほうほうろん専攻せんこう連携れんけいしつつおおくの研究けんきゅうしゃそだてた。現在げんざいいたるまで日本にっぽん民俗みんぞく学界がっかいをリードするそのながれは「東京教育大学とうきょうきょういくだいがく」としょうされ、村落そんらく歴史れきし庶民しょみん生活せいかつ実証じっしょうてき記述きじゅつすることに特徴とくちょうつ。
  • リベラルな歴史れきし学者がくしゃとしてられ、戦後せんご教育きょういく改革かいかくあらたに設置せっちされた教育きょういく科目かもく社会しゃかい」の教科書きょうかしょ最初さいしょ執筆しっぴつしたことでもられる。ただし、戦前せんぜん国粋こくすい主義しゅぎしょくつよ国民こくみん精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ勤務きんむしていた。

家族かぞく親族しんぞく

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主著しゅちょ

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共著きょうちょ

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  • 社会しゃかい教育きょういくほう柳田やなぎだ國男くにお共著きょうちょ 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1953
  • 編著へんちょ日本にっぽん歴史れきし有斐閣ゆうひかく 1957ねん
  • 少年しょうねん少女しょうじょ日本にっぽん歴史れきし全集ぜんしゅう尾崎おざき士郎しろう共著きょうちょ 集英社しゅうえいしゃ 1961-62
  • 決定的けっていてき瞬間しゅんかんなべ輝彦てるひこ共著きょうちょ ゆきはなしゃ 1965
  • 日本にっぽん女性じょせいぜん4かん 山本やまもと藤枝ふじえ共著きょうちょ 集英社しゅうえいしゃ 1965-66
  • 学習がくしゅう漫画まんが日本にっぽん歴史れきし』(監修かんしゅう) 集英社しゅうえいしゃ 1967-68
  • ひゃくいち日本にっぽん歴史れきし』1-9かん 山本やまもと藤枝ふじえ共著きょうちょ 集英社しゅうえいしゃ 1969-70
  • ひゃくいち日本にっぽん歴史れきし』10-12かん 水江みずえさざなみ共著きょうちょ 集英社しゅうえいしゃ 1971
  • 結婚けっこん入門にゅうもん和歌森わかもり玉枝たまえ共著きょうちょ 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1972

論文ろんぶん

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関連かんれんしょ

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  • 明治めいじ国家こっか展開てんかい民衆みんしゅう生活せいかつ 和歌森わかもり太郎たろう先生せんせい還暦かんれき記念きねんろん文集ぶんしゅう編集へんしゅう委員いいんかい 弘文こうぶんどう 1975
  • 近世きんせい封建ほうけん支配しはい民衆みんしゅう社会しゃかい 和歌森わかもり太郎たろう先生せんせい還暦かんれき記念きねんろん文集ぶんしゅう編集へんしゅう委員いいんかい 弘文こうぶんどう 1975
  • 古代こだい中世ちゅうせい社会しゃかい民俗みんぞく文化ぶんか 和歌森わかもり太郎たろう先生せんせい還暦かんれき記念きねんろん文集ぶんしゅう編集へんしゅう委員いいんかい 弘文こうぶんどう 1976

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梅野うめの正信まさのぶ和歌森わかもり太郎たろう戦後せんご:歴史れきし教育きょういく歴史れきしがく狭間はざまで』教育きょういく史料しりょう出版しゅっぱんかい、2001ねんNCID BA54149216 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 和歌森わかもり太郎たろう関係かんけい年表ねんぴょう」(梅野うめの正信まさのぶ 2001, pp. 163–186)
  2. ^ 梅野うめの正信まさのぶ 2001, p. 18
  3. ^ 東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう一覧いちらん 昭和しょうわ14年度ねんど東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく、1939ねん、p.128
  4. ^ 文部もんぶ大臣だいじん官房かんぼう秘書ひしょへん文部省もんぶしょう職員しょくいんろく 昭和しょうわ17ねん10がつ1にち現在げんざい文部もんぶ大臣だいじん官房かんぼう秘書ひしょ、1943ねん、p.1154
  5. ^ NDL-OPAC
  6. ^ 日本にっぽん歴史れきし学会がっかい日本にっぽん研究けんきゅうしゃ辞典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1999ねん)353ページ